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ロアルド・ダール:キス・キス❲新訳版❳収録作品&感想

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『キス・キス❲新訳版❳』(早川書房)のカバー表紙と裏表紙の内容紹介⬆

ロアルド・ダール『キス・キス❲新訳版❳』収録作品&感想
少し前に読んだ短篇集『あなたに似た人❲新訳版❳』に続いて、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス❲新訳版❳』(田口俊樹:訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)を買って読んでみた。収録作品は11編で、次の通り。

女主人
ウィリアムとメアリー
天国への道
牧師の愉しみ
ミセス・ビクスビーと大佐のコート
ロイヤルゼリー……
ジョージー・ポージー
始まりと大惨事──実話──
勝者エドワード

世界チャンピオン


それぞれの作品について収録順に感想を記していくが、あらすじ・ネタバレを含む内容となるので、そのつもりで──。

■女主人
17歳の新人ビジネスマン・ビリーが出張先の町で宿泊先に選んだのは「B&B(お泊りと朝食)」の表示板を出していた下宿屋だった。窓からのぞく室内のインテリアやカーペットの上で眠る犬、鳥かごの中のオウムなどを見て快適そうだと感じたからだ。待ちかねていたように現われた下宿屋の女主人は、中年の、ちょっと変わっているが、やたらと愛想がいい婦人だった。ビリーは宿帳に記帳するさいに、そのページに記されていた2つの名前に見覚えがあるように感じる。妙なことに、その記帳日付は2年以上も前のものだった。
女主人が用意した〝ほんのりとアーモンドの苦味〟がする紅茶を飲みながら話しをするうちに、ビリーは宿帳に記されていた名前を新聞で読んでいたことを思い出す。徒歩旅行中に失踪した若者ではなかったか? 女主人とのおしゃべりの中で、宿帳にあった2名がビリーと同じくハンサムな若者だったこと、窓から見えたオウムや犬が実は見事な剥製であったこと、可愛いペットが死ぬと彼女自身が剥製にして残していることなどが、明らかにされていく。
要するに、ビリーはこの女主人に気に入られ、青酸化合物入りの紅茶を飲まされて、オウムや犬、失踪した青年たちと同じ運命をたどることになる──ということが、言外にわかるように描かれている。

この作品を読んだとき、ヒッチコック映画の『サイコ』や阿刀田高・作『ナポレオン狂』が頭に浮かんだ。〝人間を剥製にする〟というショッキングな着想が共通している。もちろんこれらは全く違う作品で、それぞれに独自の工夫・趣向が凝らされている。『サイコ』では〝人間の剥製〟という衝撃的アイディアのみならず色々なアイディアが盛り込まれ、サスペンス仕立ての演出も素晴らしい。『ナポレオン狂』は2つの全く違うナポレオンマニア(?)の話を最後に意外な形で融合させるという(『女主人』よりも)複雑な構成になっている。一見〝凝りぐあい〟からすると『サイコ』や『ナポレオン狂』が勝っているようにも見えるが、シンプルな着想をムダなくスマートにまとめた『女主人』にも洗練された美しさを感じる。この3作品にはいわゆる《奇妙な味》が漂っているが、ヒッチコックや阿刀田高は、着想の意外性を「あっと驚く」鮮烈な演出で描いているのに対し、ダールは「あっと驚く」というより、「じわじわわき上がってくる違和感→驚き(怖さ)」を描いているといった感じ。ヒッチコック作品や阿刀田作品では〝人間の剥製〟という着想を読者に気づかれないように隠しながら展開し、それが明らかにされるシーンで「あっと驚く意外性」と「そうだったのか!という必然性(整合性)」が結びつく──観客・読者を《驚きを持って納得させてしまう》というスタイルをとっているが、ダールの『女主人』では、明確な「種明かし/読者を驚かせる」というシーンは無い。伏線(ヒント)を少しずつ織り交ぜた展開の中で、どの時点でビリーが〝クモの巣に掛かった獲物〟だと気づくか──これは読者によって違いがありそうだ。ビリーが飲んだ紅茶にアーモンドの風味を感じた箇所なのか、オウムや犬が剥製であったと気づくところか、あるいは宿帳の奇妙な点に気づいた段階で、ある程度の方向性を察知する読者もいるだろう。明確な「見せ場」「種明かしのシーン」をあえて設けずに、しれ〜っと終わる……読者は読み進むうちに、行間から漂う真相に気づいてゆき、それに気づかぬ主人公ビリーをハラハラしながら(?)あるいは哀れみながら見守る──という読み方になる。こういう演出に〝ダールらしさ〟があるのではないかと感じた。

■ウィリアムとメアリー
心臓が止まったあとに、脳と片目だけを生かし続けるという奇怪なSF的着想で描かれた作品だが、その設定に付随するSF的テーマとは別次元の──老夫婦間の「それまでの主従関係が、逆転する話(仕返し)」が作品の主題になっている。夫唱婦随の時代は特にそうした夫婦関係がありがちだったのだろうが──気難しい夫(ウィリアム)の視線を気詰まりに感じ続けていた妻(メアリー)が、そのストレスから解放され、「あら探しをしたり小言を言うことができなくなった夫(脳と片目だけになったウィリアム)」を見下ろして、逆にストレスを与えられる立場になったことに嬉々とする結末──精神的優位性が逆転するという話なのだが、この「仕返し話」を描くのに、大がかりなSF的設定を用いたのは、そぐわない気がした。ウィリアムの遺言で《脳と片目だけを生かし続ける》ことがどういうことなのか詳しく長々と語られており、読者の関心はとっぴなSF的興味に誘導されることになる。ところが、読み終えてみればこの作品の核心は《老夫婦に常態化していたストレスと仕返し》であって、複雑で大げさなSF的着想を持ち込み、散々説明てしおいて、「書きたかったのは、そこなのかよ」といった印象が否めない。
被験者になることを激しく嫌悪していたウィリアムが一転してそれを受けいる気になったあたりの心境の変化に無理を感じた。

■天国への道
ミセス・フォスターは、時間に遅れることをひどく恐れる強迫観念の持ち主で、いつも早め早めに行動しないと安心できない性格だった。ところが夫は、(妻が反抗できない性格であることを知った上で)わざとのんびりとふるまって、いつも妻をやきもきさせる意地の悪いところがあった。
ニューヨークの大邸宅に4人の使用人とともに暮らしているフォスター夫妻にはパリに嫁いだ一人娘がいて、孫も3人いたのだが、夫がニューヨークを離れることを嫌ったため、ミセス・フォスターはまだ孫たちに会えずにいた。それが彼女の念願が叶ってフランスで6週間孫たちと過ごすことが〝奇跡的に〟夫から許可され、ミセス・フォスターはこれを何より楽しみにしていた。妻の旅行中、夫は使用人に休みをとらせ、自分はクラブに移ることになっていた。しかし出発当日には妻を空港まで見送ると言って車に同乗することに──そして、例によって出発しなくてはならない時間になっても彼女をじらすという、いつもの行動にでる。飛行機搭乗に間に合わなくなると気をもみ、オロオロ・ハラハラするミセス・フォスターのようすがよく描かれており、ミセス・フォスターは絶体絶命のピンチ──日常を舞台とするサスペンスといった緊張感が伝わってくる。ようやく空港に到着すると、予定していた便は霧のためフライトが遅れ、結局翌日に延期となる。疲れ果てた彼女は翌日もふたたび夫の〝拷問〟に苦しめられることになる。飛行機に乗り遅れることを恐れて気が気ではないのに夫はのんびりしていて、一度は車に乗ったものの、再び部屋へ引き返してしまう。ミセス・フォスターは夫を呼び戻すため家の前まで行くが、ドアの前で突然動きを止める。ドア越しに聞き耳を立てていた彼女は家には入らず車に戻って、「間に合わないから夫は置いていく」と運転手に出発を命じる。
ミセス・フォスターは無事にフランス行きの便に間に合い、娘や孫たちとの6週間を満喫して、別れる時には遠からずまた会えるような態度を示していた。ニューヨークの家に戻ったミセス・フォスターは、閉ざされていた家の中に漂う異臭に気がつく。エレベーターが2階と3階の間で止まっていることを確認すると彼女は修理を呼ぶ……。
ハッキリとは書かれていないが、ミセス・フォスターにとってストレスの元凶であり、娘や孫たちと会うことの障害となっていた夫が、6週間前、エレベーターに閉じ込められるというハプニングみまわれ、それを察知した彼女が〝意図的に事故に気づかずに出発した〟ことが読者にわかるように描かれている。
これも『ウィリアムとメアリー』同様《老夫婦の常態化したストレスと仕返し》の話。

《夫がエレベーターに閉じ込められた》という具体的な状況については最後に明かされるわけだが、ミセス・フォスターが夫を置いて空港へ向かう場面で《何か異変があった》ことは読者にわかる。その後の彼女のようすから、ミセス・フォスターが帰った時には夫は亡くなっているのだろうということも想像がつく。このため《結末の意外性》は弱まり、いささか物足りなさが残った。ミセス・フォスターが〝事故〟に気づくシーンを読者に悟られない処理──ダブル・ミーニングやミスディレクションでカバーできていれば、結末のインパクトはもっと大きかっただろうに……もう少しなんとかできなかったか……と残念に思ってしまう。
ただ、ダールは結末の驚きを演出する意図はなかったのかもしれない。彼が書きたかったのは《妻の仕返し》だったのだろう。ダールの「仕返し話」を読んだことがある読者なら、展開の方向は予測可能だろうから、あえて《オチを隠す》演出をしようとは考えなかったのかもしれない。
はたから見ればとるに足らない些細なこと(時間に遅れること/夫の些細な?意地悪)が、当人にとっては大いに心を乱すこと──ミセス・フォスターの人知れない内面のストレスや葛藤をリアルに緊迫感をもって描かれている点が面白かった。おそらく多くの人が日常の中で感じているだろう些細な(?)ストレスを拾い上げ、非日常的なエピソードに昇華させたところにこの作品の魅力を感じた。

