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人気作品の映像化について思うこと

少し前に『ゼロの焦点』についての感想を記した。映画(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)と原作となった小説(作:松本清張/新潮文庫)の両方を鑑賞してみたわけだが、1961年松竹版の映画はよくできていたように思う。

人気が高い小説や漫画を映画化・テレビドラマ化することはよく行われている。原作のファンも多いし話題にもなるから、観客導引力があるとか視聴率がとりやすいという理由から映像化がはかられるのだろう。しかし、それが成功している例は意外に少ないように思う。「観てガッカリした」と感じた経験を持つ原作ファン決して少なくないはずだ。制作側は、そこそこ観客が入り視聴率がとれれば(評判はどうあれ)「成功」と考えているのかもしれないが、純粋に作品としてみた場合、「原作(小説・漫画)に匹敵するかそれ以上の作品(映画・ドラマ)になったか」といえば「残念な出来」に終わるものが大半ではないだろうか?

最近、人気作家の原作によるドラマ(旧作)をいくつか観たが、「失敗例」に共通する要因を感じた。これは昔から度々感じていたことなのだが、あらためて記してみる。具体的な作品や内容には触れないが、それぞれの視聴体験に照らしてみれば「そうそう」と思い当たる点があるのではなかろうか……。


脚本家の自己顕示欲(?)が作品の足を引っ張る!?
脚本で「よけいな演出を加えて作品を台無しにしている」と感じることが少なくない。小説や漫画を映像化するにあたって、ある程度の改編はしかたない。しかし、脚本家(あるいは監督の意向?)は改編するにあたって、原作にはなかったアイディアを盛り込んで映像版に付加価値をつけようとしたがる(?)きらいがあるように感じる。「ただ原作をなぞるだけでは物足りない(創作意欲が満たされない)」という感覚があるのだろうか。せっかく映像化するのだから(?)オプションとして独自のアイディアを盛り込みたいという欲求──脚本家の自己顕示欲のようなもが働くのかもしれない。それ自体を否定するつもりは無いが……新たに導入するアイディアが、視聴者の関心を本来のテーマとは別のところに向けてしまうようなものであれば、興味の焦点が分散し、キレの悪い印象を残すことにもなりかねない。
脚本家としては工夫を凝らし、新たな価値を上乗せしたつもりなのかもしれないが、オプション・アイディアが原作の足を引っぱっている作品はめずらしくない。不純物が混じることで完成度(純度)が落ちるといったらいいのか……例えてみれば、クラシックを聴きに行ったのに、毛色の違うタンバリンが演奏に飛び入り参加してきた……みたいな「台無し感」である。

映像化に向けての新たな解釈・アイディアがあるとすれば、その作品の核心を明確化するためのものであるべきだ。コンセプトがブレたり分裂するようなものであってはならない。視聴者の関心・興味をどのように誘導して効果的な印象に昇華させるか──が大切なことであって、視聴者心理の動線を乱すような付加価値は持ち込むべきではない。

また、脚本家がその作品を通して言いたいことを安易に渦中の登場人物に語らせてしまうというのも、ありがちなガッカリ・ポイントだ。クライマックスのシーンで登場人物の口からでた言葉に唐突感・違和感を覚えてシラケてしまうことがままある。「そのセリフは、登場人物の言葉ではなく、脚本家が言いたかったことだろう」というパターン。
本来なら「説明」によってではなく、脚本の巧みな心理誘導によって視聴者が感じるべき核心テーマ(感銘部分)を、登場人物のセリフで「説明」してしまうというのは、かなりヤボで押しつけがましい。
作品の中で「浮いたセリフ」「違和感のあるシーン」は原作に無い映像版の演出であることが多い。とってつけたような人生観・哲学的テーマの説明は、深いことを語らせたつもり(?)で、むしろ軽薄さを感じさせる。これもよくある「台無し感」の典型という気がする。

ところで、「台無し」にされてしまうことが多い映像化について、原作者はどのように感じているのだろう。
自分が描いた作品がテレビドラマや映画化になれば、原作に対する注目度も上がり、原作が多くの人に読まれる機会が増える──原作が売れるのは喜ばしいことのはずだ。しかし映像作品の出来が「残念」だった場合、原作のイメージが毀損されることにもなりかねない。原作を読む前に映像化された作品を見て「読む気がしなくなった」という人だっているかもしれない。
もっとも、総合的には映像化による宣伝効果の方が勝って、原作の売り上げは伸びることになるのだろうが……手放しで歓迎できることでもないような気がする。
原作ファンは好きな作品が映像化で「なげかわしい」姿にされるとガッカリするものだ。映像化で多くのファンがガッカリすることになれば、原作者としても喜んでばかりはいられないだろう。

以前、(生前の)光瀬龍先生に、そんなことを尋ねてみたことがあったのだが、映像化によってもたらされる収益について「あれは迷惑料みたいなもんだよ」と笑っておられた。
「作品は世に出た時点で作者の手を離れている」とか「原作と映像化作品は別物」といった割り切り方はしているだろうと思っていたが、《迷惑料》という言葉は予想していなかった。
具体的な例についての言葉なのか一般的な話としての言葉なのかわからないが、《迷惑料》という言葉には妙に納得したのを覚えている。


松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

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松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

松本清張・作『ゼロの焦点』(新潮文庫)を読んでみた
01ゼロの焦点新潮文庫
少し前に邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ておもしろかったので(*)原作(小説)の方でも読んでみたいと思っていたところ、ブックオフで文庫版をみつけたので購入。それが『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫/昭和46年2月20日発行/平成16年4月20日百刷)で、カバーの裏表紙側にはこのような文章⬆がそえられていた。
内容を知らずにカバーの紹介文を目にした、これから読者になるかもしれない者に「《失踪した夫の鵜原憲一》は《自殺として処理されていた曽根》だった」という重要な謎の一端をバラしてしまうのはどうかと思う。このカバーを読んだ読者は作中で明かされる前に、失踪した鵜原憲一が死んでいることを知ってしまうことになり、「曽根」という名前が出てきた時点で、(主人公・禎子は気づいていないのに)それが失踪した禎子の夫だとわかってしまう。本来であれば主人公の禎子がその真相に気づいた時点で読者にもわかる方が新鮮な驚きが伝わるはずで、作者も当然そのつもりで書いていたはずだ。本編後の「解説」で内容についてある程度ふれるのは仕方が無いが、本編を読む前に(本を買う前に)読まれるだろうカバーに「しかけ」を明かすネタバレは不適切な気がする。

僕は原作(小説)を読む前に映画(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)で『ゼロの焦点』を見ているので、当然、カバーのネタバレ内容についても知っていたし、(映画化で改編された部分はあったにしても)内容のアウトラインはすでにわかっている状態で小説を読んだ。だから内容を知らずに読んだ場合の第一印象とは、また違った感想ということになるが……映画(松竹/1961年)を観たあとに小説(原作)『ゼロの焦点』を読んで感じたところを記してみたい。


