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エッセイ・雑記の記事 (2/47)

小学生時代にハマった鉄棒わざ

01小学鉄棒技

鉄棒はシンプルにして創造性が高い遊具
僕が子ども時代を過ごした昭和はだいぶ遠くなってしまった……歳を重ねるごとに遠のいていく……はずの子ども時代の記憶がむしろ近づいてきたように感じる昨今──その理由は【記憶層と忘却の浸食】などで持論を記した。
そんなわけで思い出す頻度が増え、脳内再生される機会が増えたことで記憶回路が強化され、脳内検索順位が上がってきた感もなきにしもあらず。
先日は小学校時代に鉄棒で「飛行機とび」が禁止になったいきさつを記事にしたが、当時僕が得意にしていた鉄棒技をいくつか紹介してみることにする。体操競技のような正式なものではなく、あくまでも小学生の《遊び》としての鉄棒である。
当時は《ゲーム機》などなかったから、今と比べれば遊ぶ道具も少なかった。《鉄棒》は「体を支えることができる1本の水平な棒」──ただそれだけのいたってシンプルな遊具。コンピュータを駆使した昨今の複雑な遊び道具の対極にあると言えるだろう。このシンプルな器具を使って、どんなことができるかという可能性を模索し、目指す技をどのようにクリアするかを考える──鉄棒を使った運動は《創造性の高い遊び》だったのではないかという気がする。物理法則に支配される中で、自分の体を使って目指す技術を修得する──その過程で失敗や工夫をくり返しながら運動の理解を深め、力学感覚を養ってきた印象が無くもない。

小学生時代に使っていた鉄棒技
小学生の時は鉄棒ブーム(?)が何度かあって、鉄棒ではでよく遊んだ。飛行機とびブームもその1つで、これが僕のクラスメイトの起こした事故によって禁止された真相は先日記した通り。
僕が鉄棒で最初に覚えた〝わざ〟と意識した運動は「逆上がり(さかあ)がり」だったように思う。いつ、どのようにしてできるようになったのかは記憶に無いが、小学校の低学年のときにはマスターしていて、高鉄棒にぶら下がった状態から行ったり、連続して何度も回ったりして〝得意技〟のような意識を持っていた。
小学3〜4年生の頃だったろうか……あるとき公園の鉄棒で遊んでいると、中学生か高校生くらいのお兄さんがやってきて、鉄棒で見たこともないすごい技を披露した。低鉄棒を両手でつかみ、その上を前方転回して飛び越えるといった技だった。
これが当時の僕にはかなりインパクトがあった。僕の〝得意技〟に比べて、なんと華麗でダイナミックな技であろうか!?──この技に一目惚れして、そのお兄さんに今のは何と言う技なのかたずねてみたところ答えに窮して(技の名前なんて考えたことが無かったというような顔をして)、ちょっと考えてから「さかちょうばとび」と答えた。当時は何のことかわからなかったが、「ちょうば」というのは体操競技の跳馬のことだったのだろう。逆さになって跳馬のように跳ぶから「逆(さか)跳馬とび」と答えたのではないかと思う。
動き自体はマット運動の「ヘッドスプリング」という技に似ているが、鉄棒で行うこの技では手だけを使って頭は使わない。「ハンドスプリング」という技もあるが、これは「前方倒立回転跳び(前転跳び)」のことで、腕を曲げずに行うのでちょっと違う。「逆(さか)跳馬とび」は腕を深く曲げ、それをのばす力を使って跳ぶのだから、今あらためて考えてみると【屈腕前転跳び】あたりが妥当な呼称ような気がする。正式な(?)技の名称は知らないが、後にプロレスラーがトップロップ越しにリングインするときにこの技を使っているのを見たことがあった。

屈腕前転跳び
低鉄棒を両手でつかみ、前方転回して飛び越える技。
02屈腕前転跳び
①低鉄棒を順手で握り
②頭から飛び込むように鉄棒を超えながら
③たわめていた体をはじくようにのばし
 同時に曲げていた腕をのばして鉄棒を強く押して体を浮かす
④着地

