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『ゼロの焦点』タイトルの意味

謎めいたタイトル『ゼロの焦点』の意味
ゼロの焦点@松竹
邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観た。言わずと知れた松本清張の同タイトル推理小説を映画化した作品。テレビを離脱する以前にWOWOWで放送されたものをDVDに録画していたのだが、それを久々に鑑賞してみたしだい。『ゼロの焦点』は松本清張自身も気に入っていた作品だそうで、これまで何度も映像化されている。僕が観た松竹1961年版は、主人公が夫の殺害現場である断崖絶壁で犯人と対峙し謎解きを語る見せ場(?)が説明的でスマートではない気もしたが……「葬り去りたい過去の秘密を持つ人たち」によって引き起こされた殺人事件という作品の意図(着眼)や筋書きは面白いと感じた。内容は込みいっていて感想を記すには行数を要すし、作品評はすでに多くの人がしていると思うのでここではスルーして……今回は作品の内容についてではなく、タイトルについて取り上げてみたい。

『ゼロの焦点』──このタイトルの意味するものは何?
小説にしろ映画にしろ、この作品を読んだり観たりした人の多くが抱く疑問ではあるまいか?
謎めいたタイトルであっても、読んだ(観た)後に「なるほど!」と合点がいくのが本来ならば理想のタイトルというものだろう。しかし、『ゼロの焦点』に関しては作品を鑑賞したあとにも、そのタイトルの意味するところが釈然としない。作品の内ではきれいに謎解きがなされているけれど、タイトルの謎は残されてままだ……。

有名な作品だし、興味を引くタイトルなので、その由来については明らかにされているだろうと思ってインターネットで検索してみたのだが……ヒットする「解釈」は、どれもピンとこない。『ゼロの焦点』の明確な由来はわからずじまいだった。
松本清張の作品には他にも『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルが存在するが、こうした抽象度の高いタイトルについて清張自身が時間稼ぎの苦肉の策(?)だといようなことを語っているそうな。雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならない状況(予告号のタイトル〆切は実際の作品の〆切りより早い)で、どのようにも解釈できる抽象的なタイトルにしておけば、作品を考える時間稼ぎができる──ということらしい。
『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ「あまり意味の無いタイトル」だったのではないか──というような説(?)もあって、僕が目にした中では、これが一番「そうかもしれないな」と思える解釈だった。

『ゼロの焦点』というタイトルがどのようにして決まったのか、清張自身がどこかで明言していてもよさそうな気もするのだが……僕はその情報を知らない。そこで、僕なりの推理を記してみたい。あくまでも僕の思うところであって、これから述べる解釈が正しいかどうかはわからない。

タイトルの意味を考えるにあたって、『ゼロの焦点』の内容についてチラリと触れておくと──、


主人公は新婚間もない鵜原禎子(久我美子)。夫の鵜原憲一(南原宏治)は見合いで知り合った大手広告会社のエリートサラリーマンで、結婚を機に金沢出張所から東京本社営業部に栄転──二人は東京に新居を構える。結婚して一週間目、憲一は禎子を東京に残して、仕事引き継ぎのため最後の金沢出張に出かける。ところが、憲一はいつまで経っても戻ってこない……というところから事件が展開する。謎の失踪をとげた夫を追って禎子は初めての北陸の地を踏む。夫の足取りを追っていくうちに、憲一は禎子と結婚する以前に、出張先で曽根益三郎という偽名を使って内縁の妻・田沼久子(有馬稲子)と暮らしていたことがわかる。憲一はその虚構の生活を隠蔽・清算をするために曽根益三郎(偽名の自分)の自殺を擬装しようとするが、実際に(憲一が)殺害されてしまっていたのだ……。

