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松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

松本清張・作『ゼロの焦点』(新潮文庫)を読んでみた
01ゼロの焦点新潮文庫
少し前に邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ておもしろかったので(*)原作(小説)の方でも読んでみたいと思っていたところ、ブックオフで文庫版をみつけたので購入。それが『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫/昭和46年2月20日発行/平成16年4月20日百刷)で、カバーの裏表紙側にはこのような文章⬆がそえられていた。
内容を知らずにカバーの紹介文を目にした、これから読者になるかもしれない者に「《失踪した夫の鵜原憲一》は《自殺として処理されていた曽根》だった」という重要な謎の一端をバラしてしまうのはどうかと思う。このカバーを読んだ読者は作中で明かされる前に、失踪した鵜原憲一が死んでいることを知ってしまうことになり、「曽根」という名前が出てきた時点で、(主人公・禎子は気づいていないのに)それが失踪した禎子の夫だとわかってしまう。本来であれば主人公の禎子がその真相に気づいた時点で読者にもわかる方が新鮮な驚きが伝わるはずで、作者も当然そのつもりで書いていたはずだ。本編後の「解説」で内容についてある程度ふれるのは仕方が無いが、本編を読む前に(本を買う前に)読まれるだろうカバーに「しかけ」を明かすネタバレは不適切な気がする。

僕は原作(小説)を読む前に映画(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)で『ゼロの焦点』を見ているので、当然、カバーのネタバレ内容についても知っていたし、(映画化で改編された部分はあったにしても)内容のアウトラインはすでにわかっている状態で小説を読んだ。だから内容を知らずに読んだ場合の第一印象とは、また違った感想ということになるが……映画(松竹/1961年)を観たあとに小説(原作)『ゼロの焦点』を読んで感じたところを記してみたい。


小説版(原作)『ゼロの焦点』の感想
読み始めてまず感じたのは、映画(1961年松竹版)を観ているので、小説(原作)の『ゼロの焦点』はおもしろく読み進むことができた──ということだ。ストーリーのアウトラインは映画でだいたいわかっている。もちろん映画にするために改編された部分はあるにしても、人物関係や流れは頭に入っているので、「どんな展開になるのか、やきもきして先を読み急ぐ」必要もない。そのため「その場に置かれた鵜原禎子(主人公)の心情」をじっくり味わいながら読むことができた。映像よりも文章の方が登場人物の心の変化を的確に描くことができる。心理描写の味わいは映画以上のものを感じた。小説にしろ映画にしろ、ストーリーは大事だが、そのドラマの中に置かれた登場人物たちの心情(驚きや葛藤などのリアクション)に読者や視聴者は共感する。

主人公の(旧姓・板根)禎子は、鵜原憲一と見合い結婚をしたが、夫という身近な存在になった10歳年上の男について、まだ未知の部分が多い。ある日を境に夫婦になった見知らぬ男女が、どのように互いを感じ、知っていくのかという意識の変化を新婦の禎子の視点で描いていく展開が、小説では新鮮に感じ、興味深かった。
そんなわけで、読み始めてしばらくは小説(原作)もいいなと感じていたのだが、後半は事件を整理するための「説明」が増えていき、前半にあった小説としての味わいはどんどん薄れていく……終盤になると、それまでの展開に整合性をもたせるための辻褄合わせに追われて小説的な広がりが失われてしまった印象がある。
映画(松竹/1961年)では最後に犯人の自白でことの真相が明かされるシーンがあったが、小説ではその場面はなく、事件の真相については全て「鵜原禎子の解釈(推理)」で語られいる。この推理が「なるほど!」とストンと納得できるものであれば良いのだが、憶測が多く長いばかりの説明は説得力に乏しい。その推理のどこまでが真実なのか不明瞭なところがあって読後感もスッキリしない。
モチーフ・着眼・テーマなどはおもしろいし、心理描写も前半は良かったのに、後半は冗漫な説明に流れ、最後はぐだぐたになってしまっているのが残念でならない──というのが、小説『ゼロの焦点』を読んでの全体的な感想。具体的に気になった部分・疑問などについては、あらすじを記したあとに述べてみたい。


『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫)あらすじ ※ネタバレあり
主人公は見合い結婚をしたばかりの鵜原禎子。夫となった鵜原憲一は大手広告代理店の北陸(金沢)出張所主任で、結婚を機に東京本店に栄転、東京で禎子との生活をスタートさせるはずだった。憲一は業務引き継ぎのため、最後の金沢出張に出かけるが、そのまま行方知れずになってしまう。
東京で夫の帰りを待っていた禎子だが、予定の日をすぎても憲一は戻らず、連絡もとれない。憲一の会社でも憲一の所在がつかめず困っていた。禎子は夫が消えた北陸へおもむき、憲一の後任・本多良雄とともに夫の行方を探す。憲一の得意先で懇意にしていた耐火煉瓦会社の室田儀作社長の自宅を訪ねたとき、その家の外観が憲一の所持していた写真と同じであることに禎子は気づく。禎子は憲一の出張中、彼が所持する法律関係の洋書にはさまれていた〝2枚の家の写真〟をみつけ、怪訝に感じていたのだが、その1枚が室田の家を撮ったものだった。室田家では、結婚が決まって幸福なはずの憲一がふさぐような様子をみせていたという話を聞かされるが、憲一の行方につながる糸口は見つからない。
当初は楽観していた憲一の兄・鵜原宗太郎も金沢へやって来るが、弟の行方を追っているうちに宗太郎自身も行方不明になってしまう。そして宗太郎は遺体となって発見される。青酸カリ入りウィスキーによる毒殺であった。憲一の失踪にからんだ殺人事件が起きたのである。
宗太郎が殺害された事件では、派手な服装の女が容疑者に上がっており、この犯人と思われる女がパンパン(米兵相手の売春婦)風だったことから、禎子は憲一の前歴──風紀係巡査として立川でパンパンを取り締まっていた過去とのつながりを考える。憲一の取引先である耐火煉瓦会社をたずねた禎子は、受付嬢が外国人と交わす英会話を耳にし、それがスラング混じりのパンパン英語だったことに気づいく。
受付嬢は田沼久子──最近、内縁の夫・曽根益三郎を亡くしていた。それは遺書を残しての自殺で、曽根益三郎の自殺は憲一の失踪と時を同じくしていた。
禎子と本多良雄は田沼久子を調べ始めるが、今度は久子が姿をくらましてしまう。本多良雄は某かの情報を得て、東京へ高飛びした田沼久子を追って上京し、その間、禎子は久子の内縁の夫だった曽根益三郎の情報を求めて、田沼久子と曽根益三郎が暮らしていた家までやって来る。そこで禎子が見た久子の家は、憲一が所持していた〝もう1枚の家の写真〟に合致していた。禎子は「田沼久子の内縁の夫・(自殺した)曽根益三郎」と「禎子の夫・(失踪した)鵜原憲一」が同一人物であったことを確信する。
金沢の宿に戻った禎子を待っていたのは本多良雄が死んだという知らせだった。田沼久子を追って上京した本多良雄は宗太郎と同じ方法──青酸カリ入りのウィスキーで毒殺されていたのだ。殺害現場は東京のアパートで、前日に部屋を借りた杉野友子という女は事件の発覚前に現場から逃げ出している。

禎子は、杉野友子が田沼久子であると推理するが、その田沼久子も崖下に転落死しているのが発見される。警察は東京で〝杉野友子〟の偽名でアパートを借りた田沼久子が本多良雄を殺害し、警察の追及が迫っていることを知って自殺したものと判断した。

姿を消した鵜原憲一。その行方を追っていた鵜原宗太郎が毒殺され、その犯人と思しき田沼久子を追っていた本多良雄もまた毒殺された。そして、犯人かに思われた田沼久子までも死体となって発見された……いったい何がどうしてこのようなことになったのか。
手がかりを求めて禎子は、かつて憲一が風紀係巡査として勤めていた立川署へでかけ、憲一の同僚だった葉山に、死亡した田沼久子の顔写真が載った地方紙を見せて見覚えがないかたずねる。すると同じ写真を持って同じことを聞きにきた者がいると言う。耐火煉瓦会社の社長・室田儀作であった。

禎子は推理をめぐらせ、一連の事件の背景には憲一と懇意にしていた耐火煉瓦会社の社長・室田儀作がいたのではないかと考え始める。室田儀作を疑った禎子だが、偶然目にしたテレビ番組──終戦直後の婦人問題をテーマにした座談会で、当時GI相手をしていた女性は今どうしているのか……案外立派な家庭におさまっているのではないか──という話を聞いて、社長夫人の室田佐知子が真犯人だったのではないかと思い当たる。地方の名士であり知的で華やかな佐知子に禎子は好感をもっていたのだが、この佐知子が田沼久子同様に元パンパンで立川時代の鵜原憲一と接点があったと考えると、すべてのつじつまがあうと禎子は考えた。
地方の名士となっていた室田佐知子にとって、過去の秘密(パンパン時代)を知っている鵜原憲一は潜在的脅威だった。そこで、鵜原憲一が(禎子と結婚したことで)田沼久子との関係を清算するのに悩んでいたとき、〝曽根益三郎〟の自殺擬装を持ちかけた。憲一に〝曽根益三郎〟名義の遺書を書かせて崖縁に置かせ、背後から突き落として殺害──こうして投身自殺を擬装したのではないか。憲一の死体は、残された遺書から〝曽根益三郎〟の自殺として処理された……。
それが真相であろうと確信した鵜原禎子は、室田邸へ向かうが、室田夫妻はでかけていた。その行く先を追って禎子がたどりついたのは、憲一が殺害された海辺の断崖だった。そこには沖を見つめる室田儀作が立ち尽くしていた。彼の見つめる先には、儀作に一連の犯行を告白した後、荒れた海に小舟で漕ぎ出した室田佐知子が消え行こうとしていた。


