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アメンボの語源・由来に疑問

アメンボは雨ん坊!?飴ん坊?飴棒!?
アメンボはよく知られた昆虫のひとつだろう。とはいっても、特に人気があるとも思えず……生態について詳しく知っている人はむしろ少ない気もするけれど……とりあえず知名度に関してはかなり高いのではなかろうか?
「アメンボ」という名前は「雨ン坊」からきているのだろう──僕は子どもの頃からずっと、そう思い込んできた。プールや池などの水面に波紋がまばらに広がるのを見て雨が降ってきたことを知ったり、水面に波紋が広がるのを見て「雨かな?」と思ったらアメンボだった──ということがあったので、水面に波紋を広げる「雨」と「アメンボ」が僕の中では結びついていた。なので自然に「雨ン坊」なのだろうと解釈し、疑うことなくそう信じ続けていたのだ。

しかし、後に知ったところによると、【アメンボ】の語源・由来は「雨」ではなく「飴」だという。カメムシ目に属すアメンボにも臭腺があって、発せられるニオイが飴に似ていることから「飴ん坊(飴の坊)」➡「アメンボ」、もしくは体が細長いことから「飴棒」➡「アメンボ」と呼ばれるようになったらしい?
Wikipedia によると【アメンボ】の語源については《本来の意味は「飴棒」で、「飴」は、臭腺から発する飴のような臭い、「棒」は体が細長いことから。「雨」と関連付けるのは民間語源である。》と記されている。

僕が信じていた「雨ン坊」語源説(?)は民間語源(語源俗解)だというのが、通説らしい。ただ、僕にはアメンボの語源が「雨」ではなく「飴」由来だというのが、どうもフに落ちない……。
アメンボはいつからそう呼ばれていたのか知らないが……語源が「飴」由来だとすれば、最初にそう呼んだ人は、アメンボの臭腺のニオイについて知っていたことになる。
アメンボの姿は多くの人が目にして知っているだろう。しかしそのニオイを確かめた人となると、はたしてどれだけいたものか? 「飴に似たニオイがする」と知らなければ、「飴」由来の呼び名をつけることもできない。
仮に、この虫の臭腺のニオイについて知っていた人が命名したとしよう。むかし昆虫学者のような人がいて、ニオイの特徴から「この虫を【飴棒】(もしくは【飴ン坊】)と命名する」と宣言していたなら──そうした文献が残っているのなら、語源が「飴」由来だと言えるのかもしれない。しかし、それほど昆虫に詳しい人が命名するなら……はたして、この虫に「飴のようなニオイ」にちなんだ名前をつけようと考えるだろうか? アメンボの特徴は、なんといっても水面で生活していることだろう。アメンボは水面に落ちた獲物が広げる波紋によってその位置を知るらしい。広げた脚がアンテナの役割りを果たし伝わってくる波形から震動源を見極めるという。水面という特殊な環境をうまく利用した昆虫といえる──この虫の特徴から名前をつけるとしたら「飴に似たニオイ」よりも「水面」もしくは「水」にちなんだものにするのが自然ではないだろうか。アメンボは漢字で「水黽」(「黽(ボウとも読む)」には「かえる・あおがえる」の意味もある)や「水馬」と記されることもあるというが、これなら納得できなくはない。

誰もが見たことのある、水面に浮かぶ姿がお馴染みのこの昆虫に、ほとんどの人が知らない「飴に似たニオイがする」というマイナーな特徴で名前をつけるたりするものだろうか?……そんな疑問が僕にはある。
アメンボをとって食う風習でもあれば「飴のようなニオイ」に気づく人も多かったろうから「飴」由来で名付けられた可能性もあるかもしれないが……ヒトの生活と利害的な接点が薄いアメンボのニオイなど多くの人は関心が無かったろう。どんなニオイがするかなど知らずにアメンボを見ていた人の方が圧倒的大多数だったはずだ。そうした人たちの中から呼び名が生まれたと考えるのが自然であり、その場合はもちろん「飴」由来ではないことになる。
僕が子どもの頃に感じたように、《水面に広がる波紋が雨のようだ》という連想から「雨ン坊」と呼ばれるようになった──と考える方が自然な気がする。水面にアメンボが広げる波紋を見て「雨かな?」と思ったことがある人は決して少なくないはずだ。少なくともアメンボのニオイを嗅いだことがある人よりは、はるかに多いに違いない。

それではなぜ、「飴」由来が正しいとされているのだろう?
僕は根拠となる元ネタ情報を知らないので、想像だが……アメンボのことを記した古い文献に【飴棒】もしくは【飴ン坊】という表記があったからではないか?
アメンボについての最古の記述が【飴棒】もしくは【飴ン坊】となっていたなら、名前の由来が「飴」にあるという解釈がでてくるのもうなずける。
しかし前に記したよう「飴」由来の名前がつけられたとは考えにくい……。もし、古い文献に【飴棒】もしくは【飴ン坊】の表記があったとしたら……それは単に《当て字》だったのではないだろうか? 多くの人が目にするこの虫には「アメンボ」という呼び名がすでにあって、これを記録するさいに「雨ン坊」と記せば、「雨」は「ウ」とも読めてしまうから──誤読を防ぐために「あめ」としか読めない「飴」を当てたのではないか? あるいは学者(?)がこの虫について聞き取り取材をしているさいに「この虫を何て呼んでいるの?」「アメンボ──飴玉の《飴》に用心棒の《ボ》」みたいなかたちで「音」の説明があって、そのまま記録されたとか……そんな可能性だってあるかもしれない?

僕にはそんな理由で「飴」ではなく「雨」由来なのではないかという思いが捨てきれないのだが……アメンボの語源を検索してみると、ネット上には「飴」由来だとする情報がたくさんヒットする。しかし、その多くは自分でそのニオイを確かめたことがない人のもののようで、おそらく同じ情報源からの孫引き情報ではないかという気がする。ちなみに僕もニオイを確かめるためにカメムシを嗅いだことは何度かあるが(*)アメンボのニオイを嗅いだことはまだ無い。一般的にはもちろん、あるていど昆虫に興味を持っている人たちの中でもアメンボのニオイを確かめた人は、そう多くないのではないだろうか? そんな薄い情報が語源になり得るのだろうか……?

