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赤いクモ~夢の前兆~

ショートショート『赤いクモ~夢の前兆~』

同人誌《MON48》第5号(1990年11月)の埋め草用に書いた原稿用紙(20字×20行)換算4枚強のショートショート。










虫見を始めるだいぶ以前の作品だが、当時から虫が出てくる作品はちょくちょく書いていた。この作品ではクモやコガネムシの種類については具体的に想定してはいなかった。媒体の《MON48》は朝日カルチャーセンター「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」の受講生によって1985年3月に創刊された同人誌。筒井康隆原作の邦画『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)のエンドロールにも、チラッと映っていたりする。
『赤いクモ~夢の前兆~』を掲載した《MON48》第5号と、『文学賞殺人事件 大いなる助走』のエンドロールで映し出された《MON48》第3号↓。


《MON48》の誌名は「大衆文芸の書き方」の講座が毎週月曜日(MON)に新宿住友ビルの48階の教室で開かれていたことに由来する。表紙の図案は翼を広げたペンが新宿住友ビルから飛び立つところ。

久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』

最近リリースされた30年前の『文学賞殺人事件 大いなる助走』DVD



筒井康隆の小説『大いなる助走』を映画化した『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDが今年の5月にリリースされていた。鈴木則文監督によるこの映画が公開されたのは1989年1月28日(Wikipedia情報)だそうで、DVDジャケットにも「©1989アジャックス」と記されている。しかし、本編では最後の「大いなる助走」と記されるシーンで「©1988 AJAX」とスーパーが入っている──こちらの方は製作された年ということなのだろうか? ジャケットと本編で©の年が違っているのが、ちょっと気になった。

作品の概要は──、
主人公・市谷京二(佐藤浩市)は地方都市の大企業「大徳産業」に勤めるエリートサラリーマン(※DVDジャケットの【ストーリー】やWikipediaの【あらすじ】では「大徳商事」と記述されているが、映画・原作ともに「大徳産業」が正しい)。地元の同人誌「焼畑文芸」を拾ったことがきっかけでこのグループに入り小説を書き始めることになるのだが……初めて「焼畑文芸」に掲載した『大企業の群狼』(※Wikipediaの【あらすじ】では「大企業の群像」と記されているが「大企業の群狼」が正しい)が、中央の文芸誌「文學海」に取り上げられ話題となる。そしてなんと権威ある「直本賞」の候補作品になってしまう。しかし、この作品は大徳産業の内幕を暴露したもので、顧問を務めていた父や大徳産業の後ろ盾で市議会進出を企てていた兄は激怒。会社はクビとなり勘当されてしまう。同人誌仲間には妬まれ、居場所を失った市谷京二は上京。なんとしても「直本賞」をとって文学で身を立てねばならない……追いつめられた市谷京二は直本賞世話人(受賞請負人)多聞伝伍(ポール牧)の助けを借り、全てを投げ打って受賞のために奔走するが、直本賞の選考は二転三転して落選。市谷京二は怒りにまかせて、自分を落選させた直本賞選考委員たちを次々に殺して回るという私怨作品『大いなる助走』を書くが……それまで面倒見がよかった雑誌編集者たちからも冷たく見放されて、書いたことを実行して行く。

原作の『大いなる助走』を書いた筒井康隆氏自身が「直木賞」の候補に3回選ばれながら受賞していない経緯もあって、連載当時は注目され、色々物議をかもしたらしい。編集部に「あの連載をやめさせろ」と怒鳴り込んで来た文壇の長老もいたとか。今回HDニューマスター版DVDでは特典として筒井康隆氏と鈴木則文監督の対談映像(2002年収録)が収録されているのだが、この「怒鳴り込んで来た文壇の長老」のエピソードについても触れられている。実名を伏せて話している最中に、つい筆名を言ってしまうというハプニング(?)もあった。また、筒井氏は映画にもSF作家の役で出演し、文壇バーで暴れるシーンを演じている。