2枚の家の写真の意味?
一番最初にでてくる手がかり(?)らしい《謎》が、鵜原憲一が法律関係の洋書の間に保存していた「2枚の家の写真」だ。1枚は立派な家で、もう1枚はみすぼらしい民家という対照的なもので、写真の裏にはそれぞれ「35」と「21」という数字が書き込まれていた。思わせぶりな数字だが、この意味については結局最後まで明らかにされていない。立派な家は鵜原憲一が懇意にしていた室田儀作・室田佐知子が住む家で、みすぼらしい家は田沼久子が内縁の夫・曽根益三郎と暮らしていた家だった。「昔パンパンだった女(室田佐知子・田沼久子)が現在暮らしている家」という共通点があったわけで、作者はそういった記号として設定したのだろうが……鵜原憲一がどうしてわざわざ写真に撮って2枚だけ別に保存していたのか、ちょっと腑に落ちない感じが残った。

メイントリックの不備!?
この作品を支える主要なアイディアの1つが次のようなものだったろう。

・地方に出張していた男Aが出張先で偽名を使い、Bとして、女Cと同棲していた。
・Aは東京に栄転し結婚することになり、Cとの関係を清算しなければならなくなる。
・ところが、Cとの別れ話がもつれ、AはBの自殺を擬装してCとの関係を断ち切ることを考える。
・万事上手く解決かと思われたが、この擬装に乗じてA(B)は実際に殺害されてしまう。遺体はBとして処理され、Aは失踪したことになる。


面白いアイディアだ。『ゼロの焦点』では、鵜原憲一(A)が出張先で〝曽根益三郎(B)〟として田沼久子(C)と内縁関係を結んでいたという設定をとっている。この二人が、憲一の出張先で初めて知り合った関係であれば、このアイディアは成立するのだが、『ゼロの焦点』ではテーマにからめてだろう──田沼久子をパンパンあがり女として設定し、過去に立川署で風紀係をしていた鵜原憲一と接点があったことにしている(当時は顔見知り程度で久子は鵜原の名を知らなかった)。二人に立川時代の接点が無ければ、偽名の〝曽根益三郎〟が死んだとき、田沼久子は彼の本籍を知ることができず、遺体は〝曽根益三郎〟として処理されてトリックは成立する。しかし『ゼロの焦点』の設定では田沼久子は彼が昔、立川署の巡査だったことを知っている。埋葬の過程で必要となる彼の本籍は久子が立川署に問い合わせれば、簡単に本名とともにわかったはずである。そうなればこのトリックは成立しない。アイディア自体はおもしろいのだが、『ゼロの焦点』では欠陥があったといえる。
この欠陥は映画を見ているときには気がつかなかった。小説では町役場をおとずれた鵜原禎子が〝曽根益三郎〟の本籍についてたずねるシーンがあって、「本籍がわからないので、しかたないから本籍分明届を出してもらって埋葬許可証を出した」という説明を受けているくだりがある。これを読んで、田沼久子なら立川署に問い合わせることで彼の本籍とともに本名を知ることができただろうと想像が働いた。原作小説ではディテールの整合性をとるために細かい説明を書き込んでいるが、読者の意識を「細かいこと」に誘導することで、かえって細かい疑問を生みやすいものになってしまった感がある。


毒殺犯はなぜわざわざ派手な服装をしたのか?
失踪した鵜原憲一の行方を追っていた兄の鵜原宗太郎は、青酸カリを混入したウィスキーで毒殺されてしまう。この事件に関しては犯人と思われる派手な服装の女が鵜原宗太郎と一緒にいたという目撃情報があって、禎子は、派手な服装➡パンパン➡パンパン英語を話す受付嬢(田沼久子)と連想することになる。事件を追う方・読者からすれば、わかりやすい記号だが、その女が元パンパンであったとしても、これから人を毒殺しようとする犯人が、わざわざ人目をひく派手な服装を選ぶだろうか──という不自然さを感じた。後の禎子の推理では、女が持っていたスーツケースの中味は着替えで、派手な服は変装だったと解釈している。しかし、変装だとしても、場にふさわしくない服装は不自然であり、目立つことによるリスクの方が大きいのではないか。目撃情報によって犯人と思われる者が女であることがわかったわけだが、派手な服装をしていなければ鵜原宗太郎と一緒にいても目撃した人の印象には残らず、犯人が「女」だったという目撃情報も上がってこなかったかもしれない。擬装(変装)のためにわざわざ目立つというのは、犯人にとって無謀な気がする。

なぜ本多良雄は犯人の出した毒入りウィスキーを飲んだのか?
鵜原宗太郎を毒殺したと思われる女を追って上京した本多良雄は、その女が出した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる。本多良雄は「鵜原宗太郎が、女の用意した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる」ということを知っている。その犯人と思われる女が出したウィスキーをあっさりと飲むものだろうか?
この展開にも不自然さを感じた。ちなみに映画(松竹/1961年)では本多良雄の殺害エピソードはない。


鵜原禎子はなぜ捜査に協力しないのか?
小説を読んで理解できなかったのが、鵜原禎子が警察に非協力的なことだ。
鵜原憲一の行方を追っている鵜原宗太郎が毒殺されたあと、禎子は受付嬢の田沼久子を疑うが、そのことを警察には告げていない。宗太郎は失踪した鵜原憲一を追っていて殺されたのだ。同じように憲一を探している鵜原禎子や本多良雄が狙われる危険は大いにある(その後、本多は殺されることとなる)。自分の身を守るためにも思い当たる手がかりは何でも警察に話して捜査協力し、一刻も早く犯人を検挙してもらおうとするのが自然ではないだろうか。事件の早期解決が失踪した鵜原憲一をみつけだす近道にもなるはずである。なのに鵜原禎子が警察に非協力的なのが不可解に感じた。

本多良雄が田沼久子を追って上京したあと、禎子は田沼久子の家をたずね、「自殺した田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟」が「失踪した夫・鵜原憲一」であったことを確信するが、そのことも警察に告げようとしない。そればかりか、その日、宿に帰った禎子は本多良雄が東京で毒殺されたことを知らされ、刑事から心当たりをたずねられるのだが、禎子は〝心当たり〟を隠して無いと答えている。


刑事はうなずいた。
「そうすると、今度、本多さんが東京で殺されたことには、お心あたりがないわけですね?」
「全然ございません」(『ゼロの焦点』P.281)


さらに、田沼久子の〝自殺〟が報じられた後、禎子はその経緯を説明した刑事から、この件について知っていることはないか尋ねられるシーンがあるのだが、禎子はやはり隠して嘘を答えている。

「この間うかがったことを、もう一度おたずねするようですが、田沼久子と本多さんの関係を、本当にごぞんじないんですか?」
「本多さんのことは、この間も申しあげたとおり、主人の友だちというだけで、私生活のほうは、まったくぞんじあげておりません」
 禎子は答えた。
「ですから、田沼久子さんというひとのことは、全然、私は知らないのです」(『ゼロの焦点』P.313〜P.314)


禎子は作中で何度も警察を訪ね情報を得ているのに自分が持っている情報をなぜ隠すのかわからない。禎子が田沼久子に疑いを持った時点で警察に話していれば、事件はもっと早く解決し、後に起こる本多良雄殺しや田沼久子と室田佐知子の死は防げたかもしれない。
小説前半の繊細な禎子なら、自責の念にかられてもよさそうな気がするが、作者は「説明」に忙しくなって、内省を描く余裕がなかったのか……?


