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佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版

てのひら島表紙新旧
※佐藤さとる・作/池田仙三郎・絵『てのひら島はどこにある』(理論社)の復刊版(2016年版/左)とオリジナル版(1965年版/右)の表紙。この作品に対する感想は以前記しているが、復刊版(復刻版)を入手したのであらためて記事にしてみる。

『てのひら島はどこにある』は僕が小学生の時に出会った感動の1作。佐藤さとるといえば『だれも知らない小さな国』が有名だが、その原型となったのが当時未完成だった『てのひら島はどこにある』の構想といえる。
『だれも知らない小さな国』は素晴らしいファンタジー作品だが、この作品を生み出すに至った本質的な作者の動機はむしろ『てのひら島はどこにある』で色濃く感じられる。小学生だった僕はそこに心を打たれた。

『てのひら島はどこにある』の構想は『だれも知らない小さな国』よりも前からあって、作者が若い頃から育んでいた愛着のあるものだった。しかし書いては頓挫するということをくり返し、なかなか完成に至らなかったという。そこで心機一転、設定を変えてあらたに構築し直したのが『だれも知らない小さな国』だった。『だれも知らない小さな国』は素晴らしい作品としてみごとに昇華をはたし、多くの人に愛された。僕も好きな作品である。しかし、設定を新たにしたことで、作品は微妙に(?)変質し(『だれも知らない小さな国』はファンタジーだが『てのひら島はどこにある』はファンタジーではなかった)、『だれも知らない小さな国』では掬い上げることができなかった大事なものが、じつは旧構想の中に取り残されていた……。

『だれも知らない小さな国』(1959年)を書き上げた後、旧構想の中に置き忘れてきた大事なものがあったことに佐藤さとるは気づき、その強い未練から旧構想を捨てることができず、「これはこれでまとめておかなくてはならない」と考えて『てのひら島はどこにある』(1965年)を完成させたのだろう。
理論社・刊の『てのひら島はどこにある』には僕が出会ったオリジナル版(1965年)と今回入手した復刊版(2016年)の間に林静一の挿絵による愛蔵版(1981年)が出版されているのだが、そのあとがきで佐藤さとるは次のように記している。

ほとんど十年を経て、私はこの物語の構成を捨て、あらためて長編を1つ書きました。「だれも知らない小さな国」(講談社)で、基本的には同根の作品だと、私も思います。しかし、私にはまだ渇きに似た思いが残りました。〝てのひら島〟にまつわる物語は、私の心の中から消えていなかったのでした。

名作『だれも知らない小さな国』では影が薄くなってしまった〝当初の本当に描きたかったもの〟が『てのひら島はどこにある』では良い感じで描かれている──当時小学生だった僕はそこに深く感銘を受けたのである。
具体的にそれがどういうものかは【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出】で詳しく述べているのでここでは割愛。

僕にとって感動の一冊となった『てのひら島はどこにある』──当時定価480円だったハードカバーは、大事に保管していて、読み返し用には講談社文庫版などを揃えていた。手軽に読めていた文庫版も、最近では老眼が進んで小さな字を読むのがしんどくなってきた。そんなこともあって、きれいで見やすい復刊版(本体価格1400円)が欲しくなった。挿絵は池田仙三郎──僕が初めて読んだ当時のもので懐かしい。池田仙三郎は佐藤さとるの同人誌「豆の木」時代からの仲間で、旧制中学の同窓(池田が3年先輩)という間柄だったそうだ。
2016年の復刊版も市場では品薄になっているようで、入手できるうちに手もとに置いておかねばと購入した。
この素敵な作品が増刷され、さらに多くの人たちに読まれる機会が増えることを願って、改めて記事にしてみたしだい。

余談だが……物語の中では〝ハナアブに似た女の子〟という設定のおこり虫・プンだが(表紙の右側に描かれているのがプン)、挿絵では(池田仙三郎の絵や、講談社版の村上勉の絵でも)翅が4枚描かれている(アブは双翅目なので翅は2枚)。画家のお二方とも〝昆虫の翅は4枚〟という認識で描かれていたのだろう。


佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出
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佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出

佐藤暁・作『てのひら島はどこにある』の思い出
〜姉妹作『だれも知らない小さな国』との大きな違い〜
01てのひら島はどこにある
僕が初めて1冊読破した物語は『てのひら島はどこにある』という童話だった。小学2〜3年生の頃だったと思う。家族でデパートへ行ったとき、平台の上に置かれていたこの本が目にとまった。作者は〈佐藤暁〉(当時はオール漢字表記)、挿絵は池田仙三郎さんのものだった。僕は読書が好きというわけではなく──というより、どちらかといえば嫌いな方だったが、何かひかれるものがあったのだろう。手にとってなんとなく「おもしろそうだ」と感じて、買ってもらった記憶がある。「せっかくデパートに来たのだから何か買ってもらわなきゃソンだ」というような気持ちも働いていたように思う。
「おもしろければめっけもん」くらいの気持ちで読み始めた『てのひら島はどこにある』だったが……すぐに物語に引き込まれた。そしてなんと一息に1冊読み終えてしまった。そんなことは初めてだった。「コクワガタでも見つかればめっけもん」と思ってのぞいた木に思いがけずオオクワガタを発見したかのようなような(?)高揚感があった。
これが僕にとっては初めて感銘を受けた衝撃の一冊となったわけだが……どのような作品だったのか、内容を紹介すると──、

『てのひら島はどこにある』のあらすじ(長め)
『てのひら島はどこにある』は子どもにも違和感なく自然に読める作品なのだが、概要を説明しようとすると、少しややこしい。本編の中に話中話として《虫の神さま》(姉妹作『だれも知らない小さな国』のコロボックルにあたる)が登場し、この本編を「はじまりのはなし」と「おしまいのはなし」で登場するおばあちゃんが語っているという3重構造になっている。
02てのひら島3重構造
作品冒頭の「はじまりのはなし」では、町外れに摘み草にきていた〈おばあちゃん〉が、その孫らしい〈女の子〉に「てのひら島」という話を始める。双子の姉を持つ太郎と言う子の物語──その「おはなし」の内容が本編ということになる。

本編の主人公は太郎だが、太郎のおかあさんの視点で物語は始まる。太郎(1年生)と双子の姉(3年生)のケンカが絶えず、おかあさんは困っていた。原因は太郎のイタズラで、姉は2人がかりでもかなわず泣きべそをかいている。お母さんは、太郎には「いたずら虫(妖精や魔物のような小さな神様)」がとりついているのではないかと想像する。すぐにベソをかく双子の姉についているのは「泣き虫」だろう。おかあさんは他にも色々な「虫の神様」を想像していく。弱虫・仕事の虫・勉強の虫=点取り虫。のんき虫・ぼんやり虫・いばり虫・きどり虫・おこり虫・てれ虫・すね虫・よくばり虫・ひがみ虫・やきもち虫・ひねくれ虫……。虫の神様たちが、つついたり咬んだり刺したりつねったりすることで、こどもたちはイタズラをしたり泣きだしたりする──。
おかあさんは、いたずら虫にとりつかれた太郎が、ひねくれ虫にまでとりつかれてしまったら大変だと考え、(ひねくれ虫にとりつかれないように)自分が考えた「虫の神様」の話を子どもたちに聞かせることにした。太郎や双子の姉が知っている実際にあったエピソードもでてきて、それには虫の神様がからんでいたという物語である。
太郎と2人の姉は、自分たちの身近にいるという、自分たちの分身のような虫の神様に関心をしめす。そしてそれぞれが自分のお気に入りの「虫の神様」──太郎は〈いたずら虫のクルクル〉、双子の姉は〈泣き虫のアンアンとシクシク〉を主人公に、物語の続きを勝手に創りはじめてしまった。今で言えば二次創作という現象だろうか。「虫の神様」はおかあさんの手を離れ、子どもたちの心の中に根付いてそれぞれ独自のストーリーを展開していくのだった。

小学3年生になった太郎は「虫の神様」の話を口にしなくなっていたが、決して忘れていたわけではなかった。その年の夏休み、太郎は朝から木イチゴ探しにでかける。ところがお目当ての《すばらしいごちそう》を見つけることはできないまま、自分でも気がつかないほど遠くまで来てしまっていた。空腹で苛立っていた太郎はカラス除けのガラス瓶に八つ当たりしようと、手直にあった青いトマトをもいで投げつける。それを畑の持ち主のお爺さんにみつかり、お仕置きを受けることに──お爺さんはトマトをもいだ太郎の掌の上に、煙草の火を落としたのだ。すぐに振り落とすこともできたが、太郎は掌の上の煙草の火が灰になるまでがまんする。それを見ていたお爺さんは太郎の根性を褒めてから、「熱かったろう。だが苦労して育てたトマトをもがれ、わしも心がカッと熱くなった。もがれたトマトも熱かったろう」と話し、太郎も納得して素直に謝る。するとお爺さんは仲直りして友だちになろうと提案。太郎が木イチゴ探しにきて見つけられなかったことを知ると、本物のイチゴをごちそうすると言う。
お爺さんは元船乗りで、引退してから海が見える場所に家を建てて暮らしていた。そんな身の上話をしながら太郎を、テーブルと椅子が置かれたネムノキの木陰に案内すると──木の上から女の子が現れる。ヨシボウと呼ばれた目の大きな女の子はお爺さんの孫で1年生だという。太郎はヨシボウとイチゴを摘みをすることになる。このとき、太郎はちょっとしたイタズラ心を起こしてヨシボウをからかうのだが、ヨシボウは烈火のごとく怒りだし、しまいには泣き出してしまう。あまりのけんまくに太郎は「怒り虫にとりつかれているみたいな子だな」と思い「きっとそうだ。〈怒り虫のプン〉は、この子の家にいたんだ」と考える。
つまらないことでケンカをした2人は、おじいさんが作ってくれたイチゴミルクを気まずく食べるが、仲直りのきっかけを作ったのが《虫の神様》だった。太郎はヨシボウが怒って泣いたとき、泣き止んだら面白い話をきかせるからとなだめていたのだが、ヨシボウはもう泣き止んでいるのだからと「面白い話」をねだったのだ。太郎はそれまで誰にも話さずにいた秘密の《虫の神様の物語》を披露する。
ヨシボウは〈おこり虫のプン〉に関心をしめし、太郎が話し終えると、プンが欲しいとつぶやく。太郎が〈いたずら虫クルクル〉の話を作ったように、自分もプンの話を創ってみたいというのだ。太郎も〈おこり虫のプン〉は元々ヨシボウのところにいたのだろうと言って〈プン〉をヨシボウにあげる。こうして虫の神様の話が、きっかけとなって2人は仲直りをしたのだった。

その日帰宅した太郎は、一日中太郎の行方を心配していたお母さんにひどくしかられ、夜にはその一件を知ったおとうさんに呼び出された。おとうさんは太郎の〝おしおきの痕〟を見ると、水ぶくれを残して掌に墨を塗り紙に押し当て手形をとった。この手形を机の前に貼って、見るたびに今日のことを思い出し、後先のことを考えて行動するようにと諭したのだった。

太郎は自分の手形を見ているうちに、それが島の地図のように思えてきた。指紋が山などをあらわす等高線で、掌紋の筋が川、塗り残したやけど痕は湖というぐあい。太郎の頭の中に「てのひら島」を舞台とする虫の神様たちの物語が展開する。
おかあさんや姉さんには話すことをしなくなった「虫の神様」の話を、なぜか太郎はヨシボウには聞かせてやりたいと思うようになり、ある日、《てのひら島の地図(手形)》を持ってヨシボウの家へ訪ねていくことにした。ヨシボウに会ったら怒り虫プンの話も聞いてみようと楽しみにしていたのだが……さんざん探し歩いたのに太郎は、とうとうヨシボウの家を見つけることができなかった。太郎には消えてしまったヨシボウが「てのひら島」に行ってしまい虫の神様たちに囲まれて暮らしているように感じられた。
ヨシボウに会えずに帰った太郎は手形を机の奥にしまい込み、「てのひら島はどこにあるのだろう」と考えるようになった。

ここでいちど物語は終わりかける。演劇で言えば幕間(まくあい)だろうか……舞台は本編から離れ、「はじまりのはなし」の草摘みにきていたおばあちゃんと孫娘の次元に戻る。日がかげってきたので、おばあちゃんは「おはなし」を打ち切って帰ろうとしたのだ。聞き手の女の子は続きをせがみ、おばあちゃんは、話を続けることになった。
そして舞台は新しい幕を開け、〝15年後〟の本編に戻る──。