小説版(原作)『ゼロの焦点』の感想
読み始めてまず感じたのは、映画(1961年松竹版)を観ているので、小説(原作)の『ゼロの焦点』はおもしろく読み進むことができた──ということだ。ストーリーのアウトラインは映画でだいたいわかっている。もちろん映画にするために改編された部分はあるにしても、人物関係や流れは頭に入っているので、「どんな展開になるのか、やきもきして先を読み急ぐ」必要もない。そのため「その場に置かれた鵜原禎子(主人公)の心情」をじっくり味わいながら読むことができた。映像よりも文章の方が登場人物の心の変化を的確に描くことができる。心理描写の味わいは映画以上のものを感じた。小説にしろ映画にしろ、ストーリーは大事だが、そのドラマの中に置かれた登場人物たちの心情(驚きや葛藤などのリアクション)に読者や視聴者は共感する。

主人公の(旧姓・板根)禎子は、鵜原憲一と見合い結婚をしたが、夫という身近な存在になった10歳年上の男について、まだ未知の部分が多い。ある日を境に夫婦になった見知らぬ男女が、どのように互いを感じ、知っていくのかという意識の変化を新婦の禎子の視点で描いていく展開が、小説では新鮮に感じ、興味深かった。
そんなわけで、読み始めてしばらくは小説(原作)もいいなと感じていたのだが、後半は事件を整理するための「説明」が増えていき、前半にあった小説としての味わいはどんどん薄れていく……終盤になると、それまでの展開に整合性をもたせるための辻褄合わせに追われて小説的な広がりが失われてしまった印象がある。
映画(松竹/1961年)では最後に犯人の自白でことの真相が明かされるシーンがあったが、小説ではその場面はなく、事件の真相については全て「鵜原禎子の解釈(推理)」で語られいる。この推理が「なるほど!」とストンと納得できるものであれば良いのだが、憶測が多く長いばかりの説明は説得力に乏しい。その推理のどこまでが真実なのか不明瞭なところがあって読後感もスッキリしない。
モチーフ・着眼・テーマなどはおもしろいし、心理描写も前半は良かったのに、後半は冗漫な説明に流れ、最後はぐだぐたになってしまっているのが残念でならない──というのが、小説『ゼロの焦点』を読んでの全体的な感想。具体的に気になった部分・疑問などについては、あらすじを記したあとに述べてみたい。


『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫)あらすじ ※ネタバレあり
主人公は見合い結婚をしたばかりの鵜原禎子。夫となった鵜原憲一は大手広告代理店の北陸(金沢)出張所主任で、結婚を機に東京本店に栄転、東京で禎子との生活をスタートさせるはずだった。憲一は業務引き継ぎのため、最後の金沢出張に出かけるが、そのまま行方知れずになってしまう。
東京で夫の帰りを待っていた禎子だが、予定の日をすぎても憲一は戻らず、連絡もとれない。憲一の会社でも憲一の所在がつかめず困っていた。禎子は夫が消えた北陸へおもむき、憲一の後任・本多良雄とともに夫の行方を探す。憲一の得意先で懇意にしていた耐火煉瓦会社の室田儀作社長の自宅を訪ねたとき、その家の外観が憲一の所持していた写真と同じであることに禎子は気づく。禎子は憲一の出張中、彼が所持する法律関係の洋書にはさまれていた〝2枚の家の写真〟をみつけ、怪訝に感じていたのだが、その1枚が室田の家を撮ったものだった。室田家では、結婚が決まって幸福なはずの憲一がふさぐような様子をみせていたという話を聞かされるが、憲一の行方につながる糸口は見つからない。
当初は楽観していた憲一の兄・鵜原宗太郎も金沢へやって来るが、弟の行方を追っているうちに宗太郎自身も行方不明になってしまう。そして宗太郎は遺体となって発見される。青酸カリ入りウィスキーによる毒殺であった。憲一の失踪にからんだ殺人事件が起きたのである。
宗太郎が殺害された事件では、派手な服装の女が容疑者に上がっており、この犯人と思われる女がパンパン(米兵相手の売春婦)風だったことから、禎子は憲一の前歴──風紀係巡査として立川でパンパンを取り締まっていた過去とのつながりを考える。憲一の取引先である耐火煉瓦会社をたずねた禎子は、受付嬢が外国人と交わす英会話を耳にし、それがスラング混じりのパンパン英語だったことに気づいく。
受付嬢は田沼久子──最近、内縁の夫・曽根益三郎を亡くしていた。それは遺書を残しての自殺で、曽根益三郎の自殺は憲一の失踪と時を同じくしていた。
禎子と本多良雄は田沼久子を調べ始めるが、今度は久子が姿をくらましてしまう。本多良雄は某かの情報を得て、東京へ高飛びした田沼久子を追って上京し、その間、禎子は久子の内縁の夫だった曽根益三郎の情報を求めて、田沼久子と曽根益三郎が暮らしていた家までやって来る。そこで禎子が見た久子の家は、憲一が所持していた〝もう1枚の家の写真〟に合致していた。禎子は「田沼久子の内縁の夫・(自殺した)曽根益三郎」と「禎子の夫・(失踪した)鵜原憲一」が同一人物であったことを確信する。
金沢の宿に戻った禎子を待っていたのは本多良雄が死んだという知らせだった。田沼久子を追って上京した本多良雄は宗太郎と同じ方法──青酸カリ入りのウィスキーで毒殺されていたのだ。殺害現場は東京のアパートで、前日に部屋を借りた杉野友子という女は事件の発覚前に現場から逃げ出している。

禎子は、杉野友子が田沼久子であると推理するが、その田沼久子も崖下に転落死しているのが発見される。警察は東京で〝杉野友子〟の偽名でアパートを借りた田沼久子が本多良雄を殺害し、警察の追及が迫っていることを知って自殺したものと判断した。

姿を消した鵜原憲一。その行方を追っていた鵜原宗太郎が毒殺され、その犯人と思しき田沼久子を追っていた本多良雄もまた毒殺された。そして、犯人かに思われた田沼久子までも死体となって発見された……いったい何がどうしてこのようなことになったのか。
手がかりを求めて禎子は、かつて憲一が風紀係巡査として勤めていた立川署へでかけ、憲一の同僚だった葉山に、死亡した田沼久子の顔写真が載った地方紙を見せて見覚えがないかたずねる。すると同じ写真を持って同じことを聞きにきた者がいると言う。耐火煉瓦会社の社長・室田儀作であった。

