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エッセイ・雑記の記事 (1/35)

ひとり多い!?座敷童子2題

01座敷童子騙し絵A
02座敷童子騙し絵B

♣ひとり多い!?──騙し絵のような座敷童子
【座敷童子】(ざしきわらし・ざしきぼっこ)といえば、「遊んでいる子どもたちがいつの間にか1人増えていて、誰が増えたのかわからない」という不思議な現象──いってみれば《座敷童子現象》が(僕の場合)まず思い浮かぶ。子どもの頃にそんな話を聞いたことがあり、とても印象に残った。その後も何度か《座敷童子現象》をネタにした話題を聞いたことがあり、筒井康隆の作品にもこの現象を扱った『座敷ぼっこ』というSF短編がある。だから、このミステリアスな《座敷童子現象》が座敷童子の最もユニークな特徴だと僕はずっと思い込んでいた。ところが、そうでもないらしい。民話などを調べてみると『座敷童子』に《座敷童子現象》のエピソードは出てこない。最も特徴的なのは《座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退する》ということらしい。《座敷童子》は知っているが《座敷童子現象》は聞いたことがないという人もいる。
《座敷童子現象》の起源は、どうやら宮沢賢治が1926年に雑誌『月曜』2月号で発表した『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』という童話だったらしい……と現在、僕は思っている。その童話の中に10人の子が遊んでいると、いつの間にか11人になっていて、《ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました》というエピソードが出てくる。
いずれにしても、「頭数が増えているのにそれが誰なのか特定できない」という《座敷童子現象》は面白い。僕もこの現象をモチーフに童話(病院跡の座敷童子)を書いたことがある。
少し前には、冗談で《座敷童子現象》を成立させるトリック(?)を【境内の座敷童子】で投稿した。ちょっとした着想だったのだが、説明するといささかややこしくなってしまった……。もう少しわかりやすい《座敷童子現象》ネタはないだろうかと考え、昔きいたことがあるパズル(?)で《座敷童子現象》を応用できそうなものを思い立った。
そんな座敷童子噺を2題、続けて記してみることにする。


♣寄宿生にまぎれ込んだ座敷童子
9人と聞いていたのに寄宿舎やってきたは子どもたちは10人だった。
管理人は困った。用意していた空き部屋は個室で9室しかない。
(これは座敷童子が1人まじっているな)──管理人はそう思った。目が合ったA君が、なんとなく怪しい……。
(仮にこの子が座敷童子だとわかったところで、排除はできないだろう……)
《座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退する》と言われている。ここで座敷童子を追い出してしまっては寄宿舎が廃れてしまうのではないかという不安があった。
(ちょっと待てよ……座敷童子まじりの10人なら、もともとは9人。9つの個室におさまるのではないか?)
管理人はそう考えて、とりあえずA君を残し、2人目の子どもから部屋へ案内した。
1号室には2人目の子どもを──、
2号室には3人目の子どもを──、
3号室には4人目の子どもを──、
4号室には5人目の子どもを──、
5号室には6人目の子どもを──、
6号室には7人目の子どもを──、
7号室には8人目の子どもを──、
8号室には9人目の子どもを──、
そして9号室には、残ったA君を案内し、10人全員を入れることができたのだった!
「やっぱり、座敷童子がまぎれこんでいたんだなぁ」
9つの個室に10人の寄宿生を割り振ることができた管理人は興奮ぎみにつぶやいた。



※油断して読むと、騙されてしまうかもしれないが、9つの個室に10人入ることはもちろんできない。「8号室に9人目の子ども」が割当られたとき、《残りは1人》と錯覚してしまいがちだが、この時点で残っているのは「10人目の子ども」と「A君」の2人。A君を「残りの1人」と混同させることで不可思議が成立したかのように思い込ませるトリック。