夏の暑いさかりに山の中からひとりの若者があらわれる──これが15年後の太郎なのだが、作中では「わかもの」として描かれている。彼は測量技師で、学校の建設予定地を下見にきていたのだが、道に迷ってそんなところに出てきたしまったのだ。若者は近くに井戸があることに気づき、水を汲みにきていた娘さんに冷たい水を飲ませてもらう。その井戸は枯れたことがなく、娘さんは近くの家から水を調達に来ていたのだった。事情を聞いた若者は井戸をのぞきこんで水位を測ると、娘さんの家の高さを確認した。そして井戸からパイプをひくだけで(サイホンの原理で)ポンプいらずの水道ができると話すと、娘さんは〝考えたこともなかったアイディア〟に感心する。若者は水を飲ませてもらった御礼にバケツの水を運んであげ、娘さんは町への道を教えるために若者を案内する。その途中──ネムノキの下を通りかかった若者は急に立ち止まってあたりをみまわす。そんな若者をふしぎそうに見つめる娘さんに向かって言った。「そうすると、もしかしたら、きみはヨシボウじゃないか?」
困惑の表情を浮かべた娘さん──すっかりきれいにな娘さんになっていたヨシボウの顔が輝き、大きな目が見開かれた。「あたしに〈おこり虫プン〉をくれた人でしょ?」──ヨシボウも太郎のことを、虫の神様のことを覚えていたのだ。
たった1度だけの出会いから15年ごしの再会──2人は互いに〈いたずら虫クルクル〉と〈おこり虫プン〉が元気でいることを報告しあう。
そしてヨシボウと握手をしたとき、太郎は、「てのひら島」がどこにあるのか、わかったような気がする。「こいつは今、ヨシボウの手のなかにあるじゃないか!」

ここで本編は幕を閉じ、「おしまいのはなし」になる。おばあちゃんの話に聞きいっていた女の子は「てのひら島って、太郎の手のことだったの?」とたずねる。「そうよ。あんたには、まだよくわからないでしょうね。でもきっといまにわかるようになりますよ」とおばあちゃんは答えた。
女の子は「今の話、あたしのうちのことに、よく似てると思わない?」とたずねる。女の子のお父さんは測量技師で双子の姉がいることや、お母さんの実家からは海が見えることなど、「てのひら島」の話に符合する点がいくつかあったからだ。おばあちゃんは答えずに笑っていた。

ここで『てのひら島はどこにある』の物語は本当に終わる。
つまり、「はじまりのはなし」や「おしまいのはなし」に登場し「てのひら島」の話を聞いていた女の子は、太郎とヨシボウの子であり、話していたおばあちゃんは太郎の母親──最初に虫の神様の話を考えた人だったのだ。

元々は空想だった「虫の神様」がとりなした、不思議な運命──太郎とヨシボウは本編のあと、結婚してこの女の子を設けていた! そのきっかけの話を作った太郎のおかあさんは、今やおばあちゃんになって孫──太郎の子どもに、「虫の神様」の話を聞かせている……実際は存在しない架空の「虫の神様」が人の運命に大きく関わり、次の世代にも受け継がれていく──小学2〜3年生の頃に初めて『てのひら島はどこにある』を読んだ時は衝撃ともいえるほど激しい感動を覚えた。いま読み返しても、この童話にはジンとくるものがある。

『てのひら島はどこにある』から『だれも知らない小さな国』へ
『てのひら島はどこにある』に感銘を受け、僕はこの本が大いに気に入った。読書好きの子なら、すぐに同じ作家の他の作品を探して読むところだろうが、当時その発想はまったく無かった。僕が気に入ったのは『てのひら島はどこにある』という物語であり、作家や他の本には関心が向かなかったのだ。

それがらしばらく経って……書店で『だれも知らない小さな国』という本を目にしたのは中学生の頃だったように思う。〈佐藤さとる〉という表記を見て「ああ、これは、『てのひら島はどこにある』の作者だな」と気がついた。なにか懐かしいものに出会ったような気がして、「おもしろそうだったら買わねばなるまい」──と意気込んで手に取ってみたのだが……どうやら小人が出てくる話らしいと知ってテンションが下がった。「なんだ、これは《おとぎばなし》か……」とガッカリして棚に戻した記憶がある。当時は実在感のあるファンタジーは想像できなかったのだ。
それでも本屋へ行くたびに、『だれも知らない小さな国』というタイトルが気になり、「どんな話だろう?」と手に取っては「……でも、小人がでてくる《おとぎばなし》じゃなぁ……」と書棚に返すことを幾度となくくり返していた。そのうち「気になってしかたないなら、買って読んでみれば、どんな話かハッキリする」と心を決めて購入した。この時はまだ半信半疑で、これが「柳の下の2匹目のドジョウ」になるのか!?──といった心境だった。
ところが読み始めてみると『てのひら島はどこにある』のときと同じように作品世界に引き込まれ、やはり一気に読まされてしまった。《おとぎばなし》とは全く次元の異なるリアルな世界で展開されるファンタジーに驚き、感銘を受けたのだった。

姉妹作の類似点と相違点
『だれも知らない小さな国』は主人公の少年(やがて青年になる)と小人=コロボックルとの出会いを描いた作品だ。物語全体の雰囲気は『てのひら島はどこにある』とよく似ている。それもそのはず──当時なかなかまとめることができずにいた『てのひら島はどこにある』の旧構想を、新たな視点で再構築したのが『だれも知らない小さな国』だったらしい。僕が読んだのは『てのひら島はどこにある』(1965年)が先だったが、発行は『だれも知らない小さな国』(1959年)の方が早い。
『てのひら島はどこにある』は着想から完成まで15年かかっているそうで、その間に『だれも知らない小さな国』が発行されている(こちらは本になるまで足掛け5年かかったらしい)。
この2つの作品の大きな違いは、『てのひら島はどこにある』では《虫の神様》が〝想像上の存在(実在しない存在)〟として描かれているのに対し、『だれも知らない小さな国』の《コロボックル》の方は〝実在の存在〟として描かれている点だ。実際には存在しないコロボックルが実在する世界を描いているわけだから、『だれも知らない小さな国』はファンタジーということになる。
『てのひら島はどこにある』の方は非ファンタジーで、色々なエピソードをうまく組み込むために3重構造というこみいった形をとっており、物語の視点(主人公?)も、おばあちゃん・おかあさん・太郎・虫の神様・若者など使い分けられている。紹介した〈あらすじ〉が長くなったのは色々なエピソードが絡み構造が複雑だったためでもある。
これに対し旧構想をリセットして再構築された『だれも知らない小さな国』では一環して主人公の視点で描かれ、その世界も統一されていて、より洗練されている印象を受ける。

創作の経緯から察すると、魅力的な素材でありながらまとめるのが難しく何度も頓挫していたという『てのひら島はどこにある』の旧構想──これを新たな設定で整理し直し、ファンタジーに昇華させたのが『だれも知らない小さな国』だった──作者の佐藤さとるはそのつもりだったのだろうし、実際にそうだった。『だれも知らない小さな国』は──これはこれで完成された素晴らしい作品で、欠けているところはない。
ただ、棄てたはずの旧構想の中に『だれも知らない小さな国』では描かれていない重要なエッセンスがとり残されていた……と僕は見ている。だからこそ佐藤さとるは『だれも知らない小さな国』を完成させた後も、旧構想に未練を感じ、けっきょく『てのひら島はどこにある』をまとめあげることになったのだと思う。

『だれも知らない小さな国』のあとがきで、佐藤さとるは次のように記している。


 しかし、ほんとうのことをいうと、わたしがこの物語で書きたかったのは、コロボックルの紹介だけではないのです。人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界のことなのです。人は、だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています。その世界は、他人が外からのぞいたくらいでは、もちろんわかりません。それは、その人だけのものだからです。そういう自分だけの世界を、正しく、明るく、しんぼうづよく育てていくことのとうとさを、わたしは書いてみたかったのです。

この気持ちが『だれも知らない小さな国』のを書く動力源になったのだろうことは理解できる。佐藤さとるは心の中に芽生えた、小さな魔物を大事にしんぼうづよく育ててコロボックルの物語を完成させた──このことを言っているのだろう。しかし、この動機がよりピッタリとあてはまるのは、むしろ『てのひら島はどこにある』の方だ。
というのも、コロボックルという小人族が〝実在〟したら──これは世界を揺るがす大事件であり、これはもう《その人だけの世界》《その人だけのもの》では片付けられない。コロボックル発見にかかわった主人公の人生が、このことで影響を受けるのは当然といえる。
これに対し、『てのひら島はどこにある』の「虫の神様」は〝架空の存在〟──これこそ《その人だけの世界》《その人だけのもの》である。この、《実在しない心の中だけの存在(虫の神様)──ささやかな幻が現実の人生に大きく作用し決定づける役割りを果たしていた》……ここに不思議な感慨がある。小学生だった僕が感銘を受けたのは、そこだった。

《実在しない幻(虚構)が現実の人生に大きく作用する》ということで言えば、O・ヘンリーの『最後の一葉』(現実には残っていなかった〝最後の一葉〟が病床の娘の命を救う話)やF・ムンテヤーヌの『一切れのパン』(実在しない架空のパンが主人公を救う話)で受けた感銘にも、共通するところがあった(*)。
《実在しないものが実在する者に及ぼす力》──これはとても不思議で尊いもののようにも感じられる。これは『てのひら島はどこにある』にあって、(設定が変わった)『だれも知らない小さな国』にはなかった種類の感銘といえる。

作者の佐藤さとるはおそらく『だれも知らない小さな国』を執筆していた時点では、この変質に気がついていなかったのだと思う。『だれも知らない小さな国』が完成した後、旧構想の中に置き忘れてきたものがあるように感じ、その未練からけっきょく『てのひら島はどこにある』の方も完成させることになって、ようやく肩の荷を下ろしたような気持ちになれたのではないか……。

『だれも知らない小さな国』と『てのひら島はどこにある』との大きな違いはファンタジーであるか否か──そう考える人が多いだろう。もちろんそうなのだが、じつは感銘の質にも微妙にして大きな(?)違いがある──僕はそう考えている。
佐藤さとるが描きたかった〈身近にいる小さな魔物〉が〝架空の存在〟から〝現実の存在〟にシフトしたことで、物語はそれにふさわしい形に変化し、素晴らしいファンタジー作品への昇華を果たした。その一方、旧構想にはあった《その人だけの世界》《その人だけのもの》に由来する感動からは遠ざかってしまった……ここにも大きな違いがある。
実在する小人族に出会うという奇跡のような体験は誰にでもできるものではない。《だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています》というあとがきの言葉は、むしろ『てのひら島はどこにある』にふさわしい。実在するコロボックルと友だちになるのは無理でも、「虫の神様」のようなたあいもない想像は誰でにでもできるし、していることだからだ。内的な想像世界の大切さをよく表しているという点において『てのひら島はどこにある』には『だれも知らない小さな国』とはまた違った共感と感銘がある。
《誰でも夢想する、たあいもない想像が、人の出会いやその後の人生に大きくかかわることがある》──『てのひら島はどこにある』で僕が受けた感銘の核心はそこにあったような気がする。

《想像の産物》の影響力
小学生の時に『てのひら島はどこにある』で感銘を受け、中学生の時に『だれも知らない小さな国』で再び感銘を受けた僕は「この作家の作品はおもしろい!」という認識に至り、それからは本屋めぐりをして佐藤さとる作品を見つけると買っては読んでいた。
そして僕自身も、日常を舞台とするファンタジー童話を書くようになって、同人誌活動をしたこともあった。このブログにも短い作品をいくつか収録している。
その出発点が『てのひら島はどこにある』にあると考えると、虫の神様は、太郎やヨシボウの人生ばかりでなく、読者であった僕の人生にもいくばくかの影響を及ぼしているともいえるのである。


佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版
《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》 ※佐藤さとる・作『いたちの手紙』
糞の手紙!?〜イタチの粗相考 ※『いたちの手紙』と『いたちのてがみ』
一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出
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『谿間にて』と北杜夫氏の印象

谿間にて@夜と霧の隅で
『谿間にて』を収録した新潮文庫『夜と霧の隅で』のカバー表紙と裏表紙の内容紹介&収録作品

『谿間にて』と《どくとるマンボウ》北杜夫
『谿間(たにま)にて』は強く印象に残る作品だった。作者の北杜夫氏が亡くなったのは2011年10月24日。死去の報道を知って記していた『谿間にて』の感想&一度だけお見かけした北杜夫氏の印象についての記事の再録。

