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2011年01月の記事 (1/1)

アナログ放送の空耳?字幕




……という ありさま。
かんじんの映画の字幕よりも、地デジ化お願い表示の方が目立つというのは、いかがなものか。
映画鑑賞するさいに わずらわしいこと、この上ない。

これは「お願い」というより「嫌がらせ」!?

地デジ化については、にわかに受け入れがたいところがある。
電波域整理のためにデジタル放送化が必要だということは、そうなのかも知れない。それについて異議はない。
ただ、その大義にのっかる形で、放送される映像について著作権で認めらている個人の利用まで制限をかけようという独善的な動き(当初はコピーワンスなんて話もあった)やB-CASカード導入による利権疑惑など、胡散臭い気配がついてまわる気がして、どうも印象が良くない。

また地デジ化の進め方についても、テレビ視聴者は皆従いアナログ放送から移行するのが当然という傲慢さが感じられて腹立たしい。
地デジに完全移行したら、もうテレビ視聴をやめようと考えている人だって少なからずいるだろう。そういうアナログ放送のみの利用者に対しても放送局側は最後まで誠意を持ったサービスをつくすべきではないのか。

アナログ放送の終了は視聴者の都合を無視して決められた事である。その決定自体はしかたがないにしても、利用者が一人でも残っている限り、アナログ放送終了の最後の1秒までベストのサービス(放送)を視聴者に提供するのが放送局のつとめというものだろう。

にもかかわらず、(速やかに従おうとしない)アナログ放送受信者に対する扱いがきわめて不遜な気がする。
先の画像でもわかるように、「アナログ」の常時表示や「お願い」スーパーで、放送番組を「見づらく」していることは確かだろう。
故意にアナログ放送の画面を「見づらく」し、「さっさと快適な地デジに移行しろ」と言わんばかりにプレッシャーをかけ続けるやり方は理不尽だし、これにも抵抗を感じる。

こうした強引な手法に耐えかね、地デジ対応機器を購入すれば「理不尽な手法に屈した」という屈辱的な思いに苛まれかねない。ヘソ曲がりな僕などは、かえって「俺は屈しないぞ!」と反骨心を呼び覚まされる。

そして、これとは別に、昨今のテレビ番組には腹の立つ事も多く(※トラックバック【最近のテレビ番組に思うこと】参照)、テレビを見続けることにフラストレーションを感じることも多い。地デジに乗りかえてまでテレビを見続けたいという意欲がわいてこない。

個人的にはアナログ放送が終了になる日が「テレビが終わる日」だと思っている。
僕の周囲にもテレビを見ない人、テレビ自体を持たない人はすでにいるし、テレビのない生活はかえってスッキリして良いかもしれない。


●テレビが終わる日
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-161.html

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アブラムシも雪予想!?

河北新報の朝刊に「アブラムシ 積雪占い!?」という記事が載ったらしい。

同じ内容と思われる記事がネットでも確認できた。


仙台市の「富沢遺跡保存館(地底の森ミュージアム)」が屋外自然観察施設「氷河期の森」で、オオアブラムシの卵の位置と積雪の深さの関係を調べているという。
カマキリの雪予想(卵嚢が高い位置にあると大雪になる/※雪に埋まらない高さに産卵する)を参考にしたものらしい。
記事は《積雪予想、アブラムシにもできる?》という文から始まっているが、《アブラムシ【にも】》ということは、カマキリの雪予想を肯定的に、あるいはあるかもしれないという認識の上に立って書かれた記事なのだろう。

記事には、虫の生態に詳しい仙台市科学館の佐藤賢治学芸員の話として《カマキリの俗説も科学的には立証されていない》と記されているが、カマキリの雪予想は科学的に否定されているはずだ。
2003年に『カマキリは大雪を知っていた』(酒井與喜夫/農山漁村文化協会)が発行された頃には、この俗説が本当だったかのような報道がずいぶんされたようだが、その後これを否定する観察報告が昆虫の専門家たちから上がってきている。