■牧師の愉しみ
家具の骨董商ミスター・ボギスは日曜になると牧師になりすまして地域の農家をまわり、〝お宝〟を発掘しては、無知な相手を騙して安く買い叩き、客には言葉巧みに高額で売りつけるという商売を楽しんでいた。
この〝牧師の愉しみ〟の活動中、大した期待をかけずに訪れた薄汚い家で、ボギスは思いもかけなかった超激レア物件を見つけて驚嘆する──現存する18世紀のイギリス家具の中で最も有名な<チッペンデールの飾り箪笥(コモード)>と呼ばれる物だった。これを手に入れることができばボギスは大金持ちになり有名にもなれる。ボギスの交渉相手──カモにすべく標的となった3人組は、無知ではあったが警戒心が強く疑り深く、ずる賢い連中だった──それもそのはず(?)、彼らは短篇集『あなたに似た人』にも登場していて、そのうちの1人クロードは『クロードの犬』でイカサマドッグレースで一儲けを企み、本短篇集『キス・キス』でも『世界チャンピオン』で密猟の悪巧みを企てている人物だった。このずる賢い者同士の対決──交渉の駆け引きが見どころとなっている。
ボギスが安く買い叩くために、飾り箪笥を「かなり出来の悪い模造品」とした上で、その脚が自宅のテーブルに付け替えるのにはうってつけだと思いついたように買う気を臭わすと、3人組はすぐに食いついて、これを牧師に売りつけようとする──抜け目なく、少しでも値をつりあげようと抵抗するが、偽牧師は「欲しいのは脚だけ/枠組みは薪にしかならない」と乗り気でない態度に転じる。そして駆け引きの末、ボギスは、1万5千ポンド〜2万ポンドの値打ちがある〝お宝〟を、たった20ポンドでまんまと手に入れる商談を成立させる。
してやったりと内心有頂天のボギスは、〝お宝〟を運ぶために車をとりに行く。彼は、牧師に似つかわしくない大型ステーションワゴンに乗ってきたことを知られるのを警戒して、車を少し離れた所に置いてきていた。
ボギスが車をとりに行っている間に、猜疑心が強い3人組は、牧師の気が変わるのではないかと心配をはじめる。大きな飾り箪笥が「車に積めない」ことを口実に取引を反古にするのではないかと疑い始め、それなら牧師が乗るような小さな車にも「積めるように」と牧師が欲しがっていた脚を鋸で切り離してしまう。更に、欲しがっていた脚を手に入れた牧師が、不要になった本体を「車に積めないから」と置いて行き、そのぶん値切ろうとすることを警戒して、「薪にしかならない」本体も「積めるように」斧で解体してしまう……。

希少で高価な骨董家具が発見されながら、ボギスと3人組の欲深さによって台無しにされてしまうという、なんとも無惨な結末……策士が策におぼれて目の前で大きな魚を釣り落としてしまう──という皮肉な話でもある。

おもしろい作品だったが……ボギスが飾り箪笥を買いたたくために、「欲しいのは脚だけ」と言いだしたところで、「分解されるというオチになるのだろうなぁ」と結末が読めてしまい、その通りになった(それ以上の《ひねり》がなかった)ことに、やや物足りなさを感じないでもなかった。
僕は「アイディア・ストーリーを読む」のは「マジックを見る」のと同じで、「トリックを見破ってやろうと疑ってかかるのではなく、作者・マジシャンの誘導を受け入れ、自然に鑑賞するのが望ましい」と考えている。もちろんどんな鑑賞の仕方をしようと、それは読者・観客の勝手なわけだが、作者やマジシャンはその《アイディアやトリック》を最も効果的に演出できる展開を準備している。その案内にしたがってめいっぱい堪能するのが、最も楽しめる鑑賞姿勢というものだろう。だから、作者の企みを先回りして暴いてやろうという読み方は好まない。それでも、読み進む中でオチが見えてしまうことがあって、そうなると、せっかくの《意外性》も、インパクトが薄れ、予定調和ということになってしまう。
オチの構成要因として「欲しいのは脚だけ」という伏線は必要だったともいえるわけだが……読者にオチ(意外性)を察知されないような工夫があったら良かったのに……と思わないでもなかった。

また、この作品はニセ牧師・ボギスの視点でずっと描かれていながら、3人組と交渉がまとまり、ボギスが車をとりに行くところから、3人組の視点に変わる。普通なら、ボギスの視点を貫き、有頂天の絶頂で戻ってきたボギスが、無惨に解体さされた〝お宝〟を目の当たりにして愕然とする姿を描いて、オチのインパクトを演出しそうなものだが、ダールは「有頂天のボギスが知らないうちに、〝お宝〟が崩壊して行くようす」をつぶさに記し、ボギスが戻ってきたところで──ボギスが惨状を目にする直前で幕を閉じている。はたしてボギスはどのような反応を示すのか……壮絶な見せ場をあえて書かず、読者に想像させることで、余韻を演出する趣向が感じられる。
ダールとしては《意外なオチ》としてのインパクトを演出するより、悲惨な状況に至るさまをつぶさに描いて行くことにおもしろみを見いだしていたのだろう。その上で《肝心なところは(作者が)語らず、読者に想像させる》──このあたりにダールのユニークな感性&美意識を感じる。

この作品を読んで頭に浮かんだのが、『猫の皿』という落語。概要は──古美術商の男が立ち寄った茶屋で、猫がエサ皿に使っているのが高価な名品であることに気づく。男は無知な茶屋の店主からこの皿を安く手に入れようと画策し、猫をゆずってくれと申し出る。3両で猫をひきとることになり、男が「猫は皿が変わるとエサを食べなくなるから、皿も一緒にもらっていく」と言うと、店主は「これは捨て値でも300両もする名品だから売るわけにはまいりません」と断る。古美術商の男は驚いて、「名品と知っていて猫のエサ皿に使っているのか」といぶかると、店主いわく「こうしておりますと、時々猫が3両で売れます」──というもの。
《古物の仲買人が掘り出し物を見つけ、相手の無知につけ込んで買い叩こうとして失敗する話》としては『牧師の愉しみ』とよく似ている。
『牧師の愉しみ』では、買い叩くために利用した「相手の無知」がはからずしも金儲けを台無しにするという皮肉な結末であるのに対し、『猫の皿』では相手の方が1枚上で、《高価な皿を安く手に入れようとして、逆に猫を3両で買わされてしまう》という逆転の意外性が切れ味の良いオチとなっていて、スマートにまとめられている。着想はよく似ているが、演出や味わいにはずいぶん違いがある……これが作者の個性というものなのだろう。

■ミセス・ビクスビーと大佐のコート
冒頭部では、アメリカでは女ばかりが良い思いをして男は損な役回りばかり強いられているというようなことが並べ立てられ、しかしながら「夫が怪物のごとき配偶者に一矢報いることもある」として『ミセス・ビクスビーと大佐のコート』のエピソードを既知の実話と前置きしている。
作品冒頭で「夫が怪物のごとき配偶者に一矢報いる」内容であることを明かしてしまうのは興ざめ行為ではないか……という気もするのだが、このあたりもダールの感性のユニークなところなのかもしれない……。

平均的な歯科医の妻ミセス・ビクスビーは大金持ちの大佐と浮気をしていたが、あるとき大佐から「お別れのプレゼント」として6千ドルもしそうなミンクのコートを受け取る。ミセス・ビクスビーはこの贈り物をたいそう気に入ったが、見るからに高価なミンクのコートを着て帰るわけにはいかないことに気づく。夫の目にとまれば「どうしたのか?」と尋ねられないわけが無いし、問われて「浮気相手にもらった」と言えるはずも無く、説明のしようがない。しかしミセス・ビクスビーはミンクのコートを手放す気にもなれず、なんとかこれを自分の物にできないかと思案する。
彼女は家に帰る前に質屋へ寄って、ミンクのコートを質草に50ドルを借りて、名前・住所・品目を空欄にしてもらった質札を受け取る(この質札を持参すれば50ドルでミンクのコートを請け出せる)。
ミセス・ビクスビーは帰宅すると夫に、質札を見せ、「拾った」と報告する。夫はそれが質札で、これを持ってそこに記されている質屋へ行けば、500ドル以上の価値がある質草を50ドルで手に入れることができると説明し、夫婦で喜ぶ。それが男性用のものであれば夫へのクリスマスプレゼントに、女性用のものであればミセス・ビクスビーへのクリスマスプレゼントにするということが話し合われ、請け出しには仕事場へ行く途中に夫が寄ることになる。

(読んでいて、高価なものをネコババすることに2人ともまったく抵抗を示さないない道徳観には、ちょっと驚いた)
夫を送り出した1時間後、仕事場の夫から電話があり、請け出した質草が「とびきり素晴らしいものだった」と知らされたミセス・ビクスビーは、夫の手があく昼過ぎに彼の仕事場へ出向く。
そこで「本物のミンクだ!」と夫から見せられたのは、コートではなく〝まぬけな毛皮の襟巻〟だった。ミセス・ビクスビーは衝撃を受けるが、喜ばないわけにはいかない。表面上は喜ぶふりをしながら、腹の中は煮えたぎり「あの質屋、ぶっ殺してやる」と怒り心頭。これから真っすぐ質屋に行って、この襟巻きを叩きつけ〝彼女のコート〟を取り返してやると意気込んで診察室を飛び出す──そのミセス・ビクスビーが見たものは、昼食に出かけようとしていた夫の秘書兼助手が優雅にまとっていた〝彼女のコート〟だった。

最後の《意外性のある鮮やかな結末》の部分──ミセス・ビクスビーはコートをくすねたのが質屋だと思い込むが、じつは夫が愛人のためにくすねていたことが発覚するというオチは着想として素晴らしい。ただ、冒頭で「夫が配偶者に一矢報いる」内容であることをバラしており、「この話の結末を大いに愉しめるはずだ」とまで記しているので、読者は、夫が毛皮の襟巻きを見せた時点で「夫の仕業」だとわかってしまう。これは大きな失態だろう。
本短篇集の他の作品を読んできて、「ダールという作家は、オチの意外性を鮮やかに演出することにこだわらない」と解釈していたが、この、どうみても失態としか思えない構成をわざわざとっているのが解せない。ひょっとしてダールは「意外性の演出にうといのではないか……」といぶかってしまう。《短編の名手》といわれるほどの作家なのだから、まさかそんなことはないだろうが……冒頭でオチのキレをそこなうネタバレをわざわざやっている意味が理解できない……。

ただ、問題のある冒頭の前置き部分をのぞけば……ストーリー展開、アイディアとその演出はきれいにまとまっていてみごとである。本短篇集の中で、僕が考える作品の理想に一番近い形だった。《作者のたくらみ》を巧みに隠し、最後に意外なオチで鮮やかに決める──この洗練されたスマートさは他のダール作品とは少し違う……あか抜けた印象があった。
このスマートにまとめられたアイディア&構成がダールのオリジナルかどうかはわからない。というのも、冒頭では、このエピソードが既知の実話であると前置きされているし、「訳者あとがき」によれば『ミセス・ビクスビーと大佐のコート』が発表される3年前に、これと同じアイディアのフランス映画があったらしい。すでに完成された小話があって、その骨子を参考にしたことで、〝他のダール作品とは少し違う〟印象になったのかもしれない。

