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2011年03月の記事 (1/1)

SFメルヘン『地球のタネ』

※400字詰原稿用紙14枚半ほどのSFメルヘン



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



個人紙《チャンネルF☆通信》13号(1995.11.25)に載せた『宇宙観』という短編をまったく別のシチュエーションで描きなおしてみたもの。

ちなみに、『宇宙観』はごくごく普通のありふれた男女のハナシ。会話の中でテラフォーミングがでてくる。2人の日常とはかけ離れた全く次元の異なる話題が展開していくが(『地球のタネ』で書かれている内容)、それが最後に男女の現実的なテーマに帰結するという作品。
書きたかったのは「地球にとってガン細胞のようにも思える人類が、実は地球の遺伝子の役割を担った存在だったという世界観の改変」──法廷物の逆転劇みたいな面白さを狙ってのことだったのだが、そうした壮大な次元のハナシを、あえて日常的な舞台で展開し、最後に男女の抱えている日常の問題と重ね合わせることができれば、洒落た感じでまとまるのではないかと考えた。

ところが、『宇宙観』を読んだ友人は、僕が書きたかったことではなく、男女の関係の方に期待して読んだらしい。
読み手にしたら、会話の中でかわされる非日常的な話題より、男女の関係の方に注意が向くのも無理ないかもしれない。
そこで、シンプルな設定でつくりなおしたのが『地球のタネ』ということになる。
宇宙に浮かぶ宇宙船の中での1シーン──そのイメージはハードSFではなくメルヘンに近い(僕が考える狭義の【メルヘン】ではないが)。『地球のタネ』を描いたのは『宇宙観』(1995年)と同じ頃だったのではないかと思う(今回わずかに手を入れてアップ)。

タイトルの「地球のタネ」は、実は僕が考えた言葉ではない。漫画家のますむらひろしさんが月刊MOEにアタゴオルシリーズを連載していた頃に著者のひとこと欄(だったか?)に「《地球の種》の夢みた」というような事を書かれていたように記憶している(たぶん?)。「地球の種」とはまたすごいと感心し、「果たしてそれはどんなものなのだろう?」なんて思ったことがあったので、『宇宙観』の着想から「地球の種」に結びついたところもあったかもしれない。

※本文に不備がありました。改訂版は→地球のタネ

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昨今の違和感/支援の祭り化

以前、伊達直人報道が続いたとき、タイガーマスクの仮面をかぶってプレゼントに訪れた人の映像がニュースで流れた事があった。テレビカメラにしっかり映っていたという事は寄付者本人から事前に「タイガーマスクが現れますよ」という予告があったのだろう。

あの時は若干の違和感があった。
「この人はボランティアのために寄付したのか、それとも目立ちたくて寄付したのか?」
いずれであっても、良い事をしたのだから批判される事ではないし、こうしたニュースで話題作りをすることで「伊達直人」運動──寄付活動の連鎖を狙っていたのだとすると、むしろあっぱれという気もする。
もしテレビ制作会社のやらせであったとしたら「ニュースを報じる側がニュースを作った・演出した」という点において大いに問題だが……いろいろ考えるところのあるニュースだった。

あのタイガーマスクのニュースを見た時に感じたのと近い違和感を今回の大地震津波被災報道で感じる。報道自体というより、それを受けての人々のリアクション、ブログやツイッター、ネット上のコメントなどについてだ。

「惨事に乗じて正義の味方タイガーマスクになりたがっている人が、けっこういるのではないか」ということだ。ことわっておくが僕が感じるのは違和感であって、これを批判しているわけではない。

地震・津波・原発事故──これらは実際に起こった事だが、被災報道を「参加型ドラマ」のようなつもりになって見ている人がけっこういるのではないか──という違和感を感じるようになった。

「世界が注目しているこの大惨事から被災者たちをどう救い勇気づけ・被災地をいかに復興させるか」その感動的なシナリオを思い描き、一大イベントに自分も参加しているようなつもりになって支援している人は多いのではないか?