禎子は推理をめぐらせ、一連の事件の背景には憲一と懇意にしていた耐火煉瓦会社の社長・室田儀作がいたのではないかと考え始める。室田儀作を疑った禎子だが、偶然目にしたテレビ番組──終戦直後の婦人問題をテーマにした座談会で、当時GI相手をしていた女性は今どうしているのか……案外立派な家庭におさまっているのではないか──という話を聞いて、社長夫人の室田佐知子が真犯人だったのではないかと思い当たる。地方の名士であり知的で華やかな佐知子に禎子は好感をもっていたのだが、この佐知子が田沼久子同様に元パンパンで立川時代の鵜原憲一と接点があったと考えると、すべてのつじつまがあうと禎子は考えた。
地方の名士となっていた室田佐知子にとって、過去の秘密(パンパン時代)を知っている鵜原憲一は潜在的脅威だった。そこで、鵜原憲一が(禎子と結婚したことで)田沼久子との関係を清算するのに悩んでいたとき、〝曽根益三郎〟の自殺擬装を持ちかけた。憲一に〝曽根益三郎〟名義の遺書を書かせて崖縁に置かせ、背後から突き落として殺害──こうして投身自殺を擬装したのではないか。憲一の死体は、残された遺書から〝曽根益三郎〟の自殺として処理された……。
それが真相であろうと確信した鵜原禎子は、室田邸へ向かうが、室田夫妻はでかけていた。その行く先を追って禎子がたどりついたのは、憲一が殺害された海辺の断崖だった。そこには沖を見つめる室田儀作が立ち尽くしていた。彼の見つめる先には、儀作に一連の犯行を告白した後、荒れた海に小舟で漕ぎ出した室田佐知子が消え行こうとしていた。


2枚の家の写真の意味?
一番最初にでてくる手がかり(?)らしい《謎》が、鵜原憲一が法律関係の洋書の間に保存していた「2枚の家の写真」だ。1枚は立派な家で、もう1枚はみすぼらしい民家という対照的なもので、写真の裏にはそれぞれ「35」と「21」という数字が書き込まれていた。思わせぶりな数字だが、この意味については結局最後まで明らかにされていない。立派な家は鵜原憲一が懇意にしていた室田儀作・室田佐知子が住む家で、みすぼらしい家は田沼久子が内縁の夫・曽根益三郎と暮らしていた家だった。「昔パンパンだった女(室田佐知子・田沼久子)が現在暮らしている家」という共通点があったわけで、作者はそういった記号として設定したのだろうが……鵜原憲一がどうしてわざわざ写真に撮って2枚だけ別に保存していたのか、ちょっと腑に落ちない感じが残った。

メイントリックの不備!?
この作品を支える主要なアイディアの1つが次のようなものだったろう。

・地方に出張していた男Aが出張先で偽名を使い、Bとして、女Cと同棲していた。
・Aは東京に栄転し結婚することになり、Cとの関係を清算しなければならなくなる。
・ところが、Cとの別れ話がもつれ、AはBの自殺を擬装してCとの関係を断ち切ることを考える。
・万事上手く解決かと思われたが、この擬装に乗じてA(B)は実際に殺害されてしまう。遺体はBとして処理され、Aは失踪したことになる。


面白いアイディアだ。『ゼロの焦点』では、鵜原憲一(A)が出張先で〝曽根益三郎(B)〟として田沼久子(C)と内縁関係を結んでいたという設定をとっている。この二人が、憲一の出張先で初めて知り合った関係であれば、このアイディアは成立するのだが、『ゼロの焦点』ではテーマにからめてだろう──田沼久子をパンパンあがり女として設定し、過去に立川署で風紀係をしていた鵜原憲一と接点があったことにしている(当時は顔見知り程度で久子は鵜原の名を知らなかった)。二人に立川時代の接点が無ければ、偽名の〝曽根益三郎〟が死んだとき、田沼久子は彼の本籍を知ることができず、遺体は〝曽根益三郎〟として処理されてトリックは成立する。しかし『ゼロの焦点』の設定では田沼久子は彼が昔、立川署の巡査だったことを知っている。埋葬の過程で必要となる彼の本籍は久子が立川署に問い合わせれば、簡単に本名とともにわかったはずである。そうなればこのトリックは成立しない。アイディア自体はおもしろいのだが、『ゼロの焦点』では欠陥があったといえる。
この欠陥は映画を見ているときには気がつかなかった。小説では町役場をおとずれた鵜原禎子が〝曽根益三郎〟の本籍についてたずねるシーンがあって、「本籍がわからないので、しかたないから本籍分明届を出してもらって埋葬許可証を出した」という説明を受けているくだりがある。これを読んで、田沼久子なら立川署に問い合わせることで彼の本籍とともに本名を知ることができただろうと想像が働いた。原作小説ではディテールの整合性をとるために細かい説明を書き込んでいるが、読者の意識を「細かいこと」に誘導することで、かえって細かい疑問を生みやすいものになってしまった感がある。


毒殺犯はなぜわざわざ派手な服装をしたのか?
失踪した鵜原憲一の行方を追っていた兄の鵜原宗太郎は、青酸カリを混入したウィスキーで毒殺されてしまう。この事件に関しては犯人と思われる派手な服装の女が鵜原宗太郎と一緒にいたという目撃情報があって、禎子は、派手な服装➡パンパン➡パンパン英語を話す受付嬢(田沼久子)と連想することになる。事件を追う方・読者からすれば、わかりやすい記号だが、その女が元パンパンであったとしても、これから人を毒殺しようとする犯人が、わざわざ人目をひく派手な服装を選ぶだろうか──という不自然さを感じた。後の禎子の推理では、女が持っていたスーツケースの中味は着替えで、派手な服は変装だったと解釈している。しかし、変装だとしても、場にふさわしくない服装は不自然であり、目立つことによるリスクの方が大きいのではないか。目撃情報によって犯人と思われる者が女であることがわかったわけだが、派手な服装をしていなければ鵜原宗太郎と一緒にいても目撃した人の印象には残らず、犯人が「女」だったという目撃情報も上がってこなかったかもしれない。擬装(変装)のためにわざわざ目立つというのは、犯人にとって無謀な気がする。

なぜ本多良雄は犯人の出した毒入りウィスキーを飲んだのか?
鵜原宗太郎を毒殺したと思われる女を追って上京した本多良雄は、その女が出した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる。本多良雄は「鵜原宗太郎が、女の用意した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる」ということを知っている。その犯人と思われる女が出したウィスキーをあっさりと飲むものだろうか?
この展開にも不自然さを感じた。ちなみに映画(松竹/1961年)では本多良雄の殺害エピソードはない。


鵜原禎子はなぜ捜査に協力しないのか?
小説を読んで理解できなかったのが、鵜原禎子が警察に非協力的なことだ。
鵜原憲一の行方を追っている鵜原宗太郎が毒殺されたあと、禎子は受付嬢の田沼久子を疑うが、そのことを警察には告げていない。宗太郎は失踪した鵜原憲一を追っていて殺されたのだ。同じように憲一を探している鵜原禎子や本多良雄が狙われる危険は大いにある(その後、本多は殺されることとなる)。自分の身を守るためにも思い当たる手がかりは何でも警察に話して捜査協力し、一刻も早く犯人を検挙してもらおうとするのが自然ではないだろうか。事件の早期解決が失踪した鵜原憲一をみつけだす近道にもなるはずである。なのに鵜原禎子が警察に非協力的なのが不可解に感じた。

本多良雄が田沼久子を追って上京したあと、禎子は田沼久子の家をたずね、「自殺した田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟」が「失踪した夫・鵜原憲一」であったことを確信するが、そのことも警察に告げようとしない。そればかりか、その日、宿に帰った禎子は本多良雄が東京で毒殺されたことを知らされ、刑事から心当たりをたずねられるのだが、禎子は〝心当たり〟を隠して無いと答えている。