カマキリの雪予想については以前、思う所をざっと書いた。


カマキリの雪予想がガセネタだったから、アブラムシの雪予想もガセだと決めつける事はできないが、やはりちょっと首を傾げたくなる。
河北新報の記事によると、アブラムシの卵による雪予想データは↓これだけらしい。
卵の位置は、昨冬が高さ1メートル10センチ前後、今冬は60センチ前後。「氷河期の森」の積雪は最も深いときで昨冬は25センチ(昨年3月10日ごろ)だったのに対し、今冬は今月9日と同15日の1センチ前後にとどまり、卵の高さと積雪の関係は今のところ、「カマキリの俗説」の通りになっているという。
このデータから《今のところ、「カマキリの俗説」の通りになっているという。》というのは、いくらなんでも乱暴な気がする……。

ロマンのある俗説を紹介するような意図で書かれた記事なのかもしれないが、この記事によって【カマキリの雪予想】がまた広がり、間違った俗説信者が増えるのではないかと、ちょっと心配である。

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コノハムシの歌~考察

野口雨情・作詞/中山晋平・作曲の童謡『黄金虫(こがねむし)』

 黄金虫は 金持ちだ
 金蔵建てた 蔵建てた
 飴屋で水飴 買ってきた


は有名だが……金蔵を建てるほどの金持ちの歌のサビに、なんで安価な水飴が出て来るのかよくわからない。
どう解釈すべきか考えているうちに、頭の中で「コガネムシ」が「コノハムシ」に置き換わってしまった……。

童謡『こがねむし』のメロディーにのせて…



 


 


コノハムシが仲間にかじられるという事故はしばしば発生する。最初はなわばり争い等のケンカで噛み付くのだろうかとも考えたのだが、どうも本気でエサと間違えて食ってしまうことがあるようだ。
コノハムシは仲間が接触すると、体を揺すって追い払おうとするが、それでもたまにとまられてしまうことがある。そのまま食餌タイムになると、とまったコノハムシは葉を食うように相手の翅や腹のふちをかじり始めてしまう。
コノハムシの腹や脚の張り出した部分には初めから穴があいていることもあり(虫食いの葉に擬態)、多少かじられた程度ではあまり問題ないようだ。
上の(3枚目)画像の個体の腹の欠けた部分は、かじられた痕なのか最初からこうなのかハッキリわからない(この個体は右側の中脚・後脚に最初から穴があいているので、腹のふちもこの延長かもしれない)。
で、実際に翅をかじられた個体が↓


4コマ漫画だと…



 


 


 


コノハムシ漫画より

完璧なカムフラージュゆえの事故!?

こうした事故(?)は、コノハムシが密集していると起こりやすいようだ。
「過ぎたるは なお及ばざるがごとし」──完璧なカムフラージュのデメリットのようにも思えるが、よく考えてみると、コノハムシが密集しているということは、周辺の葉には食痕のあるものが多いということだ。食痕のある葉が多いところでは、食痕のあるカムフラージュの方が目立ちにくい。
密集域のコノハムシは齧られることで、より隠蔽擬態(カムフラージュ)を完璧なものにしているのかもしれない。

コノハムシ~卵から成虫まで~ ※タイ産コノハムシ まとめ編

童謡『黄金虫』の解釈をめぐって

前回の日記(童謡『黄金虫』の謎)をアップした後、さらに童謡『黄金虫(こがねむし)』について調べてみた。
[チャバネゴキブリ説]はメディアでもけっこう取り上げているようだ。
僕も本屋でこの件にふれている本を探して3冊ほど購入。本のタイトルと問題の部分(《》内に引用)を紹介してみたい。

●『害虫の誕生──虫からみた日本史』(瀬戸口明久/ちくま新書/2009年)