違和感の原因をハッキリ言えば「(意識上は)助けるふりをして(無意識的に)復興ドラマを楽しんでいる人がいるのではないか?」ということである。支援コメントに「祭り」のテンションを感じる事がないでもない。

もちろん多くの人は純粋な気持ちで被災者を案じていたりボランティアをしていると思うが、その中にまじって、参加型ドラマの感覚で盛り上がっている人がいやしないか……そんな気がしてしまうのだ。
もちろん、動機がどうであれ、被災者の助けになればそれは良い事だ。何もしないでいる人よりはずっと役に立っている。


地震と津波による被害は天災である。それをうけての原発事故も気の毒だとは思うが、事故後の対応(説明などを含む)については疑問に感じる事も多い。
報道によると「テレビで爆発が放映されているのに、官邸には1時間くらい連絡がなかった」とか。原発側にとって都合の悪い情報はなるべく出さないようにする──そういうシステムができあがっている感じもする東京電力だが、彼らが実施した計画停電も色々と不備が多い。

本来批判されてしかるべき事もたくさんあると思うのだが、こうした事に批判的なコメントをすると、逆に批判的なコメントが出て来たりする「彼らも最善を尽くしている」。
支援者たちには「メルトダウンの危機に対して命をかけて戦っている現場職員」という感動ドラマの構図が出来上がっているのか、それにつまらないケチをつける者はクレイマー扱い……という空気もあるように感じる。

起きている事象に対して(過去にたどった経緯についても)、問題がどこにあるのか・批判されるべき点はないのかを考えるのは、本来の健全なものの見方というものだろうと思うのだが……。
事件(?)の本質がどこにあるかよりも「頑張っている人を応援する」という感情論が先行して「参加型ドラマ感覚」を作っているような気がしないでもない。
その方が楽だし、批判するより応援する方が善人でいられる──そんな心理もあるのかもしれない。

昨今、感じていることの1つだ。

無計画停電

■あまりに突然! 準備もできない
菅直人首相が13日の記者会見で発表し、なんと翌日14日からいきなり実施されることになった東京電力の計画停電。
我々の社会は安定した電力供給を前提に成り立っている。実施されれば色々なトラブルが起きるだろう。

報道によれば電車の混乱は必至、信号機も停電区域では止まるという。
ATMなども停止しては困るのではないか?
医療機関のようなところはバックアップ用の発電機等を備えているのかもしれないが、個人で困る人は多いはずだ。

僕がまず思い浮かべたのは生き物を飼っている人。温度管理や水流の循環、その他モーターを使った機器で飼育環境を管理している人はどうするのか?

一度の停電時間は3時間程度というが、3時間も電気機器が使えなければ飼育動物が死亡することは充分あり得る。小さな生き物が熱中症で死ぬのにそんなに時間はかからない。
飼い主は3時間の停電に備えて発電機を購入し、その日は発電機を回して家を出なくてはならなくなるのだろうか?


■計画停電でPCやDVDレコーダーが故障!?
生き物を飼っていなくてもパソコンやDVDレコーダーを使う人は多いだろう。
使用中のパソコンやDVDレコーダーは、停電によって故障することがあるらしい。
処理を終了せずに電源が落とされれば、保存してないファイルや録画中の番組が記録できない──というのは当然ながら、さらにソフト(ハードディスク?)が壊れたり、既に保存済みの内容が読み出せなくなったりすることがあるという。

そんなことになってはたまらないと思い、自分の住む地域を調べてみると、14日の計画停電時間帯は「6:20~16:00/16:50~22:30」この間6時間停電することになっていた。「計画停電」といいながらアバウトすぎる。いつ停電するのかハッキリしなければパソコンやDVDレコーダーもおいそれと使えない。
さらに調べてみると東京電力の方でも混乱しており、正確な情報は実施当日の朝まで発表できないらしい。
菅さんの決定はいつだって「場当たり的」だ──そうグチりたくもなってしまう。
知人の某カミキリ屋さんが今回の「計画停電」について「無計画停電」と言ったが、まさにその通りだ。


■計画停電の狙い!?
計画停電が実施されれば、多くの人が混乱したり不利益を被ることになるのは避けられまい。
人々はこの作為的な停電によって、電力の安定供給の必要性を改めて痛感することになるだろう。