童謡『黄金虫(こがねむし)』に歌われているコガネムシはチャバネゴキブリであるという説があって、これが色々なメディアでも取り上げられて拡散したことがあったが、僕はゴキブリ説には懐疑的でヤマトタマムシ説を支持している(*)。
カマキリの雪予想(カマキリは積雪量を予知して雪に埋まらない高さに卵を産む)という俗説が科学的に証明されたかのような誤った情報が拡散して、それが広く信じられてしまったということもあった。

01ゴキブリ説3本再
02カマキリの雪予想

「アメンボ」の由来が「雨」ではなく「飴」だという話も、どうなのかなぁ……と納得しきれずにいる。どこかにあった【説】が孫引きで拡散して「それが正しい」という共通認識が生まれてしまったという可能性はないのだろうか?
とはいっても、僕も「飴」由来説を完全否定するつもりは無いし、できるとも思っていない。ただ「雨」由来の方が、なじむ気がする……今のところ個人的には、そう考えているというだけのことだ。
そもそも語源というのは、どれが正しいと言い切れないものが多いのかもしれないが……それでも、つい、あれこれ想像をめぐらせてしまうのである。


【ヒバカリ】名前の由来考
昔流行った「ピーマン」語源/震源地は僕ら?


否!青リンゴの香り/オオクモヘリカメムシ
青リンゴ亀虫!?を再び嗅いでみた ※オオクモヘリカメムシ
真・青リンゴの香り/キバラヘリカメムシ
香りはどこから?青リンゴ亀虫 ※キバラヘリカメムシ
オオトビサシガメのバナナ臭
キマダラカメムシの臭腺開口部
黄金色のコガネムシ ※童謡『黄金虫』のゴキブリ説とタマムシ説
カマキリの卵のうと積雪の関係
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ありふれた奇跡:昆虫

昆虫は驚くべき能力を備えたふしぎな存在だ。しかし決して珍しいものではなく、我々の身のまわりには数多くの種類があふれている。中には益虫もいるが、大半は特に人の役に立っているわけではない。それどころか邪魔者扱いされたり嫌われたりして、駆除の対象になっていたりもする。あまりに「ありふれた存在」であるため、人はその不思議っぷりに見向きもしないし、ありがたみなど感じないというのが実情だろう。
そこで、この「ありふれた存在」である昆虫が、もし「ありふれた存在でなかったら」……と、想像してみる。この世界に、昆虫がいなかったら……誰もが昆虫を見たことも聞いたこともないとう仮想世界を思い描いてみよう。昆虫という概念が存在しない──そんな状況下で、初めて昆虫を見たとしたら、あなたは、どう感じるであろうか?
もちろん、生態系の中で大きな役割りをはたしてきた昆虫がいなければ進化のようすも今とはだいぶ違ったものになっていたはずだから「今の世界から昆虫だけがいなかったとする」という仮定は科学的にはあり得ないわけだけれど……これは頭の体操──ちょっとした思考のシミュレーション。今の暮らしの中で、昆虫だけがいない(昆虫を知らない)世界を想像してみよう……。


■リビングデッドならぬリビングシット!?
 ここはあなたの家の裏庭。あなたはサンショウの前にたたずみ枝先をのぞき込んでいる。キレイに並んでいるはずのサンショウの葉──その一部が欠けているのに気づいたからだ。本来ならば、アゲハの幼虫の食痕だとすぐに見当がつくところだが、ここは昆虫の概念が無い仮想世界なので、あなたには判らない。
(どうして、ここだけ葉が無くなっているのだろう?)
 首を傾げたあなたは、近くの葉の上に鳥の排泄物を見つける──黒っぽい糞に白い尿(尿酸の結晶)が混じったものだ。この排泄物を残していった鳥が葉を食べたのだろうか? よく見ると欠けた葉の上にも同様の排泄物が付着している。どんな鳥かはわからないけれど、食べかけの葉の上に糞を残していくとは行儀が悪いやつだ──そう思ったとき、信じられないことが起こった。葉のふちに付着している鳥糞がうごめいたのだ!
(まさか!? 鳥のフンが動くなんて──!?!)
 あなたは鳥糞を凝視する──見間違いでも、目の錯覚でもない。この鳥糞は動いている……あきらかに自律的な運動だった。
「そんな、バカな……」あなたの口から思わず声がもれる。「これはゾンビだ……ゾンビうんこだ!」
 よみがえった死者・ゾンビを「リビングデッド(living dead)」と呼ぶけれど、これは「リビングシット(living shit)」であろうか!? ゾンビもおぞましいけれど、生きた(living)うんこ(shit)だって充分におぞましい。ゾンビ映画に『バタリアン』なんてのがあったけれど……言うならこれは「糞(ババ)タリアン」!? こんなものが存在して良いものだろうか!?!
 あなたは「もしや」と思って、最初に見つけた葉の上に鎮座する鳥糞に目をもどす。落葉の柄でつついてみると、これも、やはりうごめいた……。ということは……生きたうんこをひりだす親玉ゾンビ(?)がいるということになりはしないか!? あなたは激しく動揺する。

01ゾンビ&アゲハ幼虫
 気を落ちつけて観察してみると、なんとリビングシット=ババタリアンが、サンショウの葉を食べている!? 葉の上でじっとしていると「普通に鳥のフン」そのものなのだけれど、そこから枝先へ移動して葉を食べているらしい。鳥糞体の先端には頭のようなものがあって、それが葉の縁をえぐるように動くと頭が通過した部分で葉が欠けていく。よく見ると短く小さな脚が何対かあって、これを使って葉をつかんだり、枝を移動したりしているようだ。
 どうやらこれは《生きているうんこ》ではなく、《うんこ似の生き物》らしい……。「《生き物ちっくなウンコ》か《ウンコちっくな生き物》か」なんて「《「カレー味のウンコ》か《ウンコ味のカレー》か」みたいな気もするけれど……《ウンコちっくな生き物》ならば、まだ受け入れやすい。
 とはいっても、どうしてわざわざ(?)鳥糞そっくりなのか不思議である? あまり気持ちが良いものではないけれど、珍しさから「証拠写真」を撮っておこうとあなたは思い立つ。被写体を接写しながら、ウンコを激写しているようで、なんとなく「気恥ずかしい」思いをするあなたなのであった。


■大魔神に変身!? さらに…
 この《う○こもどき》が庭のサンショウを食害していたことはわかった。ルックス的にも、とても好きにはなれないけれど、駆除のために手をくだすのも気色悪い……ということで、あなたはこれを放置。そして奇怪な姿が気になり、ついついサンショウをのぞき込んでしまうようになる。
 鳥糞そっくりのルックスであなたを驚かせた生物は、ある日とつぜん緑色にカラーチェンジして再びあなたを驚かせた。そしてその2週間後には、枝の途中で形を変えて動かなくなった。ベルトバイブレーターを使用している人のように、糸のベルトを背にかけて不動の姿勢をとっている。その姿は邦画『大魔神』の武神像に見えなくもない……。

