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女の時代(ショートショート)

原稿用紙3枚ほどのSFショートショート。

01女の時代A
02女の時代B
03女の時代C


同人誌《MON48》の第5号(1990年11月3日)に埋め草として書いたショートショート2編のうちのひとつ。400字詰め原稿用紙(20字×20行)で3枚ほどの作品。30年前に書いた近未来SFショートショート。
この《MON48》第5号は、全国900店の古本屋が出店している古書店サイトで、4,000円の値段がついていた(発行時の販価は1,500円)。
《MON48》は、光瀬龍先生が講師をつとめる《大衆文芸の書き方》(朝日カルチャーセンター/1984年7月〜)の受講生らによる同人誌。前述の古書店サイトでは「光瀬龍教室のSF同人誌」と解説されていたが、《SF》に限らず《大衆文芸一般》を対象とした同人誌だった。

■MON48 第5号(発行日:1990年11月3日)
国試無双・・・・・・・・・・・・・由井 一光
最後の天使・・・・・・・・・・・・藤谷はるか
車人形/影法師・・・・・・・・・・岡  光子
ブクと・・・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
金魚の意気地・・・・・・・・・・・三ノ杉圭佑
蠅・・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
裸身群像・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
アーマが帰ってきた・・・・・・・・関口 和利
歪んだ伝言・・・・・・・・・・・・津久江 隆
見合い恋愛しましょ・・・・・・・・木部恵利子
花がけろうの家・・・・・・・・・・江戸川町子
主婦の使命・・・・・・・・・・・・松宮 守克
幻燈の中・・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
女の時代・・・・・・・・・・・・・星谷  仁
赤いクモ〜夢の前兆〜・・・・・・・星谷  仁
新人賞ブームについて思う・・・・・光瀬  龍

筒井康隆原作の邦画『文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』にも最後にチラッとMON48(第3号)の表紙が映るシーンがある。

ちなみに《MON48》の誌名は「大衆文芸の書き方」の講座が毎週月曜日(MON)に新宿住友ビルの48階の教室で開かれていたことに由来する。表紙の図案は翼を広げたペンが新宿住友ビルから飛び立つところ。



赤いクモ〜夢の前兆〜(ショートショート)
同人誌回顧録(freemlから)
久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』

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昭和世代のインターネット雑感

インターネット革命!? 昭和世代の雑感
少し前に【昆虫画像:ブログからテレビへ】の中で、インターネット時代に入って、昆虫写真家が商売として成立しにくくなったのではないか……ということを記したが、こうした変化は、昆虫写真家に限ったことではないだろう。
インターネットの登場&普及によって、世界は大きく変わった気がする。
ブログやSNSなどの個人発信ツールがなかった時代──人々はマスメディアが発信する情報を一方的に受け取るしかできなかった。それが〝あたりまえ〟だった昭和世代からすると、個人が大衆に向けて(不特定多数の人たちがアクセスできる場に)情報発信できるツールを〝あたりまえ〟のように使いこなす今の世界は、まるで《おとぎばなし》のような気さえする。
インターネットの以前と以後では、育った世代の世界観にも格差があるのではあるまいか……。

テレビ(元締め)と視聴者(消費者)
昔──インターネット以前は、一般の人たち(消費者)がアクセスできる共有情報といえば、一部の商業メディアが発信するコンテンツに限られていた。だからそこに需要が集中し、商売が成立した……。
テレビがいい例だろう。家庭で視聴できる映像コンテンツは数局のテレビ局が放送している番組だけ。選択肢(チャンネル)が限られていたから視聴者が集中する。だから宣伝効果も高く、そこに利益も集中する。

かつては一般の視聴者が目にすることができる映像作品はテレビ局や映画会社などの大手メディアが制作した商品ばかりだった。そんな時代に、アマチュアが作った映像作品を紹介するテレビ番組──平成名物TV《三宅裕司のえびぞり巨匠天国》というのがあった。僕もひょんなことから出たことが1度だけあったのだが、当時はYouTubeなどまだ存在しておらず、自主制作作品を視聴できるというのが、なんだか珍しく、新鮮だった。
01えびぞり巨匠天国出演
一般向けに映像を記録する機材としては以前から8ミリフィルムやホームビデオなどがあったのだが、利用目的の多くは子どもの成長や家族内イベントを記録するプライベートなものだったように思う。こうした機材を使って自主制作映画を撮るサークルもあるにはあったが、小規模の上映会で集まるのは同じ趣味を持つ関係者がほとんどだったのではなかろうか。
《えび天》で採用された僕の【ミラクル☆スター】も実は数人の友人に見せることを想定して試作した内輪ウケ狙いのビデオ作品だった。この編集をしていたとき、たまたま《えびぞり巨匠天国》の第1回放送を目にし、気まぐれに投稿してみたところ、意外にもあっけなく採用の連絡がきたので驚いた。本来なら人手がかかりがちな実写ヒーロー・アクションを〝1人で撮った〟というチープなつくりが面白いと評価されたのだろう。一部の知人らに見せるつもりで作った映像がテレビ番組で放送されたのは、我ながら思わぬ展開だった。

今なら個人やアマチュアサークルが制作した映像作品であってもYouTubeなどで配信(公開)できるし、それを視聴することもできる。YouTubeには無数の動画があふれ返っている。個人が簡単に動画を公開でき、それを簡単に視聴できるのが〝あたりまえ〟となった昨今──今の世代で育った人には《えびぞり巨匠天国》の新鮮さは、ピンとこないだろう……。
インターネットが普及し、YouTubeなど動画サイトの登場によって、映像市場は、もはや大手メディアの独擅場ではなくなった。今や一人一人が放送局!?──テレビ局が広告収入やペイパービューで経営しているように、個人発信のユーチューバーが、広告収入や有料チャンネルによって商売として成立しうる世の中になった。これは昭和世代からすると驚くべきことだ。

文芸作品と出版業界
映像作品ばかりではなく、文芸作品についても似たようなことが言えるだろう。
物語を「書く(創作する)」のは紙(原稿用紙)とペンがあれば誰にでもできる──資本もかからず独りでできる、とっつきやすい芸術活動といえるだろう。だから多くの人が趣味として「書く」ことをしていた。
しかし、アマチュアが書いた作品を不特定多数の人たちに向けて発表する場となると、昔(インターネット以前)は、ほとんどなかった。一般の人がアクセスできる文芸作品は書籍や雑誌・新聞などのマスメディア商品に限られていたからだ。
とは言っても、書きあげた作品が読まれることを望むのはプロもアマチュアも同じ。読者を想定して(読まれることを前提に)書かれるのが文芸作品である。今ではブログなどで気軽に作品を公開できるが、その手段がなかった頃は、同人誌を作ったり自費出版に夢を託すというのが常套(じょうとう)だった。もちろんその発行部数などたかが知れている。知人や同じ趣味を持つ一部の関係者の手に渡るていどで、アマチュアの作品が不特定多数の読者の目に触れる機会は皆無に等しかった。

そこで、アマチュア作家は出版社や新聞社が公募するコンテストに挑戦することになる。狙いは賞金よりも書籍化あるいは雑誌や新聞などに掲載されること──そう考えていた応募者も多かったはずだ。賞金や印税などいらないから──逆に金を払ってでも商業出版したいという人も少なからずいた。
このニーズ──「出費してでも自分の本を流通ルートに載せたい」というアマチュア作家の憧れにつけ込んだ自費出版トラブルが社会問題になったこともある。

