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胸赤マメコガネ/弱緑マメコガネ?

前胸が赤いムネアカマメコガネ!?
01胸赤マメコガネ2021
何年か前から目にとまるようになっていた前胸背板が赤いマメコガネ。マメコガネはよく見かける昆虫の1つだが、一般的なイメージでは前胸背板は緑色のはずだ。本来のカラーリングは、こんな感じ⬇。
02マメコガネ標準
(標準タイプの?)マメコガネはカラフルでかわいい(体長9〜13mm)昆虫だが、明治時代に日本からアメリカに渡って農作物に大打撃を与えたそうな。アメリカでは「ジャパニーズ・ビートル(Japanese beetle)」として悪名をとどろかせたらしい。
余談だが、以前、兵藤ゆきさんがニューヨークで暮らしていた時期に「日本では子供たちがカブトムシを愛でる文化がある」とアメリカ人に話したところ、「カブトムシならカラフルだしねぇ」みたいな反応が返ってきて、話が噛み合なかったというエピソードがあったらしい(テレビ番組「徹子の部屋」で見た記憶がある)。おそらくゆきさんは〝日本のカブトムシ〟ということで「ジャパニーズ・ビートル」と英訳して話していたのではないかと思う。それでアメリカ人は「Japanese beetle(マメコガネ)」をイメージした……大害虫がカラフルな虫であることは知っていたのだろう。
僕も、この虫の名前を知らなかった子供の頃から、マメコガネを見るたびに「緑と赤の鮮やかなカラーリングに白い毛束のアクセントがオシャレな虫」と感じていた。しかし何年か前に、ふと違和感のある個体が目にとまり、緑であるべき前胸背板が赤いことに気がついた。注意して見ると赤みが強い個体は少なからずいるようだ。昔は気づかなかったが……胸赤タイプ(?)は近年になって増えてきたのだろうか?
03胸赤マメコガネB
マメコガネの前胸背板は角度によって緑に見えたり赤に見えたりもするのだが、それにしても赤みが強い個体がいる。よく見ると赤みが強いというより、緑色が抜けているといった感じ? 顕著な胸赤タイプ(?)では頭部こそ緑色を残しているが、前胸と小楯板、翅鞘(前翅)の接合部やフチで緑色が抜けている。
04赤胸比較標準
といっても、標準タイプと胸赤タイプかがクッキリ別れているというわけではなく、前胸は赤っぽいが小楯板、翅鞘(前翅)の接合部やフチに緑を残している個体もいる。
05胸赤マメコガネ緑入
赤みの程度に個体差があるということは、赤化がさらに進んだものでは頭部が赤くなる個体もいるのだろうか?(追記:2018年の記事の個体は頭部も赤だった)
子供の頃から「〝緑と赤の鮮やかなカラーリング〟が魅力」だと感じていた僕には、その色落差の鮮やかさが失われた感のある胸赤タイプは、どうも物足りなさを感じてしまう……。
06胸赤マメコガネ葉上
僕の個人的な好みはともかく……そもそもマメコガネのユニークな〝緑と赤の鮮やかなカラーリング〟には何か意味があるのだろうか?
例えばこのカラーリングによって天敵が捕食を躊躇するような効果でもあれば、生存に有利な特徴としてこのカラーリングは受け継がれて維持されてきたのだろうと納得できる。
その場合、カラーリングによる選択をしていた天敵が何らかの原因で減るといったことが起これば、カラーリングの維持は壊れる……その結果、モノトーン化が進むと言ったことが起こりうるのではないか?
ひょっとして、ツートンカラーの選択が緩まる現象が起こっていて、胸赤個体が増えてきたのではあるまいか……などと考えが飛躍するのも、猛暑で溶けかけた脳味噌にわいた妄想のようなものなのかもしれない。



胸赤マメコガネ!?
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白昼夢!?エルフ耳の髭男!