刑事はうなずいた。
「そうすると、今度、本多さんが東京で殺されたことには、お心あたりがないわけですね?」
「全然ございません」(『ゼロの焦点』P.281)


さらに、田沼久子の〝自殺〟が報じられた後、禎子はその経緯を説明した刑事から、この件について知っていることはないか尋ねられるシーンがあるのだが、禎子はやはり隠して嘘を答えている。

「この間うかがったことを、もう一度おたずねするようですが、田沼久子と本多さんの関係を、本当にごぞんじないんですか?」
「本多さんのことは、この間も申しあげたとおり、主人の友だちというだけで、私生活のほうは、まったくぞんじあげておりません」
 禎子は答えた。
「ですから、田沼久子さんというひとのことは、全然、私は知らないのです」(『ゼロの焦点』P.313〜P.314)


禎子は作中で何度も警察を訪ね情報を得ているのに自分が持っている情報をなぜ隠すのかわからない。禎子が田沼久子に疑いを持った時点で警察に話していれば、事件はもっと早く解決し、後に起こる本多良雄殺しや田沼久子と室田佐知子の死は防げたかもしれない。
小説前半の繊細な禎子なら、自責の念にかられてもよさそうな気がするが、作者は「説明」に忙しくなって、内省を描く余裕がなかったのか……?


失踪した夫が見つかったのになぜ警察に届けないのか?
この作品における主人公・鵜原禎子の主目的は《失踪した夫探し》であったはずだ。それなのに、「自殺として処理された田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟が、失踪した夫・鵜原憲一である」と気づいた後も、禎子はそのことを警察に報告していない。これはずいぶん不自然なことに感じた。警察に届ければ、それが禎子の夫であることが確認されるだろう。その事実は進行中の殺人事件の捜査にも重要な意味を持つことになるはずだ。
また、警察の捜査を別にしても──探していた夫をようやくみつけたのに、他人として、他の女の内縁の夫として死亡した扱いになっている──その状態に、正妻である禎子は何も感じないのだろうか? 遺骨や墓、戸籍の問題をきちんと正したいとは考えなかったのだろうか? 小説の前半では禎子の心理が克明に描写されていたのに、後半は事件の説明に追われ、辻褄合わせに気をとられて、禎子の心理についてはおざなりになっている印象が否めない。


事件の真相は禎子の推理でしかない
鵜原憲一の謎の失踪から始まり、それを追っていた鵜原宗太郎や本多良雄が殺され、犯人かと思われた田沼久子も遺体となって発見される……一連の事件は誰が何のためにどのようにして仕組んだものなのか──事件の核心に迫る真相の解明がクライマックス・見どころということになる──はずだ。物語の中にちりばめられてきた数々の謎がひとつにつながる──いわゆる《謎解き》である。
ところが、小説『ゼロの焦点』では事件の客観的な《真相》については明言されていない。すべて禎子の「こういうことに違いない」「おそらくこうであろう」という推理として描かれているだけで、読者としては、どこまでが《真相》なのか、よくわからない。
たとえば──、


室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない。ただ、彼女が、立川のGI相手の特殊な女性だったという裏づけは何もないのだが、おそらく、この推定には錯誤はないだろう。(P.391)

《室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない》ということをもって《室田夫人が犯人である》と断定することはできない。禎子の推理に矛盾がなかったとしても、それ以外の可能性が否定されるわけではない。《謎解き》としては何ともたよりない解説で、けっきょく読者には客観的な《真相》は明かされず、禎子の推理を肯定するのは、室田佐知子に真相を打ち明けられた鵜原宗太郎が断崖上で発した言葉だけだ。

「もう私からお話することはないでしょう。ここに来られた以上、あなたには、もう、すべてがお分かりになったと思います」(P.398)

「昨夜、和倉に来て、家内を、私は問いつめました。家内は事実を告白しましたよ。もっと早く、私に打ちあけてくれていたら、こんな結果にはならなかったでしょう。私は、あなたにお詫びしなければなりません。あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です。私は、何も、家内の立場について弁解しません。ただ、私より先に宿を出た家内は、いつのまにか、船を借りて、沖に出ていました」(P.398〜P.399)


鵜原宗太郎は、その場に駆けつけた禎子がどのように推理したかを一切聞いていない。そこに来たことをもって「すべてがお分かりになったと思います」と片付けるのは、強引というより無茶なまとめ方だと感じた。
「あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です」と室田佐知子が犯人であることを認めてはいるが、禎子の推理のどこまでが真相に合致しているのかは明かされておらず、《真相》の不透明感はいかんともしがたい。
着想もテーマも面白かったのに、どうしてまとめ方がこれほどザツになってしまったのか──先に映画(松竹/1961年)を観ていただけに(映画には犯人が事件の真相を告白するシーンがある)小説では不完全燃焼感を覚えた。

松本清張は売れっ子だったため、多忙で複数の作品を併行して書いていたという話を聞いたことがある。『ゼロの焦点』も連載だったようなので、書きながら前に書いた部分にさかのぼって調整することができず、書いてしまったことを変更できないために後半でつじつつま合わせに四苦八苦することになり、〆切りに追われてザツなまとめ方になってしまったのだろうか……。連載時は仕方なかったにしても、書籍化するときに手を入れることはできなかったのだろうか? とはいっても、手を入れ始めるとかなり大幅に書き換えることになってしまいそうだから、忙しい売れっ子作家の清張にはそれができなかったのだろうか?


タイトルの意味・ふたたび
多忙作家だった松本清張の作品には『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルがみられるが、雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならないとき、抽象的なタイトルをつけておけば(どうにでも解釈できるので)、作品を考える時間稼ぎができる──という事情もあったらしい。
この『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ抽象的なタイトルだったのだろうか?──というタイトルの意味に関する記事を少し前に投稿している(『ゼロの焦点』タイトルの意味)。そのときは映画(松竹/1961年)を観ての意見だったが、今回、原作小説を読んでみて、改めてタイトルを考えてみると……、
一連の事件については、なかなか《真相》がみえてこない。手がかりらしきものを見つけてたどっても、その「線」はなかなか「焦点」を結ばない──それで『ゼロの焦点』なのだろうか? などと、そんな可能性も頭をかすめた。


「解説」にあった平野謙氏の《疑問》
小説『ゼロの焦点』について不備を感じるのは僕だけではないようだ。
『ゼロの焦点』の新潮文庫版(昭和46年2月20日発行)では本文の後に平野謙氏による「解説」が載っているが、この中には次のような記述がある。


なぜ宗太郎や本多は殺されねばならなかったのか、という疑問に十全な解決が与えられているとはいいがたいのである。憲一と久子とが死ねば充分であって、宗太郎や本多を殺す必要はなかった、というのが私のひそかな意見である。
 なぜこんなことをあえて書きとめておくかといえば、『ゼロの焦点』を一種の謎解き小説ととみれば、その謎解きの構造は完璧のものではない、というのが現在の私の意見だからである。(『ゼロの焦点』解説:平野 謙 P.408)