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作家・北杜夫氏の訃報をいくつかのニュースで知った。腸閉塞が原因で24日に亡くなったそうだ。84歳だったという。
【昆虫】でブログ検索すると北杜夫氏の死を痛む記事がものすごく多いことに驚く。虫屋さんには(にも?)北杜夫の愛読者が多いのだろうか。人気の「どくとるマンボウ」シリーズには「昆虫記」もある。虫屋さんなら読んでいるのかもしれない。
少し前には新種昆虫に北杜夫氏にちなんだ学名「ユーマラデラ・キタモリオイ」/和名「マンボウビロウドコガネ」が命名された──というニュースもあった。

僕は虫屋ではないし愛読家でもないので、北杜夫氏の本は中学生の頃(だった気がする)『船乗りクプクプの冒険』を読んだきりだった。だいぶ後にニフティの昆虫フォーラムに出入りするようになって、超遅ればせながらそこで知った『谿間にて』(新潮文庫『夜と霧の隅で』に収録)を読んで衝撃的な感銘を受けた。「ユーモア」系の「どくとるマンボウ」のイメージとはかけ離れた作品で、リアリティと幻想性を併せ持つ不思議な味わいのある逸品だった。

『谿間にて』の舞台は終戦翌春の上高地。高等学校の学生だった「私」は、秋の洪水で変貌を遂げた谿間(たにま)に入り、人がいるはずのないような場所で独り穴を掘る奇っ怪な男に遭遇する。
この男の話す奇妙な体験がこの作品の核心となるのだが……男は蝶の採集人をしていたことがあり、台湾で超珍種のフトオアゲハを目にして執念の採集劇を展開していた。
ひとり山中にとどまり、雨に打たれ、下痢にみまわれ、熱に浮かされながらも幻の蝶を求める過程が綴られていく。情景は目に浮かぶようにリアルであり、男の行動や心理の動きも生々しい迫力をもって伝わってくる。熱病に冒されもうろうとしながらもフトオアゲハに執着する男──そして、その意外な顛末……。ものすごく実在感ががあり、リアルだからこそ幻想物語のようでもある。

僕はこの作品を初めて読んだとき、映画『白鯨』(メルヴィルの原作小説は読んでいないので)のイメージが思い浮かんだ。幻の蝶フトオアゲハにとりつかれた男が、幻の白いクジラにとりつかれたエイハブ船長のイメージと重なった。両作品とも主人公の「私」の視点で「とりつかれた男の鬼気迫る執念」が描かれている。内容は全く別物だが、雰囲気に似ているところがある。

『白鯨』は夢がヒントになって生まれた作品だと読んだ記憶があるが、『谿間にて』の着想も似たようなものだったのではないか。夢そのものではないにしろ、意識力が後退し無意識の活動が高まったときにインスピレーションによって閃いた着想だったのではないかという気がする。
物語の着想には意識を集中して考え抜いてひねりだす物と、心の空白にふっと浮かぶインスピレーションによるものがあるが、『白鯨』も『谿間にて』も後者のタイプのように思われてならない。書こうと思って書けるタイプの作品ではなく、インスピレーションという形で降臨する希有な作品である。


ところで僕は、北杜夫氏を一度だけお見かけしたことがある。2001年、第5回海洋文学大賞の贈呈式で特別賞(プロ作家のこれまでの実績で選ばれる)を受賞された北杜夫氏がスピーチに立たれたときだ。
この贈呈式ではいくつかの部門で受賞作者が表彰されるのだが、この年の式典は印象に残っている。

特別賞の前には一般公募の部門で大賞に選ばれた某氏が「受賞の言葉」を述べていたのだが、このスピーチには驚かされた。
選考委員でもある曾野綾子氏や北方謙三氏ほか中堅作家達、特別賞受賞の北杜夫氏、清子内親王殿下らの目の前で「受賞の知らせを聞いたときも、さほど嬉しいとは思わなかった。書いている時点で賞はもらえるものだという自信があったから、受賞の知らせはノルマを一つクリアしたくらいにしか感じなかった」というような事を平然と言ってのけたのだ。

ふつう受賞のスピーチと言えば謙遜して自作を選んでくれた選者・関係者に感謝の意を表するものだろう。自分が応募した作品にいくら自信があったとしても、それが選ばれるかどうかはまた別の問題だ。まともなコンテストの場合、駄作が受賞する事はまず無いが、良い作品であれば受賞できるかといえばそうとも限らない。賞の選考システムにもよるが、大賞作より優れた作品が1次予選で落ちる可能性だって無くはない。
そもそも素人が「自分の作品に自信がある」と考える事、そしてだから「選ばれて当然」などと考える事、ましてや受賞スピーチで大先輩達を前にそれを得意げに話すなど、世間知らずというものだ。
某氏はかなり自己評価が高い人物らしく、自信満々の手前味噌なスピーチが続き、会場にはかなり冷ややかな空気が漂っていた。

僕は某氏の受賞作品を読んでいなかったから作品自体の評価はできないが、「この人に人を面白がらせたり感動させる作品が書けるのだろうか?」と疑問にさえ思ってしまった。
余談だが、作家に必要なのはいわゆる国語力としての文才ではなく、印象管理の心理学(?)だと僕は考えている。
美しい文章を書ける文才があればそれにこしたことはないが、伝えたい事をわかりやすく伝える文章が書ければ小説やノンフィクションは書ける。わかりやすく書く事は文才が無くても時間をかけて推敲すればできる。肝心なのは、(ストーリーや構成を含め)自分の書いたものを読者が読んで、どう感じるか──それを想像し、読者の印象を好ましい方向にコントロールする能力である。
得意げに受賞作についてプロモーションし続ける某氏──自分の話が聞いてる者を不快にさせていると察する能力も無い彼に、読者の気持ちを想像し面白さや感動を演出する作品が描けるのだろうか──という疑問が湧いてくるのも仕方ないだろう。

某氏の受賞スピーチで、会場にはいつになくビミョーな空気が漂っていたのだが……、そのあと特別賞受賞の北杜夫氏が壇上に立つと、場の空気は一転した。

杖を使い、人に付き添われて壇上に上がる姿に、北杜夫氏も(メディアを通して知っていたイメージに比べて)歳をとったな……と感じたが、オーラというのか存在感はあった。
スピーチの内容も面白く、ひょうひょうと話す姿に「これがどくとるマンボウか」と人気があるのもなるほどと改めて納得した。

「私の娘に言われるんですが……私がユーモア小説を書いていた時代は面白いものが少なかったからあれで通用したんだ。今のように面白いものがあふれている時代でなくてよかったわね……なんて鋭いことを言われるんで……そうした40年も前に書いた作品(どくとるマンボウシリーズ)が評価されて特別賞をいただくというのは、なにか詐欺でも働いているような気がして、またこのことが娘に知れれば、今度は何て言われるかわからない」

などとユーモアたっぷりなスピーチで会場をみごとに和ませていた。
年はとっても聞く者を楽しませようという紳士的な話術は健在で、さすがだなと感心した。
空気が読めない某氏とは大違いだ──と感じたのが、一度だけお見かけした北杜夫氏の印象である。

あれからさらに10年が経っている。
さらにお年を召したはずだから……と残念な訃報もすんなり受け入れられたが、ニュースやブログを見て、あらためて北杜夫氏が多くの人に愛され、影響を与えてたことを知った。(※2011.10.27 記)



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懐かしの海外ドラマ『タイム・トンネル』

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タイム・トンネルはアリゾナ砂漠の地下数千メートルにある科学センターに備えられ、ボタン1つで人間を現在から過去へ、過去から未来へと自由に送り込める驚異的な装置である。若き科学者ダグとトニーは、この開発途上のタイム・トンネルに送り込まれたまま、過去と未来をさまよう放浪者となってしまった。
(※番組冒頭で亜空間を転送される2人の映像につけられたナレーション)

懐かしの海外ドラマ『タイム・トンネル』
子どもの頃に観て感銘を受けた映画やドラマは色々あるが、海外ドラマ『タイム・トンネル』もその1つだった。
内容をかいつまんで説明すると──、タイムトンネルはアリゾナ砂漠の地下深く、巨費を投じて作られた巨大施設で開発が進められていた時間と空間を超越する転送装置だった。アメリカが秘密裏に進めてきたプロジェクトだったが、完成の遅れからその見通しが疑問視され、計画は打ち切られようとしていた。タイムトンネルの研究にたずさわってきた若き科学者トニー・ニューマンは、開発の中止を阻止するため、タイムトンネルが機能することを証明すべく自ら被験者となって別の時空間への転送実験を敢行する。トニーが転送されたのは、予期せぬところ──沈没事故を起こす前のタイタニック号の船上だった。トニーは転覆の危機が迫っていることを船長に告げるが、信じてもらえず密航者として拘束されてしまう。一方トニーの行動をモニターしていたタイムトンネル・スタッフは、トニーと船を救うために当時の資料を持たせたダグ・フィリップスをタイタニック号に送り込む。しかし、歴史的事実を変更することはできず、トニーとダグは沈没寸前のタイタニック号から別の時空へと転送される……。
タイムトンネルは未完成のため制御が難しく、ダグとトニーを現在に回収する条件がなかなか整わない。回収よりもハードルが低い転送でピンチを逃れるものの、転送先で2人は新たな歴史的事件に巻き込まれることになる。2人は持っている科学や歴史の知識を駆使して難局を切り抜けようとし、タイムトンネル・スタッフはトンネルごしに懸命に2人を追跡し支援する。
お馴染みのナレーションでの転送シーンから始まり、事件が決着したところで別の時空に転送される──といったスタイルの1話完結の連続活劇ドラマだった。

日本で放送されたのは1967年──当時僕は小学3年生だった。タイタニック号がらみの第1回放送(パイロット版)が強く印象に残っている。その後、高校生の頃に深夜の時間帯で再放送を……確か白黒テレビで観ていた記憶がある。
その頃は、まだ作品の出来・不出来(完成度)を判断する基準ができていなかったから、単純に当時の自分の感性に響くかどうか──好き・嫌いで「おもしろさ」を測っていた。作品に対する評価や分析は漠然としていて、ただ「おもしろかった」という記憶ばかりが強く残っている。
だからそれ以降、《『タイム・トンネル』をまた観てみたい》という気持ちはずっと持ち続けていたわけだが、これは単に作品に対する興味からだけではなく、子どもだった頃、初めてこの作品に出会ったとき、どんな風に感じながら観ていたのか──自分の心の動きをトレースしてみたいという思いもあった。また、長い間目にしていなかった懐かしい景色(?)を久しぶりに見てみたいという、望郷のような気持ちも混じっている。
『タイム・トンネル』の中でも、特に印象に残っていて「また観てみたい」という思いが強い回がいくつかあるのだが、そのベスト3が『タイム・トンネル-メモリアルBOX VOL.1』(メモリアルBOXはVOL.2と2つで構成されている)に含まれていることがわかり、まずはBOX VOL.1を入手し鑑賞してみることにした。

■タイム・トンネル-メモリアルBOX VOL.1
DVD収録内容(日本の放送順とは異なる部分がある)
■DISC-1
01:過去との出会い(タイタニック号の最後)
02:月への一方通行(米国の火星探査計画)
03:世界の終わり(ハレー彗星の接近)

■DISC-2
04:真珠湾攻撃の前夜(The Day The Sky Fell In/※日本未放映)
05:最後のパトロール(米英戦争)
06:火山の島(クラカタウの大噴火)

■DISC-3
07:トロイの神々(トロイの木馬)
08:カスター将軍の最後(リトルビッグホーンの戦い)
09:悪魔島(仏領ギアナデビルズ島)

■DISC-4
10:恐怖政治(フランス革命)
11:秘密兵器A-13(ソ連のタイムトンネル計画)
12:リンカーン暗殺計画(リンカーン大統領暗殺)

■DISC-5
13:アラモの砦(テキサス独立戦争)
14:土民の奇襲(土民の首領ヒラ・シンによるイギリスへの反乱計画)
15:Dデー二日前(ノルマンディー上陸作戦)

■DISC-6 SPECIAL FEATURES 映像特典
●2002年リメイク版パイロットフィルム
●ビハインド・ザ・シーン~I・アレンのホームムービーより
●ジェームス・ダーレン(トニー)のインタビュー
●ウィット・ビセル(カーク所長)のインタビュー
●第1話未放映別編集フッテージ
●日本版最終回エンディング