01エルフ耳髭男画A
先日虫撮りにいったとき、不思議なものを目にした。それがこれ⬆──こんな顔をしていた。ヒゲをはやした成人男性のようにも見えるが、大きなエルフ耳(!?)をつけている。ロバ耳のミダース王(『王様の耳はロバの耳』のモデル)っぽく見えなくもない。
02空目ロバ耳王
もちろん人間ではない。こいつは宙を飛ぶこともできるのである。
いや、ホントの話。じっさいに見たのである!
不鮮明ではあるけれど、実写画像もある。
その正体やいかに!?
ということで──⬇
03空目エゴ髭長象虫♂
先日記事にしたエゴヒゲナガゾウムシのオスであった。顔に微妙に浮き上がった模様がヒゲづら男に見えるではないか!
この顔の模様は固体によってビミョ〜に異なり、他にも「キアイを入れれば人面に見えなくもない」ものがある。
04エゴ髭長象虫♂顔A
つり目&白い髭の顔に見える別のオス⬆。
鼻の穴が大きく鼻の下が長め、口をへの字に結んだ気難しそうな黒ヒゲ男⬇。
05エゴ髭長象虫♂顔B
キアイを入れれば見えてくるはず……そして、一度見えると、もうそうとしか(妄想としか?)見えてこない空目マジック!?
エゴヒゲナガゾウムシの顔には白い微毛が生えていて、その毛足の密度や向きなどの生え具合で明暗の濃淡に差ができ、模様となるようだ。
06エゴ髭長象虫♂顔毛
ところでエゴヒゲナガゾウムシは【ウシヅラヒゲナガゾウムシ】とも呼ばれていた(る?)。僕が持っている昆虫図鑑『野外ハンドブック・12甲虫』(山と溪谷社/1984年)には、そう記載されている。「牛面」──つまり、顔が牛に見えるという意味合いだろう。そんな〝牛づら〟に見える画像がこちら⬇。
07エゴ髭長象虫♂牛面
この画像ではたしかに牛づらっぽく見える。張り出した眼が耳介、触角の付け根の盛り上がりが眼っぽく見える。人面に見えたり牛面に見えたり……エゴヒゲナガゾウムシおそるべしっ!

カオス妄想!?顔相撲!
ということで(?)──エゴヒゲナガゾウムシ♂の顔相撲の1シーンを追加。前回の記事に記したので詳細は割愛するが、エゴヒゲナガゾウムシ♂は♀をめぐって(繁殖&産卵場所争い?)顔を突き合わせて小競り合いをする。

08顔相撲A
09顔相撲B
10顔相撲C
11顔相撲D


エゴヒゲナガゾウムシ♂の顔相撲
エゴヒゲナガゾウムシ:オスの眼はなぜ離れてる!?
空耳ならぬ空目アワー
エアポケット幻想
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エゴヒゲナガゾウムシ♂の顔相撲

眼の離れ具合比べ!?エゴヒゲナガゾウムシ♂の顔相撲
01エゴ髭長象虫♀♂A
エゴノキに丸い実がみのるのようになるとその上に現れるエゴヒゲナガゾウムシ(ウシヅラヒゲナガゾウムシ)。メスは実をかじって孔を開け、タネの中に卵を産みつける。オスはメスの近くにとどまって他のオスを寄せつけまいと見張っていることが多い。小さな昆虫(体長:3.5〜5.5mm)だが、よく見ると実にユニーク。切断したような平たい顔がおもしろい。しかもオスは《顔の幅より眼間の幅の方が広い》──というジョークのような特徴を実現している。
02エゴ髭長象虫♂顔A
03エゴ髭長象虫♂顔A
04エゴ髭長象虫♀♂B
《平らな顔》に《オスの眼は顔の外に飛び出している》──このユニークな特徴は何か理由があってのことだろう。僕は「メスをめぐるオス同士の争いで、顔を突き合わせ眼の離れ具合を競うため」のものだろうと想像している。平らな顔は、互いの顔を密着させて眼の離れ具合を比べるのに都合が良い。
僕がそう考えるようになったのは──メスが産卵行動にいそしむエゴノキの実の上でオス同士が平らな顔を突き合わせて喧嘩をし、負けた方が飛び去るというシーンを何度か目にしたことがあったからだ。
眼の離れ具合──離眼距離を競う顔を突き合わせての押し相撲──名付けて《顔相撲》をあらためて確かめに行ってみた。
05エゴ髭長象虫ペアA
06エゴ髭長象虫ペアB
07エゴ髭長象虫ペアC
このケース⬆では、前からいた見張りオスがあとから来た♂を追いかけ回し、エゴノキの実の反対側で追い落したようだった。《顔相撲》は撮れなかった。
08顔相撲B1
このケース⬆では《顔相撲》を確認できたものの、不鮮明ながら撮れたそのシーンは1枚だけ……。他にも数回、目視では《顔相撲》を確認しているのだが……画像として記録するとなると、なかなか難しい……。
09エゴ髭長象虫争1
10エゴ髭長象虫争2
11エゴ髭長象虫争3
瞬殺で侵入者(新オス)を撃退したオスだったが……肝心の《顔相撲》が画像ではわかりにくい……しかし、このあと再び侵入オスが現れることとなる。
12エゴ髭長象虫争4
13エゴ髭長象虫争5
14エゴ髭長象虫争6
15エゴ髭長象虫争7
16エゴ髭長象虫争8
17エゴ髭長象虫交尾9
体が大きく《離眼距離(眼の離れ具合)》の大きなオスが勝ち残り、メスとの交尾をはたす。これは《離眼距離》の大きな個体ほど子孫を残す機会が増えるという実例といえるだろう。こうしたことから《離眼距離》が大きなオスの遺伝子が選択されることでその特徴が進化(顕著化)してきた──こう考えると「オスの眼が異様に離れている」ことの説明はつくように思われる。