エンドロールの同人誌にビックリ

僕が初めて『文学賞殺人事件 大いなる助走』を観たのは1992年12月25日深夜(正確には26日未明)。TBSテレビで放送されていたものだった。原作の『大いなる助走』は読んでおらず、予備知識なしに視聴していた。僕もいくつかの同人誌活動を経験していたので、同人誌やアマチュア文学家にありがちなエキセントリックな言動・ディテールに「あるある・ありそうだなぁ」と共感しつつ引き込まれていた。権威ある直本賞の選考委員を皆殺しにするというスゴイ展開になってしまうわけだが、僕が一番驚いたのは、最後のエンドロールを眺めていたときだった。エンドロールでは全国から集めたと思われるたくさんの同人誌が次々に映し出されるという演出があって、これには圧倒感があった。今ではブログやSNS、YouTubeなどでアマチュアが不特定多数の人たちに自由に発信できる場があるが、当時はアマチュアが自分の書いたものを世間に発表する場はほとんどなく、時間・労力・お金を費やし、苦労して作った同人誌に載せるくらいしかなかった。しかし読むのは大抵関係者で一般の読者の手に渡ることは少なく、そういった意味では苦労の割に報われることが少ない媒体だった。その1つ1つにアマチュア作家達の夢や執念が込められた同人誌が次から次へ画面に映し出され、「焼畑文芸」のように日の目を見る事が少ないアンダーグラウンドの活動が実際に数知れず存在することを物語っていた。
その同人誌が次々に映し出されていくエンドロールの最初の方で、見覚えがある表紙が……僕が描いた図案が、いきなり目に飛び込んできた。僕も参加していたことがある「MON48」という同人誌の第3号がそれで、知らずに観ていた映画の中に突然親しい友人が登場したかのような驚きを覚えた。


「MON48」について触れておくと──、朝日カルチャーセンターの中の講座のひとつ「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」の受講生による同人誌。受講生の中には既に商業出版している人、プロとして活動している人も何人か含まれていた。受講の成果として(?)受講生たちが書いた作品を集めて同人誌を作ろうということになって誕生したのが「MON48」だった。誌名は、この講座が毎週月曜日(MON)・新宿住友ビルの48階の教室で開かれていたことに由来する。誌名は皆で候補を出し合った中で僕の案が採用された。表紙も僕が描くことになったのだが、翼を広げたペンが新宿住友ビルから飛び立つ──といった図案になっている。

朝日カルチャーセンター由来の同人誌MON48が映画『文学賞殺人事件 大いなる助走』の最後に登場したわけだが、映画本編の中にも「朝日カルチャーセンター」を「朝目カルチャーセンター」ともじってでてきた部分があった。直本賞世話人(受賞請負人)多聞伝伍(ポール牧)が市谷京二のライバル候補者について技術的には稚拙だと評すシーンがある。そこで「朝目カルチャーセンターで小説作法を学んだ程度だからな」なんてセリフがでてくる。



『文学賞殺人事件 大いなる助走』の本編とは別の話になってしまうが……初めてこの映画を観た時は、「MON48」がいったいどういう経緯でエンドロールに登場したのだろうかと不思議に思った。「MON48」のメンバーには同人誌発行に尽力したH女史がいて、彼女の師匠である団鬼六氏がこの映画に地方文壇の名士・萩原隆役で出演している──そのつながりで「MON48」が渡ったのだろうかとも想像したが、エンドロールで映し出された同人誌は文藝春秋社が提供したものだったらしい。
エンドロールで流れた「MON48」を見て(これは第3号だったが)、第4号(1988年)に《H女史が直木賞を辞退しMON48賞に選ばれて驚喜する》という掌篇コントを載せたことを思い出した。これは埋め草として僕が書いたものだが、もちろん当時は「MON48」が「直木賞」をネタにした映画のラストに使われようとは想像もしていなかった。
余談だが、「MON48」創刊号で発表した僕の『ねこにかかったでんわ』は後に単行本として商業出版されている。



『文学賞殺人事件 大いなる助走』本編とは直接関係のない、あるいは他の人からすればどうでもよい個人的な事を長々と記したが、「MON48」ひとつとっても当事者にとっては色々あるわけで……エンドロールで流れる膨大な同人誌──その1つ1つに同じような色々思いを馳せる関係者がいるだろうということだ。そうした同人誌の世界があるということを踏まえて『文学賞殺人事件 大いなる助走』を観ると、また一段と味わい深い気がする……。