平野氏は、(犯人が)《宗太郎や本多を殺す必要はなかった》と考えたようだが、この点については僕の解釈と違う。犯人は、自殺として処理された〝曽根益三郎〟の擬装工作がバレ、他殺であると発覚することをおそれて犯行に及んだのだろう──僕はそうとらえている。
鵜原憲一の行方を追っていた宗太郎や本多が、死亡した〝曽根益三郎〟と鵜原憲一が同一人物であったことをつきとめれば、東京で結婚した妻・禎子には「十二日には帰れると思う」と絵はがきをよこし、内縁の妻・田沼久子には遺書を残していることから、これが田沼久子と縁を切るための擬装工作(荒海の断崖の上に揃えた靴や遺書を置けば、死体が上がらなくても自殺に見える)だと判断されるのは自明の理だ。しかし、それであれば生きているはずの鵜原憲一(曽根益三郎)が、実際には死んでいる──ということは自殺は擬装工作であったが、これを利用して彼を殺した者がいるということになる。
自殺で片がついていた懸案が殺人事件として蒸し返され、本格的な捜査が始まることを犯人はおそれ、それを未然に防ぐために宗太郎や本多を殺害するに至った──というのが僕の解釈だ。
しかし、「解説」をまかされるほどの人が《疑問》を感じるほどに、『ゼロの焦点』の《謎解きの構造》には難があるということは言えるだろう。


映画『ゼロの焦点』(松竹/1961年)との比較
02ゼロの焦点1961
原作小説を読む前に僕は映画で『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ている。原作小説と映画(松竹/1961)で感じた違いなどを少し記してみたい。
小説と映画では表現手法が違うので、それぞれにふさわしい見せ方があって、当然、映像化するさいにはある程度の改編が必要になる。
物理的にも長編小説の内容をそのまま映像化しようとすれば、上映時間枠にはとてもおさまらなくなる。映画化するにあたっては、場面数を整理したり、人物の役割り分担を変更することもあるだろう。それにあわせてセリフの変更や再整理も必要になる。映像として魅せるための工夫も加えながら再構築するわけだから、原作小説とは違った部分がでてくるのはしかたない。ちなみに『ゼロの焦点』(松竹/1961年)は1時間35分の作品になっていた。この中に長編小説のエッセンスが凝縮されている。


禎子の旧姓
鵜原禎子の旧姓が、小説では「板根」だが、映画では「岡崎」になっていた。文字で読むぶんには「板根」で問題ないと思うが、映画の音声では「イタネテイコ」より「オカザキテイコ」の方が耳障りが良いと考えたのだろうか?
小説では主人公・鵜原禎子の視点にほぼ限定された展開で描かれており、そのため《謎解き》も禎子の推理でしかなく、それが客観的に確かめられるシーンがなかったため、なんとも歯がゆい幕切れになってしまっていたが、映画(松竹/1961年)では、禎子を主人公にしながらも、禎子の推理を語る場面や犯人が真相を打ち明ける場面では、禎子不在のシーンが描かれている。小説に無かったシーンとしては、ラストの断崖での禎子と犯人の対峙と真相の告白/弟の行方を追う鵜原宗太郎と犯人の対峙/断崖の上で投身自殺を擬装する鵜原憲一が犯人に突き落とされるシーン/曽根益三郎(鵜原憲一)と田沼久子の暮らしなど。そうした部分は小説よりも観客に伝わりやすかったろう。


2枚の家の写真
映画で矛盾を感じたのが、《2枚の家の写真の意味》だった。小説では鵜原憲一が出張先で再開した元パンパンの住む家ということで(?)撮影されたもので、憲一が金沢赴任して間もない頃のものだろうということになっている(憲一は赴任先で出会った室田佐知子と田沼久子を当初から元パンパンだと気づいていた)。しかし映画(松竹/1961年)の方では、憲一が室田佐知子の過去に気づいたのは自殺擬装計画が立てられた後で、室田邸の写真が「元パンパンの住む家」という動機から撮られる機会はなかったことになる。映画では(でも)なぜ2枚の家の写真が撮られたのか明確に記されていない。不自然な気はするが、映画だけ観ると憲一が懇意にしていた家族の家ととれなくもない。家の写真は、禎子が曽根益三郎の家(小説では田沼久子の家)を見て、曽根益三郎=鵜原憲一だと確信するシーンで効果を発揮しており、小道具としては、田沼久子の家の写真1枚で良かったのではないかという気もする。

映画では本多良雄の方が英語力が上
小説では受付(田沼久子)のパンパン英語に気づくのは鵜原禎子だが、映画ではそれを指摘したのは本多良雄になっている。主人公の鵜原禎子が直接気づく方が本多良雄の伝聞で知るより効果的な気がするが……。小説では鵜原禎子が英語を得意とする伏線が描かれているので自然だが、場面を整理した映画ではその伏線シーンはない。それで「いきなり鵜原禎子が英語力を発揮する」よりは広告代理店に勤める本多良雄が気づく方が自然だという判断で変更したのかもしれない。

本多良雄は死なず
小説では田沼久子を追って上京した本多良雄が鵜原宗太郎と同じ手口で毒殺されている。このエピソードが映画(松竹/1961年)にはない。映画では、本多は憲一の捜索に行き詰り警察にまかせて手を引く設定に変更してある。時間枠の制限によるエピソードの整理という意味合いも大きいだろうが、「宗太郎殺しの容疑者を追っている本多が同じ手口でやすやすと毒殺されるのは不自然」という判断もあったのではあるまいか。

鵜原宗太郎の指摘
小説より踏み込んでいたのが(小説には無かった)鵜原宗太郎と犯人の対峙シーンだ。複雑な人間関係をセリフで説明しているのでわかりにくいところもあるのだが、「夫(鵜原憲一=曽根益三郎)は自殺した」と話す田沼久子になりすました室田佐知子に対し、宗太郎は「憲一には死ぬ理由が無い。もし本当に死んでいたというなら殺人だ」とまくしたてる。曽根益三郎が残した遺書があるという主張には「曽根益三郎は遺書を書いたが、憲一は書いていない。本当に自殺するつもりなら鵜原憲一が書いた遺書もなくてはおかしい」という指摘をし、死んだというのは何かの工作で、生きているはずだと迫る。そして、あくまでも自殺と言い張るのであれば、警察の手を借りて徹底的に捜査してもらうと犯人を追いつめる。その結果、宗太郎は毒殺されてしまう。曽根益三郎(鵜原憲一)の擬装死に関してこのような矛盾の指摘は原作小説にはなく、宗太郎が殺されねばならなかった必然性が映画では明確化されていた。

