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トイレの花子さんと座敷童子〜便所のモアイ像

トイレの花子さんと座敷童子!?
01遠野の座敷童子表紙
先日の記事(ちょっと怖い話!?かごめかごめ〜座敷童子)で触れた『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(佐々木喜善/中公文庫)に収録されている「ザシキワラシ」>「ザシキワラシの話 2」に次のような話があった。

(六)同国(陸中)釜石の小学校に、四、五年前に高等科の女教室に十歳程に思われる娘が出現した。髪を桃割に結い、新聞紙で作った手柄をかけていた。ある生徒が便所に行ったらおったと言う。当時子供等が便所に往けなかった云々。(山本鹿州氏書状、大正十一年二月頃)※P.79
※《新聞紙で作った手柄》というのがわからなかったが、調べてみると「手柄」は「手絡(てがら)」のことで、マゲに巻き付ける髪飾りのことらしい。

小学校の便所に現れる娘の座敷童子──この話を読んで、学校の怪談「トイレの花子さん」を連想した。「トイレの花子さん」は都市伝説として有名だが、もしかすると、こんな座敷童子の伝承が源流だった可能性もなきにしもあらず?
もっとも、トイレに関する怖い話・怪奇譚はもっと昔からあったろうし、トイレに「出る」という発想はどの時代にもあっただろうという気はするが。

僕が子どもの頃に行った親戚の家では、便所は母屋から離れていた(外便所)。僕は平気だったが、怖がりの子などは夜ひとりで用を足しに行くのが不安だったろう。心細さから「怪しげなモノがでるんじゃないか……」と想像が展開するのは自然なことで、トイレとお化けのたぐいが結びつくのは納得できる。
また、女子トイレは個室だから「独りっきりになる空間」における形のない不安・恐怖が「花子さん」という具体的なイメージを生み出し、多くの子が同様の不安を投影する受け皿になったのだろうという気もする。

トイレの恐怖体験…
わが家は「外便所」ではなかったが、子どもの頃は水洗式ではなく汲取式だった。僕は幼少の頃からオバケ・幽霊のたぐいを怖いと思ったことがないのでトイレに行くこと自体には全く抵抗はなかったのだが、トイレではとても恐ろしい体験をしたことがある。おまるを卒業した頃──便所で大人用(?)の便器をまたいで用を足していたときのこと、バランスを崩して便器の中に落ちかけたのだ。
いや〜、怖かったのなんの。ふだん生活をしている空間が、とつじょ裂けて、地獄のクレパスが口を広げたのだ!
僕は反射的に金隠しのふちをつかんでぶらさがった。手を離せばそのまま地獄の釜の中に落ちて行く──そんな恐怖に絶叫し、ピンチを知った家人に引き上げられ命拾いをしたのであった。
あの時ばかりは、便所の穴は「あの世」に続いているという感覚があった。
当時の便器はスリッパ型(?)の和式だった。金隠しなど、何の役にもたっていそうもない構造物だが、必死でぶら下がったあのときばかりは、僕の命綱であった。もし金隠しがなかったら、どうなっていたことか……想像するだけでおぞましい。金隠しに命を救われた子が、いったいどれだけいたただろうか? 金隠しの発案者がこの事態を想定していたかどうかサダカではないが、このデザインは称賛に値する。

トイレのモアイ像!?
ところで、僕が恐怖のどん底に突き落とされかけた汲取式時代のスリッパ型便器には、ニオイやハエなどをブロックするためのフタが使われていた。このフタが僕にはイースター島のモアイ像の顔に見えてしかたなかった。
02便所のモアイ
空目は一度そう見えると見るたびにその認識回路が強化されて行く。これまで誰にも打ち明けたことはなかったが、僕はトイレに入るたびにモアイを連想していた。当時トイレに入るたびにモアイをイメージしていた者は少なからずいたのではあるまいか? 今なら「トイレの花子さん」ならぬ「トイレのモアイくん」といったところだろうか?
うちのトイレには「花子さん」はいないが「モアイくん」がいた。「モアイくん」がいる汲取式便所には、「花子さん」ではなく「運子さん」がたくさんいらっしゃったものである。