この映画を最初に見た時は録画しておらず、それを悔やんだものだが、その後フジテレビの深夜枠で放送されたものをビデオ録画──しかし残念ながらそれはオリジナル(129分)より15分程短いカット版だった。ノーカット版が欲しくてネットで検索してみたこともあったのだが、当時はDVD化されていないかったようだ。そんなわけで、今年になって『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDが出たことを知り、購入して久しぶりに完全版を鑑賞することができた。やはり映画の内容だけでなく、同人誌にまつわる色々なことが思い起こされる……。随所にコミカルな演出がほどこされていて面白かったが、はたから見れば徒労・不毛な努力を続ける人・続けざるを得ない人たち──そうした同人誌作家たちの物語として観ると滑稽さだけでなく、やるせなさも伝わってくる。
久しぶりに鑑賞して、当時の同人誌活動の感覚というのは、インターネット世代にはちょっとわからないのではないか……という気がした。昔はアマチュアが作品を発表する場がほとんどなく、自分が書いたものを他の人たちに読んでもらおうとすれば苦労して同人誌を作るくらいしなかった……そんな時代に比べ、今では誰もが手軽にブログやSNS、YouTubeなどで全世界に向けて情報を発信できる。ブログを始めて「あのときの努力は何だったのか?」と思ったりしたものだ(*)。
もちろん同人誌はインターネット以降も作られ続けるだろうが、その意味合い・実感は昔とはずいぶん違ってきているのではなかろうか……。そうした時代感も含めて『文学賞殺人事件 大いなる助走』は味わいのある作品だと改めて感じた。




うつろう記憶媒体~失われし記憶ハ痛イ~

ビデオテープの時代





僕が初めて購入したビデオデッキ(ビデオテープレコーダー)はβ方式だった。これ↑は当時ビデオテープに録画したテレビ番組の内容を記したノート。後で確認したいシーンを探し出しやすいように、登場する動物種を順番に書き出していた。
家庭用ビデオデッキが登場する以前は、せめて音声だけでもとテープレコーダーで気に入ったテレビ番組を録音していたなんてこともあった。昔はテレビ番組は見逃してしまうとそれっきり。だから見たい番組はキアイを入れて視聴していた。
それが「録画」できて、好きな時に何度でもくり返し見られるというのだからスゴイ!──ビデオデッキは夢のような機械だった。ターゲットの番組があると、撮り逃すことが無いように放送時間の前からテレビの前に待機。カウントダウンするような気持ちで放送が始まるのを待ち受けていたものだ。当時はまだビデオデッキのリモコンもワイヤレスではなかった(ケーブル・コードで本体とつながっていた)。ビデオテープも高価だったため、録画時間を節約しようと(&再生時の利便性も兼ねて)、手動でCMカット(一時停止/解除)しながら録画していた。今から考えれば煩わしいが、当時は「テレビ番組を録画保存できるとは、なんと便利な機械だろう」とその機能にすっかり満足していた。

高価なビデオテープを準備したり、録画内容を書き出して整理したり……当時はそれだけキアイを入れてテレビ番組を視聴していたわけだ。人によって愛好番組は様々だろうが、そうした「放送を心待ちにしている人たち」が「質の良い視聴者」なのではないだろうか。テレビ局はこうした人たち(質の良い視聴者)に愛される番組作りを目指すというのが本来あるべき制作姿勢ではないかと思うのだが……実際は目先の視聴率競争にやっきになり、てっとり早く視聴率を稼ぐために、本来大事にすべきファン──《放送を心待ちにしている「質の良い視聴者」》をないがしろにし、《家事をしながら、あるいは惰性でテレビをつけている、いわば「質の悪い視聴者」》の関心を引くことばかりに熱心だった印象が強い。そのジャンルにふさわしいとは思えない人気タレントを起用したり(番組の内容よりもタレントの人気で視聴率を稼ごうという安直さ)や、過剰な演出や思わせぶりな演出、肝心なシーンを先延ばしにしてひっぱり続け、「おいしいシーンはCMの後いよいよ」的な展開で視聴者に散々気を持たせ、実際はしょぼい内容で番組を終えるという詐欺のような手法が増え、テレビファンを失望させていった気がしてならない。こうしたあざとい演出で目先の視聴率を稼ごうとする制作姿勢が、本当に放送を心待ちにし、キアイを入れてテレビに見入っていた「質の良い視聴者」を失望させ、テレビ離れに拍車をかけたのは確かだろう。僕も地デジ化を機にテレビから離脱している(*)。

ビデオの話から脱線してしまったが……話を戻して──、
録画内容の整理ノートからも判るようにテレビ番組を録画したビデオテープはたまっていった。録画機も、β方式→VHS→S-VHS→8mmビデオ→VideoHi8へと変遷していったわけだが……その過程の中で、番組録画のみならず、自分で撮影できる家庭用ビデオカメラが登場する。

