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2010年12月の記事 (1/3)

コノハムシ:成虫&終齢幼虫

タイ産コノハムシ4代目♀:成虫&終齢幼虫

3月に孵化が始まったタイ産コノハムシの4代目。現在31匹を飼育中だが、12月下旬に2匹が羽化。次の脱皮が羽化であろうと思われるのが4~5匹。成長スピードは個体によってバラバラだ。
今年最後の餌交換をしたので、ついでに成虫と終齢幼虫(いずれも♀)を撮っておいた。



12月26日に羽化した個体。葉脈のようなもようが入った翅は木の葉そっくり。
(オスはスリムで似ていない)



幼虫ながら翅が目立つようになってきた。次の脱皮が羽化だろう。

パツッ…パツッ……と傘に雨粒がはじけるようなコノハムシが葉をかじる音──これをこたつにはいって聞く。なんとも風情のある大晦日である。

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4コマ漫画:総理の腹案

今年も残りわずか。ということでこの1年をふりかえり、2010年の時事ネタからブラック4コマ漫画(?)をひとつ。

鳩山由紀夫内閣総理大臣が辞任したのは6月。退陣に追い込まれた原因の1つが沖縄の米軍基地移設問題の対応のまずさだった。
当初鳩山総理は沖縄&日本の国民に向けて「基地の移設先は国外、最低でも沖縄県外を目指す」と言ってきた。ところが沖縄県内に基地を置きたいアメリカのオバマ大統領を目の前にしたら、「トラスト・ミー(私を信じて)」なんて言っちゃったという。
一方で国民への約束を守ると言いながら、同時にアメリカの意向にも添う形で決着をはかるという……そんな芸当のような解決策があるものだろうか?──皆がいぶかしく思っていたに違いない。
基地の移転先が決まらぬまま迷走しているのに、当の鳩山総理は自ら設けた決着回答期限が迫っても「私には腹案がある」とうそぶいていた。
あの【腹案】とは、いったい何だったのだろう?
──そんな疑問から発想したブラック・ジョーク。
副題は、もちろん「能ある鷹は爪を隠す」のもじり。



 


 


 


 




★フェレット漫画『ふぇレッツ・ゴー』 ※カラー加筆復刻版
しっぽの役割:編(フェレット:尾の役割&しっぽ振りの意味)
超魔術イタチ:編(&動画【超魔術イタチ】/ケバエ幼虫との遭遇)
グランジ目線で散歩:編(&グランジが散歩した距離/動画【快走!散歩派フェレット】)
イタチと迷信!?:編(イタチは不吉!?)
ニオイでほんろう:編(最後っ屁対決!?/&【イタチのさいごっぺ】について)
すっげ~:編(最大のハプニング!?)
忍者イタチ:編(&忍者イタチ動画)
『フェレットinジャケット』(フェレット漫画第1作)
ハムスペ新人まんが大賞受賞作:編
『フェレットのいる風景』

幻と消えた大発明/永久機関の夢

子どものとき、モーターで動くオモチャは好きではなかった。
モーターは電気をくう。電池が切れれば動かなくなってしまう……動かなければ壊れたも同然。動かし続けるためには(子どもにとっては)高価な電池を買い続けなければならない。それは面倒だ。
その点ゼンマイは、巻きさえすればまた動く──タダで動くのが良い。
電池切れの心配なく遊べるオモチャの方が安心感があった。

そんな僕が小学校の終わり頃に考えたからくりがあった。小学生の工作能力の限界から実際に作り上げるには、さらなる工夫(いかにして作るか)が必要だったが、図面上では完成していた。てこやりんじくを応用し永久に動きづける装置だった。
「電気を使わないモーター」である。
電気だけではない──いっさいの燃料を使わずに回り続ける。
子供心に、これはすごいものを思いついたと興奮し、特許を取得しようと考えて発明に関する本を買った記憶がある。
(当時は『アイデア買います』という発明投稿番組があり、これをよく見ていたので「特許」なるものがあることは知っていた)

ところが、僕が考えた「電気を使わないモーター」──これが【永久機関】と呼ばれるもので、過去の学者がすでに考え出していたことを、当時の雑誌(『6年のかがく』だったか?)で知り愕然となる。

その雑誌をめくっていて永久機関のイラストが目に飛び込んできたときの衝撃は忘れない。僕が考えたものと同じ!──何が描かれているかは本文を読む前に判った。一瞬「僕の発明が、どうして雑誌に載っているのか!?」と混乱した。
ちなみに、紹介されていた永久機関は円盤の中に仕切られた小部屋がいくつもあり、それぞれの小部屋の中に重りの金属球が配置されたものだった。小部屋の中の金属球が低い方へ移動する事によって円盤のバランスがくずれ円盤が回転し続けるしくみである。
僕が考案したものと違う点と言えば円盤内の小部屋の数と「重り」の素材だけで、原理としては雑誌に紹介されていた【永久機関】と全く同じものだった。
僕が設計したものは材料費をかけずに作るため「小部屋の中で低い方へ移動する重り」に金属球ではなく、水を使う予定だった。