本篇764分+特典映像141分/6枚組DVD/日本語吹替音声

『タイム・トンネル』マイ・ベスト3+1を改めて鑑賞
第1話『過去との出会い』
『タイム・トンネル』で「また見てみたい第1位」はやはり、印象が強かったパイロット版となる第1話だった。
舞台は1968年。上院議員を載せた小型機がアリゾナ砂漠の真中に着陸。議員が降り立つとどこからともなく車が現われ、彼を乗せて走り出す。と、突然砂漠に地下への入口が出現し、車を呑み込むと入口は消失した。地下には800階相当の巨大建造物があり、12000人以上の所員が働く科学センターとなっていた。上院議員はアメリカが70億ドル以上の予算をつぎ込んで秘密裏に開発を進めていたタイム・トンネルの視察に来たのだが、完成が先延ばしになっていることにしびれを切らしており、翌日に開かれる会議で計画の打ち切りが採択される可能性について言及する。
研究を継続するためには、タイムトンネルが機能することをすぐにも証明しなくてはならない……そこでトニーは、(主任のダグやカーク所長の反対を押し切り)自ら被験者となってタイムトンネルに入り、転送実験を決行してしまう。
タイムトンネル・スタッフはあわててトニーの転送先を割り出そうとする。そしてタイムトンネルのモニターに映し出されたのは氷山に衝突する前日のタイタニック号だった。
何が起こったのか説明を求める上院議員にダグが状況やタイムトンネルの機能について説明する──ドラマの展開(緊張感)を妨げることなく、視聴者にもタイムトンネルの設定がわかるような構成になっている。
一方、そこがタイタニック号であることを知ったトニーも、沈没の危機が迫っていることを船長に告げ、せめて(氷山を避けるため)進路を南寄りに変更するよう進言するが、信じてもらえない。それどころか、不審な密航者として船室に監禁されてしまう。このままではトニーの身も危ない。タイムトンネル・スタッフはトニーと乗船者らを救うため、タイタニック号に関するデータと〝沈没を報じた翌日の新聞〟を持たせたダグをタイタニック号に送り込む。
過去の世界で再会したダグとトニーは、船長を説得するのが難しいと判断し、無線室を占拠し、救難信号を発信することで犠牲者を減らそうとするものの、船員たちに取押えられてしまう。ダグはタイタニック号が氷山に衝突して沈没するのは歴史上の事実であると訴え、事故を報じた翌日の新聞を船長に渡すが、船長は聞く耳を持たない。新聞は読まずに棄てられ、救難信号も取り消されてしまう。ダグとトニーは船室に監禁されてしまい、そして史実通りの時間にタイタニック号は氷山に衝突する。タイタニック号の不沈を信じていた船長も〝2人が予言した通り〟氷山に衝突したことで、トニーとダグの話を無視できなくなる。救える命を救うために、早く避難活動をすべきだと言う2人の意見をようやく認め、船長は避難命令を下す。このとき船長は自分の生死についてもわかっているのか尋ね、ダグが「残念ながら」と答えるシーンが印象に残っていた。
パニックとなった船上でトニーとダグは救助活動を手伝うが、衝撃に激しく揺れる甲板から投げ出されてしまう──その瞬間、タイムトンネルは2人を別の時空間へ転送したのだった。
この事件の一部始終を目撃していた上院議員は、タイムトンネル計画の打ち切りについて、2人の科学者の消息がわからないうちはないだろうと告げて基地を去る。

今回、DVDでの鑑賞を始めて、まず感じのは「なつかしい時代感」と(意外なことに?)「新鮮さ」だった。展開する画面は昔見たものなのだが、テレビ放送を見ていた時よりも画質が良く、鮮度が高く感じられた。放送時には白黒テレビで視聴していたということもあって、カラーの画面が新鮮だったのだろう。映像自体もデジタルリマスター版なので経年の劣化を感じさせずきれいだった。
テレビ放送で観ていた時と同じ日本語吹替で鑑賞できるのも嬉しかった(日本の放送ではカットされていた部分はオリジナルの英語音声に日本語字幕)。

今回、懐かしい映像を見ながら「そうそう、こんな展開だった」とか、「本放送を見ていたとき、このシーンでは、こんな風に感じたのだっけ」など、具体的な記憶がよみがえった。トニーが皆の命を救おうとして懸命にうったえているのに全く信じてもらえず、捕えられてしまう展開で、とても理不尽でもどかしく感じたことを思い出した。ダグが未来から持ってきた〝タイタニック号が沈没することの証拠〟である新聞を読みもせずに棄ててしまう船長が歯がゆく、氷山と衝突してようやくダグとトニーの言葉に耳を傾けるようになったときには「それみたことか」と思い、また、船長にすれば悪夢のような展開の中で自分の運命(死)を知ったときには、「船長はどんな思いだったろう」と想像したものだった。今さらながらに「トニーの忠告に耳を貸していたら、タイタニック号も乗客・クルーも失わずに済んだのに」と自責の念にかられたことだろう……自分の「死」を知っても「こういう事態を招いたのだから、それも、やむなし」と覚悟するしかなかったろう……そんな風に感じながら観ていたことを思い出した。
このパイロット版は『タイム・トンネル』という連続ドラマの魅力と方向性を打ち出すのにふさわしいエピソードだった。タイムトンネルは未完成のタイムマシンであり制御が難しいこと──つまり、タイムマシンに翻弄されるドラマであること。別の時代に送り込まれたトニーとダグの冒険活劇であること。そしてまたタイムトンネルごしに2人をモニターし支援し奮闘するスタッフらがドラマの緊張感を盛り上げること。過去に戻っても歴史を変えることはできないこと──などのコンセプトが、視聴者に伝わり、その後の展開に大いに期待を持たせることになったのだと思う。

ちなみに、この回が収録されたタイム・トンネル-メモリアルBOX VOL.1には、特典映像として、『2002年リメイク版パイロットフィル』が収録されている。オリジナルのパイロット版(第1話:過去との出会い)と比較すると、断然、1966年版(オリジナル・パイロット版)の方がおもしろい。2002年リメイク版はタイムトラベルによって歴史は改変しうる──それを阻止するために過去に戻るという話になっている。2つの作品を比べると、オリジナルの方が「時代的な古さ」を感じるものの(これは欠点ではない)、だんぜんおもしろい。2002年リメイク版の方が映像技術としては進歩しているのだろうが、コンセプトのわかりやすさ、視聴者の心理誘導などの脚本力(?)ではオリジナルの方が勝っている。比喩的な言い方をするなら──「オリジナル版」と「リメイク版」は、「古いペンで書かれたおもしろい小説」と「最新のパソコンでタイプされた凡作」といったところ。あらためてオリジナル版の『タイム・トンネル』のおもしろさを実感した。

第3話『世界の終わり』
僕の「また見てみたい第2位」は第3話『世界の終わり』──1910年5月のハレー彗星大接近をモチーフにした回だ。これも『タイム・トンネル』シリーズの中で特に印象深いエピソードだった。
ダグとトニーが転送されたのは鉱山の坑道。落盤で閉じ込められてしまったトニーを助けるため、ダグは助けを呼びに行く。しかし町の人々は〝それどころではない〟ようすで、誰も手を貸そうとしない。《接近中のハレー彗星がまもなく地球に衝突して世界は終わる》──町の人たちはそう信じており、放心状態で丘に集まり空を見上げて祈ることしかできずにいたのだ。ダグは一人で坑道に戻り、トニーを助け出すが、まだ坑道の奥には200人以上の坑夫たちが閉じ込められていた。
ダクとトニーは、ハレー彗星は地球には衝突せず、被害は無いということを説明するのだが、町の人は、地元の権威・アインスレー教授が打ち出したハレー彗星が地球に激突するという説を信じ込んでいた。
ダグはアインスレー教授が自説を撤回すれば、人々も正気に戻り救助に手を貸すと考え、教授の説の間違いを証明するため、教授のいる天文台に乗り込む。トニーは町の人たちが集まる丘へ向かい人々を説得しようとするが、誰も相手にしてくれない。
一方2人の動きをモニターしていたタイムトンネル・スタッフは、ハレー彗星が地球に衝突しないことを証明できる装置(レーダースコープ)をダグに転送しようと試みるが、失敗に終わる。タイムトンネルの焦点をハレー彗星に合わせたことで、装置が影響を受けはじめ不安定になっていたのだ。
ダクはアインスレー教授と対峙し、教授の「衝突説」の間違いを指摘するために、データからハレー彗星の軌跡を計算を始める。しかし、その結果は「衝突」──教授の説を証明する結論に達してしまう。そこで、もし「衝突しない」とするなら、その原因として何が考えられるか──という仮説から、ダグは〝目に見えない未知なる大きな力〟が働いている可能性に思い当たる。ダグはその存在を確認するための仕掛けを作って、アインスレー教授とともに〝ハレー彗星を地球に激突する軌道から外す大きな力〟を観測。教授も「衝突は回避される」ことを認め、ダグとともに丘に向かい、集まっていた人たちに「ハレー彗星は地球にぶつかることは無い」と訴える。アインスレー教授の説明で人々も正気にもどり、坑道に閉じ込められた坑夫たちの救出に向かう。
タイムトンネル側ではハレー彗星の焦点を当てたことで、ハレー彗星を引き寄せるという奇妙な現象が起こっていた。ハレー彗星をモニターしたタイム・トンネルは巨大な掃除機と化し、スタッフが吸い込まれそうになる事態が発生。システムは制御不能となり、スウェイン博士が装置の一部を破壊することで、タイムトンネルはダウンし、ようやくハレー彗星の影響を遮断することができた。
1910年のハレー彗星を呼び込んでしまいかねない危険な事態を体験したスウェイン博士は、タイムトンネル計画の見直しに言及する。自分たちが作り上げたのは〝手に負えない怪物〟だったのではないかという思いから、この装置を使いこなす自信が無くなったというのだ。

ドラマの中で、スウェイン博士は《タイムトンネルがハレー彗星を引き寄せることで地球を危険にさらした》と考えているが、実は1910年に地球に衝突するはずだったハレー彗星の軌道を変えた〝未知なる大きな力〟は、他ならぬタイムトンネルだった──もし、タイムトンネルが存在していなかったら、1910年に『世界の終わり』があったのだ……という〝しかけ〟は放送を見ていた時にかなり衝撃的だった。
《制御不能になるとおそろしい結果を招きかねない未完成のタイムトンネルが人知れないうちに地球を救っていた》──というエピソードが、ある意味、パイロット版をしのぐインパクトとして残っていた。

この回では、悪夢から解放された人々が坑内に閉じ込められた坑夫たちを救いにくるところでダグとトニーは転送されている。この後、次の回に続くブリッジ・エピソードがあるのだが、この部分は日本では放送されていなかったのだろう。放送時には見た記憶が無いし、その部分では英語のオリジナル音声に日本語字幕スーパーがつけられていた。
転送された2人のうち、トニーが砂漠上に現れ、そこへ、タイムトンネルのスタッフがやってくる。そこは10年前のタイムトンネル基地の上(地上)だった。7年前から勤務していたトニーはスタッフを知っているが、10年前のスタッフはまだトニーを知らない。後から来たダグもトニーを知らないことで、トニーはパニックになる。不審物として射殺されそうになった瞬間、トニーは消え、ダグとともにホノルルの日本領事館に転送される──日本未放送の第4話『真珠湾攻撃の前夜』に繋がる構成(アメリカ版)となっている(日本版では次週放送は『トロイの神々』)。
短い部分だが、トニーがトニーを知る前のダグと会っていた──というエピソードがあったことは放送時知らなかったので、新鮮に感じた。

