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H・ヘッセ『少年の日の思い出』感想

01少年の日の思い出
『少年の日の思い出』ヘルマン・ヘッセ:作/岡田朝雄:訳/草思社文庫
【収録作品】少年の日の思い出/ラテン語学校生/大旋風/美しきかな青春

ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』は中学国語の教科書で読んだ人も多いようだが、僕は習った記憶が無い……。僕がこの作品を知ったのは2017年。虫屋さんの日記に出てきたので興味を覚え、図書館で借りて読んでみたしだい。短いながら味わいのある作品で印象に残った。最近になって、また読み返してみたくなって、文庫版を入手。あたらめて感想などを記してみたい。

作品の概要
表題作『少年の日の思い出』は正味12ページほどの短い作品。その概要は──、
舞台は「私」(一人称の主人公)の書斎。そこには夕方の散歩から帰ってきた「私の客」がくつろいでいる。「私」の末息子が客に挨拶をしていったことから、子供の話題となり、「私」は子供ができてから、自分の子供時代の記憶がよみがえり、当時趣味にしていたチョウやガの採集を再開したという話を始める。その標本コレクションを客に披露するのだが、最初は興味深げに標本を見ていた客が突然不快な反応を示して鑑賞を拒絶。その後、客は非礼をわびると、自分も子供の頃は熱烈なコレクターであったことを打ち明け、少年時代のトラウマを話始める。
そこから物語の(語り手の)視点は「私の客」に移り、「ぼく」という一人称で展開していく。
「ぼく」は8〜9歳の頃、当時流行っていた昆虫採集を始めるが、しだいに標本コレクションにハマっていき、10歳の頃にはかなり夢中になっていた。あるとき「ぼく」は、そのあたりでは珍しいコムラサキ(蝶)を採集する。
隣の家の4階にはエーミールという鼻持ちならない優等生が住んでいて、コレクションとしてはたいしたことがないものの、美しい標本をつくる技術を持つことで知られていた。
コムラサキを採った「ぼく」は、普段妬んでいたエーミールに自慢するチャンスとばかりに、彼にコムラサキの標本を披露する。エーミールは珍しい種類であることを認めた上で、標本のできの悪さや、脚が欠けているなどの欠陥を指摘する。得意になって披露した珍品にケチがついたことで「ぼく」の自尊心はしおれてしまう。
その2年後、エーミールが1頭のクジャクヤママユ(蛾)を蛹から羽化させたという噂が広まった。クジャクヤママユは「ぼく」が憧れる最高峰の存在で、そのニュースを聞きつけた「ぼく」は興奮してエーミールの部屋を訪ねる。ドアは施錠されておらず彼は不在だった。「ぼく」はクジャクヤママユ見たさに闖入し、展翅されているクジャクヤママユを見つける。その特徴的な眼状紋は展翅テープで覆われていたのだが、確かめてみたいという誘惑に負けて「ぼく」は展翅テープをはずしてしまう。憧れのクジャクヤママユを初めて目の当たりにして、「ぼく」は出来心を起こす──標本を手にしたまま部屋を出てしまったのだ。階段を降りるさいに下から上がって来る足音が聞こえ、「ぼく」は盗みをおかした罪悪感に目覚め、発覚を怖れて手にもっていた標本をポケットに隠す。階段を上がってきたメイドとすれ違ったあと、「ぼく」は自責と羞恥にさいなまれ、誰にも知られる前にクジャクヤママユを戻しておこうと考え直す。しかし……エーミールの部屋に戻ってポケットから取り出したクジャクヤママユは、ひどく破損していた。自分のしでかした取り返しのつかない浅はかな行為に「ぼく」は激しく後悔する。「ぼく」は壊れた標本を残して立ち去った。
事態を打ち明けた母親に説得されて「ぼく」はエーミールのところへ謝罪に行く。彼は壊れた標本の修復を試みていたが無理だった。「ぼく」はエーミールの大切な標本を壊したのは自分だと告白する。被害者のエーミールは泣き叫んだり猛り狂うこともなく、冷たく「ぼく」に軽蔑のまなざしを向ける。そんな状況にあってもとりみだすことなく優越的な姿勢を保って「ぼく」をさげすむエーミールに、暴力衝動を覚えるほどの怒りと屈辱がこみ上げ、《そのとき、ぼくは一度起こってしまったことは二度ともと通りにすることはできないのだと、はじめて悟った》のだった。いたたまれない気持ちで帰宅した夜、「ぼく」は宝物にしていたコレクションを自らの手で押しつぶし粉みじんにしてしまう。

衝撃的なラスト/なぜ「ぼく」は大切な宝物を破壊したのか
物語は「ぼく」がそれまで夢中になってに集めてきた宝物──標本を自らの手で破壊してしまうという衝撃的なシーンで幕を閉じる。
採集&コレクションは「ぼく」にとってこの上ない楽しみの世界だったのに……なぜかと言えば、もう楽しみとしてこの趣味にひたることができなくなってしまったからだろう。これからはコレクションを見るたびに、醜悪な記憶が呼び覚まされる……それまで集めてきた至福の宝物が心の傷を深く抉るトラウマ・アイテムになってしまったからだ。癒しの世界が心の傷をえぐるというジレンマ──これが強い余韻となって残る。