映画では禎子は警察に推理を話している
小説では鵜原禎子が警察に非協力的な点や《鵜原憲一=曽根益三郎》とわかった時点で警察に届けない点について疑問を感じたが、映画では展開が早いせいもあって非協力的な印象は無い。《鵜原憲一=曽根益三郎》と気づいた後、禎子は警察でこの話をし、内縁の妻(田沼久子)が別れ話のもつれから曽根益三郎(鵜原憲一)を殺して、それを隠すために宗太郎を殺した──という推理を話している。
(しかし、警察は鵜原憲一の書いた遺書があり、筆跡も本人のものと確認されているとして、憲一の死は自殺と断定した)


印象的な断崖での対決シーン
小説にはなかったシーンで強く印象に残ったのが、クライマックス〜ラストシーン──海辺の断崖(鵜原憲一が殺された場所)で、鵜原禎子と真犯人・室田佐知子が対峙するシーンだ(室田儀作を含め崖の上には3人が立つ)。ここで、禎子の推理と佐知子の語る真相が交錯する。強風と荒波にさらされた断崖は映像的にも見せ場の効果を高めていた。
禎子の推理では自殺の擬装をもちかけたのは室田佐知子だったが、室田佐知子の告白では憲一主導だったとしている。他にもいくつかの点で禎子の推理とは違っていた事実が、小説には無かった解釈・アレンジを加えながら描かれている。真相を語り終えた室田佐知子は走り去り儀作がそれを追って、断崖には鵜原禎子が独り残される(佐知子は自害したことが禎子のナレーションで流れる)。
小説を読む前にこの映画を観た時は、説明的で長い《謎解き》シーン(1時間35分の作品のうち最後の37〜38分が断崖シーン)が「スマートでない」と感じたが、原作小説のぐだぐだぶりに比べれば、むしろ「原作をよく、ここまでまとめたな」という気がした。
いくらか強引と感じるところもあったが、『ゼロの焦点』を原作とする映画としては、この作品(松竹/1961年)は成功していると言えるだろう。


『ゼロの焦点』のおもしろさ
僕がこの作品で面白いと思ったのは──、
《葬り去りたい過去を持つ者が、現在の自分の成功を守ろうとして講じた策によって、かえって身を滅ぼすことになる》という皮肉な構図だ。
ことの発端はといえば、結婚して東京に栄転したエリート社員・鵜原憲一が、出張先での同棲生活を葬るために自殺の擬装をはかったことだった。同棲していた相手をだますのだからひどい話ではあるが、これは暴力を行使するような凶悪なものではない──殺人とは次元の違うゴタゴタだった。しかし、憲一がニセの遺書を書いたことで、これが「葬り去りたい過去」を持っていた室田佐知子に実行(殺害)の機会を与えることとなってしまい、室田佐知子は秘密を守るために、さらに殺人を繰り返し、結局、自害するはめになってしまった……。鵜原憲一も室田佐知子も、現在の幸福を守ろうとして、その足をひっぱりかねない過去を葬る工作をし、自らの足をすくわれた形だ。憲一の策謀に同じ動機の佐知子の策謀を重ねた着想に因数分解のような美しさと巧さを感じた。
小説の中では、鵜原憲一・鵜原宗太郎・本多良雄・田沼久子・室田佐知子が死んでいるが、鵜原憲一が内縁の妻と縁を切るための擬装を画策しなければ、これら5人が死ぬこともなかった。そう考えると、何をきっかけに人生が大きく変わるかわからない……人の弱さ・愚かさ・切なさ・やるせなさを感じさせる作品でもあった。


『ゼロの焦点』タイトルの意味

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『ゼロの焦点』タイトルの意味

謎めいたタイトル『ゼロの焦点』の意味
ゼロの焦点@松竹
邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観た。言わずと知れた松本清張の同タイトル推理小説を映画化した作品。テレビを離脱する以前にWOWOWで放送されたものをDVDに録画していたのだが、それを久々に鑑賞してみたしだい。『ゼロの焦点』は松本清張自身も気に入っていた作品だそうで、これまで何度も映像化されている。僕が観た松竹1961年版は、主人公が夫の殺害現場である断崖絶壁で犯人と対峙し謎解きを語る見せ場(?)が説明的でスマートではない気もしたが……「葬り去りたい過去の秘密を持つ人たち」によって引き起こされた殺人事件という作品の意図(着眼)や筋書きは面白いと感じた。内容は込みいっていて感想を記すには行数を要すし、作品評はすでに多くの人がしていると思うのでここではスルーして……今回は作品の内容についてではなく、タイトルについて取り上げてみたい。

『ゼロの焦点』──このタイトルの意味するものは何?
小説にしろ映画にしろ、この作品を読んだり観たりした人の多くが抱く疑問ではあるまいか?
謎めいたタイトルであっても、読んだ(観た)後に「なるほど!」と合点がいくのが本来ならば理想のタイトルというものだろう。しかし、『ゼロの焦点』に関しては作品を鑑賞したあとにも、そのタイトルの意味するところが釈然としない。作品の内ではきれいに謎解きがなされているけれど、タイトルの謎は残されてままだ……。

有名な作品だし、興味を引くタイトルなので、その由来については明らかにされているだろうと思ってインターネットで検索してみたのだが……ヒットする「解釈」は、どれもピンとこない。『ゼロの焦点』の明確な由来はわからずじまいだった。
松本清張の作品には他にも『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルが存在するが、こうした抽象度の高いタイトルについて清張自身が時間稼ぎの苦肉の策(?)だといようなことを語っているそうな。雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならない状況(予告号のタイトル〆切は実際の作品の〆切りより早い)で、どのようにも解釈できる抽象的なタイトルにしておけば、作品を考える時間稼ぎができる──ということらしい。
『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ「あまり意味の無いタイトル」だったのではないか──というような説(?)もあって、僕が目にした中では、これが一番「そうかもしれないな」と思える解釈だった。

『ゼロの焦点』というタイトルがどのようにして決まったのか、清張自身がどこかで明言していてもよさそうな気もするのだが……僕はその情報を知らない。そこで、僕なりの推理を記してみたい。あくまでも僕の思うところであって、これから述べる解釈が正しいかどうかはわからない。

タイトルの意味を考えるにあたって、『ゼロの焦点』の内容についてチラリと触れておくと──、


主人公は新婚間もない鵜原禎子(久我美子)。夫の鵜原憲一(南原宏治)は見合いで知り合った大手広告会社のエリートサラリーマンで、結婚を機に金沢出張所から東京本社営業部に栄転──二人は東京に新居を構える。結婚して一週間目、憲一は禎子を東京に残して、仕事引き継ぎのため最後の金沢出張に出かける。ところが、憲一はいつまで経っても戻ってこない……というところから事件が展開する。謎の失踪をとげた夫を追って禎子は初めての北陸の地を踏む。夫の足取りを追っていくうちに、憲一は禎子と結婚する以前に、出張先で曽根益三郎という偽名を使って内縁の妻・田沼久子(有馬稲子)と暮らしていたことがわかる。憲一はその虚構の生活を隠蔽・清算をするために曽根益三郎(偽名の自分)の自殺を擬装しようとするが、実際に(憲一が)殺害されてしまっていたのだ……。