第6話『火山の島』
僕の「また見てみたい第3位」は『火山の島』──これは日本での放送では最終回(第28話)だったこともあり、またトニーがタイムトンネルに回収され、ついに現在の世界に戻ってくることができた──のに……というエピソードが印象に強く残っている。
ダグとトニーが転送されてきたのは大噴火がせまる火山島(クラカタウ)だった。転送によって突然出現する2人を目撃した現地人カルロスは、ダグとトニーを悪魔だと思い込み、島が怒っている(地震や噴火をくり返している)のは、この悪魔のせいだと考える。そして、この2人のアメリカ人を殺せば島の怒りは静まると信じてその機会をうかがうことになる。
火山に詳しいダグは、噴火が近いことを察知。島で火山研究をしている科学者ホーランド父娘の話で、そこが1883年8月下旬の火山島クラカタウであることを知る。大噴火は近い。ダグは避難先にジャワを選択し、ホーランド父娘に島から脱出するよう促すが、ホーランド博士は噴火はまだ先のことだとの自説を曲げず、娘は研究を盗みにきたライバル科学者の妨害工作だと疑って、取りつく島もない。
一方、タイムトンネル・スタッフもクラカタウの資料を集めて検討──ダグが選んだ避難先のジャワは危険域で、スマトラの高台が安全だということがわかる。スタッフのジェリーは、新しい回収法を提案──これまでダグとトニーの2人を同時に回収しようとして失敗してきたが、一人ずつエネルギーを集中して回収を試みるという方法だった。しかし未知のリスクがあるため、その場ではより安全な方法を考えようということになる。ところが島ではカルロスの指揮で現地人がダグとトニーを襲撃。このままでは危険だと判断したタイムトンネル・スタッフは、やむなく1人ずつ回収する方法を実行する。
この方法によってトニーは無事にタイムトンネル内に回収された──かに思われたのだが……トニーが戻った科学センターでは、時間が停止していた。スタッフは全てマネキンのように止まったまま動かず、トニーは過去と現在の間に凍結されてしまったことを理解する。ダクはまだクラカタウに残されている。トニーはメモ帳にクラカタウでの座標と時間を書き記し、ダグとそこへ行くので回収して欲しいとのメッセージを残すと、スタッフが集めたクラカタウの資料──安全な避難先の情報を手に、タイムトンネルで再びクラカタウに戻る。1度消えて再び現われたトニーの活躍で、戦いの形勢は逆転。首謀者カルロスが溶岩の中に転落したことで襲撃は終わる。
トニーが残したメモを見て彼が一度戻っていたことを知ったタイムトンネル・スタッフは、驚きを隠せない。カーク所長は確認のため、音声連絡を試みる。火山島でホーランドの娘を説得しようとしていたトニーは、彼女とともにカーク所長の声を聞く。〝未来からの声〟を聞いたホーランドの娘は、トニーが100年後の未来から来たことを知らされる。そしてようやくホーランド父娘も脱出に同意するのだった。
しかし、カヌーに全員が乗ることはできない。ホーランドに安全な避難地域の資料を渡すと、トニーとダグは島に残って指定した座標で回収を待つことになる。無事にホーランド父娘を送り出した後、2人は回収地点に向かう。タイムトンネル・スタッフは回収を試みるが、火山のエネルギーが影響し不発に終わる。回収することができないため、やむなく2人を別の時空間に転送したのだった。

タイム・トンネル-メモリアルBOX VOL.1 に収録されている第6話『火山の島』の最後──次回予告パートは第7話『トロイの神々』の冒頭になっているが、日本の放送では『火山の島』が最終回(第28話)となるため、番組の最後は『トロイの神々』冒頭部ではなく、亜空間の中を転送されるダグとトニーの(お馴染みの)映像が流れ、次のようなナレーションでまとめられている。


トニーとダグが回収されるチャンスはまたもや消え去り、2人は再び無限の時間の広がりに身を投じていった。このシリーズは一応終わるが、タイムトンネルは現在、未完成のままである。スタッフは今後もあらゆる実験を試みて、完成への道を目指してゆくだろう。タイムトンネルの完成──それは現代、いや、人類の永遠の夢といえるかもしれない。
(この日本版最終回エンディングは【特典映像】に収められている)

シリーズを通してトニーとダグの回収(現在への生還)が、目指す所であり、視聴者は、それがかなうことを願い固唾をのんで展開を見守ってきた。だから、ようやくトニーがタイムトンネル内に姿を表した時は、「ついに、その時がきた!」と興奮したものだ。しかし、タイムトンネル周辺の様子がおかしい。本来であれば大歓声で迎えられて良いのに、センター内は、しんと静まり返っている。トニー以外の時間が停止しているシーンは衝撃的だった。遠い過去や未来に転送されたときより、心細さ・孤独感のようなものを強く感じた。ハッピーエンドかと思っただけに、その落差が大きく、印象に残っている。

第4話『真珠湾攻撃の前夜』(英語音声+日本語字幕)
今回視聴したタイム・トンネル-メモリアルBOX VOL.1 には日本未放送の第4話『真珠湾攻撃の前夜(The Day The Sky Fell In)』が含まれていた。当然、テレビ放送では観ていなかったから「また見てみたい」ランキングには入っていないが、視聴してみると、これもなかなか感慨深いエピソードだった。
《転送先でトニーが、過去の自分や亡き父と対面する》というシチュエーションで、「こんなドラマチックな回が制作されていたのか」と驚いた。

トニーとダグが転送されたのは、日本が真珠湾に奇襲攻撃をかける前夜のホノルル日本領事館だった。総領事は大事の前に騒ぎを起こしたくないという理由で2人を帰すが、尾行をつけ、スパイだとわかれば殺せと命じていた。
トニーは少年時代に、海軍の少佐だった父とその地で過ごしたことがあり、父は真珠湾攻撃で行方不明となっていた。しかし……真珠湾攻撃の前日には父は生きている──トニーは当時の記憶を頼りに父親に会いに行き、そこで子どもだった自分とも出会うことになる。トニーは身元を明かさずに、父親に奇襲攻撃があることを告げるが、信用してもらえない。日本側の尾行は日本の機密情報を知っていたトニーとダグをスパイだと判断。どこから機密情報を得たのか情報源を確かめるために2人を捕えて尋問する。殺される間際に2人はなんとか脱出。空爆で破壊されることになる家から、子どもだったトニーと友だち家族を避難させ、トニーは父親を捜すが……少佐は海軍の通信所で空爆を受け、重傷を負っていた。彼はトニーとダグの助けを借りながら、最後の重要な通信をはたすと、トニーの腕の中で息を引き取った。

他の回とはひと味違うドラマチックなエピソードだったが、《視聴者が感情移入し応援している主人公──その父親が日本軍の奇襲攻撃で殺される》というショッキングな内容であったために、日本では視聴者の国民感情をおもんぱかって放送が見送られたのだろう。
この回について、トニー役のジェームス・ダーレンは【特典映像】のインタビューで次のように語っている。


劇中で私は幼い頃の自分に会い、父と対面した。父は攻撃で亡くなったから十年ぶりの再会だ。この役を演じられて役者として誇りに思っている。すばらしい物語だった。私のお気に入りの作品だ。今ふり返っても、真珠湾のエピソードには特別な思いがある。

日本で未放送となった理由もわからないではないが、主役自身もお気に入りだという回が放送されていなかったのは残念だ。もし子どもの時に見ていれば、このエピソードも「また見てみたい」回の1つに入っていたことだろう。
ちなみに日本未放送の回はもう1つあって、それはメモリアルBOX VOL.2 の方に収録されている(第17話:生死を賭けたゲーム/南硫黄島での残留日本兵との奇妙な戦争ゲーム)。

──以上が、『タイム・トンネル』で「また見てみたい」エピソード・ベスト3+1の概要と感想。
メモリアルBOX VOL.1の第1話〜第15話までを久々に鑑賞したが、子どもの頃に見て感じていたのと、おおむね印象は同じだったように思う。子どもの時におもしろいと感じながら見ていた回は、今観てもおもしろい。「今週は今ひとつ盛り上がりに欠けていたなぁ」と感じた回は、今回視聴してもそう感じた。
また、テレビ放送時、子供心に「おかしい」と感じるところもあって……例えばエピソード中にその時代の服に着替えていたダグとトニーが、転送時に突然元の服装に戻るシーンや、タイムトンネルに映し出される映像が、映画のようにカメラ割りされていることなども「ヘンだ」と感じていた。今回視聴していて、ああ、昔も、この場面でこんな「ひっかかり」を感じながら見ていたなぁ……と思い出しすこともいくつかあった。
考証や整合性という点では色々とツッコミ所はあるが、それをものともしない(?)面白さに満ちあふれた作品だったように思う。
今制作するとしたら、こうした味わいは出せないだろうという時代感(古さ?)も含めて、好感が持てる優れたエンターテイメント作品だったことを改めて確認することができた気がする。



『タイム・マシン 特別版』感想 ※『タイム・マシン 80万年後の世界へ』
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ロアルド・ダール:キス・キス❲新訳版❳収録作品&感想

01ダールKissKiss
『キス・キス❲新訳版❳』(早川書房)のカバー表紙と裏表紙の内容紹介⬆

ロアルド・ダール『キス・キス❲新訳版❳』収録作品&感想
少し前に読んだ短篇集『あなたに似た人❲新訳版❳』に続いて、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス❲新訳版❳』(田口俊樹:訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)を買って読んでみた。収録作品は11編で、次の通り。

女主人
ウィリアムとメアリー
天国への道
牧師の愉しみ
ミセス・ビクスビーと大佐のコート
ロイヤルゼリー……
ジョージー・ポージー
始まりと大惨事──実話──
勝者エドワード

世界チャンピオン


それぞれの作品について収録順に感想を記していくが、あらすじ・ネタバレを含む内容となるので、そのつもりで──。

■女主人
17歳の新人ビジネスマン・ビリーが出張先の町で宿泊先に選んだのは「B&B(お泊りと朝食)」の表示板を出していた下宿屋だった。窓からのぞく室内のインテリアやカーペットの上で眠る犬、鳥かごの中のオウムなどを見て快適そうだと感じたからだ。待ちかねていたように現われた下宿屋の女主人は、中年の、ちょっと変わっているが、やたらと愛想がいい婦人だった。ビリーは宿帳に記帳するさいに、そのページに記されていた2つの名前に見覚えがあるように感じる。妙なことに、その記帳日付は2年以上も前のものだった。
女主人が用意した〝ほんのりとアーモンドの苦味〟がする紅茶を飲みながら話しをするうちに、ビリーは宿帳に記されていた名前を新聞で読んでいたことを思い出す。徒歩旅行中に失踪した若者ではなかったか? 女主人とのおしゃべりの中で、宿帳にあった2名がビリーと同じくハンサムな若者だったこと、窓から見えたオウムや犬が実は見事な剥製であったこと、可愛いペットが死ぬと彼女自身が剥製にして残していることなどが、明らかにされていく。
要するに、ビリーはこの女主人に気に入られ、青酸化合物入りの紅茶を飲まされて、オウムや犬、失踪した青年たちと同じ運命をたどることになる──ということが、言外にわかるように描かれている。

この作品を読んだとき、ヒッチコック映画の『サイコ』や阿刀田高・作『ナポレオン狂』が頭に浮かんだ。〝人間を剥製にする〟というショッキングな着想が共通している。もちろんこれらは全く違う作品で、それぞれに独自の工夫・趣向が凝らされている。『サイコ』では〝人間の剥製〟という衝撃的アイディアのみならず色々なアイディアが盛り込まれ、サスペンス仕立ての演出も素晴らしい。『ナポレオン狂』は2つの全く違うナポレオンマニア(?)の話を最後に意外な形で融合させるという(『女主人』よりも)複雑な構成になっている。一見〝凝りぐあい〟からすると『サイコ』や『ナポレオン狂』が勝っているようにも見えるが、シンプルな着想をムダなくスマートにまとめた『女主人』にも洗練された美しさを感じる。この3作品にはいわゆる《奇妙な味》が漂っているが、ヒッチコックや阿刀田高は、着想の意外性を「あっと驚く」鮮烈な演出で描いているのに対し、ダールは「あっと驚く」というより、「じわじわわき上がってくる違和感→驚き(怖さ)」を描いているといった感じ。ヒッチコック作品や阿刀田作品では〝人間の剥製〟という着想を読者に気づかれないように隠しながら展開し、それが明らかにされるシーンで「あっと驚く意外性」と「そうだったのか!という必然性(整合性)」が結びつく──観客・読者を《驚きを持って納得させてしまう》というスタイルをとっているが、ダールの『女主人』では、明確な「種明かし/読者を驚かせる」というシーンは無い。伏線(ヒント)を少しずつ織り交ぜた展開の中で、どの時点でビリーが〝クモの巣に掛かった獲物〟だと気づくか──これは読者によって違いがありそうだ。ビリーが飲んだ紅茶にアーモンドの風味を感じた箇所なのか、オウムや犬が剥製であったと気づくところか、あるいは宿帳の奇妙な点に気づいた段階で、ある程度の方向性を察知する読者もいるだろう。明確な「見せ場」「種明かしのシーン」をあえて設けずに、しれ〜っと終わる……読者は読み進むうちに、行間から漂う真相に気づいてゆき、それに気づかぬ主人公ビリーをハラハラしながら(?)あるいは哀れみながら見守る──という読み方になる。こういう演出に〝ダールらしさ〟があるのではないかと感じた。

■ウィリアムとメアリー
心臓が止まったあとに、脳と片目だけを生かし続けるという奇怪なSF的着想で描かれた作品だが、その設定に付随するSF的テーマとは別次元の──老夫婦間の「それまでの主従関係が、逆転する話(仕返し)」が作品の主題になっている。夫唱婦随の時代は特にそうした夫婦関係がありがちだったのだろうが──気難しい夫(ウィリアム)の視線を気詰まりに感じ続けていた妻(メアリー)が、そのストレスから解放され、「あら探しをしたり小言を言うことができなくなった夫(脳と片目だけになったウィリアム)」を見下ろして、逆にストレスを与えられる立場になったことに嬉々とする結末──精神的優位性が逆転するという話なのだが、この「仕返し話」を描くのに、大がかりなSF的設定を用いたのは、そぐわない気がした。ウィリアムの遺言で《脳と片目だけを生かし続ける》ことがどういうことなのか詳しく長々と語られており、読者の関心はとっぴなSF的興味に誘導されることになる。ところが、読み終えてみればこの作品の核心は《老夫婦に常態化していたストレスと仕返し》であって、複雑で大げさなSF的着想を持ち込み、散々説明てしおいて、「書きたかったのは、そこなのかよ」といった印象が否めない。
被験者になることを激しく嫌悪していたウィリアムが一転してそれを受けいる気になったあたりの心境の変化に無理を感じた。