この技をなんとしても修得したい──そう思って練習したのを覚えている。小学中級だった僕には腕力が不充分で苦戦したが、なんとかできるようになった。学校の鉄棒で技に磨きをかけていると「教えてくれ」というクラスメイトが現われ、ああでもない・こうでもないと助言をしながら技の理解を深めた気がしないでもない。腕の力だけでは体を跳ね上げることができない子には、手順として逆手で狭く鉄棒を握り、両肘を腹にあてて前腕をつっかえ棒のように使って体を浮かせたまま前転することを教え、それができたら、前転の後半で背筋を使って跳ね起きるようにアドバイスしたことを覚えている。僕は順手でこの技を行っていたが、片逆手に握って空中で半ひねりしたりもしていた。

ふりこ/コウモリ降り
両膝の裏側(ひかがみ)を鉄棒にひっかけてぶら下がり、体を振って、そのまま手を使わずに地面に直立で降り立つという技。
03ふりこコウモリ降り
①両膝の裏側(ひかがみ)を鉄棒にひっかけて体を振る
②背面方向へ大きく体を振って
③体がふり上がりきるタイミングで足を放し
④着地

「振り子」のように体を振ることからだろう──僕らは【ふりこ】と呼んでいた。足で逆さにぶら下がることから【コウモリ】とも呼ばれていた。当時の小学生の感覚ではアクロバティックな動きに見えた。「飛行機とび」と並んで、当時、子ども達の間ではポピュラーなワザだった。
見た目は派手で、そのわりに難易度は低かったので人気のある技だったが、【ふりこ】は鉄棒に逆さにぶら下がるという予備動作がカッコ良くない……ちょっとヤボったい印象もあった。これをよりスマートで派手な形に発展させたイキな技が【バックコウモリ】だった。

バックコウモリ
高鉄棒に腰かけた状態から膝裏に鉄棒をひっかけ、両手放しで後方へ回転し【ふりこ/コウモリ降り】へ移行する見映えのする降り技。
04バックコウモリ
①高鉄棒に腰かけ鉄棒を握る
②腰を後ろにずらして鉄棒に両膝の裏側(ひかがみ)をひっかける
③手を放し後ろに倒れこみ【ふりこ】につなげる
④着地

鉄棒の上に腰掛けた状態から、一気にふりこ(コウモリ降り)に移行する技。ひかがみに鉄棒をひっかけたあとは手を放して回転に入る。後方に回転してコウモリ降りをするので、僕らの間では【バックコウモリ】と呼んでいた。最初は両手を放しで後方に倒れ込むことに不安があり、怖さをともなう。この怖さのハードルを一段下げた【前転コウモリ】という技もあった。スタートは同じ、鉄棒の上にこしかけた状態で、鉄棒を逆手に握ってひかがみにかけると、手で鉄棒をつかんだまま、前方に4分の3ほど回転する。そして前方の回転力が失われて後ろにふり戻されるときに手を放してふりこ(コウモリ降り)に移行する技だった。
また【バックコウモリ】の発展技として、足を放すときに体を半ひねりし(着地せずに)再び鉄棒をつかんだり、足を離さずに手放しのままさらにもう1回転して降りるといったこともしていた。

ふらこ/静止ふりこ
【ふりこ(コウモリ降り)】では、逆さになった状態から体を振ることで生まれる回転力を利用して足から着地していたが、これを静止した状態で行う技が【ふらこ】である。《振らないで行う【ふりこ】》の意味で【静止ふりこ】とも呼ばれていた。
見た目は【ふりこ】に似ていて、より地味な技だったが、ふりことは全く別の原理で成立する意外に難易度の高い技だった。「振りの少ない【ふりこ】」の延長と考えて練習しても決してできない。夕方、誰もいなくなった公園で顔から落ちたりしながら試行錯誤した思い出がある。今回紹介する技の中では一番難しく、マスターするのに苦労した。
05ふらこ
①鉄棒に両膝の裏側(ひかがみ)をひっかけてぶら下がるのは【ふりこ】と同じだが、【ふりこ】が脱力して体を伸ばして行うのに対し、腰をくの字に曲げて重心を引き上げて体を締める。
②曲げていた膝をはじくように勢いよく伸ばし、同時に腰は深く曲げる。膝から下の強い振り込みがひかがみで鉄棒を押す力となって、わずかな回転力が生まれる。
③顔が地面に落ちるまでのわずかな間に足をひきつけて地面。