失踪した夫が見つかったのになぜ警察に届けないのか?
この作品における主人公・鵜原禎子の主目的は《失踪した夫探し》であったはずだ。それなのに、「自殺として処理された田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟が、失踪した夫・鵜原憲一である」と気づいた後も、禎子はそのことを警察に報告していない。これはずいぶん不自然なことに感じた。警察に届ければ、それが禎子の夫であることが確認されるだろう。その事実は進行中の殺人事件の捜査にも重要な意味を持つことになるはずだ。
また、警察の捜査を別にしても──探していた夫をようやくみつけたのに、他人として、他の女の内縁の夫として死亡した扱いになっている──その状態に、正妻である禎子は何も感じないのだろうか? 遺骨や墓、戸籍の問題をきちんと正したいとは考えなかったのだろうか? 小説の前半では禎子の心理が克明に描写されていたのに、後半は事件の説明に追われ、辻褄合わせに気をとられて、禎子の心理についてはおざなりになっている印象が否めない。


事件の真相は禎子の推理でしかない
鵜原憲一の謎の失踪から始まり、それを追っていた鵜原宗太郎や本多良雄が殺され、犯人かと思われた田沼久子も遺体となって発見される……一連の事件は誰が何のためにどのようにして仕組んだものなのか──事件の核心に迫る真相の解明がクライマックス・見どころということになる──はずだ。物語の中にちりばめられてきた数々の謎がひとつにつながる──いわゆる《謎解き》である。
ところが、小説『ゼロの焦点』では事件の客観的な《真相》については明言されていない。すべて禎子の「こういうことに違いない」「おそらくこうであろう」という推理として描かれているだけで、読者としては、どこまでが《真相》なのか、よくわからない。
たとえば──、


室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない。ただ、彼女が、立川のGI相手の特殊な女性だったという裏づけは何もないのだが、おそらく、この推定には錯誤はないだろう。(P.391)

《室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない》ということをもって《室田夫人が犯人である》と断定することはできない。禎子の推理に矛盾がなかったとしても、それ以外の可能性が否定されるわけではない。《謎解き》としては何ともたよりない解説で、けっきょく読者には客観的な《真相》は明かされず、禎子の推理を肯定するのは、室田佐知子に真相を打ち明けられた鵜原宗太郎が断崖上で発した言葉だけだ。

「もう私からお話することはないでしょう。ここに来られた以上、あなたには、もう、すべてがお分かりになったと思います」(P.398)

「昨夜、和倉に来て、家内を、私は問いつめました。家内は事実を告白しましたよ。もっと早く、私に打ちあけてくれていたら、こんな結果にはならなかったでしょう。私は、あなたにお詫びしなければなりません。あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です。私は、何も、家内の立場について弁解しません。ただ、私より先に宿を出た家内は、いつのまにか、船を借りて、沖に出ていました」(P.398〜P.399)


鵜原宗太郎は、その場に駆けつけた禎子がどのように推理したかを一切聞いていない。そこに来たことをもって「すべてがお分かりになったと思います」と片付けるのは、強引というより無茶なまとめ方だと感じた。
「あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です」と室田佐知子が犯人であることを認めてはいるが、禎子の推理のどこまでが真相に合致しているのかは明かされておらず、《真相》の不透明感はいかんともしがたい。
着想もテーマも面白かったのに、どうしてまとめ方がこれほどザツになってしまったのか──先に映画(松竹/1961年)を観ていただけに(映画には犯人が事件の真相を告白するシーンがある)小説では不完全燃焼感を覚えた。

松本清張は売れっ子だったため、多忙で複数の作品を併行して書いていたという話を聞いたことがある。『ゼロの焦点』も連載だったようなので、書きながら前に書いた部分にさかのぼって調整することができず、書いてしまったことを変更できないために後半でつじつつま合わせに四苦八苦することになり、〆切りに追われてザツなまとめ方になってしまったのだろうか……。連載時は仕方なかったにしても、書籍化するときに手を入れることはできなかったのだろうか? とはいっても、手を入れ始めるとかなり大幅に書き換えることになってしまいそうだから、忙しい売れっ子作家の清張にはそれができなかったのだろうか?


タイトルの意味・ふたたび
多忙作家だった松本清張の作品には『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルがみられるが、雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならないとき、抽象的なタイトルをつけておけば(どうにでも解釈できるので)、作品を考える時間稼ぎができる──という事情もあったらしい。
この『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ抽象的なタイトルだったのだろうか?──というタイトルの意味に関する記事を少し前に投稿している(『ゼロの焦点』タイトルの意味)。そのときは映画(松竹/1961年)を観ての意見だったが、今回、原作小説を読んでみて、改めてタイトルを考えてみると……、
一連の事件については、なかなか《真相》がみえてこない。手がかりらしきものを見つけてたどっても、その「線」はなかなか「焦点」を結ばない──それで『ゼロの焦点』なのだろうか? などと、そんな可能性も頭をかすめた。


「解説」にあった平野謙氏の《疑問》
小説『ゼロの焦点』について不備を感じるのは僕だけではないようだ。
『ゼロの焦点』の新潮文庫版(昭和46年2月20日発行)では本文の後に平野謙氏による「解説」が載っているが、この中には次のような記述がある。


なぜ宗太郎や本多は殺されねばならなかったのか、という疑問に十全な解決が与えられているとはいいがたいのである。憲一と久子とが死ねば充分であって、宗太郎や本多を殺す必要はなかった、というのが私のひそかな意見である。
 なぜこんなことをあえて書きとめておくかといえば、『ゼロの焦点』を一種の謎解き小説ととみれば、その謎解きの構造は完璧のものではない、というのが現在の私の意見だからである。(『ゼロの焦点』解説:平野 謙 P.408)


平野氏は、(犯人が)《宗太郎や本多を殺す必要はなかった》と考えたようだが、この点については僕の解釈と違う。犯人は、自殺として処理された〝曽根益三郎〟の擬装工作がバレ、他殺であると発覚することをおそれて犯行に及んだのだろう──僕はそうとらえている。
鵜原憲一の行方を追っていた宗太郎や本多が、死亡した〝曽根益三郎〟と鵜原憲一が同一人物であったことをつきとめれば、東京で結婚した妻・禎子には「十二日には帰れると思う」と絵はがきをよこし、内縁の妻・田沼久子には遺書を残していることから、これが田沼久子と縁を切るための擬装工作(荒海の断崖の上に揃えた靴や遺書を置けば、死体が上がらなくても自殺に見える)だと判断されるのは自明の理だ。しかし、それであれば生きているはずの鵜原憲一(曽根益三郎)が、実際には死んでいる──ということは自殺は擬装工作であったが、これを利用して彼を殺した者がいるということになる。
自殺で片がついていた懸案が殺人事件として蒸し返され、本格的な捜査が始まることを犯人はおそれ、それを未然に防ぐために宗太郎や本多を殺害するに至った──というのが僕の解釈だ。
しかし、「解説」をまかされるほどの人が《疑問》を感じるほどに、『ゼロの焦点』の《謎解きの構造》には難があるということは言えるだろう。


映画『ゼロの焦点』(松竹/1961年)との比較
02ゼロの焦点1961
原作小説を読む前に僕は映画で『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ている。原作小説と映画(松竹/1961)で感じた違いなどを少し記してみたい。
小説と映画では表現手法が違うので、それぞれにふさわしい見せ方があって、当然、映像化するさいにはある程度の改編が必要になる。
物理的にも長編小説の内容をそのまま映像化しようとすれば、上映時間枠にはとてもおさまらなくなる。映画化するにあたっては、場面数を整理したり、人物の役割り分担を変更することもあるだろう。それにあわせてセリフの変更や再整理も必要になる。映像として魅せるための工夫も加えながら再構築するわけだから、原作小説とは違った部分がでてくるのはしかたない。ちなみに『ゼロの焦点』(松竹/1961年)は1時間35分の作品になっていた。この中に長編小説のエッセンスが凝縮されている。


禎子の旧姓
鵜原禎子の旧姓が、小説では「板根」だが、映画では「岡崎」になっていた。文字で読むぶんには「板根」で問題ないと思うが、映画の音声では「イタネテイコ」より「オカザキテイコ」の方が耳障りが良いと考えたのだろうか?
小説では主人公・鵜原禎子の視点にほぼ限定された展開で描かれており、そのため《謎解き》も禎子の推理でしかなく、それが客観的に確かめられるシーンがなかったため、なんとも歯がゆい幕切れになってしまっていたが、映画(松竹/1961年)では、禎子を主人公にしながらも、禎子の推理を語る場面や犯人が真相を打ち明ける場面では、禎子不在のシーンが描かれている。小説に無かったシーンとしては、ラストの断崖での禎子と犯人の対峙と真相の告白/弟の行方を追う鵜原宗太郎と犯人の対峙/断崖の上で投身自殺を擬装する鵜原憲一が犯人に突き落とされるシーン/曽根益三郎(鵜原憲一)と田沼久子の暮らしなど。そうした部分は小説よりも観客に伝わりやすかったろう。


2枚の家の写真
映画で矛盾を感じたのが、《2枚の家の写真の意味》だった。小説では鵜原憲一が出張先で再開した元パンパンの住む家ということで(?)撮影されたもので、憲一が金沢赴任して間もない頃のものだろうということになっている(憲一は赴任先で出会った室田佐知子と田沼久子を当初から元パンパンだと気づいていた)。しかし映画(松竹/1961年)の方では、憲一が室田佐知子の過去に気づいたのは自殺擬装計画が立てられた後で、室田邸の写真が「元パンパンの住む家」という動機から撮られる機会はなかったことになる。映画では(でも)なぜ2枚の家の写真が撮られたのか明確に記されていない。不自然な気はするが、映画だけ観ると憲一が懇意にしていた家族の家ととれなくもない。家の写真は、禎子が曽根益三郎の家(小説では田沼久子の家)を見て、曽根益三郎=鵜原憲一だと確信するシーンで効果を発揮しており、小道具としては、田沼久子の家の写真1枚で良かったのではないかという気もする。

