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ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳

01あなたに似た人表1
02新訳版収録作品

ロアルド・ダールで懐かしい虫とり気分!?
ふと、ロアルド・ダールを読んでみたくなった。「短編の名手」というウワサはだいぶ昔から知っていて、いくつかは読んだことがあったような……読んでないかもしれないような……記憶が定かではない。とりあえず覚えていた短編集のタイトル『あなたに似た人』を検索してみた。現在は新訳版のⅠとⅡがハヤカワ文庫(早川書房)で出ているようだ。市内の図書館で蔵書検索してみると1カ所にあったが、あいにく2日続けての休館日。「短編の名手」のよく知られた短編集の文庫版なら好きな時に読めるように手元に置いておいてもいいのではないかと考え、近くの本屋にあれば買いに行くことにした。蔵書検索してみると3駅はなれた書店に在庫があることが判明。Ⅰ&Ⅱともに「在庫僅少」となっていた。残りわずかということになれば、買える時に買っておかないと、あとで悔やむことがある。「在庫僅少」と知ってあわてて買いに行った本が、僕が買った後に「在庫なし」になったことを知ってホッとした経験もある。検索したのが夜(書店の営業時間外)だったので、翌日買いに行くことにした。
インターネット上で購入すれば買いに行かなくても届くわけだが、絶滅危惧職(?)の書店保全活動の一環として、なるべく書店へ足を運んで本を買いたいという思いもある(*)。在庫を確認した書店で、置いてある書棚の位置も確認して翌日買いに出かけた。
さて、お目当ての本を買うために書店へ向かう途中──電車の中で妙な期待と緊張を感じた。前日にネット上で在庫があることを確認してはいるが、予約したわけでもないし、ひょっとして僕が行く前に売れてしまうことだってあり得ないことではない。在庫上は本棚にあることになっているが、万引きにあっていたり何らかの理由で帳簿上の数字と在庫が一致しないなんてことだってあるだろう。とにかく現場に行ってみるまでわからない……そんな不安も去来してひとりドキドキし──この感覚に、ものすごく懐かしいものを感じた。
小学生の頃、早起きをしてカブトムシをとりに雑木林に向かうときのワクワク・ドキドキ感と同じ──。目指す雑木林には樹液を出す木があって、ここにカブトムシが来ることはわかっている。きっと夜の間に来ているだろう。僕がついた時にも、きっと樹液ポイントにかじりついているはず……。しかし、僕がつく前に他の子が来てとってしまう可能性もある。到着したとき、いないことも考えられないではない……そんな期待と不安が交錯する心理。
書店に到着して、該当の書棚の前に立ち、あるはずの位置にお目当ての本が並んでいるのを確認した時は、子供の頃に目指す木でカブトムシが樹液ポイントにかじりついている姿をみつけたときのような高揚感があった。
ものすごく久しぶりにカブトムシをとりに行った時の感覚がよみがえった。
『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』を買って帰ったあと、思い立ってその店の蔵書検索をしてみると、『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』は「在庫僅少」、『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』は「在庫なし」になっていた。

あなたに似た人〔新訳版〕の収録作品
1957年10月にハヤカワ・ミステリで、1976年4月にハヤカワ・ミステリ文庫で刊行した『あなたに似た人』(ロアルド・ダール)に「ああ生命の妙なる神秘よ」「廃墟にて」を加え、田口俊樹氏による新たな訳で2分冊としたもの。ハヤカワ文庫(早川書房)・2013年5月15日発行。僕が買ったⅠの方は3刷(2017年7月)だった。新訳版の全収録作品⬇。

『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』〈収録作品〉
味/おとなしい凶器/南から来た男/兵士/わが愛しき妻、可愛い人よ/プールでひと泳ぎ/ギャロッピング・フォックスリー/皮膚/毒/願い/首

『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』〈収録作品〉
サウンドマシン/満たされた人生に最後の別れを/偉大なる自動文章製造機/クロードの犬/ああ生命の妙なる神秘よ/廃墟にて

『あなたに似た人』との再会
最初の作品『味』を読み始めて、「ああ、この話だったか!」と筋書きを思い出した。いつ読んだかの記憶は定かではないが、確かに過去に読んでいる。3番目の『南から来た男』も同様に読み進めるうちに筋が見えてきた。
〔新訳版〕はⅠに11編、Ⅱに6編が収録されているが、全作品を読んで、以前に読んだ記憶があるのは『味』と『南から来た男』の2編だけだった。2編とも印象は良く、記憶の中でも「おもしろい」と感じていた。ただ……期待していたほどの傑作集ではなかった……という感覚もあったのが正直なところ。
僕が昔、『あなたに似た人』(田村隆一による旧訳版)を手にとっていたのは、ロアルド・ダールが《奇妙な味》の名手で、この作品集に傑作が含まれているといった情報を得てのことだったように思う。それでお目当ての『南から来た男』をまず読んだのではなかったか……そんな気がする。そのとき冒頭の『味』も読んで、「(そこそこ?)おもしろい」と感じたのではなかったか……。
当時、O・ヘンリーの『最後の一葉』のような、あるいはそれ以上の作品が詰まっていることを期待して読んだので、期待値が高かったわりに(高かったために)満足度が追いつかず、「おもしろい」と感じながらも、作品集としては物足りなさを覚えたような気がする。
おそらく図書館で借りるなどして、2編を読み、他の収録作品も読みかけたか、ざっと目を通したかもしれないが、期待したほどのものではないと感じて、図書館に返してしまったのではなかったか……。
今回あらためて全作品を読んでみて、必ずしも完成度が高い作品ばかりではないということは感じたが、ただ、作品のレベルとは別に《奇妙な味》は漂っていたりするので、この感覚を楽しむことができる作品集という意味では、読む価値があるのではないか……ということも感じた。

ロアルド・ダールは《賭け》が好き!?/印象に残った作品
『あなたに似た人』には、やけに《賭け》の話が多い。

『味』では、晩餐会でホストが厳選したクラレット(ボルドー産赤ワイン)の銘柄と収穫年を当てられるかどうかで賭けが始まる。「当てられるはずがない」というホストと「当てられる」というゲストの意地の張り合いがエスカレートして、二軒の家と娘(との結婚)を賭けるという異常な展開となる。賭けが成立するまでの攻防や、ゲストがワインを味わいながらそのウンチクを駆使して産地を推理し絞り込んで行く過程が、リアルかつスリリングで、見せ場となっている。はたして結果はどうなるのか──と読者の興味を高めておいて、意外なラストが用意されている。仕掛け自体はそれほど凝ったものではないが、読者は賭けの展開に意識を集中して(させられて)いるので、意外性の効果は大きい。ダール作品には「なあんだ」という結末に落ち着くものもあるが、「肩透かし」も「意外性」のうち。『味』はトリック(仕掛け)よりもミスディレクション(読者の興味を仕掛けとは別の所へ誘導する技術)の巧みさが光る好短編だった。

『南から来た男』も《賭け》をテーマとした作品だ。ライターが10回続けて点火できるかどうかで賭けが始まる。賭けを持ちかけた南アメリカ出身の小男は金持ちで大きな賭けを望むが、ライターを自慢したアメリカ水兵の若者は賭けるものがない──そこで、「高級車」と「左手の小指」を賭けるという奇妙な展開になる。若者の左手を固定し切断できる準備を整えると、賭けが始まる。カウントダウンかロシアンルーレットのように、ライターの点火が繰り返されて緊張が高まって行く──そのさなか、小男の妻とおぼしき女が現われ、賭けは中断される。ここで読者の緊張も一度途切れて「なぁんだ、そういうことか」となるが、最後の最後に緊張が走る結末が用意されていた。緊張を徐々に高め、ホッと油断させたところに一撃を打ち込むという《作者のたくらみ》に拍手を送りたくなる。《奇妙な味》が漂う好短編。これは傑作と言っていいだろう。

『わが愛しき妻、可愛い人よ』も賭けブリッジの話で、意外な展開でイカサマが発覚する。

『プールでひと泳ぎ』は、乗っている旅客船の航行距離を当てるオークション・プール(競売形式の賭け)で、大金を賭けてしまった男が、形勢不利と知って突飛な解決策をくわだてる──策謀と破綻の皮肉な話。悪意のない「台無し」感をさらりと演出したラストに味わいを感じる。

『首』の中にも、本筋から離れたところで賭けカードゲームが出てくる箇所があり、『クロードの犬』はドッグレースでイカサマをして大もうけを企てる男たちの話である。

こうしてみると、ロアルド・ダールの作品には「賭け」がよく出てくる。その人の人生の明暗を分ける端的なエピソード・運命の岐路として判りやすく感情移入もしやすいということなのだろうか。
ふり返ってみると、僕も「賭け」をあつかった作品を書いている。小学生を読者対象に想定していたので、掛け金自体は小額だが、カエルの超能力の証明と言う謎めいた要素をからませたショートショートだった。また作品として書いたわけではないが、夢に関する記事の中で、夢にみたエピソードとして、仕掛けのある賭けを書いたこともあった。賭けというのは、勝つか負けるかわからないものだが、「必ず勝てる仕掛け」があれば誰しも関心を示すものではなかろうか……。