メスをめぐるオス間の競争(繁殖権争奪戦?)は生き物の世界では一般的なシステムだろう。対峙したオス同士が体を大きく見せることで相手を威圧しようとする闘争行動はしばしば見られる。
強さを誇示する体の大きさ──エゴヒゲナガゾウムシではそれを測る基準が眼の離れ具合だったのではないか? 顔をつきあわせたとき、一番外側にある眼の位置を比較すれば、どちらが勝っているか互いに判りやすい。顔相撲で離眼距離(眼の離れ具合)を競い合い、その優劣で勝負を決すれば、傷つけあう無用の争いを避けることができるし、優位の者がその遺伝子を残すという生存戦略にもかなっているように思われる。
こうしてオス同士で《顔相撲》が行われ、勝者の特徴が受け継がれ続けるた結果、《オスの眼が離れている》という特徴が顕著化していったのではないか?
裸眼で小さなエゴヒゲナガゾウムシの一瞬の《顔相撲》を見たときから、そんな解釈を想像していたのだが、画像で《顔相撲》のシーンを拡大してみて見ると、(写真としてはお粗末ではあるけれど)あながち間違いではなかったような気がしている……。



エゴヒゲナガゾウムシ:オスの眼はなぜ離れてる!?
エゴヒゲナガゾウムシ@ハクウンボクでも
エゴヒゲナガゾウムシ白雲木育ちは大きい!?
立派なエゴヒゲナガゾウムシ♂
白昼夢!?エルフ耳の髭男!
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タキシード天牛!?は人気者

パンダ顔のタキシード仮面ならぬタキシード天牛!?
01ラミー天牛A
ジャイアントパンダ顔のタキシード仮面!?──空目をさそうユニークなデザインが目をひくラミーカミキリ。今でこそ身近で普通に見られるようになったが、僕が子供の頃には関東では見ることができない昆虫だった。もとももとは幕末から明治にかけて繊維を採るために持ち込まれたラミーという植物について侵入した外来種だそうで、西日本に分布していた。それが近年の温暖化で分布域を北上させているらしい。
見た目の面白さは被写体として申し分ない──と言うことで、先日入手したコンパクトデジタルカメラ[TG-6]で近所のムクゲで発生しているラミーカミキリを試し撮りしていた。
すると、通りかかった老夫婦、ご婦人が「何を撮っているのか?」とのぞき込み、この虫に気がつくと、彼らもスマートフォンをとりだして撮り始めた。
ラミーカミキリの名前も初めて耳にしたようで、「これで成虫なんですか?」なんて聞いてきたから、普段は昆虫に関心などない人たちなのだろう。これが「幼虫」でないことは小学生でもわかりそうなものだが……虫のことなど気にもとめずに暮らしていれば、そんな小学理科知識も忘却の彼方なのかもしれない。おそらくカミキリと聞いて思い浮かんだゴマダラカミキリなどに比べて小さいので、「(まだ子供?)これで成虫なの?」という発想に至ったのだろう。
こうした〝ふだん昆虫に関心が無い(と思われる)人〟でさえ、熱心にスマホのレンズを向けたがるとは──ラミーカミキリの人気者ぶりを改めて実感した。
02ラミー天牛B
前胸背板にある黒い1対の紋が〝眼〟に見えるわけだが、この紋の大きさや離れ具合には個体差があって、それが〝顔つき(表情)〟の印象にも微妙にかかわってくる。ポケットチーフ模様の〝のぞき具合〟も様々だったりする。
大きさにも個体差があるが、一般的にオスの方が小柄で細身の傾向がある。
03ラミー天牛ペア1
04ラミー天牛ペア2
オスの顔は白っぽいが、メスは顔が黒く胸や腹の腹面でも黒い部分が(オスより)多い。
05ラミー天牛♂顔白
06ラミー天牛♀顔黒
ラミーカミキリの白い部分はコーティングされた微毛(?)で、こすれたりぶつかったりしているうちに、しだいに禿げてくる。羽化して時間が経つにつれスレ具合は進んでいき、前胸背板では(仰向けに落ちた時にぶつかりやすい)正中線の位置が禿げて黒くなりやすい。こうなるとだんだん〝鼻筋が通った顔〟になっていく。
07ラミー天牛鼻筋
成虫が見られるのは5月~8月頃。カラムシやヤブマオ、ムクゲの葉の裏にとまって葉脈を後食する。
08ラミー天牛@葉裏
なので発生していればホストの葉にはスリット状の食痕が目立つようになる。
09ラミー天牛@ムクゲ
葉の表に出ていることも多く、緑の葉の上では結構目立つカラーリングなのだが……近くを通っても(虫に関心が無ければ?)気がつかない人が多い。
しかし、ひとたび気がつけば、スマホを向けたくなる──そんな魅力がラミーカミキリにはあるようだ。