■ロイヤルゼリー
ミツバチに魅入られた養蜂家のアルバート・テイラーは20歳でメイベルと結婚し、9年かかってようやく子宝に恵まれた。ところが、この赤ん坊はミルクをなかなか飲もうとせず、メイベルを心配させる。医者は悪いところは無いと言うのだが、赤ん坊の体重は減っていくばかり……メイベルはノイローゼ寸前の状態だった。
そこでアルバートはミツバチが女王蜂を育てる特別栄養食──ロイヤルゼリーをミルクに混入させて与えることを試みる。ミツバチの女王蜂と働き蜂を分けるのは、ロイヤルゼリー──これだけを与えられて育った幼虫は成長著しく、1日で自分の体重ほどの卵を産む女王蜂になることができる(一方、蜂蜜や花粉をエサに育てられた他のメスは全て生殖能力の無い働き蜂になる)。ロイヤルゼリーの絶大な栄養効果を期待してのことだった。
ロイヤルゼリー入りのミルクを与えると、赤ん坊は一転して食欲旺盛になり、体重も急激に増え始める。安堵し喜ぶメイベルだったが、アルバートがミルクにロイヤルゼリーを混入させたことを知ると激高して夫の行為をなじる。アルバートはロイヤルゼリーの栄養効果や無害であることを──ロイヤルゼリーを与えたことで、ラットのメスの卵胞成長速度が促進したり、オスの繁殖能力が復活したという動物実験や人が摂取した報告例などをあげて妻を安心させようとする。

そして最後にはアルバート自身がロイヤルゼリーを大量に摂取したが無害だったことを明かす。ラットのオスの繁殖能力が復活したのだから、何年もの間子宝に恵まれずにいたアルバートにだって効くはずだ──そう考えて実行した結果、この赤ん坊を授かったのだった。
この赤ん坊がロイヤルゼリーの力によって誕生したのであれば……通常のミルクを飲もうとせず、ロイヤルゼリーを欲していたのも合点がいく!? 女王蜂の幼虫のように急激に体重を増やした赤ん坊の体型は、ハチの幼虫を思わせるものになっていた……。

ロイヤルゼリーの効能を期待する健康・美容方面の商品があることは僕も知っていたから、《ロイヤルゼリーを人に与える》という着想自体には新鮮味が感じられず、また実際に飲んでいる人もいるのだから、奇怪な効果があるとも思えなかった。
ただ、《作者のたくらみ》として、「赤ん坊にロイヤルゼリーを飲ませる話」として展開し「実はアルバート自身も飲んでいた」という話にシフトする意外性──《作者のたくらみ》はおもしろい。
生まれた赤ん坊に「悪い所が無いのにミルクを飲まない」という不可解な点があったことも、父親経由のロイヤルゼリーの影響だと考えれば「なるほど、そうだったのか」と腑に落ちる。赤ん坊がロイヤルゼリー入りのミルクをむさぼるように飲むことも……。

もっとも赤ん坊にロイヤルゼリーを与えるという着想はビミョ〜だ。「腸内環境が未成熟な赤ん坊にハチミツを与えてはいけない」というのは周知のことだが(乳児ボツリヌス症のリスクがある)、ロイヤルゼリーは大丈夫なのか?──読んでいく過程(赤ん坊がロイヤルゼリーを必要とする?ことが明らかにされていない時点)では、ちょっと引っかかった。ミツバチのスペシャリストであるアルバートが、このリスクに言及せず、手放しで赤ん坊に飲ませても安全だと説明しているのは、おかしいと感じた。

あと、気になったのは最後の赤ん坊を描写した箇所──、


赤ん坊は裸でテーブルの上に寝ていた。丸々と肥えて、色白で、熟睡しているその姿は巨大な幼虫を思わせた。幼虫の段階もそろそろ終わりに近づき、大きな顎と翅を備えた成虫になって世界へと飛び立つ日を間近にひかえた、そんな幼虫を。

セミやカメムシなどは幼虫から成虫が脱皮(羽化)するが、ハチは幼虫と成虫の間に蛹の期間がある。ダールは蛹を飛ばしているが……《その姿は巨大な幼虫を思わせた》と表現しているのは、実は(幼虫ではなく)《蛹》のことではないだろうか? 作品の中でミツバチの生態について詳しく描かれているのだから、ダールが「ミツバチには蛹の期間がある」ことを知らないはずは無い。もしかすると原文には幼虫と蛹を区別しにくいワードが使われており、その為に発生した翻訳ミス(?)だったのかもしれない?

■ジョージー・ポージー
《作者のたくらみ》がどこにあるのか、わかりにくい作品。読み進む上での興味の置き所がどこにあるのか定まらず、とっぴな展開も《先が読めない》だけで、《(予想を裏切る)意外性》としての面白さは感じられなかった。

ダールの創作プロセスを想像するに……まず《女性を苦手とする牧師が女たちに追いかけまわされて難儀する話》を思いつき、これなら皮肉を盛り込んで面白く描けるのでははないか考え、この設定にふさわしい人物像を作り上げ、イメージをふくらませていった……のではないか。
《女性が苦手なストイックな牧師》の設定に個性的なリアリティを持たせるために幼少期のトラウマ──ウサギの子殺しと母親の死を絡めたショッキングなエピソードを考えた……この《情愛と戦慄がリンクしてしまうエピソード》が本作の創作上の工夫の1つだったろう。
もう1つの工夫──《作者のたくらみ》が、「欲求不満の女性たちに追いかけまされる牧師」の視点で描かれている話が、「実は、欲求不満の牧師の妄想」だったという仕掛けだったのだろう。「欲求不満だったのは女たちではなく牧師の方だった」という《逆転の構図》という意外性なわけだが……これも明確にわかるような箇所(種明かし)を設けて書かれているわけではないので、読者にはわかりにくいし、だからキレもない。

女性に呑み込まれる妄想シーンは、幼少期のトラウマと繋がり、イメージ豊かに描かれてはいるのだが、話がどこに向かっているのか、作品の構図を把握できずにいる読者には、戸惑い半分で、充分に感情移入して作品にのめり込むことが難しかったろう。

主人公の牧師は、最後には精神に破綻をきたしてそれ用の施設に収容されてしまうことになるが、あわれな牧師は自分を哀れむ医師を逆に哀れみ、「気を落とすことはありません。聖書にも書かれているように、心を癒すお薬はいつだってどこかにあるものなんですから」と声をかける皮肉なシーンで幕を閉じている。
ダールらしい皮肉は感じられるものの、全体の印象としては、しょっぱい作品になってしまったというのが僕の感想。

僕にはタイトル『ジョージー・ポージー』の意味が最後までわからなかったが、「訳者あとがき」によれば、マザーグースからとったものらしい。マザーグースは《ナンセンスもの》らしいから、この作品も《ナンセンスもの》として書かれたものだと考えると、納得できなくもない?

■始まりと大惨事──実話──
健康な男児を産んだばかりで、その子が〝また〟死ぬのではないかとの不安に取りつかれてパニくる薄幸な母親。彼女はこの1年半の間に3人の子どもを亡くしており、産まれてきた男児はきっと4人目になると悲観している。
可哀想な母親を医者は、懸命になだめようとするが、これまで子どもが立て続けに亡くなったのは偶然ではないと母親は思い込んでおり、誕生したばかりの男児もきっと同じ運命をたどることになると嘆く。
母親の悲惨な体験を医者と一緒に知ることになる読者は、哀れみ、同情して、この男児には健康に生きのびてほしいと願うだろう。
そして読者にそう思わせておいて、ダールは、この男児が後に大惨事を引き起こすアドルフ・ヒトラーであることを明かす。読者に向かって「本当に、こいつに生きていてもらいたいの?」と言外に問いかけているようにも思われる。「こいつが生き延びれば、多くの人が死ぬ」という単純な構図で発想された作品。
作品の最後は、次の母親の言葉でしめくくられている。
「この子は生きなくちゃいけないのよ、アイロス(夫)。何があっても生きてくれなくちゃ……ああ、神さま、どうかこの子にご慈悲を……」

読者は、これまで3人の子どもが亡くなったというは……ひょっとして?実は大惨事回避という神の意志が働いてのことだったのではないか……などと想像してしまう。そう思わせるようにダールは仕組んでいる。

重いテーマをはらんだ短編だが、よく考えてみれば、この赤ん坊の誕生と《大惨事》には直接的な因果関係はない。産まれた時は誰でも政治的に無色だからだ。《大惨事》に繋がる様々な要因の多くは先天的に備わったものではなく、後天的な学習で形成されたもののはずである。だから、この男児の誕生を《大惨事》の《始まり》と位置づけるのは妥当とは言えない。ダールの着想ロジックが成立するのかどうか……怪しいところがある。

この作品を読んで頭に浮かんだのが、星新一の『ことのおこり』(新潮社『さまざまな迷路』収録)というショートショート──読んだのはおそらく40年以上前になるが、タイトルも内容も覚えていた。貧しい画家志望の青年が質屋を訪れ、自分が描いた絵を質草に金を借りよう懇願するのだが、質屋の主人は冷たく拒絶する。「われわれユダヤ人というものは、冷静なんですよ。甘く見ちゃ困りますな」と冷淡にあしらう店主に、青年は「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる……」と捨て台詞を残して帰って行く。青年の名はアドルフ・ヒットラー。彼が去った後に店主はつぶやく。「まあいいさ。おれはユダヤ人なんかじゃない。この商売をやるにはユダヤ人と自称していたほうが、お客の冷酷に追い返せたり、なにかと便利なので、そう言っているだけのことなのだ」
こんな私怨が歴史的大惨事の「ことのおこり」だったのかという意外性と、ヒットラーがユダヤ人だと信じて逆恨みした質屋の主人は、実はユダヤ人ではなかった──大惨事そのものか「誤解」の上のことだったという二重の意外性が印象に残った。
『始まりと大惨事──実話──』と着想は似ているが、印象はずいぶん違う……。

■勝者エドワード
初老の夫婦、エドワードとルイーザの家の庭に変わった毛色の猫が迷い込んでくる。ピアノを演奏することを日課にしていたルイーザは、その演奏を聴く猫のようすから、その猫は作曲家フランツ・リストの生まれ変わり(輪廻転生)だと思い込む。奇跡が起きたと興奮するルイーザはエドワードに自分の考えを話すが全く信じてもらえない。
思い込みの強いルイーザは世界中の著名な作曲家を読んで彼(リストの生まれ変わりの猫)に会わせるなどと良い出し、エドワードはそんなことは許さないと妻をしかりつけ、夕食の用意をするように命じる。そこでルイーザは猫に(ミルク以外の)エサを与えていなかった気づき、猫のために夕食の準備を始める。
ルイーザが夕食を用意したとき、猫は姿を消していた。ちょうど庭から戻ってきたエドワードの腕に引っかき傷(エドワードによればイバラで作った傷)ができているのに気づいたルイーザは、(おそらく)夫が猫を処分したのだろうと思い込んで、激高してエドワードに迫るところで物語は終わっている。

例によってダールは肝心の「それでどうなったか」をあえて書かず読者に想像させる手法をとっている。
このあとの夫婦がどうなったのか──、単なるののしり合いで済んだのか、興奮にかられた妻が夫を刺すような惨事に至ったのかはわからない。
エドワードの傷が、猫を処分する際にひっかかれたものなのか、イバラの棘によるものなのかも真偽はわからない。
読者に想像させるにしても、この作品については、真相を判断するのに必要な情報が出そろっていない。読者をじらすにしても、これは少し意地が悪すぎると感じた。

ところで本作では『勝者エドワード』というタイトルの意味がよくわからなかった。原題は『Edward the Conqueror』。「Conqueror」には、「征服者・戦勝者・征服王」といった意味があり、「conquer」には「(精神力で)抑える」というような意味もあるらしい。ルイーザにとって、彼女の主張を抑圧するエドワードは家庭内での圧政者というようなニュアンスでつけられたタイトルだったのだろうか? あるいは「Conqueror」には他の何かに掛けた意味合いがあるのかもしれない?