ところで、『ゼロの焦点』は連載開始当初のタイトルが『虚線』だったという。こちらは『ゼロの焦点』に比べれば、ちょっとわかるような気がする。「実線」に対する「虚線」という意味だろう。
その人がたどってきた人生の軌跡を「実線」とするならば、偽名を使って生きた虚構の軌跡は「虚線」と言える。鵜原憲一(実名)が禎子と暮らした東京でのくらしを「実線」とするなら、曽根益三郎(偽名)が田沼久子と暮らしていた虚構の軌跡は「虚線」というわけだ。また、禎子がたどった夫の足取り──虚構の人物・曽根益三郎の軌跡を「虚線」とみなすこともできる。
あるいは、実際に確かめられたストーリーを「実線」とするなら、禎子が想像(推理)したストーリーを「虚線」とみることもできるだろう。この「虚線」は展開の中で移ろい違った様相を見せていくことになる。

というように『虚線』というタイトルであれば、観終わった(読み終わった)あとに、「そういう意味だったのか」と思い当たらないでもない。ただ、『虚線』という単体の単語は、タイトルとしては、ちょっと弱い……。
そこで清張は、連載メディアを変更したさいに、もっと気のきいたタイトルに差し替えようと考えたのではないか……。創作をしたことがある人ならわかるだろうが、書き進めている作品タイトルの善し悪し(気に入っているか否か)は創作意欲にも反映する。タイトルなんて作品を書き上げたあとに決めてもよさそうなものだが、とりあえず仮にでもタイトルを決めておかないと気持ちよく書き出せない・書き進めにくい──という人は多いはず。タイトルをつけることによって作品のイメージが明確化し描きやすくなるからだろう。

松本清張の抽象度が高い作品タイトルを見ると『波の塔』『水の炎』『点と線』『壁の眼』『蒼い点描』『砂の器』『球形の荒野』など複数の単語で構成されたものが多い。『虚線』もこれにならって変更するなら……「虚線」をたどって事件の真相に近づいていく禎子の行動は「虚線をフォーカス」することと言えなくもない。「フォーカス」で絞られるのは点であるから、線はなじまない……とすれば「虚線」ならぬ「虚点」だろうか? 「虚点のフォーカス」というような方向でタイトルが検討されたことがあってもおかしくはないだろう。清張の感覚で言えば「フォーカス」より「焦点」がなじむ。しかし「虚点の焦点」では「点」が重複する。そこで「虚点」=「虚しい点」を「ゼロ」に置き換え、「ゼロの焦点」というタイトルに到達したのではないか?
正確なプロセスはわからないが、いずれにしても、タイトルとして見た場合、『ゼロの焦点』の方が『虚線』よりも響きは良いし、謎めいたニュアンスが強まる。読み終わった読者(観終わった観客)にはわかりづらいうらみはあるものの、総合的に判断してキャッチの良い『ゼロの焦点』を採用したのではないか──というのが僕の推理なのだが、真相はどうだったのだろう……。


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『カメラを止めるな!』感想(ネタバレあり)


カメラを止めるな!
http://kametome.net/index.html

何かと話題の邦画『カメラを止めるな!』──低予算のインディーズ映画で、ミニシアター2館で上映をスタートさせたところ、口コミやSNSで評判が広がり、大ヒット作となった作品らしい。絶賛する記事が多い中、「評判なっているので観たが、どこが面白いのか全然わからなかった」という感想もあり、いったいどんな映画なのか気になっていた。レンタルDVDを鑑賞してみたので、感じたことを記してみたい。
《最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。》というキャッチフレーズや、ちまたの評判からして、構成の妙や斬新さが売りの作品かと思っていたが、実際に鑑賞してみると「思い描いていたイメージ」とは違う作品だった。

内容を簡単に説明すると──(※ネタバレあり)、
《山奥の廃墟でゾンビ映画を撮っていた撮影クルーが​本物のゾンビに襲われる──というサバイバル・ドラマをワンカットで生中継する》──という無茶なテレビ企画が、テレビの下請け等で細々と映像制作をしている映像監督・日暮隆之のところに持ち込まれる。腰が低く人の良い日暮監督は断ることができず、引き受けてしまう。