映画では本多良雄の方が英語力が上
小説では受付(田沼久子)のパンパン英語に気づくのは鵜原禎子だが、映画ではそれを指摘したのは本多良雄になっている。主人公の鵜原禎子が直接気づく方が本多良雄の伝聞で知るより効果的な気がするが……。小説では鵜原禎子が英語を得意とする伏線が描かれているので自然だが、場面を整理した映画ではその伏線シーンはない。それで「いきなり鵜原禎子が英語力を発揮する」よりは広告代理店に勤める本多良雄が気づく方が自然だという判断で変更したのかもしれない。

本多良雄は死なず
小説では田沼久子を追って上京した本多良雄が鵜原宗太郎と同じ手口で毒殺されている。このエピソードが映画(松竹/1961年)にはない。映画では、本多は憲一の捜索に行き詰り警察にまかせて手を引く設定に変更してある。時間枠の制限によるエピソードの整理という意味合いも大きいだろうが、「宗太郎殺しの容疑者を追っている本多が同じ手口でやすやすと毒殺されるのは不自然」という判断もあったのではあるまいか。

鵜原宗太郎の指摘
小説より踏み込んでいたのが(小説には無かった)鵜原宗太郎と犯人の対峙シーンだ。複雑な人間関係をセリフで説明しているのでわかりにくいところもあるのだが、「夫(鵜原憲一=曽根益三郎)は自殺した」と話す田沼久子になりすました室田佐知子に対し、宗太郎は「憲一には死ぬ理由が無い。もし本当に死んでいたというなら殺人だ」とまくしたてる。曽根益三郎が残した遺書があるという主張には「曽根益三郎は遺書を書いたが、憲一は書いていない。本当に自殺するつもりなら鵜原憲一が書いた遺書もなくてはおかしい」という指摘をし、死んだというのは何かの工作で、生きているはずだと迫る。そして、あくまでも自殺と言い張るのであれば、警察の手を借りて徹底的に捜査してもらうと犯人を追いつめる。その結果、宗太郎は毒殺されてしまう。曽根益三郎(鵜原憲一)の擬装死に関してこのような矛盾の指摘は原作小説にはなく、宗太郎が殺されねばならなかった必然性が映画では明確化されていた。

映画では禎子は警察に推理を話している
小説では鵜原禎子が警察に非協力的な点や《鵜原憲一=曽根益三郎》とわかった時点で警察に届けない点について疑問を感じたが、映画では展開が早いせいもあって非協力的な印象は無い。《鵜原憲一=曽根益三郎》と気づいた後、禎子は警察でこの話をし、内縁の妻(田沼久子)が別れ話のもつれから曽根益三郎(鵜原憲一)を殺して、それを隠すために宗太郎を殺した──という推理を話している。
(しかし、警察は鵜原憲一の書いた遺書があり、筆跡も本人のものと確認されているとして、憲一の死は自殺と断定した)


印象的な断崖での対決シーン
小説にはなかったシーンで強く印象に残ったのが、クライマックス〜ラストシーン──海辺の断崖(鵜原憲一が殺された場所)で、鵜原禎子と真犯人・室田佐知子が対峙するシーンだ(室田儀作を含め崖の上には3人が立つ)。ここで、禎子の推理と佐知子の語る真相が交錯する。強風と荒波にさらされた断崖は映像的にも見せ場の効果を高めていた。
禎子の推理では自殺の擬装をもちかけたのは室田佐知子だったが、室田佐知子の告白では憲一主導だったとしている。他にもいくつかの点で禎子の推理とは違っていた事実が、小説には無かった解釈・アレンジを加えながら描かれている。真相を語り終えた室田佐知子は走り去り儀作がそれを追って、断崖には鵜原禎子が独り残される(佐知子は自害したことが禎子のナレーションで流れる)。
小説を読む前にこの映画を観た時は、説明的で長い《謎解き》シーン(1時間35分の作品のうち最後の37〜38分が断崖シーン)が「スマートでない」と感じたが、原作小説のぐだぐだぶりに比べれば、むしろ「原作をよく、ここまでまとめたな」という気がした。
いくらか強引と感じるところもあったが、『ゼロの焦点』を原作とする映画としては、この作品(松竹/1961年)は成功していると言えるだろう。


『ゼロの焦点』のおもしろさ
僕がこの作品で面白いと思ったのは──、
《葬り去りたい過去を持つ者が、現在の自分の成功を守ろうとして講じた策によって、かえって身を滅ぼすことになる》という皮肉な構図だ。
ことの発端はといえば、結婚して東京に栄転したエリート社員・鵜原憲一が、出張先での同棲生活を葬るために自殺の擬装をはかったことだった。同棲していた相手をだますのだからひどい話ではあるが、これは暴力を行使するような凶悪なものではない──殺人とは次元の違うゴタゴタだった。しかし、憲一がニセの遺書を書いたことで、これが「葬り去りたい過去」を持っていた室田佐知子に実行(殺害)の機会を与えることとなってしまい、室田佐知子は秘密を守るために、さらに殺人を繰り返し、結局、自害するはめになってしまった……。鵜原憲一も室田佐知子も、現在の幸福を守ろうとして、その足をひっぱりかねない過去を葬る工作をし、自らの足をすくわれた形だ。憲一の策謀に同じ動機の佐知子の策謀を重ねた着想に因数分解のような美しさと巧さを感じた。
小説の中では、鵜原憲一・鵜原宗太郎・本多良雄・田沼久子・室田佐知子が死んでいるが、鵜原憲一が内縁の妻と縁を切るための擬装を画策しなければ、これら5人が死ぬこともなかった。そう考えると、何をきっかけに人生が大きく変わるかわからない……人の弱さ・愚かさ・切なさ・やるせなさを感じさせる作品でもあった。


『ゼロの焦点』タイトルの意味

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ムシヅカサシガメとハリサシガメ

養老孟司『虫の虫』特装版DVDの謎のカメムシ
01虫の虫DVD特装版
養老孟司・著『虫の虫』DVD付き特装版(廣済堂出版・刊)という本を買った。DVDなしバージョンもあるのだが、映像が見たかったので特装版の方。発行は2015年で、本の存在自体は以前から本屋の棚で見知っていたのだが、最近この本の特装版DVDのダイジェスト版をYouTubeで見つけ、にわかに興味が湧いてきた。というのも、このダイジェスト動画に気になる昆虫が出てきたからだ。

1分35秒頃に出てくるアリの死骸を背中に盛った捕食性カメムシが、僕の興味の対象・ハリサシガメの幼虫によく似ている。僕が知っている日本のハリサシガメは地上性で、アリの死骸だけでなくアリの捨てたゴミ(?)と思われるものや土粒を身にまとっている。しかし「ハリサシガメ」で画像検索すると、外国産のサシガメで葉や茎などにとまっている良く似た虫もヒットし、外国には樹上性のハリサシガメ(の仲間?)がいるのかと気になっていた。
それと良く似た虫が「養老先生が行くラオス昆虫採集記」ダイジェスト版にはチラッと映っていたので、がぜん興味を覚えた次第。
また、この「養老先生が行くラオス昆虫採集記」では虫屋さんの生態(?)も見られるようなので、そのことにも興味を持った。僕はテレビを離脱する前、昆虫に関する番組はよく見ていたが、虫にスポットをあてた番組はあったものの、虫屋の活動自体を記録した映像は意外に少なかった気がする。僕は虫屋ではないが、昆虫同様(?)謎めいた虫屋の生態には興味があった。そんなわけで、養老氏らの虫屋っぷりも見たくて『虫の虫』DVD付き特装版を購入した次第。


ラオスのムシヅカサシガメ!?
まず付属のDVD「養老先生が行くラオス昆虫採集記」(74分)から鑑賞。お目当てだったアリをデコったハリサシガメ幼虫風の昆虫は、4:20〜6:35にかけて紹介されていた。同行者の池田晴彦氏は「見たこと無いよ、こんなの」といい、養老氏も「すげ〜ヘンなの」と見つめていた。
04ラオス虫塚刺亀DVD
YouTubeのダイジェスト版では名前が示されていなかったが、DVD本編では「ムシヅカサシガメ(幼虫)」というスーパーが付けられていた。養老氏はナレーションで、名前が無いのでムシヅカサシガメとつけた──というようなことを言っていた。『虫の虫』(書籍)の方でも【ラオスのサシガメ】として「ムシヅカサシガメ(幼虫)」と紹介されている(P.3)。
ちなみに、日本のハリサシガメ幼虫はこんな姿↓。

02ハリサシガメ幼虫F1
03ハリサシガメ幼虫F2
特装版DVDでは見つけたムシヅカサシガメを飼育し羽化させた成虫とその羽化殻の映像も収録されていた。幼虫はハリサシガメより敏捷で、成虫のカラーリングも違うものの、ハリサシガメとよく似た印象を受けた。成虫は黒い体に白い双紋、小楯板の棘状突起と腿節が赤というきれいなサシガメだった。
「ムシヅカサシガメ」という初めて知った名前(仮名?)を足がかりに、何か新しい情報が得られないかと検索してみたのだが……何もヒットせず……。
「ハリサシガメ」でヒットする「ムシヅカサシガメ」と思われる画像をたどって、こんなブログ記事をみつけた↓。