■豚
「昔々、ニューヨーク市でひとりの可愛い男の赤ちゃんがこの世に生を享けた。喜んだ両親は息子をレキシントンと名づけた」と始まる本作。「むかしむかし」で始まり「めでたしめでたし」で終わる定型の「おはなし」をイメージさせて、それを壊していくおもしろさを描こうとしたのだろうか? 先の読めない展開は、ナンセンス文学を意図したもののようにも思われるが……それにしてはなかなかブラックな作品になっている。

あらすじは──レキシントンが生まれてわずか12日目に、両親はくだらない理由からあっけなく死んでしまう。孤児となったレキシントンは70歳近い大伯母にひきとられ、彼女と2人で山中の隔絶した家で暮らすことに。厳格なベジタリアンであった大伯母の指導で、レキシントンは幼くして料理の才能を発揮するようになる。大伯母はレキシントンに料理本を書くことをすすめ、彼は創作料理のレシピを書き始める。
レキシントンが17歳になったとき、大伯母が急死。彼女の遺言に従って、遺産を受け取るために、レキシントンはニューヨークの弁護士を訪ねるが、だいぶぼられてしまう。
腹を空かせたレキシントンはレストランに入り、初めてローストポークを食べ、その美味さに驚く。その食材が豚であることを知ってまた愕然。豚がどのように食材として加工させるのか知りたくなったレキシントンは食肉加工工場へ見学に行くのだが……そこで豚と一緒に加工されてしまう。

レキシントンのことを「われらがヒーロー」と表現する箇所が随所にでてくるが、「ヒーロー」に似つかわしくない悲惨な最期が待っている。読者に期待させ、その裏をかく皮肉な演出だろう。
《料理を作る人が料理の素材にされてしまう》というオチ──という見方もできるわけだが……その展開に「必然性(整合性)」はないので、とってつけたような違和感があった。型破りの展開はナンセンス風味(?)のギャグなのかもしれないが、ナンセンス文学を読み慣れていない人には、「なにそれ?」感が残り、ピンとこないのではなかろうか?

■世界チャンピオン
短篇集『あなたに似た人』収録の『クロードの犬』にも登場したクロードとゴードンのコンビが活躍(?)する話。『クロードの犬』では2人はドッグレースでイカサマを企てているが、『世界チャンピオン』ではキジの密猟で悪だくみをはかる。
狩りの醍醐味というのは、おそらく獲物との駆け引き&それに勝つことにあるのではないかと想像するが、クロードは、密猟を阻もうとする厳しい監視役(番人)とのスリリングなゲームを楽しんでいるようなところもある。そして、森とキジの所有者ヘイゼルが催す《狩猟の会》を出し抜いて一泡吹かせることを目論んでいた。クロードは本短篇集の『牧師の愉しみ』でもずる賢さを発揮している。

さて、『世界チャンピオン』はゴードン視点の一人称(私)で描かれ、〝レーズンの準備〟をしているところから始まる。
給油所で働くゴードンは同僚のクロードが夜な夜な森に出かけて行くことに気づいていたが、キジ猟の解禁が迫ったある日、クロードから密猟のさそいを受ける。
クロードは〝偉大な密猟者〟であった父親から伝授された、キジをとる秘策を使って獲物を捕っていたが、その方法を明かされたゴードンは、秘策を応用した更に効果的な方法を提案する。それが《キジの好物であるレーズンに睡眠薬を仕込む》という方法で、クロードはこのアイディアをいたく気に入り採用する。こうして1日かけて準備した196個の睡眠薬入りレーズンを持って2人は日の暮れかけた森へと出発する。
この森を所有しているヘイゼルは成り上がりの地ビール醸造会社社長で、(自分もそうだったのに)身分の低い者を毛嫌いし、身分の高いものに取り入ろうとして《狩猟の会》を催していた。ヘイゼルは、ゴードンとクロードが働く給油所の前を巨大な黒いロールスロイスに乗って出勤するのだが、彼の横柄な態度を2人は快く思っていなかった。

2人が向かった森には監視役の番人が3人いて、もし捕まったら〝半年は食らう〟ことになるという。番人は銃を持っており見つかれば撃たれかねない(クロードの父親は尻を何度も撃たれている)──そんな話を聞かされてゴードンも緊張を高める。
2人はキジたちが集まっているポイントに到着するが、そこから小脇に銃を抱えた番人の姿も見えた。番人に気づかれないように、《準備してきたレーズン》をまき、キジたちがそれをついばみ始めたのを確認すると、2人はいったんその場を離れる。あとは番人が食事に帰る時間帯を狙って現場に戻りキジを回収すれば良い……。
ところが、森を出たところで2人の前に番人が現れる。番人は2人を給油所の者だと知っており、クロードには以前から目をつけていたと迫る。もちろんこのとき戦利品を持っていたらアウトだが、2人はキジもキジを捕る道具も持っていなかったので番人も手出しができない。2人は引き上げるフリをして姿を隠し、番人たちが食事に帰るのを見届けて、レーズンをまいた現場に戻る。
キジたちは眠るために、みな木の上へ移動していて、地上にその姿はなかった。ゴードンは、枝にとまって眠るキジが落ちないのであれば、睡眠薬が効いたとしても落ちないのではないか──ということに気づき、作戦は大失敗……と思いきや、ほどなくキジたちが次々に落ちてきて、前代未聞の大成功を収める。〝偉大な密猟者〟であったクロードの父親でさえ一晩で手に入れた最高が15羽だったのに、2人がこの晩、手に入れたキジは120羽に及んだ。まさに《キジの密猟の世界チャンピオン》であった。

クロードによれば先ほどの番人は、給油所の周辺にひそんで2人がキジを持ち帰るのを待ちかまえているはずだという。戦利品をそのまま持ち帰るのは危険だった。しかしクロードはタクシーを利用し地元教区牧師の奥さん・ベッシーに戦利品をあずけ、手ぶらで帰宅するという手はずを整えていた。そしてクロードとゴードンは無事に帰宅した。

翌朝、ベッシーは乳母車を押して、クロードとゴードンの給油所へ向かっていた。乳母車には赤ん坊が乗せられてたが、その下には戦利品が隠されている。給油所で到着を待つクロードとゴードンに受け渡しをすれば完全犯罪が完結する。
ところが、給油所を目前に乳母車を押すベッシーに異変が現われ、乳母車からキジが飛び立った。睡眠薬の効力が切れたキジが目覚めたのだ。給油所につくやいなや泣き叫ぶ赤ん坊をベッシーが抱き上げると、重しを失ったことでキジたちがいっせいに飛び出し、給油所はキジたちであふれ返った。何事かと人々が集まりはじめ、クロードとゴードンは慌てふためく。キジの持ち主・ヘイゼルがロールスロイスに乗って現れる時間が迫っていた。

クロード&ゴードン・コンビの策謀は、はたして思惑通りにいくのか──緊迫感のある展開でおもしろい作品だった。
ただ、《キジの好物に睡眠薬を仕込む》という着想自体は、そう奇抜なものではない。作中ではこのアイテムがそのまま(工夫なく)使われている。策謀が成功したかに思われたところで、とんだどんでん返しが待っていた──という展開は面白かったが、《睡眠薬の効果が切れた》というオチもアイディアとしては、やはり単純な気がする。時間が経てば薬の効力が切れることはゴードンやクロードにも予測し得たことである。楽しく読めた好短編ではあるけれど、傑作と言うには、ちょっと物足りなさが残る……というのが率直なところ。

物足りなさが創作イマジネーションを刺激するダール作品
一連のダール作品を読んで感じたことは……おもしろさ・独特の魅力はあるのだが、「もうひとひねり欲しかった/もう少し何とかならなかったものか……」という「物足りなさ」がついてまわる作品がいくつもあったということだ。読後の満足感にやや欠ける部分があることで、不完全燃焼感が尾を引き、満足感を補完しようとして脳味噌が勝手に模索を始める──想像力が刺激されて脳内シミュレーションを展開することになってしまう。

『世界チャンピオン』でいえば……いささか平凡だった着想の活用をもう少し工夫できなかったか……ということで、例えば、「ヘイゼルへを困らせる目的」でキジを密猟するために森へ入った2人は、悪名高い人食い熊と遭遇。絶体絶命の2人はピンチを切り抜けるために持参した睡眠薬入りブドウをクマに投げ与え、クマが食べている間に逃げる。薬が効いた頃に戻ってみるとクマは眠っていた。武器も持たずにクマを取押えた2人は英雄扱いされ、森のやっかいものだったクマを退治できたことで、「結果的にはヘイゼルを大喜びさせる」ことになる──《キジの密猟目的で準備した睡眠薬入りレーズンを目的とは別のこと(クマから身を守る)に利用》《目的とは真逆の結果になる(悪いことをしに行ったのに良いことをしたことになってしまう)》という展開(工夫)が思い浮かんだりもした。もちろん、こうなると全く別の話になってしまうし、新たに処理しなければならない問題も出てくるが、単に《着想の活用シミュレーション》というこことで。
オリジナルの面白さは充分に認めているが、《物足りなさ》が残ることで、つい《工夫の余地が、まだあるのではないか》と脳内イメージが展開してしまうのだ。

ダールの短篇集には魅力的な好短編がいくつもあるのだが、「傑作」と言いきるには躊躇が働く。
傑作というのは、完成度の高い作品──これは着想を、これ以上望めない最も効果的な形でまとめあげた作品で、よけいな補完イメージの入り込む余地などないものだ。感銘は受けても、創作のヒント・刺激には意外となりにくい。
これに対して、ダールの好短編は、「もう少し工夫のしようがあったのではないか……」と想像を巡らす余地があることで、創作イメージが刺激され活性化する。
《物足りなさが想像力を刺激する》という副産的な魅力(?)がダール作品にはあるように思う。そういった意味では、他の作家へ及ぼしてきた影響(貢献度?)は数ある「傑作」よりも、むしろダール作品の方が、勝っていたのではないか──そんな気がしてならない。ダールの作品に刺激を受けて傑作を書いたり撮ったりした作家・監督は少なくないのではなかろうか?


ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳ ※短篇集の感想

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一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出

『一切れのパン』と『最後の一葉』:教科書の思い出
01最後の一葉

宮沢賢治の『やまなし』など、「どうしてこれが教科書に採用されたのか?」と不思議に感じる昨今。そもそも教科書へ収載する作品の選定基準がよくわからない。本来、(童話を含む)小説は「楽しく読む」べきものだと思うのだが、僕は教科書で読んだ小説を楽しいと感じたことがほとんどない。これは作品が面白くなかったというより、「勉学のまな板の上で調理されること」に抵抗感があったためだろう。授業で取り上げられる作品には「教材となった意義付けを忖度する」読み方が求められているような気がして、窮屈な印象があった。
しかし、そんな僕にも、教科書に取り上げられていながら(?)「面白い!」と感銘を受けた小説が2つある。F・ムンテヤーヌの『一切れのパン』とO・ヘンリーによる『最後の一葉』である。

『一切れのパン』@国語教科書の思い出
『一切れのパン』は中学生時代に国語の教科書で読んだ記憶がある。卒業後、同級生との間でこの作品が話題になったこともある。僕も級友も、タイトルや感銘を受けた内容──最後のセリフなどは覚えていたが、僕は作者が誰だか失念していた。友人はO・ヘンリーの作品だと思っていたようだ。その頃はまだインターネットもなく手軽に検索で確かめることができなかったので、本屋でO・ヘンリーの短編集を手にとり、目次を探して「ないなぁ……」と首をかしげていたこともあった。作者がフランチスク・ムンテヤーヌというルーマニアの作家だったと知ったのはだいぶ後になってからだ。

記憶の中のあらすじをざっと記すと──、
戦時下で、敵国軍に捕えられた主人公が、貨物列車から脱走して飢えと闘いながら自宅に帰り着くまでの話で、主人公は脱走する時にラビという老人からハンカチに包まれた《一切れのパン》を渡される。そのとき、「パンを一切れ持っている」という思いが飢えと闘う勇気となるから、パンはすぐに食べずに持っていることが大切だ・誘惑に負けないようにハンカチに包んだまま持っているようにと諭される。
主人公は飢えと闘いながら、危ういところでラビの忠告を守り、なんとか家に帰りつくことができる。主人公を支えた一切れのパン──しかしハンカチから出て来たのは一片の木切れだった──予想もしなかったラスト・シーンで主人公の口から漏れた「ありがとう、ラビ」の言葉が強く印象に残っている。
ラビからもらった一切れのパンの存在が主人公を支え、帰還をかなえる命綱となったわけだが、そんなパンなど、最初から存在していなかった──パンではなくラビの知恵が主人公を支え、救ったのだという意外性が衝撃的だった。

『最後の一葉』は《よい話(美談)》ではなく《皮肉な話》
『最後の一葉』の方は、確か英語の教科書に載っていたように思う。僕は英語が(も)苦手で、予習も全くしなかったから、授業中に少しずつ明らかになる内容で結末に至るまで、かなり時間をかけて小出しに知っていった気がする。
『一切れのパン』の方は【国語】の教科書に載っていたので(日本語で書かれていたので)、自力で読み進むことができ、ラストのあざやかな意外性に感銘を受けることができたが、『最後の一葉』は内容を細切れに知っていったので、当初あまり関心が持てなかった。ようやくオチの部分にたどりついたところで、「あれ? この作品、おもしろいぞ!」と、やっと気がついた。その後、O・ヘンリーの短編集を買って(日本語訳で)『最後の一葉』を読み直した記憶がある。英語の教科書によってこの傑作に出会えた──という形ではあるけれど、最初から翻訳作品に出会えていれば──全体を通して読んでいれば、第一印象の感銘はもっと大きかったろうに──と残念に思ったものである。

おそらく多くの人が知っているだろうが、『最後の一葉』の概要を記すと──、
共同でアトリエを借りているスーのルームメイト=ジョンジー(ジョアンナ)は重い肺炎を患い、医師から「生きる気力」の有無が生死を分けると言われる。しかし疲弊したジョンジーは、窓から見える壁にはったツタの葉が落ちるようすを眺めているうちに、すべての葉が落ちた時に自分の命も尽きるのだと思い込んでしまう。《葉が全て落ちたとき=ジョンジーの死》という《幻想》にとりつかれた彼女のことを知った階下の老画家くずれ=ベアマンは、バカげた想像だとののしるが、ジョンジーの思い込みを逆手にとって《落葉を阻止する(ツタがはう壁にダミーの葉を描く)》ことで《ジョンジーの死を阻止する》ことを企てる──この意表を突いた着想が素晴らしい。そしてベアマンの思惑通り、ジョンジーは持ち直す。
『一切れのパン』では現実には存在しない一切れのパン(ラビの嘘が)主人公を救ったが、『最後の一葉』では現実には残っていなかった最後の一葉(ベアマンが描いた絵)がジョンジーを救うことになった──《虚構が現実を動かす力になる》といったところに共通の面白さを感じる。
『最後の一葉』の場合は、ジョンジーのネガティブな《幻想(思い込み)》を利用して、逆にポジティプな《現実化》をはかるという工夫がおもしろい。更に──「狙いどおりにジョンジーの運命を変える工作に成功したベアマンだったが、彼自身が予想外の肺炎にかかって死ぬことになる」という《意外性》がダメを押す。運命のある局面を都合良く改変することができたとしても別の局面でツケが回ってくる──そんな《皮肉》を感じさせる《作者のたくらみ》に深い味わいを感じる。
この作品の素晴らしいところは、ジョンジーの命を救った最後の一葉が、実はベアマンが描いた絵であり、雨の中でこれを描いたベアマンが肺炎にかかって死んだことがラスト・シーンで一気に読者に明かされるというみごとな構成にある。鮮やかな幕切れが強い余韻となって読者に感銘を与える。

この作品を何年生の時の教科書で知ったのか、確かめてみようと思って検索してみたが、わからなかった。いくつかのサイトを閲覧していて知ったのだが、『最後の一葉』は小学校の道徳教科書にも収載されていたらしい。そして、この作品について《自己犠牲を描いた作品》という評価があることに驚いた。どうやら《老画家の自己犠牲が若い女性の命を救った話》だとか《長い間世間に認められる絵を描くことができなかった老画家(ベアマン)が、無欲に1人の女性を救うために描いたことで、人生の最後にして最高傑作の絵を描くことができた》というような《美談》として読んだ人も多かったようだ。言われてみれば確かに「そういう解釈」もできなくはないのかもしれないし、どう感じるかは読者の勝手なわけだが……僕がうけた感銘からすれば「作品のおもしろさ(作品の趣旨・趣向)」はそこではないだろう」ということになる。この作品の面白さは《意外性》にあって、《運命の皮肉》を描いた作品だと僕は感じた。『最後の一葉』の本質は《美談(よい話)》ではなく《皮肉な話》である。作品の構造上、O・ヘンリーも、それを意図して書いたのだと思う。

『最後の一葉』の改変版!?
『最後の一葉』の最大の見せ場は、真相が一気に明らかになるラスト・シーン──スーがジョンジーに真相を語る場面で、そこで読者も真相を知らされ、あっと驚くことになるわけだが……ところが、この結末に不満を感じた人もいるらしい。
「スーがジョンジーにわざわざ真相を打ち明ける必要はなかった。知らされたジョンジーには、自分の身代わりになって死んだベアマンのことが生涯の重荷となる」という複雑な思いにとらわれた人もいたようだ。しかしこれは、この作品を《美談》としてとらえている(とらえようとしている)からから生じる「割り切れなさ」だろう。スーが打ち明けようが打ち明けまいが、やがてジョンジーにも(風にも揺れずいつまでも形を変えない)不自然な葉がダミーであることはわかるはずで、階下の老画家がどのような状況で肺炎にかかったのか、耳に入らぬはずはない。ジョンジーが真相を知らずにすむという《きれいごと》の結末は不自然であり不合理なのだ。作品としては、《スーがジョンジーに語ることで読者に真相を、一番インパクトのあるタイミングで明かす》ラストシーンは必然にして、この上ないものである。この作品を《美談》という解釈ではなく、《皮肉》を描いた作品であるととらえれば、きれいに割り切れる、理にかなったみごとな結末といえる。

しかし、実際にこの作品を《美談》として偏向的解釈をしたがる人は多いのかもしれない。絶妙のラストシーンを《きれいごと》──「ジョンジーの身代わりとなってベアマンが死んだこと」をスーがジョンジーに告げない結末に改変した出版物も存在する。PHP文庫の『まんがで蘇るO・ヘンリー傑作選』(監修:齋藤 孝/『最後の一葉』を描いた漫画家は工藤ケン)がそれだ。
改変版マンガのラスト・シーンは、スーの《真相は自分だけの秘密として胸にしまっておく(ジョンジーには隠しておく)》という主旨のモノローグで終わっている。このよけいな「配慮」を持ち込んだおかげで、最大の見せ場であるはずのラスト・シーンの意外性・インパクト・切れは鈍り、効果抜群の余韻に水をさした格好である。
また、ラストシーンに「配慮」を持ってくるために、真相(ベアマンが雨の中で壁に葉を描いていたこと)を前倒しして(?)事前に読者にバラしてしまうという愚行もおかしている。
しかも前述した通り、元気になったジョンジーが真相に気づかぬはずはなく、「スーだけの秘密としておく」という結末は成立しない。改変マンガは、緻密な計算で構築された原作小説を《きれいごと》でまとめようとして台無しにした感がある。そこまで無理して、どうして《美談》にしたがるのだろうか?
小説を読んで、誰がどう感じるかは、その人の自由だ。しかし、それぞれ解釈・感じ方がすべて正しいということにはならない。妥当な評価ばかりでなく、的外れであったり不合理な解釈もけっして少なくない。

『最後の一葉』が小学校の道徳の教科書にも採用されていたと知って、ちょっと気になることがある。この作品が偏向した解釈で選定され、子どもたちにも的外れな解釈をミスリードするような指導が行われているのではないか……という危惧である。
『最後の一葉』が小学道徳の教科書に採用されたのは《自己犠牲の尊さをうったえた美談》という意義付け(解釈)があったのではあるまいか?
そう考えると、《自己犠牲の精神を標榜する作家》である宮沢賢治の作品が教科書に多く採用されている傾向と、同じ軌道上にあるようにも思われる。
小説が教科書に載り、授業でとりあつかわれることになると、生徒は(先生も?)そこに道徳的意義付けをみいだそうとして「忖度する読書」をすることになり、《美談》にミスリードされがちになるのではないか……そんなことがあれば、作品の真の価値を見誤ることになる。
教科書へ収載する小説の選定をする人、現場で子どもたちを指導する教師が、本当に作品の本質を理解しているのか、気になるところである。


なじめなかった『よだかの星』
宮沢賢治『やまなし』とクラムボン
宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想


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松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