【ふりこ】では《振りによる回転力を利用する》ため鉄棒の前方に(鉄棒を背にして)着地するが、【ふらこ】では《ひかがみが鉄棒を押す力を回転力とする》ため鉄棒の後方にとばされて着地する。膝から下の一瞬の強い振り込みが必要で、着地した後には鉄棒がビィ〜ンと(他の技では見たことがないほど)振動していた。

ジェンマ降り
高鉄棒の上に腰掛けた状態から、両手を放したまま、膝裏で鉄棒をフックすることもなく、そのまま後方回転して着地する技。
06ジェンマ降り
①高鉄棒の上に浅く(尾てい骨に近いところで)腰掛ける
②下半身を残すイメージで、上半身を(重心をなるたけ鉄棒の上に残すようなつもりで)後方に倒していく
③上半身を倒して反ったところで(すでに後方回転力が発生している)
④下半身を引き寄せ、下半身を振り込む反動で(お尻で鉄棒を押して)、後方へ回転
⑤着地

同じように高鉄棒の上に腰掛けた状態から開始する【バックコウモリ】では膝裏(ひかがみ)に鉄棒をひっかけて回転するが、この技はひかがみフックもなしに──両手放し&両足放しのまま後方回転を行う。体の支えが無い不安・恐怖から、【バックコウモリ】よりも度胸を要する技だった。僕がこの技をマスターしたのは小学5年生のときで、当時はこの技にこれといった名前はついていなかった。中学生になってマカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇)の『南から来た用心棒』という映画の中でジュリアーノ・ジェンマがこの技を披露していたのを知って、その後は【ジェンマ降り】と勝手に呼んでいる。

07Gemma空中回転撃ち
※【G・ジェンマの《空中回転撃ち》@南から来た用心棒】より

鉄棒のマイブームは小学生時代で終わった。中学・高校では鉄棒のないところでの宙返りに関心が移った。それが高じて後にこんなことをするに至ってしまったのであった……。

※【ミラクル☆スター〜実写版〜】から撮影風景⬆

記憶層と忘却の浸食
飛行機とび禁止の意外な真相!?
逆上がり
G・ジェンマの《空中回転撃ち》@南から来た用心棒
ミラクル☆スター〜実写版〜
ヒーロー的宙返り
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飛行機とび禁止の意外な真相!?

僕が小学生だった頃──昭和40年代中頃に、鉄棒で「飛行機とび」というのが流行った。ネットで検索すると「グライダー」とも呼ばれていた技で、やはり多くの子ども達に親しまれていたようだ。ところが、これがあるとき突然《禁止》になった。このこともネット上で確認できる。「危険だから禁止になった」──というのが多くの人が知るところだろう。しかし「飛行機とび」はさほど危険な技ではない。子ども達が行っていた鉄棒技の中には、もっと危険度が高いものが他にいくつもあったはずだ。なのになぜ「飛行機とび」だけが禁止になったのか?
多くの子ども達が影響をこうむることとなった《飛行機とび禁止令》──ことの真相を知っているのは、もしかすると〝その原因事故の現場に居合わせた僕ら数人〟だけだったのかも知れない!? だとすれば、このまま僕らが語ることなく墓に入れば、真相が明かされる機会は永遠に失われてしまうことになる……といったら大げさだが、古い話ではあるけれど、僕の目の前で起こった事故の顛末について記しておくことにする。