02大魔神アゲハ蛹再
 ミイラにでもなったように動かなくなった武神像に変化が起こったのは、さらに2週間ほど経った頃だった。武神像に黒と白のもようが浮き上がっている!?──変化に気づいたあなたがのぞき込むと、武神像が身じろぎを始めた。
 驚愕の大変身は武神像の顔にあたる部分から始まった。《武神像の顔》が裂けて、その下にあった黒い体の一部がのぞく──映画『大魔神』で、動き出した武神像の顔が変わるシーンが脳裏に浮かぶ。裂け目は広がり、それを押し広げるように中から黒い体がはみだしてきた……。
 2〜3分ほどかけて武神像の殻から出現した生物は、《う○こもどき》とも《大魔神の武神像》ともまったく異なる姿をしていた。
 長い6本の脚で枝にとまり、頭部には長いアンテナが2本つきだしている。大きな1対の眼を持ち、背中にはしおれたマントをまとっていた。抜け殻のすぐ上に移動した生物は、枝に斜め懸垂をするような姿勢でとまり、やはり見たことが無いゼンマイのような口(?)を伸ばしたり丸めたりしていた。
 色や形、質感、器官・体の構造──どれをとっても、それまでとは、まるで違う……こんなものが武神像の殻を破って出てきたなんて、たった今見ていた光景がとても現実とは思えない。
 はたしてこれは武神像の新たな変身形態なのだろうか? それとも武神像の体内に巣食い内蔵を食べつくして出てきた全く別の寄生生物なのだろうか?
 あなたが呆然と眺めているあいだに、ヨレヨレだったマントが少しずつ広がっていく。マントには美しい模様がほどこされていて、カラフルな花びらのように見えなくもない。いったい、コレはどういう生き物なのか?
 あまりの劇的な変化に驚きにしばらく放心していたあなただが、この驚異的なな状況を記録しておくべきだと気づき、家からカメラを持ち出して撮影をはじめた。

 抜け殻や変身形態(?)を撮っているあいだにも、謎の生物の背から生えたマントは、徐々に伸びていく。最初はヨレヨレだったものが、やがて張られた帆のようにパリッと展開した。突然出現したこの器官は何なのだろう? 表面積を広くとるための構造であることは確かだ。植物の葉が太陽の光を受けて光合成するように、このマントも太陽光を受けて養分に変えるソーラーパネルのような役割りをするのだろうか? 表面に施された美しい模様には何か意味があるのだろうか? 頭から突き出した2本のアンテナも初めて見る器官だ。まさか、本当に受信アンテナで何者かにリモートコントロールされているわけではあるまい? この奇妙な生物が、じつは別の惑星から送り込まれた宇宙人が操るバイオロボットだったりして……などと妄想しながら、あなたは被写体にカメラを近づける──と、そのマントがとつぜん激しく動き出した。そして──、
「飛んだ!」
 高速で羽ばたく謎の生物の体は宙を舞っていた。マントは飛翔するための器官──翅だったのだ。
 あなたが、あっけにとられているうちに飛翔体は庭の上を不規則な軌跡で一まわりし、屋根の向こうに姿を消した。
 接写モードで近づいていたあなたは、突然の展開に驚くばかりで、謎の生物の驚くべき特徴──飛翔するシーンを1枚も撮ることができなかった。ただただあっけにとられて飛翔体が飛び去った空をながめて立ちつくすことしかできなかった……。


■カモノハシ以上の珍種/ネッシー以上のUMA!?
 元は鳥糞のような姿で枝を這って移動していた生物……それが成長の段階で色や姿を変えていき、しまいにはその外皮を破ってまったく異なる美しい飛翔生物にトランスフォームする!?──こんな劇的な変化が、あって良いものだろうか? 想像をはるかに超えた奇想天外な生物である。
「この驚愕のトランスフォーマーは何なのだろう?」
 あなたはインターネットで検索してみるが、(昆虫がいない仮想世界では)該当する情報を見つけることができなかった。そこであなたはSNSやブログに、撮った画像とともに謎の生物について見てきた経緯をあげて、この生物についての情報を求めることにした。
 しかし、期待した情報は寄せられず、「そんな生き物など、いるわけがない!」という批判のコメントがいくつか返ってきただけだった……。
 ガッカリしているところにテレビ番組の制作をしているというスタッフからメールが届く。ブログ記事を見て謎の生物にいて番組で取り上げたいとのことだった。テレビで取り上げられれば、正体だって判明し「ウソでないこと」が証明されるだろう──そう期待してあなたは取材に応じ、撮った画像を提供する。しかし放送された番組を見ると、情報バラエティーの1コーナーで、雪男やネッシー、カッパ、ツチノコといったUMA(Unidentified Mysterious Animal:謎の未確認動物)のような扱いだった。放送後、あなたのブログやSNSの投稿記事にはコメントが激増。そのほとんどが懐疑的・批判的な内容だった。あなたが弁明すると、これが批判コメントをあおる逆効果となって、辛辣な反論をさらに呼び込み、炎上状態となってしまう。
「鳥のフンそっくりなんて、おもしろすぎ。画像はよくできているけど、つくりものでしょ」
「あなたは飛翔生物が抜け殻からでてきたと言うけど、画像をみると、抜け殻よりもそこからでてきたという飛翔生物の方が明らかに大きいですよ。こんなものが抜け殻の中に収まっていたなんて物理的に無理だ」
「オタマジャクシがカエルになるように徐々に変化するというなら、あり得るかもしれないけど、いきなり全く違う姿に変化し、飛び回るなんて、ありえない」
 あなたのブログには「ウソだ」「フェイクだ」「捏造だ」という批判があふれ返った。「閲覧数稼ぎの詐欺行為だ」などと決めつけられてしまう……。

 実在の生物だということをあなたは懸命に説明しようとするのだけれど、(この仮想世界では)他の人は昆虫を見たことも聞いたこともないので、説得は至難のワザだ。考えてみれば、こんな奇想天外な生き物がいるなんて信じろという方が無理なのかもしれない。
 あなたはカモノハシというユニークな動物のエピソードを思い出す。卵を産み母乳で育てるカモノハシは、オスが後脚の蹴爪に毒を持つという哺乳類としては珍しい特徴を備えている。その姿もなかなか風変わりで、発見された当初、イギリスの科学者たちは標本が剥製師による偽物(ビーバーのような動物にカモのくちばしを縫い付けた物)だと疑っていたという。
 カモノハシのユニークさは、初めて見る科学者に「にわかに信じられない」と思わせるに充分だったのだろう。このカモノハシにくらべても、あなたが目にした謎の変身飛翔生物の奇抜さは飛び抜けている。標本があるのにカモノハシが存在を疑われてしまったのだから、それより奇想天外な変身飛翔生物が信じてもらえないのも無理は無いのかもしれない……。
 しばしば話題になるUMAに比べてだって、生き物としての「信じられなさ」の度合いは謎の変身飛翔生物の方がはるかに勝っている。あなた自身だって、自分の目で見ていなければ……伝聞でこのトランスフォーマーを信じることはできなかったろう。これに比べれば、ネッシーやカッパ、ツチノコが実在したというニュースの方が、まだ納得しやすいというものだ。