話をロアルド・ダールの作品に戻して……『願い』は想像力のたくましい少年が主人公。彼は絨毯を彩る3色の模様を見て思う。赤い模様は真っ赤に燃える石炭で、落ちたら丸焼けになる。黒い模様には毒蛇で、触れれば咬まれて死んでしまう。安全な黄色い模様だけをたどって絨毯を渡りきることができるだろうか?《もし無事に──丸焼けにもならず、咬みつかれもしないで──玄関までたどり着けたら、明日の誕生日にはきっと仔犬をプレゼントしてもらえる》──少年はそう考える。これも「勝ったら願いが叶う」という自分に課した《賭け》のようなものかもしれない。
子供にはありがちな、そして大人には懐かしい、たあいもない空想遊び。退屈な日常の中でスリルのある遊びを発見する──この着想は面白いし共感がもてる。だから少年の気持ちになって読み進むことができた。が、この作品は結末が弱い。空想遊びの着想が面白かっただけに、もうひとひねりしてキレの良いオチが欲しかった……読者としては、そんな気持ちになる。
ロアルド・ダールは「おもしろい着想」を核に作品を構築しているが、この着想が設定であることもあるし、オチ(結末の意外性)であることもある。その両方に工夫が見られる作品は純粋に「おもしろい」と感じるが、そういう高水準の作品ばかりが書けるわけではない。しかし、高水準の作品を読んだ読者は、すべての作品にその水準を求めたくなってしまう……。
『あなたに似た人』では、『顔』や『南から来た男』が面白かっただけに、読者の期待を高め、面白さのハードルを高くしてしまった面もあったのではないか。
そのため「おもしろい着想」が設定だけにあるものは結末が物足りなく感じてしまい、オチだけに工夫があるものは、中盤の面白味が薄く感じられてしまう……。この『願い』も、設定としての着想が面白かっただけに、結末にもう一工夫あったらなぁ……という印象があった。
例えば──この作品を読んで頭に浮かんだ4コマ漫画がある。中川いさみの『クマのプー太郎』の1本なのだが……1コマ目でコンビニ袋を下げた松村くんというキャラクターが路側帯の白線上を歩きながら、こうつぶやく「白線の両わきは海だ!! サメとかうじゃうじゃいて落ちると死ぬ!!」──これは『願い』の絨毯の上を歩く少年と同じ、〝日常の中の空想遊び〟で、やはり着想がおもしろいと感じた。この4コマ作品の傑作なところは、白線の上を慎重に歩いている松村君が、やはり白線上を歩いてきたサラリーマン風のオッサンとかち合うという更なるアイディア──同じ空想遊びをしている人をもうひとり登場させたことにある。松村くんとオッサンが、互いに白線からはみ出ないように絡み合ってすれ違おうとしているこっけいな姿を通りがかったおばさんが冷ややかに眺めている4コマ目には大笑いつつ素晴らしい決着だと感心した。空想遊びという面白い着想をさらに捻って発展させ、おもしろいオチにつなげる──《作者のたくらみ》という点ではこの4コマ作品の方が、工夫を重ねたぶんだけ優れている。
もしかすると、中川いさみはダールの『願い』を読んでいて、やはり「もうひとひねりできなかったか……」と物足りなさを感じていて、この4コマ漫画の着想を得たのかもしれない。

このように『あなたに似た人❲新訳版❳』の収録作は全て完璧な作品だけで構成されているわけではないのだが、「物足りなさ」を感じる作品には、これを補足し充足するものを求める心理がはたらく……不足分が読者の想像力を逆に刺激し高めているともいえる。作品の出来・不出来とはまた別に、読者の「《奇妙な味》に対する感受性を高める」効果──これもダール作品を「読む価値」といえるのではないかという気がしている。

ロアルド・ダールの作品を読む価値
「《奇妙な味》に対する感受性が高まっている」からこそ生まれる「もう少し何とかならなかったものか……」という物足りなさ──そう感じさせること自体にも《読む価値》があったのではないか──と今は考えている。
物足りなさ感じさせる作品が混じっていることで、読者の脳は《奇妙な味》の完成欲求が高まる──いってみれば《奇妙な味》の受容体が活性化(鋭敏化)しているような状態。これは、すでに作品群に魅せられている中毒症状(?)ともいえなくもない。
さらにいえば、この《奇妙な味》に対するの完成欲求が、「それでは、どんな設定だったら/あるいは、どんな結末だったら、満足できたのか」という方向に働き、あらたな着想に引き寄せられる……なんていう作用もありそうな気がする。
というのも、今回僕は「もう少し何とかならなかったものか……」と思いながら収録作品を読んでいる間に、《奇妙な味》の着想を3つ得ている。

小説を書く人なら、作品の着想をどう得るか──というのはもっとも関心のあることの1つだろう。もっともらしいセオリーのようなものもあるようだが、けっきょく「おもしろい着想」を得るための技術というのは「インスピレーションが浮かびやすい心理状態をいかに作るか」だと僕は考えている。ロアルド・ダールの作品を読んでいると、脳味噌が《奇妙な味》を感じやすい状態にシフトする──アイディアが降りて来やすい心理状態を作るという作用──そこにも、ダール作品を《読む価値》があると感じるのである。
『あなたに似た人❲新訳版❳』は、特に創作をしている人には着想刺激剤としての効能(?)もある、ありがたく貴重な作品集ではないだろうか。

ちなみに、僕も《奇妙な味》系の作品──《作者のたくらみ》を核とするアイディア・ストーリーを書いており、一口サイズの読み切り作品をいくつかブログにもあげている。

■星谷 仁の《奇妙な味》系の作品(♣)&着想(♧)
愛しいまぼろし ※死んだ愛猫が見える少女!?
金色の首輪 ※猛獣をも制御できる不思議な首輪
チョウのみた夢〜善意の報酬〜 ※蝶の恩返し!?
人面ガエル ※人面蛙の呪い
カエルの念力 ※カエルの念力をめぐって賭けをすることに
赤いクモ〜夢の前兆〜 ※人にはそれぞれ前兆夢がある!?
地震の予知〜作家の死〜 ※誰も知らない不思議な予兆
不老の理由 ※ある事故以来、若さが保たれている理由とは…
守護霊〜霧に立つ影〜 ※ピンチの時に現れる友の守護霊
暗示効果 ※暗示でダイエット
因果応報 ※愛息子の死は何の因果だったのか…
神への陳情 ※地球の危機を救うのは…
トイレでタバコを吸わないで ※トイレで喫煙すると恐ろしい事が…
フォト怪奇譚『樹に宿る眼』 ※枝痕を見ての着想
巻貝が描く《幻の地図》 ※幻想怪奇的着想
キリギリス幻想 ※キリギリスを見ていて浮かんだ着想
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恥れメロス/今さらながら太宰治

01走れメロス
※太宰 治・作品集『走れメロス』/新潮文庫のカバー表紙と裏表紙の紹介文。

恥れメロス/感想:太宰治・作『走れメロス』
今さらながら太宰治の『走れメロス』を読んだ。この作品は教科書にも採用されているという。僕も国語の教科書で『走れメロス』というタイトルを目にしていたような気もするのだが……「読んだ」という記憶はない。ただ、一般知識として(?)内容については、なんとなく漠然と知っていた。「メロスは何か約束をして、定刻までに到着しなければ、自分の代わりに人質となった親友が処刑される──そんな状況で、メロスは自分の命と引き換えに親友を救うため、満身創痍になりながら、走った」という程度の認識だった。イメージとしては《友情や誠実さをうったえた作品》で、教科書に載るくらいなのだから《崇高な話》なのだろうと思い込んでいた。

教科書に載っていたらしいのに(?)、読んだという印象が残っていないのだから、(僕にとっては)面白い話ではなかったのただろう──そんな思いもあって、長い間、読み返してみよう気にはならなかったのだが、先日、ふと気まぐれを起こして読んでみたところ、やはり共感のもてる作品ではなかった。「ひどい話だなぁ」と言うのが第一印象。有名な作家の有名な作品なのだから、おそらく一般的(?)には評価も高いのだろうが、僕が感じたところを正直に記しておくことにした。
僕の感想を記す前に、まず『走れメロス』のあらすじはというと──、