♣座敷童子の宿!?
古い旅館に3人連れの客が来た。彼らが指定した部屋は「座敷童子がでる」という噂のある通称《座敷童子の間》。3人を部屋に案内した仲居に、彼らは「独自に研究した降霊術ならぬ降座敷童子術を駆使して、きっと座敷童子を呼び出す」と意気込んで話した。3人の宿代は1人1万円──3人で3万円を前払いで収めていた。
仲居は座敷童子の噂は知っていたが、その存在は信じていなかった。でも、おもしろがって宿主に3人の話をした。
すると宿主は、うまくいって《座敷童子がいる家は栄える》といわれる座敷童子を呼び出せたらありがたいことだと喜んで、宿代3万円から5千円を値引きして2万5千円にすることにした。
宿主は仲居に千円札を5枚わたし、3人の客に返すよう命じた。
仲居は《座敷童子の間》に向かいながら、こう考えた「3人で5千円は分けづらい。返すのは1人に千円でいいだろう」──そして3人に千円札を1枚ずつ手渡した。残りの2千円は仲居がネコババした。
《座敷童子の間》を出た仲居はふと考える。
彼らが来たとき支払った金額は3万円──1人あたり1万円だったわけだが、座敷童子割引(?)で1人あたり9千円になった。3人合わせて2万7千円を支払ったことになる。それに仲居がくすねた2千円を足すと……2万9千円だ。はて、差額の千円は、どこに消えたのか!?
仲居はしばらく考えたあと、ポンと手を打った。
「そうか……座敷童子部屋の3人に千円ずつ渡したとき……もう1人座敷童子がいて、ちゃっかり千円受け取っていたのだ」
仲居もそれで座敷童子の存在を信じるようになった。



※客が払った2万7千円に仲居がくすねた2千円を足しても最初に払った3万円にならない……というと不思議に感じるが、これは本来、客が払った2万7千円から仲居がくすねた2千円を「引いて」、宿主の手もとには「2万5千円」が入った──と考えるべきなのだが、「くすねた金を返せば(足せば)もとの金額になる」という錯覚が働くのだろう。仲居がくすねた2千円を宿主に渡せば、「(宿主の手もとに残した)2万5千円+2千円=2万7千円」で客が払った2万7千円が全額、宿主にわたることになるわけだ。


病院跡の座敷童子(童話/400字詰原稿用紙で20枚半ほど)
境内の座敷童子(頭の体操)
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昆虫雑感/《昆虫》は《自然の結晶》

ずっと虫屋をやってきた人たちからすると、(一部の?)昆虫はだいぶ減ってきているらしい。
僕が虫見を始めたのはフェレットの散歩がきっかけだったので、1995年以降……虫を撮るようになったのは2004年6月からだった。僕はその頃から積極的に虫を見るようになって、身のまわりにこんなに色々な虫がいたのかと驚いたり感心したりしていた。なので、昆虫が減少してきたという実感はない。むしろ子どもの頃(1960年代──夏にはカブトムシやクワガタとりをしていた頃)よりもずっと目にする昆虫は増えていた(これは虫が増えたのではなく、以前は気づかずにいた虫を認識できるようになったため)。子どもの頃になじみがあったクワガタやシロスジカミキリはだいぶ減った気がするが、一方むかし関東にはいなかった昆虫が増えてきたことに驚いていた。
01赤星胡麻斑褄黒豹紋
02細尾蝶♂♀
03紫燕&松縁亀虫
04横綱刺亀&黄斑亀虫
05ラミー&ルリ天牛
アカボシゴマダラ・ツマグロヒョウモン・ホソオチョウ・ナガサキアゲハ・ムラサキツバメ・マツヘリカメムシキマダラカメムシ・ヨコヅナサシガメ・ラミーカミキリなどは僕が子どもの頃には(関東には)いなかった昆虫だ。近年、市街地でも目にするようになったルリカミキリは、生け垣に使われる木が昔と変わったことで増えてきたようだ。
新顔が次々に現われてくるので、虫が減ったという感覚はなかったのだが……それは僕が積極的に虫を見るようになったのが遅かったからだろう。子どもの頃にはカブトムシやクワガタなどを捕って遊んだものだが、当時は特定の種以外にはあまり注意を向けていなかった。子どもの頃から、今と同じ関心を持って虫を眺めていれば、もっと多くの虫を確認できていたにちがいないし、「増えた顔ぶれ」ばかりでなく「減った顔ぶれ」がどれほどいるのかを実感できたのかもしれない。


《昆虫》は《自然の結晶》
僕の感覚で言うと「《昆虫》というのは《自然の結晶》」である。容姿にしろ生態にしろ、人工物とはかけはなれた驚異の存在であり、自然が創造した不思議さ満載の存在でもある。
ヒトは自分たちの都合の良いように環境を改編してきた。一部「益虫」として虫を利用することもしてきたわけだが、基本的には虫けらの都合など考えずに自分たちの暮らしのために環境を整えてきた。しかし、そうした人工環境の中でさえ、ヒトの意図とは関係なく、昆虫たちが入り込んで独自の世界を構築している。そんなところに人智の及ばない生命の力強さ・したたかさを感じる。