ビミョ〜に空目ネタがらみということで……試し撮りついでに撮影したイチモンジカメノコハムシの幼虫。
10一文字亀子葉虫A
背中にデコった脱皮殻&糞が、ドレッドヘアの人面に見える!?

11一文字亀子葉虫B


ラミーカミキリ@武蔵野
イッシキキモンカミキリ/成虫飼育覚書
ラミーカミキリ/オスとメスの違い
ラミーカミキリ&シラハタリンゴカミキリ
礼服ぷちキョンシー天牛&怪虫シャッチー
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H・ヘッセ『少年の日の思い出』感想

01少年の日の思い出
『少年の日の思い出』ヘルマン・ヘッセ:作/岡田朝雄:訳/草思社文庫
【収録作品】少年の日の思い出/ラテン語学校生/大旋風/美しきかな青春

ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』は中学国語の教科書で読んだ人も多いようだが、僕は習った記憶が無い……。僕がこの作品を知ったのは2017年。虫屋さんの日記に出てきたので興味を覚え、図書館で借りて読んでみたしだい。短いながら味わいのある作品で印象に残った。最近になって、また読み返してみたくなって、文庫版を入手。あたらめて感想などを記してみたい。

作品の概要
表題作『少年の日の思い出』は正味12ページほどの短い作品。その概要は──、
舞台は「私」(一人称の主人公)の書斎。そこには夕方の散歩から帰ってきた「私の客」がくつろいでいる。「私」の末息子が客に挨拶をしていったことから、子供の話題となり、「私」は子供ができてから、自分の子供時代の記憶がよみがえり、当時趣味にしていたチョウやガの採集を再開したという話を始める。その標本コレクションを客に披露するのだが、最初は興味深げに標本を見ていた客が突然不快な反応を示して鑑賞を拒絶。その後、客は非礼をわびると、自分も子供の頃は熱烈なコレクターであったことを打ち明け、少年時代のトラウマを話始める。
そこから物語の(語り手の)視点は「私の客」に移り、「ぼく」という一人称で展開していく。
「ぼく」は8〜9歳の頃、当時流行っていた昆虫採集を始めるが、しだいに標本コレクションにハマっていき、10歳の頃にはかなり夢中になっていた。あるとき「ぼく」は、そのあたりでは珍しいコムラサキ(蝶)を採集する。
隣の家の4階にはエーミールという鼻持ちならない優等生が住んでいて、コレクションとしてはたいしたことがないものの、美しい標本をつくる技術を持つことで知られていた。
コムラサキを採った「ぼく」は、普段妬んでいたエーミールに自慢するチャンスとばかりに、彼にコムラサキの標本を披露する。エーミールは珍しい種類であることを認めた上で、標本のできの悪さや、脚が欠けているなどの欠陥を指摘する。得意になって披露した珍品にケチがついたことで「ぼく」の自尊心はしおれてしまう。