松本清張・作『ゼロの焦点』(新潮文庫)を読んでみた
01ゼロの焦点新潮文庫
少し前に邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ておもしろかったので(*)原作(小説)の方でも読んでみたいと思っていたところ、ブックオフで文庫版をみつけたので購入。それが『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫/昭和46年2月20日発行/平成16年4月20日百刷)で、カバーの裏表紙側にはこのような文章⬆がそえられていた。
内容を知らずにカバーの紹介文を目にした、これから読者になるかもしれない者に「《失踪した夫の鵜原憲一》は《自殺として処理されていた曽根》だった」という重要な謎の一端をバラしてしまうのはどうかと思う。このカバーを読んだ読者は作中で明かされる前に、失踪した鵜原憲一が死んでいることを知ってしまうことになり、「曽根」という名前が出てきた時点で、(主人公・禎子は気づいていないのに)それが失踪した禎子の夫だとわかってしまう。本来であれば主人公の禎子がその真相に気づいた時点で読者にもわかる方が新鮮な驚きが伝わるはずで、作者も当然そのつもりで書いていたはずだ。本編後の「解説」で内容についてある程度ふれるのは仕方が無いが、本編を読む前に(本を買う前に)読まれるだろうカバーに「しかけ」を明かすネタバレは不適切な気がする。

僕は原作(小説)を読む前に映画(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)で『ゼロの焦点』を見ているので、当然、カバーのネタバレ内容についても知っていたし、(映画化で改編された部分はあったにしても)内容のアウトラインはすでにわかっている状態で小説を読んだ。だから内容を知らずに読んだ場合の第一印象とは、また違った感想ということになるが……映画(松竹/1961年)を観たあとに小説(原作)『ゼロの焦点』を読んで感じたところを記してみたい。


小説版(原作)『ゼロの焦点』の感想
読み始めてまず感じたのは、映画(1961年松竹版)を観ているので、小説(原作)の『ゼロの焦点』はおもしろく読み進むことができた──ということだ。ストーリーのアウトラインは映画でだいたいわかっている。もちろん映画にするために改編された部分はあるにしても、人物関係や流れは頭に入っているので、「どんな展開になるのか、やきもきして先を読み急ぐ」必要もない。そのため「その場に置かれた鵜原禎子(主人公)の心情」をじっくり味わいながら読むことができた。映像よりも文章の方が登場人物の心の変化を的確に描くことができる。心理描写の味わいは映画以上のものを感じた。小説にしろ映画にしろ、ストーリーは大事だが、そのドラマの中に置かれた登場人物たちの心情(驚きや葛藤などのリアクション)に読者や視聴者は共感する。

主人公の(旧姓・板根)禎子は、鵜原憲一と見合い結婚をしたが、夫という身近な存在になった10歳年上の男について、まだ未知の部分が多い。ある日を境に夫婦になった見知らぬ男女が、どのように互いを感じ、知っていくのかという意識の変化を新婦の禎子の視点で描いていく展開が、小説では新鮮に感じ、興味深かった。
そんなわけで、読み始めてしばらくは小説(原作)もいいなと感じていたのだが、後半は事件を整理するための「説明」が増えていき、前半にあった小説としての味わいはどんどん薄れていく……終盤になると、それまでの展開に整合性をもたせるための辻褄合わせに追われて小説的な広がりが失われてしまった印象がある。
映画(松竹/1961年)では最後に犯人の自白でことの真相が明かされるシーンがあったが、小説ではその場面はなく、事件の真相については全て「鵜原禎子の解釈(推理)」で語られいる。この推理が「なるほど!」とストンと納得できるものであれば良いのだが、憶測が多く長いばかりの説明は説得力に乏しい。その推理のどこまでが真実なのか不明瞭なところがあって読後感もスッキリしない。
モチーフ・着眼・テーマなどはおもしろいし、心理描写も前半は良かったのに、後半は冗漫な説明に流れ、最後はぐだぐたになってしまっているのが残念でならない──というのが、小説『ゼロの焦点』を読んでの全体的な感想。具体的に気になった部分・疑問などについては、あらすじを記したあとに述べてみたい。


『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫)あらすじ ※ネタバレあり
主人公は見合い結婚をしたばかりの鵜原禎子。夫となった鵜原憲一は大手広告代理店の北陸(金沢)出張所主任で、結婚を機に東京本店に栄転、東京で禎子との生活をスタートさせるはずだった。憲一は業務引き継ぎのため、最後の金沢出張に出かけるが、そのまま行方知れずになってしまう。
東京で夫の帰りを待っていた禎子だが、予定の日をすぎても憲一は戻らず、連絡もとれない。憲一の会社でも憲一の所在がつかめず困っていた。禎子は夫が消えた北陸へおもむき、憲一の後任・本多良雄とともに夫の行方を探す。憲一の得意先で懇意にしていた耐火煉瓦会社の室田儀作社長の自宅を訪ねたとき、その家の外観が憲一の所持していた写真と同じであることに禎子は気づく。禎子は憲一の出張中、彼が所持する法律関係の洋書にはさまれていた〝2枚の家の写真〟をみつけ、怪訝に感じていたのだが、その1枚が室田の家を撮ったものだった。室田家では、結婚が決まって幸福なはずの憲一がふさぐような様子をみせていたという話を聞かされるが、憲一の行方につながる糸口は見つからない。
当初は楽観していた憲一の兄・鵜原宗太郎も金沢へやって来るが、弟の行方を追っているうちに宗太郎自身も行方不明になってしまう。そして宗太郎は遺体となって発見される。青酸カリ入りウィスキーによる毒殺であった。憲一の失踪にからんだ殺人事件が起きたのである。
宗太郎が殺害された事件では、派手な服装の女が容疑者に上がっており、この犯人と思われる女がパンパン(米兵相手の売春婦)風だったことから、禎子は憲一の前歴──風紀係巡査として立川でパンパンを取り締まっていた過去とのつながりを考える。憲一の取引先である耐火煉瓦会社をたずねた禎子は、受付嬢が外国人と交わす英会話を耳にし、それがスラング混じりのパンパン英語だったことに気づいく。
受付嬢は田沼久子──最近、内縁の夫・曽根益三郎を亡くしていた。それは遺書を残しての自殺で、曽根益三郎の自殺は憲一の失踪と時を同じくしていた。
禎子と本多良雄は田沼久子を調べ始めるが、今度は久子が姿をくらましてしまう。本多良雄は某かの情報を得て、東京へ高飛びした田沼久子を追って上京し、その間、禎子は久子の内縁の夫だった曽根益三郎の情報を求めて、田沼久子と曽根益三郎が暮らしていた家までやって来る。そこで禎子が見た久子の家は、憲一が所持していた〝もう1枚の家の写真〟に合致していた。禎子は「田沼久子の内縁の夫・(自殺した)曽根益三郎」と「禎子の夫・(失踪した)鵜原憲一」が同一人物であったことを確信する。
金沢の宿に戻った禎子を待っていたのは本多良雄が死んだという知らせだった。田沼久子を追って上京した本多良雄は宗太郎と同じ方法──青酸カリ入りのウィスキーで毒殺されていたのだ。殺害現場は東京のアパートで、前日に部屋を借りた杉野友子という女は事件の発覚前に現場から逃げ出している。

禎子は、杉野友子が田沼久子であると推理するが、その田沼久子も崖下に転落死しているのが発見される。警察は東京で〝杉野友子〟の偽名でアパートを借りた田沼久子が本多良雄を殺害し、警察の追及が迫っていることを知って自殺したものと判断した。

姿を消した鵜原憲一。その行方を追っていた鵜原宗太郎が毒殺され、その犯人と思しき田沼久子を追っていた本多良雄もまた毒殺された。そして、犯人かに思われた田沼久子までも死体となって発見された……いったい何がどうしてこのようなことになったのか。
手がかりを求めて禎子は、かつて憲一が風紀係巡査として勤めていた立川署へでかけ、憲一の同僚だった葉山に、死亡した田沼久子の顔写真が載った地方紙を見せて見覚えがないかたずねる。すると同じ写真を持って同じことを聞きにきた者がいると言う。耐火煉瓦会社の社長・室田儀作であった。

禎子は推理をめぐらせ、一連の事件の背景には憲一と懇意にしていた耐火煉瓦会社の社長・室田儀作がいたのではないかと考え始める。室田儀作を疑った禎子だが、偶然目にしたテレビ番組──終戦直後の婦人問題をテーマにした座談会で、当時GI相手をしていた女性は今どうしているのか……案外立派な家庭におさまっているのではないか──という話を聞いて、社長夫人の室田佐知子が真犯人だったのではないかと思い当たる。地方の名士であり知的で華やかな佐知子に禎子は好感をもっていたのだが、この佐知子が田沼久子同様に元パンパンで立川時代の鵜原憲一と接点があったと考えると、すべてのつじつまがあうと禎子は考えた。
地方の名士となっていた室田佐知子にとって、過去の秘密(パンパン時代)を知っている鵜原憲一は潜在的脅威だった。そこで、鵜原憲一が(禎子と結婚したことで)田沼久子との関係を清算するのに悩んでいたとき、〝曽根益三郎〟の自殺擬装を持ちかけた。憲一に〝曽根益三郎〟名義の遺書を書かせて崖縁に置かせ、背後から突き落として殺害──こうして投身自殺を擬装したのではないか。憲一の死体は、残された遺書から〝曽根益三郎〟の自殺として処理された……。
それが真相であろうと確信した鵜原禎子は、室田邸へ向かうが、室田夫妻はでかけていた。その行く先を追って禎子がたどりついたのは、憲一が殺害された海辺の断崖だった。そこには沖を見つめる室田儀作が立ち尽くしていた。彼の見つめる先には、儀作に一連の犯行を告白した後、荒れた海に小舟で漕ぎ出した室田佐知子が消え行こうとしていた。


2枚の家の写真の意味?
一番最初にでてくる手がかり(?)らしい《謎》が、鵜原憲一が法律関係の洋書の間に保存していた「2枚の家の写真」だ。1枚は立派な家で、もう1枚はみすぼらしい民家という対照的なもので、写真の裏にはそれぞれ「35」と「21」という数字が書き込まれていた。思わせぶりな数字だが、この意味については結局最後まで明らかにされていない。立派な家は鵜原憲一が懇意にしていた室田儀作・室田佐知子が住む家で、みすぼらしい家は田沼久子が内縁の夫・曽根益三郎と暮らしていた家だった。「昔パンパンだった女(室田佐知子・田沼久子)が現在暮らしている家」という共通点があったわけで、作者はそういった記号として設定したのだろうが……鵜原憲一がどうしてわざわざ写真に撮って2枚だけ別に保存していたのか、ちょっと腑に落ちない感じが残った。

メイントリックの不備!?
この作品を支える主要なアイディアの1つが次のようなものだったろう。

・地方に出張していた男Aが出張先で偽名を使い、Bとして、女Cと同棲していた。
・Aは東京に栄転し結婚することになり、Cとの関係を清算しなければならなくなる。
・ところが、Cとの別れ話がもつれ、AはBの自殺を擬装してCとの関係を断ち切ることを考える。
・万事上手く解決かと思われたが、この擬装に乗じてA(B)は実際に殺害されてしまう。遺体はBとして処理され、Aは失踪したことになる。