『少年の日の思い出』の魅力
短い作品だし、内容もシンプルなので、ストーリーは読み返すまでもなく頭の中に入っている。しかし、それでも読み返してみたくなるのは、自らの手で宝物を葬ってしまった「ぼく」の心情とはどんなものだったのだろう──と再び物語の中に身を置いて想像(追体験)してみたくなるからだろう。
「ぼく」は美しい蝶や蛾を目にしたとき《子供だけが感じることのできるあのなんとも表現のしようがない、むさぼるような恍惚状態におそわれる》と語り、昆虫採集の情熱について《繊細なよろこびと、荒々しい欲望の入り混じった気持ち》と表現している。
ヘッセは少年の心理を的確に表現しているが、それはいったいどんな気持ちなのか──複雑な心理を行間からもすくい上げたくなって、再び読んでみたくなる。ストーリーは分っているのに再読したくなるのには、そんな魅力がこの作品にはあるからだろう。
世間的にはどこにでもありそうな小さな出来事だが、少年にとってはとても大きく重い黒歴史──日常の片隅で展開されていた少年の密やかドラマを〝追憶〟の形ですくいあげた繊細な作品という印象がある。

構成について思うこと/疑問
『少年の日の思い出』を初めて読んだとき、「この作品は、中学生の教材としては(読むのに)早いのではないか……」と感じた。「ぼく」の心理や行動は、中学生なら共感できるところもあるだろうし、描かれている心情を読み解くという教材としての設問要素はふんだんに含まれた作品ではあるけれど、この作品の〝味わい〟をしみじみと鑑賞できるのは、むしろ大人の世代だろうという気がしたからだ。邦題が示しているように、『少年の日の思い出』→大人になって振り返る〝追憶〟であることに、この作品の〝味わい〟がある。もちろん中学生の時に読んで印象に残ったという人も多いだろうが、そういう人も大人になって読み返すと、中学生時代とは、また違った感慨を抱くのではないだろうか。
作者も、おそらくそういう意図で描いている。もし、読者対象が子供であったのなら、冒頭の「私」が主人公のシーンはいらない。「ぼく」のパートだけでエピソート(物語)としては成立する。それをわざわざ、子供を持つ身となった親の〝現在〟から回想する二重構造の形をとったのは、少年時代の未成熟・未分化な情動を回顧する〝追憶〟に味わいがあると感じていたからだろう。

ところで、この作品で疑問に感じたことがある。読み進む上での障害になるほどではないのだが、ひっかかる点が2箇所があった。
先に記した二重構造とも関係があるのだが……この作品には冒頭の「私」のパートと、メインのエピソードを描いた「ぼく」のパートで、2人の一人称(主人公)が存在する。〝追憶〟というテーマや作品の構造から判断すれば、この作品の主人公は「私」だと僕は考えているが、物語のメインパートの「ぼく」が主人公だと捉える人も多いだろう。どちらが本来の主人公か──ということはさておき、どうして「私」と「ぼく」の2つの一人称が混在するのか──というのが疑問の1つ。この作品は「私」の視点で始まりながら、「ぼく」の視点で終わっており、構成的には安定が悪い印象もなきにしもあらず。
「私」の視点で描き始めたのであれば、「ぼく」のパートは三人称で処理し、最後にもう一度「私」の視点に戻って幕を閉じた方が落ち着きが良い。そのさいは「私の客」が吐露した黒歴史に対して「私」が何か気のきいた新たな視座でまとめる形が望ましい。
ヘッセとしては、最も衝撃的なシーンで幕を閉じるのが効果的と考えて「ぼく」のパートをラストシーンに据えたのかもしれない。であるなら、冒頭のシーンも、「私」ではなく、知人宅を訪問した客の側の「ぼく」の視点で描き、一人称を統一できたはずだ。
いずれにしても一人称は統一できたはずで、その方が自然なのに、どうしてそうしなかったのかがよくわからない。

気になったもう1点は、重要な役どころの「エーミール」の呼称だ。作中でエーミールが最初に登場した時──「ぼく」がコムラサキを見せる場面では、名前は明かされず「少年」とだけ記されている。それが2年後のクジャクヤママユのエピソードでは「エーミール」と、名前を明記している。名前を出すのならコムラサキのエピソードのときから「エーミール」と表記しておくべきだったし、それが自然だ。書いている途中で名前を決めたのだとしても、推敲のさいに「エーミール」で統一できたはずだ。これもなぜ統一しなかったのか腑に落ちない。

この2点が、どうして統一されていないのか、ちょっと不思議に感じている。
もしかすると、ヘッセは思いつくままに展開を書きとめていって、それがそのまま調整されずに残されてしまったのだろうか……?
たとえば、当初《「私」を訪ねてきた客に標本を披露したところ、謎めいた反応を示す→客が吐露した意外な〝少年の日の思い出〟とは……》という発想プロセスで書き進め、客の語るパートでは一人称がふさわしいと感じてメインパートも一人称で書き進めた……とか?
登場する〝模範生の友人〟については当初名前を付けずに「少年」として書き進めたが、クジャクヤママユのエピソードを綴る段階で名前はあった方が良いと考え、そこで「エーミール」という名前をつけて書き進めた……そうして書き上げた原稿を調整する間もなく(?)発表した?──そんな可能性も想像してみたが、その後推敲する機会はあったはずだ(文末の「訳者あとがき」によると『少年の日の思い出』は改稿版で、20年前に初稿が発表されているという)。
案外(?)ヘッセは、僕がひっかかった未整理の部分を問題とは考えていなかったのかもしれない。
読者として読み進むには、さして障害にはならなかったのだから、不統一ののままでもかまわないと判断したのかもしれないが……作法的には(?)整理(調整)して不統一を解消しておけば、作品としてより美しくスマートな形になっただろうに……などと思ってしまう。