【永久機関】のイラストに動揺しながら、あわてて記事を読み、僕の発明(と思っていたもの)が、すでに他者によって考案されていた事を知り、まず大きな衝撃を受けたわけだが……読み進むうちに第二の衝撃が走る──。
「【永久機関】は実現しない」と書かれていたからだ。
実は僕はこの円盤タイプの他に、やはり、てことりんじく、てこと浮力・ポンプを組み合わせたものなど、計3タイプの「電気を使わないモーター」を考えていたのだが……それらも完全否定されたのだ。

当時はエネルギーの概念などなかったから「電気を使わないモーター」がなぜ動かないのか、にわかに納得できなかった(理解したのは中学に上がってからだった)。
人生最初の大きな挫折は、これだったのではないか──というくらいへこんだかもしれない(笑)。

その頃には、他にも色々なオモチャや装置を考えたりしていたが、やはりどれもモーターを使わないものばかりだった。実際に作ってみることはまれだったが、実現するより考えることの方が好きだったのだろう。

例えば踏んだ圧力で開く自動ドア──なんていうのも考えたことがある。
ドアの前に立つと、体重でプレートがわずかに沈み、それに連動するしくみでドアが開く──というもの。ドアから離れると、沈んでいたプレートがバネで持ち上がり連動してドアも閉まる──というしかけである。
自動ドアを見て電気嫌いの僕なら──と電気を使わない方式を考えて思い付いたものだが、今考えてみてもけっこうエコなシステムかもしれない。

大人になってからもふと考えるのは自転車のブレーキをかけるさい減速してムダにしていてるエネルギーをバネのようなものにためておいて、スタート時に打ち出す力として利用できないか──ということである。
坂を下る時にブレーキをかけたり、交差点、信号などでせっかく出ているスピートを落とさざるをえないとき「もったいない」と感じる人は多いだろう。
減速するさい、捨てているエネルギーを機械的なしくみで蓄えておき、スタートするさいに放出できたら便利ではないか。自転車はスタート時の「よっこらしょ」が、けっこう力を使うところである。このときバネ仕掛けのような補助力が働けば、こぎ出しがずいぶん楽になるはずだ。

ダイナモを回し、電気に変換して蓄える仕組みはすでにあるのだろうが、やはり僕はバネやゼンマイのようなものを使った(電気を使わない)機械的・力学的なしくみを考えてしまうのである。

ハートに乾π/面積の思ひで

ハートに乾π~面積の思ひで~

僕は勉強に不熱心な生徒だった。
学校では授業中に遊んでいて叱られることもしばしば。
「【勉強する時】と【遊ぶ時】は、しっかりケジメをつけるべしっ!」
お叱りは、ごもっとも。授業中、勉強だけに集中することはなかなか難しいかもしれないけれど……せめて授業が終わったら、そこではしっかりケジメをつけよう! 学校から帰ったら家庭に勉強は持ち込まないように、心がけよう!──と秘かに誓い、その点については健気に守ってきたつもりである。

そんな僕なので、学校の授業の内容はほとんど覚えていないのだが……小学生の時に習った「面積」に関しては、いくらか記憶があったりする。

風邪かなにかで休んでいる間に授業は新しい項目──「面積」に入っていたらしい。登校した日に初めて【面積】という単語と出会い、その意味がわからなかった。クラスメイトに「【面積】って何だ?」と聞いたら長方形をさして、「縦と横をかけたものが面積だ」という。「ふうん。それが面積か。だけど、なんで縦と横をかけたりするんだ?」と聞いてみたのだが要領を得ない。

「面積」が「広さ」の事だと知ったのは何日か後だった。
あるとき、ハタと気がつき「ああ、なるほど、そういうことか!」とやっと納得。予習も復習もしない上に授業もあまり真面目にきいてる方ではなかったので、こんな簡単なこと──「面積」=「広さ」──というに気づくまで時間がかかったわけである。
そうと気づけば、それまでサッパリわからなかったコトが謎解きのように理解でき、その点はいくらか快感があったかもしれない。

三角形や長方形、台形の面積の求め方を見て、なるほどと納得できた。
公式の説明を面白いなとも思った記憶はある。

ただ、円の面積を習った時は、なにかスッキリしないものが残った。
円周率──3.14……という中止半端な数は、いったい何者!?
割り切れないなんてアヤシイし、そんな数に頼って面積を出さねばならないという事に、まさに「割り切れない」気分だった。

計算は(πではなく)3.14で行っていたから、答えは「=」ではなくて「≒」──これも胡散臭いし気持ち悪い。数学(算数)の美しさは明確さにある。なのに「≒」とは何事か!
数学(算数)にあるまじき「いさぎのわるさ(?)」!
僕はこいつ(円周率)が好きになれなかった。

小学生の当時は無理数の概念などないから、「円周率」を「割り切れない数→不確定の数、詰め切れていない数、不完全な数」と思い込んでいたのだ。そんな不完全な数を用いた公式なんて信用ならない──と劣等小学生の僕には感じられた。

前の日記で書いたが、僕には子どものときに価値基準に対する不安のようなものがあって、そのためか、「(論理的な)完璧さ・普遍性」のようなものを求める気持ちが強かった。きっとそんなことも「≒」に対する不満・抵抗感として働いたのだろう。