■天国への道
ミセス・フォスターは、時間に遅れることをひどく恐れる強迫観念の持ち主で、いつも早め早めに行動しないと安心できない性格だった。ところが夫は、(妻が反抗できない性格であることを知った上で)わざとのんびりとふるまって、いつも妻をやきもきさせる意地の悪いところがあった。
ニューヨークの大邸宅に4人の使用人とともに暮らしているフォスター夫妻にはパリに嫁いだ一人娘がいて、孫も3人いたのだが、夫がニューヨークを離れることを嫌ったため、ミセス・フォスターはまだ孫たちに会えずにいた。それが彼女の念願が叶ってフランスで6週間孫たちと過ごすことが〝奇跡的に〟夫から許可され、ミセス・フォスターはこれを何より楽しみにしていた。妻の旅行中、夫は使用人に休みをとらせ、自分はクラブに移ることになっていた。しかし出発当日には妻を空港まで見送ると言って車に同乗することに──そして、例によって出発しなくてはならない時間になっても彼女をじらすという、いつもの行動にでる。飛行機搭乗に間に合わなくなると気をもみ、オロオロ・ハラハラするミセス・フォスターのようすがよく描かれており、ミセス・フォスターは絶体絶命のピンチ──日常を舞台とするサスペンスといった緊張感が伝わってくる。ようやく空港に到着すると、予定していた便は霧のためフライトが遅れ、結局翌日に延期となる。疲れ果てた彼女は翌日もふたたび夫の〝拷問〟に苦しめられることになる。飛行機に乗り遅れることを恐れて気が気ではないのに夫はのんびりしていて、一度は車に乗ったものの、再び部屋へ引き返してしまう。ミセス・フォスターは夫を呼び戻すため家の前まで行くが、ドアの前で突然動きを止める。ドア越しに聞き耳を立てていた彼女は家には入らず車に戻って、「間に合わないから夫は置いていく」と運転手に出発を命じる。
ミセス・フォスターは無事にフランス行きの便に間に合い、娘や孫たちとの6週間を満喫して、別れる時には遠からずまた会えるような態度を示していた。ニューヨークの家に戻ったミセス・フォスターは、閉ざされていた家の中に漂う異臭に気がつく。エレベーターが2階と3階の間で止まっていることを確認すると彼女は修理を呼ぶ……。
ハッキリとは書かれていないが、ミセス・フォスターにとってストレスの元凶であり、娘や孫たちと会うことの障害となっていた夫が、6週間前、エレベーターに閉じ込められるというハプニングみまわれ、それを察知した彼女が〝意図的に事故に気づかずに出発した〟ことが読者にわかるように描かれている。
これも『ウィリアムとメアリー』同様《老夫婦の常態化したストレスと仕返し》の話。

《夫がエレベーターに閉じ込められた》という具体的な状況については最後に明かされるわけだが、ミセス・フォスターが夫を置いて空港へ向かう場面で《何か異変があった》ことは読者にわかる。その後の彼女のようすから、ミセス・フォスターが帰った時には夫は亡くなっているのだろうということも想像がつく。このため《結末の意外性》は弱まり、いささか物足りなさが残った。ミセス・フォスターが〝事故〟に気づくシーンを読者に悟られない処理──ダブル・ミーニングやミスディレクションでカバーできていれば、結末のインパクトはもっと大きかっただろうに……もう少しなんとかできなかったか……と残念に思ってしまう。
ただ、ダールは結末の驚きを演出する意図はなかったのかもしれない。彼が書きたかったのは《妻の仕返し》だったのだろう。ダールの「仕返し話」を読んだことがある読者なら、展開の方向は予測可能だろうから、あえて《オチを隠す》演出をしようとは考えなかったのかもしれない。
はたから見ればとるに足らない些細なこと(時間に遅れること/夫の些細な?意地悪)が、当人にとっては大いに心を乱すこと──ミセス・フォスターの人知れない内面のストレスや葛藤をリアルに緊迫感をもって描かれている点が面白かった。おそらく多くの人が日常の中で感じているだろう些細な(?)ストレスを拾い上げ、非日常的なエピソードに昇華させたところにこの作品の魅力を感じた。

■牧師の愉しみ
家具の骨董商ミスター・ボギスは日曜になると牧師になりすまして地域の農家をまわり、〝お宝〟を発掘しては、無知な相手を騙して安く買い叩き、客には言葉巧みに高額で売りつけるという商売を楽しんでいた。
この〝牧師の愉しみ〟の活動中、大した期待をかけずに訪れた薄汚い家で、ボギスは思いもかけなかった超激レア物件を見つけて驚嘆する──現存する18世紀のイギリス家具の中で最も有名な<チッペンデールの飾り箪笥(コモード)>と呼ばれる物だった。これを手に入れることができばボギスは大金持ちになり有名にもなれる。ボギスの交渉相手──カモにすべく標的となった3人組は、無知ではあったが警戒心が強く疑り深く、ずる賢い連中だった──それもそのはず(?)、彼らは短篇集『あなたに似た人』にも登場していて、そのうちの1人クロードは『クロードの犬』でイカサマドッグレースで一儲けを企み、本短篇集『キス・キス』でも『世界チャンピオン』で密猟の悪巧みを企てている人物だった。このずる賢い者同士の対決──交渉の駆け引きが見どころとなっている。
ボギスが安く買い叩くために、飾り箪笥を「かなり出来の悪い模造品」とした上で、その脚が自宅のテーブルに付け替えるのにはうってつけだと思いついたように買う気を臭わすと、3人組はすぐに食いついて、これを牧師に売りつけようとする──抜け目なく、少しでも値をつりあげようと抵抗するが、偽牧師は「欲しいのは脚だけ/枠組みは薪にしかならない」と乗り気でない態度に転じる。そして駆け引きの末、ボギスは、1万5千ポンド〜2万ポンドの値打ちがある〝お宝〟を、たった20ポンドでまんまと手に入れる商談を成立させる。
してやったりと内心有頂天のボギスは、〝お宝〟を運ぶために車をとりに行く。彼は、牧師に似つかわしくない大型ステーションワゴンに乗ってきたことを知られるのを警戒して、車を少し離れた所に置いてきていた。
ボギスが車をとりに行っている間に、猜疑心が強い3人組は、牧師の気が変わるのではないかと心配をはじめる。大きな飾り箪笥が「車に積めない」ことを口実に取引を反古にするのではないかと疑い始め、それなら牧師が乗るような小さな車にも「積めるように」と牧師が欲しがっていた脚を鋸で切り離してしまう。更に、欲しがっていた脚を手に入れた牧師が、不要になった本体を「車に積めないから」と置いて行き、そのぶん値切ろうとすることを警戒して、「薪にしかならない」本体も「積めるように」斧で解体してしまう……。

希少で高価な骨董家具が発見されながら、ボギスと3人組の欲深さによって台無しにされてしまうという、なんとも無惨な結末……策士が策におぼれて目の前で大きな魚を釣り落としてしまう──という皮肉な話でもある。

おもしろい作品だったが……ボギスが飾り箪笥を買いたたくために、「欲しいのは脚だけ」と言いだしたところで、「分解されるというオチになるのだろうなぁ」と結末が読めてしまい、その通りになった(それ以上の《ひねり》がなかった)ことに、やや物足りなさを感じないでもなかった。
僕は「アイディア・ストーリーを読む」のは「マジックを見る」のと同じで、「トリックを見破ってやろうと疑ってかかるのではなく、作者・マジシャンの誘導を受け入れ、自然に鑑賞するのが望ましい」と考えている。もちろんどんな鑑賞の仕方をしようと、それは読者・観客の勝手なわけだが、作者やマジシャンはその《アイディアやトリック》を最も効果的に演出できる展開を準備している。その案内にしたがってめいっぱい堪能するのが、最も楽しめる鑑賞姿勢というものだろう。だから、作者の企みを先回りして暴いてやろうという読み方は好まない。それでも、読み進む中でオチが見えてしまうことがあって、そうなると、せっかくの《意外性》も、インパクトが薄れ、予定調和ということになってしまう。
オチの構成要因として「欲しいのは脚だけ」という伏線は必要だったともいえるわけだが……読者にオチ(意外性)を察知されないような工夫があったら良かったのに……と思わないでもなかった。

また、この作品はニセ牧師・ボギスの視点でずっと描かれていながら、3人組と交渉がまとまり、ボギスが車をとりに行くところから、3人組の視点に変わる。普通なら、ボギスの視点を貫き、有頂天の絶頂で戻ってきたボギスが、無惨に解体さされた〝お宝〟を目の当たりにして愕然とする姿を描いて、オチのインパクトを演出しそうなものだが、ダールは「有頂天のボギスが知らないうちに、〝お宝〟が崩壊して行くようす」をつぶさに記し、ボギスが戻ってきたところで──ボギスが惨状を目にする直前で幕を閉じている。はたしてボギスはどのような反応を示すのか……壮絶な見せ場をあえて書かず、読者に想像させることで、余韻を演出する趣向が感じられる。
ダールとしては《意外なオチ》としてのインパクトを演出するより、悲惨な状況に至るさまをつぶさに描いて行くことにおもしろみを見いだしていたのだろう。その上で《肝心なところは(作者が)語らず、読者に想像させる》──このあたりにダールのユニークな感性&美意識を感じる。

この作品を読んで頭に浮かんだのが、『猫の皿』という落語。概要は──古美術商の男が立ち寄った茶屋で、猫がエサ皿に使っているのが高価な名品であることに気づく。男は無知な茶屋の店主からこの皿を安く手に入れようと画策し、猫をゆずってくれと申し出る。3両で猫をひきとることになり、男が「猫は皿が変わるとエサを食べなくなるから、皿も一緒にもらっていく」と言うと、店主は「これは捨て値でも300両もする名品だから売るわけにはまいりません」と断る。古美術商の男は驚いて、「名品と知っていて猫のエサ皿に使っているのか」といぶかると、店主いわく「こうしておりますと、時々猫が3両で売れます」──というもの。
《古物の仲買人が掘り出し物を見つけ、相手の無知につけ込んで買い叩こうとして失敗する話》としては『牧師の愉しみ』とよく似ている。
『牧師の愉しみ』では、買い叩くために利用した「相手の無知」がはからずしも金儲けを台無しにするという皮肉な結末であるのに対し、『猫の皿』では相手の方が1枚上で、《高価な皿を安く手に入れようとして、逆に猫を3両で買わされてしまう》という逆転の意外性が切れ味の良いオチとなっていて、スマートにまとめられている。着想はよく似ているが、演出や味わいにはずいぶん違いがある……これが作者の個性というものなのだろう。

■ミセス・ビクスビーと大佐のコート
冒頭部では、アメリカでは女ばかりが良い思いをして男は損な役回りばかり強いられているというようなことが並べ立てられ、しかしながら「夫が怪物のごとき配偶者に一矢報いることもある」として『ミセス・ビクスビーと大佐のコート』のエピソードを既知の実話と前置きしている。
作品冒頭で「夫が怪物のごとき配偶者に一矢報いる」内容であることを明かしてしまうのは興ざめ行為ではないか……という気もするのだが、このあたりもダールの感性のユニークなところなのかもしれない……。

平均的な歯科医の妻ミセス・ビクスビーは大金持ちの大佐と浮気をしていたが、あるとき大佐から「お別れのプレゼント」として6千ドルもしそうなミンクのコートを受け取る。ミセス・ビクスビーはこの贈り物をたいそう気に入ったが、見るからに高価なミンクのコートを着て帰るわけにはいかないことに気づく。夫の目にとまれば「どうしたのか?」と尋ねられないわけが無いし、問われて「浮気相手にもらった」と言えるはずも無く、説明のしようがない。しかしミセス・ビクスビーはミンクのコートを手放す気にもなれず、なんとかこれを自分の物にできないかと思案する。
彼女は家に帰る前に質屋へ寄って、ミンクのコートを質草に50ドルを借りて、名前・住所・品目を空欄にしてもらった質札を受け取る(この質札を持参すれば50ドルでミンクのコートを請け出せる)。
ミセス・ビクスビーは帰宅すると夫に、質札を見せ、「拾った」と報告する。夫はそれが質札で、これを持ってそこに記されている質屋へ行けば、500ドル以上の価値がある質草を50ドルで手に入れることができると説明し、夫婦で喜ぶ。それが男性用のものであれば夫へのクリスマスプレゼントに、女性用のものであればミセス・ビクスビーへのクリスマスプレゼントにするということが話し合われ、請け出しには仕事場へ行く途中に夫が寄ることになる。