タイで昆虫採集>背中にお荷物を背負ったサシガメ

ラオスの隣国タイで撮影されたサシガメのようだが、養老氏のいう「ムシヅカサシガメ」と同じ種類のように見える。草木上で暮らしているからだろう──地上性のハリサシガメ幼虫のような土粒はつけておらず、そのぶん(?)デコったアリの密度が高く感じられる。
DVD「養老先生が行くラオス昆虫採集記」を見た後に『虫の虫』本編(書籍)を読んだのだが、巻末に、付録DVDと書籍にでてくる昆虫の学名一覧があった。そこでムシヅカサシガメをみると斜体で「Inara alboguttata」とあった。学名で検索すると欧文のサイトがゾロゾロとヒットしたのであった。


「養老先生が行くラオス昆虫採集記」の感想
特装版DVDに話を戻すと……新種のクチブトゾウムシやカミキリを含め、色々珍しい昆虫が紹介されており、幻のチョウと呼ばれるテングアゲハの生態映像も貴重なものらしい。僕にとっては、ラオスの自然もさることながら、養老氏はじめとする虫屋仲間たちの楽しげ&真剣な虫屋っぷりもみどころだった。
夜の灯火採集(ライトトラップ)では、シーツに集まる昆虫よりも、耳につめものをし(虫の潜入を防ぐため?)、吸虫管をくわえて真剣にまなざしでシーツを睨みつける虫屋さんたちの方が見応えがあった。地球の生き物を調査に来た宇宙人がいたら、灯火に集まる虫の標本の隣にその虫に集まっていた虫屋さんたちの標本を並べたくなるに違いない。
DVDの最後には特典映像として、ラオスで採集した昆虫がどのように標本になるのかを紹介した「養老先生流 標本の作り方」(9分弱)が収録されている。標本作りをしない僕には、この行程の映像も興味深かった。昆虫関連の番組の中で虫屋がネットを振る(虫を採る)映像は時々見ることがあったが、標本づくりの映像はほとんど見たことがなかった気がする。


『虫の虫』の感想
本の方は「虫採りエッセイ集」ということになっていて、「虫を見る」と「ラオスで虫採り」の2つの章で構成されている。
前半の「虫を見る」では昆虫について虫屋がどんな見方をしているかについて記されているのだが、これは編集者から提案されたテーマで書かされた(?)ものらしい。じゃっかん抽象的で、DVDを観たあとに読むと、いささか面白味が薄い……。おそらく編集者から出された課題に対し、養老氏が普段感じたり考えたりしている雑多なコトの中から対応する内容を引っ張り出し、その方向で書いていけば何とかなる(まとめられる)と見当をつけて書き始めてみたものの……あまり話が広がらなかった……みたいな感じだったのではないか? 個人的には共感できる部分もあったが、「あたりまえのことを書くのに、いささか手間取った感じ」がしないでもない。虫屋でない僕には感覚的によくわからないところもあった。僕の個人的な好みは別にして……前半のエッセイは著者自身がノッて書いた文章ではなかったろうことが感じられる。
ところがしかし! 後半の「ラオスで虫採り」になると、がぜん文章が活き活きとしてくる。ノッて書いているのが伝わってくる。前半の抽象的なテーマから、体験的・具体的テーマになったこともあって、読者にも分かりやすいし、執筆している側も書きたいことがどんどん湧いてくる状態だったのだろう──その意欲が感じられる。しかし「活き活き」の最大の理由は「虫採り」に付随するエッセイだったからだろう。アシナガバチに刺されてアナフィラキシーを体験したというおそろしい話もあったが、虫屋っぷりが発揮されるエピソードでは何度か笑ってしまった。そんなエピソードをまとめた「実録・虫屋武勇伝」でも書いたら、かなり面白いのではあるまいか。


虫屋・養老孟司
僕が養老孟司という人を知ったのは確かNHKのテレビ番組だった。オーストラリアの昆虫を紹介するシーンで灯火にやってきたニジイロクワガタ(こんな虫がいることもその番組で初めて知った)などについて語っていたのが養老氏で、その姿が印象的だった。このときは昆虫学者だとばかり思っていて、本業が解剖学で脳の権威だと知ったのはしばらく後だった。NHKの『驚異の小宇宙 人体II 脳と心』では解説役で登場していたが、「こっちが本職のはずなのに、以前見た時より、なんだかテンションが低いな……」と感じながら観ていたのを覚えている。最初は体調でも悪いのだろうかなどと訝ったが、毎回なのでそうではないらしい。他にも脳に関する科学番組に解説者として出演している番組を見たことがあったが、やっぱりテンションは低め。これが養老孟司氏の普段のテンションなのだろうと思うようになった。
それが、「養老先生が行くラオス昆虫採集記」ではなんと活き活きしていたことか! 僕が初めて養老氏を見た時の「(昆虫を語る)あのテンション」だった。本業の仕事をしている時より、虫と向かっている時の方がテンションが高い──仕事的には脳の権威なのだろうが、本質的には根っからの虫屋なのであろう。
《水を得た魚》ならぬ《虫を得た養老孟司》──『虫の虫』DVD付き特装版はそれを実感させる映像&エッセイ集だった。


ハリサシガメぷちまとめ2
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実録マンガ『虫屋な人々』
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『不思議だらけ カブトムシ図鑑』と《角のジレンマ》

01甲虫図鑑表紙
『不思議だらけ カブトムシ図鑑』(小島 渉・著/じゅえき太郎・絵/彩図社)という本を読んだ。5年ほど前に《カブトムシの角は、雄同士の闘争では長い方がよく、天敵から食われるのを避けるには短い方がよい、という深刻なジレンマを抱え込んでいることことがわかった》という研究が報じられ、疑問に感じていたことがあったのだが(*)、この《カブトムシの角のジレンマ》の研究者が、本書『不思議だらけ カブトムシ図鑑』の著者・小島渉氏である。最近、小島氏がカブトムシに関する本をいくつか上梓されていることを知って、《角のジレンマ》についての言及もあるのではないかと期待して最新刊(2019年7月発行)と思われる本書を入手したしだい。読書の動機が《カブトムシの角のジレンマ》についての興味(というより疑問)からだったので、その視点で少し感想を記してみたい。
02カブトムシ♂角比較

カブトムシの《角のジレンマ》について──、
まず、僕が感じた疑問について、どういう記事を読んでどう感じたか──その経緯を記しておく。
2014年3月に報じられた【カブトムシの角は矛盾だった】という記事から趣旨のロジックを構成する部分の抜粋してみると──⬇。


カブトムシの雄の角は、雄同士の闘争では長い方がよく、天敵から食われるのを避けるには短い方がよい、という深刻なジレンマを抱え込んでいることを、東京大学総合文化研究科の小島渉(こじま わたる)学振特別研究員らが見つけた。

研究グループは「カブトムシの角の進化に天敵がどう影響したかを探る手がかり」としている。

長い角をもつ雄は、雌やえさの獲得などの雄同士の闘争で力の強さをあらわす目印として知られている。その一方で、天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる。角の長さを追求すれば、天敵に食べられやすいという矛盾があったといえる。

関東地方では、タヌキこそがカブトムシの天敵といえる。また、タヌキやハシブトガラスは、カブトムシの雌よりも雄を、さらに角の短い雄よりも角の長い雄を多く捕食していた。

(小島渉さんは)「タヌキは目が悪いが、角も入れれば体長が7センチもあるカブトムシの雄は目立つので、食べやすいのだろう」と話している。また石川幸男教授は「カブトムシの雄の角は長すぎても、短すぎても、都合が悪い。進化の過程で、ちょうど折り合いのよい長さになっているのだろう」と指摘している。


つまり、生存競争の中で有利と考えられていたオスの特徴である「長いツノ」が、目立つことで天敵にみつかりやすくなり、捕食圧を高める(生存競争に不利となる?)側面も持っていた──という意外性のある発見である。カブトムシのユニークなツノがどのように進化してきたのかというのは、興味深いテーマだ。キャッチの良い《角のジレンマ》は複数のメディアで報じられていた。