面白いアイディアだ。『ゼロの焦点』では、鵜原憲一(A)が出張先で〝曽根益三郎(B)〟として田沼久子(C)と内縁関係を結んでいたという設定をとっている。この二人が、憲一の出張先で初めて知り合った関係であれば、このアイディアは成立するのだが、『ゼロの焦点』ではテーマにからめてだろう──田沼久子をパンパンあがり女として設定し、過去に立川署で風紀係をしていた鵜原憲一と接点があったことにしている(当時は顔見知り程度で久子は鵜原の名を知らなかった)。二人に立川時代の接点が無ければ、偽名の〝曽根益三郎〟が死んだとき、田沼久子は彼の本籍を知ることができず、遺体は〝曽根益三郎〟として処理されてトリックは成立する。しかし『ゼロの焦点』の設定では田沼久子は彼が昔、立川署の巡査だったことを知っている。埋葬の過程で必要となる彼の本籍は久子が立川署に問い合わせれば、簡単に本名とともにわかったはずである。そうなればこのトリックは成立しない。アイディア自体はおもしろいのだが、『ゼロの焦点』では欠陥があったといえる。
この欠陥は映画を見ているときには気がつかなかった。小説では町役場をおとずれた鵜原禎子が〝曽根益三郎〟の本籍についてたずねるシーンがあって、「本籍がわからないので、しかたないから本籍分明届を出してもらって埋葬許可証を出した」という説明を受けているくだりがある。これを読んで、田沼久子なら立川署に問い合わせることで彼の本籍とともに本名を知ることができただろうと想像が働いた。原作小説ではディテールの整合性をとるために細かい説明を書き込んでいるが、読者の意識を「細かいこと」に誘導することで、かえって細かい疑問を生みやすいものになってしまった感がある。


毒殺犯はなぜわざわざ派手な服装をしたのか?
失踪した鵜原憲一の行方を追っていた兄の鵜原宗太郎は、青酸カリを混入したウィスキーで毒殺されてしまう。この事件に関しては犯人と思われる派手な服装の女が鵜原宗太郎と一緒にいたという目撃情報があって、禎子は、派手な服装➡パンパン➡パンパン英語を話す受付嬢(田沼久子)と連想することになる。事件を追う方・読者からすれば、わかりやすい記号だが、その女が元パンパンであったとしても、これから人を毒殺しようとする犯人が、わざわざ人目をひく派手な服装を選ぶだろうか──という不自然さを感じた。後の禎子の推理では、女が持っていたスーツケースの中味は着替えで、派手な服は変装だったと解釈している。しかし、変装だとしても、場にふさわしくない服装は不自然であり、目立つことによるリスクの方が大きいのではないか。目撃情報によって犯人と思われる者が女であることがわかったわけだが、派手な服装をしていなければ鵜原宗太郎と一緒にいても目撃した人の印象には残らず、犯人が「女」だったという目撃情報も上がってこなかったかもしれない。擬装(変装)のためにわざわざ目立つというのは、犯人にとって無謀な気がする。

なぜ本多良雄は犯人の出した毒入りウィスキーを飲んだのか?
鵜原宗太郎を毒殺したと思われる女を追って上京した本多良雄は、その女が出した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる。本多良雄は「鵜原宗太郎が、女の用意した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる」ということを知っている。その犯人と思われる女が出したウィスキーをあっさりと飲むものだろうか?
この展開にも不自然さを感じた。ちなみに映画(松竹/1961年)では本多良雄の殺害エピソードはない。


鵜原禎子はなぜ捜査に協力しないのか?
小説を読んで理解できなかったのが、鵜原禎子が警察に非協力的なことだ。
鵜原憲一の行方を追っている鵜原宗太郎が毒殺されたあと、禎子は受付嬢の田沼久子を疑うが、そのことを警察には告げていない。宗太郎は失踪した鵜原憲一を追っていて殺されたのだ。同じように憲一を探している鵜原禎子や本多良雄が狙われる危険は大いにある(その後、本多は殺されることとなる)。自分の身を守るためにも思い当たる手がかりは何でも警察に話して捜査協力し、一刻も早く犯人を検挙してもらおうとするのが自然ではないだろうか。事件の早期解決が失踪した鵜原憲一をみつけだす近道にもなるはずである。なのに鵜原禎子が警察に非協力的なのが不可解に感じた。

本多良雄が田沼久子を追って上京したあと、禎子は田沼久子の家をたずね、「自殺した田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟」が「失踪した夫・鵜原憲一」であったことを確信するが、そのことも警察に告げようとしない。そればかりか、その日、宿に帰った禎子は本多良雄が東京で毒殺されたことを知らされ、刑事から心当たりをたずねられるのだが、禎子は〝心当たり〟を隠して無いと答えている。


刑事はうなずいた。
「そうすると、今度、本多さんが東京で殺されたことには、お心あたりがないわけですね?」
「全然ございません」(『ゼロの焦点』P.281)


さらに、田沼久子の〝自殺〟が報じられた後、禎子はその経緯を説明した刑事から、この件について知っていることはないか尋ねられるシーンがあるのだが、禎子はやはり隠して嘘を答えている。

「この間うかがったことを、もう一度おたずねするようですが、田沼久子と本多さんの関係を、本当にごぞんじないんですか?」
「本多さんのことは、この間も申しあげたとおり、主人の友だちというだけで、私生活のほうは、まったくぞんじあげておりません」
 禎子は答えた。
「ですから、田沼久子さんというひとのことは、全然、私は知らないのです」(『ゼロの焦点』P.313〜P.314)


禎子は作中で何度も警察を訪ね情報を得ているのに自分が持っている情報をなぜ隠すのかわからない。禎子が田沼久子に疑いを持った時点で警察に話していれば、事件はもっと早く解決し、後に起こる本多良雄殺しや田沼久子と室田佐知子の死は防げたかもしれない。
小説前半の繊細な禎子なら、自責の念にかられてもよさそうな気がするが、作者は「説明」に忙しくなって、内省を描く余裕がなかったのか……?


失踪した夫が見つかったのになぜ警察に届けないのか?
この作品における主人公・鵜原禎子の主目的は《失踪した夫探し》であったはずだ。それなのに、「自殺として処理された田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟が、失踪した夫・鵜原憲一である」と気づいた後も、禎子はそのことを警察に報告していない。これはずいぶん不自然なことに感じた。警察に届ければ、それが禎子の夫であることが確認されるだろう。その事実は進行中の殺人事件の捜査にも重要な意味を持つことになるはずだ。
また、警察の捜査を別にしても──探していた夫をようやくみつけたのに、他人として、他の女の内縁の夫として死亡した扱いになっている──その状態に、正妻である禎子は何も感じないのだろうか? 遺骨や墓、戸籍の問題をきちんと正したいとは考えなかったのだろうか? 小説の前半では禎子の心理が克明に描写されていたのに、後半は事件の説明に追われ、辻褄合わせに気をとられて、禎子の心理についてはおざなりになっている印象が否めない。


事件の真相は禎子の推理でしかない
鵜原憲一の謎の失踪から始まり、それを追っていた鵜原宗太郎や本多良雄が殺され、犯人かと思われた田沼久子も遺体となって発見される……一連の事件は誰が何のためにどのようにして仕組んだものなのか──事件の核心に迫る真相の解明がクライマックス・見どころということになる──はずだ。物語の中にちりばめられてきた数々の謎がひとつにつながる──いわゆる《謎解き》である。
ところが、小説『ゼロの焦点』では事件の客観的な《真相》については明言されていない。すべて禎子の「こういうことに違いない」「おそらくこうであろう」という推理として描かれているだけで、読者としては、どこまでが《真相》なのか、よくわからない。
たとえば──、


室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない。ただ、彼女が、立川のGI相手の特殊な女性だったという裏づけは何もないのだが、おそらく、この推定には錯誤はないだろう。(P.391)

《室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない》ということをもって《室田夫人が犯人である》と断定することはできない。禎子の推理に矛盾がなかったとしても、それ以外の可能性が否定されるわけではない。《謎解き》としては何ともたよりない解説で、けっきょく読者には客観的な《真相》は明かされず、禎子の推理を肯定するのは、室田佐知子に真相を打ち明けられた鵜原宗太郎が断崖上で発した言葉だけだ。

「もう私からお話することはないでしょう。ここに来られた以上、あなたには、もう、すべてがお分かりになったと思います」(P.398)

「昨夜、和倉に来て、家内を、私は問いつめました。家内は事実を告白しましたよ。もっと早く、私に打ちあけてくれていたら、こんな結果にはならなかったでしょう。私は、あなたにお詫びしなければなりません。あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です。私は、何も、家内の立場について弁解しません。ただ、私より先に宿を出た家内は、いつのまにか、船を借りて、沖に出ていました」(P.398〜P.399)


鵜原宗太郎は、その場に駆けつけた禎子がどのように推理したかを一切聞いていない。そこに来たことをもって「すべてがお分かりになったと思います」と片付けるのは、強引というより無茶なまとめ方だと感じた。
「あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です」と室田佐知子が犯人であることを認めてはいるが、禎子の推理のどこまでが真相に合致しているのかは明かされておらず、《真相》の不透明感はいかんともしがたい。
着想もテーマも面白かったのに、どうしてまとめ方がこれほどザツになってしまったのか──先に映画(松竹/1961年)を観ていただけに(映画には犯人が事件の真相を告白するシーンがある)小説では不完全燃焼感を覚えた。

松本清張は売れっ子だったため、多忙で複数の作品を併行して書いていたという話を聞いたことがある。『ゼロの焦点』も連載だったようなので、書きながら前に書いた部分にさかのぼって調整することができず、書いてしまったことを変更できないために後半でつじつつま合わせに四苦八苦することになり、〆切りに追われてザツなまとめ方になってしまったのだろうか……。連載時は仕方なかったにしても、書籍化するときに手を入れることはできなかったのだろうか? とはいっても、手を入れ始めるとかなり大幅に書き換えることになってしまいそうだから、忙しい売れっ子作家の清張にはそれができなかったのだろうか?