円周率怪しければ、円の面積まで怪しい(「坊主憎けりゃ」の強引な変形)──で、「面積」にも不信の感情が向く。

だいたい「面積」なんて、三角形や長方形・台形、おおまけにまけて円も含めたとして──こういった(公式のある)特殊な形でばかりで存在するわけではないだろう。
たとえばハート型のような……ことに曲線を含む図形に対しては、面積を求められた場合、どうすればいいのか?
もしも、ごく限られた図形しか測ることができなのが「面積」ならば、そんな普遍性に欠く算数(数学)など、大したものじゃない──そんなふうに感じられた。

そこで任意の図形、ことに曲線を含む任意の図形であっても、その面積を(理論上は)正確に測る方法はないものか──と考えてみた。
そして思い付いたのが下記の方法。

一定の厚さの板にその図形──例えばハート型をトレースし、電動糸鋸のようなもので図形のアウトラインを垂直にカット。それを水を満たした水槽に沈めれば、あふれた水の体積が切り出したハート型板(円柱ならぬハート型柱)の体積となる。水は形を自由に変えるからあふれた分の体積を量る事はたやすいだろう。このあふれた水の体積(=ハート型柱の体積)を板の厚さで割ればハート型の面積が求められるはずだ。
ちょっと算数っぽい解答ではないけど、体積を習う前の劣等小学生の考える事だから、この程度が精一杯。とりあえず、どんな形でもこの方法を使えば面積を特定することはできる。
そんな普遍性(?)を脳内シミュレーション(?)で確認することができ、ちょっとスッキリした。
小学4~5年の頃だったが、乾杯したい気分といったところか。
ようやく「面積」を許す気に(?)なれ、納得したところで「面積」から興味を失い、それ以降の授業内容などさっぱり覚えていないのである。

ちなみに円周率「π」については、「無理数」を知るまで胡散臭いヤツ──と誤解し続けていたのであった……。

僕は宇宙の常識人!?

子どもの頃、自分がいる世界がホントなのかどうか漠然と疑問を抱いていた時期があった。
自分が見ているものはホンモノなのか?
自分が信じていることはホントなのか?

例えば、僕は自分以外の人間であった事は一度もない。なのに、周囲の人にもみんな同じように「心」や「意識」があると思い込んでいる。なんで、そう言い切れるのか?
自分の周囲に広がる世界が今で言うバーチャルな世界なのではないか……そうではないという確証はどこにあるのか?
そんな不安にも似た気持ちにつきまとわれていた時期があった。

また、自分に赤く見えているものが他人にも赤く見えているのか……疑問をもっていた。他人になったことがないから、ひとの頭の中で赤い物が赤く見えているのかどうか確かめる事はできない。
もしかしたら、僕が「赤」と認識している色が、他人には「青」に見えているかももしれない──そんな妄想(?)につとりかれたこともある。
他人は「赤いもの」を見たとき頭の中には「青」く写っているかもしれない。だけど、その人は頭の中の「青」をしめす言葉として「赤」という言葉が対応しているから、表現上は「赤」となって、認識の違いがあっても表面化はしない。
「赤い」ものを見て皆が「赤い」と言ったからといって、それぞれに同じように見えているとは限らない。じつは全然違ったものに見えているのかもしれない……そうした思いを抱いていたわけである。

もちろん「他人にも心がある」「赤いものはおおむね多くの他人にも赤く見えているだろう」ということは、あるていど知恵がついてきてから納得できる解答をみつけることができたわけだが、似たような思いは小学校に上がる前からずっと続いており、高校卒業のアルバムには、
「僕に見えるのは相手の顔と僕の心。相手に見えるのは僕の顔と相手の心。それぞれ互いに見えない部分を見て互いを認識をしている」みたいなコトを書いている。

大人たちから正しいと教えられてきた事が本当に正しいのかどうか、あたりまえのように信じている事がホントかどうか……疑問を抱くようになったのは小学校に入る以前からだったと思うが、その頃は自分の価値観が不安になることで、妄想にも似たシミュレーションを幾度と無く頭の中に展開していた。

たとえば、今いる世界から全然ちがう世界へ僕ひとりが迷い込んだとする。
道徳観や法律などが整備されていない(?)異世界である。僕の世界で教えられてきた「正しい事」「悪い事」、「犯罪」と言われている概念・判断基準が、はたしてその異世界でも通用しうるのか?
異世界では、他人を殴ったり、他人の物を盗むことが平気で行われているかも知れない。そこで、「それはしてはいけない行為。【悪い事】だから」と注意したら「なんで?」と問い返されるかもしれない。
「この世界では、それが常識」と言われたら、それを否定する回答や根拠を自分は持ちあわせているのだろうか?
「おまえも他人から盗んだらいいだろう」「盗まれるヤツがマヌケなんだ」なんて逆に意見されるかもしれない。
「親や先生がそう教えたから」「法律で決まっているから」などと言う言い訳は異世界では通用しない。だとしたら、正しさとは何だろう? 正しさの概念は、幻想なのだろうか?