本来であれば出版社が出資して作品を商品(書籍)化&販売し、原稿料なり印税などの報酬を著者に支払う。出版社は商売になると判断した作品に投資をすることになるわけだから、書店に並ぶ(流通に乗る)作品は、それなりの価値が認められたものだということができるだろう。
問題(トラブル)になったのは、「共同出版」と呼ばれる形態の自費出版で、本の制作費を著者が払えば、全国の書店への宣伝・販売を出版社が行うというもの。自分の書いた作品が本になり〝全国の書店に並ぶ〟ことに魅力を感じて契約した著者が、実態はそうではなかったことに気づき、集団提訴したことがテレビでもくり返し報道されていたことがあった。
その内容は確かにひどく、出版社が仕掛けた文学賞コンテストの応募者に片っ端から電話をかけ、(原稿などろくに読みもせずに)マニュアル化されたセールストークで、作品を褒めそやし「共同出版」をもちかけるということをしていたらしい。そして「全国の書店に自分の本が並ぶ」ことを期待している著者に〝そう誤解させて契約を結ぶ〟という営業を展開してきたという。
こういう詐欺的手法が横行するほど「全国の書店に自分の本が並ぶ」というのはアマチュア作家にとって《あこがれ》だったのだ。個人で作品を世間に広く発信(発表)するツール(場)が無かった時代だっただけに、《広く一般に向けて発表(発信)できる場》を多くのアマチュア作家は渇望していた。
アマチュア作家の同人誌活動は悲喜こもごも……僕にも経験があるし、『文学賞殺人事件 大いなる助走』なんて邦画を思い出したりする……。

同人誌や自費出版にはもちろんそれなりの意味があるはずだが、そこが目指す最終地点だと考える書き手はまずいないだろう。自分の本が書店に並ぶことに憧れるアマチュア作家たちは、新人賞などの公募にチャレンジする……しかし苦労して作品を書き上げ応募しても、入賞のハードルは高い。数からいえば、ほとんどの者は落選することになる。
たとえ狭き門をくぐり抜けて出版がかなったとしても、それで安泰というわけにはいかない。発行部数からいっても、全国の書店すべてに本がいきわたるわけではないし、また書店に並べられたとしても、そこで売れるまで書棚スペースを確保できるわけでもない。雑誌に掲載された作品なら、次の号が出るまでの命(掲載誌が店頭に置かれている期間は短い)だし、書籍であっても買い手がつく前に返品されることも多い。

書店としては書棚には新刊や売れ筋の本を揃えておかなくては商売が成り立たない。書店は取次店(問屋/流通機構)から本を入荷し、売れなかった本は返品できるシステム(再販制度)をとっている。新刊や売れ筋本を置くための棚スペースや入荷資金を確保するには返品が不可欠で、入荷した本の何割かは読者の手に渡ることなく返品されてしまうというのが実態だ。2020年7月の書籍の返品率は40.2%(@出版状況クロニクル)だったそうだ。
そんなわけで自分の作品を商業出版することが、たとえかなったとしても、「全国の書店に並ぶ」のはほんの一時期にすぎない。あとで「あなたが書いた作品を読んでみたい」という奇特な人が現われても、その時には在庫が無かったりする。著名な作家の作品でさえ、絶版となっているタイトルは少なくない。書籍化は《いつでもアクセスできるツール》ではないのだ。

ところが、今はブログなどで公開しておけば、「作品を読んでみたい」という人が現われた場合、URLを伝えるだけで、いつでもどこからでも容易く無料で(設定にもよるのだろうが)読んでもらうことができる。なんとも便利な世の中になったものである。
「金儲け目的で書いているのではないアマチュア作家」にとって《公開の場》をたやすく手に入れることができる状況は歓迎できるものだろう。昔の同人誌活動を経験している者からすれば《夢のような時代》といってもいいだろう。

もちろん注目の集まる文学賞にチャレンジするアマチュア作家は今でも多いのだろうが、インターネット以前のような〝渇望感〟はないのではないか?
商業出版の発行部数は昔に比べてだいぶ減っているようだし、ネット上に作品を置いておく方が閲覧数を稼げる(読者の目にとまる機会が増える)といったケースだってあるだろう。
YouTubeで稼げるようになったユーチューバーと同じように、ブログでも収入を得られる仕組みができているようだ。電子出版という選択肢もあるらしい。
誰でも簡単に個人発信ができる時代になり、それが商売として成立しうるようになったというのは《(作品の)発表やアクセスの選択肢が増えた》という意味では好ましいことだろう。しかしその一方で、文芸の世界でもマスメディアの独擅場がくずれたことで、既存の版元や職業作家の商売が成り立ちにくくなっているような気もする。

虫屋気質とインターネット!?
ちょっと次元の違う話かもしれないが……おそらく虫屋さんらの業界(?)でもインターネット以降、変化があるのではあるまいか?

虫屋でない僕は『月刊むし』という雑誌があることを長い間知らなかった。しかし虫屋さんの多くが購読しているらしく、これを「虫屋の納税」に例える人もいる。インターネットが無かった時代に個人で活動している虫屋さんが昆虫情報を得ようとすれば、おのずと『月刊むし』や昆虫機関誌にたどり着く──こうした昆虫メディアに引き寄せられた虫屋さんたちは、そこで情報交換し、同じ認識を共有するようになる。そして『月刊むし』や昆虫機関誌を同郷とする同胞意識のようなものが芽生え《虫屋気質》を形勢していったのではないか……そんなふうに僕は想像している。

僕が某昆虫フォーラムに出入りするようになって虫屋さんたちと知り合った頃、僕は虫屋さんとの間には高い敷居──境界線のようなものがあると感じ、その感覚は現在も続いている。僕は「こちら側」の人間だが、虫屋さんは「あちら側」という感覚である(あくまでも僕の個人的イメージ)。昆虫に対して興味を抱くところは一緒だし、共感する部分も多いのだが、どこか本質的に違うところがある……この差──いってみれば《虫屋気質》の有無は、ひとつには『月刊むし』や昆虫機関誌などで育ったか否か──育ちの差(?)が関係しているのかも知れないと考えるようになった。
僕は納税義務を果たしている虫屋ではないので、「こちら側」の人間として虫見をし、感じたり考えたり観察したことを「こちら側」の人にわかるようにまとめていこうというのが、当初からの《虫見スタンス》だった。これができたのはインターネットが存在し、SNSやブログなどのツールが利用できたからだ。僕が虫見を始めたのはインターネットが普及し始めた頃で、だから正体不明の虫について某昆虫フォーラムで尋ねることができ、インターネットで昆虫のことを調べたり、観察した内容をブログにまとめることもできたわけだ。

もし《虫屋気質》──虫屋の境界線が『月刊むし』や学会機関誌などの昆虫メディアに由来するものであったとしたなら……インターネットで昆虫情報を収集したり個人の知見を発信(発表)できるようになった昨今、若い虫好き世代の〝昆虫メディアへの凝集力〟は弱まってきていることも考えられる。であるなら、《虫屋の境界線》は弱まり、《虫屋気質》も変わってきているのかもしれない……というのは虫屋ではない僕の根拠の無い想像なのだが、はたして実態はどうなのであろうか……。