03UMA河童他
 反論すればするほど批判が高まるばかり……現状では信じてもらうことは難しい。世間に理解してもらうためには、もっと確かな証拠が必要だった……。

■アゲハ長者!?
 あなたは説得のための反論をあきらめ、炎上したブログ記事を封印してこの話題を打ち切った。しかし中にはしつこく、関係ない記事にまで批判コメントを投稿し続ける人がいて、あなたはうんざりしてしまう。
 そんなとき、あの謎の飛行生物がふたたび庭に現われた。サンショウのまわりを舞い飛ぶ姿を目にしたあなたは急いでカメラを持って庭に飛び出す。飛翔生物はサンショウの葉にとまって腹を折り曲げていたが、あなたが近づくと飛び去ってしまった。撮れたのはあわててシャッターを切った数枚だけだった。
 あなたとしては、飛び去るところを撮った証拠写真を公開したいところだけれど……画像を確認してみるとビミョ〜な感じ。翅はブレているので動いていることはわかるけれど……自律的に飛んでいるようにはあまり見えない。今これを証拠写真として投稿しても、「作り物を宙に放り投げて撮ったのだろう(だからブレている)」などと難癖をつけられそうだ。生半可な証拠ではかえって疑惑や批判をあおることになりかねない……。あなたは、はやる気持ちを抑えて、もっと証拠をかためてから発表すべきだろうと思い直す。
(それにしても、あれは何をしに庭に戻ってきたのだろう?)
 ふと疑問が浮かび、あなたは飛翔生物がとまって腹を曲げていたサンショウの葉を調べてみた。すると葉の裏には1mmほどの球体が貼りついていた。
(これは、あの生き物の卵!?)
 飛翔生物が産んだ卵だとすれば、ここからリビングシットが孵れば、姿も機能もまったく違う両者は同一種のトランスフォーマーということになる。
(この卵を飼育し飛翔生物まで育てることができれば──それを克明に記録することで、この生物が実在することを立証できる!)
 あなたはそう考え、飼育観察を決意する。周辺を探すと、他にもいくつかの卵と、この卵から孵ったと思われる小さなリビングシットが見つかった。

 あなたは1ヶ月ほどの観察で、謎の生物が卵から《う○こもどき》や《大魔神の武神像》を経て《飛翔生物》へと大変身をとげることを確かめ、その詳細を画像や動画に記録することに成功した。これは一代の間に信じられない超絶変態を見せる驚くべき生物だった。
 まとめた成長記録を発表するにあたって、あなたはこの生物を「あり得ない・劇(げき)的な変化をする・翅(はね)をもつ生物」の頭(文字)をとって「アゲハ」と名付けた。
 さんざんバッシングされ炎上したSNSやブログに雪辱投稿すると、予想をこえた反響があった。詳細な観察や証拠写真・証拠動画に説得力があったのだろう。今回は捏造説コメントもあったが、事実として受け止め驚くコメントが支配的だった。
 中には、少し前まで辛辣な批判コメントを繰り返していたのに、てのひらを返したように賞讃して、卵をわけて欲しいなどと虫の良いことを言い出してくる人もいた。無視していると有償でゆずってほしいと高額の提示をしてきた。
 あなたとしては自分が発見した新生物が、いろいろなところで研究され、解明が進んで、不思議さの共感が広がることは、むしろ望むところである。しかし、あなたを嘘つき・詐欺師よばわりした人たちが、あなたの発見を横取りして利益を享受するようなことになるのであれば、おもしろくない……。
 あなたは法律に詳しい人をたずね、アゲハの知的財産権を取得できないものか相談する。発明には特許権があって、小説など芸術作品には著作権がある。農作物などの品種には育成者権という、知的財産権がある。その権利を持つ人に無断で、第三者がコピーしたものを横流して荒稼ぎすることを規制するものだ。あなたがアゲハを登録することができれば、これを勝手に繁殖させて商売をすることを法的に規制できる。そしてあなたが発見したアゲハは、他では全く情報がないことから、知的財産権が認められることになった。これによってアゲハの子孫が売買・譲渡されるごとに一定のロイヤリティーがあなたに入ることとなったのである。
 知的財産権が登録されるあいだにも、あなたはアゲハの歴代飼育を続け、飼育ノウハウを確立していった。アゲハは年に5世代ほどが育ち、1匹のメスが100個ほどの卵を産む。この卵をつけた飼育セットを売り出してみると、瞬く間に完売した。《アゲハ飼育セット》は事業化し大ヒット商品となった。

 珍獣カモノハシは、生きた実物を見るのは難しい(オーストラリアでしか見られない)。しかし、生態的にはそれ以上の奇想天外さをもつアゲハは、飼育セットを購入すれば、自宅でその驚くべき生態をいつでも鑑賞することができるのだ。ネッシーやカッパ・ツチノコなどのUMAは実際にみることなどできないが、それよりはるかに風変わりなアゲハは飼育セットを購入すれば手軽にその生態を観察することができる。《アゲハ飼育セット》は世界的に大ヒットした。拡散したアゲハはネズミ算式に殖えていき、それが譲渡・販売されるたびにロイヤリティーが発生するのだから、あなたはネズミ講の元締めのようなものだ。ねずみ講は違法だけれど、この場合、実際にアゲハという商品が売買されるので合法のマルチ商法ということになる。もちろん、末端では野良化したり不当な譲渡・売買などもあるだろうが、きちんとした観察・研究・展示をする場では正規の手順で入手したアゲハが使われることになるので正規ルートの収益が途絶えることは無い。あなたはアゲハ事業で莫大な財産を築いたのであった。


昆虫は《ありふれた奇跡》
さて、《昆虫がありふれた存在でなかったら……》という脳内シミュレーション・仮想世界では、あなたを大富豪にしたアゲハ(ナミアゲハ)だが、これは現実世界では、ごくありふれた昆虫のひとつ。一般的にはあまり「ありがたみ」を感じることはない存在だろう。しかし、その驚くべき生態は、仮想世界と何ら変わりない。ありふれているというだけで、その価値が見過ごされているような気がする。生物としての不思議さを純粋に考えてみれば、これは奇跡のような存在として、もっと賞讃があって良いのではあるまいか。
また、花を愛でる園芸家には、植物を食害するものも多い昆虫は嫌われがちだが、花粉を媒介したり、ときに食害する昆虫との関係の中で植物は進化してきた。美しい花も昆虫を呼ぶために発達したわけだし、今の植物は昆虫なしには実現していなかった。園芸家も時には、そうした「ありがたみ」を思い出して昆虫に敬意をはらうことがあってもいいのではないか……そんな気がしないでもない。