その2年後、エーミールが1頭のクジャクヤママユ(蛾)を蛹から羽化させたという噂が広まった。クジャクヤママユは「ぼく」が憧れる最高峰の存在で、そのニュースを聞きつけた「ぼく」は興奮してエーミールの部屋を訪ねる。ドアは施錠されておらず彼は不在だった。「ぼく」はクジャクヤママユ見たさに闖入し、展翅されているクジャクヤママユを見つける。その特徴的な眼状紋は展翅テープで覆われていたのだが、確かめてみたいという誘惑に負けて「ぼく」は展翅テープをはずしてしまう。憧れのクジャクヤママユを初めて目の当たりにして、「ぼく」は出来心を起こす──標本を手にしたまま部屋を出てしまったのだ。階段を降りるさいに下から上がって来る足音が聞こえ、「ぼく」は盗みをおかした罪悪感に目覚め、発覚を怖れて手にもっていた標本をポケットに隠す。階段を上がってきたメイドとすれ違ったあと、「ぼく」は自責と羞恥にさいなまれ、誰にも知られる前にクジャクヤママユを戻しておこうと考え直す。しかし……エーミールの部屋に戻ってポケットから取り出したクジャクヤママユは、ひどく破損していた。自分のしでかした取り返しのつかない浅はかな行為に「ぼく」は激しく後悔する。「ぼく」は壊れた標本を残して立ち去った。
事態を打ち明けた母親に説得されて「ぼく」はエーミールのところへ謝罪に行く。彼は壊れた標本の修復を試みていたが無理だった。「ぼく」はエーミールの大切な標本を壊したのは自分だと告白する。被害者のエーミールは泣き叫んだり猛り狂うこともなく、冷たく「ぼく」に軽蔑のまなざしを向ける。そんな状況にあってもとりみだすことなく優越的な姿勢を保って「ぼく」をさげすむエーミールに、暴力衝動を覚えるほどの怒りと屈辱がこみ上げ、《そのとき、ぼくは一度起こってしまったことは二度ともと通りにすることはできないのだと、はじめて悟った》のだった。いたたまれない気持ちで帰宅した夜、「ぼく」は宝物にしていたコレクションを自らの手で押しつぶし粉みじんにしてしまう。

衝撃的なラスト/なぜ「ぼく」は大切な宝物を破壊したのか
物語は「ぼく」がそれまで夢中になってに集めてきた宝物──標本を自らの手で破壊してしまうという衝撃的なシーンで幕を閉じる。
採集&コレクションは「ぼく」にとってこの上ない楽しみの世界だったのに……なぜかと言えば、もう楽しみとしてこの趣味にひたることができなくなってしまったからだろう。これからはコレクションを見るたびに、醜悪な記憶が呼び覚まされる……それまで集めてきた至福の宝物が心の傷を深く抉るトラウマ・アイテムになってしまったからだ。癒しの世界が心の傷をえぐるというジレンマ──これが強い余韻となって残る。

『少年の日の思い出』の魅力
短い作品だし、内容もシンプルなので、ストーリーは読み返すまでもなく頭の中に入っている。しかし、それでも読み返してみたくなるのは、自らの手で宝物を葬ってしまった「ぼく」の心情とはどんなものだったのだろう──と再び物語の中に身を置いて想像(追体験)してみたくなるからだろう。
「ぼく」は美しい蝶や蛾を目にしたとき《子供だけが感じることのできるあのなんとも表現のしようがない、むさぼるような恍惚状態におそわれる》と語り、昆虫採集の情熱について《繊細なよろこびと、荒々しい欲望の入り混じった気持ち》と表現している。
ヘッセは少年の心理を的確に表現しているが、それはいったいどんな気持ちなのか──複雑な心理を行間からもすくい上げたくなって、再び読んでみたくなる。ストーリーは分っているのに再読したくなるのには、そんな魅力がこの作品にはあるからだろう。
世間的にはどこにでもありそうな小さな出来事だが、少年にとってはとても大きく重い黒歴史──日常の片隅で展開されていた少年の密やかドラマを〝追憶〟の形ですくいあげた繊細な作品という印象がある。