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改めて「このブログについて」

このカテゴリ【このブログについて】はFC2ブログに移行してくる以前、Yahoo!ブログ時代(2019年にYahoo!ブログは消滅)に作ったもので、これ以前の記事はYahoo!ブログ時代のものということになる(FC2ブログ移行後は【FC2】というカテゴリを作っている)。

このカテゴリはしばらく放置していたのだが、知らずに訪れた訪問者にはわかりづらいかと思い、あらためてこのブログ《チャンネルF+(プラス)》について簡単に記しておくことにした。

ここへ引っ越して来る前──Yahoo!ブログ時代のブログの名称は《星谷 仁のブログ》だった。当時の記事はここ《チャンネルF+(プラス)》に移行済み。そのあたりの事情は【ブログ引っ越し騒動:ひと区切りついて】で記している。

僕の場合、ブログは何か特別なテーマを決めてスタートしたものではなかった。まだインターネットがなく個人が情報発信する方法がごく限られていた頃に同人誌や個人誌を作ったことかある者としては、ブログというツールは興味深かった。それで、このツールを使ってどんなことができるのか、色々試してみた──というのが、ブログを始めるきっかけだった。このあたりのことは、当時の【Yahoo!ブログの可能性】という記事に記している。

そのつど自分が興味のあることについて記してきたが、これはかつて作っていた粗末な個人誌《チャンネルF》と同じ。FC2ブログでの名称《チャンネルF+》はこの個人誌の延長──という意味合いを込めてつけたものだ。

方向性を決めずに投稿してきたのでブログ全体としては一貫性はないのだが、テーマによってメニュー(目次)ページをいくつか作っており、トップページには抜粋メニューの記事を置いている。自分が記録してきた記事を読み返したい時に探しやすいように、また閲覧者にも興味のある記事が探しやすいよう整理したものだ。参考になれば幸いである。


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同人誌回顧録(freemlから)

Yahoo!ブログと前後してfreemlもサービス終了
先日(2019年12月15日)、10年ほど利用していたYahoo!ブログがサービスを終了した。これと前後してYahoo!ブログ以前に利用していたfreemlもまた、今月(2019年12月2日)でサービスを終了している。Yahoo!ブログ時代の記事はFC2ブログに移行済みだが、freemlの記事はそのまま消滅した。活かしておきたいと思う内容はYahoo!ブログの方に投稿し直しているので、freeml消滅についてはあまり気にしていなかった。公開の場から消滅はしたが、投稿時の文書は保存してある。しかし改めて振り返ってみると、懐かしいものもあって、記事として残しておいてもいいかなと思えるものもあったりする。
前置きが長くなったが、今回はそんなfreemlの中から、同人誌・個人誌を作っていた頃の覚書を再掲載してみる。おそらく2009年1月に投稿したものだったはずだ。freemlでは6回に分けて投稿していた記事(文章)を一挙掲載。


①同人誌の頃〜回顧録〜
②《漁人》《むい》の頃〜はじめての同人誌・ガリ版印刷篇〜
③《窓》の頃〜初めての主宰同人誌・軽オフセット印刷篇〜
④《アルファ》の頃〜児童文芸研究会〜
⑤《MON48》の頃〜光瀬教室〜大衆文芸の書き方〜
⑥《チャンネルF》の頃〜ワープロの登場〜コピー誌(紙)篇〜

①同人誌の頃〜回顧録〜
今はこうして自分のタイプした文を活字表記でき、多くの人に見てもらえる場に気軽にアップする事ができるが、昔は自分の書いた文章が活字になるということも、多くの人に読まれる機会を得るということも容易には叶わなかった。だから、趣味で文芸作品を書く人は、「活字化」や「発表の場」に憧れる。そこで【自費出版】や【同人誌】を考えるわけである。
僕が作品を書き始めた頃も、やがては自費出版をしてみたいという夢を抱いていた(商業出版は到底無理だと思っていた)。実際に書きかけの長編童話の原稿を持って印刷所をめぐり、冊子の体裁にするのにとれだけ予算が必要か見積もりを立ててもらったこともある。ワープロなど無い時代だから、活字を組むだけでかなり金額がかかる。学生だった僕にはちょっと手が届かなかった。
単独での【自費出版】は難しい……。そこで【同人誌】を考えた。多くの人で制作費を分担すれば、個人の負担は軽くなるはずだ。また、同じような志を持った人たちが、何を考え、どういう作品を書いているのかにも興味があった。
そうして踏み出した同人誌だったが──もう古い話になってしまった。
忘却の彼方となってしまう前に回顧録として記しておく次第。


②《漁人》《むい》の頃〜はじめての同人誌・ガリ版印刷篇〜
01漁人むい
当時投稿作品を多く載せていた『詩とメルヘン』(サンリオ)という雑誌があった。この読者投稿欄(1976年3月号)に「同人誌を一緒につくりませんか」という呼びかけが載っているのを見つけ、これに応募してみたのが高2〜高3になる春。同人誌に参加するのは初めてだった。
この呼びかけには全国からたくさんの参加があったらしい。しかし呼びかけた主宰者が、なんとしたことか活動不能の事態となってしまい、初めての同人誌活動はスタートからつまずくことになる……。
せっかく多くの人たちが集まったのに何もせずに解散してしまうのは惜しい……そう感じた人たちの中から有志が立ち上がり、同人会としての運営を継続する事になる。僕も初参加で何も判らないまま、いきなり運営スタッフとしてお手伝いする事になった。スタッフ間で密に連絡を取り合い、何度も会合を設け、とりあえず創刊号を出す──それを当面の目標に同人誌活動はスタートした。

同人誌名は《漁人(すなどりびと)》と決まり、実現可能な方法として、創刊号(1976年)はガリ版印刷で出す事になった。
「ガリ版(謄写版)」はかつて学校のプリント等で普通に使われていたが、国内ではもはや絶滅状態!? その存在を知らない人も増えたことだろうから簡単に原理を説明しておく。
インクがしみないように表面加工されたロウ原紙(これが原版になる)をヤスリ板の上に置き、鉄筆と呼ばれる先端が尖ったペンで字や絵を描く。すると鉄筆で描いた部分のコーティングが削られ、この部分をインクが通過できるようになる。
このロウ原紙をネット付きの枠に貼付け、ロウ原紙の下に紙をセット。そしてロウ原紙(を貼ったネット)の上でインクをつけたローラーを転がす。インクはロウ原紙の表面全体に広がるが、コーティングされた部分ではインクを通さず、鉄筆でひっかいた部分からのみインクがしみて下の紙に印刷されるという仕組みである。発明者はトーマス・エジソンだそうだ。印刷の種類としては、プリントゴッコやシルクスクリーン印刷などと同じ孔版印刷と呼ばれるものである。