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ちょっと怖い話!?かごめかごめ〜座敷童子

ちょっと怖い話『座敷童子と《かごめかごめ》』
最近、座敷童子(ざしきわらし・ざしきぼっこ)について調べたり考えたりしているが、その過程で「かごめかごめ」という子どもの遊びについて触れることがあり、ちょっと怖い(かもしれない?)話が思い浮かんだ。着想の経緯は後に記すことにして、とりあえず「かごめかごめ」で思い浮かんだ怖い話を──。
    *    *    *    *    *    *

座敷童子と《かごめかごめ》 by 星谷 仁

 旧家の行事で久しぶりに顔を合わせた親戚の子どもたちが奥座敷に5人集まっていた。
「かごめかごめ」をしようということになり、ジャンケンで負けた1人が鬼になって部屋のまん中にしゃがんだ。背を丸め顔を両手でおおった鬼のまわりを残った子どもたちがとり囲む。手をつないで輪になった子供たちは「かごめかごめ」を歌いながらまわり始めた。

「かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?」

 歌い終わると同時に、輪になっていた子どもたちはしゃがんで鬼の答を待った。鬼は見ないでうしろにいる子を当てなくてはならない。

「トモコちゃん」鬼が言った。
「はずれ」鬼の横にいたトモコが笑った。すると鬼はうつむいて顔を両手でおおったまま、また言った。「じゃあ、ヒロくん」
「はずしたのに、また答えるなんてずるいぞ」鬼の正面にいたヒロが口をとがらせる。
 しかし、鬼は同じ姿勢で続けざまに「タカシくん」「ケンちゃん」と名をあげる。本人が「違う」「はずれ」と答えると、最後に鬼は「アヤカちゃん」と答え、後ろにいたアヤカが文句を言った。「ずるいよ。5人全員の名前を言えば、当るに決まってるじゃん」
「ちょっと待って!」年長のトモコが気がついた。「5人で遊んでいたのに、囲んでいるのが5人て、どういうこと?」トモコの声は裏返った。「なら、鬼は誰なの!?」
 5人はぎょっとして顔を見合わせた。みんな最初からそこにいたメンバーだった。5人がとり囲んだ中心には……6人目の子の背中があった。

 ……こんなのが、座敷童子(ざしきぼっこ)──かもしれない?


    *    *    *    *    *    *
座敷で遊んでいた親戚どうしの子どもたち。気がつくと人数が1人多い……日常空間に忍び込んでいた異分子に気づく驚き──これはちょっとコワイかもしれない(?)。子どもたちの無邪気な遊び「かごめかごめ」も、見方によっては《異世界の存在を呼び出す儀式&呪文》のような怪しげな雰囲気がなくもない……そう感じるのは僕だけだろうか? 座敷童子が「かごめかごめ」で異世界から召喚された存在だとしたら、その儀式で鬼に当てられたアヤカには、どんな運命が待ちうけているのだろうか!?──などと想像が広がった。

遊んでいる子どもたちが1人増えるという不思議なエピソードは宮沢賢治が1926年に雑誌『月曜』2月号で発表した『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』の中にでてくる。短い作品なのでその部分を引用すると──⬇。


「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
 一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。
 どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。
 そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。
 けれどもだれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。


この賢治が描いた『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』のエピソードを意識してまとめたのが『座敷童子と《かごめかごめ》』ということになる。
僕が『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を知ったのは比較的最近のことで、初めてこのエピソードを読んだときは、最初にでてくる「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」というのがわからなかった。調べてみると、どうやら「かごめかごめ」のように子どもたちが手をつないで行う遊びらしい。
「かごめかごめ」なら僕も子どもの頃に遊んだことがあり知っている。懐かしい遊びだが……今ふり返って考えてみると、当時気にとめることもなく歌っていた歌詞も、なんだか不思議で謎めいたもののように思われてくる……。


「かごめかごめ」で座敷童子を召喚!?
「かごめかごめ」は鬼ごっこの目隠し鬼のひとつ──とみることもできるのだろうか。手で目を隠した鬼が自分の後ろに位置した者を当てるゲームだ。まずジャンケンで鬼を決め、しゃがんだ鬼をとり囲んで他の者が手をつないで輪になる。そして鬼を中心に回りながら、「かごめかごめ」を歌う。「後ろの正面だあれ?」という歌い終わりで輪になっていた子どもたちもしゃがみ、鬼は自分の後ろにしゃがんた子を当てる。外れた場合は鬼はそのまま継続し、当った場合は、当てられた者が鬼と交代する。
歌詞は地域によって違いがあるようだが、僕らのところでは次のようなものだった。


 かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?