    *    *    *    *    *    *

メロスは唯一の肉親である妹に結婚式を挙げさせてやるために10里離れたシラクスへ買い出しにやってきた。この市には無二の友人セリヌンティウスが住んでおり、彼のところへも寄るつもりでいた。市に入って活気がないことに気づいたメロスは老爺を捕まえてわけを問う。王様が猜疑心から人を次々に殺していると聞いたメロスは「あきれた王だ。生かしておけぬ」と激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬ」と決意して王城へ向かう。
しかし、メロスはあっさり警戒中の警吏(けいり)に捕縛されてしまう。それでもメロスは暴君ディオニス王に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と意見し、王は「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と応える。
メロスははりつけにされることになるが、その前に妹に結婚式をあげさせてやるための猶予を3日くれと懇願する。3日後の日没までに必ず戻って刑を受けるというメロスの「約束」を王は信じようとない。メロスは「約束」が本当であることを担保するために、友人セリヌンティウスを身代わりに置いて行くから約束が実行されなければ殺せばいいと王に提案する。王はメロスが死ぬために戻ってくるとは思っていなかったが、「約束」が嘘であったことを証明し「これだから人は信用できない」ということを世の中に知らしめるために、メロスの提案を受け入れる。
メロスは急いで村に帰り、まだ準備ができていないと拒む妹の婚約者を強引に説き伏せて、急きょ結婚式を挙げさせた。そして約束通りシラクスへ戻ろうとするが、川が氾濫して橋が流されていたり、山賊に襲われるなど、アクシデントにみまわれ、期限の日没までに王城にたどり着くのが困難な状況におちいってしまう。精根尽きて一度はあきらめかけたメロスだが、勇気を奮い起こし、走り続けて、セリヌンティウスの処刑が行われようとしていた刑場にかけこんで、ギリギリの間際で執行をくい止める。
友との再会を果たしたメロスは、いちどだけ「約束」をあきらめかけたことがあったことをセリヌンティウスに告白し自分を殴らせ、そのセリヌンティウスも一度だけメロスを疑ったことがあることを告げてメロスに殴らせる。そして2人は抱擁しあう。それを見ていたディオニス王は2人に感化され、自分の考えを改める旨の発言をし、群衆から喝采を浴びる。

    *    *    *    *    *    *

メロスとはなんと軽率&身勝手で自己中心的な迷惑者なのだろう──読みながら、そう感じた。
《友の命を救うために、メロスは自分の死をもいとわず、困難を乗り越えて約束を果たそうとし、勝利した》ということが、誇らしげに語られているが、もともとこの困難はメロス自身が招いたものである。不用意に王城へ乗り込まなければ、こんな騒動は起こらなかった。分別があれば充分に避けられた不幸だ。クライマックスで、ボロボロになりながら走り続けるメロスは自分を《勇者》だと叱咤激励しているが、とんだ《愚者》だ。このエピソードは自ら招いた不幸に飛び込んで活躍してみせるマッチポンプ英雄伝だ──読み終えて、そう感じた。

ツッコミどころは少なからず。物語の展開にそっていえば、まず、老爺ひとりの話から「王が猜疑心のために人を殺す暴君」だと信じ込み、真偽を確かめようともせずに「生かしておけぬ」と決意して王城へ乗り込むという行動が軽率すぎる。
ディオニス王を殺す決意で、無策のまま王城へ乗り込んだメロスは、当然のことながら、あっさり警備に捕まってしまい、逆に自分が処刑されるはめになるのが、なんとも「浅はか」だ。決意した使命の遂行はどうするのか。使命の重さに比べて行動が軽い。

作品の構図としては《性悪説のディオニス王(悪)》vs《性善説のメロス(善)》という対決の図式で、「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と説くディオニス王の対極に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と主張するメロスが位置づけられている。しかし、「根拠もなしに疑う」ことと「根拠もなしに信じる」ことは同じ。どちらも信憑性の視点を欠いた危険なとらええ方だ。「根拠のない思い込みに支配されて判断する」という点で、ディオニス王とメロスは同類に見えてしまう。

ディオニス王はメロスに「きれいごとを言っていても、はりつけになる時には命乞いをするに決まっている」という旨のことを言い、メロスは「死ぬ覚悟はできている。命乞いなどしない」と返す。メロスは自分には死ぬ覚悟があるが、妹に結婚式を挙げさせてやるために3日だけ猶予が欲しいと要求。自分は必ず戻ってくると「約束」するが、ディオニス王はメロスの言葉を一笑に付す。メロスはムキになり、「死ぬために戻ってきて、自分が正直者であることを王に認めさせてやる」という強い思いにとらわれるようになる。このあたりで、問題意識のピントがズレはじめる。
当初、メロスの怒りの発端は、猜疑心から人々を次々に処刑する(その日も6人殺されたという)暴君を許してはおけぬというところにあったはずだ。不当に人を殺す王を倒すことが「正義」だと信じて王城に乗り込んだのではなかったのか。なのに、ディオニス王に嘘つきだと決めつけられてからは、メロスは「約束」を守って自分が正直者であることを証明することばかりに心を奪われていく。メロスにとっては理不尽な処刑で人々が殺されている問題は、もうどうでもよく、自分の誇りを守ることばかりが頭の中を占めている。社会の正義よりも自分のメンツが大事だという過剰な自意識は、勇者のものではない。真の勇者であれば、自分の体面を汚してでも人の命を守ることを優先して考えるはずだ。しかしメロスは友の命を危険にさらしてまで自分の誇りを知らしめようとしているのが、いやしく見えてしまうのである。

無分別に王を殺しに行ってはりつけにされることになったメロスだが──これは自らの愚かさが招いた結果ともいえる。メロス自身が軽率のツケを払うのは自業自得だが、自分の私用(妹の結婚式)のために、親友を巻き込み、その命を危険にさらす人質にするという提案をメロスの側から王にもちかけるというのも、ひどく身勝手で迷惑な話だとあきれた。作品では「友情」や「信頼」を命がけで守ったメロスを賛美しているが、そんな「友情」や「信頼」などあったものではない。
メロスは自分の都合(3日の猶予の要求)を通すために、迷うことなくセリヌンティウスを身代わりに差し出してしまうが、セリヌンティウスにだって生活や都合があるだろう。自分の都合のことばかり考え、友の都合などおかまいなし。自分の失態で何の落ち度もないセリヌンティウスを巻き込むなど、あってはならないのに平気でそれをしている。自分の都合を通すために友の命を危うくする人質提案を、ためらうどころか自ら進んで持ちかけたメロスはつくづく身勝手て自己中心的な男である。

セリヌンティウスを人質にして解放されたメロスは村へ帰って、その夜に妹の婚約者に会い「あす結婚式を挙げろ」と迫る。仕度ができていない婚約者は当惑し「ブドウの季節まで待ってくれ」と懇願する。前日の夜になって「あす結婚式」と言われても婚約者はもちろんその親族や参列する人たちだって困るだろう。そうした他人の都合などかえりみずにメロスは自分の都合を押し通す。ここでも他者への配慮はみじんもみせず、迷惑を強いるうしろめたさも感じていない。ことが自分の思い通りに運んだことに満足しているだけである。

2日目に妹の結婚式を実現したメロスは3日目に「約束」をはたすべくシラクスへ向かう。しかしアクシデントに見舞われ、「約束」が実現不可能かと思われる事態に陥ってしまうわけだが、厳しい限界状況の中で、自分を「勇者」と叱咤激励するくだりは、自ら招いた(それも何の落ち度もない友人をも巻き込んでの)不幸であるのに、悲劇のヒーローになりきって陶酔しているようにも見える。
いよいよ追いつめられたメロスだが最後の力をふりしぼって、ギリギリのところで「約束」をクリア。王を含む多くの人たちの注目をあびる中でメロスは「名誉」を勝ち取ってみせることができた──この自己顕示的達成感はナルシストのカタルシスのように思えてしまう。

この作品で描かれているメロスの自意識──自己中心性、身勝手さは幼稚さ由来のものではなかろうか。自分の主張を通すために「死んでやる」とムキになるのは、幼稚な我がままに見える。
しかし太宰治は『走れメロス』の中で「誇りのために死ぬことができる」ということを、気高いこととしてアピールしており、それを劇的にみせることに腐心しているように感じる。これがメロスの(太宰治の)やりたかったことなのだろう。そのためのお膳立てにこのストーリーが選ばれた。ナルシストのカタルシスを満足させるための苦労話。しかし、これはメロスが不用意に王城へ乗り込まなければ、起こらなかった騒動だ。分別があれば充分に避けられたはずの騒動だが、「誇りのために死ぬことができる」ことを誇らしげに訴えるために、騒動が必要だったのだろう。