一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出
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名作童話『びりっかすの子ねこ』感想

01びりっかすの子ねこ
『びりっかすの子ねこ』ディヤング・作/マクマラン・絵/中村妙子・訳/偕成社

ネコを素材にした作品は多い。好きなタイトルは色々思い浮かぶが、オススメの1冊をあげるとすれば──僕なら『びりっかすの子ねこ』(ディヤング・作/中村妙子・訳)だろう。納屋のすみで産まれ、親や兄弟とはぐれてしまった、ちっぽけな〝びりっかすの子ねこ〟が、色々な目にあいながら、とうとう〝自分の居場所〟をみつけるまでのハラハラ・ドキドキ&心温まる名作童話。読み終えた後には〝しあわせ〟とは何かを改めて考えてみたくなる──そんな1冊だ。

この作品の魅力を語るには、物語の概要を紹介する必要がある。以下、いわゆるネタバレとなるあらすじを記すので、そのつもりで──。

『びりっかすの子ねこ』のあらすじ
びりっかすの子ねこが産まれたのは、犬屋の納屋の片隅だった。納屋には犬が入ったケージがたくさん並び、エサも貯蔵されている。このエサをネズミから守る目的で納屋にはネコも1匹飼われていて──このネコが7匹の仔猫を出産したのだ。びりっかすの子ねこは6匹の兄弟たちが産まれたあと、おまけみたいに産まれた末っ子だった。
この末っ子は6匹の兄弟たちとのおちち争奪戦ではじき出され、いつもお腹をすかせていた。6匹の兄弟たちがかたまって温まっているときも、押し出されて寒い思いをしていた。
ある日、母猫は6匹の子どもたちをくわえて、順々に下におろした。吠える犬たちにならすために。しかし、母猫は末っ子を迎えには戻らなかった。びりっかすの子ねこは、痩せっぽちで足もよろよろしていたので、連れ出すのが無理だったのだ。
それでも、びりっかすの子ねこは6匹の兄弟たちのあとを追って、下におりようとする。そして、目が見えず耳もきこえなくなった寂しい老犬(犬屋が飼っていた犬)の上に落ちてしまう。
そのとき老犬はミルクを飲んでいた。びりっかすの子ねこが落ちてきたひょうしに、あごがミルクにつかり、驚いてミルク皿をひっくり返してしまう。何事かと老犬はあごを突き出し──そのミルクで濡れたあごがびりっかすの子ねこに触れた。びりっかすの子ねこは思いがけないミルクを懸命に舐め始める。老犬にはそれがここちよかった。眠くなってあごが下がってくると、びりっかすの子ねこは温かく感じ、老犬のあごの下で眠ってしまう。
ミルクと温もりをもたらした老犬をびりっかすの子ねこは慕い、老犬はびりっかすの子ねこと出逢ってさびしくなくなった。

老犬の飼い主(犬屋)は日に2回、あわただしくミルクを与えに来るのだが、そのとき老犬は寝ているので、そのあごの下に小さな猫がかくれていることに気がつかない。天気のよいある日、飼い主は日光浴をさせるために老犬のケージを納屋から出す。
目覚めて老犬のあごのしたから這い出したびりっかすの子ねこは、初めて見る明るく広い世界にビックリ。それまで納屋の中が全世界だった子ねこにとっては、見るもの聞こえるもの全てが新鮮で驚きに満ちていた。虫を追ったり枯れ草とじゃれたり、遊んでいるうちに日が暮れてしまう。
遊びつかれ、お腹をすかしたびりっかすの子ねこが戻ったとき、老犬のケージはすでに納屋にしまわれ、戸口は閉められていた。
帰る場所を失ったびりっかすの子ねこは、とほうにくれて鳴き続ける。しまいには声がかれてしまうが、閉ざされた戸は開かない。ひとりとり残され、あたりは暗くなっていくばかり。
納屋の並びには7軒の家が連なっていて、びりっかすの子ねこは、この1軒1軒を訪ね歩く。色々な犬や猫、人間と遭遇するが、どこにも身の置き場かはみつからない……そして、一晩の冒険の最後にたどり着いた7軒目の家は、犬屋の住居だった。その日は犬屋の誕生日で、そのタイミングで現われた仔猫を、犬屋はお祝いに来てくれたようだと歓迎。びりっかすの子ねこにもおくりものをと考える。そして彼が運んで来たケージに入っていたのは、あの目が見えない老犬だった。突然の再会をはたしたびりっかすの子ねこは老犬のあごの下にもぐり込む。ちっぽけな仔猫と老犬のうちとけたようすに何も知らなかった犬屋はびっくり。びりっかすの子ねこは、老犬とここで暮らすことになる。やっと自分の居場所をみつけ、自分が必要とする・そして自分を必要とする者と暮らすことがかなったのだ。それはびりっかすの子ねこのみならず、老犬、犬屋、それぞれにとってのしあわせでもあった。

『びりっかすの子ねこ』の魅力
びりっかすの子ねこの幼気さや、ささやかな幸せを手に入れることの尊さが胸を打つ──あらすじだけで、僕が感想を差し挟まなくても、本作の魅力・感動といったものがあるていど想像できるだろう。それだけ筋立がしっかりしているということだ。ハッピーエンドの意外性も、物語をたくさん読み込んだ読者であれば予想できるかもしれないが、ピュアな子どもの読者には新鮮に感じられるだろう。いずれにしても読者が望む結末なので、落ち着きのよい読後感が残るはずだ。