さてスタッフは同人会員から原稿を集め、手分けして原紙を切った。当然手書きで1文字1文字書いていくわけである。「活字化」の夢は先に伸びたが、「発表の場」を実現できるのは嬉しい。僕らは労力をいとわず創刊号の実現めざして頑張った。当時は、ヤスリ板&鉄筆不要の「ポールペン原紙(ボールペンで書ける)」なる便利なものがでていたので、これを使用したのだが、それでもそれなりの労力と時間を要した。
手軽に安価でできるのがガリ版印刷の利点だが、キレイに印刷する為には原紙を切るさいにいくらかの技術を要する。筆圧が弱ければ原紙のコーティングが充分削られず、印刷がかすれてしまう。逆に強すぎると原紙そのものに穴をあけてしまい、インクが必要以上にもれて紙を汚してしまうことになる。このあたりの加減が経験の無い人には難しい。
せっかく切ってもらった原紙が印刷時点で不充分だった事(印刷した文字がかすれて読めない)が発覚し、やり直しになったページもあったように記憶している。

そうした皆の努力で、なんとか自分たちの同人誌を作る事には成功した。
が、出来上がった創刊号は、レイアウトはボロボロ(詩が見開きに収まらず、ページをまたいでしまったり)、落丁があったりなど、苦労をした割には失態も目立つものだった。制作にタッチしていないメンバー──作品だけ提出してステキな同人誌が仕上がってくるのを楽しみにしていた人たちにしてみれば、ちょっと(かなり?)ガッカリだったかもしれない……。
同人誌のできとしては──冊子の体裁も、発表した自分の作品も今ひとつだった感は否めないが、僕としては同人誌活動に<参加>したことで感じたり考えたりできた事も多く、その意味においては意義深かったし、ある意味充実していた。
この時期の試行錯誤や反省は、その後の同人誌活動や創作活動にとって、そして大げさに聞こえるかも知れないが人生にとっても影響を与えたといっても過言ではない。

創刊号が完成した後、合評会のようなものがあったが、内容はあまり覚えていない。あまり噛み合なかったのではなかったか……という印象がある。
同人誌の方向性が決まらずに人が集まってきたので、作品のジャンルや傾向がバラバラだったこと、自分で書くのは好きだけど、批評したりされたりすることに馴れていない人・関心が薄い人が多かった気がする。
一方「詩を書くことに生命を懸けている」と豪語する会員もいて、喫茶店でテーブルを叩いて激高されたこともあった。彼にとって詩は神聖なもので、「お遊び」程度に考えてもらっては困る──みたいな事を言っていたように思う。きっと求めていた同人誌はもっと崇高なものだったのだろう。彼は捨て台詞を吐いて去って行った。

僕自身は創作のなんたるかが全く判っていない頃で、しかしながらこの時期、よく友人(小説版ミラクル☆スターの悪島)のプレハブ部屋に泊まり込み、徹夜で作品について語り合ったりしていた。自分が温めいてる作品の構想だとか、好きな作品のどういった点が良かったなど、飽きる事無く話していた。
「<描写>と<説明>の違いは<風景画>と<地図>のようなもの」みたいな話を夢中になってしていた記憶がある。
当時僕が目指していたのはファンタジー──いわゆる(?)空想物語(現実次元の物語に対して)だったが、《漁人》のメンバーの中にはやはり非現実の起こる空想物語を描くメンバーが何人かいた。
自分ひとりで描いていたときはファンタジーとは何か?──などと深く考えた事はなかったが、同じ空想物語を描く人たちが現れたことで「僕の描こうとしてるものとは、また違う」ことに気づき、他者の描くものとの違いを考えることで、自分の目指すものを自覚するようになった部分もあった。

「例えば、主人公の目の前にオオカミが飛び出してきて、
 『お前を食べちゃうぞ!』と言った時──、
 主人公がまず《オオカミがしゃべる》点に驚くのが(狭義の)ファンタジー、
 《オオカミに食べられる》こと(のみ)に反応するのが(広義の)メルヘン」

ざっくりした例えだが、そんな見方もできるのではないかなどと考えたりするようになったのもこの頃だった。同人誌づくりにしても作品づくりにしても、それまで意識することがなった視点を発見し、考える事に目覚めた時期でもあった。

《漁人》は創刊号を出した後、幽霊会員(?)が淘汰されて少しスリムになったこと、スタッフたちも創刊号の経験値を得たことで、第2号はだいぶ洗練された感じのものとなった。第2号もガリ版印刷ではあったが、印刷機がプリントゴッコ式に1枚1枚手作業で刷っていた創刊号と違い、輪転機になった(借りもの)という画期的な進歩があった。輪転機の作業効率の向上度には一同驚愕したものである。「これぞ文明の利器!」──そんな実感があった。

そして《漁人》3号では、ついにタイプ印刷となり、初めて「活字化」が実現したのである。
形の上では、軌道に乗ってきたようにもみえる《漁人》だったが、会の運営をめぐっては、当初の(雑誌で仲間を募った)主宰者とは別のグループが運営することになったがための「今ひとつスッキリしない部分」が尾を引いていた。そして、けじめをつけるために《漁人》を一度きちんと解散し、有志によって新たな同人誌を再結成しようという動きになる。
《漁人》は3号を出した後に解散。そして同じスタッフによって新たに《むい》という同人誌が立ち上げられた。僕も引き続き《むい》に参加し、童話(ファンタジー)を書き、創刊号の表紙を描かせてもらったりした。

《漁人》の時代だったか、あるいは《むい》へ移行してからだったか……正確な時期はハッキリ思い出せないのだが……この頃の同人誌メンバーの一人・Oさんの部屋にスタッフらが泊まり込んだ事があった。同人誌発行の打ち上げか、新年会・忘年会だったかもしれない。この時、《ますむら ひろし漫画》との運命的な(?)再会があった。
Oさんの部屋で見つけたハードカバー本。何気なく手にとり開いてみたら漫画だったのでちょっと驚いた──というのが第一印象だった。漫画と言えばペーパーバックのイメージがあったので意外だったわけだが……それが『アタゴオルは猫の森』の愛蔵版だった。その不思議な世界に魅かれて、皆が寝てしまった後、朝まで一睡もせず一気に読んだ記憶がある──言わずと知れたますむらひろしさんの名作である。
僕は中学時代にも、ますむらさんの漫画──デビュー作の『霧にむせぶ夜』(第5回手塚賞・準入選)を読んで強烈な衝撃を受けている。当時マンガのまねごとをしていた時期もあったのだが……『霧にむせぶ夜』を読んで、こんな人たちがしのぎを削っている漫画の世界には、とても自分が入り込める余地などない、努力したところで到底太刀打ちできっこない──と漫画心(?)が萎えてしまうほどの圧倒的なインパクトを受けていた。その後僕の創作活動は漫画から文芸へと方向転換をすることになる。
そして方向転回した文芸の同人誌活動をしている中で、再びますむら作品と出会い、朝まで読まされてしまうことになるとは……、後になってふり返ってみると奇妙な縁を感じる。というのも、この後、僕が同人誌(《窓》第2号/1979年)に書いた作品が出版され、そのデビュー作単行本の挿絵をますむらさんに描いていただく事になるからなのだが……もちろん、『アタゴオルは猫の森』を夢中になって読んでいた時には、そんな展開など夢にも思っていなかった。