当時は意識したこともなかったが、この歌詞にはどんな意味があったのだろう? 検索してみると、話をおもしろくするためのこじつけと思われるようなものも含め、諸説でてきて、けっきょくよくわからない。
そこで僕なりに解釈してみると──、

「かごめかごめ」は鬼を囲むところから「囲め囲め(かこめかこめ)」が訛ったものだろう。カ行は言葉の中に出てくると濁りがち。「川(かわ)」や「柿(かき)」「垣(かき)」など、言葉の頭では清音だが言葉の途中では「○○川(がわ)」や「渋柿(がき)」「石垣(がき)」と濁るし、「頃(ころ)」や「米(こめ)」も前に言葉がつくと「今頃(ごろ)」、「もち米(ごめ)」と濁音に変化する。
「籠の中の鳥は」は、(「かこめ」が訛った)「かごめ」の「かご」と「籠」をかけ、「囲まれた鬼」を「籠の中の鳥」にみたてた歌詞なのだろうと想像する。
「いついつ出やる」は「鳥(に見立てた鬼)が、いつになった籠の中から(後ろの子を言い当てて)出られるのか(鬼が交代できるのか)」と鬼をはやす言葉だろう。

この遊びでは、鬼は自分の前にいる子ではなく後ろにいる子を当てる。前にいる子を当てるのであれば、目をおおっている指の間から覗き見をするなどのズルができてしまうので、それができない背後の子を当てることになったのだろう。このため「後ろの正面だあれ?」という歌詞が生まれた。
この「後ろ」と「正面」は本来、正反対の言葉だ。この「あべこべの組み合わせ」に対応しているのが「夜明けの晩に」という「夜明け」と「晩」の正反対の言葉を組み合わせたフレーズではないかと思う。
「鶴と亀が滑った」という部分はよくわからないが、あるいは、節(メロディー)を埋めるために「あべこべ」的──ナンセンス系の「おかしな表現」として、ありがたいイメージのある鶴と亀の滑稽なシーンとして加えられたものではなかろうか……。
今考えると、そんな強引な解釈もできなくはない気がするが……「夜明けの晩」や「後ろの正面」など、シュールで不可解な歌詞も含まれているので、この遊び自体が超現実の扉を開く謎の儀式&呪文のようにも思えてきたりする。そんなイメージが「かごめかごめ」➡「座敷童子の召喚」という着想につながり、冒頭の『座敷童子と《かごめかごめ》』となったわけである。


座敷童子の《ひとり多い…》は創作なのか?
さて、宮沢賢治が描いた『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』だが、これは、岩手県遠野の民俗学研究家・佐々木喜善が蒐集した民話をまとめた小冊子『奥州のザシキワラシの話』(1920年)に対して、賢治の地方の座敷童子は──という形で書かれたものだったらしい。佐々木喜善は、柳田國男に『遠野物語』を提供した民話・伝説・習俗・口承文学の収集家で、『奥州のザシキワラシの話』も、フィクションではなく彼が地道に取材した座敷童子に関する資料集である。それでは賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』はどうだったのだろう? 《童話》として全集に収められているが、この作品で語られている4つのエピソードには、モデルとなる伝承があったのだろうか……それとも賢治の創作だったのだろうか?

こんなことが気になるのは、僕が子供の頃から抱いていた《座敷童子》のイメージが、賢治の描いたものに近く、一般の(?)民話とはズレているようだと最近になって気がついたからだ。僕が座敷童子を知ったのは、いつ・どんな経緯だったかは覚えていない。ただ、《遊んでいる子供たちがいつのまにか1人増えていて、誰が増えたのか特定できない》という不思議な現象が強く印象に残っている。おそらく宮沢賢治の童話にあるエピソードかその元となる話(があるなら)を誰かから聞いたのだろう。「メンバーは同じ顔ぶれのままで、どうして人数だけが増えるのだろう?」「数が増えているのに誰が加わったかわからないなどということがあるのだろうか?」と幼い頭で考えた記憶がある。だから、僕にとって座敷童子の一番の特徴は《1人増えるが特定できないという不思議な現象》だった。筒井康隆の作品にもこの現象を扱った『座敷ぼっこ』というSF短編があるし、座敷童子についての似たような認識は何度か聞いてきた……だからこの不思議な現象こそが座敷童子の最大の特徴だと長い間思い込んでいた。
ところがあるとき、民話集のたぐいの本で座敷童子について調べてみたところ、期待していたこの特徴がなかなか見つからず、キツネにつままれたような気がした。そして最近になって宮沢賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を読んで、《1人増えるが特定できないという不思議な現象》というのは賢治の創作だったのではないか……と考えるようになっていた。