さて、《(捕食者が)カブトムシの雌よりも雄を、さらに角の短い雄よりも角の長い雄を多く捕食していた》ことがなぜ判ったのかというと、《カブトムシの活動がピークとなる深夜の午前0~2時ごろにはタヌキが樹液を訪れて食べていた》ことをつきとめ、その残骸(タヌキはカブトムシの中胸〜腹を食い、上半身を残す)を調べた結果、トラップで採集したカブトムシの性比やツノの長さに比べて、オスが多く、ツノの長いオスの割合が多いことが確認されたからだという。この調査結果から《長いツノを持つオスは天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる》という結論に至ったらしい。
僕はこの解釈に疑問を感じた。タヌキが樹液ポイントに現われる午前0~2時ごろといえば、カブトムシの活動が盛んな時間帯で樹液ポイントには多くのカブトムシが集中する。そのため餌場争いに勝ち残った(ケンカに強い)ツノの長いオスが多く居座っているいるはずで、タヌキが食ったカブトムシにツノの長いオスが多かったという結果は当然だろう。
また、目が悪いタヌキが、深夜の雑木林の暗がりで、カブトムシのツノのわずかな長さの差で獲物を識別(?)しているというのもおかしな話だ。僕が飼っていたフェレットが、死角にかくれたカブトムシや土にもぐって見えなかったカブトムシを嗅覚で探り出したように(*)、タヌキだって、そこにカブトムシがいれば(ツノがあろうがなかろうが)嗅覚をたよりに獲物をみつけだすことができるはずだ。嗅覚に劣るヒトでも充分に感じるカブトムシのニオイをイヌ科のタヌキが見落とすはずがない。
だから「ツノの長いオスがタヌキに見つかりやすい」という解釈は納得できない──僕はそう思っていた。しかし、《カブトムシの角のジレンマ》はNHKのニュースでも報じられ、Wikipedia【カブトムシ】にも《角は長いほどオス同士の闘争の際に有利になる反面、タヌキやハシブトガラスといった天敵に捕食されるのを避けるには短い方が有利であることが研究で明らかになっている》と解説されている。

《天敵に捕食されるのを避けるには短い方が有利》という解釈は強引すぎる……僕にはそう思えてならないのだが、僕が読んだニュース記事は、研究論文そのもの(発表されたのは日本動物学会英文誌3月号)ではない。この研究にたずさわった小島氏らは、どうして、こんな解釈に至ったのだろう?──その点も不思議に感じていた。
そして先日、公益社団法人日本動物学会のトピックスで、この研究のことだと思われる記事を見つけた。【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】という日本語タイトルがつけられていた。この論文(Rhinoceros Beetles Suffer Male-Biased Predation by Mammalian and Avian Predators)は《筆者たちは、日本に生息するカブトムシについて、野外調査と野外実験を実施することによって、オスの方が捕食圧が高いことを示すデータを報告した。また、主要な捕食者も同定した。これは、装飾を持つオスの方が生存にとって不利であるという仮説と合致しており、日本人にとって親しみ深いカブトムシの角の進化機構を理解する上での貴重な基盤情報である》として、日本動物学会の2015年度論文賞を受賞していた。
しかし、この記事を読んでみると、僕が当初知ったニュース記事とはニュアンスが微妙に(?)違っていた。【カブトムシの角は矛盾だった】という報道記事はタイトルにあるようにカブトムシの「ツノ」のジレンマが核心だった。ところが、【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】では、ツノのジレンマがでてこない。報道記事では「ツノの長さ」が問題にされていたのに、日本動物学会トピックスの記事では、これが「体の大きさ」に置き換わって(?)いて、微妙に論点がずらされている感じがする。「長いツノは目立つことで最大の捕食者であるタヌキに発見されやすくなる(ことで捕食圧が高まる)」としていた部分は、「タヌキが捕食した残骸には大型オスが多かった」ということになっており(大型♂の割合が多かったのはタヌキによる選択と特定せず、その時間帯に大型♂が多かったという可能性を許容)、その上で(理由の如何を問わず?)《大きく角の長いオスに対する高い捕食圧は性淘汰圧と拮抗的にはたらくことで、オスの性的な形質の進化に影響を及ぼす可能性があります》と、まとめている。《オスの性的な形質の進化》という表現に《ツノのジレンマ》のなごり(?)を感じるが、【カブトムシの角は矛盾だった】の報道後に、解釈の不備に気づいて、とりつくろった印象がなくもない?
それとも、論文の内容は最初からこの通りで、【カブトムシの角は矛盾だった】で報じられた《ツノのジレンマ》は報道メディア側の誤認だったのだろうか?
このあたりに釈然としないものを感じて記したのが前の記事【《カブトムシの角は矛盾だった》のか?】だった。その後、小島氏がカブトムシに関する本をいくつか上梓していることを知って、この件に言及があるのかどうか──読んでみたくなったわけである。


『不思議だらけ カブトムシ図鑑』に書かれていたこと
この本が出版されたのは今年(2019年)の7月。《カブトムシのツノのジレンマ》のニュースが報じられて5年ほど経っているわけだが……捕食されたカブトムシの残骸から確かめられた(?)《ツノのジレンマ》に該当する部分はあっさりめの扱いだった。『不思議だらけ カブトムシ図鑑』では「第2章 オスはなぜ角を持つ?」>「14 小型カブトムシの生き残り戦略」の中の【目立たないからこそ生き残れる】という小見出しの部分で出てくる。

拾い集めた残骸と、まわりで採集した生きている個体の形態を比較すれば、捕食に遭いやすい個体の特徴が分かるのではないかと、筆者らは考えた。(P.102)

捕食されたカブトムシの残骸を調べて、何か偏りがあれば、それが捕食に遭いやすい特徴だと考えたくなるのは理解できる。
──ということで、比較用にトラップで《生きている個体》を採集しているのだが……トラップを採用した理由について、こんな記述がある⬇。


樹液場などの餌場で採集すると、何時頃に採集するかで小型オス、大型オスやメスの割合が変わってしまう恐れがあるが、トラップを使えば、一度入った個体は二度と外に出られないため、その雑木林に生息する、小型オス、大型オス、メスの割合を高い精度で推定できるのである。(P.102)

樹液ポイントに集まるカブトムシの性比や小型♂・大型♂の割合が「時間帯」で変わってしまうことを、本書ではちゃんと記してあった。
捕食のために樹液ポイントを訪れるタヌキの時間帯については──、


 タヌキがやってくるのは、たいてい、カブトムシの活動がピークとなる深夜0〜3時ごろだった。また、夏の間に限り、タヌキは毎晩のように樹液へ通ってきていることも分かり、カブトムシを相当気に入っているようだった。(P.63)

と記されており、その時間帯に現れるカブトムシの特徴についても記述がある。

カブトムシの大型のオスと小型のオスでは樹液場にやってくる時間が違うことが知られている。大型のオスは深夜0時から3時ごろに樹液場での個体数が最大となる。ちょうどメスの活動が最も盛んな時間帯であり、大型のオスもそれに合わせているようだ。
 一方、小型オスはその少し前、22時から0時ごろに樹液場での個体数が最大となる。これは、大型オスとの戦いを避けるための行動であると解釈できる。小型オスが現れる時間帯はメスもまだ少ないが、大型オスとけんかになるよりはマシなのである。(P.100)


つまり、本書を読む限り、タヌキが樹液ポイントを訪れる深夜0~3時頃にツノの長い大型オスが多かったのは当然ということになり、僕が当初感じた疑問に合致する。タヌキによる捕食残骸に大型のオスが多かったのはツノの長さに起因するもの(長い角が天敵に目立ちすぎるため)ではなく、狩りの時間帯によるものだと解釈をするのが妥当のように思われる……のだが、本書には次のような可能性が挙げられていた。

 なぜ大型のオスが食べられやすいかについては不明だが、いくつかの可能性が考えられる。
 まずは何といっても、目立つということが挙げられる。特にタヌキは目がかなり悪く、撮影された映像からも、探るようにしてカブトムシを見つけ出している様子が見て取れた。そのような捕食者にとっては、オスの持つ大きな角はいい〝目印〟になってしまうかもしれない。
 また、大型オスはメスを探して樹液場の周りを徘徊する習性があるが、このような行動も捕食者の目に留まりやすい可能性がある。
 他の可能性として、大型オスは樹液場に長時間居座るから、捕食に遭う確率が高くなるということも考えられる。小型オスは樹液場の間を飛び回っている時間が相対的に長いのであれば、樹液場で捕食に遭う確率は下がるはずである。
 理由については今後さらなる研究が必要だが、小型のオスは大型のオスよりも結果的に捕食に遭いづらくなるということは間違いなさそうだ。(P.104〜P.105)


《大型オスは樹液場に長時間居座るから、捕食に遭う確率が高くなるということも考えられる》という妥当な解釈を加えつつ、《まずは何といっても、目立つということが挙げられる》として《(捕食者にとって)オスの持つ大きな角はいい〝目印〟になってしまうかもしれない》という解釈を真っ先に挙げているのが不可解だ。《特にタヌキは目がかなり悪く、撮影された映像からも、探るようにしてカブトムシを見つけ出している様子が見て取れた》とあるが、目が悪いタヌキが深夜の雑木林でカブトムシのツノを〝目印〟にしているとは考えにくい。嗅覚をたよりに餌を探し当てているはずで、この嗅ぎ当てているようすが《探るようにしてカブトムシを見つけ出している様子》に見えたのだろう。《長いツノが深夜の雑木林で視覚的〝目印〟になるかもしれない》という解釈には無理を感じる。しかし、この可能性を否定してしまうと、当初話題になった《ツノのジレンマ》のロジックが壊れてしまうことになる。それで論文発表当時との整合性を保つために「長い角が〝目印〟となって捕食圧が高まる」という可能性を残しておきたかったのではないか? 普通に考えれば、角の長さのわずかな差が、深夜の雑木林で、目の悪いタヌキの〝目印〟になるなどとは、とても思えないが(そんな〝目印〟など無くても、そこにカブトムシがいればタヌキは嗅覚で嗅ぎ当てられるはず)、それでも「角の長さの差は〝目印〟にならないことが科学的に証明されない限り」は《可能性》として残しておけるという理屈なのだろうか?

