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ブログの考え方〜個人誌感覚でチャンネルF+

ブログのとらえ方・使い方は人によって様々だろう。僕は感じたり考えたりしたこと・作ったり撮ったりしたものをまとめ、整理するツールとして使っている。
僕自身もよくインターネットを利用し、色々なブログを目にしているわけだが……いつもネット情報の恩恵にあやかっているのだから、自分でもなにがしかの情報を提供し、還元したいという思いはある。利用するだけでは心苦しい。自分でもだれか(閲覧者)の足しになる情報を発信できればと思って、第三者の目を意識してわかりやすく丁寧な記事を心がけているつもりではいる。

僕が読者としてブログ記事を閲覧していて感じる様々なこと──内容の善し悪しや満足度は自分のブログにも反映する。「閲覧者としての評価基準」が自分が記事を作成するさいの「ものさし」にもなっている。
僕の場合、作成した記事が「読み返したくなるような内容かどうか」ということが投稿基準のひとつになっている。大しておもしろくもなく内容の薄い記事を量産するのはネット上にゴミを巻き散らかすようなものと考え、「読み返す価値がない記事」ならば投稿を控える。不特定多数の人がアクセスできる《場》に公開する以上、あまり失礼なものはあげられない。だれか(同様の趣味もって検索・訪問する人たち)にとって、意味のある情報でありたいと思っている。

そんなわけで、僕は自分の興味のあることをまとめ、整理する目的を持ちつつ、他者に読まれることも意識しながら記事作りをしている。これは、かつて作っていた個人誌の感覚に近い。

CF1号&解説

いってみれば、「ブログ」は僕にとって「個人誌」のようなもの。「ブログに投稿した記事」は、「個人誌に掲載した作品」のようなもので、愛着がある。
そんな感覚でYahoo!ブログを10年ほど利用してきたのだが、そのYahoo!ブログが今年でサービスを終了すると発表した。10年の間に投稿してきた「作品」のような「記事」の数々を消滅させるのは、なんとも忍びない。ということで、貯めてきたブログ記事を丸ごと移行してやってきたのが、ここ──FC2ブログということになる。ブログ名を《チャンネルF+(Plus)》としたのも、かつての個人誌《チャンネルF》の延長──という意味合いからである。

放っておけばネット上から消滅する記事をFC2ブログに移行できたことにはホッとしているが、問題がないわけではない。「興味のあることをまとめ、整理する目的」で作成してきたブログ記事は、「読み返したくなった時」に、すみやかにアクセスできるよう、関連記事同士は文字リンクでつなげ、思い立った時に芋づる式に引き出せるように「整理」していた。また、昆虫やエッセイ等の記事はそれぞれ文字リンクしたタイトルの一覧ページを作っていて、タイトルから記事を選んで開くことができるようにしていた。

ところが、各記事のURLは移行にともない変わってしまったため、ブログ内リンクは崩れてしまった(やがて消滅するYahoo!ブログのURLのまま)。読み返したい記事や記事群を探すのがやっかいになった。カテゴリーやブログ内検索の機能を使えば対象を絞り見つけ出すことはでるだろうが、手間がかかり、記事の「整理」感が損なわれてしまった感は否めない。
移行後、主要なところから内部リンクを再構築しているが、すべてを処理するのは大変そうだ。修復していくより新たな関連記事をまとめた一覧ページを作って再整理した方が早いのかもしれない。
とりあえず《チャンネルF+》のトップには抜粋記事の一覧が表示されるようにしてみた(FC2ブログには固定トップページを作る機能がないようなので、作成年を未来のものに書き換えて「最新」扱いにしている)。カテゴリーに【目次のページ】を設定し、ここにこれからも少しずつ関連タイトルを一覧にまとめた記事をあげて、「整理」していこうかと考えている。

ブログのとらえ方・使い方は人によって様々だろうが、僕はこれまで通り、個人誌感覚で続けていければと思っている。

Yahoo!ブログの可能性(※Yahoo!ブログ時代の記事)

ブログ引っ越し騒動:ひと区切りついてエッセイ・雑記
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ブログ以前~個人誌的ブログ:チャンネルF