あらすじだけでも魅力が伝わる作品だが、物語を展開する文章が的確で魅力的だ。気取らない、わかりやすく簡潔な文章で、猫や犬のしぐさをとても自然に生き生きと描いている。実際に猫や犬を飼ったことがある人には、描かれた光景がリアルに目に浮かぶことだろう。このリアリティが、幼気なびりっかすの子ねこへの感情移入・共感を生み、ドラマへの没入感を深める。
ストーリーのおもしろさだけでなく、〝登場する動物たちの姿が目に浮かぶように生き生きと描かれている〟ことが本作の魅力だろう。

『びりっかすの子ねこ』は童話(児童文学)だが、〝子ども向け〟というより〝子どもから楽しめる(子どもにも読むことができる)小説〟といえる。訳者の中村妙子さんは巻末の【作者と作品について】の最後に、次のように記している。


なんべんもくりかえしよんで、おとなになっても、おもいだしてはひらいてみたくなる、そんな『びりっかすの子ねこ』を、だいじにしてくださいね。

大人になってから読み返しても感動できる──大人の鑑賞に堪える名作童話だと僕も思う。
古い作品(初版が1966年/2訂が1985年:2019年に23刷が出ている)だが、感動は色褪せない。今後も絶版になることなく、版を重ね、読み継がれていってほしい作品の1つだ。


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舟崎靖子『魔法の時間です』感想

01魔法の時間です
図書館で借りた『魔法の時間です』(舟崎靖子・作/上野紀子・絵)ポプラ文庫版。『魔法の時間です』と『「メリーさんのひつじ」がきこえる』の2作品が収録されている。

先日の記事で間接的に触れた『魔法の時間です』という児童文学。僕は未読だったのだが、どんな内容だったのか気になって検索してみたところ、近くの図書館に蔵書があることがわかり、借りて読んでみた。おもしろい作品だったので、ネタバレを含む感想を少し記してみたい。
一言で言うなら〝こどものノスタルジーをくすぐるファンタジー童話〟だろうか。ノスタルジーというと、ある程度歳を重ねた大人のものというイメージがあるが、小学生(主人公)にもその感情はあって子どもたち(読者)と共有しうるものであることを示した作品だと感じた。
主人公は小学4年生のマツモトミチコという女の子。物語は4つのエピソードで構成されている。以下、順を追って記していこう。

①イケノヤムシとどくのある赤い毛虫どちらがつよい
ミチコのクラスには〝わすれっぽいくせに《忘れもの係》をしているイケノヤくん〟という男子がいて、ミチコはいつも意地悪をされる。腹を立てるも乱暴者のイケノヤくんには太刀打ちできないので、悔しい思いをし続けていた。あるとき、イケノヤくんに凄まれた瞬間──その言葉をきっかけに、以前にも同じようなことがあったという記憶が呼び覚まされる。3歳のときに遊んでいたネコに凄まれて、ミチコは〝魔法を使って〟ネコをカバンに変え、カバンにしたネコを元のネコに戻したことがあったのだ。当時の記憶と重なる状況下で、ミチコはとっさに〝魔法を使って〟イケノヤくんをイモムシ(教室で飼われていた教材)に変えてしまう──ことができた! そして自らも毛虫に変身して、イモムシになったイケノヤくんと対峙。ふだんかなわなかったイケノヤくんを屈服させて、もう乱暴や嫌がらせをしないと約束させる。第1話の最後は次のような文章で結ばれている。


 わたしは、あの〝カバン(ネコのこと)〟をカバンにかえたむかしのおそろしいぐらいすてきなできごとを思いだしたことと、力でかなわなかったイケノヤくんを、あやまらせたことがうれしくて、うきうきとしていた。
 このことを、だれかにしゃべりたくてしかたなかったけど、しゃべってしまうと、せっかく思いだしたものを、またわすれてしまいそうで、だまっていた。


小さかった時に魔法が使えたことを思いだし、その能力を今でも使えるという発見をしたミチコ。〝忘れていたすてきな秘密の扉が再び開く〟──そんな不思議でワクワクする導入のエピソードとなっている。