「正しい」ことの証明(説明)ができないのに、「これが正しい事、これは悪い事」と主張していたのだとすると、異世界の人たちが異世界のルールにしたがってそれを正しい・悪いと主張しているのと何ら変わらない。
僕が刷り込まれてきた「正しさ」は本当に正しいか、それを僕はきちんと検証してきただろうか──という「根本的価値観への不安」のようなものを感じていた。

(異世界で)みんなが「正しい」と言えば、それが「正しい」ことになるのか──といえば承服できない部分がある。
物事を決めるのに多数決という手法が使われることは子どもでも知っているが、多数決で決めたことが即正しいとは限らない……ということは子供心にもわかっていた。
例えば皆がいやがる掃除当番。1班から6班が交代でやっていたとする。あるとき誰かが「これからは1班がずっと掃除当番をやればいいと思います。多数決で決めましょう!」と提案し、2~6班が賛成したら、1班の永久当番が決まってしまうことになる?──これが正しいのか? といえばフェアではないことは直感的に誰でもわかる。

「正しさ」とは文化の違いに関わらず「証明」できるものであるべきだ──と僕は考えた。色々細かいことを書くと長くなるので、おおざっぱな所を言うと、

「フェアである事(利益・不利益にかたよりがない事)」
「ある前提(ルール)から出発して論理的矛盾がおこらなければ、その前提(ルール)は正しいと認められる。また、認めなければならない」
「正しい理論(ルール)は一つとは限らない」
「正しい理論(ルール)の中からどれかを選択するさいに、多数決は使われるべきである(正しさを決める手段ではなく、適正を選択する手段)」
「たとえ多数派が支持する意見であっても矛盾のある理論(ルール)は正しくない」

実際に起こるトラブルなどを考えるとき、漠然とした「道徳観」、「法律論」みたなものをよりどころに判断とようとすると、白黒つけにくいことが多々ある。「道徳観」は人によって同じではないし、「法律論」は色んな権利の主張があるからどの権利を優先するかによって判断が分かれることも少なくない。

個人的にはトラブルの本質を分析し、処理テーマの優先順位に沿ってシンプルで普遍性の高いルール(論証可能な理論)で判断していくやり方がが適正だろうと思う。

余談だが……再審のたびに異なった判決が頻繁に出たり、雇った弁護士によって判決や量刑の差が出るような法律は正直言ってあまり良いルールとはいえないのではないか──と疑問に感じることがある。国選弁護人だろうが敏腕弁護士だろうが、資格を持った法律家が担当したなら、おおむね同じような判断を下せるシンプルで普遍性の高いルールが良いルールなのではないだろうか。
今の裁判の判決の出し方というのは、そのトラブルを論理的に分析・判断・解決しているというより、現行の法律の整合性を保つための(法律ありきの?)判決──という気がしないでもない。その問題がどう解決されるべきかを純粋に(論理的に)検討すべきところを、過去の判例と矛盾しないように……という意図や配慮が強く感じられる。
個々の問題に対して格差のない判決を出せるルールが正しいルールだと思うが、それはあくまで個々の問題に対して純粋に取り組んだ結果が矛盾しないということであって、最初から矛盾しない結果になるよう操作しながら結論(判決)を導き出す事で整合性を保とうとするのは本末転倒。我田引水めいていて、疑問を感じる所である。

話がそれたが……子どもの頃から、そんなシミュレーションをしながら自分なりの判断基準や価値観のようなものを構築してきたようなところが僕にはある。
そのせいか、親や先生の言う事を良く聞き、その教えを理解し、疑う事無く既存の良識(?)に則した判断基準の中で暮らしている人たちとは、「なんだかちょっと文化が違うなぁ」と感じる事がしばしばある。
そんなときは、「キミたちの常識は地球の常識、僕の常識は宇宙の常識」なんてうそぶいてみたくなるのである。

クリスマスの思ひで

保育園に通っていた頃、僕もサンタクロースを信じていた。
クリスマスの意味は知らなかったが、クリスマスイヴにサンタがプレゼントを持って来ることは知っており、心待ちにしていた。
イヴの夜はワクワクして寝床に入り、12/25日の朝、目覚めると、まっさきにプレゼントを探した。

ところが……なんとしたことか、あってしかるべきプレゼントがない!
朝から半泣きで両親にサンタクロースのしうちを訴えると、もう一度枕元を探してみろという。
再び枕の周辺を探してみたがプレゼントらしきものは無い。かわりに無地のわら半紙が1枚置かれているだけである。
「こんなものがあった」ともっていくと、親は受け取ってストーブの前でわら半紙を広げて調べ始めた。
と、どうだろう!
いままで何も書かれていなかった紙に文字が浮かび上がってくるではないか!
驚いて何が書いてあるのかたずねると、「プレゼントはもう少し待っててね」とのこと。
紙は、なんとサンタロースからの魔法の手紙だったのだ!
「スゴイ! サンタロースからの手紙をもらえるなんて! よかったね!」
そう両親に賞賛され、プレゼントが無いことに釈然としない物を感じながらも、なんだかラッキーな気分になってきた。
ちょっと遅れるけどプレゼントはもらえるらしいし、たしかにサンタから直筆の魔法の手紙をもらうなんて話は聞いた事がない。
親からおだてられて「これは貴重なものをもらったゾ」と、だんだん嬉しくなってきた。