ブログが無かった頃…個人の発表(発信)の場は少なかった

小学6年生~中学生の頃、4コマ漫画を描いていたことがあった。「趣味」というほどのものではなく、ラクガキ程度のもの。無地のノートにざっと下敷きで線を引いて(コマ割り)、いきなりボールペンや万年筆で描き込んでいた。「おもしろいハナシ(コント)を考える」のが楽しかったのだろう。今思うと、ショートコントを連発するテレビ番組の『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の影響もあったのではないか……という気がしないでもない。
ノートに4コマ漫画がたまってくると、気に入ったものを見つくろって他人にも披露したくなる。今ならインターネットを利用して不特定多数の人に発信する手段があるし、ブログなど他者が閲覧できる《場》への投稿も容易だが、当時はパソコンもインターネットもなかった。素人が個人で作品を披露できる《手段》も《場》も、ほとんどなかった。そんな時代だったので、僕が考えたことといえば……学校のプリント等で使われていたガリ版(謄写版)でマンガを刷ってみようということだった。今では知らない人が多いと思うので、ざっくり説明するとガリ版(謄写版)というのはロウをコーティングした原紙に、鉄筆と呼ばれる先端が尖ったペンで字や絵を描き、これを原版とする印刷。セットした原紙の下に紙を敷き、原紙ごしにインクを含ませたローラーを転がす。すると原紙の鉄筆でひっかいた部分(ロウが剥がれた部分)だけからイングが染み、原紙下の紙に字や絵が転写されるというもの。
ロウ原紙に鉄筆で描くさいにはヤスリの下敷きを使うのだが、これが慣れないと描きにくい。筆圧が弱いと印刷した時にかすれてしまうし、強いと原紙に孔をあけてしまい、インクがボタ漏れして汚くなってしまう。
当時、慣れない鉄筆にてこずりながらも原紙にマンガを描いたのだが……刷ってみると、そのできばえは思い描いていたものとはほど遠く……あまりのヒサンさにガッカリ。「4コマ漫画ガリ版計画」は即行で頓挫したのだった。
今から思えば、ブログのようなことがやりたかった気がしないでもないが……その頃は、素人が自分の作品を多くの人に向けて発信することは簡単なことではなかったのだ……。

初めてのメディア掲載

そんな僕のマンガが初めてメディアに載ったのは高校2年生のときだった。購読していた学研の月刊誌《高2コース》の読者投稿欄には漫画コーナーがあって、気まぐれに投稿したハガキ漫画が採用されたのだ。採用の通知と図書券が届いたのは発売日の後で、それを知らずに発売日に同誌を購入した僕は、読者投稿欄を開いて驚いた。トップに一番大きく見覚えのある絵が……自分の作品が載っているではないか! ポストに投函したあと、連絡も無いのでボツったとあきらめていたラクガキが、作者も知らぬ間に誌面を飾っていたとは……「(よく知った身内が)ちょっと見ない間に、ずいぶん立派になったもんだなぁ」的な感慨があった。


分厚い月刊誌のほんの片隅ではあったが、自分の作品が多くの人が目にするメディアに載ったことは嬉しかった。この感慨はインターネット以降の人にはちょっとわからりづらいかもしれない。
掲載に気を良くしたものの、僕は真面目にマンガを描いていたわけではなかった。当時本気で取り組んでいたのは児童文学(ファンタジー)の創作で、自分の作品を発表できる《場》を模索していた。
高校3年生で文芸系の同人誌に初参加。高校を卒業してから働いてオフセット印刷機と製版機を買い込み、1978年に同人誌《窓》を立ち上げたのだった。

同人誌の時代



僕が主宰した《窓》は、本文の文字も含め、全ページ手書きだった。当時はパソコンもワープロもなく、原稿用紙にペンで書いていた時代。自分の文章を活字にしたいという「憧れ」は強くあったものの、それにはお金がかかる──素人が自分の文章を活字にするというのは簡単なことではなかったのだ……。
《窓》は創刊準備号・創刊号・第2号の3冊で活動中止となったが、第2号(1979年7月)に一挙掲載した長編『クロカニ号の冒険』が、その後出版されるという驚くべき展開があった。金の星社が行っている公募に『クロカニ号の冒険』を応募していたのだが、その「第10回創作童話作品募集」に入選(1979年)──初めて書いた長編(230枚程度)&初めてのコンテスト応募&初めての入賞であり、もちろん出版(1984年)も初めてのことだった。


これ以降も児童文芸の研究会や同人誌で勉強を続け、朝日カルチャーセンターの「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」(通称・光瀬教室)の受講生らで同人誌を作ることになった。こうして誕生した同人誌《MON48》の創刊号(1985年3月)に掲載した『ねこにかかったでんわ』も、岩崎書店から単行本として出版することができた(1985年10月)。