構成について思うこと/疑問
『少年の日の思い出』を初めて読んだとき、「この作品は、中学生の教材としては(読むのに)早いのではないか……」と感じた。「ぼく」の心理や行動は、中学生なら共感できるところもあるだろうし、描かれている心情を読み解くという教材としての設問要素はふんだんに含まれた作品ではあるけれど、この作品の〝味わい〟をしみじみと鑑賞できるのは、むしろ大人の世代だろうという気がしたからだ。邦題が示しているように、『少年の日の思い出』→大人になって振り返る〝追憶〟であることに、この作品の〝味わい〟がある。もちろん中学生の時に読んで印象に残ったという人も多いだろうが、そういう人も大人になって読み返すと、中学生時代とは、また違った感慨を抱くのではないだろうか。
作者も、おそらくそういう意図で描いている。もし、読者対象が子供であったのなら、冒頭の「私」が主人公のシーンはいらない。「ぼく」のパートだけでエピソート(物語)としては成立する。それをわざわざ、子供を持つ身となった親の〝現在〟から回想する二重構造の形をとったのは、少年時代の未成熟・未分化な情動を回顧する〝追憶〟に味わいがあると感じていたからだろう。

ところで、この作品で疑問に感じたことがある。読み進む上での障害になるほどではないのだが、ひっかかる点が2箇所があった。
先に記した二重構造とも関係があるのだが……この作品には冒頭の「私」のパートと、メインのエピソードを描いた「ぼく」のパートで、2人の一人称(主人公)が存在する。〝追憶〟というテーマや作品の構造から判断すれば、この作品の主人公は「私」だと僕は考えているが、物語のメインパートの「ぼく」が主人公だと捉える人も多いだろう。どちらが本来の主人公か──ということはさておき、どうして「私」と「ぼく」の2つの一人称が混在するのか──というのが疑問の1つ。この作品は「私」の視点で始まりながら、「ぼく」の視点で終わっており、構成的には安定が悪い印象もなきにしもあらず。
「私」の視点で描き始めたのであれば、「ぼく」のパートは三人称で処理し、最後にもう一度「私」の視点に戻って幕を閉じた方が落ち着きが良い。そのさいは「私の客」が吐露した黒歴史に対して「私」が何か気のきいた新たな視座でまとめる形が望ましい。
ヘッセとしては、最も衝撃的なシーンで幕を閉じるのが効果的と考えて「ぼく」のパートをラストシーンに据えたのかもしれない。であるなら、冒頭のシーンも、「私」ではなく、知人宅を訪問した客の側の「ぼく」の視点で描き、一人称を統一できたはずだ。
いずれにしても一人称は統一できたはずで、その方が自然なのに、どうしてそうしなかったのかがよくわからない。

気になったもう1点は、重要な役どころの「エーミール」の呼称だ。作中でエーミールが最初に登場した時──「ぼく」がコムラサキを見せる場面では、名前は明かされず「少年」とだけ記されている。それが2年後のクジャクヤママユのエピソードでは「エーミール」と、名前を明記している。名前を出すのならコムラサキのエピソードのときから「エーミール」と表記しておくべきだったし、それが自然だ。書いている途中で名前を決めたのだとしても、推敲のさいに「エーミール」で統一できたはずだ。これもなぜ統一しなかったのか腑に落ちない。

この2点が、どうして統一されていないのか、ちょっと不思議に感じている。
もしかすると、ヘッセは思いつくままに展開を書きとめていって、それがそのまま調整されずに残されてしまったのだろうか……?
たとえば、当初《「私」を訪ねてきた客に標本を披露したところ、謎めいた反応を示す→客が吐露した意外な〝少年の日の思い出〟とは……》という発想プロセスで書き進め、客の語るパートでは一人称がふさわしいと感じてメインパートも一人称で書き進めた……とか?
登場する〝模範生の友人〟については当初名前を付けずに「少年」として書き進めたが、クジャクヤママユのエピソードを綴る段階で名前はあった方が良いと考え、そこで「エーミール」という名前をつけて書き進めた……そうして書き上げた原稿を調整する間もなく(?)発表した?──そんな可能性も想像してみたが、その後推敲する機会はあったはずだ(文末の「訳者あとがき」によると『少年の日の思い出』は改稿版で、20年前に初稿が発表されているという)。
案外(?)ヘッセは、僕がひっかかった未整理の部分を問題とは考えていなかったのかもしれない。
読者として読み進むには、さして障害にはならなかったのだから、不統一ののままでもかまわないと判断したのかもしれないが……作法的には(?)整理(調整)して不統一を解消しておけば、作品としてより美しくスマートな形になっただろうに……などと思ってしまう。



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