昆虫の何に魅かれるのか?
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ファーブル昆虫記の違和感について

あらためてファーブル昆虫記の「なじめなさ」について
『ファーブル昆虫記』を称賛する人は多い。しかし僕にはなじめなかった──そのあたりのとろこをあらためて記してみることにする。
01アオオサムシ
昆虫への興味から『ファーブル昆虫記』を手にとったのは僕が小学生の頃だった。当時は関心のある昆虫のことが書かれているのに、なぜか「なじめない」感覚があって読書に没頭できず、内容についてはほとんど記憶に残らなかった。
最近になって、約半世紀ぶりくらいにファーブル昆虫記を読む機会があったのだが、子どもの頃に感じた「なじめなさ」は、やはりあって「好きな虫について書かれているのに、どうして読むのがストレスになるのか」という、本題とは別のところに関心が向いてしまいがちだった。おそらく小学生のころに読んだ時にも、こうした感覚があって違和感に気をとられて内容があまり頭に入らず、「なじめなさ」だけが記憶に残ったのではないか……という気がする。

ファーブルの昆虫記には文学的な修飾が多く、昆虫を説明するのによく擬人化した比喩が使われている。これが僕の「昆虫(自然物)を見る」という感覚からすると、どうにもなじめないものだった……。
端的に言えば──「自然(昆虫)に目を向けているのに、どうしてそんな(擬人化した)とらえ方しかできないのか」という違和感があって、これが読み進むうえでのフラストレーションとなっている。
たとえばファーブルは狩りをする虫のことを「殺し屋」だとか「暗殺者」などと記し、捕食行動をまるで「殺人」であるかのように表現している。しかし自然物であるところの昆虫の行動は、いってみれば自然現象である。自然の摂理・生命原理にかなったものであるからこそ成立している現象のはずだ。狩りをする虫も狩られる虫も同じ自然の摂理に従って生命活動を実践しているにすぎない。ヒトからみれば残酷に映るシーンであっても、そこにはファーブルが投影する「悪意」など存在しない。昆虫の生態(自然現象)に対し、善・悪といったヒトのローカルな価値観を持ち込み、その枠組みを当てはめて見ようとするファーブルの「とらえ方」に違和感を覚えるのだ。最近読んだ完訳版ではそうした「なじめない」感が顕著だった。
具体的な例として──『完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上』(奥本大三郎・訳/集英社)の第1章「オオヒョウタンゴミムシ/死んだふりをする殺戮者」の冒頭部分はこんなぐあいである⬇。


 戦争を職業とする者は、ほかのことは何もできないものだ。虫たちのなかでは血気盛んで喧嘩好きのオサムシの仲間がいい例である。この虫にいったい何ができるだろうか。何か物を造り出す技能という点ではゼロか、またはほとんどゼロというところだ。
 ほかに何もできないこの虐殺者は、しかし、比類がないほど豪華な、体にぴったりした丈の長い上衣を着ている。黄銅鉱、黄金、青銅の輝きをこの虫はもっているのだ。黒っぽい地味な衣裳をまとっている場合でも、その地色はきらきら輝く紫水晶で縁取られ、鎧のように体にぴたりと合った翅鞘(ししょう)には、鎖状に点々と、凸凹になった彫刻が施されている。
 しかもすらりと引き締まった紡錘形の体は堂々たるもので、オサムシは我々の標本箱の誇りといってもよいが、それは外見だけの話である。これは熱狂的な殺戮者(さつりくしゃ)、それ以外の何ものでもない。この虫にそれ以上のことを求めてはならないのである。(P.11)
 古代の知恵は、力の神ヘラクレスに愚か者の頭を付けて表現している。実際のところ、暴力をふるうだけでは、大した取り柄もないということなのだ。そしてオサムシの場合がまさにそれである。
 地味な虫でも研究の主題(テーマ)をふんだんに与えてくれるのだから、これほど華やかに飾られた虫を見れば、誰でもこれには、書き残しておくだけの値打ちのある、素晴らしいテーマがあると思うであろう。しかし、ほかの連中のはらわたをむさぼり食らうこの恐ろしい奴に、そんなことを期待するのはやめたほうがよい。オサムシにできるのは殺すことだけなのである。(P.12)


自然の摂理に従い、生きるために狩りをしているオサムシも、ファーブルにとっては「殺戮者」であり、文章からは「悪意」が感じられる。
このあとファーブルは、飼育下のオサムシに様々なエサを投入し、《この悪党の仕事ぶり》と称して捕食行動を記している。そしてニジカタビロオサムシにオオクジャクヤママユの巨大な幼虫を与えたときのようすを《殺戮に酔ったオサムシは、喜びに身を震わせながら、無惨な傷口から血をすすっている》と、まるで猟奇殺人鬼の犯行のように綴っている。
色々な昆虫を投入して展開する《惨劇》を紹介した後、オムサシについての記述はこう続く。


 オサムシには一種の刺激臭がある。これは血に飢えた荒々しい体質からくるもので、殺戮に熱中するものはみなこれをもっている。オサムシの仲間は皮膚につくとピリピリする液体を出す。サメハダオサムシは捕まえると酢のような液を出すし、カタビロオサムシに触ると薬品臭い嫌な臭いが指につく。なかにはホソクビゴミムシの仲間のように、爆薬をもっていて、プッとこれを発射して、攻撃してくる相手の顔に火傷を負わせるものもいる。
 腐食剤を蒸留したり、ピクリン酸を発射したり、ダイナマイトで爆撃したりする、闘いにぴったりの乱暴者。こんなオサムシ、ゴミムシの仲間には、殺戮以外の何ができるのか。何もできない。何の技術も、何の腕ももっていないのだ。幼虫さえもがまったく同じことで、成虫と同じ仕事をし、あちらの石の下、こちらの石の下とさまよいながら、何か悪さをしでかしてやろうと機会を窺(うかが)っているのである。(P.17)


オサムシは完全に悪役である。自然現象(昆虫の行動)に悪意を投影させた表現は、文学的ではあるかもしれないが、正しい自然の見方だとは思えない。
ファーブルはオサムシのむごさ・凄惨さを強調しているが、飼育下のオサムシに被害者となる虫を投入して《殺戮》を実行させたのはファーブル自身である。また、ファーブルは昆虫記の中で、観察や実験のために数多くの昆虫を殺している。オサムシが獲物を殺すのは生命活動の一環──「生きるため・種の存続のため」という自然の摂理に則した行為であり、生態系の一部として肯定されるものだが、ファーブルの殺生は「学問的探究心」という人間ローカルな動機であり、いってみればヒトの(ファーブルの)都合である。大義名分はオサムシの方にある。
もちろん僕は科学上の実験を批判するつもりは全くないが、「ヒトの(自分の)都合」で殺生を続けてきたファーブルが、「種の存続をかけた生命活動」を実践している昆虫に悪意を投影し、その営みを「殺戮」などと呼ぶことが僕にはどうも納得できない。踏み込んだ言い方をすれば、自然を見るファーブルのとらえ方には、偏見がある──これがファーブル昆虫記の「なじめなさ」につながっている。