映像を記録するカメラとしてはビデオ以前にも8mmフィルムを使ったものがあるにはあった。友人にこの8mm(ビデオではなくフィルム)カメラを持っている者がいて、高校時代にはアクション映画を撮って文化祭で上映したこともある。ただ、8mmフィルムは1本で3分あまりしか撮れず、ビデオのように撮り直しがきかない。撮影した映像を確かめるためには現像に出して何日か待たなければならなかった。また、フィルム代のほかに現像代もかかるし、音声の記録はオプション扱い──ビデオテープよりはるかに高価で不便なメディアだった。
そんな8mmフィルム時代を経験してきているから、1本のテープで(標準モードで)2時間も撮影ができ、撮影した映像をその場で確認することができ、そのうえ撮り直しもできる、しかも現像代もかからないビデオカメラは、これまたスゴイ製品だった。

ということで、僕もビデオカメラを購入し、最初は里山のヘビやカメなどの小動物や昆虫等を撮ったりしていた。そのうちビデオカメラを使って何か面白いことができないかと考え、インディーズ・スーパーヒーローミラクル☆スターを試作。8mmフィルムよりも不便だと感じたのは……8mmフィルムではカットイン・カットアウトの位置をコマ単位で決められるのに対し、ダビング編集の8mmビデオでは(当時の家庭用編集機器では)コマ単位での指定できなかったこと。カットのタイミングを合わせるのに苦労した思い出がある。そうして仕上げたミラクル☆スターは、なんとテレビ番組(「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」通称「えび天」)の中で上映され、その放送をビデオデッキで録画する──ということもあった。





こうしてビデオテープはテレビ番組を録画したものだけでなく、ビデオカメラで撮影したもの、編集したものを含め、どんどん増えていった。
ビデオテープの形式がβ→VHS→S-VHS→8mmビデオ→VideoHi8へと推移したことは前記の通りだが、さらにDVDやBD、HDDへと記憶媒体も変化していった。

カセットテープの時代

話は前後するが、「映像」を記録する装置の前に「音声」を記録する装置──テープレコーダーがあった。僕が子どもの頃に初めて我が家にやって来たのはオープンリールのテープレコーダーだった。装置自体もかさばるし、録音・再生する時のテープのセッティングが煩わしい。その後登場したコンパクトなカセットテープを使うラジカセはラジオ放送を録音できたりレコードプレーヤーと直結できて画期的だった。
音声の再生専用装置としてはそれ以前からレコードプレーヤーがあったわけだが、好きな曲だけをまとめて聞くにはカセットテープにまとめる必要があった。またレコードは傷つきやすく取り扱いに神経を使う。友人の中には同じレコードを2枚ずつ買っていた者もいたくらいで、なるべくラジカセで録音したテープを聴くようにしていた。

ラジカセといえば──東海ラジオの深夜放送をラジカセで録音していた時期がある。東海ラジオ放送は名古屋の放送局だったが東京でも深夜にはなんとか電波が受信できた。兵藤ゆき氏がDJをつとめる「ミッドナイト東海」という番組に童話コーナーというのがあって、そこに投稿して採用された掌編童話がラジオドラマ仕立てで放送になったなんてこともあった。その音声作品はラジカセでカセットテープに録音してある。
掌編童話『雨の日の通信』のイメージ画(後に僕が描いたもの)と、「ミッドナイト東海」で放送されたラジオドラマを録音したカセットテープ&ケース↓。




当時主流であったカセットテープも、使い続けていると時々巻き込みトラブルがあってダメになることがあった。録音できる容量(時間)も今の記憶媒体に比べればずいぶん少なく、安泰の記憶媒体ではなかった。
再生専用メディア(記憶媒体)であったレコードはその後登場したCDにとって変わられることになるが、そのCDも、今では(楽曲もインターネットでダウンロードできるようになったため?)需要が減っているらしい。何年か前にCD店がずいぶん少なくなっていることに気がついて驚いた。かつては町のあちこちにレコード店はあったものだが……時代の流れを実感する。音声の記憶媒体も移り変わっていった。

ワープロの時代

ところで、冒頭のビデオノートの記述もカセットテープの内容の記載も僕の肉筆。当時はまだ日本語ワードプロセッサもなかった時代。今でこそ文書の作成はパソコンやスマホ等でのタイプが当たり前だが、当時は肉筆で一字一字記すしかなかった。
僕には同人誌活動をしていた時期があるが、自分が書いた作品を活字化することにはあこがれがあった。しかし実際に同人誌を作るとなると、活字を組むにはお金がかかる。そのため、オール手書きで同人誌を発行していたこともある。
《窓》は僕が主宰した同人誌で本文は墨一色、手書きの文字とイラストだった。その《窓》第2号と、読者からの便り&返事を紹介したページ↓。