実際に残っている伝承の中に《1人増えるが特定できないという不思議な現象》にあたる話は存在しているのだろうか……それとも、僕が思い込んでいた座敷童子の特徴は都市伝説のようなものだったのだろうか?
そんなことを考えるようになって、賢治が『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を書くきっかけとなった『奥州のザシキワラシの話』を読んでみたくなった。調べてみると『奥州のザシキワラシの話』は『遠野のザシキワラシとオシラサマ』という本に収録されているらしい。検索してみると隣の市の図書館にこの文庫版があることがわかり、さっそく借りてきた。
01遠野の座敷童子表紙
『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(佐々木喜善/中央公論新社/2007年)⬆に収録されていた『奥州のザシキワラシの話』の中に、喜善自身が聞いた話として、こんな事例が記されていた⬇。


(二三)土淵村字本宿にある村の尋常高等小学校に、一時ザシキワラシが出るという評判があった。諸方からわざわざ見に来たものである。児童が運動場で遊んでおると、見知らぬ一人の子供が交って遊んでいたり、また体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がしたという。それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである。遠野町の小学校からも見に来たが、見た者はやっぱり一年生の子供等ばかりだったそうである。毎日のように出たということである。明治四十五年頃の話である。同校教員高室という人にこのごろただすと、知らぬと言ったがどうした事であろうか。この人はその当時から本校におった人であるのに。(P.20)

体育の時間に整列した生徒が人数確認の「番号」を言っていくのは僕らも経験がある。そのときに実際にいるはずの人数より1つ余計に声がしたという話は興味深い。いつのまにか子供の数がひとり増えているという座敷童子の《プラス1》伝説(?)のわかりやすい一例かもしれない。

《顔ぶれは同じなのに1人増える》という現象は成立し得るのか?
佐々木喜善・著『奥州のザシキワラシの話』の中に、《体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がした》《それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである》といった不思議な現象を示す話があったのは興味深いが、僕が認識していた座敷童子の特徴や宮沢賢治が描いた座敷童子のエピソードとは微妙にして大きく異なる点がある。《座敷童子が1年生の子には見えた》ということだ。大人にとっては「声はするけど姿は見えない」だけで、その存在が見える1年生には「増えた子を認識できた」ということになる。これでは顔ぶれと人数の不一致(矛盾)は起こらない。見えない大人が数えれば子どもたちは本来の人数であり、座敷童子が見えている1年生が数えれば、座敷童子を含めた数になるので、それぞれカウントに矛盾(不一致)は起こらない。
大人には見えないというのは不思議な話ではあるけれど、謎のインパクトからすれば《人数だけが増え、顔ぶれは変わらない(だから誰が増えたのかわからない)》という方が断然おもしろい。
顔ぶれと人数の不一致(矛盾)こそが、(僕にとっては?)座敷童子最大の謎であり魅力といえるのかもしれない。

宮沢賢治ばかりでなく、筒井康隆も『座敷ぼっこ』という作品でこの現象を扱っていることは先に記したが、実は僕もこの現象を扱った座敷童子作品を2つ発表している。
1つが1990年12月に朝日小学生新聞に掲載した『ざしきぼっこの写真』という読み切り童話だ。概要は──8人で遊んでいた子どもたちが、いつの間にか9人になっていることに気づく。顔ぶれに変わりはないのに頭数だけが増えていて、誰があとから加わった子なのかわからない──座敷童子がまぎれ込んでいるということになり、子供たちはそれが誰なのかつきとめようとする。1人がカメラを持ち出してきて、そこにいる子を1人1人撮っていく。撮り終えるとカウンターは間違いなく9枚を示していた。ざしきぼっこの撮影に成功し、これはスクープだと喜ぶが……現像に出して出来上がってきた写真は8枚──もとからいた子しか写っていなかった。《8人しかいないのに数えると9人》という現象は《8枚しか撮れてないのにカウンターは9枚》だった──ということを確認しただけに終わる。座敷童子を特定しようとするが失敗する話だった。