保育園にいくと、やはり園児たちはサンタに何をもらったかを自慢し合っている。
しかし、魔法の手紙をもらった子はいないようだった。
僕は優越感にひたり、得意になって家から持ってきた「サンタの手紙」を見せびらかしてやった。
半信半疑の友達に対し、ストーブにかざして文字があぶりだされるのを再現してみせ、保母さんに文面を読んでもらってドヤ顔。勝ち誇ったように自慢をして回ったのであった……。

驚くはずの保母さんがやけにウケていたのと、後にその自慢話を知った親が恥ずかしそうにしていたのが不思議だったが……「あぶりだし」を知ったのはその何年か後のことである。


※外部日記再録

実録バイクアクション!?


若い頃、バイクに乗っていた時期があった。HONDAのXL250Sというヤツ。モトクロス基調のデザインでロードも走れるデュアルパーパスと呼ばれるタイプだ。
バイク屋でXL250Sのポスターを見て、そのスタイルに惚れ込み、このバイクに乗るために中型免許を取った。
そして念願のXL250Sを手に入れ気分良く乗っていた。

しかし、バイクに乗っていれば時折目にする【事故現場】。
バイクが絡む事故はライダーの過失の有無にかかわらず、よりダメージを受けるのはバイク側だ。
「悲惨……」と思うと同時に「いつかは俺にも巡ってくるんだろうか……」などと予感めいた不安が脳裏をよぎることもしばしばあった。

そして、予感通り……はたしてその瞬間は、やってきた。
XL250Sで自宅にほど近い市街地の一方通行の優先道路を走っていた時だった。信号の無い交差点にさしかかったときに、右側の路地から突如、乗用車が飛び出してきたのだ。
乗用車は「一時停止」を怠ったどころか「徐行」でもない──信じられないスピードで、いきなり目の前が塞がれた形だった。
反射神経にはいささか自信があったが、この時はブレーキをかける間もなかった。視界に入ったのとほとんど同時に乗用車の左側面にそのままのスピードで突っ込んでいた!

その瞬間、
「ああ、ついに俺にも巡ってきたか!」と観念する気持ちと同時に
「ああ、俺のバイクがぁぁぁぁ!」
という悔しい思いが脳裏をフラッシュ!
不思議と「怖い」とか「痛い」とか──自分の体に対する不安はなかった。
一瞬の心を占めたのは、「ノーブレーキで自動車に激突した愛車がどの程度のダメージを被るか」という心配だけだった……。

車に突っ込んだ瞬間、でかい音とともにXL250Sの長いフロントフォークが信じられないほど沈み込んだ──という意識はあるのだが、その直後の記憶が一瞬サダカではない。

衝突直後、目に映ったのは、愛車を酷い目に遭わせた憎っくき乗用車がそのまま走り去ろうとしている「後姿」だった。
あろうことか、事故を起こした車は止まるどころか、加速して逃げようとしていたのである。
「逃がしてなるものか!」と激怒したものの、倒れているXL250Sで追いかけるのは無理(すぐにはエンジンはかからないだろうと思った)。
「ならば、せめてナンバーだけは覚えておかねば」と、走り去る車のナンバープレートに意識を集中した。この瞬時の判断が功を奏し、警察は数時間後に逃げ去った犯人を検挙することになる。ちなみに無謀な運転をしていたのは、「なんと」というか「なるほど」というか──免許を取得していない十代の若者だった。後にわかった事だが、この車は事故現場から逃げ去るさいにその先の一時停止の交差点も猛スピードでつっきっていたらしい。

気になる事故の被害だが……XL250Sはフロントまわりの交換が必要だった。
衝撃でフォークやリムがひしゃげたのは当然のことだろうが……モトクロス基調の頑丈なハンドルがうっすらU字型に曲がっていたのには驚いた。これは激突した瞬間、両腕でふんばったための変形だろう。かなりのGがかかった事を物語っている。「それにしても、ハンドルを曲げてしまうとは……俺って超人ハルク!?」なんて思ってしまった。
後日、大胸筋に激しい筋肉痛(ふんばったため)がでたものの、バイクが受けた損害の割には僕が受けたダメージはほとんどなかった。他には治療中の前歯の1本が折れた程度である。
ちなみに事故時にはモトクロス用のマウスガード付きヘルメットをかぶっていた(画像のものとは別)。なのにどうして歯が折れたのか?……と不思議に思ってマウスガードをよくみると塗装にヒビが入っていた。事故のとき乗用車のバイザーが落ちたので、屋根のへりにマウスガードが当たったのかもしれない。衝突時の一瞬、記憶が飛びかけたのは、このヘルメット越しのアゴへの一撃のせいだと思う。かくして愛用のヘルメットも交換となった。
もちろん修理代とメット代は、後に捕まった犯人に全額負担させた。

さて話を戻して、衝突直後の現場だが……事故を知った人が集まってきた。目撃していた人が通報してくれたおかげで、ほどなくパトカーが到着。
現場検証のかたわらで警官の聴取に応じることとなった。僕はナンバープレートの番号を覚えるのに懸命で、乗用車自体の特徴については今ひとつ記憶に自信がなかったのだが……とりあえず、ナンバーを記憶していたことが良かったのだろう。犯人はその夜捕まり、XL250Sの修理代&ヘルメット代で自腹を切ることは免れたのである。