映画本編はいきなりヒロインが元恋人のゾンビに襲われるシーンから始まるが、これが「無茶な企画のゾンビドラマ」の冒頭で、ここから37分、ワンカットで撮影された「生中継ドラマ」が丸々展開される。冒頭のシーンで「カット」の声がかかると、監督(役)がヒロインにつめより恐怖の演技が本物ではないと激高する。「本物の恐怖」を求める監督が選んだ撮影現場は「ガチでヤバイ場所」で、スタッフが次々にゾンビ化してヒロインらを襲うという恐ろしい展開になるのだが、「本物の恐怖」を求めていた監督は嬉々としてカメラを回し続けるというもの。ワンカットシーンのラストでエンドロールが流れた後、画面が変わって、1ヶ月前にさかのぼって、この「無茶な企画のゾンビドラマ」がどういう経緯で作られていったのかが「現実側」で展開する。これがこの映画の「二度目の始まり」ということになる。

無茶な企画を引き受けてしまった、人の良い日暮隆之・映像監督には元女優の妻と映画監督志望の娘がいた。妻は役に入り込みすぎてトラブルを起こす癖があって女優を辞めていたが、他に熱中できるものを模索している状態。夫が請けたゾンビ・ドラマの脚本を何度も読んでいることから、本当はまだ女優に未練があるらしい。映画監督志望の娘は、情熱家で妥協が許せない性格。作品作りには妥協も必要だとする父を軽蔑しているふしがあるが、父が監督することになったゾンビ・ドラマにお気に入りの男優が出演することを知って母と撮影現場を見学に訪れる。

不安要素を抱えながら迎えた生中継本番当日──重要な役回りの監督役とメイク役が事故を起こし来られないとの連絡が入って現場は騒然となる。番組の放送開始時間は迫っており、代役を調達する時間もない。しかし番組の中止は許されない。せっぱつまった状況の中で、日暮隆之監督は、みずから監督役をやることに。メイク役は台本が頭に入っている元女優の妻が演じるというドタバタ決定で、とりあえず(?)生中継ワンカット・ドラマはスタートする。次々に起こるアクシデントにてんやわんやの撮影現場がこの映画の核心で、お気に入りの男優見たさに見学に来ていた監督の娘も加わって、なんとか作品を完成させようと奔走する現場スタッフの奮闘ぶりが見せ場となる。

この作品の特徴は、完成したワンカット・ドラマを最初に見せ、後にその製作過程を見せるという倒叙形式になっていることだ。最初に生中継された映像をそのまま見せ、その後のメイキング・パートで、舞台裏側からもう1度ワンカット・ドラマの製作風景を見せるという形をとっている。

本来なら「無茶な企画のドラマが持ち込まれ、これをどう成功させるか」という時間軸に沿った展開の構成を考えるのが自然だろう。「生放送中、次々に起こるアクシデントで現場がてんやわんやする」という邦画では『ラヂオの時間』が思い浮かぶが、『ラヂオの時間』は進行形で展開しており、「放送を無事に終えることができるのか!?」という最大の緊迫感が、おもしろさを成立させていた。しかし『カメラを止めるな!』では倒叙形式をとったために、観客はワンカット・ドラマを観て「番組は無事に終了する」ことを知った上でメイキング・パートを見ることになる。どうなるか結末が判っているのだから、ハラハラドキドキ感はだいぶ薄れてしまうことになる。
そんなデメリットがあるのに、なぜわざわざ倒叙形式をとったのだろう? インパクトのあるシーンを冒頭に持ってくることで一気に観客をひきつけようという狙いがあったのだろうか? ゾンビ映画で緊迫感を盛り上げであとに、「本物のゾンビが襲ってくる」シーンも含めてドラマだったという種明かしをして意外性を演出するつもりだったのだろうか?
しかし、冒頭37分の「本物のゾンビが襲ってくる」という設定のパートで、監督(役)が画面に向かってカメラ目線で叫ぶシーン(添付画像の右上のシーン)があったり、画面(レンズフィルター?)に飛び散った血しぶきが拭き取られるシーン、役者とぶつかってカメラが転倒するシーンなど、意図的に「これも撮影されている映像(作り話)」であることを示すシーンが入っている。これによって「本物」の緊迫感はそこなわれ、観客は「どういうこと?」とプチ混乱に陥って、画面への集中力が落ちる心配がある。冒頭37分のドラマの中には不自然・不可解な「間」や場面がちりばめられていて、これが後のメイキング・パートで「そういうことだったのか」とわかるようになっているのだが、「《本物のゾンビ・シーン》もドラマだった」──という種明かしをするには、きわめて不適切なタイミングでのバレ演出はどうかという気がする。