また本来本題とされるべきテーマ=《不当な圧政》問題とはずっとズレたところ(メンツにこだわる自意識次元)で話が進められていたのに、最後にあっさりディオニス王が改心して群衆から喝采を浴びて「めでたしめでたし」というのも、とってつけたようで、ご都合主義を感じる。この王に殺された者たちがそれでむくわれるわけではないだろうに。しかし、作者にとっては、メロスが命をかけて友を救い、名誉を守ったことが大事だったのだろう。

自分を英雄に仕立てるための苦難の状況をみずから作っておいて、その中に身を投じてボロボロになりながら、死ぬ覚悟で自分の勇気や誇りをアピールしてみせる──それが《マッチポンプ英雄伝》という印象につながって、僕は素直に共感することができなかった。

『走れメロス』を読んだ後に、作者はどんな人間だったのかといぶかって、ちょっと調べてみると、太宰治は井伏鱒二に師事していたらしい。これも「会ってくれなければ自殺してやる」と井伏を手紙で脅し、半ば強引に弟子入りしたらしい。実際に太宰治は自殺(愛人と心中)しているわけだが、何度も自殺未遂や心中未遂を繰り返している。最初に自殺未遂を起こした翌年に初めての心中未遂を起こしており、この時は太宰だけが助かって、相手の17歳の娘は死んでいる。最後に心中を遂げた時には、井伏鱒二も心中現場に駆けつけて捜索に参加していたという。さんざん迷惑をかけ恩義のある恩師に対して太宰は遺書で「井伏さんは悪人です」と書き残していたというのだから、ひどい話である。
また、太宰治は芥川賞の選考委員だった佐藤春夫に自分に賞をくれるよう懇願する手紙を出しているが、その中でも受賞できなければ死ぬとほのめかしていたようだ。
「死を持ち出して自己主張する」のは太宰治の常套手段なのか。自意識が高く周囲に迷惑をかけてきた人物像が、作中のメロスの自意識と重なる気がした。「死んで誇りを守らんとするメロス」にも太宰の心理癖のようなものが投影されていたと考えると納得できなくもない。

また、太宰の親友だった作家の檀一雄は『小説 太宰治』という作品の中で、『走れメロス』について触れており、「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と記しているらしい。太宰と檀が、熱海で放蕩三昧に明け暮れ酒代や宿代の支払いに窮したことがあって、太宰は檀を人質として宿に残し、東京へ借金をしに戻ったという。しかし何日待っても太宰は戻って来ず、しびれを切らした檀は借金取りと上京。太宰は井伏鱒二の家で将棋を指していたという。そこに踏み込んで怒鳴る檀に、太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」と言ったという。人質で待つ身の檀がセリヌンティウスで、待たせる身の太宰がメロスというわけだ。このエピソードは檀一雄が面白おかしく書いたものなのだろうが、太宰治の「友情」や「信頼」に対する認識はその程度のものだったのだろう。『走れメロス』で描かれていた「友情」や「信頼」が空々しく感じられるのも合点がいくところだ。

実際に読んでみる前まで《崇高な話》というイメージがあったために、よけいにギャップを感じることになったのかもしれないが、そんなわけで、僕は『走れメロス』を読んで、メロスの自意識に「これは勇者のものではない」ものを感じて共感することができなかった。しかし、これが太宰治という作家の自意識を投影して書かれた机上の英雄伝だと考えれば、妙に納得できる気もするのである。

以上が僕の率直な感想なのだが、くさしてばかりでは心苦しいので、新潮文庫『走れメロス』の巻末にある奥野健男の解説から『走れメロス』に関しての評価を紹介しておくと──、
「知性と感覚と思想とが結合した日本文学には珍しい格調高い好短編」「古伝説の素朴で強い骨格をいかし、その中に現代人の含羞や自意識を折り込み、友情と信頼をうたいあげた、太宰文学の明るさ、健康さを代表する短編」「希有の才能を感じさせる傑作」と賞讃してある。
また「『走れメロス』は「新潮」昭和15年5月号に発表された。ギリシアのダーモンとフィジアスという古伝説によったシラーの『担保』という詩から題材をとっている。人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な力強い文体で表現されていて、中期の、いや太宰文学の明るい健康的な面を代表する短編である。多くの教科書に採用され、またしばしばラジオなどで朗読され、劇に仕組まれ、太宰の作品の中でもっとも知られている」とも記されてあった。

巻末の解説には収載作品を後押しするという役目もあるのだろうが、世間的には、きっと解説にあるような評価なのだろう。



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一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出

『一切れのパン』と『最後の一葉』:教科書の思い出
01最後の一葉

宮沢賢治の『やまなし』など、「どうしてこれが教科書に採用されたのか?」と不思議に感じる昨今。そもそも教科書へ収載する作品の選定基準がよくわからない。本来、(童話を含む)小説は「楽しく読む」べきものだと思うのだが、僕は教科書で読んだ小説を楽しいと感じたことがほとんどない。これは作品が面白くなかったというより、「勉学のまな板の上で調理されること」に抵抗感があったためだろう。授業で取り上げられる作品には「教材となった意義付けを忖度する」読み方が求められているような気がして、窮屈な印象があった。
しかし、そんな僕にも、教科書に取り上げられていながら(?)「面白い!」と感銘を受けた小説が2つある。F・ムンテヤーヌの『一切れのパン』とO・ヘンリーによる『最後の一葉』である。

『一切れのパン』@国語教科書の思い出
『一切れのパン』は中学生時代に国語の教科書で読んだ記憶がある。卒業後、同級生との間でこの作品が話題になったこともある。僕も級友も、タイトルや感銘を受けた内容──最後のセリフなどは覚えていたが、僕は作者が誰だか失念していた。友人はO・ヘンリーの作品だと思っていたようだ。その頃はまだインターネットもなく手軽に検索で確かめることができなかったので、本屋でO・ヘンリーの短編集を手にとり、目次を探して「ないなぁ……」と首をかしげていたこともあった。作者がフランチスク・ムンテヤーヌというルーマニアの作家だったと知ったのはだいぶ後になってからだ。

記憶の中のあらすじをざっと記すと──、
戦時下で、敵国軍に捕えられた主人公が、貨物列車から脱走して飢えと闘いながら自宅に帰り着くまでの話で、主人公は脱走する時にラビという老人からハンカチに包まれた《一切れのパン》を渡される。そのとき、「パンを一切れ持っている」という思いが飢えと闘う勇気となるから、パンはすぐに食べずに持っていることが大切だ・誘惑に負けないようにハンカチに包んだまま持っているようにと諭される。
主人公は飢えと闘いながら、危ういところでラビの忠告を守り、なんとか家に帰りつくことができる。主人公を支えた一切れのパン──しかしハンカチから出て来たのは一片の木切れだった──予想もしなかったラスト・シーンで主人公の口から漏れた「ありがとう、ラビ」の言葉が強く印象に残っている。
ラビからもらった一切れのパンの存在が主人公を支え、帰還をかなえる命綱となったわけだが、そんなパンなど、最初から存在していなかった──パンではなくラビの知恵が主人公を支え、救ったのだという意外性が衝撃的だった。

『最後の一葉』は《よい話(美談)》ではなく《皮肉な話》
『最後の一葉』の方は、確か英語の教科書に載っていたように思う。僕は英語が(も)苦手で、予習も全くしなかったから、授業中に少しずつ明らかになる内容で結末に至るまで、かなり時間をかけて小出しに知っていった気がする。
『一切れのパン』の方は【国語】の教科書に載っていたので(日本語で書かれていたので)、自力で読み進むことができ、ラストのあざやかな意外性に感銘を受けることができたが、『最後の一葉』は内容を細切れに知っていったので、当初あまり関心が持てなかった。ようやくオチの部分にたどりついたところで、「あれ? この作品、おもしろいぞ!」と、やっと気がついた。その後、O・ヘンリーの短編集を買って(日本語訳で)『最後の一葉』を読み直した記憶がある。英語の教科書によってこの傑作に出会えた──という形ではあるけれど、最初から翻訳作品に出会えていれば──全体を通して読んでいれば、第一印象の感銘はもっと大きかったろうに──と残念に思ったものである。