《かつてゴキブリは豊かさの象徴だったという説さえある。群馬県高崎地方では、チャバネゴキブリのことを「コガネムシ」と呼んでいたという。「コガネムシは金持ちだ」という野口雨情の童謡で歌われているのは、この虫のことなのだ。(P.8)》

この本ではゴキブリ説の元になったとされる30年余前の記事どおり、「チャバネゴキブリをコガネムシとよぶのは【群馬県高崎地方】」としている。
しかしこれは野口雨情のふるさと(茨城県磯原町)ではない。
なのにそのあと、あっさり「野口雨情の童謡で歌われているのは、この虫(チャバネゴキブリ)のことなのだ」と続けているわけだが……「(群馬県高崎地方で)チャバネゴキブリをコガネムシとよぶ」ことと「(茨城県磯原町出身の)野口雨情の『黄金虫』」との間には関連性が示されていない。

もし、野口雨情のふるさとでも「チャバネゴキブリをコガネムシとよぶ」のであれば群馬県高崎地方の例を持ち出すまでもなく「野口雨情のふるさと(茨城県磯原町地方)では──」と説明すれば済むことである。
そう言い切れなかったのは、(元記事では)茨城県の方言をきちんと調べていなかったからだろう。なのにそのあたりを確かめもせず「同じ北関東なのだから方言だって同じだろう」という見込みで展開されたのが[チャバネゴキブリ説]の発端だったらしい。

枝重夫氏(【童謡"黄金蟲"はタマムシだ!?】の著者)は、この点を不信に思い、調べてみたところ、野口雨情のふるさとでゴキブリをコガネムシと呼んだという記録は見つからなかったという。
野口雨情のふるさとに近い筑波山麓・水戸市の方言では、(ゴキブリではなく)タマムシをコガネムシと呼んで、財布の中に入れておくとお金が貯まるとか、箪笥の中に入れておくと虫がつかないなどと言われていたそうだ(水戸市の動植物方言/動物編)。
こうしたことなどから、枝重夫氏は童謡『黄金虫』に歌われていた「金持ち」はタマムシだと主張しているわけだ(月刊むし2010年6月号【童謡"黄金蟲"はタマムシだ!?】)。

『害虫の誕生──虫からみた日本史』はNHKのテレビ番組(週刊ブックレビュー)でも紹介されたらしいので、これでまた[チャバネゴキブリ説]も広まったのではないだろうか。


●『童謡の風景2』(合田道人/中日新聞社/2009年)
この本では『黄金虫』を《切ない親の気持ち》という見出しで解説している。

《体長2センチくらいで緑色をしていて、光の加減で金色に輝いて見える。植物の葉を食う害虫だが、黄金色だから「黄金虫」と呼ばれるようになった。こんなところから"黄金虫が家にいると金持ちになれる"という通説が生まれた。
この歌の作詞家・野口雨情のふるさと茨城では、なんとゴキブリのことを「黄金虫」と呼んでいた。そうなると、ゴキブリが集まる家こそ金持ち…という話になってくるではないか…。実はそれがこの歌の陰に潜むものだったのである。
ゴキブリは家の中、特に食材の周りに出没することが多い。つまり食べ物のある所、すなわち裕福な家に集まってくるというわけだ。
歌が発表された大正時代は食べる物もない貧困者がまだ多かった。黄金虫がやってくるような裕福な家になり、子どもに飴の1つも食べさせてやりたい…という親の切ない気持ち、ないものねだりの欲望、憧れがこの歌の裏側には潜んでいたのだった。(P.54~P.55)》

ここでは「野口雨情のふるさと茨城では」とコガネムシをゴキブリと呼ぶ地域が、群馬県高崎地方から茨城にすりかわって(?)いる。
30年余前に発表された[チャバネゴキブリ説]では「コガネムシをゴキブリと呼ぶ地域」を「群馬県高崎地方」とした上で、(茨城県磯原町出身の)野口雨情を「同じ北関東」という枠で同一視しようとしている。これを読んだ人が「同じ北関東」とくくられた部分で、「野口雨情のふるさと(北関東)では」→「野口雨情のふるさと(茨城)では」と誤認してしまった可能性が疑われる。