タイトルの意味・ふたたび
多忙作家だった松本清張の作品には『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルがみられるが、雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならないとき、抽象的なタイトルをつけておけば(どうにでも解釈できるので)、作品を考える時間稼ぎができる──という事情もあったらしい。
この『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ抽象的なタイトルだったのだろうか?──というタイトルの意味に関する記事を少し前に投稿している(『ゼロの焦点』タイトルの意味)。そのときは映画(松竹/1961年)を観ての意見だったが、今回、原作小説を読んでみて、改めてタイトルを考えてみると……、
一連の事件については、なかなか《真相》がみえてこない。手がかりらしきものを見つけてたどっても、その「線」はなかなか「焦点」を結ばない──それで『ゼロの焦点』なのだろうか? などと、そんな可能性も頭をかすめた。


「解説」にあった平野謙氏の《疑問》
小説『ゼロの焦点』について不備を感じるのは僕だけではないようだ。
『ゼロの焦点』の新潮文庫版(昭和46年2月20日発行)では本文の後に平野謙氏による「解説」が載っているが、この中には次のような記述がある。


なぜ宗太郎や本多は殺されねばならなかったのか、という疑問に十全な解決が与えられているとはいいがたいのである。憲一と久子とが死ねば充分であって、宗太郎や本多を殺す必要はなかった、というのが私のひそかな意見である。
 なぜこんなことをあえて書きとめておくかといえば、『ゼロの焦点』を一種の謎解き小説ととみれば、その謎解きの構造は完璧のものではない、というのが現在の私の意見だからである。(『ゼロの焦点』解説:平野 謙 P.408)


平野氏は、(犯人が)《宗太郎や本多を殺す必要はなかった》と考えたようだが、この点については僕の解釈と違う。犯人は、自殺として処理された〝曽根益三郎〟の擬装工作がバレ、他殺であると発覚することをおそれて犯行に及んだのだろう──僕はそうとらえている。
鵜原憲一の行方を追っていた宗太郎や本多が、死亡した〝曽根益三郎〟と鵜原憲一が同一人物であったことをつきとめれば、東京で結婚した妻・禎子には「十二日には帰れると思う」と絵はがきをよこし、内縁の妻・田沼久子には遺書を残していることから、これが田沼久子と縁を切るための擬装工作(荒海の断崖の上に揃えた靴や遺書を置けば、死体が上がらなくても自殺に見える)だと判断されるのは自明の理だ。しかし、それであれば生きているはずの鵜原憲一(曽根益三郎)が、実際には死んでいる──ということは自殺は擬装工作であったが、これを利用して彼を殺した者がいるということになる。
自殺で片がついていた懸案が殺人事件として蒸し返され、本格的な捜査が始まることを犯人はおそれ、それを未然に防ぐために宗太郎や本多を殺害するに至った──というのが僕の解釈だ。
しかし、「解説」をまかされるほどの人が《疑問》を感じるほどに、『ゼロの焦点』の《謎解きの構造》には難があるということは言えるだろう。


映画『ゼロの焦点』(松竹/1961年)との比較
02ゼロの焦点1961
原作小説を読む前に僕は映画で『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ている。原作小説と映画(松竹/1961)で感じた違いなどを少し記してみたい。
小説と映画では表現手法が違うので、それぞれにふさわしい見せ方があって、当然、映像化するさいにはある程度の改編が必要になる。
物理的にも長編小説の内容をそのまま映像化しようとすれば、上映時間枠にはとてもおさまらなくなる。映画化するにあたっては、場面数を整理したり、人物の役割り分担を変更することもあるだろう。それにあわせてセリフの変更や再整理も必要になる。映像として魅せるための工夫も加えながら再構築するわけだから、原作小説とは違った部分がでてくるのはしかたない。ちなみに『ゼロの焦点』(松竹/1961年)は1時間35分の作品になっていた。この中に長編小説のエッセンスが凝縮されている。


禎子の旧姓
鵜原禎子の旧姓が、小説では「板根」だが、映画では「岡崎」になっていた。文字で読むぶんには「板根」で問題ないと思うが、映画の音声では「イタネテイコ」より「オカザキテイコ」の方が耳障りが良いと考えたのだろうか?
小説では主人公・鵜原禎子の視点にほぼ限定された展開で描かれており、そのため《謎解き》も禎子の推理でしかなく、それが客観的に確かめられるシーンがなかったため、なんとも歯がゆい幕切れになってしまっていたが、映画(松竹/1961年)では、禎子を主人公にしながらも、禎子の推理を語る場面や犯人が真相を打ち明ける場面では、禎子不在のシーンが描かれている。小説に無かったシーンとしては、ラストの断崖での禎子と犯人の対峙と真相の告白/弟の行方を追う鵜原宗太郎と犯人の対峙/断崖の上で投身自殺を擬装する鵜原憲一が犯人に突き落とされるシーン/曽根益三郎(鵜原憲一)と田沼久子の暮らしなど。そうした部分は小説よりも観客に伝わりやすかったろう。


2枚の家の写真
映画で矛盾を感じたのが、《2枚の家の写真の意味》だった。小説では鵜原憲一が出張先で再開した元パンパンの住む家ということで(?)撮影されたもので、憲一が金沢赴任して間もない頃のものだろうということになっている(憲一は赴任先で出会った室田佐知子と田沼久子を当初から元パンパンだと気づいていた)。しかし映画(松竹/1961年)の方では、憲一が室田佐知子の過去に気づいたのは自殺擬装計画が立てられた後で、室田邸の写真が「元パンパンの住む家」という動機から撮られる機会はなかったことになる。映画では(でも)なぜ2枚の家の写真が撮られたのか明確に記されていない。不自然な気はするが、映画だけ観ると憲一が懇意にしていた家族の家ととれなくもない。家の写真は、禎子が曽根益三郎の家(小説では田沼久子の家)を見て、曽根益三郎=鵜原憲一だと確信するシーンで効果を発揮しており、小道具としては、田沼久子の家の写真1枚で良かったのではないかという気もする。

映画では本多良雄の方が英語力が上
小説では受付(田沼久子)のパンパン英語に気づくのは鵜原禎子だが、映画ではそれを指摘したのは本多良雄になっている。主人公の鵜原禎子が直接気づく方が本多良雄の伝聞で知るより効果的な気がするが……。小説では鵜原禎子が英語を得意とする伏線が描かれているので自然だが、場面を整理した映画ではその伏線シーンはない。それで「いきなり鵜原禎子が英語力を発揮する」よりは広告代理店に勤める本多良雄が気づく方が自然だという判断で変更したのかもしれない。

本多良雄は死なず
小説では田沼久子を追って上京した本多良雄が鵜原宗太郎と同じ手口で毒殺されている。このエピソードが映画(松竹/1961年)にはない。映画では、本多は憲一の捜索に行き詰り警察にまかせて手を引く設定に変更してある。時間枠の制限によるエピソードの整理という意味合いも大きいだろうが、「宗太郎殺しの容疑者を追っている本多が同じ手口でやすやすと毒殺されるのは不自然」という判断もあったのではあるまいか。

鵜原宗太郎の指摘
小説より踏み込んでいたのが(小説には無かった)鵜原宗太郎と犯人の対峙シーンだ。複雑な人間関係をセリフで説明しているのでわかりにくいところもあるのだが、「夫(鵜原憲一=曽根益三郎)は自殺した」と話す田沼久子になりすました室田佐知子に対し、宗太郎は「憲一には死ぬ理由が無い。もし本当に死んでいたというなら殺人だ」とまくしたてる。曽根益三郎が残した遺書があるという主張には「曽根益三郎は遺書を書いたが、憲一は書いていない。本当に自殺するつもりなら鵜原憲一が書いた遺書もなくてはおかしい」という指摘をし、死んだというのは何かの工作で、生きているはずだと迫る。そして、あくまでも自殺と言い張るのであれば、警察の手を借りて徹底的に捜査してもらうと犯人を追いつめる。その結果、宗太郎は毒殺されてしまう。曽根益三郎(鵜原憲一)の擬装死に関してこのような矛盾の指摘は原作小説にはなく、宗太郎が殺されねばならなかった必然性が映画では明確化されていた。

映画では禎子は警察に推理を話している
小説では鵜原禎子が警察に非協力的な点や《鵜原憲一=曽根益三郎》とわかった時点で警察に届けない点について疑問を感じたが、映画では展開が早いせいもあって非協力的な印象は無い。《鵜原憲一=曽根益三郎》と気づいた後、禎子は警察でこの話をし、内縁の妻(田沼久子)が別れ話のもつれから曽根益三郎(鵜原憲一)を殺して、それを隠すために宗太郎を殺した──という推理を話している。
(しかし、警察は鵜原憲一の書いた遺書があり、筆跡も本人のものと確認されているとして、憲一の死は自殺と断定した)


印象的な断崖での対決シーン
小説にはなかったシーンで強く印象に残ったのが、クライマックス〜ラストシーン──海辺の断崖(鵜原憲一が殺された場所)で、鵜原禎子と真犯人・室田佐知子が対峙するシーンだ(室田儀作を含め崖の上には3人が立つ)。ここで、禎子の推理と佐知子の語る真相が交錯する。強風と荒波にさらされた断崖は映像的にも見せ場の効果を高めていた。
禎子の推理では自殺の擬装をもちかけたのは室田佐知子だったが、室田佐知子の告白では憲一主導だったとしている。他にもいくつかの点で禎子の推理とは違っていた事実が、小説には無かった解釈・アレンジを加えながら描かれている。真相を語り終えた室田佐知子は走り去り儀作がそれを追って、断崖には鵜原禎子が独り残される(佐知子は自害したことが禎子のナレーションで流れる)。
小説を読む前にこの映画を観た時は、説明的で長い《謎解き》シーン(1時間35分の作品のうち最後の37〜38分が断崖シーン)が「スマートでない」と感じたが、原作小説のぐだぐだぶりに比べれば、むしろ「原作をよく、ここまでまとめたな」という気がした。
いくらか強引と感じるところもあったが、『ゼロの焦点』を原作とする映画としては、この作品(松竹/1961年)は成功していると言えるだろう。


『ゼロの焦点』のおもしろさ
僕がこの作品で面白いと思ったのは──、
《葬り去りたい過去を持つ者が、現在の自分の成功を守ろうとして講じた策によって、かえって身を滅ぼすことになる》という皮肉な構図だ。
ことの発端はといえば、結婚して東京に栄転したエリート社員・鵜原憲一が、出張先での同棲生活を葬るために自殺の擬装をはかったことだった。同棲していた相手をだますのだからひどい話ではあるが、これは暴力を行使するような凶悪なものではない──殺人とは次元の違うゴタゴタだった。しかし、憲一がニセの遺書を書いたことで、これが「葬り去りたい過去」を持っていた室田佐知子に実行(殺害)の機会を与えることとなってしまい、室田佐知子は秘密を守るために、さらに殺人を繰り返し、結局、自害するはめになってしまった……。鵜原憲一も室田佐知子も、現在の幸福を守ろうとして、その足をひっぱりかねない過去を葬る工作をし、自らの足をすくわれた形だ。憲一の策謀に同じ動機の佐知子の策謀を重ねた着想に因数分解のような美しさと巧さを感じた。
小説の中では、鵜原憲一・鵜原宗太郎・本多良雄・田沼久子・室田佐知子が死んでいるが、鵜原憲一が内縁の妻と縁を切るための擬装を画策しなければ、これら5人が死ぬこともなかった。そう考えると、何をきっかけに人生が大きく変わるかわからない……人の弱さ・愚かさ・切なさ・やるせなさを感じさせる作品でもあった。


『ゼロの焦点』タイトルの意味

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