このページ↑をは全て僕が描いた。字は書体を変えて記している(返事の内容は同人メンバーS氏の文章だが、文字は僕が記したもの)。
僕は元々字は汚かったのだが……同人誌を手書き文字で作る必要から、よそ行きの清書は「字を書く」のではなく「記号を描く」つもりで一時一時丁寧に記すようにしていた。しかしこれは時間&労力を要すものだった。
なので、日本語ワードプロセッサなるものの存在知ったときには激しく羨望した。その頃は1台数百万円もする高嶺の花だったのだが……わずか数年のうちに低価格化と普及が進み、僕もついに憧れのワープロを手にする日が実現する。手軽に文章を作成したり編集でき、しかも活字でプリントできるのが嬉しくて、個人紙・個人誌を作ったりした。そこでイタズラ書きから誕生したのが小説版ミラクル☆スターで、その後ビデオでの映像化へとつながったわけである。




ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯より

ワープロの導入により、書いたり直したりする作業はずいぶんと楽になった。そして原稿の記憶媒体は原稿用紙からフロッピーディスクへと移行していく。
ところが……羨望の最新機器であったワープロ専用機自体も、廃れるのは早かった。パソコンの普及によって既に絶滅……ワープロ時代に使っていたフロッピーディスクも化石化してしまった……。

「より便利なもの」より「長く使えるもの」を

ビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等に記録したものは多い。冒頭のノートを見ると、収集や整理に時間やお金(記憶媒体代)・労力をつぎ込んでいたのがわかる。しかしそうしてコツコツ蓄積してきたデータが、記憶媒体の変化によって(現役の再生機が残っていないため)利用できない状態にある。

ビデオテープ時代に撮影・編集したミラクル☆シリーズはかろうじてDVDにダビングしてあって今でも観ることができるが、カセットテープに録音した掌編童話の方は再生できない。ただ、こちらの作品は原稿用紙に肉筆で書いていた時代のものなのでオリジナル原稿は残っている。

テクノロジーの進歩は目覚ましく、次から次へと「より便利なもの」が登場してくるが、新たなものが出てくれば、それまでのものは古くなり廃れていく……。記憶媒体の変化で取り残され、使えなくなってしまうデータも多い。これでは便利なのか不便なのかわからない。現在使っているDVDやCDだって、いつまで使えるのかと考えると不安になってくる。

小学生時代のガリ版(謄写版)刷りの文集は今でも読めるが、その後登場した最新機器で記録した記憶媒体の多くが今では再生できない……。
けっきょく一番長く安定して利用できているのは最古参の紙媒体だ。便利なはずの最新記憶媒体がどんどん衰退・絶滅して行くのをみてくると、再生装置が無くても(ヒトが標準装備した器官のみで)再生(見たり読んだり)できる紙媒体の優位性が改めて実感される。
これからも便利な道具はたくさんでてくるだろうが、僕が切望するのは「より便利なもの」よりも「長く使えるもの」だ。記憶媒体は長く保存&再生(利用)できることが、何よりも大切なはずだ──僕はそう考えているのだが、最古参の紙媒体に勝るメディア(記憶媒体)はでてくるのだろうか。



ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯

大手のメジャー・ヒーローに対して地域を拠点に活動しているのがローカルヒーロー。ミラクル☆スターはさらにスケールが小さい──いってみればプライベート・ヒーローといったところか。元々はごく限られた数名の友人に見せるつもりで制作した内輪ウケ狙いのインディーズヒーロー(自主制作ヒーロー)だった。イタズラ半分に作ってみたものだが、その制作プロセスを簡単にまとめておくしだい。
 


高校時代に撮った(撮ってもらった)写真。もちろん合成ではない。当時は時々こんな写真を撮りに(演じに)行っていたのだが、8mm(フィルム)カメラを持っていた友人の提案で、こうしたシーンを含むアクション映画を撮ってみようということになった。その作品は完成こそしなかったが暫定版を文化祭で上映。『燃えよドラゴン!』と『仮面ライダー』を合わせたような内容だった。これが実写版ミラクル☆シリーズの原点(?)だったのかもしれない。
 