(読んでいて、高価なものをネコババすることに2人ともまったく抵抗を示さないない道徳観には、ちょっと驚いた)
夫を送り出した1時間後、仕事場の夫から電話があり、請け出した質草が「とびきり素晴らしいものだった」と知らされたミセス・ビクスビーは、夫の手があく昼過ぎに彼の仕事場へ出向く。
そこで「本物のミンクだ!」と夫から見せられたのは、コートではなく〝まぬけな毛皮の襟巻〟だった。ミセス・ビクスビーは衝撃を受けるが、喜ばないわけにはいかない。表面上は喜ぶふりをしながら、腹の中は煮えたぎり「あの質屋、ぶっ殺してやる」と怒り心頭。これから真っすぐ質屋に行って、この襟巻きを叩きつけ〝彼女のコート〟を取り返してやると意気込んで診察室を飛び出す──そのミセス・ビクスビーが見たものは、昼食に出かけようとしていた夫の秘書兼助手が優雅にまとっていた〝彼女のコート〟だった。

最後の《意外性のある鮮やかな結末》の部分──ミセス・ビクスビーはコートをくすねたのが質屋だと思い込むが、じつは夫が愛人のためにくすねていたことが発覚するというオチは着想として素晴らしい。ただ、冒頭で「夫が配偶者に一矢報いる」内容であることをバラしており、「この話の結末を大いに愉しめるはずだ」とまで記しているので、読者は、夫が毛皮の襟巻きを見せた時点で「夫の仕業」だとわかってしまう。これは大きな失態だろう。
本短篇集の他の作品を読んできて、「ダールという作家は、オチの意外性を鮮やかに演出することにこだわらない」と解釈していたが、この、どうみても失態としか思えない構成をわざわざとっているのが解せない。ひょっとしてダールは「意外性の演出にうといのではないか……」といぶかってしまう。《短編の名手》といわれるほどの作家なのだから、まさかそんなことはないだろうが……冒頭でオチのキレをそこなうネタバレをわざわざやっている意味が理解できない……。

ただ、問題のある冒頭の前置き部分をのぞけば……ストーリー展開、アイディアとその演出はきれいにまとまっていてみごとである。本短篇集の中で、僕が考える作品の理想に一番近い形だった。《作者のたくらみ》を巧みに隠し、最後に意外なオチで鮮やかに決める──この洗練されたスマートさは他のダール作品とは少し違う……あか抜けた印象があった。
このスマートにまとめられたアイディア&構成がダールのオリジナルかどうかはわからない。というのも、冒頭では、このエピソードが既知の実話であると前置きされているし、「訳者あとがき」によれば『ミセス・ビクスビーと大佐のコート』が発表される3年前に、これと同じアイディアのフランス映画があったらしい。すでに完成された小話があって、その骨子を参考にしたことで、〝他のダール作品とは少し違う〟印象になったのかもしれない。

■ロイヤルゼリー
ミツバチに魅入られた養蜂家のアルバート・テイラーは20歳でメイベルと結婚し、9年かかってようやく子宝に恵まれた。ところが、この赤ん坊はミルクをなかなか飲もうとせず、メイベルを心配させる。医者は悪いところは無いと言うのだが、赤ん坊の体重は減っていくばかり……メイベルはノイローゼ寸前の状態だった。
そこでアルバートはミツバチが女王蜂を育てる特別栄養食──ロイヤルゼリーをミルクに混入させて与えることを試みる。ミツバチの女王蜂と働き蜂を分けるのは、ロイヤルゼリー──これだけを与えられて育った幼虫は成長著しく、1日で自分の体重ほどの卵を産む女王蜂になることができる(一方、蜂蜜や花粉をエサに育てられた他のメスは全て生殖能力の無い働き蜂になる)。ロイヤルゼリーの絶大な栄養効果を期待してのことだった。
ロイヤルゼリー入りのミルクを与えると、赤ん坊は一転して食欲旺盛になり、体重も急激に増え始める。安堵し喜ぶメイベルだったが、アルバートがミルクにロイヤルゼリーを混入させたことを知ると激高して夫の行為をなじる。アルバートはロイヤルゼリーの栄養効果や無害であることを──ロイヤルゼリーを与えたことで、ラットのメスの卵胞成長速度が促進したり、オスの繁殖能力が復活したという動物実験や人が摂取した報告例などをあげて妻を安心させようとする。

そして最後にはアルバート自身がロイヤルゼリーを大量に摂取したが無害だったことを明かす。ラットのオスの繁殖能力が復活したのだから、何年もの間子宝に恵まれずにいたアルバートにだって効くはずだ──そう考えて実行した結果、この赤ん坊を授かったのだった。
この赤ん坊がロイヤルゼリーの力によって誕生したのであれば……通常のミルクを飲もうとせず、ロイヤルゼリーを欲していたのも合点がいく!? 女王蜂の幼虫のように急激に体重を増やした赤ん坊の体型は、ハチの幼虫を思わせるものになっていた……。

ロイヤルゼリーの効能を期待する健康・美容方面の商品があることは僕も知っていたから、《ロイヤルゼリーを人に与える》という着想自体には新鮮味が感じられず、また実際に飲んでいる人もいるのだから、奇怪な効果があるとも思えなかった。
ただ、《作者のたくらみ》として、「赤ん坊にロイヤルゼリーを飲ませる話」として展開し「実はアルバート自身も飲んでいた」という話にシフトする意外性──《作者のたくらみ》はおもしろい。
生まれた赤ん坊に「悪い所が無いのにミルクを飲まない」という不可解な点があったことも、父親経由のロイヤルゼリーの影響だと考えれば「なるほど、そうだったのか」と腑に落ちる。赤ん坊がロイヤルゼリー入りのミルクをむさぼるように飲むことも……。

もっとも赤ん坊にロイヤルゼリーを与えるという着想はビミョ〜だ。「腸内環境が未成熟な赤ん坊にハチミツを与えてはいけない」というのは周知のことだが(乳児ボツリヌス症のリスクがある)、ロイヤルゼリーは大丈夫なのか?──読んでいく過程(赤ん坊がロイヤルゼリーを必要とする?ことが明らかにされていない時点)では、ちょっと引っかかった。ミツバチのスペシャリストであるアルバートが、このリスクに言及せず、手放しで赤ん坊に飲ませても安全だと説明しているのは、おかしいと感じた。

あと、気になったのは最後の赤ん坊を描写した箇所──、


赤ん坊は裸でテーブルの上に寝ていた。丸々と肥えて、色白で、熟睡しているその姿は巨大な幼虫を思わせた。幼虫の段階もそろそろ終わりに近づき、大きな顎と翅を備えた成虫になって世界へと飛び立つ日を間近にひかえた、そんな幼虫を。

セミやカメムシなどは幼虫から成虫が脱皮(羽化)するが、ハチは幼虫と成虫の間に蛹の期間がある。ダールは蛹を飛ばしているが……《その姿は巨大な幼虫を思わせた》と表現しているのは、実は(幼虫ではなく)《蛹》のことではないだろうか? 作品の中でミツバチの生態について詳しく描かれているのだから、ダールが「ミツバチには蛹の期間がある」ことを知らないはずは無い。もしかすると原文には幼虫と蛹を区別しにくいワードが使われており、その為に発生した翻訳ミス(?)だったのかもしれない?

■ジョージー・ポージー
《作者のたくらみ》がどこにあるのか、わかりにくい作品。読み進む上での興味の置き所がどこにあるのか定まらず、とっぴな展開も《先が読めない》だけで、《(予想を裏切る)意外性》としての面白さは感じられなかった。

ダールの創作プロセスを想像するに……まず《女性を苦手とする牧師が女たちに追いかけまわされて難儀する話》を思いつき、これなら皮肉を盛り込んで面白く描けるのでははないか考え、この設定にふさわしい人物像を作り上げ、イメージをふくらませていった……のではないか。
《女性が苦手なストイックな牧師》の設定に個性的なリアリティを持たせるために幼少期のトラウマ──ウサギの子殺しと母親の死を絡めたショッキングなエピソードを考えた……この《情愛と戦慄がリンクしてしまうエピソード》が本作の創作上の工夫の1つだったろう。
もう1つの工夫──《作者のたくらみ》が、「欲求不満の女性たちに追いかけまされる牧師」の視点で描かれている話が、「実は、欲求不満の牧師の妄想」だったという仕掛けだったのだろう。「欲求不満だったのは女たちではなく牧師の方だった」という《逆転の構図》という意外性なわけだが……これも明確にわかるような箇所(種明かし)を設けて書かれているわけではないので、読者にはわかりにくいし、だからキレもない。

女性に呑み込まれる妄想シーンは、幼少期のトラウマと繋がり、イメージ豊かに描かれてはいるのだが、話がどこに向かっているのか、作品の構図を把握できずにいる読者には、戸惑い半分で、充分に感情移入して作品にのめり込むことが難しかったろう。

主人公の牧師は、最後には精神に破綻をきたしてそれ用の施設に収容されてしまうことになるが、あわれな牧師は自分を哀れむ医師を逆に哀れみ、「気を落とすことはありません。聖書にも書かれているように、心を癒すお薬はいつだってどこかにあるものなんですから」と声をかける皮肉なシーンで幕を閉じている。
ダールらしい皮肉は感じられるものの、全体の印象としては、しょっぱい作品になってしまったというのが僕の感想。

僕にはタイトル『ジョージー・ポージー』の意味が最後までわからなかったが、「訳者あとがき」によれば、マザーグースからとったものらしい。マザーグースは《ナンセンスもの》らしいから、この作品も《ナンセンスもの》として書かれたものだと考えると、納得できなくもない?

■始まりと大惨事──実話──
健康な男児を産んだばかりで、その子が〝また〟死ぬのではないかとの不安に取りつかれてパニくる薄幸な母親。彼女はこの1年半の間に3人の子どもを亡くしており、産まれてきた男児はきっと4人目になると悲観している。
可哀想な母親を医者は、懸命になだめようとするが、これまで子どもが立て続けに亡くなったのは偶然ではないと母親は思い込んでおり、誕生したばかりの男児もきっと同じ運命をたどることになると嘆く。
母親の悲惨な体験を医者と一緒に知ることになる読者は、哀れみ、同情して、この男児には健康に生きのびてほしいと願うだろう。
そして読者にそう思わせておいて、ダールは、この男児が後に大惨事を引き起こすアドルフ・ヒトラーであることを明かす。読者に向かって「本当に、こいつに生きていてもらいたいの?」と言外に問いかけているようにも思われる。「こいつが生き延びれば、多くの人が死ぬ」という単純な構図で発想された作品。
作品の最後は、次の母親の言葉でしめくくられている。
「この子は生きなくちゃいけないのよ、アイロス(夫)。何があっても生きてくれなくちゃ……ああ、神さま、どうかこの子にご慈悲を……」

読者は、これまで3人の子どもが亡くなったというは……ひょっとして?実は大惨事回避という神の意志が働いてのことだったのではないか……などと想像してしまう。そう思わせるようにダールは仕組んでいる。

重いテーマをはらんだ短編だが、よく考えてみれば、この赤ん坊の誕生と《大惨事》には直接的な因果関係はない。産まれた時は誰でも政治的に無色だからだ。《大惨事》に繋がる様々な要因の多くは先天的に備わったものではなく、後天的な学習で形成されたもののはずである。だから、この男児の誕生を《大惨事》の《始まり》と位置づけるのは妥当とは言えない。ダールの着想ロジックが成立するのかどうか……怪しいところがある。

この作品を読んで頭に浮かんだのが、星新一の『ことのおこり』(新潮社『さまざまな迷路』収録)というショートショート──読んだのはおそらく40年以上前になるが、タイトルも内容も覚えていた。貧しい画家志望の青年が質屋を訪れ、自分が描いた絵を質草に金を借りよう懇願するのだが、質屋の主人は冷たく拒絶する。「われわれユダヤ人というものは、冷静なんですよ。甘く見ちゃ困りますな」と冷淡にあしらう店主に、青年は「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる……」と捨て台詞を残して帰って行く。青年の名はアドルフ・ヒットラー。彼が去った後に店主はつぶやく。「まあいいさ。おれはユダヤ人なんかじゃない。この商売をやるにはユダヤ人と自称していたほうが、お客の冷酷に追い返せたり、なにかと便利なので、そう言っているだけのことなのだ」
こんな私怨が歴史的大惨事の「ことのおこり」だったのかという意外性と、ヒットラーがユダヤ人だと信じて逆恨みした質屋の主人は、実はユダヤ人ではなかった──大惨事そのものか「誤解」の上のことだったという二重の意外性が印象に残った。
『始まりと大惨事──実話──』と着想は似ているが、印象はずいぶん違う……。