虫見を始める前は、昆虫は自然の産物だから人の手が入っていない環境の方が種類も数も多いだろうと思い込んでいた。しかし虫見をするようになって、ヒトが管理する里山の方がバラエティーに富んでいることに気がついた。里山は人工的に管理された環境だから純粋な自然ではないという見方もあるが、生き物の種類や数が豊富なこと──生命活動が盛んなことが自然度の高さだといえるのではないかという気もする。ヒトが自分たちのために管理する環境(里山)で、ヒトの意図とは別に活性を高めてきた昆虫たちに、生命の底力を感じる。

僕らが子どもの頃に見ていたカブトムシやクワガタなどの昆虫が、この先もみられるようであってほしいという気持ちはあるし、そのための環境保全にはおおむね賛成だ。しかし……昔はヒトの意に介さない存在であった虫──自由に採って遊んでも誰も文句を言わなかったものが、昨今、虫採りも自由にできなくなりつつある状況にあるのだとすると、どうなのだろうという思いもある。特に子どもの頃には昆虫とふれあう機会──虫を捕ったり飼ったりすることによって、《自然の結晶》感をじっくり味わう経験をもつことは大切だと思う。保全という垣根が昆虫と子どもたちの間にできてしまうようではいかんのではないか……という気持ちもある。

これまでヒトがヒトのために構築してきた環境に、したたかに適応してきた虫たちの独立性・存在感みたいなものに一目置いてきた僕としては、昆虫がヒトから加護される存在として扱われるようになったことに、若干の寂しさのようなものを感じないでもない。これまでスポンサー無しに独自の活動を続けてきたものが、ヒモつきになるみたいな……ちょっと残念感みたいなものもあったりするのである。



アカボシゴマダラ急増中
アカボシゴマダラは特定外来生物
ホソオチョウ@狭山丘陵東京側
マツヘリカメムシ:卵・幼虫・成虫
キマダラカメムシ東京進出/年々増える新顔昆虫!?
ラミーカミキリ@武蔵野
可愛い悪役!?ルリカミキリの産卵
昆虫の何に魅かれるのか?
昆虫など〜メニュー〜
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人気作品の映像化について思うこと

少し前に『ゼロの焦点』についての感想を記した。映画(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)と原作となった小説(作:松本清張/新潮文庫)の両方を鑑賞してみたわけだが、1961年松竹版の映画はよくできていたように思う。

人気が高い小説や漫画を映画化・テレビドラマ化することはよく行われている。原作のファンも多いし話題にもなるから、観客導引力があるとか視聴率がとりやすいという理由から映像化がはかられるのだろう。しかし、それが成功している例は意外に少ないように思う。「観てガッカリした」と感じた経験を持つ原作ファン決して少なくないはずだ。制作側は、そこそこ観客が入り視聴率がとれれば(評判はどうあれ)「成功」と考えているのかもしれないが、純粋に作品としてみた場合、「原作(小説・漫画)に匹敵するかそれ以上の作品(映画・ドラマ)になったか」といえば「残念な出来」に終わるものが大半ではないだろうか?

最近、人気作家の原作によるドラマ(旧作)をいくつか観たが、「失敗例」に共通する要因を感じた。これは昔から度々感じていたことなのだが、あらためて記してみる。具体的な作品や内容には触れないが、それぞれの視聴体験に照らしてみれば「そうそう」と思い当たる点があるのではなかろうか……。


脚本家の自己顕示欲(?)が作品の足を引っ張る!?
脚本で「よけいな演出を加えて作品を台無しにしている」と感じることが少なくない。小説や漫画を映像化するにあたって、ある程度の改編はしかたない。しかし、脚本家(あるいは監督の意向?)は改編するにあたって、原作にはなかったアイディアを盛り込んで映像版に付加価値をつけようとしたがる(?)きらいがあるように感じる。「ただ原作をなぞるだけでは物足りない(創作意欲が満たされない)」という感覚があるのだろうか。せっかく映像化するのだから(?)オプションとして独自のアイディアを盛り込みたいという欲求──脚本家の自己顕示欲のようなもが働くのかもしれない。それ自体を否定するつもりは無いが……新たに導入するアイディアが、視聴者の関心を本来のテーマとは別のところに向けてしまうようなものであれば、興味の焦点が分散し、キレの悪い印象を残すことにもなりかねない。
脚本家としては工夫を凝らし、新たな価値を上乗せしたつもりなのかもしれないが、オプション・アイディアが原作の足を引っぱっている作品はめずらしくない。不純物が混じることで完成度(純度)が落ちるといったらいいのか……例えてみれば、クラシックを聴きに行ったのに、毛色の違うタンバリンが演奏に飛び入り参加してきた……みたいな「台無し感」である。