飛行機とびが禁止となった原因の事故
01飛行機とび@鉄棒
鉄棒に順手で腕支持となり、やや狭めに握った手の外側に両足裏をかけて、鉄棒上にしゃがみ立ちになった姿勢からお尻を落とすように後方に回転し、その勢いを利用して前方に足をふり出して着地する──これが「飛行機とび」という降り技である。僕が小学3年〜5年の間に流行った鉄棒遊びだった。
問題の《事故》が起きたのは、放課後の校庭──数人のクラスメイトと砂場わきの高鉄棒で遊んでいたときだった。
僕らはすでに「飛行機とび」をマスターしており、その変化技を工夫していた。鉄棒をにぎる手と足の位置を逆にしてみたり、手と足の位置を交互にしてみたり、左右の手を交差させて鉄棒を握り飛び出すときにひねりを加えてみたりと、色々な新技の開発を試みて「ジェット機」「グライダー」「ヘリコプター」など勝手な呼び名をつけて披露し合っていた。
そんな中で考案された変化技のひとつが「人工衛星」と呼ばれるものだった。
これは「飛行機とび」とは逆回転の動き──「飛行機とび」が順手で鉄棒を握り後ろ向きに回転するのに対し、「人工衛星」は逆手で鉄棒を握って前方に回転する技だった。
02人工衛星@鉄棒
後ろに回るか前に回るか──回転方向が逆になるだけと考えると大した違いではなさそうに感じるが、これが実際にトライしてみると意外に恐怖感が大きい。「飛行機とび」では頭の位置は上下が入れかわることなく着地に至るが、「人工衛星」では頭が1回転することになり、上下感覚がかく乱する。これは「飛行機とび」にはない未知の感覚領域で、特に最初にチャレンジするときには勇気がいる。技術というより度胸を要する技だった。
そんな度胸試しともいえる「人工衛星」へのトライを仲間達は次々に成功させていって、クリアできずにいるのはM君ひとりとなった。
M君は高鉄棒によじ登っては「人工衛星」へ入る体勢をとるものの、仲間たちが見守る中、いつまで経っても踏ん切りがつかず、結局怖くて中断──皆のヒンシュクを買うといったことをくり返していた。
皆がもうそろそろ帰ろうかという頃になって、M君はあせりだした。「みんながクリアしているのに自分だけ、できなかった」という不名誉な形で終わりたくなかったのだろう。最後まで高鉄棒にとまっていたM君は帰ろうとする仲間を呼び止め、「あと1回!」と叫ぶと、鉄棒の上に足をかけた。
「どうせまた中止するんだろう」といささかうんざりしながら見ていると、予想に反してM君の体が、今度こそ前方に倒れこんでいった。

その光景は今でも思い出すことができる。
やはりかなり怖かったのだろう、へっぴり腰でいびつな回転だった。重心の移動はスムーズな弧を描けず、むしろ落下といった感じ。かがんだまま前に倒れ込んだ体は鉄棒を握った手を支点に、どすんと懸垂状態に移行した。その勢いで下半身がふられ、体がのびきった瞬間──M君の手は鉄棒から離れた。すっぽ抜ける形で、手を離すタイミングではなかった。
「飛行機とび」では鉄棒より前へ──砂場の中央に着地することになるが、同じ向きで行った「人工衛星」では体は鉄棒より後ろに振り飛ばされる。
「危険な落ち方だ!」と思ったが、どうすることもできなかった。M君本人は初めての急回転で目を回し自分がどんな体勢でいるのかも把握できていなかったのだろう。ガード姿勢をとることなく、砂場のフチのコンクリート枠に、もろに額を打ち付けた。
03高鉄棒@小学校
あまりに無防備な落ち方が恐ろしく、信じがたかった。
そばに寄っておそるおそる声をかけてみたが、M君が何と答えたかは記憶にない。ただM君の額がみるみる腫れ上がっていき、人の顔がこんなに急激に変化するものなのかと驚いたのを鮮明に覚えている。
僕らは大慌ててM君を保健室に連れて行った。すぐ救急車が呼ばれ、そのまま入院となった。後日元気になって戻ってきたM君が言うには、入院中、死の危険もあったらしい。
この事故のあと《飛行機とび禁止》が発令された。高鉄棒下の砂場はコンクリート製の枠が撤去され角をとった木製の枠に変えられた。
これが、僕の目の前で起きた事故の顛末である。
僕が通う小学校で起きたことだったので、当時の《飛行機とび禁止令》は僕らの学校だけの措置だと思っていた。しかし後になって、他の地域まで波及していたことを知って「僕らの事故がそんな大がかりな事になっていたのか」と驚いたものである。確か山中恒作品にも「どこかの小学校でケガをした奴がいて、それで飛行機とびが禁止になった」というような事が書かれてあったように思う。
僕らが遭遇した事故だけが原因だったのではないかもしれないが(あるいは他にもケガ事案があったのかもしれないが)、さほど危険とも思えない「飛行機とび」だけが禁止になったのは、どうも合点がいかない。やはり救急車を呼ぶ騒動となった〝あの事件〟が広域の(?)《飛行機とび禁止令》のきっかけだったのかな……という気がする。