02昆虫記10巻下
『完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)の第14章「キンイロオサムシ/"庭師"と呼ばれる虫の食物」では冒頭からオサムシの残虐性をアピールするために屠畜場が引き合いに出されているのだが、その不適切ぶりをフォローする編集側のコメントが本文の前に添えられている。

おことわり 本章では、オサムシの捕食の場面がシカゴの食肉工場(屠畜場)のようすと比較するようなかたちで描写されています。ファーブルは、オサムシの捕食行動を屠畜・肉食を引き合いに出し、その捕食の場を「屠畜場」、餌となる虫を「家畜」に例えています。そのうえでオサムシを「殺し屋」、捕食行動を「殺戮」、「虐殺」などと呼ぶことは、現在の人権意識に照らした場合、食肉処理の仕事と、それに従事する人々に対する差別や偏見を助長する恐れがあり配慮に欠けた表現と言わざるをえません。本書では、『昆虫記』原書が発表された二十世紀初頭の、アメリカの歴史的背景にもとづいて書かれたファーブルの原文を尊重し、そのまま訳出しましたが、今なお多くの人がいわれなき差別に苦しめられているという、社会的に決して見逃すことのできない大きな問題が存在していることを胸にとめ、お読みいただきますようお願いいたします。なお、本章で言及される当時のシカゴの食肉工場の事情についての詳細は訳注「シカゴの大食肉工場」をご覧ください(編集部)。(P.11)

ここでは屠畜場の例えを引き合いに出したことで、人権問題にかかわりかねないことを憂慮した編集部が、人への偏見をフォローしている。しかし昆虫(オサムシ)への偏見については言及されていない。屠畜場に従事している人を「殺戮者」と呼ぶのが不適切であるように、狩りをするオサムシを「殺戮者」と呼ぶのもまた不適切だと思う。
昆虫記の中にはファーブル自身が昆虫に対する表現が不適切であることを認めている箇所もある。『完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)第11章「ミツバチハナスガリ/ミツバチの暗殺者」の中に、こんな一節がある。


このハチの恐るべきむさぼり方を観察したとき、その本当の目的がわからなかったので、私は、人殺し、強盗、悪党、死者の追い剥ぎなどと、もっとも人聞きの悪い形容詞を浴びせかけたのであった。無知は常に悪口を生み出す。真実を知らないものはひどく断定的な物言いをし、悪意のある解釈をするものだ。
 事実によって目を開かれたいま、私は急いで自らの非を認めてハナスガリに敬意を表することにしよう。(P.104)


しかし、ファーブルのハナスガリに対する《敬意》も、ひどく人間的な感覚で、《悪意のある解釈》と同次元のもの(《善意への心変わり》)のように見える。結局、偏見を持って自然を見るとらえ方に変わりはなく、実際、この後の巻で、オサムシに対する《悪意のある解釈》が展開されている。

昆虫を含む自然物を見るということは、人間のローカルな感覚・価値観・偏見を離れ、くもりのない澄んだ目で、より根源的な世界の存在を感じること──高い視座でものを見ようとすること──僕はそう考えている。その感覚でいうと、せっかく自然に目を向けているのに擬人化にとらわれた狭い感覚でしかものを見ることができなかったファーブルの文章には、なじめない気がするのだ。



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ファーブル昆虫記:ファーブらない昆虫記!?

■ファーブル昆虫記とファーブらない昆虫記
01昆虫記3冊
『ファーブル昆虫記』はとても有名だ。このタイトルを知らない人はいないだろう。図書館へ行くと複数のシリーズや関連本が並べられている。
岩波少年文庫の『ファーブルの昆虫記 上』(大岡 信・編訳)の「まえがき」冒頭には、こんな文章⬇が載っている。


 ある人がわたしに、こんなことをいいました。
「子どものころ『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類することができると思わないかい?」
 ずいぶんとっぴな意見のようですが、ファーブルの『昆虫記』を知っている人なら、だれでも、この意見に賛成するのではないでしょうか。(P.3)


言わんとすることはわかる気がする。ファーブルの昆虫記に感化された虫屋さんは多いようだし、この本(シリーズ)がきっかけとなって虫屋に入信(?)した人も少なくなさそうだ。そんな人たちにとっては影響力の強い作品だったにちがいない。それほどの作品だったからこそ、色々な出版社から色々なシリーズで出版され続けているのだろう。

僕も子供の頃、昆虫への興味からファーブル昆虫記を手にとった記憶がある。しかしその時は、なじむことができず、内容についてはほどんど覚えていなかった。そんなわけで、ファーブル昆虫記については、長い間「タイトルだけは知っている(内容はほとんど覚えていない)昆虫観察に関する本」という程度の認識でいた。
それが比較的最近──約半世紀ぶりにファーブル昆虫記を(少しだけだが)読む機会があった。図書館へでかけてみると、複数の昆虫記シリーズが置かれている。いくつものシリーズがあるのは、出版社や翻訳家の違い、取り上げる内容や分量(頁数&巻数)の関係、読者の対象年齢の違いなどによるものだろう。特に子どもが読む場合、完訳版は長いし難しい……要約してわかりやすい表現にリライトする必要がある。こうした改編版はファーブルの書いた昆虫記をトリミングしたりリサイズしたものだろう──そう考えていたのだが、手にとってみて驚いた。完訳版をオリジナルに近いものだと考えると、「これは《ファーブルの書いた『昆虫記』》なのだろうか? もはや別のものではないか?」と首をかしげたくなるものが混在していたのだ。

子どもの時に愛読していた『ファーブル昆虫記』が、実はオリジナルとはずいぶん違うものだったとか、Aシリーズを読んだ人と、Bシリーズを読んだ人が『ファーブル昆虫記』について語り合ったら、噛み合なかった……なんてことだって大いにありそうだ。
《子どものころ『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類することができる》という見方はおもしろいが、その基準となる《子どものころに読んだ『昆虫記』》が、本当にファーブルのものだったのか……どこまでが『ファーブル昆虫記』で、どこからが『ファーブらない昆虫記』(?)なのか……共通認識として成立しうるものなのか……考えてしまった。