②やたらにとびたがるモンシロチョウのサッチャンと毛のぬけたハブラシのようなネコ
1時間目は理科のテスト(チョウについてのテスト/第1話で教室で飼われていたイモムシが緩やかな伏線になっている)。その直前、ミチコはトイレで泣きそうになっているクラスメイトのサッチャンをみつける。家から飼い猫がついてきてしまい、家まで連れ帰る時間も無く、学校が終わるまで隠しておくこともできそうにないので途方に暮れていたのだ。ミチコは自分の身に置き換えて考え、愛犬シロが家から着いてきて帰れなくなってしまったら……と想像して、サッチャンを助けてやりたくなる。そこでミチコはサッチャンにはネコを家においてくるように言って送り出すと、そこにいたモンシロチョウを捕まえて、魔法でサッチャンに変身させる。この〝モンシロチョウのサッチャン〟を授業には出席させようという〝魔法を使った替え玉作戦〟である。
ミチコは〝モンシロチョウのサッチャン〟と教室に戻り、一緒にテストを受けるが、替え玉であることがバレやしないかと気が気ではない。〝モンシロチョウのサッチャン〟はミチコの心配をよそに、あっさりと一番でテストをしあげるが、回答を提出したあと、チョウの癖が出て(?)宙を飛び始めてしまい、先生やクラスメイトたちを驚かせる。ミチコは大あわてで〝モンシロチョウのサッチャン〟をつかまえ保健室に連れて行く。そしてサッチャンの家へ電話をかけ、本物のサッチャンに誰にも見つからないように保健室に来るように告げる。本物のサッチャンが戻ってきたところで〝モンシロチョウのサッチャン〟をモンシロチョウに戻せば、替え玉作戦は終了できる。保健室にはイトウ先生が詰めていたのだが、奥のベッドで寝ているはずのサッチャンが保健室のドアから入ってきたので驚く。寝ているはずのサッチャンは消えていて、そのかわりにモンシロチョウが飛んで行ったのだった。
第1話では漠然と魔法の力は秘密にしておこうと考えていたミチコだったが、第2話では、魔法による替え玉作戦がバレてはいけないという状況のもと《秘密》にする必然性が増し、そのぶん緊迫感もスケールアップ。アクシデントをごまかしながら、ひとり秘密を守ろうとするミチコのハラハラ・ドキドキぶりがスリリングに描かれている。

③石どうろうがカエルになりシャクトリムシのわたしがウルトラCをやる
登校前に愛犬シロ(第2話で、ちょっと出てきた)が行方不明になっていることが発覚。前回は、魔法で変身させた〝モンシロチョウのサッチャン〟をヒヤヒヤしながら見守る立場のミチコだったが、第3話では自らがスズメに変身して事件解決のために飛び回る(より積極的な内容となっている)。スズメになって学校を離れている間、学校には替え玉として《魔法でミチコに変身させたシャクトリムシ》を残してくる。スズメとなって空から捜索していたミチコは、イケノヤくんの家の庭で木につながれていたシロを発見。ミチコはシロを解放し、仕返しに(イケノヤくんを驚かすため)石灯籠を魔法でカエルに変えてつないでおく。シロが自宅へ向かうのを確認して学校に戻ると、ちょうど〝シャクトリムシのミチコ〟が跳び箱を跳ぼうとしているところだった。シャクトリムシではどうせ醜態をさらすだろうと落胆したミチコだったが、意外にも〝シャクトリムシのミチコ〟はウルトラCを決めて先生やクラスメイトのド肝を抜く。
魔法によってシロの問題は解決することができたが、予期せぬところでミチコは話題の人になってしまった。しかし、ミチコが注目されていたのは次の体育の授業まで。本物のミチコは跳び箱がうまく跳べず、忘れ物係のイケノヤくんに「マツモトミチコは、ウルトラCをわすれました。本日のミチコのわすれもの、ひとーつ!!」とからかわれてしまう。

④ひきだしつきのカシの木ともも色のクジラ
先生に言われて教卓の重い引き出しを開けようとしたミチコは、以前にもこんな引き出しを開けたことがあったように感じる。しかし、それが何だったのかが、なかなか思い出せない。視聴覚室で「木の一生」というテレビを見ていたとき、映像に映し出されたカシの木の幹に一瞬〝ひきだし〟が見えたような気がする──と、次の瞬間、思い出せずにいた〝ひきだし〟の記憶が蘇ってきた。引き出しのあるカシの木──それは魔法を使えていた頃の幼かったミチコがよく行く場所だった。思い出したとたん、ミチコを乗せたイスは浮き上がり視聴覚室のカーテンをすり抜けて空を飛んでいた。かつて引き出しのあるカシの木へ行くときは、こうして空を飛んで行ったのだ。カシの木の引き出しにはに大切なものがしまってある。その引き出しはひとつではなく、たくさんあって、それぞれにクラスメイトの名前が記されていて──イケノヤくんの引き出しもあった。ここへ空を飛んでやってくるのはミチコだけでなかった。みんながミチコと同じように空を飛んで来ていたのだ。魔法を使えたのはミチコだけの秘密ではなかった。幼い頃には誰もが魔法が使えていたのだ──全てを思い出したミチコに懐かしい思いが押し寄せる。イケノヤくんの引き出しには未来のことまでわかってしまう赤い帽子が入っていて、昔、彼に遠い先のことを尋ねたら「ここで、みんなと遊んでらあ」と答えたのだった。ミチコの引き出しを開けると本物そっくりに描けるクレヨンとスケッチブックが入っていた。ミチコが隣の席のユリちゃんを描くと、絵の中のユリちゃんが「視聴覚室のテレビの時間が終わったよ」と教えてくれる。するとミチコは視聴覚室のユリちゃんの隣の席に戻っていた。
ミチコはみんなが忘れてしまっているカシの木のことや魔法が使えたことを思い出してもらうために、魔法を披露しようとする。が、どうしたことか魔法は全然かからない。
視聴覚室の黒いカーテンが開けられていくと、晴れた空に雲がひとつ浮かんでいる──ミチコにはそれが桃色のクジラに見えた。昔、ミチコがネコをカバンに変えたように、どこかで誰かが雲を桃色のクジラに変えたのだと思った。
ミチコはお腹が痛くなりトイレに行き……保健室の先生に「おめでとう。あなたも、おとなになったのよ」と告げられる。