『童謡の風景2』の方は中日新聞社に連載されていたものをまとめた本だそうだ。新聞で[チャバネゴキブリ説]を知った人も多かったろう。
ちなみに、この著者は次の著書でもこの[ゴキブリ説]を説いている。
『童謡の謎3』(合田道人/祥伝社)
『童謡なぞとき』(合田道人/祥伝社黄金文庫)
「カマキリの雪予想」ではないが、実はガセネタ(?)がメディアにとりあげられることで広まっているのではないか……という危惧を感じないでもない。

ところで、本書の解説では[チャバネゴキブリ説]とは別に注目した部分がある。『黄金虫』の歌詞──水飴部分の解釈についてだ。

《子どもに飴の1つも食べさせてやりたい…という親の切ない気持ち、ないものねだりの欲望、憧れがこの歌の裏側には潜んでいた》

──と評している。次に紹介する本と解釈が違い過ぎていて興味深い。


●『読んで楽しい日本の童謡』(中村幸弘/右文書院/平成20年)

《この「黄金虫」という童謡は、言葉の遊びを存分に取り入れて、聞いている人にも、その謎を解かせて楽しむという、実に洒落た作品です。笑い話というか、そういう、言葉の綾とか落ちとか、というようなものがあるのです。
第1連も第2連も、1行・2行は、まったく同じです。各連3行ですから、違うのは3行めだけということになります。その1行・2行は、「黄金虫は金持ちだ。/金蔵建てた、蔵建てた。」です。どうして、黄金虫は金持ちなのでしょうか。黄金色の羽をもっている虫ですから、黄金がある、つまり金持ちだ、といおうとしているのです。黄金虫だから、お金持ちに決まっている、というのです。そこで金蔵を建てて当然です。
しかし、第1連の3行目では、金蔵を建てたほどの黄金虫なのに、黄金色の「飴屋で水飴、買ってきた。」ということになるのです。水飴は、色は、黄金色ですが、その値段は、安いものです。金持ちなのに、安い水飴を買ってきた、といって、けちな奴だと、皮肉を込め、からかい、話の落ちとしているのです。第2連の、その部分は、「子どもに水飴、なめさせた。」と言ってバカにしているのです。
黄金虫は光沢の濃い金色で、名前も立派ですが、人間にとっては作物の葉や根を害する昆虫です。害虫です。カナブンともブンブンともいわれます。そして、何よりも、動物の糞や葉肉を食べるのです。
さらにここにいう「黄金虫」は、ゴキブリであるとも見られます。この詩のテーマは、風刺とひやかしとにあったのです。(P.101~P.102)》

この本でも[ゴキブリ説]が紹介されているが、作品解釈が『童謡の風景2』の《親の切ない気持ち》とは全く違い、《風刺とひやかし》と断じている所がおもしろい。
本来なら「わかりやすい」はずの「童謡」で、これだけ作品解釈に差がでるということは、それだけ(金持ちであることを歌った歌なのに、突然登場する安価な)「水飴」のパートが(一見)ミスマッチだからであろう。

また、本書では「コガネムシ」について《作物の葉や根を害する昆虫です。害虫です。カナブンともブンブンともいわれます。そして、何よりも、動物の糞や葉肉を食べるのです》と混乱気味の説明をしており(種類や生態がゴチャ混ぜ?)昆虫への理解度の低さを露呈している感が否めない。さらに「ゴキブリである」とも言っているわけで……「いったい、[黄金虫]とは、どの昆虫のことを言っているのか」とツッコミたくなってしまう。