■ファーブル昆虫記は自然科学モチーフの文芸作品
僕も比較的最近になって、完訳版(『完訳 ファーブル昆虫記』奥本大三郎・訳/集英社)を少しばかり読んでみたわけなのだが……気づいたことを少し記してみたい。
『ファーブル昆虫記』は、図書館では自然科学の棚に置かれていて、僕もずっと自然科学の本だと思っていたのだが……完訳版を読んで感じたのは《この著作物の本質は文芸作品である》ということだった。ファーブル昆虫記の原題は直訳すると「昆虫学的回想録」(奥本大三郎・訳)もしくは「昆虫学の思い出」(大岡 信・訳)だというから、ファーブル自身も随筆のつもりで観察や考察を記していたのだろう。モチーフは自然科学だが、作品の基本構造は文芸作品というのが正しい評価だと思う。ただ、文芸作品としての価値よりも描かれている自然科学的情報の方が価値が高かったことで、自然科学のカテゴリーに分類されているのだろう。

完訳版を読んでみると『ファーブル昆虫記』の特徴は、《著者(ファーブル)の一人称による独特の語り口で展開される、昆虫観察の顛末》であり、客観的事実として記された昆虫の行動を含め、観察や実験・考察なども、すべて著者(ファーブル)の目を通して描かれている。昆虫にスポットが当たってはいるが、この作品の主人公は昆虫ではなく、それを見つめるファーブルなのだ。随所にファーブルの感性が反映している。

絵画に例えるなら、同じ素材を描いても画家によって完成した作品には違いがあらわれる。それぞれが固有に持つ画家らしさ──《画風》のようなものは文芸にもあって、ファーブルの個性が反映した語り口調の文章は彼の《画風》のようなものといえる。仮にもし他の人が同じような昆虫観察を綴ったとしても『ファーブル昆虫記』のような印象にはならなかったろうし、ファーブル自身がこれを随筆スタイルではなく論文形式で記していたら、ずいぶん違った味わいのものになっていただろう。


■作品の印象形成にかかわる文章スタイル
小説にしろ随筆にしろ、書くべき内容が決まればそのまま書き出せるというものでもない。それをどういうスタイルで書き出すのが描こうとする内容にふさわしいか──構成はもちろんだが、まず「人称」をどうするか……一人称にするか三人称でいくのか──一人称の場合でも「私」「俺」「僕」では印象が異なる。三人称の場合は主人公を誰にすえるか、名前をどうするか……あるいは作品によっては二人称という選択肢も考えられないではない。そして常体で書くか敬体にするか──そうしたことを書き手は考えるものだ。自然に決まる場合もあるし、吟味して決めることもある。読者からすればあまり意識しないことかもしれないが、選択された設定にふさわしい形で文章は書き進められることになるので、表現スタイルの選択は、作品全体の印象形成に少なからず影響を与えることになる(書きやすさにも影響する)。
フランス語のことはわからないが、ファーブルも昆虫記を記す際には、意識的・あるいは無意識的に描くべき作品にふさわしい文章スタイルを選択したはずだ。

ファーブルの昆虫記では、著者(ファーブル)の一人称で語られる文章スタイルが、独特の味をかもしだしていて、ここに文学的味わいがある。文章が上手いとか下手とかいうこととは少し違う──ファーブルの感性があふれる文章に魅力を感じる読者も多いはずだ。じつは僕はこのファーブルの感性──《昆虫の見方》になじむことができなかった。ファーブルは虫を擬人化した例えを多用しているが、「どうしてここで、そんな例え話がでてくるのか」「その例えを虫にあてはめるのは適切ではないだろう」と感じることが多かったのだ。これは僕の個人的な感覚に合わなかったというだけで、作品の善し悪しとは別の次元の話だ。文芸作品としてみた場合、ファーブルの文章スタイル──《画風》ならぬ《文風》が昆虫記の特徴であることは間違いない。


■ファーブルの個性が反映した昆虫記
《文芸作品》には著者の人柄が反映していがちなものだが、完訳版を読むと、「虫を観察する主人公=ファーブル」の人物像・個性が色濃く感じられる。読者は展開する昆虫の生態や実験などを客観的な事実としてではなく「ファーブルが見ている世界」というイメージで思い描いていくことになる。
完訳版を読む以前、僕はファーブルについて漠然と《偉人》のひとりというイメージを持っていた。しかし完訳版を読んでみると、ポジティブな部分だけではなくネカティブな部分も含めて人物像が浮かび上がってきた。
ファーブルは粘り強い観察を続けているが、その集中力・固執力と無関係ではないだろう──頑固で偏屈な側面がのぞく。そして癇癪(かんしゃく)持ちでもあったようだ。完訳版を読むとかなり気難しい人でもあったことがうかがえる。その1つが『完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)の第15章「私への反論と、それへの返答/狩りバチの本能についてのまとめ」だ。

02昆虫記4巻下

 少し大がかりな思想が飛び立とうとすると、気難しい連中がすぐに立ち上がって、その翼を折り、さらに傷ついたその思想を踵で踏みにじろうとするものだ。狩りバチが食料を保存するために行う外科手術についての私の発見も、同じ目にあった。
 さまざまな理論を闘わせること、それは勝手である。想像の世界というのは漠然としたもので、そこに各自がそれぞれの観念をもち込むのは自由である。
 しかし確固たる事実には議論の余地がない。ある事実を嘘だと思いたいからと気がせくあまり、他によく調べもせずにその事実を否定するなど、見当違いも甚だしいことである。
 獲物を狩るハチの、まるで解剖学を心得てでもいるかのような本能について、私がこんなにも長いあいだ述べ続けてきたことを、観察の反証をあげて傷つけた人は、私の知るかぎり一人もいないのである。彼らはただ机上の空論で反対しているのだ。まったく嫌になるではないか。(P.209)