着想は《ミッシング・タイム》への興味か?
僕は昨今、物忘れが増えて「子どもの頃は記憶力もしっかりしていたのに」──なんてよく思うのだが、考えてみれば幼い頃の記憶というのは昔から残っていなかった。これは10歳そこそこの子ども(ミチコの年頃)にしてみれば、〝たった数年前のことなのに記憶が無い〟ことは不思議なことだろう。そして、この不思議なことを誰もが不思議とは思っていないことが、また不思議である。その〝誰も覚えていない不可思議な《ミッシング・タイム(?)》〟への興味と回顧が、『魔法の時間です』の着想に繋がったのではないか。
《思い出すことができない謎めいた時間》なのだから、その中で《謎めいた不可思議な出来事》が起こっていたとしても不思議ではない!?──そんな発想から《幼い頃には魔法が使えていた》という設定を創作したのではなかろうか?
ふとしたきっかけで《幼い頃には魔法が使えていた》ことを思い出したミチコは再び魔法を使えるようになる。ミチコは当初、この素敵な秘密を自分ひとりのものとして心にしまっておくが、あるとき(第4話で)、それが自分ひとりの特殊なものではなく、他の子もみんなが持っていた普通の能力であることを思い出す。「《悟り》がひらけた」かのような「《引き出しのあるカシの木》の記憶の復活」。《ミッシング・タイム(?)》の全貌を鮮明に思い出したところで、魔法が無効化する──邂逅と喪失の展開が劇的だ。ショックではあるが、同時に、そういうものかもしれない……という納得感が漂う。
魔法が使えなくなるのと時を同じくしてミチコが初潮を迎えるラストは、大人へのシフトにともなう喪失を示唆している。
《幼い頃には誰もが魔法を使えていた》という発見。その《自分たちがもう帰ることができなくなってしまった世界》は、今もどこかにあって、雲を桃色のクジラに変えている子が遊んでいる──そんな感慨が、子どものノスタルジーとして巧みに描かれているように感じた。

読み終えた後に、『さよなら魔法の時間』というタイトルが頭に浮かんだ。僕なら、そんなタイトルがイメージに合っているように感じられた。しかしよく考えてみれば「さよなら」をつけてしまうと魔法が使えなくなってしまうという重要な結末が読者に予想できてしまう。それではマズいので『魔法の時間です』としたのかなぁ……などと想像してみたが、もちろん実際のところは作者に聞いてみないとわからない。

《魔法の時間》は《ねこの森》!?
『魔法の時間です』を読んで、この懐かしく切ない雰囲気をどう説明すれば(本編を読んでいない人に)伝わるだろうかと考えていた時、ふと思い浮かんだのが、谷山浩子・作詞作曲『ねこの森には帰れない』という歌。「この曲と雰囲気が似ているところがある」といえば、知ってる人にはわかりやすいかもしれない。

《魔法の時間》は《クチブトゾウムシの牙》!?
余談ながら……《ほんの一時期、期間限定で備わっていたふしぎなアイテム》──という意味では《魔法の(使える)時間》は《クチブトゾウムシの牙》とも似ている気がした。これはごくごく個人的な感想。
ゾウムシは長い口吻がゾウの鼻を連想させることからその名がつけられたのだろうが、中には短吻類と呼ばれる口吻が短いものも存在する。クチブトゾウムシの仲間は羽化して間もない新成虫には牙のような突起があって、ほどなく脱落してしまう。僕がこのことを知ったのは虫見を初めてだいぶたった頃だった。《ゾウムシの知られざる(?)牙(状突起)》は、なんだか不思議な話のように思われ、《魔法の時間》とつながるものがある……ような気がしてしまった。
02クチブト象虫
クチブトゾウムシの通常の容姿⬆と、ずいぶん印象が異なる牙付き個体⬇

03牙象虫A
04牙象虫B
牙付きクチブトゾウムシ&ヨツボシチビヒラタカミキリより


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《大好き》が一転《不愉快》に!?@読書

子ども時代「大好き」だった作品が一転「酷く不愉快」に!?
ユニークな読書感想系ブログ【ねえねえ フォーマット】の『魔法の時間です』という記事に「へえ!?」と思うことが記されていた。
《子供の頃に何度も何度も読み返した大好きな本を再読したら、酷く不愉快な内容で絶望した》というもの。僕はその作品を読んでいないので想像するのが難しいが、「そういうことがあるのか……」と、ちょっと不思議に感じた。
「子どもの時は平気でさわれた虫が、大人になったらダメになった」という話は時々聞くが、それと似たような現象なのだろうか?
僕には子どもの頃に好きだった作品を嫌悪したり、大人になって虫が嫌いになったという経験はないので、そういった感覚がピンとこない。

僕の場合、子どもの頃に好きだったものは、大人になってもおおむね好きだ。子どもの頃には漠然と抱いていた好感が、大人になってみるとどういうものだったのか理解ができるようになるという、意識化(理解度)の変化はあるものの、好き嫌いの感覚自体はあまり変わっていない気がする。だから、子どもの頃に読んだ作品を読み返すとおもしろさへの理解が進み、納得感が深まる。

童話で言えば小学低中学年のときに読んで感動した『てのひら島はどこにある』は今読んでも感動できる──このことは【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出】で詳しく述べている。その後、復刊版を入手し【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版】にも記している。
また逆に、子どもときに読んで抵抗があった浜田廣介の童話などは、大人になって読み返しても同じ印象で、なぜ受け入れがたかったのか改めて意識化できたということもあった(こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】)。
01佐藤暁&浜田廣介
他にも、子ども時分に漠然と抱いていた抵抗感が、大人になって読み返して「こういうことだったんだな」と意識化できたものでは、ファーブル昆虫記などもある(ファーブル昆虫記の違和感について)。