映像化に向けての新たな解釈・アイディアがあるとすれば、その作品の核心を明確化するためのものであるべきだ。コンセプトがブレたり分裂するようなものであってはならない。視聴者の関心・興味をどのように誘導して効果的な印象に昇華させるか──が大切なことであって、視聴者心理の動線を乱すような付加価値は持ち込むべきではない。

また、脚本家がその作品を通して言いたいことを安易に渦中の登場人物に語らせてしまうというのも、ありがちなガッカリ・ポイントだ。クライマックスのシーンで登場人物の口からでた言葉に唐突感・違和感を覚えてシラケてしまうことがままある。「そのセリフは、登場人物の言葉ではなく、脚本家が言いたかったことだろう」というパターン。
本来なら「説明」によってではなく、脚本の巧みな心理誘導によって視聴者が感じるべき核心テーマ(感銘部分)を、登場人物のセリフで「説明」してしまうというのは、かなりヤボで押しつけがましい。
作品の中で「浮いたセリフ」「違和感のあるシーン」は原作に無い映像版の演出であることが多い。とってつけたような人生観・哲学的テーマの説明は、深いことを語らせたつもり(?)で、むしろ軽薄さを感じさせる。これもよくある「台無し感」の典型という気がする。

ところで、「台無し」にされてしまうことが多い映像化について、原作者はどのように感じているのだろう。
自分が描いた作品がテレビドラマや映画化になれば、原作に対する注目度も上がり、原作が多くの人に読まれる機会が増える──原作が売れるのは喜ばしいことのはずだ。しかし映像作品の出来が「残念」だった場合、原作のイメージが毀損されることにもなりかねない。原作を読む前に映像化された作品を見て「読む気がしなくなった」という人だっているかもしれない。
もっとも、総合的には映像化による宣伝効果の方が勝って、原作の売り上げは伸びることになるのだろうが……手放しで歓迎できることでもないような気がする。
原作ファンは好きな作品が映像化で「なげかわしい」姿にされるとガッカリするものだ。映像化で多くのファンがガッカリすることになれば、原作者としても喜んでばかりはいられないだろう。

以前、(生前の)光瀬龍先生に、そんなことを尋ねてみたことがあったのだが、映像化によってもたらされる収益について「あれは迷惑料みたいなもんだよ」と笑っておられた。
「作品は世に出た時点で作者の手を離れている」とか「原作と映像化作品は別物」といった割り切り方はしているだろうと思っていたが、《迷惑料》という言葉は予想していなかった。
具体的な例についての言葉なのか一般的な話としての言葉なのかわからないが、《迷惑料》という言葉には妙に納得したのを覚えている。


松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

作品批評で評価されるもの
総括なき多鑑賞
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【絵本】と【童話】の違い

【絵本】と【童話】は似て非なるもの!?
2019年12月にサービスを終了したfreemlの記事からの再掲載。【絵本】と【童話】は混同されがちだが、本質的には別物。《絵の割合が多い【童話】》は【絵本】に対して【絵童話】と呼ばれたりする。
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【絵本】と【童話】(freemlより/※加筆あり)
 僕は【童話】は書いているが【絵本】を書いたことはない。なのに「絵本を描いている」と思われることがしばしばある。挿絵と文の両方を描いた本があるから、これが【絵本】にあたると判断されるためだろう。
01童話2表紙
 挿絵の割合が多い【童話】は一般の人には【絵本】と同じように見えてしまうのかもしれない。
 しかし、書き手の側からすると──少なくとも僕は、【童話】と【絵本】を一緒くたに扱うことに違和感を覚える。【童話】と【絵本】は、発想において全く別モノ──という意識があるからだ。
 簡単にいえば【童話】は小説の1ジャンルであり、文章によって構成される芸術形態。【絵本】は場面(見開き)ごとに構成される視覚的な芸術──紙芝居に近いのかもしれない。
【童話】を書く場合、基本的には小説を考えるのとかわらない(対象年齢を考慮するが読者を意識するのは小説も同じ)。【絵本】の場合はまずページ数(見開き数)──場面数から逆算して物語の展開・割り振りが考えられることになるのだろうと思う。漫画のネームづくりに近い創作行程かもしれない。
 本質的には「文と絵の(分量的な)割合」は関係ない。
 絵の占める割合がどんなに多く、本文がどれほど少なくても【童話】は童話。挿絵がなくても(文章だけで)小説として成立して読める作品はそう呼べる。また一方、挿絵がまったく無くても、見開きの場面ごとに構成された文章は(創作上では)【絵本】といえるのではないか──と僕は考えている。