出版で、多くの人の目にとまる《場》で作品を発表することができ、「活字化」への憧れがかなったのは我ながら驚嘆すべきことだった。が、この頃、もう1つ画期的なことが起こる。
日本語ワードプロセッサ専用機の導入だ。
それまでは、そうするしかないため原稿用紙に書いていたわけだが、「書く」という作業はわずらわしい。物語の創作は「作品を考える」ことと、「考えたことを書く」という作業を併行して行わなければならないわけだが、作者としては「書く」方の労力をできるだけ軽減して「考える」ことに集中したい。「考え」のスピードに追いつくために走り書きのように書き進めると、後に清書しなければならないし、推敲の際に下書きの汚い字を見ると内容も雑に思えてきたりして気分もよくない。なんとか下書きを完成しても(その時点で原稿用紙はゴチャゴチャしているので)、清書しなければならない……。時間をかけて清書した後、読み返して直したい箇所がでてくると、修正もやっかいで、新たに書き直したり切り貼りをするなど、かなり面倒な思いをしていて、こうした作業が大きな負担だった。
なので、原稿用紙(に書く作業)から解放されるということは画期的であった。文章を加えたり削ったり入れ替えたりの変更(推敲)が自由自在に行えるのでストレスがかなり軽減した。ワープロは自分の文章を「あこがれの活字」にして表示、出力してくれるのも気持ちもよかった。
夢の機械・ワープロを使えば簡単な版下を作ることもできる──そう考えて、同人誌ならぬ個人誌を不定期で気ままに作り始めた。

個人誌《チャンネルF》



出力した版下をコピーし、ホチキスで綴じただけの簡易個人誌《チャンネルF》(Vol.1は1987年12月1日発行)↑。《チャンネルF》の《F》は、《Fantasy》《Fusion(現実と幻想の「融合」という意味で)》《FUSHIGI》の《F》。「心のチャンネルを《F》にチューニングする」──という意味で、第1号の表紙には(ラジオの)チューナーを模した図案を描いている。冊子形式の個人誌《チャンネルF》とは別に瓦版的な──版下をコピーしただけの個人紙《チャンネル☆F通信》↓も作っていた。


当初は童話・小説・ショートショート・エッセイ等の文芸色が強かった個人誌《チャンネルF》だが、その時々に興味のあることについて記したり、今のブログに近い形になってきた。といってもブログに比べれば手間もかかるし、できることも限られていたが……。
その気ままさからラクガキ的要素が一気に強まったのが、第9号のパロディー・ヒーロー対決だ。友人・某が同人誌時代に楽屋落ち満載のヒーローもの──当時の同人仲間達を揶揄し引き立て役にして自分が正義のヒーローとして活躍する小説シリーズを書いていたのがきっかけだった。これに対抗して僕が書いたのがミラクル☆スターだった。


ミラクル☆スターのネーミングは、元祖・某のヒーローが「スーパースター」を名乗っていたので、「スーパー」に対抗するスターにしようと考えたもの。アメニ『天才バカボン』で、バカボンのパパがミラクルマンに変身(したつもりになる)──という回があって、これにならって(?)「ミラクル」を採用、《チャンネルF》第9号に初登場させた(当時の表紙はモノクロ。色は後にパソコンでつけたもの)。
この楽屋落ちヒーローものにさらに参戦する友人が現れ、三つ巴の小説対決合戦となり、《チャンネルF》第10号で『ミラクル☆スター 復活篇』を書くに至ったしだい。
ラクガキ小説として誕生したミラクル☆スターだったが……あろうことか、実写版へとエスカレート。当時、里山の小動物や昆虫等を撮っていたビデオカメラを使ってパロディヒーローものが作れないか──と考えた。試作として1人でロケを敢行。三脚に固定したビデオカメラの前で、変身ヒーローと怪人(某)の二役を演じ、編集で闘っているようにみせようというもの。今ならパソコンで合成などもできるのだろうが、当時はビデオ機器を繋げてのダビング編集で、カットのタイミングを合わせるのに苦労した。


こうして作った実写版ミラクル☆スターは、当初、内輪のネタがわかる同人仲間ら数人~十数人程度に見せるつもりでいたのだが……ひょんなコトから、TBSテレビの映像作家発掘番組『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』(通称『えび天』)で紹介され、多くの人が見る《場》で披露されることとなったのであった。


この『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』は自主制作映像作品をテレビで紹介するは番組だった。今でこそYouTubeなどで個人が撮った映像を投稿したり他の人たちの作品をいくらでも見ることができるが、当時、一般の視聴者が見ることができる映像作品はテレビや映画等の限られた商業メディアにほぼ限られ、アマチュアが作った映像作品を視聴できる機会は皆無に等しかった。ビデオカメラは普及していたが、子どもの成長を記録するとかプライペートな利用がほとんどだったろう。そういった時代に、アマチュア映像作品を見せるテレビ番組『えび天』は新鮮だった。
『えび天』出演を果たしたことで、個人誌《チャンネルF》でも実写版ミラクルスターを紹介したいところだが、映像作品を紙媒体に載せることはできない。ということで、かわりに(?)別冊・臨時増刊号で『ミラクル☆スター秘密大百科』という特集を組んでパロディ・ヒーロー対決にダメ押し。番外編の実写版ミラクル☆キッドを撮って、『ミラクル☆シリーズ秘密大百科』に至った。