《禁止令》の原因事故は「飛行機とび」ではなかった
というわけで、僕の小学校で《飛行機とび禁止令》の原因となった技は、じつは「飛行機とび」そのものではなく、「人工衛星」と僕らが勝手に呼んでいた全く別の技だった。
放課後の校庭で起きたM君の事故は、おそらく大人達には当時鉄棒で流行していた「飛行機とび」でのケガとして伝わったのだろう。それが大がかりな(?)《飛行機とび禁止令》につながったのだとすれば、《原因は「飛行機とび」ではなかった》というのは〝意外な真相〟かもしれない。

世間一般に広く知られていることが──実は自分の身近で起こったことに由来するもので、世間の認識とは外れたところに真相があったのではないか……という〝意外な真相〟ネタとしては、他に一時期流行った「ピーマン」という流行語も本当の発信源は僕らだったのではないか……と秘かに思っていたりする。


昔流行った「ピーマン」語源/震源地は僕ら?
小学生時代にハマった鉄棒わざ
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猫に小銭(猫にコイン)

猫の日にちなんで…《猫に小銭》
きょう、2月22日は「にゃん・にゃん・にゃん」で猫の日(日本の猫の日実行委員会が1987年に制定)。これににちなんで《猫に小判》ならぬ《猫に小銭》(韻を踏むなら《猫にコイン!?》)──ネット上で見つけた動画をひもづけてまとめておくことにした。

昔、Magic Bankっていう、手が出てコインをつかみ取っていくホラーチックな貯金箱があって、それを探していた過程でみつけた猫の貯金箱⬇(これはかわいい)。


猫の貯金箱の関連でみつけた動画⬇(これは面白くて大ウケ)。


猫と猫の貯金箱の直接対決⬇(猫のリアクションは期待を裏切らない)。


ネコはリアクションがおもしろい。以前飼っていたフェレットとの遭遇もおもしろかったということで4コマ漫画ならぬ実録4コマ写真を投稿したこともあった⬇。
01猫&イタチ
イタチmeets猫(実写4コマ)より

ネコがらみのショートショート
猫婆ちゃんのアルバイト
禍まねく招き猫!?

ついでに、昔こんなのも描いていたということで……⬇
01ねこにかかったでんわ
02ねこにかかったでんわ
『ねこにかかったでんわ』(岩崎書店刊)は日常を舞台とするファンタジー。当時の電話はダイヤル式だった……。



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異教徒ならぬ無教徒の死生観

異教徒ならぬ無教徒の死生観

死ぬのは金持ちばかりではない…
「死んでいくのは金持ちたちばかりではないだろうに……」
はからずしも喪主をつとめることになって感じた正直な感想。《死》は誰にとっても不可避なものだ。なのに、どうしてこうも《死ぬと高額な負担》が残された者に課せられることになるのか──。
葬祭関連業の経済活動が組み込まれた文化が確立しているからなのだろう──誰かが死ねば葬儀社のおせわになるのが一般的だ。人が死ねば葬儀会社のルートに乗ってことが運び、高額な費用が発生する。それを負担せざるを得ないというのが実情ではないだろうか。もちろんノウハウのある葬儀会社の至れり尽くせりの対応を「ありがたい」と感じる人も多いにちがいない。しかし、誰もに平等におとずれる《死》なのであるから、実務的な公共機関によるルート──必要最低限の経費で死亡処理をする福祉サービスが選択肢としてあって良いように思う。

死体というのは切除された病変と同じ──全体であるか部分であるかの違いがあるだけで〝死んでしまった組織〟という意味では同じだと僕は考えている。切除された病変と同じ扱いで、遺体もすみやかに処分されてしかるべきだ。遺体に保存処理を行い、見映えを整え、お披露目し、おごそかな葬式を演出することが、誰にとっても必要なものなのかといえば、僕には疑問がある。
それを望む遺族にとっては納得できるコストなのだろうが、信仰を持っていない者にとっては、近しい者が死んだ直後に「意味がわからなぬまま執り行われるおごそかな儀式」にひっぱり回されるのは戸惑うばかりではなかろうか?
立派な葬儀を演出することが故人への供養になるという考え方もあるかもしれないが、信仰を持たない──いわゆる《霊》という概念を用いずに《死》を捉えている僕にとっては、通常の(?)宗教色の漂う葬式は違和感があるというのが正直なところである。