【童話】は場面数にしばられないが【絵本】の構成は場面数を基に考えられる。挿絵の部分については判型も関係してくるだろうし、右開き(縦書き)か左開(横書き)きかにも大きく影響を受けることになる。
 縦書きの絵本なら、本文が右頁から左頁へと読み進められる関係から、描かれる絵の展開も右から左へ向かうことになる。登場人物たちが歩いていくシーンは左向きになるのが自然だ。横書きの場合は本文が左頁から右頁へと読まれていく関係で、登場人物たちも右向きに進行していくことになる。

【絵本】が右開きか左開きかに影響されるという実例にこんなエピソードがある。某児童書出版社で欧文の絵本を翻訳・出版することになったそうな。横書きの絵本を、そのまま横書きの日本語訳で出版すれば問題なかったのだが、一冊だけ新しい企画の本を出すより、すでに浸透しているシリーズ(縦書きの絵童話シリーズ)に入れて出した方が良いという営業的な配慮が働いたのだろう──オリジナルは横書きだった絵本を縦書きに組み替えてしまった。しかしそうなると絵だけそのまま場面ごと収めてみても、しっくりこない。本文の進行方向が「左→右(横書き)」から「右→左(縦書き)」に変わってしまったために、絵の流れ(登場人物の向き)と文章の流れが逆向きになってしまったためだ。それならば、挿絵の向きも逆にしたらどうか──ということで、なんと原画の左右を反転させることを検討したというのだ。「そうしたら、絵に描かれていたアルファベットまで反転しちゃったんで困った」なんて話を編集者から聞いたことがある。
 しかし、創作する側から言えば、描かれた絵を反転させて起こる弊害は、たまたま描かれていたアルファベットが読めなくなるという次元の問題ではないだろう。絵としての画面構成──描かれる人や物のレイアウトや文字の配置は見やすさ読みやすさを計算した上で決められたわけで、左右を反転させて対称性が保たれたから良いと言うものではない。
 通常「絵は左、文は右」に配置した方が見た目は安定する──これは右脳と左脳の働きによるものなのだろうが、そんな知識はなくても、絵本・新聞・ポスターなどを見なれた人なら経験的にそれを知っているはずだ。ページ進行の方向性とはまた別に、1枚の絵のバランス・調和には左右があるといえる。だから「右開き」で描かれた挿絵をそのまま左右反転すれば「左開き」の図案としておさまりがいいというわけにはいかない。「右開き・左開き」それぞれにふさわしいレイアウトが(別に)存在するはずである。

 今後電子出版が普及し「電子絵本」のようなものが出てくれば(既にあるのかもしれないが)、ページをめくるという物理的な動作から解放され、「右開きか左開きか」というページ進行の制約はなくなるかもしれない。しかし、そのさいも「縦書きか横書きか」ということでの「方向性」は残るだろう。同じ構図の絵で「ふきだし」を入れてみれば縦書きと横書きの違いで、(右開きか左開きと同様の)方向性が発生することがわかる。
02犬鼬台詞縦書
03犬鼬台詞横書

【絵本】の場合も本文は文章になるわけだが、【童話】とは違って、場面単位での構成を念頭に文章が練られ、それにふさわしいシーンが構築され割り振られていくことになるのだろう。そういった意味で【童話】を考えるのとは基本的に創作思考プロセスが異なるものだ──というのが僕の見解だ。【童話】を考えているときと【絵本の文】を考えているときの脳の活性を調べたら、違いがでるのではないか……なんていう気もする。