『カメラを止めるな!』公式サイトではこの作品について《他に類を見ない構造と緻密な脚本、37分に渡るワンカット・ゾンビサバイバルをはじめ、挑戦に満ちた野心作となっている》と記しているが、《他に類を見ない構造と緻密な脚本》というのは、どうなのかな……と首を傾げたくなる。倒叙形式の作品は珍しくないだろうし、作品の中で劇中劇と現実を重ね合わる手法(三谷幸喜の『マトリョーシカ』など)も目新しいものではないはずだ。脚本で色々と工夫が盛り込まれているのはわかるが、不可解な部分や不充分な部分(ゾンビ・ドラマのラストシーンの意味付けが解りにくい等)もあって、《緻密》というには上手く処理できていない課題が残る脚本だった気がする。
《37分に渡るワンカット・ゾンビサバイバル》についても──映画で37分をワンカットで撮影するというのは、確かにすごい(撮る側は大変だ)とは思うが、純粋な観客からすれば、観ているシーンが何カットで構成されているかはどうでもいいことだろう。この「37分ワンカット」も実際は生中継ではないわけだから、失敗すれば撮り直しができる。また「37分ワンカット」といっても、内容はゾンビとの追いかけっこがほとんどとなり、特に難しい撮影だとは思えない。さらに生中継の番組はドラマの設定では実は「30分」ということになっている。しかし実際には「37分」かかっているので、7分もオーバーしているわけで、これが本当の生放送だったらアウトということになる。
ちょっと脱腺するが──海外ドラマの『ER 緊急救命室』では第4シリーズの第1話(45分)が(アメリカでは)生中継で放送されたという。狭い病院の中で大勢の役者が動き回り、カメラも彼らを追いかける。セリフも多く役者の動きも複雑なドラマをどうして生放送で行うことにしたのか不思議だが、あれこそ「挑戦」だったのではないかと思う。しかもその回は、東海岸(EAST)と西海岸(WEST)の時間差で1日に2回行われたという。比較するのは可哀想だが、それに比べれば『カメラを止めるな!』の、実際は生放送ではなく、7分も予定をオーバーしているワンカット・シーンが特に難しい挑戦であったとは思えない。

それでも、この作品を多くの人が称賛したのは、冒頭(ワンカット・ドラマ)の中で怒鳴りちらしていた「イヤなパワハラ監督」が、後半のメイキング・パートで本当は腰の低い「いい人」だったということがわかり、「殺伐としたB級ホラー」だと思って観ていたら、実は低予算で無茶を強いられている弱小映像制作クルーが力を合わせアクシデントをのりこえるという「いい話」だったことから、(嫌悪からの反動で)印象が好意的な方向に傾いたためではないかと思う。
また、撮影現場のてんやわんやの中で監督の妻が密かに望んでいた女優復帰がかなったり、監督の窮地を娘がサポートし、作品づくりを通して父娘の絆を再構築するといった「いい話」も盛り込まれている。映画の最後は無事に生中継を終えることができたスタッフ・俳優・監督家族らの笑顔が次々に映し出されるが、達成感と安堵が入り交じった表情に力を合わせて1つの作品を作り上げる映画愛のようなものが感じられ、観終わったあとの印象は良い作りになっている。

限られた予算(低予算)等の制約がある中で面白い映画を撮ろうチャレンジは誰もが応援したくなる。『カメラを止めるな!』も無名の人たちがそうしたチャレンジをし、この制約を逆手に取って「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」を描いた──ふつう低予算によるチープなつくりは欠点になりがちだが、この設定によって、チープな部分はドラマ上の必然となり、「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」にむしろリアリティを持たせる利点となっている。『カメラを止めるな!』が多くの人に好感を持たれたのは、奇抜さや構成などのテクニカルな部分ではなく、(弱小映画製作グループが「制約を逆手に取って」)「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」を描いたことを「アッパレ!」と感じた人が多かったからではないかという気がする。