おそらく多くの人が知っているだろうが、『最後の一葉』の概要を記すと──、
共同でアトリエを借りているスーのルームメイト=ジョンジー(ジョアンナ)は重い肺炎を患い、医師から「生きる気力」の有無が生死を分けると言われる。しかし疲弊したジョンジーは、窓から見える壁にはったツタの葉が落ちるようすを眺めているうちに、すべての葉が落ちた時に自分の命も尽きるのだと思い込んでしまう。《葉が全て落ちたとき=ジョンジーの死》という《幻想》にとりつかれた彼女のことを知った階下の老画家くずれ=ベアマンは、バカげた想像だとののしるが、ジョンジーの思い込みを逆手にとって《落葉を阻止する(ツタがはう壁にダミーの葉を描く)》ことで《ジョンジーの死を阻止する》ことを企てる──この意表を突いた着想が素晴らしい。そしてベアマンの思惑通り、ジョンジーは持ち直す。
『一切れのパン』では現実には存在しない一切れのパン(ラビの嘘が)主人公を救ったが、『最後の一葉』では現実には残っていなかった最後の一葉(ベアマンが描いた絵)がジョンジーを救うことになった──《虚構が現実を動かす力になる》といったところに共通の面白さを感じる。
『最後の一葉』の場合は、ジョンジーのネガティブな《幻想(思い込み)》を利用して、逆にポジティプな《現実化》をはかるという工夫がおもしろい。更に──「狙いどおりにジョンジーの運命を変える工作に成功したベアマンだったが、彼自身が予想外の肺炎にかかって死ぬことになる」という《意外性》がダメを押す。運命のある局面を都合良く改変することができたとしても別の局面でツケが回ってくる──そんな《皮肉》を感じさせる《作者のたくらみ》に深い味わいを感じる。
この作品の素晴らしいところは、ジョンジーの命を救った最後の一葉が、実はベアマンが描いた絵であり、雨の中でこれを描いたベアマンが肺炎にかかって死んだことがラスト・シーンで一気に読者に明かされるというみごとな構成にある。鮮やかな幕切れが強い余韻となって読者に感銘を与える。

この作品を何年生の時の教科書で知ったのか、確かめてみようと思って検索してみたが、わからなかった。いくつかのサイトを閲覧していて知ったのだが、『最後の一葉』は小学校の道徳教科書にも収載されていたらしい。そして、この作品について《自己犠牲を描いた作品》という評価があることに驚いた。どうやら《老画家の自己犠牲が若い女性の命を救った話》だとか《長い間世間に認められる絵を描くことができなかった老画家(ベアマン)が、無欲に1人の女性を救うために描いたことで、人生の最後にして最高傑作の絵を描くことができた》というような《美談》として読んだ人も多かったようだ。言われてみれば確かに「そういう解釈」もできなくはないのかもしれないし、どう感じるかは読者の勝手なわけだが……僕がうけた感銘からすれば「作品のおもしろさ(作品の趣旨・趣向)」はそこではないだろう」ということになる。この作品の面白さは《意外性》にあって、《運命の皮肉》を描いた作品だと僕は感じた。『最後の一葉』の本質は《美談(よい話)》ではなく《皮肉な話》である。作品の構造上、O・ヘンリーも、それを意図して書いたのだと思う。

『最後の一葉』の改変版!?
『最後の一葉』の最大の見せ場は、真相が一気に明らかになるラスト・シーン──スーがジョンジーに真相を語る場面で、そこで読者も真相を知らされ、あっと驚くことになるわけだが……ところが、この結末に不満を感じた人もいるらしい。
「スーがジョンジーにわざわざ真相を打ち明ける必要はなかった。知らされたジョンジーには、自分の身代わりになって死んだベアマンのことが生涯の重荷となる」という複雑な思いにとらわれた人もいたようだ。しかしこれは、この作品を《美談》としてとらえている(とらえようとしている)からから生じる「割り切れなさ」だろう。スーが打ち明けようが打ち明けまいが、やがてジョンジーにも(風にも揺れずいつまでも形を変えない)不自然な葉がダミーであることはわかるはずで、階下の老画家がどのような状況で肺炎にかかったのか、耳に入らぬはずはない。ジョンジーが真相を知らずにすむという《きれいごと》の結末は不自然であり不合理なのだ。作品としては、《スーがジョンジーに語ることで読者に真相を、一番インパクトのあるタイミングで明かす》ラストシーンは必然にして、この上ないものである。この作品を《美談》という解釈ではなく、《皮肉》を描いた作品であるととらえれば、きれいに割り切れる、理にかなったみごとな結末といえる。

しかし、実際にこの作品を《美談》として偏向的解釈をしたがる人は多いのかもしれない。絶妙のラストシーンを《きれいごと》──「ジョンジーの身代わりとなってベアマンが死んだこと」をスーがジョンジーに告げない結末に改変した出版物も存在する。PHP文庫の『まんがで蘇るO・ヘンリー傑作選』(監修:齋藤 孝/『最後の一葉』を描いた漫画家は工藤ケン)がそれだ。
改変版マンガのラスト・シーンは、スーの《真相は自分だけの秘密として胸にしまっておく(ジョンジーには隠しておく)》という主旨のモノローグで終わっている。このよけいな「配慮」を持ち込んだおかげで、最大の見せ場であるはずのラスト・シーンの意外性・インパクト・切れは鈍り、効果抜群の余韻に水をさした格好である。
また、ラストシーンに「配慮」を持ってくるために、真相(ベアマンが雨の中で壁に葉を描いていたこと)を前倒しして(?)事前に読者にバラしてしまうという愚行もおかしている。
しかも前述した通り、元気になったジョンジーが真相に気づかぬはずはなく、「スーだけの秘密としておく」という結末は成立しない。改変マンガは、緻密な計算で構築された原作小説を《きれいごと》でまとめようとして台無しにした感がある。そこまで無理して、どうして《美談》にしたがるのだろうか?
小説を読んで、誰がどう感じるかは、その人の自由だ。しかし、それぞれ解釈・感じ方がすべて正しいということにはならない。妥当な評価ばかりでなく、的外れであったり不合理な解釈もけっして少なくない。

『最後の一葉』が小学校の道徳の教科書にも採用されていたと知って、ちょっと気になることがある。この作品が偏向した解釈で選定され、子どもたちにも的外れな解釈をミスリードするような指導が行われているのではないか……という危惧である。
『最後の一葉』が小学道徳の教科書に採用されたのは《自己犠牲の尊さをうったえた美談》という意義付け(解釈)があったのではあるまいか?
そう考えると、《自己犠牲の精神を標榜する作家》である宮沢賢治の作品が教科書に多く採用されている傾向と、同じ軌道上にあるようにも思われる。
小説が教科書に載り、授業でとりあつかわれることになると、生徒は(先生も?)そこに道徳的意義付けをみいだそうとして「忖度する読書」をすることになり、《美談》にミスリードされがちになるのではないか……そんなことがあれば、作品の真の価値を見誤ることになる。
教科書へ収載する小説の選定をする人、現場で子どもたちを指導する教師が、本当に作品の本質を理解しているのか、気になるところである。


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宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想

先日、宮沢賢治の童話『やまなし』が小学6年国語の教科書に採用されていることを知って驚いた。僕にはこの作品が小学生の教材としてふさわしいとは思えない。なぜ、これが採用されたのか不思議に思っているうちに、他にも国語の教科書に収載された賢治作品があるのではないかと思いたち、調べてみたところ、かなり多くの作品がとりあげられていた。『どんぐりと山猫』もその1つで、これが初めて文部省暫定教科書(1946年)に収載された賢治作品だったらしい。
ということで、『どんぐりと山猫』を借りて読んでみた。
01どんぐりと山猫
『どんぐりと山猫』は当初、自費出版に近い形で刊行された童話集『注文の多い料理店』(1924年)に収録・発表されたが、当時はあまり評価されなかったという。それももっともな話だろう。むしろ、後の扱い──国語の教科書にどうして採用されることになったかの方が僕には不可解だ。
実際に宮沢賢治の作品は教科書に使われ続けているわけだし、肯定的な見方が多いのかもしれないが、僕の感じたところを記してみたい。

宮沢賢治・作『どんぐりと山ねこ』《あらすじ》と《作者の意図》
まず、ざっと『どんぐりと山猫』のあらすじを記すと──、

ある土曜の夕方、奇妙な1枚のハガキが一郎のもとに届く。稚拙な文面で、翌日に面倒な裁判があるから来てほしいという内容で、差出人は「山ねこ」となっていた。一郎はとても喜び、何のためらいもなく翌日、山に出かける。
栗の木や笛ふきの滝、キノコの楽隊、リスなどに山猫の目撃情報をたずね、「美しい金色の草地」にたどりついたところで、一郎は風変わりな男に会う。この男が問題のハガキを書いた山猫の馬車別当だった。別当は自分が書いたハガキの文章や字が下手くそだったことを恥じていたが、一郎がお世辞で褒めるとたちまち有頂天になる。
一郎が馬車別当と話をしていると、とつぜん風が吹いて、気がつくと陣羽織姿の山猫が立っていた。
山猫の話によると、一昨日から面倒な争いが起こって裁判になっているが、うまく裁けずにいる──そこで一郎の知恵を借りたいということだった。
その裁判というのは黄金(きん)色のドングリたちの「誰が一番偉いか」を決めるというヘンテコなものだった。集まった300以上の黄金(きん)色のドングリたちが、口々に自分の主張をまくしたてる──頭がとがったもの・丸いもの・大きいもの・背の高いものなど、それぞれが自分が一番偉いのだと言い張って、大変なさわぎとなる。手を焼く山猫に助言を求められた一郎は「この中でいちばんバカで、メチャクチャで、まるでなっていないようなのが一番偉い」と言ったら良いとアドバイスし、山猫がそう言い渡すと、黄金色のドングリたちは、とたんに黙り込んでしまう。
一郎の提案で争いが止んだことに山猫は喜び、感謝する。そして一郎に名誉判事になって、ハガキが行ったらまた来てほしいと要請する。一郎が承知すると、さらにハガキの文面は「明日出頭すべし」として良いかと聞いてきた。一郎が辞退すると、山猫は残念そうだった。
一郎は御礼として黄金(きん)のドングリ一升をもらい、山猫の《きのこの馬車》で家まで送ってもらう。馬車が進むにつれて黄金のドングリは輝きを失い、家の前に到着した時には、山猫も別当も、きのこの馬車も見えなくなり、升のドングリは普通の茶色いものになっていた。
そのあと、山猫からのハガキが届くことはなく、一郎は「明日出頭すべし」の文面を受け入れていればよかったと時々思っている。