異教徒ならぬ無教徒にも《死》の概念はある
僕は就学前後の頃から「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」「やがて必ず死ぬのになぜ生まれてきたのか」というテーマにとらわれ、子ども心ながらかなり真剣に考えてきた。同時に「(自分が生まれてきた)この世の成り立ち」「この世を認識している意識」についても考えて続けてきた。僕が求めていたのは宗教的な答でも哲学的な答でもなかった。「(死という不安や恐怖から逃れるための)心の安定を目的とする欺瞞」ではない「きちんと納得できる解釈」だった。
ありがちな《霊》という概念を用いて《死》を解釈するのは安易に思われた。その考えに立つのであれば、まず前提となる《霊》の存在を証明する必要がある。僕は《霊》という概念を持ち込まずに生死のテーマを解釈してきた。宗教的な解釈や信仰とは違うが、それなりに《死生観》や《世界観》は持っているつもりでいる。
僕の認識では、その人をその人たらしめている《意識》あるいは《心》(《霊》あるいは《魂》にあたるもの?)は、生きて活動している間のみ存在するもので、生まれる前には無く、死んだ後も存在しない。
よく《死後の世界》がどんなものか云々されることがあるが、それは《生まれる前》と同じと考えればわかりやすい。〝自分〟は生まれる前にはいなかった。死んだ後も同じである。「自分の存在を認識している意識」は、生きている期間限定のものであって、その人の死をもって消失(失効)する。死後に残る(残せる)のは、その人が成した実績や教え(考え方)だけであって、《魂》は残らない。
そう考える異教徒ならぬ無教徒にとって、終焉後の遺体に手を加え故人(の霊)がまだそこに存在し続けているかのようにふるまう儀式は虚しいだけだ。「そこにはもう〝いない〟」とわかっている抜け殻に手を合わせるのは、いたたまれないものがある。無教徒の死生観に《霊》は存在しない。

実在しない《霊》はデフォルト概念/ダミー・イメージ
子どもの頃から人の《死》について考えていた僕も《霊》という概念が一般的なもので多くの人が共有していることは知っていた。それは実在しないという結論には早い時点で到達していたが、「それではなぜヒトは実在しない《霊》を信じているのか」という疑問があった。これについては【人はなぜ《霊》を感じるのか】で簡単に記しているのでここでは割愛する。
僕が思うに──人が感じる《死んだ人の霊》というのは、そう感じる人の心の中に形成された故人の《ダミー・イメージ》の投影だろう。故人の《霊》は、故人を偲ぶ人の心の中にのみ存在している《デフォルト概念》といえよう。つまり〝死者を弔う〟とか〝霊を慰める〟といった葬儀は、本当は故人ではなく、遺族・友人などの生きている人(投影者)を慰めるための儀式だと僕は考えている。
実体のないデフォルト概念であったとしても《霊》を信じる人にとっては(主観的には)実在しているのと同義なのだろうことは僕にも理解できる。だから信仰や宗教を否定するつもりはないし尊重もしている。ただ、僕の立場は、それらのメジャーな宗教とは違うということである。
僕の考え方を「けしからん!」と怒る人もいるだろうが、少なからず共感してくれる人もいるのではないか? メジャーな宗教観とは違う、こうした無教徒・無信仰者の立場も尊重されて良いのではないか──というのが、この記事を投稿する動機となっている。

宗教誕生の背景的基盤は《ヒトは死を怖れる》という特性
世界にはまんべんなく色々な宗教が浸透していることだろう。地域や民族によって違いはあれど、その起源はおそらく《死者を弔う》ことにあったのではないかと素人想像している。「《死》という概念を持ち、これを怖れる」ことがヒトの特性であり、「《死》への恐れや不安を緩和し回避する策」として《霊》を慰める宗教的解釈&儀式が生まれ、それぞれ進化していったのだろうと想像している。
僕が幼少の頃に「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」「やがて必ず死ぬのになぜ生まれてきたのか」というテーマにとらわれたのも、もとは《死》への恐怖心からだった。あるとき「自分も(いつかは)必ず死ぬ」という事実に気づき、死刑宣告を受けたような衝撃を受けた。「決して逃れることができない《死》」に向かって、日々刻々と近づいていることを知って絶望感すら覚えた。
しかし、考えてみれば、生物である人間が生まれ・死んでいくのは自然現象として、ごくあたりまえのことだ。それを受け入れがたいことのように感じてしまうひねくれた(?)ヒト独特の感性の方にむしろ問題があるのではないか──物心がついてくると、そのように考えるようになった。そして「ヒトが死を怖れるのはなぜだろう?」と思いを巡らし、自分なりに解答を得たつもりでいる。その解釈については【昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?】でざっとだが記している。
いずれにしても《死を怖れる》というヒトの特性が《霊》というデフォルト概念と結びつき、《宗教》という補完需要(?)に繋がったのだろうと僕は考えている。