さて、再生した同人誌《むい》の活動だが──2号の前後で僕は退会を決断。
いくつかの同人誌を出してきたが、その総括というか──発表した作品についての合評会がいまひとつ盛り上がらず、雑談に流れ、不完全燃焼に終わることが原因だった。せっかく同人誌を作ったのに、発表した作品についての総括が無いのは気持ち悪い──個人的にはそうした気持ちが強かった。書き手は作品を完成させる迄の間、色々試行錯誤を繰り返し、何度も練り直しているので、自分の作品について第一印象が持てない。自分の描いた作品が他者にどう読まれたのか、どんな印象を持たれたのかは興味のあるところである。また、他の人がそれぞれの作品について、どういう意図で描き、どんな苦労や工夫があって「そのような作品にたどり着いたのか」などについても知っておきたい。自分の創作活動に還元できるヒントがあるかもしれないからだ。そうした互いの作品や創作姿勢に対する活発な意見交換があってこそ、同人誌を出す意義があるのではないか──そんな気持ちもあったのだ。
しかしながら、書き手の中には互いの作品を批評し合うことに関しては熱心でない人もいる。
「作品は、自分が楽しいと思ったものを楽しんで書く──それでいい」「他人の批評にはあまり興味が無い」そういった空気を感じ、《むい》で合評を充実させたいと望むのは僕の独り相撲のような気がしてきて、未練を感じながらもここを去ることにしたのだった。

陳腐な言い方だが、同人誌活動は僕にとって青春だったのだと思う。《漁人》はその出発点であったこともあり、特別な思いもある。当時のメンバーの幾人かとは現在も年賀状のやりとりをしているのだが……ふり返ってみると『詩とメルヘン』にあの同人誌の呼びかけが載っていなかったら、僕らは知り合う事もなかったはずで……そう考えると縁というのは不思議なものだなぁと実感する。


③《窓》の頃〜初めての主宰同人誌・軽オフセット印刷篇〜
02窓2号
《むい》は退会したが、同人誌活動に飽きて辞めたわけではない。自分なりの納得のいく同人誌が作りたいという思いは持ち続けていた。そこで軽オフセット印刷機と製版機を買い込んで、同人誌を主宰することにした。
簡単に印刷のしくみを紹介すると──、
版下原稿を特殊なフィルムに密着させ、強い光で焼き付けたものを紙のような原版に転写。すると原版に水をはじく部分(原稿の黒い部分)と、水分が乗る部分(原稿の白い部分)ができる。この原版を印刷機にセットし湿し水を塗布すると、印刷時に余白となる部分には水が乗り、印刷部では水がはじかれる。そこに油性のインクが供給されると、水がのった部分(余白部分)ではインクははじかれ、水がない部分(印刷部分)にのみインクが乗る。原版に乗ったインクはブランケットと呼ばれるゴムのドラムに転写され、それがさらに紙に転写される仕組みである。
原版と紙が直接触れず、一度ブランケットに転写させる工程があることでオフセット印刷と呼ばれるらしい。

冊子の形体は手描きの原稿から原版を起こす形(手書き文字&イラスト)をとったが、版下となる原稿は普通の紙に普通のペンで描けるので、ガリ版印刷(原紙に鉄筆で描く)に比べればキレイに仕上がる。
同人誌名は《窓》とした。ファンタジーやメルヘン系の童話を想定していたので、非日常の風景がのぞける窓/(同人誌は)内なる世界と外の世界をつなぐ枠──そんなイメージがあった。
この同人誌は童話・児童文学に限定するつもりでいた。ジャンルを限定しなかった《漁人》で、趣味が違いすぎる人たちか集まると話が噛み合ないという教訓を得ていたからだ。互いに相手の作品に興味が持てるような人たちで同人誌メンバーは構成すべきだと考えたわけである。
さらに同人誌を立ち上げるにあたって、まず方向性をまず打ち出しておくのがいいだろうと考え、創刊号の前に、創刊準備号として「ふたば号」なるものを作った。僕の掌篇と《漁人》スタッフでメルヘン系ファンタジーを描いていたKさん、Hさんのゲスト作品で構成した。
本文は2段組だったが、巻末には「作者の窓」なる3段組のあとがきページを設けた。ここでは収録された作品一つ一つに対して作者自身に思いを述べてもらう。作品本意で考えれば作者のコメントなど蛇足かもしれないが、「書いた作品を載せるだけ」でなく、それを生み出すまでの[創作過程]・[創作背景]をも大事に考える──そんな姿勢を打ち出したかった。

《窓》は、ふたば号(創刊準備号/1978年1月1日)のあと、やはり《漁人》のメンバーだったSさんとその友人Oさん(イラスト担当)をお迎えてして創刊号(1978年4月1日)をだすことができた。第2号では、Oさんに変わってやはりSさんの友人Tさんがイラストを飾ってくれた。

第2号巻末のお便りを紹介する頁(ぽすと)では、《窓》読者からの手紙の一部とSさんのコメントを僕が手書き文字&イラストでレイアウトした。「まど」の郵便受けに届いた手紙を、《窓》の作品に登場したメンバーたちが集まって読んでいる──という図案。お便り文と手紙文では手書きながら書体を変えてある。
03窓2号ぽすと製版
《窓》を手書き文字にしたのは予算の関係からだったが(活字を組むと高くつくので)、出来上がった誌面を見ると、これはこれで手作り感があってなかなかいいものだなぁ……などと感じたものである。
発行した《窓》は地元の書店に交渉して置いてもらったり、同人誌マーケット(今のコミケの原型だろうか。当時は文芸誌・ミニコミ誌・マンガ同人誌が混在した即売会だった)に参加して売ったり、《漁人》で知り合った仲間たちに送ったりした。当時の仲間たちの中にはそれぞれ同人誌を立ち上げた人もいて、互いに同人誌を送ったり送られたりし、それが楽しかったし刺激になった部分もある。

第2号(1979年7月1日)を出した後、《窓》は活動停止となるが──この第2号に掲載した僕の長編ファンタジー『クロカニ号の冒険』(400字詰原稿用紙換算232枚)が、児童書出版の金の星社で公募していたコンテストに入賞し、出版化が決まるという信じられないような出来事が起こった。入選してから出版までは5年ほどかかってしまったが、挿絵はますむらひろしさん、解説は光瀬龍先生に飾っていただくことができた。
この『クロカニ号の冒険』の入選を機に、創作に対する姿勢や考え方にいくらか変化があったかもしれない。「読んで面白い作品を」という目指すところは同じだか、真剣度は格段にアップした。自分が面白いと感じるものを追求するのは当然ながら、さらに他の人が読んでも面白いと感じさせるためには何が必要か──そんなことも思案するようになった。

そして「楽しみのための(遊びとしての)同人誌」活動は《窓》の廃刊をもって一時休止する。この後も僕はいくつかの同人誌や勉強会に参加したが、それらは文字通り「勉強のための」活動であった。そうした同人誌活動で学んだ事はもちろん多いが、ふり返ってみると、僕にとってより愛着が深いのは「楽しみのための同人誌」の方であった気がする。


④《アルファ》の頃〜児童文芸研究会〜
04アルファ児童文芸
初めて書いた長編ファンタジー『クロカニ号の冒険』を金の星社の公募に応募した頃、僕は「児童文芸」という雑誌を発行していた日本児童文芸家協会が児童文芸研究講座を開催している事を知って、これに参加してみることにした。児童文学に興味がある人なら一般の素人でも参加できるようだし、プロの作家がどんな創作活動をしているのか、話を聞いてみたかった。また、ここに集まってくる、まだ見ぬ創作活動家(?)たちがどのような作品を書いているのかなどにも興味があった。