僕の感想を述べる前に、まず、作者(宮沢賢治)が、どんなつもりでこの作品を創作したのかについて想像してみると──、

賢治が描きたかったもの、創作のモチーフは《山がかもしている不思議なオーラ》のようなものだったのではないかと思う。あらすじでは、はしょっているが、山や森の描写にはおもむきがあって雰囲気をよく表現している。賢治は《山の放つオーラ(アニミズムのようなもの?)》に魅せられ──《山は不思議なところ》《そこでは奇妙でおもしろいことがおこっている》と空想を広げ、《金色のドングリたちがたあいもないことで争い、それを山猫が裁くのにてこずっている》というような《奇妙なエピソード》を発想したのではないだろうか。主人公・一郎少年はその不思議な世界を垣間見て、その解決に貢献することで《奇妙なエピソード》に関与する。これは一介の一少年にとってはワクワクする出来事だろう──おそらく、こういった流れでこのストーリーのアウトラインを考えたのではないかと思う。
つまり山猫から届いたハガキは、山からの招待状・ワクワクする世界への切符
であり、構図としては《少年が山へでかけ奇妙な体験して戻ってくる話》である。
金色に輝いていたドングリが自宅に戻った時には普通のドングリになっていた──というのは、山の中では輝いていたものが、山を離れ現実に戻ってみれば(山の不思議な効力を失って)色褪せてしまう──山の持つ神秘的な活力を表現したものだろう。

作品の《創作意図》と《できばえ》
賢治は、おそらくそうした創作意図をもって書き始めたのだろうが……出来上がった作品が、読者にきちんと伝わる形で描けていたかといえば、必ずしもそうとはいえない。作品の冒頭──奇妙なハガキが届いてから、一郎が山へ出かけるまでの部分を引用すると──、


 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいで
  んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                      山ねこ 拝

 こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。
 ね床にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。
 けれども、一郎が目をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのように、うるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川にそったこみちを、かみの方へのぼって行きました。


ここで【国語】の授業であれば、こんな《設問》がありそうな気がする。
《Q:ハガキを受け取った一郎は、どんな気持ちだったでしょう?》
「とても嬉しかった」「喜んだ」というのが正解──【国語】の授業ならそうなるのだろうが……作品として評価するなら、一郎は「いぶかしく思った」とか「とまどった」と感じることが「正しい」リアクションだったのではなかろうか。

作者の賢治には、一郎に届いたハガキの意味(《山からの招待状》=一郎にとって嬉しい物であること)がわかっており、その先に奇妙で愉快な展開が待ちうけていることがわかっているから、このハガキを受け取った一郎を手放しで喜ばせてしまっているが……本来であれば、冒頭のシーンで、一郎(と読者)には、にわかに事態がのみこめないはずである。もし、こんなハガキが届いたら、「山ねことは誰だろう?」「なぜ僕のところにハガキをよこしたのだろう?」などと、いぶかるのが自然であり、奇妙なハガキをもらって、なんの疑問もなしに、まず喜ぶという反応はありえない。「このとき一郎はどんな気持ちになるか」と考えれば「喜ぶ」より先に「とまどう」のが正しい──ということになる。
また、山猫の裁判とやらを見てみたいという気になったとしても、ハガキには、肝心の場所が指定されていない。「裁判はどこで行われるのだろう?」「どこへ行けば山猫に会えるのだろうか?」と気掛かりに思うはずであり、そうでなくてはおかしい。
なのに一郎は、山猫に会うことを楽しみにしながら、どこへ行けば会えるのか不明なことに何の疑問も感じておらず、嬉々としてあたりまえのように出かけて行く──これはきわめて不自然なことだ。これがもし国語の授業ではなく、合評会で本作品がとりあげられたとすれば、こうしたリアクションの齟齬が指摘されたはずだ。
一郎が山猫に会えると確信している(かのように見える)のは、作者・賢治の頭の中では一郎が山猫と会うことが決定しているからだろう──先の展開がわかっている作者の気持ちで一郎の心理や行動を描いてしまい、「登場人物の気持ちで、どう感じるか(感じなければおかしいか)」のシミュレーションをおこたってしまった印象がある。これは書き手のミスで、創作を始めて間もない頃に、未熟さからおかしがちな〝失敗〟という気もする。

作品としては、創作上の工夫が足りない…
『どんぐりと山猫』を読み終わって感じるのは「物足りなさ」……物語としての面白味が薄い──ということだった。《少年が山で不思議な体験をする》という創作意図はわかるのだが、その《不思議な体験》が、「山猫裁判官のどんぐり裁判」というのは、いささか盛り上がりに欠ける。また、この騒動の解決が「この中でいちばんバカで、メチャクチャで、まるでなっていないやつが一番偉い」というのも、アイディアとしては今ひとつな気がする。何かもっと面白い・ワクワクするエピソード・トンチの利いた解決法が盛れなかったものかと思う。
山猫とドングリのエピソードを採用した利点・必然性があまり感じらない。おそらく「食物連鎖の頂点にある山猫が山を仕切っている」というところから山猫の裁判官をイメージしたのだろうが、それだけでは読む側からすると面白味に欠ける。創作上の工夫・ひねりが欲しいところである。
また、前述したように、場所の指定がなかったのに、一郎がすんなり山猫に会えてしまうのも、いささかお手軽感があって、本来描かれるべき山や森の神秘性を毀損しかねない気もする。神秘的な世界に招かれていくのだから、もう少しそれらしい《不思議な世界への導入》の演出や工夫があってしかるべきではなかったか。

たとえば…僕の個人的な工夫
創作上の工夫が足りないように僕には感じられたわけだが、それが具体的にどういうことなのかを説明するために、僭越ながら「僕だったら、どんな工夫をするか……」と考え、思いついたところを記してみるなら──、

一郎のもとに奇妙な召喚状(?)が届いたとき、いっしょに風車もそえられていて、「この風車が案内(ナビゲート)します(風車の反応する方へ進むと目的地に着く)」といった仕掛けを用意する。オリジナルでは一郎が目的地もわからぬまま出かけることを不自然に感じたが、風車を使えば《ふしぎな世界》へ導かれる感が演出でき、読者は興味を持って感情移入できるはずだ。
一郎が山猫と初めて会うとき、風がまき起こるが、山猫出現の直前に風車が強く反応すれば、山猫登場の演出効果にもなる。
また、山での奇妙な体験の後、家に帰りつくと、手に持っていた風車が、一輪の花(山猫に会った場所で見かけたものと同じ)に変わっていた──とすれば、山の不思議な効力が消えて、現実に戻った感が演出できる(金のドングリが普通のドングリに変わるのと同じ効果)。ナビゲート風車が花に変わってしまうことで、もう二度とかの場所(山猫のいる世界)に行くことができないという、<名残惜しさ>のような後味も残すことができる。オリジナルでは「その後ハガキが届かないこと」で<名残惜しさ>が演出されていたが、ナビ風車を使えば、現実の世界に戻って、まだ山での体験の余韻が新鮮なうちに<名残惜しさ>を演出できる。
宮沢賢治の作品では(『風の又三郎』という作品もあるし)《風》の描写に何かおもむきが感じられる。だから《風が不思議な世界へいざなう》→《山の不思議なオーラに反応して回る風車》という設定があっても面白かったのではないか──と個人的には思ったしだい。
これは〝思いつき〟の一例に過ぎないが、物語を盛り上げるためには、こうした創作上の工夫や意図をもったしかけが必要だと僕は考えている。

堀尾青史の解説
今回、読んだ『宮沢賢治童話全集<新装版>③どんぐりと山ねこ』(岩崎書店)では、巻末の「作品案内」で、堀尾青史が『どんぐりと山ねこ』について、次のように解説している。