ただ、我ながらちょっと不思議なのは……事故直後、あわてて逃げて行く車両のナンバーをよく覚えられたものだな──ということ。
ノーブレーキでバイクごと車に突っ込んだのだから……普通に考えたらナンバープレートなど見ている余裕はないだろう。
どういう状況で車両ナンバーを確認できたのか、自分でもハッキリしないのだが……それについては事故を目撃していた営業マン風の男性に聞かされた。事故後その人は僕のそばにやってきて興奮気味に声をかけてきた。
「お兄さん(その時は若かった)スゴイね、とばされて一回転して立ったね!」
ふつう事故にあった人にかける第一声は「大丈夫ですか?」だと思うのだが(笑)。
しかし、確かに、そんな状況でもなければ走り去る車のナンバーを記憶する時間はなかったのかもしれない……。

着地した時にミラクル☆スターに変身していたら大したものだが……さすがに修行が足りず、そこまでのことは起こらなかったのである。


画像は当時の愛車XL250Sと若い頃の修行風景!?

昔流行った「ピーマン」語源/震源地は僕ら?


今ではすっかり死語になってしまったが……昔、「ピーマン」という言葉が流行った時期がある。1980年前後の頃だったろうか。
「話がピーマン」「頭がピーマン」というような使われ方をし、意味するところは「中身が無い」。
当時はまだ【新語・流行語大賞】などなかったが、もしあったとしたら、きっと上位にノミネートされていたに違いない。『雑学おもしろ百科・10』(角川文庫/1984年)によるとインベーダ世代の印象に残る流行語では、第1位の「なんちゃって」に続いて「話がピーマン」が第2位にあげられているとか。
さて、この一世を風靡した(?)「ピーマン」の語源だが──「野菜のピーマンに由来する」というのが多くの人の認識だろう。僕もテレビ番組の中で、そのような解説をしているのを何度か見た記憶がある。

しかし、それは間違い──流行語「ピーマン」の語源は「野菜のピーマン」ではなく、我らが友人のあだ名「プチコンマン→(略して)Pマン」だった!
……のではないかと僕は考えている。

「プチコン」というのはその友人・U君が中学~高校時代に使っていた独特の打撃技のことである。普通、パンチは拳を握って打つが、「プチコン」は人差し指と中指をそろえて延ばし、その先端で相手の胸骨などを突く。空手の貫手(ぬきて)にちょっと似ているかもしれない。
指先の攻撃とはいえ、肉の無い胸骨を狙ってピンポイントで突かれると、これがけっこう痛い。拳で打たれるより指のぶんだけ早く届くし、ブロックしても狭い隙間をぬってくるので意外によけにくかったりもする。
U君はこの奇妙な技を得意技にしていた。技を放つ時には「プチコン!」とかけ声をかけていたことから、この技は「プチコン」と呼ばれ、その使い手であるU君は「プチコンマン」と呼ばれるようになったわけである。
「プチコンマン」もしくはこれを縮めた「Pマン」が彼のあだ名だった。

さて、この「Pマン」ことU君にはいろんな逸話があるのだが、そのひとつに「《脳みそ別の知恵》事件」というのがある。
U君が何かのはずみで頭部をぶつけたとき、仲間から「今の衝撃で脳細胞が○万個は壊れたな」とからかわれた。すると彼は「バーカ。脳みそは家に置いてきたから無事なのね」と言い放った。仲間たちはすかさず「じゃあ、その頭の中はカラッポかよ」と切り返し、これが「Pマン」の「脳みそ別の知恵」と言われる逸話である。
U君をからかうために「Pマン」はしばしばピーマン頭の怪人としてイラストに描かれ、テーマソングまで作られたりした。その歌詞の中にも「脳みそ別の知恵~」というフレーズが入っていた。
こうしたことから僕らの仲間内では「Pマン」といえば「脳みそがない」と同義語として浸透していったのだ。
U君も「Pマン」というあだ名に過敏になり、駐車場の「P」マークを見ていただけで、あるいはピーマンに形が似た(?)初心者マークを見ただけでプチコン攻撃を受ける被害者も続出した。

こうして僕らの仲間内では「Pマン」というのはU君をさす(からかう)あだ名となった。
画像は当時(学生時代)に僕が書いたプチコンマン・U君とアマゾンライダーをもじった丸損ライダーP(頭がピーマン、腕に「P」の腕輪がついている。額の傷や名前の「丸損」にもまた別の逸話がある)。

U君が「Pマン(=プチコンマン→脳みそ別の知恵)」と呼ばれ、からかわれているのを見て、「(野菜の)ピーマン(=中身が無い・中身がカラッポ)」由来の言葉だろうと解釈(誤解?)した人もいたのではないだろうか。そうした理解で彼らの間でも使われだし、それが一般化して広まったのではないか……僕はそう推理している。
U君が「Pマン(プチコンマン)」と呼ばれるようになったのは「話がピーマン」というフレーズが全国で流行るようになる何年か前である。