こうした措置がとられるに至った原因を作ったのは、もちろん今回の大地震とそれにともなう大津波で停止した原子力発電所だろう。
原発は機能停止しただけではなく、放射性物質漏れや爆発騒ぎで、かつてあれほど主張していた安全性についての信頼を一気に失いイメージを落とした。さらには会見等の姿勢で国民の不信感を倍増させている。
今は批判の真っただ中にあって、(今回の危機を終息させたとしても)もはや再建は許されないという状況である。

そんな中で、復活を謀る連中が、再建の後押しとするために放った策が計画停電ではないのか?
国民に電気の無い不便な生活を強いて実感させ、「やはり原発は必要だ」という気運につなげて再建をはかろうという魂胆なのではないのか?
──うがった見方かもしれないが、そんな思いがしないでもない。

今、国民は大地震&大津波の被害の悲惨さに衝撃を受け、心を痛めている。
「電気が使えず不自由な生活をしている被災者」に同情し、自分たちも停電の不便を負担・共有する事で被災者たちの助けになりたい──と考えて、計画停電を受け入れる人も多いだろう(被災直後の停電は電力の不足というより供給ラインの破壊によるものなのだろうが)。
そうした「良心」までが「原発再建のため」に誘導・利用されているのだとしたら……許しがたい話だ。

「自然との共生」というウソ(高橋敬一/祥伝社新書)を読んで


前の日記の最後にちょっと触れたが、この本はOhrwurmさんのブログ【自然観察者の日常】で紹介されているのを読んで読んでみたいと思っていたもの。

《いまの日本には「自然との共生」という言葉があふれかえっている。普段は正面切って問われることもない「自然との共生」が内包する矛盾をあらためて提示し、私たち人間の真実の姿を認識しなおすことが本書の目的である。(「はじめに」より/P.4)》

という内容の本だが、読みやすく、刺激的で興味深い内容だった。
21項目のエッセイ(+はじめに&あとがき)で構成されている。

渡良瀬遊水池・ビキニ環礁・チェルノブイリ──人が姿を消したところに豊かな自然が復活した例をあげて「(人と)自然との共生」という概念に疑問を投じるところから本文は始まっている。
人の歴史は自然破壊の歴史であって、昨今さかんな環境保全運動は個人的自己満足を得るためのノスタルジーでしかない──というようなことが記されている。

「へえ」「なるほど」とうなずいたり共感する部分も多かったが、「うまい論理展開だな」と感じるにとどまる部分もあった。
読者にイメージをわかりやすく伝えるための構図化が、ちょっと強引に感じられる箇所もあったからだ。

冒頭の、人の長期不在によって復活した自然の例は衝撃的で説得力もあったが、逆の現象──人の手が入らなくなったことで廃れて行った自然というのもあるのではないか? そう考えて里山の荒廃が思い浮かんだが、この里山について、著者・高橋氏は次のように説明している。

《里山はいまや「自然との共生」の主要舞台となっている。しかしそもそも里山とは、手つかずの自然が人間によって破壊され尽くした、なれの果ての場所である。(P.19)》

里山は人が「自然を利用して作った場所」であり、そういった意味では「本当の自然」ではない。しかし生態系は活性化しむしろ充実しているようにも見える。それを「破壊され尽くした、なれの果ての場所」という表現を使って「人の介入=自然破壊」という構図を印象づけようとしている。わかりやすいと言えばわすりやすいが、いささか強引な気がしないでもない。

高橋氏の考えでは「自然との共生」や「里山保全運動」は「個人的な郷愁を保全しようとしているに過ぎない」という認識のようだ。里山風景やそれを保全したがる人の心理について語っている部分をいくつか引用すると↓。

《自分が親しかった風景、そこで自分が育まれ、自分を支えてくれていたと感じる風景(自然)の喪失に伴う生存への不安だ。これを郷愁に基づく不安と呼んでも良いだろう。(P.20)》

《「自然との共生」における原風景はあくまでも人によって異なるものであり、誰もがこれが本当の里山の風景であるという共通するモデルを持っているわけではない(同じ年齢層は良く似た原風景を共有しているが、だからといってそれが万人に通じるスタンダードではない)。それぞれが勝手に自分が理想とする自然を思い描いて、それを自然保護と結びつけて万人の義務であるかのように主張しているにすぎないのだ。(P.20~P.21)》