ちょっと入手してみた本でもこれだけ様々なことが書かれているのをみると、いろんな解釈がでまわっているのだなぁ……と改めて感じる。

僕の解釈としては、野口雨情の童謡『黄金虫(こがねむし)』については、現在は枝氏の[タマムシ説]を支持。
ただ、歌詞の内容については──水飴のくだりについては「謎」のままだ。
「作品として筋が通る」解釈を前の日記(童謡『黄金虫』の謎)で記したが、これも想像シミュレーションの1つに過ぎない。
もっとピッタリ収まりの良い解釈がないものかと考えている次第である。


●宝石昆虫タマムシ/玉虫の金蔵とは!?
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-135.html

童謡『黄金虫』の謎


誰もが知っている童謡『黄金虫(こがねむし)』

 黄金虫は 金持ちだ
 金蔵建てた 蔵建てた
 飴屋で水飴 買ってきた

 黄金虫は 金持ちだ
 金蔵建てた 蔵建てた
 子供に水飴 なめさせた

野口雨情・作詞/中山晋平・作曲の作品である。

この作品に登場する「黄金虫(こがねむし)」は実は「チャバネゴキブリ」だという説がある。

《野口雨情が生まれ育った【北関東】では「チャバネゴキブリ」を「コガネムシ」と呼び、この虫が増えると財産家になると言われていた》

というのがその根拠とされており、そのイメージのギャプ・意外性にインパクトがあるためか、この説は書籍でも紹介されたりし、ネット上でもけっこう広まっているようだ。

《ゴキブリが持つ卵の入ったカプセルが、ちょうど「小判」や「がま口財布」に見えることも「金持ち」を思わせる》

というゴキブリ説を後押しする意見もある。

ところが、これに対して「黄金虫」は「ゴキブリ」ではなく、「タマムシ」だという説が、『月刊むし』2010年6月号(472号)に紹介されていた。
【童謡"黄金蟲"はタマムシだ!?】という記事で、著者の枝 重夫氏は次のような主張をしている。

《ゴキブリ説の根拠とされる文献によると「チャバネゴキブリ」を「黄金虫」と呼ぶのは【群馬県高崎地方】であり、野口雨情が生まれ育ったのは【茨城県磯原町】。二つの離れた地域を【北関東】と同一にくくるのは無理がある》
《枝氏の生まれ育った茨城県真壁郡真壁町では(ゴキブリではなく)「タマムシ」のことを「コガネムシ」と呼んでいた(枝氏も子供の頃、童謡『黄金虫』を聞いてタマムシのことだろうと考えたという)》

枝氏は野口雨情が生まれ育った茨城県磯原町(正確には茨城県多賀郡北中郷村磯原=現在の北茨城市/筑波山より水戸市に近い)周辺の方言に関する著書を調べ──、

《タマムシは色彩が美しいので、一般にコガネムシと呼ばれています(筑波山麓の動植物の方言/動物編)》
《タマムシは一般にカネムシまたはコガネムシといわれ、緑色を種に、いわゆる玉虫色で美しいところから、昔は貴重品のように扱われ、財布の中に入れておくとお金が貯まるとか、箪笥の中に入れておくと虫がつかないなどと言われていました(水戸市の動植物方言/動物編)》

という記述があることを確かめたとしている。また同書にはゴキブリをコガネムシと呼ぶという記述は無かったという。

枝氏は他にもいくつかの例をあげて「黄金虫」を「ゴキブリ」とするには無理があると論じ、野口雨情の詞に書かれているのは「タマムシ」であるとしている。


童謡『黄金虫』で「金持ち」と歌われたのが「タマムシ」であるなら、イメージは納得できる。
きらびやかで豪華な姿は「金持ち」にふさわしい。「玉虫」の「玉」には宝石の意味もあるし、実際にインドや中国では実際に宝石商が取り扱ったりもしているという。
僕も枝氏のタマムシ説に「なるほどな」と合点がいった。