第15章「私への反論と、それへの返答/狩りバチの本能についてのまとめ」はこの文章⬆で始まる。ファーブルが発表した内容に対して反論や批判があったらしい。これに苛立っているのがよくわかる。冒頭の文章から、ファーブルは自説に対する異議を《翼を折り、傷つけ、踵で踏みにじる》ことに匹敵する非道な行為だととらえて憤慨していたのがわかる。
新説に対して疑問や反論・批判的な意見が出てくるのは自然なことで、ある意味健全なことだ。ファーブル自身も昆虫記の中で進化論を批判している。しかし、自説に対する批判には腹を立てて、それを傷害・攻撃行為と捉えるのは科学者としてどうなのか……こうしたところにファーブルの偏屈さを感じてしまう。
僕は専門的な知識を持ち合わせていないが、完訳版を読んでいて、「ファーブルが記している観察のすべて正しかった」としても、「その行動や現象についての(ファーブルの)解釈」に疑問を感じることが何度もあった。専門家から見ても「突っ込みどころ」が多かったのではないだろうか? そうした「解釈についての疑問」が指摘されることもあっただろう。これをファーブルは《彼らはただ机上の空論で反対しているのだ》と言っているのではないか? その後に続く《まったく嫌になるではないか》という文章は科学的論考とは関係ない不要な感情表現だ。しかし不機嫌な気持ちを書かずにはいられなかったほどファーブルは怒っていたということなのだろう。
ファーブルは自説に反論するなら「そうでないことを実証」してから言えといわんばかりだが、「ファーブルの主張(解釈)」の整合性を問うのに《観察の反証》は必ずしも必要ない。ファーブルは実証主義だったようだが、《観察の反証》なしに自説に異論を唱える者を許せなかったのかもしれない。「私(ファーブル)が苦労を重ねて到達した考えに、苦労実績もないやつが思いつきで疑問をはさむなどけしからん!」と思っていたのではなかろうか?
この章では、ファーブルが自説の正しさを主張しているが、本来なら「正しさ」を淡々と説いていけば良さそうなものを、自分を批判した人たちへの攻撃的・挑戦的な表現が盛り込まれ、行間から「反感」が伝わってくる。実際に苛立ちながら書いていたことはファーブル自身も記している。


 もうやめよう。こんな話を繰り返してもいらいらしてくるだけだ。私の古い証拠書類の束に、まだ書いていない若干の事実をつけ加えたら、もう充分であろう。(P.227)

ファーブルの怒りっぽく攻撃的な性格は『完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下』の第13章「セミとアリの寓話/セミに対する誤解」でもうかがえる(*)。この章では攻撃対象の寓話作家を罵倒するために「友人の詩」まで引用しているが、訳注によればこの詩もファーブル自身が書いたものだったらしい。インターネット上で見られる「程度の低い悪口の応酬」では、ときに別アカウントで別人を装って暴言を書き込む行為があるが、これと同じようなことではないか……と少々あきれた。立派な著作の中で書くことではなかろうに……怒りを抑制できない性格だったのだろう。

とはいっても──良くも悪くも、こうしたファーブルの強い個性が反映したのが文芸作品としてのファーブル昆虫記の特徴だ。どんなに要約してもファーブルが一人称で語る彼の個性が色濃く反映した《文風》はこの作品に不可欠な特徴だ──と僕は思っている。
ところが、図書館に置かれていたファーブル昆虫記シリーズには、このファーブルカラーもしくはファーブルテイストともいえる《文風》が感じられないものも混在している。
『幼年版 ファーブルこんちゅう記3 かりをするはちの話』(文・小林清之助/絵・たかはしきよし/あすなろ書房)では、地の文に「わたしたち」という一人称がでてくるが、ここにファーブル感はない。観察対象のジガバチやトックリバチの(擬人化された)心の声もでてくるので、昆虫が主人公といった感じもし、視点としては三人称に近い。語り手はあまり前へ出ず、昆虫の行動や状況の説明が、子どもにもわかるように記されている。
ファーブル・エッセンスはかなり薄まった気もするが、昆虫の生態を紹介する本だと考えると、納得できる。出版の趣旨も読者のニーズもきっとそこにあるのだろう。

驚いたのは集英社・刊『ファーブル昆虫記 ジュニア版』シリーズだった。これは同社から出ている『完訳 ファーブル昆虫記』と同じ奥本大三郎氏(フランス文学者・作家・虫屋)が訳と解説をしており、この《ジュニア版》は産経児童出版文化賞を受賞している。
同じ出版社・同じ訳者によるジュニア向け『ファーブル昆虫記』ということで、僕は《完訳版》の子ども向けダイジェスト版の「ファーブルの昆虫記」だと思った。ところが読んでみると、ファーブルの個性的な《文風》はそこにはなく、内容も大胆に改編されていた。
これは、時系列に綴られた「ファーブルの昆虫記」をもとに奥本大三郎が総括し、補足情報や訂正情報、現在の知見などを織り交ぜて、読みやすくわかりやすいように再構成したためだろう。
読み始めた時に、文芸作品としての最大の特徴である《ファーブルの一人称によって語られる》という要素が消え失せていることに驚いた。ファーブルは作中に登場する「ファーブル先生」という三人称に置き換えられており、この作品の語り手はファーブルではなく奥本大三郎氏になっていたのだ。当初はなぜ人称を変更したのかという驚きが強かったが、考えてみればファーブルが執筆していた頃とは違う知見や補足情報などを「ファーブルの視点」で描くことはできない。一々注釈をつけて説明するのは読み手の読書リズムを分断することになるし、子どもにはややこしい。自然な形で補足情報をおりまぜながら展開するには内容の再構成だけではなく、描く視点も変更せざるをえなかった……そういう事情があったのだろうと思い至った。
文章スタイルはファーブルのものではなく、これは奥本大三郎氏の文体なのだろう──そのため、個性的なファーブル感はかなり薄まったが、本として評価するなら、文章・内容ともに《完訳版》よりも《ジュニア版》の方が読みやすくわかりやすい。昆虫に興味を持つ子ども(以上の人)に薦めるとしたら──総合的には《ジュニア版》ということになる。《昆虫の不思議・驚き》をテーマに読むならこちらの方が優れている。
ただ、文芸作品としての味わい・印象はずいぶん違うので、読者がこれを《ファーブルが書いた昆虫記》だと思ってしまうと、違う気がする。
ファーブル昆虫記の中には、ファーブルが生態の研究に目覚めるきっかけとなった「レオン・デュフールが書いたハチの論文」との出会いについて「暖炉の薪とそれを燃え上がらせる火花」の例えで述べられている箇所があって、ここは感動的で印象に残るシーンだった。これは一人称で(ファーブルの言葉で)記されているからこそ伝わってくる感慨であって、三人称の《ジュニア版》では今ひとつ盛り上がりに欠ける印象があった。「一長一短」ならぬ「十長一短」といったところだろうか……。

『ファーブル昆虫記』の本質──文芸作品として見た場合、この作品をファーブル昆虫記たらしめているのは、《ファーブルの(一人称による)独特の語り口》だろう──個人的には「なじめなさ」を感じているが、作品としての本質──文芸的価値はそこにあるのではないかと僕は思っている。ファーブルらしさが色濃く出ているのは完訳版だ。
しかし一方、タイトルにもなっている《昆虫》への興味で読むなら、改編版で(オリジナルより)良いシリーズがある。
テーマ・素材である昆虫(やクモ・サソリ)への興味で読むのか、ファーブルの作品として読むのかによって、ふさわしいシリーズが変わってくる……ファーブル昆虫記には、そんなややこしい面があるように感じている。



ファーブルと寓話『セミとアリ』
ハリサシガメとファーブル昆虫記
なじめなかったファーブル昆虫記
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ファーブル昆虫記の違和感について
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