映像作品で言えば、子どもの頃に見てワクワクした映画『タイム・マシン 80万年後の世界へ』や海外ドラマ『タイム・トンネル』は、大人になって視聴し直してみてもおもしろく、同じ感覚で鑑賞できた。
02タイムマシン&トンネル
連続ドラマだった『タイム・トンネル』については、設定が面白かったので毎回見ていたが、今ひとつ盛り上がらなかったエピソードや、ヘンだなと思う箇所などもあって、子どもの頃に感じた同じことを大人になって鑑賞した時にも感じた。「基本的には、子どものに感じたことは、大人になっても変わらないものだなぁ」と思ったものである。
だから、(人によっては?)同じ作品の評価が子どものときと大人になってからで真逆になってしまうという現象が、にわかには想像できなかった。

問題のブログ記事を読み進んで行くと──、
《俺には子供ができたと分かった瞬間にガラリと人が変わった覚えがあるから、仮に十数年前と今とで全く同じ物への評価が正反対だったとしても我ながら不思議はないが》という記述があった。
〝子どもができたことで童話を評価する基準が変わった〟ということであれば、なんとなくあり得そうな気がする。そう考えると思い当たることがないでもない……。
僕が同人誌活動を始めた頃、メンバーは若い人が多く、大半は創作を〝趣味〟としてとらえ〝読者である自分が楽しめる作品〟を目指していた。その後、児童文芸の研究会へ出席するようになって、童話を真剣に〝勉強〟している人たちといっしょに作品合評会をするようになって、同人誌時代とのギャップに戸惑ったのを覚えている。児童文学を真剣に勉強している人には、子どもがいる人も多く〝子どもに与えるにふさわしい作品〟を目指している人が多かっように思う。僕が感じていた同人誌時代とのギャップは《読む側(子ども)》ではなく《与える側(大人もしくは親)》の視点に立った創作姿勢の違いに由来するものだろうと解釈していた。
《(読者感覚で)楽しむための物語》と《(与える立場からから)子どものためになる物語》では、作品に求めるもの──評価基準が変わってくるのも無理からぬところだろう。

塾の講師をしながら子どもたちが抱えている問題に向き合い、実在の子どもたちをモデルに児童文学を書いている人がいたが、彼は僕が書くようなファンタジー作品を認めていないようなところがあった。
「ファンタジーというのは現実逃避だ。実際には起こりえない物語に何の意味があるのか。そんなものを読んだところで現実を生きている子どもたちには何の足しにもならない」というようなことを言われて驚いたこともあった。
当時は、児童文学に道徳教育的意義付けを求め、それが作品の価値であるかのように考えている人たちが少なからず存在した。塾の講師も〝読んだ子どもたちの実になること〟が児童文芸には大事だと考えていたのだろう。

僕はこうした考え方には疑問と反発を感じていた。文芸作品に限って言えば、《読書》は《遊びの延長》にあるべきものだというのが僕の位置づけだった。文芸作品に教育的意義付けを求めるのはナンセンス。プロパガンダを目的とする創作は、むしろ〝動機が不純〟という感覚がある(面白さを演出するためにプロパガンダを利用することは可)。
真面目な(?)塾の講師には否定されたが、ファンタジーやSFの中では「現実の《遊び》の中では決して体験できないようなおもしろい《架空の体験》」ができる。そこに作品としての存在価値があると僕は考えていた。

物語は心のシミュレーション
僕の創作観のようなものは、少年文芸作家クラブ(現:創作集団プロミネンス)の会報3号(1985・春)にも書いている。その『物語は心のシミュレーション』と題したエッセイの一部を記すと──、


僕自身は「遊びの延長に位置するもの」を書きたいと思い続けていた。「遊びであって、しかも現実生活では補うことのできない種類の体験」──それが創作物語(フィクション)の醍醐味であり、使命であり、本質であり、存在理由だと考えてきた。
 しかし「遊び」などと言うと、どうも勉強や仕事などに比べて、一段低くイメージされることが多い気がする。
「勉強」ならば、やれば「知識」という代償があり、「仕事」なら「報酬」というふうに、みかえりがハッキリしている。それに対し「遊び」というやつは、一生懸命エネルギーを費やすかわりに「何のために」という目的がハッキリしていないことが多い。「遊び」が低く見られるのは、このためだろう。
 が、しかし、言ってみれば「勉強」や「仕事」のように引き換えるものがあるからエネルギーを費やすというのは当たり前の話で、それ以上の何でもない。
 一方、代償の意識がないにもかかわらず、人の心がひかれるのは「遊び」というものがそれだけ人間の本質に深くかかわった部分から生まれてくるためだと思う。
「遊び」は心が全体性を保ちながら発達していく上での、現実を補償する、重要な役割をはたしているはずである。
 健康な心の発達は、現実世界のみで行われるわけではない、むしろ現実内では失敗やすれちがいなど、さまざまな形で、自由にのびようとする心をおさえてしまうことも多い。
 現実におさえられ、燃焼しきれなかったエネルギーを、燃焼させ、きれいに昇華できる場があってこそ、はじめて人の精神は健康な状態を保っていられるわけである。
 子供の持つはちきれんばかりのエネルギーを、ひきだし発揮できる世界の創造。
 精神浄化の<場>の提供。
「遊び」としての物語の意味は大きい。
 子供たちは日々、現実の生活の中でさまざまな問題に直面し、考えたり悩んだりしている。その状況が深刻であればあるほど、それを補償する世界の重要性もまた大きいはずである。
 ともすると、現実サイドばかりに比重がかかりがちになるが、そうした状況の中でこそ、現実でまかなえなかった面や、現実の中では埋もれがちな部分を引き出し、活性化するための、心のシミュレーションが必要なのだと思う。