(保全運動を)《自然や子どものためにやっているのではなく自分の郷愁のためにやっているのだが、当人たちはそのことにまったく気づかず、自分はまさに自然との共生を実現する正義の士であると思い込んでいる。(P.21)》

《自然との共生とは、まさに「自分にとって懐かしい自然、自分にとって個人的に重要な自然をとっておきたい」という、まことに自己中心的な利己的欲望なのだ。(P.83)》

里山の風景は郷愁と結びつく。だから里山保全を郷愁の保全だとみる指摘は当たっていると僕も思う。
ただ、その「郷愁」は高橋氏が指摘するように個人的な次元のものにすぎないのだろうか?
「郷愁」=「個人的」→「自己中心的な利己的欲望」
という構図には決めつけがあるのではないか。

前の日記【身近な自然:里山】で綴った通り、「里山への郷愁」は(単に個人のものではなく)「万人に共感しうる郷愁」だと僕はとらえている。里山で育った人達が「郷愁」を感じるのはもちろんのことだが、里山を知らない国や時代に育った人であっても、里山につれてくれば「郷愁」のようなものを感じることができるはずだ(と僕は思っている)。
人工物に囲まれて生活している人間であるなら「身近な自然」を感じさせる風景には共感を覚えるはずだ──と考えているからだ。

「万人に共感しうる」などと言ってしまうと、これも決めつけになってしまうかもしれないが……「多くの人に共感しうる郷愁」であるなら(であるから)、これは「自己中心的な利己的欲望」ではなく、多くの人の共通利益・公的財産としての価値をもつといえる──ゆえに里山保全には公共的な意義があると僕は考えている。

(僕の感覚で言えば)「里山を残したい」という思いは単に(学術的な?)「自然保護」という意味合いではない。(人工物に囲まれた生活を送っている)人が自然を感じることができる身近な環境──というところに意味があるのだ。自然との接点・自然と触れ合える場所であるということが重要なのである。

高橋氏はこうも述べている──、

《さらに付け加えておけば、保護のためにある地域が全面立ち入り禁止になったり、あるいは対象種の捕獲や売買が全面的に禁止されたりすると、彼ら活動家はあわてふためいたり憤慨し始めたりする。こうして彼らは、生物のためではなく、結局は自分たちの郷愁や趣味のために保護活動をやっていたことを身をもって証明してしまう。(P.40)》

この指摘もある意味当たっていると思う。「自然」を人から隔離して守ることができたとしても、ふれあい実感できる場でなくなってしまったとしたら、それは多くの人にとって存在する意味が無いに等しい納得しがたいことだろう。
学術的には隔離してでも保護すべき自然もあると思うが、それは里山を保全したいと考えている人達の思いとはまた次元の話だと思う。

ということで、身近な自然としての「里山」を保全する意義はある──と僕は考えている。
ただ、保全したいという思いに正当性があったとしても、実際にそれを残していけるかどうかはまた別問題だ。
里山が人間の生活と結びつき機能していた時代と今では社会情勢が違う。機能を失った里山を人の「郷愁」のために残していくことができるものなのか……里山を維持管理するには当然コストや人手もかかるはずで、こうした問題が解決しなければ、いくら望んでも里山は残せない。

僕は保全運動に関わった事はないので、ここからは憶測なのだが……「保全」を実現するためには資金や人手が必要になってくるはずだ──しかし人々の「郷愁」のためだと(正直に?)主張していたのでは社会的注目や賛同が集めにくく「保全」の実現は難しいだろう。そこで、学術的価値や社会的正義を総動員して「環境保全」「自然保護」が「正しいこと」「なすべきこと」と正当性を補強しうったえ、活動していくことになりがちなのではないのか?