一方、「評判なっているので観たが、どこが面白いのか全然わからなかった」という感想も、なんとなくわかる気がしないでもない。前半のゾンビ・ドラマ部分では、ゾンビ映画としてはありきたりでこれといった「見どころ」はない。メイキング・ドラマ部分でも、中継が無事に終わることはわかっているし、特に奇抜な仕掛けもなかった。「期待していた《何か》が起こらないまま終わってしまった」と感じたのではないか?
評判になっていることで、特別な仕掛け(?)があるのだろうと期待して観た人の中には肩透かしをくったような思いになった人がいてもおかしくないかもしれない。
評判にはなっているが、あまり過度な期待(?)をもって観ない方がいいのかもしれない。普通に観れば好感の持てる映画ではないかという気がする。

余談だが、『カメラを止めるな!』のDVDをレンタルするさいに、ハズレだった時の口直し用に『ジュラシック・ワールド』も借りてきた。『ジュラシック・ワールド』は「金がかかっているんだろうなぁ」と思いながら観たが、心に響くものはなかった。
『カメラを止めるな!』と『ジュラシック・ワールド』のどちらが面白かったかといえば、僕は躊躇無く『カメラを止めるな!』を挙げる。


●邦画の感想
映画『七人の侍』の巧みさ

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映画『生きる』について
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映画『ゼブラーマン』感想
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『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想
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久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』
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■エッセイ・雑記 ~メニュー~
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映画の誤記情報

『文学賞殺人事件 大いなる助走』で主人公が勤めていた会社名は?



さて、前記事(*)で紹介した邦画『文学賞殺人事件 大いなる助走』だが、この映画情報について気になったことがある。本作に関するいくつかのサイトを閲覧してみたところ、主人公・市谷京二(佐藤浩市)の勤め先がみな「大徳商事」となっていることだ。映画の中では「大徳産業」である(「商事」ではなく「産業」)。市谷京二が名刺を渡す場面でも「大徳産業の営業におります市谷と申します」と名乗っているし、会社の外観シーンではちゃんと「大徳産業」の社名が映っている。


原作の小説『大いなる助走』でもこの設定は同じで、「大徳商事」ではなく「大徳産業」となっている。誤記というのはありがちだが、どうして同じ誤記があちこちで見られるのか不思議に思った。

今回購入した『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDには「劇場用パンフレットの縮尺再編集版」が封入されていたが、この中にあらすじを紹介したページがあって、市谷京二の勤め先が「大徳商事」と記されていた。「縮尺再編集版」を作る過程で誤記が起こったとは考えにくいから、公開当時の「劇場用パンフレット」の時点ですでに誤記があったのだろう。これが色々なところで引用されて誤記が拡散したと考えると合点がいく。
映画情報というのは、劇場用パンフレットを公式情報(?)として引用することになっているのだろうか? 

それにしても、今回のHDニューマスター版DVDのリリースは公開されてから30年ほど経ってる。当時のパンフレットに誤記があったことは多くの人がとっくに気づいていただろうに、どうしてこの機会に訂正することができなかったのか……やはり不思議な気がする。

映画情報の中には、他にも同じように劇場用パンフレットの誤記が引き継がれ、公式情報(?)となっているものがあるのだろうか?


久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』

最近リリースされた30年前の『文学賞殺人事件 大いなる助走』DVD



筒井康隆の小説『大いなる助走』を映画化した『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDが今年の5月にリリースされていた。鈴木則文監督によるこの映画が公開されたのは1989年1月28日(Wikipedia情報)だそうで、DVDジャケットにも「©1989アジャックス」と記されている。しかし、本編では最後の「大いなる助走」と記されるシーンで「©1988 AJAX」とスーパーが入っている──こちらの方は製作された年ということなのだろうか? ジャケットと本編で©の年が違っているのが、ちょっと気になった。