というふうに暴走した個人誌《チャンネルF》だったが、その後は飼育中のフェレットを取り上げるようになる。


ペット雑誌の取材を受けたり、フェレットの記事を書いたり、フェレットの飼育書のイラストコラムを描かせてもらったこともあった。


14号・15号・16号とフェレット漫画が続くが、14号の『フェレットinジャケット』と15号の『ふぇレッツ・ゴー』は、ペット漫画雑誌《ハムスター倶楽部スペシャル》の新人まんが大賞に応募していた。『フェレットinジャケット』は《第6回》の回し車賞+編集部期待賞受賞を、『ふぇレッツ・ゴー』は《第7回》のハムスター賞を受賞。ともに《ハムスター倶楽部スペシャル》に掲載された。


ハムスター賞を受賞した『ふぇレッツ・ゴー』は、不定期連載されることになった。昔は4コマ漫画などをラクガキていどに描いていたことがあったが……フェレット漫画に関しては「マンガとしての面白さ」の追求をするというスタンスではなく、あくまでも「フェレットの面白さ」を描く実録漫画としてとらえていた。
このフェレットの散歩中に出会う昆虫たちを調べるようになったのがきっかけで、昆虫に関心を持つようになっていく。

個人誌《チャンネルF》からブログ《チャンネルF》へ…

やがてワープロ専用機が絶滅し、パソコンにとって変わられる頃には、《チャンネルF》は休止状態になっていた。電子会議室に出入りするようになり、その後Yahoo!ブログを始めるようになって、個人誌ではできなかった実写版ミラクル☆スターの動画を載せたり、カラーイラスト・写真などをふんだんに盛り込んだりして利用してきた。個人の「情報発信の《場》」として、ブログというツールはとても優れており、個人誌とは比べ物にならない。このあたりのことは【Yahoo!ブログの可能性】という記事でも記している。また、関連記事をリンクでまとめ、すぐに開けるようにセットできることもブログの便利な点だ。
そんなわけで(個人誌《チャンネルF》に代えて?)Yahoo!ブログで10年近く記事を投稿して来たわけだが……Yahoo!ブログは今年12月に終了するという。他のブログへの移行ツールを準備中ということだが、どんな形でこれまでに蓄積してきた記事が引っ越しできるのか気になるところ。便利なので多用してきたリンクが引っ越しでURLが変わることで切れてしまうとすると大事た。全て修復しようとすれば膨大な時間がかかるだろう……。
ブログというのは便利なツールだが、こうなると、なかなか厄介だ……。

移行先ブログを探す過程ではてなブログを試しているところだが、長らく中断していた《チャンネルF》のブログ版──新たな発信の《場》として使えるかどうか……思案中。

赤いクモ~夢の前兆~

ショートショート『赤いクモ~夢の前兆~』

同人誌《MON48》第5号(1990年11月)の埋め草用に書いた原稿用紙(20字×20行)換算4枚強のショートショート。










虫見を始めるだいぶ以前の作品だが、当時から虫が出てくる作品はちょくちょく書いていた。この作品ではクモやコガネムシの種類については具体的に想定してはいなかった。媒体の《MON48》は朝日カルチャーセンター「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」の受講生によって1985年3月に創刊された同人誌。筒井康隆原作の邦画『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)のエンドロールにも、チラッと映っていたりする。
『赤いクモ~夢の前兆~』を掲載した《MON48》第5号と、『文学賞殺人事件 大いなる助走』のエンドロールで映し出された《MON48》第3号↓。


《MON48》の誌名は「大衆文芸の書き方」の講座が毎週月曜日(MON)に新宿住友ビルの48階の教室で開かれていたことに由来する。表紙の図案は翼を広げたペンが新宿住友ビルから飛び立つところ。

久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』

最近リリースされた30年前の『文学賞殺人事件 大いなる助走』DVD



筒井康隆の小説『大いなる助走』を映画化した『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDが今年の5月にリリースされていた。鈴木則文監督によるこの映画が公開されたのは1989年1月28日(Wikipedia情報)だそうで、DVDジャケットにも「©1989アジャックス」と記されている。しかし、本編では最後の「大いなる助走」と記されるシーンで「©1988 AJAX」とスーパーが入っている──こちらの方は製作された年ということなのだろうか? ジャケットと本編で©の年が違っているのが、ちょっと気になった。