児童文芸研究講座は月1回の割合で開かれていた。前半は児童文学者の講義で、後半は受講生たちの書いた作品の合評というスタイル。受講生たちがあらかじめ提出していた作品は簡易タイプ印刷で「作品集」として冊子にまとめられ、それを何回かかけて合評する。
ここでは僕が望んでいた合評会がしっかり行われていて、大いに刺激になった。楽しかったし、勉強になった。
自分の意図する作品を書くためには、作品を客観的に分析する能力が必要なはずだが、自作を客観的に見る事はなかなか難しい。しかし他人の作品なら比較的客観的に眺める事ができる。他者の作品をどう評価するのか──僕の意見と、他の人たちの意見を比べる事で、自分の作品分析力がいかほどのものなのか判断する手がかりになるのではないかと考えた。
自分の作品に対する評価にはもちろん興味があったが、他者の作品をどう評価すべきか──他者の作品を通して分析力を磨くことにも力を入れた。

合評会は神楽坂(東京)で行われていたが、香川県からわざわざ出向いて来る熱心な方もいて驚いたことがあった。彼女が後に偕成社からデビューする須藤さちえさんである。ちなみにこの児童文芸研究講座を受講していた同期メンバーの中からデビュー(商業出版)を果たした人には、河野貴子さん・矢部美智代さんなどもいる(他にもいるかも知れない)。規模は決して大きくない勉強会だったが、充実した有意義な活動だった。

やがてこの児童文芸研究講座は終了する事になるのだが、受講生メンバーたちは合評会の場の継続を求めた。《アルファ》という同人会をつくり、日本児童文芸家協会の支部という形で認めてもらうことになる。児童文芸研究講座や《アルファ》で作られた作品集は合評用テキストという意味合いが強かったが、これも「同人誌」と言えなくもない。
創作を志す仲間たちのと交流が楽しく僕はしばらく皆と行動を共にしていたが、勉強会がいくらか派閥的な色合い変質していくような違和感を覚えるようになり、やがて《アルファ》を離れることになる……。


⑤《MON48》の頃〜光瀬教室〜大衆文芸の書き方〜
05MON48画面
『クロカニ号の冒険』入選の通知を受けたのは、児童文芸研究講座に参加するようになって間もない時期だった(入選から出版まで5年かかった)。その頃、児童文芸研究講座の浜田けい子先生の紹介で少年文芸作家クラブ(現・創作集団プロミネンス)の先生方と知り合うチャンスをいただいた。SFマガジン初代編集長・(故)福島正実先生が立ち上げたクラブで、そこにいたのは僕が中学生時代に愛読していたSFジュブナイルを書いておられた先生方だった。その縁で光瀬龍先生には大変光栄な事に『クロカニ号の冒険』出版(金の星社/1984年)の際には解説を書いていただき感激した。

その光瀬龍先生が、朝日カルチャーセンターで《大衆文芸の書き方》という講座を開くというので第1期生として参加(1984年7月スタート)。ここにはすでに著書を数冊出している方・雑誌に書いている方など、プロも参加していた。一般のサラリーマンながら、毎週50枚の新作を提出するなどという恐ろしく熱心な人などもいて、活気があった。光瀬先生は、毎回講義の後に受講生たちと喫茶店によって気さくに色々な話をしてくださった。受講生らも仲良くなり、教室の外でも先生を交えて旅行などが企画されたりした。

そして、受講生らの作品を集めて同人誌を出そうという話がもちあがる。
創刊号にはなんと光瀬龍先生が書き下ろし作品を提供して下さるという! これは下手なものが作れない──。僕が見まわしたところ、同人誌活動をしてきた人はいないようなので、いささか心もとない気もしたのだが……働き者でテキパキと対応できる人がいて、話はトントンと進んだ。
同人誌のタイトルは皆で候補を出しあい、その中から《MON48》が決まった。光瀬教室(大衆文芸の書き方)が開かれるのは毎週月曜(MON)住友ビル48階であったことに由来する──これは僕の思いつきだった。ちなみに表紙のイラストも僕にお鉢がまわってきた。図案は書き手の象徴であるペンが翼を広げ、光瀬教室(住友ビル)から飛び立つ──というものにした。
フリーハンドでアウトラインを描いて、色指定できるようにしたつもりだったが……ちょっと計算違いがあった。もう少しキレイに仕上げておけば良かった……とこれは後になって反省したことだが……とにもかくにも、同人誌《MON48》は創刊にこぎつけた。
そしてこの創刊号に書いた『ねこにかかったでんわ』は後に岩崎書店から出版していただくことができた。

※同人誌《MON48》6号までのラインナップは──、


■MON48 創刊号(1985年3月)
書き下ろし作品
『蓮屋蓮吉捕物控 討入りの朝』・・・・光瀬  龍
『家紋』・・・・・・・・・・・・・・・武生 義史
『日だまり』・・・・・・・・・・・・・篝  真子
『ねこにかかったでんわ』・・・・・・・星谷  仁
『マスメディア・ジャック』・・・・・・津久江 隆
『夕暮れの道』・・・・・・・・・・・・きたちひろ
『雲の峠』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『捨てられていた幸運』・・・・・・・・森永ぐり子
『賭け』・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
「門出を送る」・・・・・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第2号(1985年12月)
書き下ろし作品
『リトルバラ:三一八七・ソラリヤ』・・光瀬  龍
『不倫電話』・・・・・・・・・・・・・卯杖 遊子
『横顔』・・・・・・・・・・・・・・・柄沢真紀子
『宮本武蔵異聞』・・・・・・・・・・・津久江 隆
『水銀灯』・・・・・・・・・・・・・・山崎  玲
『怪我の功名』・・・・・・・・・・・・如月  薫
『サリバイ市はおおさわぎ』・・・まつみやもりかつ
『ぽんたの川』・・・・・・・・・・・・きたちひろ
『隣の席』・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
『夢寓話』・・・・・・・・・・・・・・尾上 華子
『コバルトヴァイオレットペール』・・・江戸 主水
『ラスト ワルツ』・・・・・・・・・・篝  真子
「第二号発行に寄せて」・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第3号(1986年12月26日)
書き下ろし作品
『仲買人たちの夜』・・・・・・・・・・光瀬  龍
『夕暮れ』・・・・・・・・・・・・・・篝  真子
『がんばれ! おばけ先生』・・・まつみやもりかつ
『半導体ヤクザさらにスパイ』・・・・・北松  誠
『虹色のクワガタ虫』・・・・・・・・・正田  太
『流れ星』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『ノアの末裔』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『山は夕暮れ、なみだ色』・・・・・・・きたちひろ
『サクランボを棄てる女』・・・・・・・瑞木  晶
『名探偵と牛若丸』・・・・・・・・・・藤谷はるか
『二百年後の結末』・・・・・・・・・・水木 萌映
『小岩界隈』・・・・・・・・・・・・・卯杖 遊子
『備前七幅』・・・・・・・・・・・・・東山 令子
「第三号発行に寄せて」・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第4号(1988年12月1日)
『十五夜無情』・・・・・・・・・・・・如月  薫
『ラブストーリー1986』・・・・・・・・津久江 隆
『歯医者さんと魔法の火』・・・・・・・紺野 加奈
*特集*「課題作品について」・・・解説:光瀬 龍
「田岡屋騒動」・・・・・・・・・・・・松宮 守克
「あたりくじ」・・・・・・・・・・・・筒井 和子
「終わりよければ」・・・・・・・・・・藤谷はるか
「ベター・ハーフに乾杯!」・・・・・・武内 淑郎
「だから九時まで」・・・・・・・・・・瑞木  晶
『野げいとうの怨み』・・・・・・・・・長谷 圭剛
『ミルクキャラメルをほおばって』・・・神崎 静華
『SHE・IS』・・・・・・・・・・・由井 宏道
『恋人はスペースキャット』・・・・・・木部恵利子
『左利きの乳房』・・・・・・・・・・・江戸川町子
「第四号によせて」・・・・・・・・・・光瀬  龍
「MON48の奇跡」・・・・・・・・・・星谷  仁