作品の概要は──、
主人公・市谷京二(佐藤浩市)は地方都市の大企業「大徳産業」に勤めるエリートサラリーマン(※DVDジャケットの【ストーリー】やWikipediaの【あらすじ】では「大徳商事」と記述されているが、映画・原作ともに「大徳産業」が正しい)。地元の同人誌「焼畑文芸」を拾ったことがきっかけでこのグループに入り小説を書き始めることになるのだが……初めて「焼畑文芸」に掲載した『大企業の群狼』(※Wikipediaの【あらすじ】では「大企業の群像」と記されているが「大企業の群狼」が正しい)が、中央の文芸誌「文學海」に取り上げられ話題となる。そしてなんと権威ある「直本賞」の候補作品になってしまう。しかし、この作品は大徳産業の内幕を暴露したもので、顧問を務めていた父や大徳産業の後ろ盾で市議会進出を企てていた兄は激怒。会社はクビとなり勘当されてしまう。同人誌仲間には妬まれ、居場所を失った市谷京二は上京。なんとしても「直本賞」をとって文学で身を立てねばならない……追いつめられた市谷京二は直本賞世話人(受賞請負人)多聞伝伍(ポール牧)の助けを借り、全てを投げ打って受賞のために奔走するが、直本賞の選考は二転三転して落選。市谷京二は怒りにまかせて、自分を落選させた直本賞選考委員たちを次々に殺して回るという私怨作品『大いなる助走』を書くが……それまで面倒見がよかった雑誌編集者たちからも冷たく見放されて、書いたことを実行して行く。

原作の『大いなる助走』を書いた筒井康隆氏自身が「直木賞」の候補に3回選ばれながら受賞していない経緯もあって、連載当時は注目され、色々物議をかもしたらしい。編集部に「あの連載をやめさせろ」と怒鳴り込んで来た文壇の長老もいたとか。今回HDニューマスター版DVDでは特典として筒井康隆氏と鈴木則文監督の対談映像(2002年収録)が収録されているのだが、この「怒鳴り込んで来た文壇の長老」のエピソードについても触れられている。実名を伏せて話している最中に、つい筆名を言ってしまうというハプニング(?)もあった。また、筒井氏は映画にもSF作家の役で出演し、文壇バーで暴れるシーンを演じている。

エンドロールの同人誌にビックリ

僕が初めて『文学賞殺人事件 大いなる助走』を観たのは1992年12月25日深夜(正確には26日未明)。TBSテレビで放送されていたものだった。原作の『大いなる助走』は読んでおらず、予備知識なしに視聴していた。僕もいくつかの同人誌活動を経験していたので、同人誌やアマチュア文学家にありがちなエキセントリックな言動・ディテールに「あるある・ありそうだなぁ」と共感しつつ引き込まれていた。権威ある直本賞の選考委員を皆殺しにするというスゴイ展開になってしまうわけだが、僕が一番驚いたのは、最後のエンドロールを眺めていたときだった。エンドロールでは全国から集めたと思われるたくさんの同人誌が次々に映し出されるという演出があって、これには圧倒感があった。今ではブログやSNS、YouTubeなどでアマチュアが不特定多数の人たちに自由に発信できる場があるが、当時はアマチュアが自分の書いたものを世間に発表する場はほとんどなく、時間・労力・お金を費やし、苦労して作った同人誌に載せるくらいしかなかった。しかし読むのは大抵関係者で一般の読者の手に渡ることは少なく、そういった意味では苦労の割に報われることが少ない媒体だった。その1つ1つにアマチュア作家達の夢や執念が込められた同人誌が次から次へ画面に映し出され、「焼畑文芸」のように日の目を見る事が少ないアンダーグラウンドの活動が実際に数知れず存在することを物語っていた。
その同人誌が次々に映し出されていくエンドロールの最初の方で、見覚えがある表紙が……僕が描いた図案が、いきなり目に飛び込んできた。僕も参加していたことがある「MON48」という同人誌の第3号がそれで、知らずに観ていた映画の中に突然親しい友人が登場したかのような驚きを覚えた。