作品の概要は──、
主人公・市谷京二(佐藤浩市)は地方都市の大企業「大徳産業」に勤めるエリートサラリーマン(※DVDジャケットの【ストーリー】やWikipediaの【あらすじ】では「大徳商事」と記述されているが、映画・原作ともに「大徳産業」が正しい)。地元の同人誌「焼畑文芸」を拾ったことがきっかけでこのグループに入り小説を書き始めることになるのだが……初めて「焼畑文芸」に掲載した『大企業の群狼』(※Wikipediaの【あらすじ】では「大企業の群像」と記されているが「大企業の群狼」が正しい)が、中央の文芸誌「文學海」に取り上げられ話題となる。そしてなんと権威ある「直本賞」の候補作品になってしまう。しかし、この作品は大徳産業の内幕を暴露したもので、顧問を務めていた父や大徳産業の後ろ盾で市議会進出を企てていた兄は激怒。会社はクビとなり勘当されてしまう。同人誌仲間には妬まれ、居場所を失った市谷京二は上京。なんとしても「直本賞」をとって文学で身を立てねばならない……追いつめられた市谷京二は直本賞世話人(受賞請負人)多聞伝伍(ポール牧)の助けを借り、全てを投げ打って受賞のために奔走するが、直本賞の選考は二転三転して落選。市谷京二は怒りにまかせて、自分を落選させた直本賞選考委員たちを次々に殺して回るという私怨作品『大いなる助走』を書くが……それまで面倒見がよかった雑誌編集者たちからも冷たく見放されて、書いたことを実行して行く。

原作の『大いなる助走』を書いた筒井康隆氏自身が「直木賞」の候補に3回選ばれながら受賞していない経緯もあって、連載当時は注目され、色々物議をかもしたらしい。編集部に「あの連載をやめさせろ」と怒鳴り込んで来た文壇の長老もいたとか。今回HDニューマスター版DVDでは特典として筒井康隆氏と鈴木則文監督の対談映像(2002年収録)が収録されているのだが、この「怒鳴り込んで来た文壇の長老」のエピソードについても触れられている。実名を伏せて話している最中に、つい筆名を言ってしまうというハプニング(?)もあった。また、筒井氏は映画にもSF作家の役で出演し、文壇バーで暴れるシーンを演じている。

エンドロールの同人誌にビックリ

僕が初めて『文学賞殺人事件 大いなる助走』を観たのは1992年12月25日深夜(正確には26日未明)。TBSテレビで放送されていたものだった。原作の『大いなる助走』は読んでおらず、予備知識なしに視聴していた。僕もいくつかの同人誌活動を経験していたので、同人誌やアマチュア文学家にありがちなエキセントリックな言動・ディテールに「あるある・ありそうだなぁ」と共感しつつ引き込まれていた。権威ある直本賞の選考委員を皆殺しにするというスゴイ展開になってしまうわけだが、僕が一番驚いたのは、最後のエンドロールを眺めていたときだった。エンドロールでは全国から集めたと思われるたくさんの同人誌が次々に映し出されるという演出があって、これには圧倒感があった。今ではブログやSNS、YouTubeなどでアマチュアが不特定多数の人たちに自由に発信できる場があるが、当時はアマチュアが自分の書いたものを世間に発表する場はほとんどなく、時間・労力・お金を費やし、苦労して作った同人誌に載せるくらいしかなかった。しかし読むのは大抵関係者で一般の読者の手に渡ることは少なく、そういった意味では苦労の割に報われることが少ない媒体だった。その1つ1つにアマチュア作家達の夢や執念が込められた同人誌が次から次へ画面に映し出され、「焼畑文芸」のように日の目を見る事が少ないアンダーグラウンドの活動が実際に数知れず存在することを物語っていた。
その同人誌が次々に映し出されていくエンドロールの最初の方で、見覚えがある表紙が……僕が描いた図案が、いきなり目に飛び込んできた。僕も参加していたことがある「MON48」という同人誌の第3号がそれで、知らずに観ていた映画の中に突然親しい友人が登場したかのような驚きを覚えた。


「MON48」について触れておくと──、朝日カルチャーセンターの中の講座のひとつ「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」の受講生による同人誌。受講生の中には既に商業出版している人、プロとして活動している人も何人か含まれていた。受講の成果として(?)受講生たちが書いた作品を集めて同人誌を作ろうということになって誕生したのが「MON48」だった。誌名は、この講座が毎週月曜日(MON)・新宿住友ビルの48階の教室で開かれていたことに由来する。誌名は皆で候補を出し合った中で僕の案が採用された。表紙も僕が描くことになったのだが、翼を広げたペンが新宿住友ビルから飛び立つ──といった図案になっている。

朝日カルチャーセンター由来の同人誌MON48が映画『文学賞殺人事件 大いなる助走』の最後に登場したわけだが、映画本編の中にも「朝日カルチャーセンター」を「朝目カルチャーセンター」ともじってでてきた部分があった。直本賞世話人(受賞請負人)多聞伝伍(ポール牧)が市谷京二のライバル候補者について技術的には稚拙だと評すシーンがある。そこで「朝目カルチャーセンターで小説作法を学んだ程度だからな」なんてセリフがでてくる。