死生観を含めた世界観の再構築
そんなわけで、幼少の頃に《死》や《この世の成り立ち》などについて半ば強迫観念にさいなまれるように考えていた時期が僕にはあったわけだが、そのきっかけについては思い当たることがないでもない。
僕の母は鬱病で精神科にかかっていたことがあって、おそらく自殺を心配してのことだろう──入院していた時期もあった。実際に最期はそうなることになるのだが……僕が子どもだった頃、鬱状態の母が自殺をほのめかすのを聞いた記憶が残っている。幼少時に意識するようになった死に対する不安や恐怖の一因はここにあったのではないかという気がしないでもない。

鬱病は今でこそ身近な病の1つとして認識されているが、僕が子どもの頃には少々エキセントリックだった。子どもたちの間では、そうした患者がいる病院を狂人を意味する差別語をあてて○○○○病院と呼んでいた。当時は言い争いやケンカになると「バカ」と同じような意味合いで「○○○○」という言葉も平気で投げつけられていて、僕も近所の子に「○○○○」と言われたことがある。「僕は○○○○じゃない!」と反論したところ、「○○○○には自分が○○○○だということが、わからないんだよ」というようなことを言い返されて意表を突かれたように感じたことを覚えている。はたして、それは本当なのか? 僕は自分が正常だとばかり思っていたが、それがただの〝思い込み〟でないと、どうして言えるのか──自分が何の疑いもなく信じ込んでいた常識が根底から揺らいだ。母親が○○○○病院にかかっているなら、僕が○○○○であっても、ちっともおかしくはない……そんな気がした。この一件で、僕の世界観のようなものは1度崩壊した気がする。
自分の頭は正常なのだろうかという不安の中から「それなら《正しさ》とは何なのだろう?」と《正しさ》を測る基準を再構築したところが僕にはある。そのことは【僕は宇宙の常識人!?】で記している。自分なりの価値観を再構築してきたことで、「まずは自分の頭で考える」ことが優先され、既成の概念を素直に(?)受け入れにくくなったということは言えるだろう。《死》についての概念も、宗教的解釈より前に自力で構築してきた概念があったことで、既成の葬儀感覚に対して「なじめなさ」を強くしたということはあったように思う。

虫を見て《この世の成り立ち》を感じる
《死》について考えるようになると、それでは《自分が生きていると感じているこの世界》とは、いったい何なのだろう?──ということについても考えを広げざるをえなくなる。《この世の成り立ち》を知る上で手がかりとなるのが、さまざまな自然現象──特に不思議に感じられるところが考察の糸口になる。
このブログでは虫をとり上げた記事も多いが、昆虫への興味の根っこには《この世の成り立ち》に対する興味がある。そのあたりのことは【昆虫の何に魅かれるのか?】にも記している。
一見、奇跡のように感じられる昆虫の多様な進化がどうして成立し得たのかということについては関心があり、ふと思い当たるところを記したのが【ドラゴンを折って昆虫進化の奇跡を思う】という記事だったりする。
この世の一見不可解な現象に目をとめ、なぜ・どうしてこれが成立しているのかという【機能】を解明することが《この世の成り立ち》という【システム】を知る手がかりになる──僕はそう考えている。
そんな思いから、昆虫以外にも、自分なりに《なぜ・どうして》と気になったことを自分なりの解釈でブログ記事にしてきたのである。



人はなぜ《霊》を感じるのか
昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?
僕は宇宙の常識人!?
昆虫の何に魅かれるのか?
ドラゴンを折って昆虫進化の奇跡を思う
子どもはなぜヒーローが好きか
時間の加速感
時はどんどん加速する
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
記憶層と忘却の浸食
人はなぜ宝くじを買うのか
髪はなぜ伸び続けるのか?
ヒトはどうして眠るのか?〜ロボットの反乱&自意識の覚醒
変化球の思い出
葬儀嫌い
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ショートショートの新概念?