■勝者エドワード
初老の夫婦、エドワードとルイーザの家の庭に変わった毛色の猫が迷い込んでくる。ピアノを演奏することを日課にしていたルイーザは、その演奏を聴く猫のようすから、その猫は作曲家フランツ・リストの生まれ変わり(輪廻転生)だと思い込む。奇跡が起きたと興奮するルイーザはエドワードに自分の考えを話すが全く信じてもらえない。
思い込みの強いルイーザは世界中の著名な作曲家を読んで彼(リストの生まれ変わりの猫)に会わせるなどと良い出し、エドワードはそんなことは許さないと妻をしかりつけ、夕食の用意をするように命じる。そこでルイーザは猫に(ミルク以外の)エサを与えていなかった気づき、猫のために夕食の準備を始める。
ルイーザが夕食を用意したとき、猫は姿を消していた。ちょうど庭から戻ってきたエドワードの腕に引っかき傷(エドワードによればイバラで作った傷)ができているのに気づいたルイーザは、(おそらく)夫が猫を処分したのだろうと思い込んで、激高してエドワードに迫るところで物語は終わっている。

例によってダールは肝心の「それでどうなったか」をあえて書かず読者に想像させる手法をとっている。
このあとの夫婦がどうなったのか──、単なるののしり合いで済んだのか、興奮にかられた妻が夫を刺すような惨事に至ったのかはわからない。
エドワードの傷が、猫を処分する際にひっかかれたものなのか、イバラの棘によるものなのかも真偽はわからない。
読者に想像させるにしても、この作品については、真相を判断するのに必要な情報が出そろっていない。読者をじらすにしても、これは少し意地が悪すぎると感じた。

ところで本作では『勝者エドワード』というタイトルの意味がよくわからなかった。原題は『Edward the Conqueror』。「Conqueror」には、「征服者・戦勝者・征服王」といった意味があり、「conquer」には「(精神力で)抑える」というような意味もあるらしい。ルイーザにとって、彼女の主張を抑圧するエドワードは家庭内での圧政者というようなニュアンスでつけられたタイトルだったのだろうか? あるいは「Conqueror」には他の何かに掛けた意味合いがあるのかもしれない?

■豚
「昔々、ニューヨーク市でひとりの可愛い男の赤ちゃんがこの世に生を享けた。喜んだ両親は息子をレキシントンと名づけた」と始まる本作。「むかしむかし」で始まり「めでたしめでたし」で終わる定型の「おはなし」をイメージさせて、それを壊していくおもしろさを描こうとしたのだろうか? 先の読めない展開は、ナンセンス文学を意図したもののようにも思われるが……それにしてはなかなかブラックな作品になっている。

あらすじは──レキシントンが生まれてわずか12日目に、両親はくだらない理由からあっけなく死んでしまう。孤児となったレキシントンは70歳近い大伯母にひきとられ、彼女と2人で山中の隔絶した家で暮らすことに。厳格なベジタリアンであった大伯母の指導で、レキシントンは幼くして料理の才能を発揮するようになる。大伯母はレキシントンに料理本を書くことをすすめ、彼は創作料理のレシピを書き始める。
レキシントンが17歳になったとき、大伯母が急死。彼女の遺言に従って、遺産を受け取るために、レキシントンはニューヨークの弁護士を訪ねるが、だいぶぼられてしまう。
腹を空かせたレキシントンはレストランに入り、初めてローストポークを食べ、その美味さに驚く。その食材が豚であることを知ってまた愕然。豚がどのように食材として加工させるのか知りたくなったレキシントンは食肉加工工場へ見学に行くのだが……そこで豚と一緒に加工されてしまう。

レキシントンのことを「われらがヒーロー」と表現する箇所が随所にでてくるが、「ヒーロー」に似つかわしくない悲惨な最期が待っている。読者に期待させ、その裏をかく皮肉な演出だろう。
《料理を作る人が料理の素材にされてしまう》というオチ──という見方もできるわけだが……その展開に「必然性(整合性)」はないので、とってつけたような違和感があった。型破りの展開はナンセンス風味(?)のギャグなのかもしれないが、ナンセンス文学を読み慣れていない人には、「なにそれ?」感が残り、ピンとこないのではなかろうか?

■世界チャンピオン
短篇集『あなたに似た人』収録の『クロードの犬』にも登場したクロードとゴードンのコンビが活躍(?)する話。『クロードの犬』では2人はドッグレースでイカサマを企てているが、『世界チャンピオン』ではキジの密猟で悪だくみをはかる。
狩りの醍醐味というのは、おそらく獲物との駆け引き&それに勝つことにあるのではないかと想像するが、クロードは、密猟を阻もうとする厳しい監視役(番人)とのスリリングなゲームを楽しんでいるようなところもある。そして、森とキジの所有者ヘイゼルが催す《狩猟の会》を出し抜いて一泡吹かせることを目論んでいた。クロードは本短篇集の『牧師の愉しみ』でもずる賢さを発揮している。

さて、『世界チャンピオン』はゴードン視点の一人称(私)で描かれ、〝レーズンの準備〟をしているところから始まる。
給油所で働くゴードンは同僚のクロードが夜な夜な森に出かけて行くことに気づいていたが、キジ猟の解禁が迫ったある日、クロードから密猟のさそいを受ける。
クロードは〝偉大な密猟者〟であった父親から伝授された、キジをとる秘策を使って獲物を捕っていたが、その方法を明かされたゴードンは、秘策を応用した更に効果的な方法を提案する。それが《キジの好物であるレーズンに睡眠薬を仕込む》という方法で、クロードはこのアイディアをいたく気に入り採用する。こうして1日かけて準備した196個の睡眠薬入りレーズンを持って2人は日の暮れかけた森へと出発する。
この森を所有しているヘイゼルは成り上がりの地ビール醸造会社社長で、(自分もそうだったのに)身分の低い者を毛嫌いし、身分の高いものに取り入ろうとして《狩猟の会》を催していた。ヘイゼルは、ゴードンとクロードが働く給油所の前を巨大な黒いロールスロイスに乗って出勤するのだが、彼の横柄な態度を2人は快く思っていなかった。

2人が向かった森には監視役の番人が3人いて、もし捕まったら〝半年は食らう〟ことになるという。番人は銃を持っており見つかれば撃たれかねない(クロードの父親は尻を何度も撃たれている)──そんな話を聞かされてゴードンも緊張を高める。
2人はキジたちが集まっているポイントに到着するが、そこから小脇に銃を抱えた番人の姿も見えた。番人に気づかれないように、《準備してきたレーズン》をまき、キジたちがそれをついばみ始めたのを確認すると、2人はいったんその場を離れる。あとは番人が食事に帰る時間帯を狙って現場に戻りキジを回収すれば良い……。
ところが、森を出たところで2人の前に番人が現れる。番人は2人を給油所の者だと知っており、クロードには以前から目をつけていたと迫る。もちろんこのとき戦利品を持っていたらアウトだが、2人はキジもキジを捕る道具も持っていなかったので番人も手出しができない。2人は引き上げるフリをして姿を隠し、番人たちが食事に帰るのを見届けて、レーズンをまいた現場に戻る。
キジたちは眠るために、みな木の上へ移動していて、地上にその姿はなかった。ゴードンは、枝にとまって眠るキジが落ちないのであれば、睡眠薬が効いたとしても落ちないのではないか──ということに気づき、作戦は大失敗……と思いきや、ほどなくキジたちが次々に落ちてきて、前代未聞の大成功を収める。〝偉大な密猟者〟であったクロードの父親でさえ一晩で手に入れた最高が15羽だったのに、2人がこの晩、手に入れたキジは120羽に及んだ。まさに《キジの密猟の世界チャンピオン》であった。

クロードによれば先ほどの番人は、給油所の周辺にひそんで2人がキジを持ち帰るのを待ちかまえているはずだという。戦利品をそのまま持ち帰るのは危険だった。しかしクロードはタクシーを利用し地元教区牧師の奥さん・ベッシーに戦利品をあずけ、手ぶらで帰宅するという手はずを整えていた。そしてクロードとゴードンは無事に帰宅した。

翌朝、ベッシーは乳母車を押して、クロードとゴードンの給油所へ向かっていた。乳母車には赤ん坊が乗せられてたが、その下には戦利品が隠されている。給油所で到着を待つクロードとゴードンに受け渡しをすれば完全犯罪が完結する。
ところが、給油所を目前に乳母車を押すベッシーに異変が現われ、乳母車からキジが飛び立った。睡眠薬の効力が切れたキジが目覚めたのだ。給油所につくやいなや泣き叫ぶ赤ん坊をベッシーが抱き上げると、重しを失ったことでキジたちがいっせいに飛び出し、給油所はキジたちであふれ返った。何事かと人々が集まりはじめ、クロードとゴードンは慌てふためく。キジの持ち主・ヘイゼルがロールスロイスに乗って現れる時間が迫っていた。

クロード&ゴードン・コンビの策謀は、はたして思惑通りにいくのか──緊迫感のある展開でおもしろい作品だった。
ただ、《キジの好物に睡眠薬を仕込む》という着想自体は、そう奇抜なものではない。作中ではこのアイテムがそのまま(工夫なく)使われている。策謀が成功したかに思われたところで、とんだどんでん返しが待っていた──という展開は面白かったが、《睡眠薬の効果が切れた》というオチもアイディアとしては、やはり単純な気がする。時間が経てば薬の効力が切れることはゴードンやクロードにも予測し得たことである。楽しく読めた好短編ではあるけれど、傑作と言うには、ちょっと物足りなさが残る……というのが率直なところ。

物足りなさが創作イマジネーションを刺激するダール作品
一連のダール作品を読んで感じたことは……おもしろさ・独特の魅力はあるのだが、「もうひとひねり欲しかった/もう少し何とかならなかったものか……」という「物足りなさ」がついてまわる作品がいくつもあったということだ。読後の満足感にやや欠ける部分があることで、不完全燃焼感が尾を引き、満足感を補完しようとして脳味噌が勝手に模索を始める──想像力が刺激されて脳内シミュレーションを展開することになってしまう。

『世界チャンピオン』でいえば……いささか平凡だった着想の活用をもう少し工夫できなかったか……ということで、例えば、「ヘイゼルへを困らせる目的」でキジを密猟するために森へ入った2人は、悪名高い人食い熊と遭遇。絶体絶命の2人はピンチを切り抜けるために持参した睡眠薬入りブドウをクマに投げ与え、クマが食べている間に逃げる。薬が効いた頃に戻ってみるとクマは眠っていた。武器も持たずにクマを取押えた2人は英雄扱いされ、森のやっかいものだったクマを退治できたことで、「結果的にはヘイゼルを大喜びさせる」ことになる──《キジの密猟目的で準備した睡眠薬入りレーズンを目的とは別のこと(クマから身を守る)に利用》《目的とは真逆の結果になる(悪いことをしに行ったのに良いことをしたことになってしまう)》という展開(工夫)が思い浮かんだりもした。もちろん、こうなると全く別の話になってしまうし、新たに処理しなければならない問題も出てくるが、単に《着想の活用シミュレーション》というこことで。
オリジナルの面白さは充分に認めているが、《物足りなさ》が残ることで、つい《工夫の余地が、まだあるのではないか》と脳内イメージが展開してしまうのだ。

ダールの短篇集には魅力的な好短編がいくつもあるのだが、「傑作」と言いきるには躊躇が働く。
傑作というのは、完成度の高い作品──これは着想を、これ以上望めない最も効果的な形でまとめあげた作品で、よけいな補完イメージの入り込む余地などないものだ。感銘は受けても、創作のヒント・刺激には意外となりにくい。
これに対して、ダールの好短編は、「もう少し工夫のしようがあったのではないか……」と想像を巡らす余地があることで、創作イメージが刺激され活性化する。
《物足りなさが想像力を刺激する》という副産的な魅力(?)がダール作品にはあるように思う。そういった意味では、他の作家へ及ぼしてきた影響(貢献度?)は数ある「傑作」よりも、むしろダール作品の方が、勝っていたのではないか──そんな気がしてならない。ダールの作品に刺激を受けて傑作を書いたり撮ったりした作家・監督は少なくないのではなかろうか?


ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳ ※短篇集の感想

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