 この作品は賢治童話の代表作の一つになっていますが、その理由は表現のみずみずしさや童話の楽しさをいっぱいもっていることによるのですが、なんといっても主題の大胆さです。
 えらさをはかる基準を求めてどんぐりがいい争いますが、一郎はまったく反対の「ばかで、めちゃめちゃで、まるでなっていないようなのがいちばんえらい」といいます。これをことば通りうけとったら、われわれもどんぐりのようにびっくりして、しいんとしてしまうでしょう。
 作者は、子どもたちはテストや試験などで争わされ、比べられ、優劣をつけられているが、はたして、それで人間の本当の価値がきめられるのか、そんなことではきめられはしない、と考えます。ばかでめちゃめちゃというのは反対のテーゼ(命題)を打ち出したもので、人間にとって大切なのは真心や愛情であって、それをはかることはできない。たとえば子どもとかくれんぼうをして寝こんだり、泥棒に入られて物をやった良寛が大愚(大ばか)とよばれているように、物慾にとらわれぬ無の境地にいる人は一見ばかのようですが、実はもっともえらい人とされています。
 こういうように人間を世俗的な物さしではかってはいけないと作者は言っているのですが、さて現実はどうでしょう。やっぱりどんぐりの背くらべはいつまでもつづいていますね。


作者・宮沢賢治が、本当に堀尾青史の指摘した《主題》を念頭に『どんぐりと山ねこ』を書いたのかどうかは僕にはわからない。しかし、少なくともこの作品から《人間を世俗的な物さしではかってはいけないと作者は言っている》というメッセージを汲み取るのは難しい。青史の見方は賢治作品に権威付けをするための強引な解釈のような気がする。
賢治作品が国語の教科書に取り上げられるようになったのは、ひょっとして、こうした《権威付け》が関係しているのだろうか?

少し前に読んだ『やまなし』──これといったストーリがなく、何が描かれているのか(趣旨が)子どもには難解で、いったいどこが面白いのかわからない──これに比べれば、『どんぐりと山ねこ』は筋立もはっきりしているし描写もわかりやすい。しかし、作品をおもしろくする工夫・自然に見せる工夫が少々不足しているように僕には感じられた。
国語の教科書に収載するのであれば、他にもっと良い作品がありそうな気がする。

『どんぐりと山ねこ』はYouTubeでも、朗読動画が投稿されていた。しかし、今回読んだ『宮沢賢治童話全集<新装版>③どんぐりと山ねこ』と比べてみると、一郎が馬車別当と出会った時の描写が朗読版(YouTube)では一部カットされていた。障害のある身体的特徴を気味悪く描いた箇所が差別的表現と判断されてのことだろう。『どんぐりと山ねこ』は現在では教科書に全文掲載するのが難しい作品なのかもしれない。


宮沢賢治『やまなし』とクラムボン
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宮沢賢治『やまなし』とクラムボン

宮沢賢治・作『やまなし』感想&クラムボンについて
01クラムボン@やまなし

最近、知った宮沢賢治の童話『やまなし』──読んでみて色々と感じるところがあったので記してみたい。

一読して感じたのが《描写が美しく、透明感がある不思議な作品》という印象。本来ならわかりやすく描かれるべき童話(?)なのに、あえて不明確に処理している箇所があって作品をわかりにくくしている。この作品が小学6年の国語教科書に採用されていたというので驚いた。子どもたちには〝趣旨〟を読み解くのが難しかったろう。小学生の教材としては首をかしげたくなる。はたして現場の教師たちはこの教材をきちんと料理することができたのだろうか? 消化不良のまま通り過ぎるケースも決して少なくなかったのではないかと思われる。

根拠については後に述べることにして……ひとことで言えば、『やまなし』は「宮沢賢治の《食物連鎖》に対する関心を表した作品」──というのが僕の感想。
作品の構成は、《小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。》という文章(序文)で始まり、そのあとに2つのパートに分けて、谷川に暮らすカニの一家の日常が淡々と描かれ、そして《私の幻灯は、これでおしまいであります。》という文章(跋文)で締めくくられている。
1つ目のパート【一 五月】では食物連鎖の利己的な一面──魚やカワセミの捕食=《自分が生きるために他者の命を奪う行為》が描かれ、
2つ目のパート【二 十二月】では食物連鎖の利他的な一面──川に落ちたヤマナシの実=《食われることによって他者の命を育み育てる》ことが描かれている。
つまり相反する局面《利己(殺生)⇔利他(献身・恩恵)》を2つのパートに併記することで、作者(宮沢賢治)は、《食物連鎖》を《背反する両極が混在するシステム》としてとらえていたことがうかがえる。
この《食物連鎖》を描いた本編を情緒的な序文と跋文(ばつぶん)ではさむことで、《美しくおだやかに見える景色の中で展開されている自然の不条理》を表現したのだろう。

作品の流れと(僕の)解釈
【一 五月】のパートは次のように始まる。


 二ひきのかにの子供らが、青白い水の底で話していました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「クラムボンは はねて笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
 上の方や横の方は、青く暗く鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗いあわが流れていきます。
「クラムボンは 笑っていたよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」
「知らない。」
 つぶつぶあわが流れていきます。かにの子供らも、ぽつぽつぽつと、続けて五、六つぶあわをはきました。それは、ゆれながら水銀のように光って、ななめに上の方へ上っていきました。


まず、いきなり登場する「クラムボン」がわからない。その後の展開とあわせて考えると、僕にはプランクトンかボウフラのようなものに思われるのだが、賢治は最後まで「クラムボン」の正体をあえて(意図的に)明らかにしていない。
この「クラムボン」について話しているのは〝2匹〟のカニの兄弟だ。同じようなセリフが繰り返されているが、会話の内容からすればセリフも〝2つ〟あれば〝2匹の会話〟として成立する。なのに同じ内容のセリフが繰り返されるのは、カニの兄弟が見ている「クラムボン」が1匹ではなく、あちこちにたくさん散らばっていることを示しているように感じられる(あっちでもこっちでも、同じような光景が見られるので、同じようなセリフの会話が繰り返される)。
前の文章の後は次のように続く──、


 つうと銀の色の腹をひるがえして、一ぴきの魚が頭の上を過ぎていきました。
「クラムボンは 死んだよ。」
「クラムボンは 殺されたよ。」
「クラムボンは 死んでしまったよ・・・・・・。」
「殺されたよ。」
「それなら、なぜ殺された。」
兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。
「分からない。」
 魚がまたつうともどって、下の方へ行きました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「笑った。」


魚が通過すると「クラムボン」は殺される──これは魚による捕食が行われたことをさしているのだろう。死んだり殺されたりしたあとに魚が去ると、「クラムボン」はまた笑い始める──死んだり殺されたりした個体がまた笑うはずはないので、やはり「クラムボン」は1匹ではなく、たくさんいて、捕食を免れた個体が(魚が訪れる前と同じように)活動を再開したということなのだろう。

「クラムボン」は魚の餌となる生物で、水面付近にたくさんいるもの──そして「かぷかぷ笑っている」ように見える……という条件から思い浮かんだのが(僕の場合)ミジンコのようなプランクトンやボウフラだった。ミジンコが泳ぐ姿やボウフラが体を曲げ伸ばしする動きは、身をよじって笑っているように見えなくもない。
この後、魚がまた戻って来ると、カニの兄弟たちは次のように話している。


「お魚は、なぜああ行ったり来たりするの。」
弟のかにが、まぶしそうに目を動かしながらたずねました。
「何か悪いことをしてるんだよ。取ってるんだよ。」
「取ってるの。」
「うん。」


「悪いこと」「取っている」というのは「クラムボン」の命を奪っている──捕食のことを指しているのだろう。
そしてこの直後、その魚がいきなり飛び込んできたカワセミに捕食されるシーンが展開され、カニの兄弟たちは何が起こったのかわからず恐ろしさに怯える。
そこへカニの父親がやってきて、兄弟に次のように説明する。


「ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみというんだ。だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。」
「お父さん、お魚はどこへ行ったの。」
「魚かい。魚はこわい所へ行った。」
「こわいよ、お父さん。」


食物連鎖を生き物の自然の営みとして描きながら、他者の命を奪う捕食をネガティブなイメージ(「殺す」「悪いこと」、被捕食者を「《こわい所》に連れて行く」)でとらえている。
「クラムボン」が魚に殺される(捕食される)のを見ていたカニの兄弟は《「それなら、なぜ殺された」「分からない」》と話しているが、おそらく作者の賢治自身も、自然界にどうして残酷な殺生が存在しているのか納得できる解答を得られずにいたのではないかと思う。
この世にはそういう「苦」(ままならないこと)があるという、あるがままの姿を淡々と描いた──だから現象についての解釈(賢治の見解)がなく、何が言いたかったのか伝わりにくい難解な作品になっている気もする。