「MON48」について触れておくと──、朝日カルチャーセンターの中の講座のひとつ「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」の受講生による同人誌。受講生の中には既に商業出版している人、プロとして活動している人も何人か含まれていた。受講の成果として(?)受講生たちが書いた作品を集めて同人誌を作ろうということになって誕生したのが「MON48」だった。誌名は、この講座が毎週月曜日(MON)・新宿住友ビルの48階の教室で開かれていたことに由来する。誌名は皆で候補を出し合った中で僕の案が採用された。表紙も僕が描くことになったのだが、翼を広げたペンが新宿住友ビルから飛び立つ──といった図案になっている。

朝日カルチャーセンター由来の同人誌MON48が映画『文学賞殺人事件 大いなる助走』の最後に登場したわけだが、映画本編の中にも「朝日カルチャーセンター」を「朝目カルチャーセンター」ともじってでてきた部分があった。直本賞世話人(受賞請負人)多聞伝伍(ポール牧)が市谷京二のライバル候補者について技術的には稚拙だと評すシーンがある。そこで「朝目カルチャーセンターで小説作法を学んだ程度だからな」なんてセリフがでてくる。



『文学賞殺人事件 大いなる助走』の本編とは別の話になってしまうが……初めてこの映画を観た時は、「MON48」がいったいどういう経緯でエンドロールに登場したのだろうかと不思議に思った。「MON48」のメンバーには同人誌発行に尽力したH女史がいて、彼女の師匠である団鬼六氏がこの映画に地方文壇の名士・萩原隆役で出演している──そのつながりで「MON48」が渡ったのだろうかとも想像したが、エンドロールで映し出された同人誌は文藝春秋社が提供したものだったらしい。
エンドロールで流れた「MON48」を見て(これは第3号だったが)、第4号(1988年)に《H女史が直木賞を辞退しMON48賞に選ばれて驚喜する》という掌篇コントを載せたことを思い出した。これは埋め草として僕が書いたものだが、もちろん当時は「MON48」が「直木賞」をネタにした映画のラストに使われようとは想像もしていなかった。
余談だが、「MON48」創刊号で発表した僕の『ねこにかかったでんわ』は後に単行本として商業出版されている。



『文学賞殺人事件 大いなる助走』本編とは直接関係のない、あるいは他の人からすればどうでもよい個人的な事を長々と記したが、「MON48」ひとつとっても当事者にとっては色々あるわけで……エンドロールで流れる膨大な同人誌──その1つ1つに同じような色々思いを馳せる関係者がいるだろうということだ。そうした同人誌の世界があるということを踏まえて『文学賞殺人事件 大いなる助走』を観ると、また一段と味わい深い気がする……。

この映画を最初に見た時は録画しておらず、それを悔やんだものだが、その後フジテレビの深夜枠で放送されたものをビデオ録画──しかし残念ながらそれはオリジナル(129分)より15分程短いカット版だった。ノーカット版が欲しくてネットで検索してみたこともあったのだが、当時はDVD化されていないかったようだ。そんなわけで、今年になって『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDが出たことを知り、購入して久しぶりに完全版を鑑賞することができた。やはり映画の内容だけでなく、同人誌にまつわる色々なことが思い起こされる……。随所にコミカルな演出がほどこされていて面白かったが、はたから見れば徒労・不毛な努力を続ける人・続けざるを得ない人たち──そうした同人誌作家たちの物語として観ると滑稽さだけでなく、やるせなさも伝わってくる。
久しぶりに鑑賞して、当時の同人誌活動の感覚というのは、インターネット世代にはちょっとわからないのではないか……という気がした。昔はアマチュアが作品を発表する場がほとんどなく、自分が書いたものを他の人たちに読んでもらおうとすれば苦労して同人誌を作るくらいしなかった……そんな時代に比べ、今では誰もが手軽にブログやSNS、YouTubeなどで全世界に向けて情報を発信できる。ブログを始めて「あのときの努力は何だったのか?」と思ったりしたものだ(*)。
もちろん同人誌はインターネット以降も作られ続けるだろうが、その意味合い・実感は昔とはずいぶん違ってきているのではなかろうか……。そうした時代感も含めて『文学賞殺人事件 大いなる助走』は味わいのある作品だと改めて感じた。