人が「環境保全」を望むのは自然な事で正当性はある──と僕は思う。
しかしそれを実現するための活動にはしばしば「欺瞞」が介在する──このあたりに、環境保全運動につきまとう独善・胡散臭さ──みたいなものの原因があるのではないかという気がしている。
暴力的な活動で注目を集める某環境保護団体あたりになると、目的(環境保全)と手段(資金集め)が逆転しているのではないかと思わないでも無い。

この本には他にも色々なテーマが取り上げられているが、全体を通して感じた事は……著者は「(自然破壊の上に成り立つ)便利さを当然のように求め続けながら、環境(自然)保全をうったえる」という人間の身勝手さに呆れ腹を立てている──一環してそんな思いで描かれているように感じた。
「あんたらのうったえていることは、こういうことだ」「あんたらのしていることは、こういうことだ」──そうつきつけるようなつもりで、あるいは物議を期待して執筆していたのではないか。

指摘している内容は正論で共感できる部分も多いのだが、やや刺激的、ときには挑発的とも感じるのは、きっと著者のこうした思いがあってのことだろうと想像している。

高橋氏は色々なフィールドで実際に現状を体験し、多くの問題を実感し考えてきたに違いない。そしてマスコミや一般に広く浸透している概念──「自然との共生」をはじめとする様々な認識のギャップをことあるごとに感じてきたのだろう。
高橋氏の実感する認識とマスコミや一般の認識とのギャップ──そしてそれが何に由来するものかを明確化しようとしたのが本書ではないかという感想を持った。

僕は現代人の便利さにどっぶり使った生活をしている立場の人間で、高橋氏の見識には遠く及ばないが、お気楽な一般民間人の立場から言わせてもらうと、人々は便利な生活をしているからこそ、自然(本物の自然かどうかは別にして、いわゆる自然が感じられるもの)への望郷の念を強くするのだと思う。

確かに人が追求する便利な生活=人工的な環境は自然保護とは相反するものだろう。人間は環境(自然)を改変する事で便利さを手に入れてきた。しかしそれは人間のローカルな意識上のフォーマットの都合でしかない。人間は「意識」の世界で生きている(ようにしか自覚できない)から、「意識」が理解・運用しやすい便利な世界(人工フォーマット)に身をおきたがるが、生物である以上、自然に所属するものであることからは逃れられない。「故郷から離れているほど望郷の念は強くなる」という比喩は文学的すぎるだろうか。
逆説的な言い方になるが、人は人工的な環境に身を置くからこそ、潜在的な自然回帰願望(渇望)が強まるのではないか。それは人間が生物(自然物)であるが故に自然と乖離したギャップを埋めようとする復元力のようなものだとと僕は捉えている。
自然の中にどっぷりつかって生活していた原始人には自然への郷愁など無かったのではないだろうか。

──などと、とりあえずは主要部分の感想を勝手に綴ってみたしだい。
この本で述べられていることは興味深かったが、この本を読んだ人たちが、どう感じ考えたのか──という事もちょっと興味があるところである。

身近な自然:里山








甥っ子が小さいとき、デパートで売られているカブトムシやアメリカザリガニを見て興味を示した。
僕はいわゆる虫屋ではないが、子どもの頃には定番の遊び──カブトムシやクワガタとりに夢中になった時期がある。
だから、子どもが昆虫に興味を持つ感覚は理解できる。
案の定、甥っ子はカブトムシやアメリカザリガニを欲しがり、買ってくれとせがんだ。
欲しがる気持ちはよ~く判る。しかし、カブトムシやアメリカザリガニを買い与えることには抵抗があった。
売っているものを買ってしまえば、それは「商品」という扱いになってしまう。
カブトムシやアメリカザリガニは「買うもの」ではなく「とるもの」──生息フィールドへ赴いてどんなところで暮らしているのか実感しつつ自分で探し見つけることに醍醐味がある──そんな思いがあったのだ。

というわけで、甥っ子をつれて里山に通うようになった。カブトムシやクワガタ、アメリカザリガニはもちろん、さまざまなな生き物たちと遭遇するたびに甥っ子はテンションを上げた。
それは僕が子どもの頃、里山で生きものをみつけては喜んだり驚いたりしたのと同じだった。
里山の自然は万人の心に浸透する魅力を持っている──そう強く感じた。

里山は人が作った環境だ。田畑に植えられた農作物は自然種ではないし、雑木林も人間の都合で管理されている。人が自分たちの都合で作り変えた世界なのだが、しかしそこには人が意図していなかった様々な生きものが入り込んで暮らしている。人工的に管理された環境でありながら、自然の活気に満ちた世界でもある。