 ただ、もちろん、【童話】と【絵本】は相反するものではない。文章のみでも優れた【童話】として成立する作品が【絵本】としても成功している例はままあるし、出来上がった作品が必ずしも【童話】か【絵本】かのどちらかに区分される──というものでもない。
 本質から見て【絵本】であると同時に【童話】としても成立している作品はいくらでもあるだろう。その両方にまたがった作品を図書館や書店ではどの書架に収めるか──そうしたロケーション管理上の判断で【絵本】と【童話】は便宜的に分けられていることが多いような気がする。



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フェレット漫画@ハムスペ覚書

01Ferret漫画ハムスペ
サービスを終了したfreemlの古い記事に記していた、フェレット漫画に関する覚書をあらためてまとめておくことにした。あおば出版・刊『月刊ハムスター倶楽部スペシャル』(のちに『月刊ハムスペ』)というペット漫画雑誌にフェレット漫画を不定期連載していたことがある。これは僕にとって全く意外な展開だった。小学生〜中学生の一時期、ノートに4コマ漫画を描いていたことがあったがラクガキ程度のもので、本式に漫画を勉強したことは無い。なのにどうしてフェレット漫画を描くことになったのかといえば、僕がフェレットを飼っていたからだ。フェレットは家畜化されたイタチ科の動物で、飼ってみるとなかなかおもしろい。この魅力を伝導すべく(?)、個人誌《チャンネルF》に(文章で)飼育レポートをまとめたり、ビデオに撮ったりしていた。ペット雑誌に投稿して記事に取り上げられたり、取材を受けたこともあった。
02CFペット雑誌2表紙
03かわ小Ferret散歩
フェレットが出てくる掌篇童話(チョコといっしょのおるすばん)を描いたこともあったし、こうした流れの延長にフェレットの漫画化があった。
《マンガを描くことがメインで、その素材としてフェレットを選んだ》のではなく、《フェレットを飼育していて、その面白さをまとめ・記録する手段としてマンガにも手を出した》という形である。だから、同人誌で取り組んでいた児童文学とは、かなり温度差がある。文芸作品に関しては《創作作品としての理想を目指す》という気持ちがあったが、フェレット漫画に関しては「マンガとしての理想」を目指そうという意識はあまりなく、《飼っているフェレットの魅力をマンガでどう伝えたらよいか》という次元で取り組んでいた。
漫画修行の経験もない僕が、臆面も無くヘタクソなマンガを描くことができたのは、ハードル(理想)が低かったからだ。画力が無いのは自覚しているが、フェレットという素材はおもしろいのだから……エピソードの記録として残しておくのも悪くない。うまくいって雑誌に掲載されるようなことになれば、もちろん嬉しいが、ダメならダメでかまわない──ダメでもともと的な、低いこころざし(?)で取り組んだので自分のヘタクソさにメゲることなく描くことができたのだろうと思っている。


フェレット漫画について(freemlより/※加筆あり)
僕がフェレットを飼い始めた頃、まだフェレットの飼育情報は少なかった。なのでフェレットの記事が載っている本や雑誌は手当り次第に買って読んだ。テレビ番組もフェレットの特集があると録画してコレクション(?)していた。僕はふだんほとんどマンガを読まないのだが、フェレットに関してだけはマンガにも触手を広げていた。
そうして気づいたことだが……ペット漫画は色々あれど、フェレットを扱ったものが意外に少ない。
「フェレットほど面白いペットはいない」──そう思っている僕にとって、これは不満だった。「フェレットの漫画を描く人材が不足しているのか? ならば僕が描いて持ち込んでみたらどうだろう」などと思ったりしたものである。しかし無論それは「もっとフェレットの漫画が読みたい」と渇望する気持ちから生まれた妄想のようなもので、その時点では実際に自分で漫画を描くつもりなどはなかった。