ところで、『ゼロの焦点』は連載開始当初のタイトルが『虚線』だったという。こちらは『ゼロの焦点』に比べれば、ちょっとわかるような気がする。「実線」に対する「虚線」という意味だろう。
その人がたどってきた人生の軌跡を「実線」とするならば、偽名を使って生きた虚構の軌跡は「虚線」と言える。鵜原憲一(実名)が禎子と暮らした東京でのくらしを「実線」とするなら、曽根益三郎(偽名)が田沼久子と暮らしていた虚構の軌跡は「虚線」というわけだ。また、禎子がたどった夫の足取り──虚構の人物・曽根益三郎の軌跡を「虚線」とみなすこともできる。
あるいは、実際に確かめられたストーリーを「実線」とするなら、禎子が想像(推理)したストーリーを「虚線」とみることもできるだろう。この「虚線」は展開の中で移ろい違った様相を見せていくことになる。

というように『虚線』というタイトルであれば、観終わった(読み終わった)あとに、「そういう意味だったのか」と思い当たらないでもない。ただ、『虚線』という単体の単語は、タイトルとしては、ちょっと弱い……。
そこで清張は、連載メディアを変更したさいに、もっと気のきいたタイトルに差し替えようと考えたのではないか……。創作をしたことがある人ならわかるだろうが、書き進めている作品タイトルの善し悪し(気に入っているか否か)は創作意欲にも反映する。タイトルなんて作品を書き上げたあとに決めてもよさそうなものだが、とりあえず仮にでもタイトルを決めておかないと気持ちよく書き出せない・書き進めにくい──という人は多いはず。タイトルをつけることによって作品のイメージが明確化し描きやすくなるからだろう。

松本清張の抽象度が高い作品タイトルを見ると『波の塔』『水の炎』『点と線』『壁の眼』『蒼い点描』『砂の器』『球形の荒野』など複数の単語で構成されたものが多い。『虚線』もこれにならって変更するなら……「虚線」をたどって事件の真相に近づいていく禎子の行動は「虚線をフォーカス」することと言えなくもない。「フォーカス」で絞られるのは点であるから、線はなじまない……とすれば「虚線」ならぬ「虚点」だろうか? 「虚点のフォーカス」というような方向でタイトルが検討されたことがあってもおかしくはないだろう。清張の感覚で言えば「フォーカス」より「焦点」がなじむ。しかし「虚点の焦点」では「点」が重複する。そこで「虚点」=「虚しい点」を「ゼロ」に置き換え、「ゼロの焦点」というタイトルに到達したのではないか?
正確なプロセスはわからないが、いずれにしても、タイトルとして見た場合、『ゼロの焦点』の方が『虚線』よりも響きは良いし、謎めいたニュアンスが強まる。読み終わった読者(観終わった観客)にはわかりづらいうらみはあるものの、総合的に判断してキャッチの良い『ゼロの焦点』を採用したのではないか──というのが僕の推理なのだが、真相はどうだったのだろう……。


松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

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《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》※佐藤さとる・作『いたちの手紙』
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松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較
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恥れメロス/今さらながら太宰治
ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳

エッセイ・雑記の目次

『カメラを止めるな!』感想(ネタバレあり)


カメラを止めるな!
http://kametome.net/index.html

何かと話題の邦画『カメラを止めるな!』──低予算のインディーズ映画で、ミニシアター2館で上映をスタートさせたところ、口コミやSNSで評判が広がり、大ヒット作となった作品らしい。絶賛する記事が多い中、「評判なっているので観たが、どこが面白いのか全然わからなかった」という感想もあり、いったいどんな映画なのか気になっていた。レンタルDVDを鑑賞してみたので、感じたことを記してみたい。
《最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。》というキャッチフレーズや、ちまたの評判からして、構成の妙や斬新さが売りの作品かと思っていたが、実際に鑑賞してみると「思い描いていたイメージ」とは違う作品だった。

内容を簡単に説明すると──(※ネタバレあり)、
《山奥の廃墟でゾンビ映画を撮っていた撮影クルーが​本物のゾンビに襲われる──というサバイバル・ドラマをワンカットで生中継する》──という無茶なテレビ企画が、テレビの下請け等で細々と映像制作をしている映像監督・日暮隆之のところに持ち込まれる。腰が低く人の良い日暮監督は断ることができず、引き受けてしまう。

映画本編はいきなりヒロインが元恋人のゾンビに襲われるシーンから始まるが、これが「無茶な企画のゾンビドラマ」の冒頭で、ここから37分、ワンカットで撮影された「生中継ドラマ」が丸々展開される。冒頭のシーンで「カット」の声がかかると、監督(役)がヒロインにつめより恐怖の演技が本物ではないと激高する。「本物の恐怖」を求める監督が選んだ撮影現場は「ガチでヤバイ場所」で、スタッフが次々にゾンビ化してヒロインらを襲うという恐ろしい展開になるのだが、「本物の恐怖」を求めていた監督は嬉々としてカメラを回し続けるというもの。ワンカットシーンのラストでエンドロールが流れた後、画面が変わって、1ヶ月前にさかのぼって、この「無茶な企画のゾンビドラマ」がどういう経緯で作られていったのかが「現実側」で展開する。これがこの映画の「二度目の始まり」ということになる。

無茶な企画を引き受けてしまった、人の良い日暮隆之・映像監督には元女優の妻と映画監督志望の娘がいた。妻は役に入り込みすぎてトラブルを起こす癖があって女優を辞めていたが、他に熱中できるものを模索している状態。夫が請けたゾンビ・ドラマの脚本を何度も読んでいることから、本当はまだ女優に未練があるらしい。映画監督志望の娘は、情熱家で妥協が許せない性格。作品作りには妥協も必要だとする父を軽蔑しているふしがあるが、父が監督することになったゾンビ・ドラマにお気に入りの男優が出演することを知って母と撮影現場を見学に訪れる。

不安要素を抱えながら迎えた生中継本番当日──重要な役回りの監督役とメイク役が事故を起こし来られないとの連絡が入って現場は騒然となる。番組の放送開始時間は迫っており、代役を調達する時間もない。しかし番組の中止は許されない。せっぱつまった状況の中で、日暮隆之監督は、みずから監督役をやることに。メイク役は台本が頭に入っている元女優の妻が演じるというドタバタ決定で、とりあえず(?)生中継ワンカット・ドラマはスタートする。次々に起こるアクシデントにてんやわんやの撮影現場がこの映画の核心で、お気に入りの男優見たさに見学に来ていた監督の娘も加わって、なんとか作品を完成させようと奔走する現場スタッフの奮闘ぶりが見せ場となる。

この作品の特徴は、完成したワンカット・ドラマを最初に見せ、後にその製作過程を見せるという倒叙形式になっていることだ。最初に生中継された映像をそのまま見せ、その後のメイキング・パートで、舞台裏側からもう1度ワンカット・ドラマの製作風景を見せるという形をとっている。