■MON48 第5号(1990年11月3日)
『国試無双』・・・・・・・・・・・・・由井 一光
『最後の天使』・・・・・・・・・・・・藤谷はるか
『車人形/影法師』・・・・・・・・・・岡  光子
『ブクと』・・・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
『金魚の意気地』・・・・・・・・・・・三ノ杉圭佑
『蠅』・・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
『裸身群像』・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
『アーマが帰ってきた』・・・・・・・・関口 和利
『歪んだ伝言』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『見合い恋愛しましょ』・・・・・・・・木部恵利子
『花がけろうの家』・・・・・・・・・・江戸川町子
『主婦の使命』・・・・・・・・・・・・松宮 守克
『幻燈の中』・・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
女の時代」・・・・・・・・・・・・・星谷  仁
赤いクモ〜夢の前兆〜」・・・・・・・星谷  仁
「新人賞ブームについて思う」・・・・・光瀬  龍

■MON48 第6号(1992年4月)
『ネオテニー』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『夏の曲』・・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
『かたき大福』・・・・・・・・・・・・紺野 加奈
『呪いの譜』・・・・・・・・・・・・・新発田 実
『月をねだる』・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
『ダイアンの瞳』・・・・・・・・・・・今川 智志
『祭りのあと』・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
『芳香』・・・・・・・・・・・・・・・宇津木玲子
『白菊抄』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『連鎖〈チェーン〉』・・・・・・・・・由井 一光
『明日を作る人々』・・・・・・・・・・鈴木 孝昭
『本日、朝野早紀は人を殺します』・・・山本真梨子
『召集令状』・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
「誰がそれをプロと呼ぶ」・・・・・・・光瀬  龍

そして余談だが……この《MON48》は映画にも登場(!?)している。第3号が『文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』という邦画のエンドロールで流れていく同人誌の中に映っているのだ。知らずにこの作品をテレビで見ていてビックリした。
文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』(1989年アジャックス)は筒井康隆・原作の文学界をパロった作品。同人誌に載った無名の新人の作品が大きな文学賞にノミネートされたことから起こる騒動を描いたもので、筒井康隆自身がSF作家役で出演して文壇バーで暴れるシーンがある。
同人誌とパロディといえば……僕がふざけて書いたミラクル☆スター・復活篇も内輪ネタ・パロディで、《MON48》や《漁人》の同人誌メンバーが(仮名で)登場している。そして舞台は文壇バーだった……。


⑥《チャンネルF》の頃〜ワープロの登場〜コピー誌(紙)篇〜
06CF1&通信8
ワープロ──日本語ワードプロセッサは、パソコンに取って代わられ、もはや絶滅寸前(?)だが、この機械が登場したときは、すごいものが現れたものだとビックリした。当初は1台数百万円(そのくせ印字はかなり粗雑)──それでも、この夢のような機械にあこがれた。
今でこそパソコンで文章を自在に編集できるのは当たり前になったが、当時は原稿用紙に手書きで文章を書いていた。まず下書きし、それを推敲する。すると原稿はゴャゴチャしてくるので、再度書き直す──このようなことをくり返した。
僕は筆圧が強かったので、人差し指の腹の指紋はすりへり、中指にはしっかりペンだこができた。推敲本来の労力ばかりではなく、原稿の書き直し・修正・ときには切り貼りなどの物理的な労力で時間をとられ、それがわずらわしい。
ワープロを使えば、その物理的労力から開放される……。まさに夢のような「未来の機械」だった。
ワープロが出た当初は「高嶺の花」とあきらめ、このような高価な機械を持つ事は自分には生涯ないだろうと思っていたが……ワープロの進化と普及のスピードはめざましかった。数年で値段もぐっと庶民的になり、僕も結局4台も使っていた。その花形だったワープロも今やすっかりみかけなくなった……爆発的に普及したワープロは廃れるのも早かった……。時代の移ろうスピードには驚くばかりである。

さて、このワープロを手に入れた事で、「活字化」の憧れは気軽に実現できるようになった。そこで、遊び感覚で気ままに作ったのが同人誌ならぬ個人誌《チャンネルF》だった。
作品やら覚書やらエッセイやら……思い付いつくままにまとめ、ワープロで編集してプリントアウトしたものを版下にし、コピーをとってホチキスでとめる──それだけの粗末な個人誌で、発行部数も知人数名に配布する程度のものだった。作ってみたものの誰にも見せていない号もある。しばらく離れていた「楽しみのための」個人誌の再開だったともいえる。
《チャンネルF》の「F」は「ファンタジー」「フュージョン(現実と幻想の<融合>)」そしてちょっと強引だが「FUSHIGI」の頭文字。不思議でファンタジックなチャンネル──という意味合いである。第1号表紙はラジオのチューナーをイメージしてデザインした(不思議でファンタジックなチャンネルにチューニングするイメージ)。当初は創作ファンタジー&覚書・エッセイをまとめていた。
07CF表紙7&12
7号は100年に一度開花する竹の花とクダギツネの伝説、さらにかぐや姫とクロマドボタルとをからめたファンタジー(『月からきた小さなきつね』のタイトルで<子どもと読書>に連載)。12号は自選ショートショート集。表紙は「運命の赤い糸をあやつるクモ」のイメージ。
そのうち飼っていたフェレットのレポートやフェレット漫画など、創作・文芸路線以外のものも登場させる。
08CF13&9
関係者しか判らないパロディ小説を載せたり、そこから発展した実写ビデオミラクル☆スターを撮ってテレビで紹介されるなどといったこともあった。
また《チャンネルF》とは別に冊子の形をとらず、内容を1枚の紙にまとめた個人紙《チャンネルF☆通信》も、ちょくちょく作っていた(第8号の『団地さいごの日!?』『きえた大はつめい』は朝日小学生新聞の読み切り童話として描いたもの)。
このようにワープロの登場で「活字化」は手軽に実現できるようになった。イラストを張り込めば同人誌もどきのようなものが作れる。ただ、コピー誌(紙)の場合は配布できる相手や数がかなり限定される。

そうした事を考えると、パソコンの登場、ホームページやブログ、SNSの登場は画期的だ。多くの人が閲覧可能なネット上に自分の「表現」ができるのだ。自分の文章を活字化でき、カラーのイラスト・写真も掲載できる。画像ばかりか動画までも──これは同人誌では不可能だったことだ。しかもタダで──。
自費出版にあこがれ、同人誌を始めた頃からは想像もできないことだ。
なんともスゴイ時代になったものである。