01座敷童子&花火画A

マジック・ストーリーまたはトリック・ストーリー
僕は意外なオチを意図した短いアイディア・ストーリーが好きだ。読者を誘導する自然な展開の中に、実は巧みに仕組まれた伏線があって、結末に思いもかけない展開が用意されている──いわゆる《ドンデン返し》が面白い。オチの《意外性》は「なるほど、そうだったのか」と合点がいくものが好ましい。つまり《思いもかけない展開》でありながら《説得力》の裏付けがあることで、読者はストンと腑に落ちるわけである。すんなり納得できることが、意外性の《キレ》を演出することになる。
アイディア・ストーリーでは《読者をだます仕掛け》がほどこされ、同時に騙された読者を「なるほど」と納得させる《説得力のある伏線》が仕込まれているいることが多い。《ミスリード(読者が描くイメージ)》と《種明かし(真相)》がセットになって成立しているところがある。

これに対して、作中で披露した《謎》を作中では種明かし(解説)せずに幕を閉じるスタイルの作品があってもよいのではないか……と最近思うようになった。
結末に《謎》を残す作品スタイルとしては【リドル(riddle=謎)ストーリー】と呼ばれるものがある。結末を明らかにせず読者に委ねる形の作品だ。「このあと、どうなるのか?」──結末を明記せずに《謎》を残すということでリドル・ストーリーと呼ばれるのだろう。僕の作品でいうと『チョウのみた夢〜善意の報酬〜』がこれに当る。
リドル・ストーリーで提示される《謎》は、読者が仕掛けを理解した上で《未確定の結末をゆだねられる》というものだが、こうしたタイプの作品ではなく、作中に提示した《謎》を〝読者がその仕掛けを理解できぬまま〟幕を閉じるスタイルの作品があってもいいのではないかと考えるようになった。

もう少し具体的な例をあげて説明すると──。
《同じ顔ぶれのまま人数だけが1人増える》という不可思議な《座敷童子現象》をモチーフに、僕はいくつか作品を描いてきた。
《同じ顔ぶれのまま人数だけが1人増える》というのは起こりえない現象だ。しかし、この不思議をどう描けば起こったかのように演出することができるか……色々と思案してきた。
作中で《座敷童子現象》の合理的な種明かしを考えたのが『病院跡の座敷童子』で、僕の着想と同じ原理で、実際に「手の指が1本増える」という催眠ショーが演じられているのをテレビで見て驚いた記憶がある。
その後《座敷童子現象》を成立させる作品を模索していく中で『福神降臨ざしきわらし召喚アイテム』や『花火と座敷童子』といったショートショートを試作。『福神降臨ざしきわらし召喚アイテム』はトリックアート(騙し絵)と絡めたもので、作中で《座敷童子現象》という不可思議=《謎》を成立させているが、その《種明かし》は(作中では)行っていない。読者は騙されたまま(?)──どこで騙されたか、にわかには理解できない(ことを狙って描かれている)。『花火と座敷童子』の方は計算の錯誤を誘導するひっかけパズル(?)のような形の《謎》を提示──知らぬ間に座敷童子が現われて花火代を抜いていったかのような錯覚を読者に与えることで《謎》を成立させている(させることを意図している)。作中では種明かしがなされておらず、どこにトリックが仕組まれているのか、読者は自力で解明をしなくてはならない。

種明かしをしないで終わるという意味では〝実際には起こりえない現象を起こったかのように演じてみせる〟マジックに似ている。マジックはトリックを明かさないで成立する。
実際に読者が騙されるかどうかは別にして、読者を騙す(錯誤を誘導する)意図で描かれ、作中では不可思議な現象(謎)を提示するだけで種明かし(錯誤の解説)をしない──こうしたスタイルの作品があってもいいだろう。ならば、こうした作品群をさす呼称があっても良いはずだ。ということで、このテの作品を【マジック・ストーリー】もしくは【トリック・ストーリー】とでも呼んでみてはどうだろうか。
文芸作品では、これまでにあらゆる実験が行われてきているのだろうから、あるいは僕の新概念もすでにあるのかもしれないが……とりあえず、個人的には【マジック・ストーリー】もしくは【トリック・ストーリー】の仮称を考えていたりする。


チョウのみた夢〜善意の報酬〜
病院跡の座敷童子
福神降臨ざしきわらし召喚アイテム
花火と座敷童子


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