『文学賞殺人事件 大いなる助走』の本編とは別の話になってしまうが……初めてこの映画を観た時は、「MON48」がいったいどういう経緯でエンドロールに登場したのだろうかと不思議に思った。「MON48」のメンバーには同人誌発行に尽力したH女史がいて、彼女の師匠である団鬼六氏がこの映画に地方文壇の名士・萩原隆役で出演している──そのつながりで「MON48」が渡ったのだろうかとも想像したが、エンドロールで映し出された同人誌は文藝春秋社が提供したものだったらしい。
エンドロールで流れた「MON48」を見て(これは第3号だったが)、第4号(1988年)に《H女史が直木賞を辞退しMON48賞に選ばれて驚喜する》という掌篇コントを載せたことを思い出した。これは埋め草として僕が書いたものだが、もちろん当時は「MON48」が「直木賞」をネタにした映画のラストに使われようとは想像もしていなかった。
余談だが、「MON48」創刊号で発表した僕の『ねこにかかったでんわ』は後に単行本として商業出版されている。



『文学賞殺人事件 大いなる助走』本編とは直接関係のない、あるいは他の人からすればどうでもよい個人的な事を長々と記したが、「MON48」ひとつとっても当事者にとっては色々あるわけで……エンドロールで流れる膨大な同人誌──その1つ1つに同じような色々思いを馳せる関係者がいるだろうということだ。そうした同人誌の世界があるということを踏まえて『文学賞殺人事件 大いなる助走』を観ると、また一段と味わい深い気がする……。

この映画を最初に見た時は録画しておらず、それを悔やんだものだが、その後フジテレビの深夜枠で放送されたものをビデオ録画──しかし残念ながらそれはオリジナル(129分)より15分程短いカット版だった。ノーカット版が欲しくてネットで検索してみたこともあったのだが、当時はDVD化されていないかったようだ。そんなわけで、今年になって『文学賞殺人事件 大いなる助走』のHDニューマスター版DVDが出たことを知り、購入して久しぶりに完全版を鑑賞することができた。やはり映画の内容だけでなく、同人誌にまつわる色々なことが思い起こされる……。随所にコミカルな演出がほどこされていて面白かったが、はたから見れば徒労・不毛な努力を続ける人・続けざるを得ない人たち──そうした同人誌作家たちの物語として観ると滑稽さだけでなく、やるせなさも伝わってくる。
久しぶりに鑑賞して、当時の同人誌活動の感覚というのは、インターネット世代にはちょっとわからないのではないか……という気がした。昔はアマチュアが作品を発表する場がほとんどなく、自分が書いたものを他の人たちに読んでもらおうとすれば苦労して同人誌を作るくらいしなかった……そんな時代に比べ、今では誰もが手軽にブログやSNS、YouTubeなどで全世界に向けて情報を発信できる。ブログを始めて「あのときの努力は何だったのか?」と思ったりしたものだ(*)。
もちろん同人誌はインターネット以降も作られ続けるだろうが、その意味合い・実感は昔とはずいぶん違ってきているのではなかろうか……。そうした時代感も含めて『文学賞殺人事件 大いなる助走』は味わいのある作品だと改めて感じた。




うつろう記憶媒体~失われし記憶ハ痛イ~

ビデオテープの時代





僕が初めて購入したビデオデッキ(ビデオテープレコーダー)はβ方式だった。これ↑は当時ビデオテープに録画したテレビ番組の内容を記したノート。後で確認したいシーンを探し出しやすいように、登場する動物種を順番に書き出していた。
家庭用ビデオデッキが登場する以前は、せめて音声だけでもとテープレコーダーで気に入ったテレビ番組を録音していたなんてこともあった。昔はテレビ番組は見逃してしまうとそれっきり。だから見たい番組はキアイを入れて視聴していた。
それが「録画」できて、好きな時に何度でもくり返し見られるというのだからスゴイ!──ビデオデッキは夢のような機械だった。ターゲットの番組があると、撮り逃すことが無いように放送時間の前からテレビの前に待機。カウントダウンするような気持ちで放送が始まるのを待ち受けていたものだ。当時はまだビデオデッキのリモコンもワイヤレスではなかった(ケーブル・コードで本体とつながっていた)。ビデオテープも高価だったため、録画時間を節約しようと(&再生時の利便性も兼ねて)、手動でCMカット(一時停止/解除)しながら録画していた。今から考えれば煩わしいが、当時は「テレビ番組を録画保存できるとは、なんと便利な機械だろう」とその機能にすっかり満足していた。