ただ、童謡『黄金虫』について、まだよくわからないところがある。

「金持ち」なのだから「金蔵建てた」という部分は理解できるのだが……そのあとに「飴屋で水飴 買ってきた」とか「子供に水飴 なめさせた」という妙に庶民的な──金持ちの歌にはふさわしくないパートに引き継がれるのが唐突感があって、どうも馴染まない気がするのだ。

某所でこの童謡『黄金虫』のことを話題にした時、
「子どもの頃から、(黄金虫を)玉虫のことだと勝手に思い込んでいた」という人が現れた。やはりタマムシをイメージさせる詞なのかもしれない。そして彼はこうも述べた。
「社会の時間で玉虫厨子(たまむしのずし)の写真を見た自分は、これこそ黄金虫の金蔵だと思った」

そう言われてみれば「玉虫厨子」と「黄金虫の金蔵」のイメージは、うまく重なる気がする。
「玉虫厨子」は人間の金蔵にしては小さいけれど、「黄金虫の金蔵」としてはぴったりではないか!?

もしかすると、野口雨情は「玉虫厨子」をヒントに「黄金虫の金蔵」という発想をしたのではないか!?

創作をする者の立場からいうと、「黄金虫(玉虫)を見て、そこから虫が金蔵を建てるというストーリーを思いついく」というのはあまりピンとこない。しかし「玉虫厨子をモチーフに、これを黄金虫(玉虫)の金蔵に見立てるというアイディアを得た」ならば作品の着想としては「あり」だと思う。

そこで(金蔵に見立てた?)「玉虫厨子」と、謎だった「水飴」に何らかの関係性がないか検索してみた。
すると、ビミ~なところでヒットがあった。
玉虫厨子は現存する最古の漆絵で、装飾画の部分(レプリカではタマムシの翅を2mm四方に切ったものが使われた)は、蒔絵と呼ばれる手法で作られたらしいのだが、その蒔絵技法の中に水飴を用いる技法があるという。消粉蒔絵(けしふんまきえ)といい、金箔を水飴で練って作る消粉を用いた蒔絵だそうである。

じっさいに玉虫厨子に水飴が使われたかどうかはわからないが、野口雨情が漆絵に金銀・螺鈿(アワビ貝などの真珠光を放つ部分を薄片とし漆面にはめ込んだもの)を装飾する蒔絵で水飴が用いられる事を知っていたなら──それを詞にしていたのだとすれば、童謡「黄金虫」の筋は通る。

 黄金虫は 金持ちだ
 金蔵建てた 蔵建てた
 飴屋で水飴 買ってきた

 黄金虫は 金持ちだ
 金蔵建てた 蔵建てた
 子供に水飴 なめさせた

「飴屋で水飴 買ってきた」はその前の「金蔵」にかかっている──「金蔵(玉虫厨子)」に装飾をほどこすために水飴を買ってきた──そう考えれば、詩の流れも理解できる。
また、1番で「金蔵を建てるために買ってきた水飴」を2番では「子供になめさせた」とすれば、「Aのために用立てたものをBに(も)使った」とする作品としてのひねり・オチの形が見て取れ、作者の創作意図がハッキリする。

いささか突飛な思いつきかもしれないし、この解釈が正しいという自信はないのだが……少なくとも「作品」としてみた場合、このように解釈すれば不可解だった詞の流れに説明がつき、筋が通る気はする……。