※インディーズ特撮ヒーローものに『Pマン』(創映会+幻視人)というステキなシリーズがあるが、もちろんこれはプチコンマンとは何ら関わりがない。

自然公園のやる事か


※今年7月に外部日記に書いた記事を加筆再収録

自然の豊かさを売りにした都立狭山公園内の一角。
本来ならカブトムシやクワガタ、カナブンなどが集まる場所だ。

この公園およびその周辺ではスズメバチが集まる木にはこのような覆いがされている。
夏の昆虫観察といえば昆虫酒場──虫の集まる樹液ポイントは欠かすことができない絶好の舞台なのに……それがこんな馬鹿げた措置で台無しである。
この公園では自然観察会のようなものを定期的に設けていたりもするのだが、一方でこんな暴挙を平気で行っている……大変嘆かわしい。

おそらく利用者からの苦情を受けての措置だろう。
この公園ではないが以前、周辺の緑地帯で樹液がしみ出したコナラの周りに市職員が集まっているのを見たことがある。「スズメバチがいるので駆除してくれ」との市民の要請を受けて出動したらしい。そのときはスズメバチの姿はなかったのだが、職員は樹液のしみ出した幹に殺虫剤をしこたまスプレー。コクワガタがボロボロ落ちてきた。
見かねて「そんなことをしても意味ないですよ」と口をはさんでみたのだが職員自身も無駄な行為だと判ってやっているようだった。通報したオバサンが近くで眉根を寄せて見張っていたので、その手前、何もしないわけにもいかず、「対策を講じてますよ」とアピールする為のポーズだったのだろう。
この木は後日おとずれたときにはブルーシートでぐるぐる巻きにされていた。やがてそのシートもスズメバチに齧られ破られることになるのだが……すると、なんと木そのものが切り倒されてしまったのである。

スズメバチの危険性はテレビ等でよく報じられている。本来なら、危険性を説いた上で被害にあわないためにはどうすれば良いかを伝えるのが報道の役目だと思うのだが、テレビはセンセーショナルに視聴者の不安を煽り、危険性ばかりを過大に強調する(明らかな視聴率稼ぎの演出)。それを真に受けた視聴者が「そんな危険なものは見つけしだい撲滅すべし」と考え、駆除要請を乱発するのだろう。

住宅地にスズメバチが巣を作った場合は駆除もやむなしと思うが、自然公園や緑地でまでスズメバチを排除しようというのはバカげている。
スズメバチだって立派な自然の構成員であり、生態系の中でそれなりの役回りをしているはずだ。本来、公園側はスズメバチが自然の中で果たしている役割や生態を説いて、どうしたら被害に合わずにすむかを利用者に周知させていくのが本筋だろう。
スズメバチだって何も好き好んで自分たちよりはるかに大きくて強い人間相手に攻撃をしかけてくるわけではない。不幸にも巣があることに気づかず近づいたり刺激してしまった人が防衛的攻撃を受けて被害に合うケースがほとんどてはないのか?
スズメバチの巣があるところ、あるいは集まるところにはそのむね注意喚起する立て札を立てておけば、それで良いと僕は思う。
むやみに近づいて刺激しなければ、そうそう刺される事もないだろう。

この公園ではニホンミツバチまで駆除の対象となり、巣がある木のウロにコンクリートを流し込んだりもしている。いくらなんでもやり過ぎだ。

公園管理側もおそらく、こうした措置がバカげているとは認識しているはずである。
ただ、被害がでたときに「公園側は必要な措置を講じてこなかった」と責任を追及される事をおそれて、利用者から駆除要請があれば「対策はとっていた」と言い訳できるようにアリバイ作りをしているような気がしないでもない。
当然、良識のある利用者からは批判も出るだろうが、こちらには「利用者からの苦情(要望)をうけての措置」と言い訳が立つ──そう考えてこのような措置をこうじているのではないだろうか。

しかし、人間の手によって閉鎖された昆虫酒場──この光景は見苦しい。昆虫との出会いを楽しみに訪れた子どもたちがこの光景を目にしたら……いったい、どう感じるだろう……。
よくもこんな措置がとれたものである。


僕が憤るのは、ただ単に昆虫観察ポイントが台無しにされたからだけではない。
「気に食わないものは、とことん排除」それを当たり前のように行う価値感覚・世界観に対して危惧の念を抱くからである。
この見苦しい光景の中に昨今問題視される「いじめ」の原型がある──僕はそう考えている。

「自然を守ろう」とはよく聞くセリフだし、これは多くの人が是とするところだろう。しかし「可愛い小鳥やキレイな花は守りたい」と思う一方「蜂や蛾、イモムシ・毛虫のたぐいはこの世からいなくなればいい」と願っている人は意外に多いのではないだろうか?
生き物に好き嫌いがあるのは当然だし、それ自体は悪い事ではない。しかし嫌いなものにもこの世に存在する意味や役割があることを理解し、存在を許容する意識は必要なはずだ。