《角のジレンマ》が報道されたときには《カブトムシの角の進化に天敵がどう影響したかを探る手がかり》と自賛し、日本動物学会の2015年度論文賞の受賞理由でも《大きく角の長いオスに対する高い捕食圧は性淘汰圧と拮抗的にはたらくことで、オスの性的な形質の進化に影響を及ぼす可能性があります》と研究の意義が強調されていたが、『不思議だらけ カブトムシ図鑑』では、そうした進化レベルのアピールはなりをひそめ、《小型のオスでも得をすることがある(タヌキに食べられる可能性が大型のオスに比べると小さい)》という個体レベルの話にとどまっている。

本書では《理由については今後さらなる研究が必要だが、小型のオスは大型のオスよりも結果的に捕食に遭いづらくなるということは間違いなさそうだ》という結論で捕食圧のツノ進化への影響を示唆しているようにも読めるが、小島氏らが《大型♂が食われる割合が多い》と確かめたのは、タヌキが通う樹液ポイントに限ってのことだったのではないのか? 競争が激しい樹液ポイントからあぶれた小型のオスは拡散し、その先々で捕食されているかもしれないし、夜間、餌にありつけなかった小型オスは日中活動することになり、カラス等に捕食されやすくなるということだってあるかもしれない。樹液ポイント近くにまとまっている捕食残骸は見つけやすいが、密度の低いところにある残骸までくまなく調査するのは不可能だろう。『不思議だらけ カブトムシ図鑑』では──、


野外で採集したカブトムシに標識したのち放し、再捕獲率を調べると、小型オスの方が再捕獲率が低いことが分かっている。(P.101)

とも記されている。あるいは(調査した樹液ポイント以外で)捕食される機会が多いことで再捕獲率が低いという可能性も考えられないではない?
実態として、本当に大型オスがより多く捕食圧を受けているものなのか……『不思議だらけ カブトムシ図鑑』を読んでみて、《カブトムシのツノのジレンマ》への疑問は払拭されず、かえって深まった気がしている。


《角のジレンマ》はどうして生まれたのか?
この《角のジレンマ》に関しても、僕は2つの疑問を感じていた。1つは《カブトムシ♂の角長のわずかな違いが、視力の弱いタヌキの〝目印〟となって捕食率を高めている》という解釈に対する疑問で、もう1つは、そんな解釈がどうして生まれたのだろうという疑問だ。《角のジレンマ》は無知な素人の思いつきではない。見識が豊かなはずの学者が、どうしてこんな解釈をしたのか不思議でならなかった。

しかし、『不思議だらけ カブトムシ図鑑』を読んでみて、なんとなく「こういうことなのかな……」と思うことがあった。今回は長くなるので《角のジレンマ》に関連する部分しか取り上げなかったが、全体を通して、この著者は「知識先行でものごとを見ている」印象があった。フィールドに出て、たくさんの現象をみているうちに、「気づき」があり、それをきっかけに検証しながら考えを構築していくというものの見方をしているのではなく、学習した学術的な知識を基盤に自然を見ている……というか。自然を見ながら、頭の中に蓄えた雛形学説に当てはめて認識しようとするクセ(?)があるのではないか?

日本動物学会のトピックス【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】の中には《一般的に、動物のオスの武器や装飾などの性淘汰形質は捕食者を誘引してしまうと言われています》という箇所があり、2015年度論文賞のサイトには、《オスで発達した性的二型を示す装飾物は、性淘汰の観点からは有利だが生存には不利であると解釈されるのが一般的である》《装飾を持つオスの方が生存にとって不利であるという仮説と合致しており》と紹介さされている。つまり、小島氏の頭の中にはこのロジックが知識としてあったのではないか? そして、このロジックを当てはめることができそうな素材としてカブトムシに着目し、得られた調査結果から「期待にかなう解釈」にとびついて《角のジレンマ》が生まれたのではないか?
『不思議だらけ カブトムシ図鑑』を読む前は、見識があるはずの学者がどうして《角のジレンマ》という解釈に至ったのか不思議だったが、あるいは論文になりそうなテーマを探しながら自然を見ている知識先行の学者だからこそ、ロジックを完成させるネタを探し、欲していた都合の良い解釈にハマってしまったのではないか……今はそんなふうに感じているが、これは全くの個人的な想像である。


《カブトムシの角は矛盾だった》のか?

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図鑑は虫屋のバイブル!?

先日読んだ『アリの巣をめぐる冒険』で著者の丸山宗利氏は幼少期の頃のことを次のように記している。

幼稚園にあがってからは、図鑑ばかり眺めていた。(P.186)
幼稚園を出る直前に学研の『世界の甲虫』という図鑑が出て、小学館の『昆虫』という子供向け図鑑ともに、ボロボロになって表紙が取れ、頁をつなぐ糸が切れてバラバラになるまで読み込んだ。(P.187)


昆虫図鑑がお気に入りで何度も何度もくり返し眺める──こうした《図鑑への執着度の高さ》が《虫屋気質の特徴の1つ》なのではなかろうか?──と、僕はひそかに思っている。根拠の無い個人的なイメージ。

僕も子どもの頃から昆虫図鑑は持っていたけれど、あまり熱心な読者ではなかった。最初はページをめくりながらカッコイイ虫がでてこないかカタログをながめるように鑑賞し、気に入った虫が載っているページを探す。あとは昆虫のことを調べたくなったときに開くていど。カブト・クワガタのページは何度か見た記憶があるけれど、他のページはあまり覚えていない。今ふり返って考えてみると、カブトムシやクワガタのページもあまりたいしたことが書かれていなかったから、あきてすぐに見なくなってしまったような気がする。

昆虫図鑑をあきることなく何度も読み返す「図鑑好き」と、あまり熱心に読むことが無かった僕とでは昆虫に対する興味の持ち方や図鑑に対する認識に違いがあったように思う。漠然とだが、そんなところにも僕(凡人)と虫屋の境界線があるのではないかという気がしないでもない。

僕は「図鑑」というのは、「その生き物について調べるときに読む本(その生き物の情報が記されている本)」だと思っていた。漢字や言葉の意味を調べる時は国語辞典/昆虫の名前や性質(生態)を調べるには昆虫図鑑──といった認識。しかし本来、図鑑というものは「その生き物の名前(種名)や分類を調べる(同定する)ための本」なのだろう。そのことに気かついたのはだいぶ後である。僕の場合、気になる生き物について知りたくて図鑑を開くのに、知りたいことはほんのわずかしか記されていない……物足りなさを感じて熱心な読者にはなれなかった。

図鑑に関してはこんな思い出がある。小学6年の頃からヘビに興味を持ちはじめ、中学生の頃、本格的な図鑑(?)──保育社の『原色日本両生爬虫類図鑑』という当時の僕としては高価な本を奮発して買ったことがあった。種類の多い昆虫と違って日本の両生類・爬虫類は数が知れている。当然種類ごとに割り振られるページ数は(昆虫図鑑に比べて)多いはずだ。それぞれの種の生態についても詳しく記されているはずだ──てっきりそう思い込んでいた。ところが、手に入れた『原色日本両生爬虫類図鑑』を開くと、僕が期待していたような情報はほとんど記されておらず、ひどくガッカリした記憶がある。しかし、これも爬虫類屋からすれば同定の手がかりなど、必要な情報は記されていたのだろう。僕の図鑑に対する認識・期待が間違っていたのだ。

僕は《【種名(標準和名や学名)】や【分類】》というのは、生物の《【氏名】と【住所】》のようなものだと思っている。その生きものを特定し位置づける基本的な記号。名前と住所がわかれば、これを手がかりにその生き物の情報を探すことができる。図鑑の本来の目的は生き物を特定し、それを表す記号と照合させることにあるのだろう。
標本作りや生物リスト作成などで、同定目的に図鑑を活用する人にとっては、種名と分類がわかればそれで良いのかもしれない。しかし僕のように「本当に知りたいのはその人の氏名や住所ではなく、興味があるのは、その人がどんな人物なのかということだ」という価値観で図鑑をひらく者にとっては、それでは物足りない。
言ってみれば【種名(標準和名や学名)】や【分類】はヒトが付けた記号・ヒトが作ったカテゴリーであって、これは《人工物》だ。すでに存在している生きもの(自然物)を人が理解しやすいように整理するため、後付けの理屈で分け、名前をつけた。後付けの理屈だから研究が進むと実態と合わないことが発覚し、整合性をとるために後付けの理屈やカテゴリーを変更しなくてはならなくなったりする。当該生物そのものは昔も今も何の変わりないのに【種名(標準和名や学名)】や【分類】が変更されることも少なくない。僕が本当に知りたいのは、ちょくちょく変更される《人工物》の部分ではなく、《自然物》としての昆虫そのものについての情報である。僕と同じような感覚で昆虫図鑑を開く人は「名前がわかったところで、その虫のことがわかったわけではない(知りたいことはわからななかった)」と不満を残すのではなかろうか? そういう感想を持つ人は、図鑑の熱心な読者にはなれない。

一方、図鑑を熱心に繰り返し読む(見る)人たち(虫屋気質な人?)も存在する。そうでない僕には、その感覚がよくわからないが、想像するに……自動車や飛行機、列車などに興味を持つ人のように、掲載された昆虫の造形に魅かれるのではなかろうか? きっと細かいディテールまで、しっかり鑑賞しているのだろう。
図鑑で何度も眺めていたお気に入りの昆虫を実際に目にすれば、テレビで見ていた憧れのタレントに遭遇したファンのようなトキメキがあるかもしれない。図鑑に載っている虫をみつけるたびにテンションが上がり、昆虫に対する興味が強化されて、さらに熱心に図鑑を眺めるようになる……。図鑑に出ている昆虫の実物を手にする高揚効果(?)から昆虫を集めるようになり、コレクションが充実してくると図鑑に出ていた昆虫の実物をコンプリートしてみたくなるのではなかろうか? そしてさらには、図鑑に出ていない、誰も見たことがない虫を発見して昆虫図鑑に載せてみたい──と夢が膨らむのかもしれない?