【二 十二月】のパートでは、川に飛び込んで来た恐ろしいカワセミのかわりに、ヤマナシの実が落ちてくる。これはカニたちのエサとなるもので、《他者の命を潤すこと》として描かれている。賢治はこれを好ましく感じ、食物連鎖の利他的な面の象徴として、この実をタイトルにつけたのだろう。

1つ目のパートで描かれていたのは、《自分が生きるために〝他者の命を奪う〟自然現象》であり、賢治はこれをネガティブに描いている。これに対し、2つ目のパートでは、《他者に食われることよって〝他者の命を潤す〟自然現象》が描かれ、これを賢治は献身的・美徳と感じていたことがうかがえる。
前半の《他者の命を奪うこと》と後半の《他者の命を潤すこと》──相反する《害》と《益》・《利己(殺生)》と《利他(献身・恩恵)》(賢治にとっては《悪》と《善》)が自然界には混在している──《食物連鎖》をそんなふうにとらえていた宮沢賢治の世界観を描いたのが『やまなし』だと僕には感じられた。

クラムボンとは何か?/なぜ明確化を避けたのか?
さて、作品の初めに登場する「クラムボン」の謎に戻って……宮沢賢治はあきらかに意図的に正体を隠して書いていると思われ、「クラムボンとは何か?」ということが読者には気になるところだろう。その疑問は当然だが、僕には「賢治はなぜ〝あえて〟その正体を明かさなかったのか?」ということの方が気になった。
僕は「クラムボン」をプランクトンかボウフラのようなものではないかと想像したが……これが当っているかどうかはさておき、具体的な生物の名前(種名)を挙げると、読者はその生物のイメージを当てはめて「クラムボン」のシーンを読むことになる──プランクトンやボウフラなどであれば、一般の人の感覚では「虫けら同然(以下?)」の無価値な存在として認識される危険がある。賢治は魚に食われる被捕食者にも大切な命(価値)があることを描きたかったと思われ、被捕食者の生死について「とるにたらないこと」という既成イメージで読まれることを嫌ったのではないか。そこでピュアな《生命体》として読者にイメージさせるために既成概念を持たない「クラムボン」という呼称を用いたのではないかと想像する。
いずれにしても、物語のテーマ(意味)・構造から考えて「クラムボン」が魚の餌となる生物をイメージして設定されたことは間違いない。《魚がクラムボンを捕食する➡その魚がカワセミに捕食される》──食う・食われるの関係は固定した一方的なものではなく、捕食者が被捕食者にもなっている食物連鎖の構造を示すためには「クラムボン」が魚の被捕食者でなければならないからだ。魚がカワセミに食われるだけでは単なる《弱肉強食》にすぎず、《食物連鎖》を描いたことにはならない。

ただ、僕が想像したプランクトンやボウフラであった場合、発生場所は沼や池というイメージが強く、『やまなし』の舞台となる「小さな谷川」に、はたしてどんな種類がどれほど生息しているものなのか、僕にはよくわからない。
もしかすると、宮沢賢治も魚の被捕食者としてプランクトンやボウフラをイメージしてこの筋立てを考え、舞台として美しく描写できる谷川(〝青い幻灯〟にふさわしいロケーション)を選んだ……ものの、実際には谷川にはモデルとしたプランクトンやボウフラが少なく、代替具体種に適当な生物が思いつかなかったために「クラムボン」という架空の生命体を設定したのかもしれない。
こじつけ的解釈をくわえるなら、「クラムボン」というネーミングも、「プランクトン」「ボウフラ」からの造語だったとしても、さほどおかしくはない気がする。「クラムボン」は「プランクトン」と3音・「ボウフラ」と2音、重なっている。重なっている4音(「ラ」が重複しているので)を並べれて「クラボン」──「ラ」の後に「ボ」を発音するとき、一度口が閉じるので「m」が入ると発音しやすくなる→「クラムボン」……なんて可能性もゼロとは言いきれないだろう。

宮沢賢治の自然観に対する僕の個人的な見解
ところで──、文学的な価値とはまた次元の異なる話なのだが、僕は宮沢賢治の自然の理解について、共感できずにいる。『やまなし』では《食物連鎖》を描きながら、賢治は捕食をネガティブなイメージとしてとらえている。《自分が生きるために他者の命を奪うこと》を賢治は快く思っていない。否定的に捉えていたからこそ、賢治は菜食主義を実践していたのだろう。これが僕には《自然に関心を向けながら、自身の感情(感傷)を投影しているだけで、自然の本質を見ていない》ように感じられるのだ。そのことは、やはり宮沢賢治の作品『よだかの星』に対する感想を述べた記事でも書いている。

実は今回、『やまなし』という作品を僕が知るきっかけになったのは、その『よだかの星』に関する感想記事だった。ここで僕は「作者(賢治)が食物連鎖を否定的に捉えている」という見方を記した。これについて、「賢治も食物連鎖を理解していたと思う」「必ずしも否定的にとらえていない」という意見をいただき、その中に『やまなし』を例に挙げるものがあったのだ。
この点についての僕の考えを補足しておくと、「宮沢賢治も《食物連鎖》を〝知識としては知っていた〟だろう。だからそのシステムが存在することを《否定》はしてはいないが、《捕食》についてはネガティブなイメージでとらえていた」という理解で、(《否定》ではなく)《否定的》という表現を使った。

賢治は、おそらく《自分が生きるために他者の命を奪う(捕食する)》ことを《利己的》としてとらえて忌み、これを仏教で言う「苦」(ままならないこと)と考えていたのではないかと思う。これに対して《自分の身を棄てて他者の命を救済する》ことを《利他的(献身)》と捉え美徳と考えているようにも感じられる。おそらくこれも宗教的な概念が背景にあってのことだろう。

僕の考え方を述べれば──《食物連鎖》というのは自然現象であり、自然の摂理として「正しい」から存在している。これを否定的(ネガティブ)に感じるのは、その感じ方(理解)が「正しくない」からだ。
捕食者も被捕食者(捕食される側)も、《自分が生きるための生命活動》を遂行することが「正しい」。捕食者が捕食することも正しいし、捕食される側が捕食者を恐れたり捕食を逃れようとすることも正しい。両者がそれぞれ《自分が生きるための生命活動》を追求することで生物は進化し発展してきた。《食物連鎖》は生命の基本システムであり動力源でもある。
これを忌むのは《ヒト特有の偏向した感覚》であり、自然への無理解・洞察不足からくる不健全な感傷だと僕は考えている。そうした思いがあって『よだかの星』についての感想を記した。

『よだかの星』について、ここでもう少し書き加えるなら──、
タカがヨタカに「改名をしなければ殺す」と迫ったとき、ヨタカは「タカに殺される自分が、虫を捕食することに罪悪感を覚え、生きることを自ら放棄する」という選択をする。これは作者・賢治の「自己犠牲」や「ヒューマニズム」の考え方が反映したものだろう。しかし生命活動の視点に立てば──、
・タカがヨタカを殺すのは《自分が生きるための生命活動》ではない(誤)
・ヨタカが虫を捕食するのは《自分が生きるための生命活動》である(正)
ヨタカがとるべき正しい選択は、タカの殺生にあらがうことのはずだがそれをせず、一方、自らの捕食を放棄することは間違っているのにそれを選択し、生命活動を放棄する。生命活動の本質に反する賢治の「自己犠牲」や「ヒューマニズム」の考え方は、自然の営みに対する洞察の浅さから生まれた不健全なエセ善意という印象が僕にはある。生物が《自分が生きるための生命活動》を怠ることに美徳はない──というのが僕の考え方だ。

賢治の捕食に対するネガティブなイメージは、おそらく仏教の「殺生」という概念に由来するものだろう。この概念は「生きているうちから、やがて訪れる死をおそれる」という人間特有の感情から生まれたものだろうと僕は考えている。
僕も幼少の頃には、死に対して恐れを抱いたことがあった。「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」ということをずっと真剣考えていた。こんなことで思い惑うのは人間だけだろう。動物が捕食(死)から逃れようとすることは正しい。しかし自然現象である《死》を否定的にとらえることは〝理解に間違い〟がある──そう気づくまでにずいぶん時間がかかった。
この〝理解に間違い〟がどうして生まれるのか・なぜヒトだけが「やがて訪れる《死》をおそれるのか」については【昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?】の中で僕の見解を述べているので、ここでは触れない。
そんなわけで、《自然現象を否定的にとらえるのは、その解釈に間違いがあるからだ》と考えている僕には、自然現象であるところの《捕食》をネガティブに描いている宮沢賢治の自然に対する捉え方については違和感があるのである。



なじめなかった『よだかの星』
昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?
宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想

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