これに対し、《顔ぶれは同じなのに1人増える》という現象を解き明かす着想を得て描いたのが、1994年12月に朝日小学生新聞に短期連載した『病院跡のざしきぼっこ』だった(掲載時期に合わせて設定を冬に変更している)。この作品では7人だったはずの子どもたちが8人にカウントされる。《1人増えているのに顔ぶれは変わらない/増えた子が誰だか特定できない》という不可解な現象がどうして成立したのか──について、次のような解釈を考えた。
(その状況下では)数をカウントするときに頭の中から「4」という数字が抜け落ちてしまう──そのため「3」の次は(「4」を飛ばして)「5」とカウントされ、7人の子供たちが8人と認識されてしまった──というもの。
屁理屈のように思われるかもしれないが、実際にこの現象が成立することがテレビのスペシャル番組で証明されたことがあった。
病院跡のざしきぼっこ』は朝日小学生新聞で発表する前に個人誌《チャンネルF》第12号(1994年3月9日)に収録しているのだが、同号の作品覚書コラムでこのテレビ特番についても触れている。その頃、マーティン・セント・ジェームスの催眠術ショーがテレビで放送されていて、その中に催眠術をかけたゲストの頭の中からある数を消すというパフォーマンスがあった。ゲストは自分の手の指を数え、11本になってしまったことに驚きとまどう──そんなシーンがあった。これを目にしたとき、僕が考えた座敷童子現象(N個の物がN+1個にカウントされてしまう)の仕組みと同じだと思った。
ちなみに、『病院跡のざしきぼっこ』は同じアイディアで1983年11月に『分校跡の座敷童子』として書いており、1984年3月に某児童文学グループの合評会で朗読したことがあった。そのときは目玉のアイディアである《プラス1にカウントされてしまう仕組み》が聞いている人にはわかりにくかったようで、評判はあまり良くなかった。
面白いアイディアだと思っていた割に反応が悪かったことを残念に思っていたのだが、その10年ほど後にマーティンの特番で僕の考えたのと同じ現象が披露されウケているのを見て、「やっぱりネタとしては面白いんだ」という肯定感と、テレビでウケていた同じネタだったのに僕の作品では、しょっぱかったことに凹む気持ちもあって、複雑な思いでマーティンのパフォーマンスを見ていた記憶がある。


座敷童子現象のをビジュアルに表現するなら──?
子どもの頃から気になっていた座敷童子現象の謎については『病院跡のざしきぼっこ』で成立しうる合理的な解釈をみつけたことで何となく決着したような気分になっていたが、最近、この現象を別の方法で成立させる(成立したように見せる)トリックを思いついて記事にしてみたのが【境内の座敷童子(頭の体操)】だった。
他にも座敷童子現象を成立させる方法は色々ありそうだ……と考え、昔聞いたことがあるクイズ(?)に座敷童子的解釈を持ち込むことができると思い当たって記事にしたのが【ひとり多い!?座敷童子2題】。このとき、「ひとり多い…」という現象をわかりやすくイメージできるように簡単なだまし絵を描いた⬇。

02騙し絵2_1人
(※➡ひとり多い!?座敷童子2題

この騙し絵を描いたあと、座敷童子現象の不思議を文章による「説明」ではなく、ビジュアルでわかりやすく伝えることはできないかと考え、絵の一部を入れ替えることで描かれていた人の数が増えるというトリックアートを作ってみた。
03座敷童子騙し絵10_1説明
(※➡1人増える!?トリックアート&解説

04座敷童子騙し絵15分割線
(※➡1人増える不思議な絵!?座敷童子の紙芝居

こんなのが、僕のイメージする座敷童子⬆。
他にも、この座敷童子現象を成立させる(もしくは成立したように見せる)方法はあるだろう。僕の中では座敷童子ぷちブーム(?)が再燃しているようだ。

トリックアート座敷童子は誰だ!?
人数が増減する騙し絵の簡単な解説

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01人面ガエルFC2
02人面ガエルFC2
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泣いてるとゾンビが脳みそ喰いに来る

笑いをこらえるのは難しい……そのことは『怪喜!笑い袋爺』(*)で記したが……泣き叫ぶ幼児をなだめるのも難しい!?──ということで。

泣く子を黙らす方法!?