いずれにしても、図鑑好きで図鑑への執着が強かった子が虫屋に育って、より理想に近い図鑑を作るようになるのではなかろうか。そして、その図鑑にハマった子が次世代の虫屋になる……。もし、そうだとすれば、昆虫図鑑を読んで虫屋に入信することになるわけだから、昆虫図鑑は虫屋にとってのバイブルと言えなくもない……丸山宗利氏が昆虫図鑑好きだったというエピソードを読んで、そんなことを思った。



*好蟻性昆虫〜好虫性人間?『アリの巣をめぐる冒険』
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好蟻性昆虫〜好虫性人間?『アリの巣をめぐる冒険』

アリの巣をめぐる冒険

ハリサシガメへの興味から『アリの巣の生きもの図鑑』を借りてきた(*)さいに『アリの巣をめぐる冒険』(丸山宗利/東海大学出版会)という本も借りてきていた。アリと共生関係にある昆虫──好蟻性昆虫の研究を扱った本だ。かなりマニアックな内容だが、一般の人が読んでもわかるように書かれている。ただ、専門家にとってはおもしろい内容でも一般ウケするとは限らない。この本を一般の人はどう読むのだろう?

アリは誰でも知っている身近な存在だが、そのアリの巣の中や周辺にアリに依存する色々な虫が暮らしている──というのは「身近にありながら知らなかった世界」である。「そんな世界があったのか」という意外性から、内容に興味を抱く人もいるだろう。あまり知られていない好蟻性昆虫ってどんな虫?──という興味で手に取る人もいるかもしれない。
しかし、一般の読者の興味は、それだけではないだろう。「小さなアリと共生関係にある《ささやかな存在》」を研究している人がいるなんて……という著者(虫屋)に対する好奇心で読む人も少なくないのではあるまいか? アリに依存する昆虫を好蟻性昆虫と呼ぶなら、好蟻性昆虫と共にアリを追い続け、人生の一部を捧げた著者も、見方によっては好蟻性人間と言えなくもない。そういう意味では、アリとその巣の内外に集まる好蟻性昆虫の生態を紹介しながら、同時にそうした虫に集まる好昆虫性人間=虫屋の生態を記した本であるともいえる。

昆虫の発生時期に発生場所へどこからともなく集まってくる虫屋は、考えてみれば不思議な存在だ。わずか数ミリの虫を得るために何千キロも離れたところからやってくる虫屋を、地球を観察にきた宇宙人が見たらどう思うであろう?
地球の生きものを研究テーマに選んだ宇宙人がいたら、アリの標本の隣に好蟻性昆虫の標本、その隣には丸山宗利氏の標本を並べて展示したくなるのであるまいか?
宇宙人はともかく……一般の人にとっては昆虫の生態のみならず、虫にずっぽりはまった虫屋の生態も興味深く映るのではないかと思う。

僕は虫屋ではないが、今は無きニフティの電子会議室・昆虫フォーラムに出入りするようになって虫見をするようになった。昆虫のおもしろさもさることながら、「虫屋」と呼ばれる人たちのおもしろさにも興味を持った。昆虫に関心を持つ人は少なからずいると思うが、僕のような一般民間人(凡人)と虫屋の「境界線」はどこにあるのか──それを解き明かすことが僕の密かなテーマでもあったりもするわけだが……「虫屋の境界線」のことは、さて置いて……、

僕が好蟻性昆虫の存在をうっすらと知ったのは件の昆虫フォーラム時代だった。当時、狭山丘陵を歩きながら昆虫観察するというオフ会が時々あって、僕もおみそ参加させてもらっていたのだが、ある時、その方面に詳しい方が参加されたことがある。一見ダンディーな紳士が肩掛けからおもむろにフルイを取り出した時は「おおっ!」と驚き(一般民間人の僕は、バッグからフルイを取り出す人なんてそれまで見たこともなかった)、他にも普通の人が持ち歩かないような物を次々ととりだすのを見て、「あんたのバッグはドラえもんの四次元ポケットか──」と思ったものである。必要とあればツルハシやダイナマイトだって取り出す勢いである。そして何の躊躇も無く林床の落葉をつかんではフルイに放り込むようすを見て「このムダのない動き……落葉とともに犬糞をつかんだ経験も1度や2度ではあるまい」と確信したのであった。
紳士はクールに虫探しを続けていたが、オフ会も終盤に差し掛かった頃──アリの巣食った古い切株の皮を剥がしにかかると、突然、「いったぁ〜!」と絶叫した。埋蔵金でも掘り当てたかのような大声に、オフ会参加者は何があったのかと彼のまわりに集まった。
はたして大興奮の彼が見つけたものは……アリに踏んづけられるような小さな虫だった……。好蟻性昆虫のひとつだったのだろうが、今ふり返ってみてもそれが何だったのかは覚えていない。「大きな声のわりに小さな虫だった」ということばかりが印象に残っている。素人の僕には、小さな好蟻性昆虫より、それを見つけて大声をあげた虫屋の方がインパクトが強かったのだ。

『アリの巣をめぐる冒険』も、著者がどれだけ自覚的に書いているかわからないが、一般の読者は好蟻性昆虫への興味ばかりでなく、それを追い続ける虫屋に対する興味で読んでいる部分もあると思う。普通の人なら堪え難い状況での過酷な観察を「夢のように楽しい」と言ってのける虫屋(著者)おそるべしっ! 観察している虫もユニークだが……「ユニークなのは、あんただよ!」と突っ込みたくなってしまう。
好蟻性人間(著者)の昆虫モチベーションの高さは想像を絶する。行動力・集中力・執念が尋常ではない。狙った獲物は必ずモノにしてきた実績に感心しつつ、「アリと好蟻性生物」に関しては「へえ!?」とか「ふ〜ん」と思いながら、読んだ。
ただ、正直な感想を言えば……お目当ての好蟻性昆虫を次々にゲットする著者の興奮は伝わってくるものの、それは自身の研究の成果を手に入れた達成感・仕事の成功を歓喜するもので、昆虫そのものの魅力や面白さに対するトキメキがいまひとつ伝わってこない気がしないでもなかった。好蟻性生物の生態についてはまだ未解明の部分が多い(情報量が少ない)ということもあるのだろうが、この本は「好蟻性生物の魅力」よりも「著者の活動と実績」を描いた印象が強い。著者の昆虫研究への情熱は、はたして純粋に《昆虫への興味・探究心》に由来するものなのか、それとも《新種を次々に発見し、誰もなし得なかった研究をして名を売ること(自己の実績作りや名誉欲)》に由来するものなのだろうか──などと、そんなことを思わないでもなかった。
この本はこれで著者の思いは描かれていると思うが、「アリと好蟻性生物」の関係をもっと面白くドラマチックに(?)プレゼンできていれば、また印象も変わっていたかもしれない。同じ著者の『昆虫はすごい』を読んだときにも色々思うところはあったが、あるいはそのあたりに僕と虫屋を隔てる「境界線」と通底するものがあるのかもしれない。

ところで僕も興味本位で虫見をするが、決して「虫屋」のような立派なものではない。アリより小さい虫を探すために世界中を飛び回る虫屋さんと違って、僕が虫を見て歩くのは基本的に「歩いて行ける範囲」──身近に存在するフシギな世界を見つけるのが面白いという他愛もないものだ。
僕と「虫屋」の間には高い敷居──境界線のようなものがあって、虫屋さんは「あちら側」で僕は「こちら側」という意識を昆虫フォーラム時代からずっと感じてきた(決して対立的な違いではい)。
しかし、虫見をしているためか、僕も虫屋だと勘違いされることがある。確かに、葉の裏の昆虫を撮るため寝そべっているところを「行き倒れ」と思われたことも2度ほどあって、こうしたことは虫屋さんではありがちなことから誤解されやすいのだろうが……しかし、僕は断じて虫屋ではない。「違う違う、全然違う。虫屋と僕とはヘビとアシナシトカゲくらい違う」と説明するのだが、なかなか理解してもらえないようである。



ハリサシガメ@『アリの巣の生きもの図鑑』他
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