Yahoo!ブログの可能性


誰もが手軽に始められるブログ。
今では当たり前のツールだが、昔をふり返って考えてみると「夢のような時代」になったものだと思う。

僕が童話を書き始めた頃は、パソコンはおろかワープロもまだ無かった。原稿用紙に手書きで文字を埋めていくしかない時代だった。
自分の書いた文章が活字化(活字表記)されるなんて機会もめったになかったし、活字化自体にあこがれたものだ。
また、作品を書きあげることができても、それを他の人に読んでもらうのが一苦労。素人が作品を気軽に発表できる場も無かった。
そのため、自費出版を考えたり、同人誌に参加して仲間たちと互いの作品をまとめた冊子を作ったりしたものだ。最初に作った同人誌は手書き文字のガリ版印刷で、苦労して作った割に見栄えが悪かった。
後に自分で軽オフ印刷機を買い込み、同人誌を主宰したりもしたが、これも手書き文字だった。発行部数だってたかが知れている(200部前後)。当時100万円以上する印刷機&製版機を買って実現した同人誌だったが、一般の人の手に渡る機会は非常に少ない、《発表の場》としては、ささやかなものだった。

自分で書いたものを活字化(活字表記)したり他の人に読んでもらうためにはコストや労力が必要……それが当たり前の時代だった。

それが今ではどうだろう。
インターネットに接続したパソコンさえあれば誰でも手軽に、お金をかけずにブログを開設できるし、書いた(タイプした)記事は、瞬時に世界中から閲覧可能な《場》に公開できる。
しかも表記は読みやすい活字だし、そればかりか同人誌では高額でなかなか利用できないカラー写真やカラーイラストも載せ放題。さらに動画まで添付できるというのだからスゴイ時代になったものである。

何かを表現したい、まとめたい、情報や意見を交換したい──と考える人にとってブログは「夢のようなツール」といっても良いのではないかと思う。
もちろんブログにも限界や難点はあるし、種類によって一長一短があったりするが、それらを差し引いても、同人誌をやっていた頃から比べれば利用価値の高いすごいツールであることは間違いのないところだろう。工夫次第で色んな可能性が広がりそうである。

というわけで、Yahoo!ブログを使って、どんな事ができるのか──いろいろ試してみているしだいである。
昔、ビデオで作ったインディーズヒーロー関連の記事をまとめてみたり、写真と漫画を使ってコノハムシの観察をまとめてみたり。
以前モノクロで描いたマンガに色を塗ったものをアップしてみたり、やはりモノクロ挿絵とともに発表した短い童話をカラー挿絵つきで縦書き画像にしてアップしてみたり。
また、ローカルヒーロー・ショーをフォト漫画風に加工してレポートしてみたり。
思いつくまま試しているので内容的には統一感に欠ける気がしないでもないが、TOPページにメニューとして色々な項目をハイパーリンクでまとめてあるので、興味のある人には該当項目がみつけやすいのではないかと思う。

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時間の加速感

時間の加速感

いつの間にやら背後にしのびよるクリスマス。
ハタと気がつき「あれ!?、もうそんな時期かよ!?」とあたふたしている間に年が明けてしまう。
毎年そんなことのくり返し。
1年経つのが早い! 年々加速している!
それが正直な印象だ。

子供の頃は1日が長かった。夏休みがとてつもなく「たっぷり」な時間に思われた……それが最近ではどうだ! 1年などアッと言う間である。

これは僕に限らず多くの人が実感していることだろう。
この年を負うごとに強く感じる【時間の加速感】──原因として、次のような解釈が考えられる。

(1)単位時間/生存時間──生存時間に対する1年の割合が短くなるため
1年や1日の単位時間そのものが短くなっているハズはないのに、年々それが短く感じられるようになっていくのは、期間を測るその人の生存時間=分母が大きくなっているせいかもしれない。
例えば2歳の子供にとっての1年は人生の半分の長さに匹敵する。しかし40歳の人にとっては1/40でしかない。つまりその人がそれまで生きてきた総時間を基準に(分母にして)単位時間(1年でも1日でも)を測れば、その割合は年齢(分母)が増えるとともに小さくなっていくわけである。