小さな子どもが泣くのには、痛みや不安など、危険を知らせる警告信号としての意味がある。保護者に必要な注意を喚起する手段と考えると有益だが……ときに子どもは《わがままを通すための手段》としてこれを使うことがある。「(帰らなくてはいけないのに)まだ遊んでいたい」「気に入った玩具を買って欲しい」などの要求を通すために、(そこで騒ぐと)親が困ることを察知した上で大泣きすることもありがちだ。大声で泣き叫ぶのは《泣き落とし》ならぬ《泣き脅し》である。これに屈して子どもの要求に応えれば、《泣き脅し》が有効であることを学習した子は、《泣き脅し》にみがきをかけて頻繁に使うようになるだろう。
こうした《脅し泣き》を阻止し、泣き止ます方法として、次のように言い聞かせるのはどうだろう。


泣いてると ゾンビが脳みそ 喰いに来る

友蔵 心の俳句(by『ちびまる子ちゃん』)みたいだが、ゾンビが脳味噌を喰いにくるとなれば、泣く子も黙ろうというもの。脳みそを喰わせろとゾンビたちがおしよせてくる映画『バタリアン』を見ていれば効果は抜群。恐怖による抑止は「泣ぐゴは居ねがー(泣く子はいないか)」とねり歩くナマハゲ効果に近いものだが、ゾンビが泣く子をターゲットとする理由を図解してみよう⬇。
泣く子とゾンビ図解
涙はしょっぱい──これは泣いている子には、わかることだ。つまり、泣くと涙とともに塩辛さが体の外へ排出される。すると、塩気が抜けることで、脳味噌はどんどん甘くなる。脳味噌喰いのゾンビは、泣き声を聞きつけると、音源には甘く熟れた脳味噌があることをよく知っていて、よろこび勇んで喰いにやって来る──というしだい。
さすがに上級生あたりではこの理屈は通用しないかもしれないが、だだをこねて泣き叫ぶ年頃の子どもには説得力があるのではあるまいか?
僕が昔この説得法(?)を思いついて甥っ子に試してみた時には効果があった。

ところで、ホラーといえば夏……いやいや、夏といえばホラーだが、今年は7月に入っても涼しくて過ごしやすい日が続いている。毎年、夏には暑さ・冬には寒さに往生して(*)、夏になると「(ドラえもんの)《どこでもドア》があったら、涼しい高原とつないで戸を開放しておくのに……」と嘆いていたが、今年は今のところ《どこでもドア》いらずである。
「なんだ、なんだ。夏だって、やる気になれば涼しくできるじゃん」と思っているのは僕だけではあるまい。



実録『怪喜!笑い袋爺』
冬来たりなば貼るトウガラシ
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不老の理由(ショートショート)

ショートショート『不老の理由』






















《不老長寿》は今昔東西を問わず、多くの人が関心を寄せてきたテーマだろう。しかし、しょせんは「かなわぬ夢」。人が老いて死んでいくのは自然の摂理だ。これに反する《不老》は自然の摂理にそむくことであり、罪深いことのようにも思われる。《不老》の実現にはタブー感がつきまとう……。
「人魚の肉を食って不老長寿を得た」という八百比丘尼伝説は有名だ。しかし、実際には、人魚などいやしない。とすれば、この話はどうして生まれてきたのだろう? 《不老化》の真相とは……禁断の「食べ合わせ」による特殊な作用・効果だったのではあるまいか──というのが、この作品の着想となった。
『不老の理由』を書いた時期については記憶がサダカではないのだが……個人誌《チャンネルF》12号(1994年3月9日号)の自選作品集には収録してあって、ソリブジン報道があった頃にプチ加筆した記憶がある。


個人誌《チャンネルF》はワープロ専用機で打ち出した気ままなコピー冊子。《チャンネルF》の《F》は《Fantasy》《Fusion(現実と幻想の「融合」という意味で)》《FUSHIGI》の《F》。「心のチャンネルを《F》にチューニングする」──という意味で第1号の表紙には(ラジオの)チューナーを模した図案を描いている。ただ、《チャンネルF》の配布はきわめて限定的だったので……個人誌の延長に位置づけているYahoo!ブログで、『不老の理由』を(も)あらためて公開してみることにしたしだい。