里山で出会うちっぽけな虫1匹をとっても、じっくり見ると実によくできていることに感心する。繊細な体の作りも理にかなった生態もみごとに完成されている。昆虫は人間たちより遥かに長く多くの世代を生き抜いてきた──そうした進化の中できたえあげられてきた「結果」なのだろう。
地球環境を大規模に改変し、巨大な都市を作り上げ、他の惑星へ宇宙船を飛ばす人類だが、その科学力をもってしても、虫けら1匹つくりあげることはできない。そんなスゴイ存在が里山にはそこらじゅうにごろごろしている。そう考えると、小さな「生命」を育み育てる「自然」に驚異を感じずにはいられない。

僕ら人間が作った世界のすぐとなりに、人の意図とは全く関係なく、生命が躍動する未知なる世界が広がっている──小さな生命を通してその背景にある「自然」の驚異をかいま見る──里山はそんな場所だった。

自然を感じる事で、僕らは人間の構築した世界がローカルなものだということを逆に再認識できたりする。人間の常識は自然界の非常識──なんてことも多い。人工物に囲まれ、人の作ったルールの中で生きている我々だからこそ、ときには自然物に触れ、世界観をリフレッシュさせることが必要なのだと思う。

それができるフィールド──里山を保全しようという運動が各地で起きている。
身近に自然の豊かさを実感できる貴重な環境として、僕も存在し続けてほしいと思う。

「里山は人が作ったもので、本当の自然ではない」と言う向きもあるが、人手が入らず荒廃した山奥より、むしろ管理された里山の方がそこにくらす生き物の種類は豊富で生態系は充実しているように感じる。個人的には里山の凝縮した生態系は「自然の箱庭」という印象がなくもない。
「自然かどうか」という議論は「人の手が加わらない事を自然と呼ぶ」のか「人の活動も含めて自然と捉える」のか──そうした前提によってもずいぶん変わってくるだろう。
大事なのは「自然かどうか」ということより「自然が豊かかどうか(多様な生物たちが有機的に機能し合って豊かな生態系を構築しているかどうか)」ではないだろうか。
里山は人が作ったものだが、「自然の豊かさ」を実感できる身近な環境であり、その点が貴重なのだ。

また「里山を保全しようというのは個人的な郷愁を保全しようとしているに過ぎない」という指摘もある。「郷愁の保全」という指摘は当たっていると思う。ただ、里山への郷愁は単に個人的な次元のものではなく、万人が共有し得るものだと僕は考えている。「身近に自然を実感できる環境」というのは人間なら誰にとっても価値のあるものだと考えるからである。

ただ、昨今の里山保全の動きを見ていて違和感を覚えるのは……かつては「人間の意志にかかわらず自然に存在していた生きものたち」が今では保護の対象となり、人間たちの意識下に置かれてしまったことだ。
かつての里山においてカブトムシやクワガタは人間の生産目的外のどうでもよい存在であり、そんなものは勝手にとっても誰も文句を言わなかった。ところが、今は保全フィールドでガガンボ一匹とろうして、とがめられたりすることがあるという。

昔は人間の思惑とはかかわりのないところで、自力でたくましく生きていた生きものたちが、いつのまにか人間の加護の対象となり管理されるようになってしまった……なんだがそれではデパートの屋上で「商品」として管理されているカブトムシやアメリカザリガニみたいだ……そんな寂しい思いがしないでもないのである。


ところで、先日、『「自然との共生」というウソ』(高橋敬一/祥伝社新書/2009年)という本を新宿紀伊國屋書店で買ってきた。
この本はOhrwurmさんのブログ【自然観察者の日常】で知り、読んでみたいと思っていたものだ。
実はあちこちの書店をのぞくたびに探していたのだが、なかなか見つからなかった。注文してしまえば確実に手に入ると判っていても、つい「本は本屋でみつけたい」と思ってしまう。それは「カブトムシは雑木林で見つけたい」という感覚とちょっと似ていなくもない。本質的には全然違う話なのだが……。

ということで、この日記は『「自然との共生」というウソ』を読んでの感想の序章のようなつもりで作成した。
この本を読んで色々な感想を持ったのが……一度にまとめて書くのは大変なので、どんな形で書くか思案中なのである。