ところが2001年の暮、「フェレット漫画が載っている雑誌」との情報を得て購入したアニマル・コミック誌《ハムスター倶楽部スペシャル》に、たまたま動物漫画の公募が載っており、それを見て気持ちが動いた。
《ハムスター倶楽部スペシャル》の版元=あおば出版は、色々な動物の漫画シリーズを出しているところで、数少ないフェレット漫画『フェレット倶楽部』(全3巻)の版元としても記憶があった。
「もっとフェレット漫画を!」と常々望んでいた僕はこの公募を知ったことで「公募してるのなら、ウチのフェレットのエピソードを描いて応募してみようか」という思いにとらわれてしまった……。
漫画歴など皆無に等しい僕がにわかに描いた作品でいきなり入賞できるとは考えにくいけれど……漫画という形にしてウチのフェレット(ブランカ&グランジ)の記録を残しておくのも良いではないか。個人誌《チャンネルF》のネタにもなるし、落選しても無駄にはならない……(実際に描いた漫画のコピーで個人誌《チャンネルF・14号/15号/16号》を作成してフェレットの散歩オフで配布している)。
そんな気まぐれを起こして描いてみたのが『フェレットinジャケット』だった。応募したのが《第6回ハムスター倶楽部スペシャル新人まんが大賞》である。
フェレットinジャケット』はタイトル通り「上着のふところに入って散歩に行くフェレット(懐中イタチ・肩乗りイタチ)」のアウトドア派なエピソードを、応募規定の8ページ枠で構成してみた作品。
これまでの小動物漫画というと、舞台が室内に偏り勝ちのきらいがあるが、そんな中にあって散歩派のわが家のフェレットのアウトドア中心のエピソードはユニークなのではないか……という狙いもあって、色々と自分なりの工夫で応募規定の8ページ枠で構成してみたものだ。

とりあえず描き上げて応募してみたものの、その後作品を読み返してみると、わが家のフェレットの個性や面白さを、どうも今一つ伝えきれていないのではないか……という物足りなさがあった……。
例えばグランジはノーマル(生殖腺&臭腺未手術個体)なのだが、それについては触れることができかった(タマを描いてある絵が 1コマあっただけ)。ノーマルであるがゆえのマーキングや最期っ屁にまつわるエピソードは、グランジを語る上では欠かせないところでもある。
そこで『フェレットinジャケット』では描けなかったエピソードのいくつかをあらためてまとめてみたのが『ふぇレッツ・ゴー』だった。
ペット漫画とはいえ、ただカワイイ・オモシロイというだけでは物足りない。描かれるエピソードの中に動物の特徴/能力や習性を考察するような要素あってもいいのではないかという思いもあって描いてみたものである。
この作品は《第6回ハムスター倶楽部スペシャル新人まんが大賞》の結果が発表になる前に既に描きあげていて、後に《第7回ハムスター倶楽部スペシャル新人まんが大賞》に応募することになる。

結果はさして期待せずに自分なりの描きたい(読みたい)ものを自分のできる範囲で描いてみた2作品だったが……結果は『フェレットinジャケット』が《第6回ハムスター倶楽部スペシャル新人まんが大賞》の〈回し車賞+編集部期待賞〉受賞(月刊ハムスター倶楽部スペシャル/2002年8月号掲載)。『ふぇレッツ・ゴー』が《第7回ハムスター倶楽部スペシャル新人まんが大賞》の〈ハムスター賞〉受賞(月刊ハムスター倶楽部スペシャル/2003年1月号掲載) と、意外にも2作とも入賞し、なんと「デビュー」ということになった。
フェレットを飼っていなければ漫画を描くこともなかったろうし、ましてや漫画家デビューなど絶対になかっただろう。