(2)記憶力の劣化
あるいは、記憶のボリューム(?)なども関係しているかもしれない。
若い頃は体験する事がいちいち新鮮で記憶スペース(?)も充分にあるから記憶情報量は大きかった。しかし歳をとってくると細かい事まで覚えていられなくなり、同じ1年でも新たに記憶貯蔵庫に書き込まれる情報量が少なくなっている気がする。つまり記憶の忘却分が目減りして1年が短く(物足りなく?)なったと感じるのではないか。
記憶力の劣化により最近の「記憶情報量」自体が減少している上に、それを人生の「総記憶量」との割合で測れば、さらに「1年分に蓄えられる記憶の割合」は減少して感じられる──といったこともあるのかもしれない。

(3)代謝速度の低下
さらに、歳をとると代謝が低下する。これもいくらかは時間感覚に影響している気がしないでもない。
人が何を基準に時間の長さを測っているかといえば、つまるところ体内のどこかで行なわれている化学変化の速度だろう。
時間感覚を司る器官での化学変化が1進めば時間が1進んだと感じる──まあ、そういった仕組みなのだと思う。

子供の頃インフルエンザで高熱になったとき、時間が進むのがやけに遅く感じられたことがあった。これは代謝が活性化した事で化学変化が早く進み、そのぶん時間が多く経ったと錯覚していたのではないか──しかし実際にはそれほど時間は経っていないので「時間が経つのが遅く」感じられたのだろう。
これとは逆に代謝スピードが遅くなれば、実際の時間は思った以上に進むことになり、「時間が経つのが速く」感じられるはずである。
子供は新陳代謝が活発なため(それにともない時間感覚を司る器官の化学変化のスピードも速く)、相対的に時間が経つのがゆっくり感じる。
それに対し、歳寄りでは代謝は緩慢なため(それにともない時間感覚を司る器官の化学変化のスピードも遅なり)、相対的に時間が経つのが速く感じる。
そんな現象も、もしかすると絡んでいそうな気がする。


そして、ある時ふと思ったのが……これは科学的なハナシではなく、アイディア小説的次元の発想なのだが……。
(1)の「単位時間/生存時間」──「単位時間」は変わらないのに「分母=生存時間」が増大する事で、年々減少しているという解釈──これが実は「分子」の方は「単位時間」ではなく「残り時間」なのではないか?──というインスピレーション。
どんどん短くなる人生の残り時間。分母の増大だけでなく、分子そのものも減っているとすれば、この加速感も納得できる。

思いついたのは本を読んでいたとき。
本の読み始めは「まだまだ残りのページがたっぷりある」と感じるが、後半の「残りページの減り方」は早い。
同じスピードで読み進んでいるのにそう感じるのは「未読ページ/既読ページ」の割合の変化でみるためだろう。最初の頃は既読ページの割合の進み方はゆっくりだが、中盤を過ぎるとどんどん加速する感じがする。
この「未読ページ/既読ページ」の加速感が、昨今の感じている時間の加速感に重なり、「残り時間/生存時間」なのではないかと思い至ったしだい。

【時間の加速感】をことさらに感じるのは【残り時間】を潜在的に意識(?)しているからなのであろうか……。


*時はどんどん加速する

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明けまして おめでとうございます!




年賀状を出していないので、ご無沙汰しているみなさんには、ココで生存証明を兼ねて新年のご挨拶という事で。

最近はYahoo!ブログの方で、その機能を使ってどんなことができるのか、色々ためしています。
昨年は以前発表したフェレット漫画(&未発表漫画)のカラー復刻版や童話等を試験的に載せてみたり、ローカルヒーローのフォト漫画風レポートをまとめてみたり、エッセイ・雑文などもアップしてみました。

特定のテーマを決めてブログを開設したわけではないので、内容は不統一ですが、TOPページにメニューを作って主なタイトルを整理してあります。
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上のイラストだけではさびしいので、最近撮った画像の中からうさぎっぽい(?)のを↓


「何だろう?」と思われた方は、↓にレポートがあります。
渦戦士エディー@ローカルヒーロー首都決戦2010