本来なら「無茶な企画のドラマが持ち込まれ、これをどう成功させるか」という時間軸に沿った展開の構成を考えるのが自然だろう。「生放送中、次々に起こるアクシデントで現場がてんやわんやする」という邦画では『ラヂオの時間』が思い浮かぶが、『ラヂオの時間』は進行形で展開しており、「放送を無事に終えることができるのか!?」という最大の緊迫感が、おもしろさを成立させていた。しかし『カメラを止めるな!』では倒叙形式をとったために、観客はワンカット・ドラマを観て「番組は無事に終了する」ことを知った上でメイキング・パートを見ることになる。どうなるか結末が判っているのだから、ハラハラドキドキ感はだいぶ薄れてしまうことになる。
そんなデメリットがあるのに、なぜわざわざ倒叙形式をとったのだろう? インパクトのあるシーンを冒頭に持ってくることで一気に観客をひきつけようという狙いがあったのだろうか? ゾンビ映画で緊迫感を盛り上げであとに、「本物のゾンビが襲ってくる」シーンも含めてドラマだったという種明かしをして意外性を演出するつもりだったのだろうか?
しかし、冒頭37分の「本物のゾンビが襲ってくる」という設定のパートで、監督(役)が画面に向かってカメラ目線で叫ぶシーン(添付画像の右上のシーン)があったり、画面(レンズフィルター?)に飛び散った血しぶきが拭き取られるシーン、役者とぶつかってカメラが転倒するシーンなど、意図的に「これも撮影されている映像(作り話)」であることを示すシーンが入っている。これによって「本物」の緊迫感はそこなわれ、観客は「どういうこと?」とプチ混乱に陥って、画面への集中力が落ちる心配がある。冒頭37分のドラマの中には不自然・不可解な「間」や場面がちりばめられていて、これが後のメイキング・パートで「そういうことだったのか」とわかるようになっているのだが、「《本物のゾンビ・シーン》もドラマだった」──という種明かしをするには、きわめて不適切なタイミングでのバレ演出はどうかという気がする。

『カメラを止めるな!』公式サイトではこの作品について《他に類を見ない構造と緻密な脚本、37分に渡るワンカット・ゾンビサバイバルをはじめ、挑戦に満ちた野心作となっている》と記しているが、《他に類を見ない構造と緻密な脚本》というのは、どうなのかな……と首を傾げたくなる。倒叙形式の作品は珍しくないだろうし、作品の中で劇中劇と現実を重ね合わる手法(三谷幸喜の『マトリョーシカ』など)も目新しいものではないはずだ。脚本で色々と工夫が盛り込まれているのはわかるが、不可解な部分や不充分な部分(ゾンビ・ドラマのラストシーンの意味付けが解りにくい等)もあって、《緻密》というには上手く処理できていない課題が残る脚本だった気がする。
《37分に渡るワンカット・ゾンビサバイバル》についても──映画で37分をワンカットで撮影するというのは、確かにすごい(撮る側は大変だ)とは思うが、純粋な観客からすれば、観ているシーンが何カットで構成されているかはどうでもいいことだろう。この「37分ワンカット」も実際は生中継ではないわけだから、失敗すれば撮り直しができる。また「37分ワンカット」といっても、内容はゾンビとの追いかけっこがほとんどとなり、特に難しい撮影だとは思えない。さらに生中継の番組はドラマの設定では実は「30分」ということになっている。しかし実際には「37分」かかっているので、7分もオーバーしているわけで、これが本当の生放送だったらアウトということになる。
ちょっと脱腺するが──海外ドラマの『ER 緊急救命室』では第4シリーズの第1話(45分)が(アメリカでは)生中継で放送されたという。狭い病院の中で大勢の役者が動き回り、カメラも彼らを追いかける。セリフも多く役者の動きも複雑なドラマをどうして生放送で行うことにしたのか不思議だが、あれこそ「挑戦」だったのではないかと思う。しかもその回は、東海岸(EAST)と西海岸(WEST)の時間差で1日に2回行われたという。比較するのは可哀想だが、それに比べれば『カメラを止めるな!』の、実際は生放送ではなく、7分も予定をオーバーしているワンカット・シーンが特に難しい挑戦であったとは思えない。

それでも、この作品を多くの人が称賛したのは、冒頭(ワンカット・ドラマ)の中で怒鳴りちらしていた「イヤなパワハラ監督」が、後半のメイキング・パートで本当は腰の低い「いい人」だったということがわかり、「殺伐としたB級ホラー」だと思って観ていたら、実は低予算で無茶を強いられている弱小映像制作クルーが力を合わせアクシデントをのりこえるという「いい話」だったことから、(嫌悪からの反動で)印象が好意的な方向に傾いたためではないかと思う。
また、撮影現場のてんやわんやの中で監督の妻が密かに望んでいた女優復帰がかなったり、監督の窮地を娘がサポートし、作品づくりを通して父娘の絆を再構築するといった「いい話」も盛り込まれている。映画の最後は無事に生中継を終えることができたスタッフ・俳優・監督家族らの笑顔が次々に映し出されるが、達成感と安堵が入り交じった表情に力を合わせて1つの作品を作り上げる映画愛のようなものが感じられ、観終わったあとの印象は良い作りになっている。

限られた予算(低予算)等の制約がある中で面白い映画を撮ろうチャレンジは誰もが応援したくなる。『カメラを止めるな!』も無名の人たちがそうしたチャレンジをし、この制約を逆手に取って「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」を描いた──ふつう低予算によるチープなつくりは欠点になりがちだが、この設定によって、チープな部分はドラマ上の必然となり、「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」にむしろリアリティを持たせる利点となっている。『カメラを止めるな!』が多くの人に好感を持たれたのは、奇抜さや構成などのテクニカルな部分ではなく、(弱小映画製作グループが「制約を逆手に取って」)「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」を描いたことを「アッパレ!」と感じた人が多かったからではないかという気がする。

一方、「評判なっているので観たが、どこが面白いのか全然わからなかった」という感想も、なんとなくわかる気がしないでもない。前半のゾンビ・ドラマ部分では、ゾンビ映画としてはありきたりでこれといった「見どころ」はない。メイキング・ドラマ部分でも、中継が無事に終わることはわかっているし、特に奇抜な仕掛けもなかった。「期待していた《何か》が起こらないまま終わってしまった」と感じたのではないか?
評判になっていることで、特別な仕掛け(?)があるのだろうと期待して観た人の中には肩透かしをくったような思いになった人がいてもおかしくないかもしれない。
評判にはなっているが、あまり過度な期待(?)をもって観ない方がいいのかもしれない。普通に観れば好感の持てる映画ではないかという気がする。

余談だが、『カメラを止めるな!』のDVDをレンタルするさいに、ハズレだった時の口直し用に『ジュラシック・ワールド』も借りてきた。『ジュラシック・ワールド』は「金がかかっているんだろうなぁ」と思いながら観たが、心に響くものはなかった。
『カメラを止めるな!』と『ジュラシック・ワールド』のどちらが面白かったかといえば、僕は躊躇無く『カメラを止めるな!』を挙げる。


●邦画の感想
映画『七人の侍』の巧みさ

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映画『生きる』について
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-111.html

映画『ゼブラーマン』感想
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想
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久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』
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