04ハムスペ7th発表号

漫画制作中にみた夢の話(freemlより/※加筆あり)
僕が初めてフェレット漫画を描き始めた頃に見た夢の話。日記(プライベートにつけているもの)には2002年2月9日(土)とある。《第6回ハムスター倶楽部スペシャル新人まんが大賞》に応募することになる『フェレットinジャケット』の3ページ目のトレース(ペン入れ)をしていた日だ。
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 イヤな夢を見た。
 どういうわけか僕にギターの弾き語りのコンサートをしないかという話が持ちかけられる夢なのだが……「大したことはできないと思うけど……金になるなら、ちょいと練習してやってみるかなぁ」などと軽い気持ちで受けてしまう。そしてハタと気付けば、いつのまにか明日はそのコンサートの日なのである!
 なぜかバックを演奏することになっていた宇崎龍童に「照れずに歌えば、なんとかなる!」などと励まされ、「うん、なんとか頑張ってみるから」と答えるものの……考えてみたら、歌の練習などしていないし、練習するにも選曲すら決まっていないではないか! いやいやそれ以前に僕はギターなど弾いたことがないし、弾く以前にギターすら持っていないのである!
「しまった! ギターを買いに行かねば!」「ええと、楽器店はどこだ!?」時計を見ながら「まだ閉店時間ではないか!?」などと右往左往。しかし、これからギターを買いに行って練習したところで、明日のコンサートに間に合うはずもなく、アセりまくり「わずかな金につられて、畑違いのコトを引き受けるのではなかった!」と悔やんでいるところに、僕にコンサートの話を持ちかけてきた奴がチケットの売上を持ち逃げしたという報告がなされる。当然金も入ってくる見込みは無くなり、つらい状況だけが残った……という夢である。
 目が覚めてそれが夢だと判ったときには「ああ、夢でよかった……」と心の底から安堵したものである。
 しかし、いったなんでこんな夢を見たのか……すぐに思い当たった。
 今、応募用に進めているフェレット漫画が原因だ。ペット漫画の公募を知って、ジャンルが違うにもかかわらず、挑戦してみようかという気になった。そして、あわよくば賞金なんぞが入ればいいなぁ……などと甘いコトを考えながら進めてきたことに対する内省的気分がこんな夢を見せたのだろう。気分転換にと取り組んだ漫画だが、実際に描き始めてみると時間はかかるし「思ったほど簡単では無いな。ふだん漫画など描いていないのに気まぐれに挑戦して、賞金などムシが良すぎるか……」などと思いはじめていた頃だった。ちなみに夢の中で僕にコンサートの話を持ちかけてきて売上を持ち逃げしたのは実在の人物で、グランジを売っていたペットショップのオーナーである。フェレット漫画に集中しているので(夢の)キャスティングにもフェレットからの連想が働いたのだろう。そして、そのオーナーの店で買ったグランジはニューターフェレット(去勢&臭腺除去済み※当時は未手術のものより高価だった)だったハズが実はノーマル(未手術)だったという経緯があり、こうしたことも「いかがわしい」キャラクターとして夢に反映していたのかも知れない。
 とはいうものの、漫画の方は少しずつだが進めている。漫画の投稿常連達に比べれば描き慣れていないことはバレバレで……ペンのタッチに未熟さがでたり、描いてみて表面化する問題があったり……「これが編集者や選者にどう評価されるものか?」と不安や疑問も募ってきてはいるのだが、その一方、色々な問題を工夫しながら対処し、その成果が少しずつ形になっていくことが楽しみであったりもする。これが小説となると理想は高いので書き出すのにもかなりのエネルギーが必要だが、漫画に関しては高い理想を目指しているわけでもないので、そういった意味では進めることにさほど抵抗は感じないですんでいる。今はとりあえずここまで進めたのだし、完成させようと思っている。漫画に関連する夢を見ることも、今回が初めてではないし、起きている時も、漫画のことを考えながらトイレに入り、便座を下げずに座ろうとして危うく便器に落ちそうになったところで反射的に体をひねって踏みとどまり、「あー、びっくりした。くそっ、こんな策にはまってまんまと水の中に尻をつける俺だと思うてか!」なんてこともあったし……今は漫画に集中しているから、変な夢も見てしまったのだろう。
    *    *    *    *    *    *
──などという間の抜けた夢を見ながら描いていたフェレット漫画だが、幸運にも入賞し、『月刊ハムスター倶楽部スペシャル』(のちに『月刊ハムスペ』)に11回ほど不定期掲載された。残念ながら『月刊ハムスペ』は2007年8月号をもって休刊となるが、フェレット漫画のいくつかは色をつけて(雑誌掲載時には単色だった)、ブログに上げてある。
05Ferret漫画彩色

超魔術イタチ:編(&動画【超魔術イタチ】/ケバエ幼虫との遭遇)
グランジ目線で散歩:編(&グランジが散歩した距離/動画【快走!散歩派フェレット】)
イタチと迷信!?:編(イタチは不吉!?)
ニオイでほんろう:編(最後っ屁対決!?/【イタチのさいごっぺ】について)
すっげ〜:編(最大のハプニング!?)
忍者イタチ:編(&忍者イタチ動画)
☆『フェレットinジャケット』(フェレット漫画第1作)
☆『ふぇレッツ・ゴー』ハムスペ新人まんが大賞受賞作:編
☆『フェレットのいる風景

イタチmeets猫(※実写4コマ)
散歩派フェレット・プチアルバム



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