今読み返すと、じゃっかん舌足らずな感じもするが、考え方としては当時も今も大きく変わってはいない。
児童文学を真剣に勉強している人たちの中には、親の立場になって《子どもが読む(子どもに読ませる)意義(教育的意味付け)》にとらわれて作品を考えていた人が多かった。そして親になったことで、子どもの時に感じていた作品観が一変することがあるのであれば……当時僕が感じていたギャップ(違和感)が生じるのも致し方ないことだったのかもしれない。

冒頭のブログ記事に記されていた《子供の頃に何度も何度も読み返した大好きな本を再読したら、酷く不愉快な内容で絶望した》──というケースが、僕が想像したギャップにあてはまるかどうかは判らない。取り上げられていた『魔法の時間です』を僕は読んでいないので、よくわからないというのが本当のところだが、《子どもの感性と大人の感性に乖離が生じる》こともある──ということから、思い浮かんだことをつれづれに記してみたしだい。


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佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版

てのひら島表紙新旧
※佐藤さとる・作/池田仙三郎・絵『てのひら島はどこにある』(理論社)の復刊版(2016年版/左)とオリジナル版(1965年版/右)の表紙。この作品に対する感想は以前記しているが、復刊版(復刻版)を入手したのであらためて記事にしてみる。

『てのひら島はどこにある』は僕が小学生の時に出会った感動の1作。佐藤さとるといえば『だれも知らない小さな国』が有名だが、その原型となったのが当時未完成だった『てのひら島はどこにある』の構想といえる。
『だれも知らない小さな国』は素晴らしいファンタジー作品だが、この作品を生み出すに至った本質的な作者の動機はむしろ『てのひら島はどこにある』で色濃く感じられる。小学生だった僕はそこに心を打たれた。

『てのひら島はどこにある』の構想は『だれも知らない小さな国』よりも前からあって、作者が若い頃から育んでいた愛着のあるものだった。しかし書いては頓挫するということをくり返し、なかなか完成に至らなかったという。そこで心機一転、設定を変えてあらたに構築し直したのが『だれも知らない小さな国』だった。『だれも知らない小さな国』は素晴らしい作品としてみごとに昇華をはたし、多くの人に愛された。僕も好きな作品である。しかし、設定を新たにしたことで、作品は微妙に(?)変質し(『だれも知らない小さな国』はファンタジーだが『てのひら島はどこにある』はファンタジーではなかった)、『だれも知らない小さな国』では掬い上げることができなかった大事なものが、じつは旧構想の中に取り残されていた……。

『だれも知らない小さな国』(1959年)を書き上げた後、旧構想の中に置き忘れてきた大事なものがあったことに佐藤さとるは気づき、その強い未練から旧構想を捨てることができず、「これはこれでまとめておかなくてはならない」と考えて『てのひら島はどこにある』(1965年)を完成させたのだろう。
理論社・刊の『てのひら島はどこにある』には僕が出会ったオリジナル版(1965年)と今回入手した復刊版(2016年)の間に林静一の挿絵による愛蔵版(1981年)が出版されているのだが、そのあとがきで佐藤さとるは次のように記している。

ほとんど十年を経て、私はこの物語の構成を捨て、あらためて長編を1つ書きました。「だれも知らない小さな国」(講談社)で、基本的には同根の作品だと、私も思います。しかし、私にはまだ渇きに似た思いが残りました。〝てのひら島〟にまつわる物語は、私の心の中から消えていなかったのでした。

名作『だれも知らない小さな国』では影が薄くなってしまった〝当初の本当に描きたかったもの〟が『てのひら島はどこにある』では良い感じで描かれている──当時小学生だった僕はそこに深く感銘を受けたのである。
具体的にそれがどういうものかは【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出】で詳しく述べているのでここでは割愛。

僕にとって感動の一冊となった『てのひら島はどこにある』──当時定価480円だったハードカバーは、大事に保管していて、読み返し用には講談社文庫版などを揃えていた。手軽に読めていた文庫版も、最近では老眼が進んで小さな字を読むのがしんどくなってきた。そんなこともあって、きれいで見やすい復刊版(本体価格1400円)が欲しくなった。挿絵は池田仙三郎──僕が初めて読んだ当時のもので懐かしい。池田仙三郎は佐藤さとるの同人誌「豆の木」時代からの仲間で、旧制中学の同窓(池田が3年先輩)という間柄だったそうだ。
2016年の復刊版も市場では品薄になっているようで、入手できるうちに手もとに置いておかねばと購入した。
この素敵な作品が増刷され、さらに多くの人たちに読まれる機会が増えることを願って、改めて記事にしてみたしだい。

余談だが……物語の中では〝ハナアブに似た女の子〟という設定のおこり虫・プンだが(表紙の右側に描かれているのがプン)、挿絵では(池田仙三郎の絵や、講談社版の村上勉の絵でも)翅が4枚描かれている(アブは双翅目なので翅は2枚)。画家のお二方とも〝昆虫の翅は4枚〟という認識で描かれていたのだろう。


佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出
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