高価なビデオテープを準備したり、録画内容を書き出して整理したり……当時はそれだけキアイを入れてテレビ番組を視聴していたわけだ。人によって愛好番組は様々だろうが、そうした「放送を心待ちにしている人たち」が「質の良い視聴者」なのではないだろうか。テレビ局はこうした人たち(質の良い視聴者)に愛される番組作りを目指すというのが本来あるべき制作姿勢ではないかと思うのだが……実際は目先の視聴率競争にやっきになり、てっとり早く視聴率を稼ぐために、本来大事にすべきファン──《放送を心待ちにしている「質の良い視聴者」》をないがしろにし、《家事をしながら、あるいは惰性でテレビをつけている、いわば「質の悪い視聴者」》の関心を引くことばかりに熱心だった印象が強い。そのジャンルにふさわしいとは思えない人気タレントを起用したり(番組の内容よりもタレントの人気で視聴率を稼ごうという安直さ)や、過剰な演出や思わせぶりな演出、肝心なシーンを先延ばしにしてひっぱり続け、「おいしいシーンはCMの後いよいよ」的な展開で視聴者に散々気を持たせ、実際はしょぼい内容で番組を終えるという詐欺のような手法が増え、テレビファンを失望させていった気がしてならない。こうしたあざとい演出で目先の視聴率を稼ごうとする制作姿勢が、本当に放送を心待ちにし、キアイを入れてテレビに見入っていた「質の良い視聴者」を失望させ、テレビ離れに拍車をかけたのは確かだろう。僕も地デジ化を機にテレビから離脱している(*)。

ビデオの話から脱線してしまったが……話を戻して──、
録画内容の整理ノートからも判るようにテレビ番組を録画したビデオテープはたまっていった。録画機も、β方式→VHS→S-VHS→8mmビデオ→VideoHi8へと変遷していったわけだが……その過程の中で、番組録画のみならず、自分で撮影できる家庭用ビデオカメラが登場する。

映像を記録するカメラとしてはビデオ以前にも8mmフィルムを使ったものがあるにはあった。友人にこの8mm(ビデオではなくフィルム)カメラを持っている者がいて、高校時代にはアクション映画を撮って文化祭で上映したこともある。ただ、8mmフィルムは1本で3分あまりしか撮れず、ビデオのように撮り直しがきかない。撮影した映像を確かめるためには現像に出して何日か待たなければならなかった。また、フィルム代のほかに現像代もかかるし、音声の記録はオプション扱い──ビデオテープよりはるかに高価で不便なメディアだった。
そんな8mmフィルム時代を経験してきているから、1本のテープで(標準モードで)2時間も撮影ができ、撮影した映像をその場で確認することができ、そのうえ撮り直しもできる、しかも現像代もかからないビデオカメラは、これまたスゴイ製品だった。

ということで、僕もビデオカメラを購入し、最初は里山のヘビやカメなどの小動物や昆虫等を撮ったりしていた。そのうちビデオカメラを使って何か面白いことができないかと考え、インディーズ・スーパーヒーローミラクル☆スターを試作。8mmフィルムよりも不便だと感じたのは……8mmフィルムではカットイン・カットアウトの位置をコマ単位で決められるのに対し、ダビング編集の8mmビデオでは(当時の家庭用編集機器では)コマ単位での指定できなかったこと。カットのタイミングを合わせるのに苦労した思い出がある。そうして仕上げたミラクル☆スターは、なんとテレビ番組(「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」通称「えび天」)の中で上映され、その放送をビデオデッキで録画する──ということもあった。





こうしてビデオテープはテレビ番組を録画したものだけでなく、ビデオカメラで撮影したもの、編集したものを含め、どんどん増えていった。
ビデオテープの形式がβ→VHS→S-VHS→8mmビデオ→VideoHi8へと推移したことは前記の通りだが、さらにDVDやBD、HDDへと記憶媒体も変化していった。

カセットテープの時代

話は前後するが、「映像」を記録する装置の前に「音声」を記録する装置──テープレコーダーがあった。僕が子どもの頃に初めて我が家にやって来たのはオープンリールのテープレコーダーだった。装置自体もかさばるし、録音・再生する時のテープのセッティングが煩わしい。その後登場したコンパクトなカセットテープを使うラジカセはラジオ放送を録音できたりレコードプレーヤーと直結できて画期的だった。
音声の再生専用装置としてはそれ以前からレコードプレーヤーがあったわけだが、好きな曲だけをまとめて聞くにはカセットテープにまとめる必要があった。またレコードは傷つきやすく取り扱いに神経を使う。友人の中には同じレコードを2枚ずつ買っていた者もいたくらいで、なるべくラジカセで録音したテープを聴くようにしていた。

ラジカセといえば──東海ラジオの深夜放送をラジカセで録音していた時期がある。東海ラジオ放送は名古屋の放送局だったが東京でも深夜にはなんとか電波が受信できた。兵藤ゆき氏がDJをつとめる「ミッドナイト東海」という番組に童話コーナーというのがあって、そこに投稿して採用された掌編童話がラジオドラマ仕立てで放送になったなんてこともあった。その音声作品はラジカセでカセットテープに録音してある。
掌編童話『雨の日の通信』のイメージ画(後に僕が描いたもの)と、「ミッドナイト東海」で放送されたラジオドラマを録音したカセットテープ&ケース↓。