本来「嫌い」なことは即「(存在の)否定」にはつながらならない。
ところが最近は「嫌いなものは徹底的に排除し、存在自体を許さない」という「否定」に短絡的につなげてしまう人が増えたような気がする。
「嫌い」=「(相手の存在そのものの)否定」という意識こそが陰湿な「いじめ」を生む土壌の一大要因だと僕は考えている。
嫌いなもの・キモイものでも、この世に存在しているのにはそれなりの意味や役割があるはずだ。好き嫌いとは別にその存在意義をおもんぱかって尊重する程度の事はあっていいはずだ……それが本来のあるべき価値感覚ではないだろうか。

「嫌悪するものは存在すら許せない」──それが当たり前という感覚がいじめの潜在的背景にはある。「気に入らないものは排除」という風潮が子どもたちの無意識野に「いじめのタネ」を植え付けている感じがしないでもない。
もちろん子どもたちは「いじめはいけない」という道徳教育を受け「いじめ」=「悪」と理性では考えることができる。そして多くの子どもは理性のもと道徳的に行動を抑制する事がができているのだろう。しかし、「嫌いなもの排除せずにはいられない感覚」を持って育った子には潜在的あるいは感情的に「いじめ」の素地があるのだと思う。

例えば──ふだんトラブルをおこさず社会生活を営んでいる者が、匿名性の高いネット上では誹謗中傷・差別的暴言を平気で書き込んだりしている。ふだん理性では押さえているけれど腹の中には「嫌いな者は徹底的に排除しないと気が済まない」という欲求が渦巻いている証拠だろう。

「いじめは、いけません」「相手を思いやる心が大事」などと理性に訴える教育をいくらしたところで、それはある程度の抑制力にはなっても、それで「いじめ」の根本を解消することまではできないだろう。

「気に食わないもの、目障りなものは、排除!」という感覚が当たり前のこととして子どもたちの目の前で行使されている限り「いじめ」は無くならないだろう。
特に「残虐な子」「暴力的な子」がいていじめをするのではない。「気に食わないもの、目障りなものは、排除しないと気が済まない」──そうした感覚が、普通の子を残酷な「いじめ」に駆り立てるのである。

最近のテレビ番組に思うこと

マジック番組を見て感じること

視聴者が見たいのは《芸人やタレントのリアクション》ではない。《マジシャンが演じるマジック》である。
マジック番組は《マジックをきちんと見せる》ことに終始すべきである。

マジックの進行中にゲスト芸人の驚いた顔をアップで抜くのはいただけない。カメラがマジシャンから目をそむける瞬間があったのでは「その間にすり替えたり隠したり盗み見たりできる」可能性を残してしまうことになり、「目をはなさず見ていたのに──不可能と思えるような事が起こった」という状況を成立し得なくしてしまう。つまり、せっかくのマジックをぶち壊してしまうことになるからである。

ゲスト芸人は「リアクション」が仕事だと思っているから大げさな驚き方をする。そしてそれを突っ込み合ったりするものだから、観客役のタレントたちまでが演技中のマジシャンから目を離してしまうことがあり、すごく不遜な感じかする。

歌手が歌っている時にその場にいるタレントたちがボケたり突っ込んだり、歌と離れた所ではしゃいだり目立ったりしていたら、歌を聴きたくて番組を見ている視聴者はどう思うだろう?
それはマジック番組でも同じ事だ。マジシャンが演技している時は、進行を妨げる事がないように真面目に見守るべきだ。

マジックの素晴らしさ、スゴさは演技そのもので伝えれば良い。
それを芸人のリアクションで無理矢理ハデに見せようなどという演出意図がそもそも腹立たしい。
最近のテレビの演出は「驚きや感動の押し付け」的なものが多すぎてウンザリする。

マジック番組に限らず、最近のテレビは、多くの視聴者層から気を引こうとする短絡的な演出に走りすぎていやしないか。
家事をしながらチラ見する人たちの視聴率をかせぐことに躍起になってか、本当にそのジャンルが見たいと心待ちにしている本来のファン層には顰蹙を買う番組作りをしていることは間違いの無いところだろう。

スポーツ番組であっても、新たなファン層獲得のためなのか、無知な人気タレントを起用してみたり妙なあおり方をした演出を入れたりして、本来のファン層に対してはむしろ不快感を与えている気がしないでもない。

僕は以前は動物番組や科学番組などはよく録画しながら見ていたものだが、最近はあまりのお粗末さに録画はおろか見る気もしなくなってしまった。
好きなジャンルの番組をフラストレーションを感じながら見るのは辛い。

ゲームやインターネットの普及、その他の状況でテレビの視聴率が下がっているのは当然の事だろう。ヘンに視聴率回復(?)を狙ってジタバタしてもしかたあるまい。
人がテレビから離れて行きがちな時代だからこそ重要なのは《本来のファン層を大事にし、ファンに支持される番組づくりをする》ことではないか。なのに目先の視聴率を上げようとして本来のファンにまでそっぽを向かれるような番組づくりを続けているようでは、テレビは衰退の一途をまぬがれないだろう──そう感じているのは僕だけではないはずだ。
もう少し良心や誠意、志をもった番組づくりができないものか。

 ※外部日記【最近のマジック番組を見て思う事】2008.04.17/再収録

●テレビが終わる日
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