個人誌《チャンネル☆F》(コピー誌)
【VOL.1】「雨の日の通信」「金色の首輪」「しゅっぱつ!ゆうれい探偵団」「占い師の予言」「ワラ人形のききめ」「魔法使いをたずねた男」「脱獄をくいとめた男」を収録(1987年)
【VOL.2】「SFはポケットの穴から…」(1988年)
【VOL.3】「恋の魔法は手作りチョコで」「愛しいまぼろし」を収録(1988年)
【VOL.4】創作の周辺・折り鶴/<ねこにかかったでんわ>着想・創作過程/<小さなまじょのさがしもの>発想・創作過程/<ヒョウタン池の仙人・後記>をふり返って/物語は心のシミュレーション/書き手のショーマンシップ/釣りとテンプラ・アイディアの捕捉/を収録(1988年)
【VOL.5】「まほうのチョコボール」「プテラノドンと男の子」まぼろしの迷作誕生!?「恐竜のカプセル」収録(1988年)
【VOL.6】「オレは野良犬」「ハム・スタ子と芳男」「六番目の感覚」「不思議なサンドイッチ」「たこあげ」「ヒョウタン池の仙人」収録(1988年)
【VOL.7】「むぎわら帽子の竹の花」収録(1988年)
【VOL.8】「だれかの<声>が…1/心の<声>」収録(1988年)
【VOL.9】「ミラクル☆スター・激闘篇」他収録(1989年)
【VOL.10】「ミラクル☆スター・復活篇」収録(1989年)
【特別号】「雨の日の通信」「プテラノドンと男の子」「金色の首輪」「ワラ人形のききめ」「愛しいまぼろし」<ねこにかかったでんわ>着想・創作過程/<小さなまじょのさがしもの>発想・創作過程/釣りとテンプラ・アイディアの捕捉/収録(1989年)
【別冊 臨時増刊号】ミラクル☆シリーズ 秘密大百科(1992年)
【VOL.11】掌篇集&4コマ漫画/収録(1993年)
【VOL.12】自選<奇妙な味の>掌篇集(1994年)
【VOL.13】わが家のフェレット・レポート/収録(1996年)
【VOL.14】漫画「フェレットinジャケット」収録(2002年)
【VOL.15】漫画「ふぇレッツ・ゴー」収録(2002年)
【VOL.16】漫画「フェレットのいる風景」収録(2002年)
【VOL.17?】漫画「虫屋な人々」収録(2007年)

個人紙《チャンネルF☆探偵団》(コピー紙)
【VOL.1】邦画「文学賞殺人事件 大いなる助走」エンディングに同人誌《MON48》(表紙画:星谷 仁)が映っていたことの報告(1992年)

個人紙《チャンネルF☆通信》(コピー紙)
【VOL.1】自主映画祭&ロケ参加報告/カメレオンTV出演(1992年)
【特別号】ミラクル☆シリーズ スペシャル 資料(1992年)
【VOL.2】ジュラシック・パーク感想/ロケ(エクシーザー)報告(1993年)
【VOL.3】「守護霊」&覚書(1993年)
【VOL.4】「地震の予知」&覚書(1993年)
【VOL.5】朝日小学生新聞連載報告(1993年)
【VOL.6】「人面ガエル」(1993年)
【VOL.7】人面ガエル・覚書(1993年)
【VOL.8】「団地さいごの日!?」「きえた大はつめい」(1993年)
【VOL.9】「おふろの海ぼうず」「ペットよけボトルのひみつ」(1994年)
【VOL.10】肩乗りイタチ・フェレット(1995年)
【VOL.11】東京ディズニーランド紀行(1995年)
【VOL.12】「リサイクル」「証拠」(1995年)
【VOL.13】「宇宙観」(1995年)
【VOL.14】「暗示効果人はなぜ宝クジを買うのか(1996年)
【VOL.15】「モニター」Myフェレット雑誌に登場!!(1997年)
【特別号】略歴

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ミラクル☆スター】(1991年)
ミラクル☆キッド】(1991年)

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古巣Yahoo!ブログの消滅

01YB完全終了
というわけで、10年ほど利用していたYahoo!ブログはサービスを完全に終了した。この終了予告があったのが2019年2月。色々考えた末にFC2ブログに引っ越してきたのが2019年4月5日。それより前の記事はYahoo!ブログ(星谷 仁のブログ)からの移行記事ということになる。
Yahoo!ブログでは、ブログでどんなことができるのか色々試していた。
今ではブログは当たり前に使われているが、インターネットが普及する以前は、一般の個人が不特定多数の人に向けて情報を発信する手段はほとんどなかった。例えば、趣味でマンガや小説を描いても一般の読者に読まれる機会はほとんどない。出版社の作品公募に応募したり、雑誌社に持ち込んだりして、入賞したり採用されたりすれば本や雑誌に載ることもあるが、これは狭き門だ。アマチュアが作品を発表する場といえば、同人誌や自費出版が一般的だった。これには手間ひまかかるし、お金もかかる。苦労して冊子の形にしても、けっきょく読者のほとんどは身内・関係者ということになり、個人の発信力には限界があった。
02窓誌面製版
うまいぐあいにコンテストで入賞したり、持ち込んだ作品が評価されて、本になったり雑誌に載ることができたとしても、全国の書店にくまなく配本されるわけではないし、書店に並ぶことができてもその期間は短い。作品と一般の読者と出会いは一期一会といった感が無くもない。
その点、ブログで発信した情報は、不特定多数の人がアクセスできるし、インターネット上にある限り、いつでも誰もが見ることができる。これは画期的なことだ。テレビやラジオ・雑誌・新聞など、マスメディアが発信する情報はどんどん移り変わっていくものだった。これに対し個人がブログなどで発信した情報は同時にそこに保存される。かつての憧れだった《自分の文章を活字化する》ことが実現するだけでもありがたいのに、総天然色画像や映像まで添付できるのだから恐れ入る。しかも、この個人発信ツールは、タダでも利用できるというのだからスゴイ時代になったものである。
同人誌や個人誌を作ったことがある者からすると、ブログは夢のようなツールといえる。これを使って、どんなことができるのか……僕が利用し始めた頃は、むかし撮った映像や、マンガ・文芸作品などをまとめたり、ローカルヒーロー・ショーを実写版マンガのようにまとめるのに使ってみたり、色々試しながら、《気ままな個人誌》のようなつもりで続けてきた。
03ブログ色々試行
「いつでも見ることができる」というのがブログの大きな魅力の1つだが、Yahoo!ブログがサービスを終了してしまえば、投稿し続けてきた記事は、もう見ることができなくなる……そうなる前に記事をFC2ブログに移行することができたのでホッとしている。

僕は拙作小品や関心があることをまとめ、いつでも見られるように整理しておきたいという考えで──また、同じような関心のある人にも面白さを伝えられたらという思いもあってブログを利用してきた。自分でおもしろいと感じることを記事にしてきたのだから当然なのだが……たまに昔投稿した記事を読み返してみると、おもしろい。ただ、記事が増えてくると、「見たい」と思い立ったときに、該当記事を探しだすのが難しくなってくる。そこで、過去に投稿した記事とリンクしたタイトル一覧のメニューをいくつか作ってある。


ブログ引っ越し騒動:ひと区切りついて
沈みゆくYahoo!ブログの記録


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