当時主流であったカセットテープも、使い続けていると時々巻き込みトラブルがあってダメになることがあった。録音できる容量(時間)も今の記憶媒体に比べればずいぶん少なく、安泰の記憶媒体ではなかった。
再生専用メディア(記憶媒体)であったレコードはその後登場したCDにとって変わられることになるが、そのCDも、今では(楽曲もインターネットでダウンロードできるようになったため?)需要が減っているらしい。何年か前にCD店がずいぶん少なくなっていることに気がついて驚いた。かつては町のあちこちにレコード店はあったものだが……時代の流れを実感する。音声の記憶媒体も移り変わっていった。

ワープロの時代

ところで、冒頭のビデオノートの記述もカセットテープの内容の記載も僕の肉筆。当時はまだ日本語ワードプロセッサもなかった時代。今でこそ文書の作成はパソコンやスマホ等でのタイプが当たり前だが、当時は肉筆で一字一字記すしかなかった。
僕には同人誌活動をしていた時期があるが、自分が書いた作品を活字化することにはあこがれがあった。しかし実際に同人誌を作るとなると、活字を組むにはお金がかかる。そのため、オール手書きで同人誌を発行していたこともある。
《窓》は僕が主宰した同人誌で本文は墨一色、手書きの文字とイラストだった。その《窓》第2号と、読者からの便り&返事を紹介したページ↓。




このページ↑をは全て僕が描いた。字は書体を変えて記している(返事の内容は同人メンバーS氏の文章だが、文字は僕が記したもの)。
僕は元々字は汚かったのだが……同人誌を手書き文字で作る必要から、よそ行きの清書は「字を書く」のではなく「記号を描く」つもりで一時一時丁寧に記すようにしていた。しかしこれは時間&労力を要すものだった。
なので、日本語ワードプロセッサなるものの存在知ったときには激しく羨望した。その頃は1台数百万円もする高嶺の花だったのだが……わずか数年のうちに低価格化と普及が進み、僕もついに憧れのワープロを手にする日が実現する。手軽に文章を作成したり編集でき、しかも活字でプリントできるのが嬉しくて、個人紙・個人誌を作ったりした。そこでイタズラ書きから誕生したのが小説版ミラクル☆スターで、その後ビデオでの映像化へとつながったわけである。




ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯より

ワープロの導入により、書いたり直したりする作業はずいぶんと楽になった。そして原稿の記憶媒体は原稿用紙からフロッピーディスクへと移行していく。
ところが……羨望の最新機器であったワープロ専用機自体も、廃れるのは早かった。パソコンの普及によって既に絶滅……ワープロ時代に使っていたフロッピーディスクも化石化してしまった……。

「より便利なもの」より「長く使えるもの」を

ビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等に記録したものは多い。冒頭のノートを見ると、収集や整理に時間やお金(記憶媒体代)・労力をつぎ込んでいたのがわかる。しかしそうしてコツコツ蓄積してきたデータが、記憶媒体の変化によって(現役の再生機が残っていないため)利用できない状態にある。

ビデオテープ時代に撮影・編集したミラクル☆シリーズはかろうじてDVDにダビングしてあって今でも観ることができるが、カセットテープに録音した掌編童話の方は再生できない。ただ、こちらの作品は原稿用紙に肉筆で書いていた時代のものなのでオリジナル原稿は残っている。

テクノロジーの進歩は目覚ましく、次から次へと「より便利なもの」が登場してくるが、新たなものが出てくれば、それまでのものは古くなり廃れていく……。記憶媒体の変化で取り残され、使えなくなってしまうデータも多い。これでは便利なのか不便なのかわからない。現在使っているDVDやCDだって、いつまで使えるのかと考えると不安になってくる。

小学生時代のガリ版(謄写版)刷りの文集は今でも読めるが、その後登場した最新機器で記録した記憶媒体の多くが今では再生できない……。
けっきょく一番長く安定して利用できているのは最古参の紙媒体だ。便利なはずの最新記憶媒体がどんどん衰退・絶滅して行くのをみてくると、再生装置が無くても(ヒトが標準装備した器官のみで)再生(見たり読んだり)できる紙媒体の優位性が改めて実感される。
これからも便利な道具はたくさんでてくるだろうが、僕が切望するのは「より便利なもの」よりも「長く使えるもの」だ。記憶媒体は長く保存&再生(利用)できることが、何よりも大切なはずだ──僕はそう考えているのだが、最古参の紙媒体に勝るメディア(記憶媒体)はでてくるのだろうか。