いくつかの同人誌(ヒーローものとは無関係の文芸系)を経て、ワープロで簡単な個人誌《チャンネルF》を作る。この9号で初めて【ミラクル☆スター】が登場。同号にはゲスト作品として某氏の内輪ウケ・パロディ・ヒーロー小説【スーパースター】シリーズを掲載。これに対抗する作品として小説版『ミラクル☆スター 激闘篇』を書き下ろしたわけである。10号では小説版『ミラクル☆スター~復活篇~』を収録。
 
プライベード・レベルの小説版ヒーロー・バトルが展開する中、この架空のヒーローを実体化してみようと思い立ちFRPでマスク作りを開始。
色々アクシデントもあったが、下手なりになんとか仕上げる。


バケツからの生還
 
マスクができるとこれを使って実写ビデオが撮れないかと考え始める。コマ単位で編集できるフィルムと違ってダビング編集のビデオではカットの位置を正確に決めるのが難しい。果たして思い通りの映像が作れるものかどうか……やってみないとわからない──ということでボディーを作って試作撮影に着手。
FRPマスクは視界を広くとったデザインだったのだが、すぐに息で曇って視界不良に陥る事が判明。それでもなんとか撮った映像を試験的に編集していたちょうどその時──【三宅裕司のえびぞり巨匠天国】の第1回目放送を偶然目にする。番組で映像作品を募集していると知り、さっそく編集したビデオを応募。するとあっさり採用が決まってテレビ出演ということに。


 
ミラクル☆スター~実写版~
 
実は【えび天】出演時には肩にワイヤーが入っていた。ミラクル☆スターの続編(本編?)に向けてミニトランポリンの練習をしていたところ、踏み切りに失敗して肩から落下──鎖骨を骨折し手術を受けていたのだ。この時はまだマットが無かった。
療養中【えび天】再登場をもくろんで続編を練る。高校時代に8mmアクション映画を撮った仲間の協力を得てミラクル☆スター2を撮る事に。鎖骨骨折の苦い経験からウレタンマットを用意してのロケだったのだが……撮影開始して間もなく首を折り損なう事故が待っていた。


塀を跳び越え前方2回宙返りで降り立つシーンで、ウレタンマット(簡易合成で隠してある)に首から突っ込み、首・胸・背中に激痛が走る。歩くだけで患部に響いて痛い症状だったが、この日予定していたもう1つのアクションシーンを撮る。


結局、このカットを撮影してロケは中断。

事故の原因だが、FRPマスクの視界不良が大きな要因。このため、もっとよく見える改良型マスクを考案&作成。


新型マスクの作り方は→●自作ヒーロー:型紙マスクの作り方
この型紙マスクの応用でミラクル☆キッドのマスクを作成。急きょ特別番外編を制作することとなる。


 
ミラクル☆キッド~実写版~
 
【えび天】狙いの『ミラクル☆キッド』だったが、番組は終了してしまい再登場は叶わなかった。
 
実写版ビデオを撮った後に作った個人誌《チャンネルF》──「ミラクル☆スター秘密大百科」と「ミラクル☆シリーズ秘密大百科」の表紙。


「秘密大百科」は個人誌《チャンネルF》の11号・12号に相当。その後「ミラクル☆スター」「ミラクル☆キッド」は季刊『宇宙船』(Vol.63/1993年冬)の自主製作映画投稿欄で紹介してもらうことができた。


 
ミラクル☆シリーズ実写版は【えび天】終了で頓挫した形になったが、ミラクル☆スターをきっかけに知り合ったアマチュア映像サークルの特撮ヒーローもの『超兵機エクシーザー』シリーズにチラッと参加。


しかし残念ながら、この作品は完成を見なかったようである……。
最後の宙返り
 
今にして思えば、体が動くうちにもう少し撮っておけば良かったという気がするが、その一方、体が完全に錆び付く前にこれだけでも撮っておくことができたのは良かったのかも知れないという思いもある。
「もっとこうしていれば……」と思うところは多々あるが、いずれにしても懐かしい作品である。

ミラクル☆スター~実写版~※ひとりで撮ったスーパーヒーロー・アクション
ミラクル☆キッド~実写版~※小学2年のスーパーヒーロー誕生
自作ヒーロー:型紙マスクの作り方
幻のインディーズヒーロー・アクション※『ミラクル☆スター2』絵コンテ



ヒーロー的宙返り※宙返りワザ覚書