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※2019年12月に終了するYahoo!ブログ【星谷 仁のブログ】から移行してきたため、まだリンクの整理がしきれていところがあるかもしれません。
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夢の中から電話で自分を起こした話

先日[エッセイ・雑記]のカテゴリーで投稿した【夢の中から電話!?】を小説版(ショートショート)として書き直してみたもの。

01夢から電話SS01
02夢から電話SS02
03夢から電話SS03
04夢から電話SS04
05夢から電話SS05
06夢から電話SS06
07夢から電話SS07
08夢から電話SS08
09夢から電話SS09

夢の中から電話!?(エッセイ版)


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カエルの念力

カエルの念力で雨を降らせ、運動会を中止できる!?──そんな奇妙なハナシを持ちかけてきたのは転校生だった。小学4〜5年生以上を読者対象に想定して書いた原稿用紙(20字×20行)換算で10枚弱のミステリー童話。

01カエルの念力
02カエルの念力
03カエルの念力
04カエルの念力
05カエルの念力
06カエルの念力
07カエルの念力
08カエルの念力
09カエルの念力
10カエルの念力

だいぶ昔、《どちらに転んでも儲かる賭け》の着想を得て書いてみたもの。しかし、こうしたリスクを分散する考え方はヘッジファンドなどで既にありそうだと気づき、そのまま放置していた。書いた時期は記憶が定かではないが、作中に登場するカエルにツノガエルをイメージしていたのは覚えている。Yahoo!ブログからの移行検討期にテストを兼ねて、はてなブログの方には投稿していたのだが、FC2ブログにも改めて投稿しておくことした。


人面ガエル
(カエルがでてくるホラー童話)
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ちょっと怖い話!?かごめかごめ〜座敷童子

ちょっと怖い話『座敷童子と《かごめかごめ》』
最近、座敷童子(ざしきわらし・ざしきぼっこ)について調べたり考えたりしているが、その過程で「かごめかごめ」という子どもの遊びについて触れることがあり、ちょっと怖い(かもしれない?)話が思い浮かんだ。着想の経緯は後に記すことにして、とりあえず「かごめかごめ」で思い浮かんだ怖い話を──。
    *    *    *    *    *    *

座敷童子と《かごめかごめ》 by 星谷 仁

 旧家の行事で久しぶりに顔を合わせた親戚の子どもたちが奥座敷に5人集まっていた。
「かごめかごめ」をしようということになり、ジャンケンで負けた1人が鬼になって部屋のまん中にしゃがんだ。背を丸め顔を両手でおおった鬼のまわりを残った子どもたちがとり囲む。手をつないで輪になった子供たちは「かごめかごめ」を歌いながらまわり始めた。

「かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?」

 歌い終わると同時に、輪になっていた子どもたちはしゃがんで鬼の答を待った。鬼は見ないでうしろにいる子を当てなくてはならない。

「トモコちゃん」鬼が言った。
「はずれ」鬼の横にいたトモコが笑った。すると鬼はうつむいて顔を両手でおおったまま、また言った。「じゃあ、ヒロくん」
「はずしたのに、また答えるなんてずるいぞ」鬼の正面にいたヒロが口をとがらせる。
 しかし、鬼は同じ姿勢で続けざまに「タカシくん」「ケンちゃん」と名をあげる。本人が「違う」「はずれ」と答えると、最後に鬼は「アヤカちゃん」と答え、後ろにいたアヤカが文句を言った。「ずるいよ。5人全員の名前を言えば、当るに決まってるじゃん」
「ちょっと待って!」年長のトモコが気がついた。「5人で遊んでいたのに、囲んでいるのが5人て、どういうこと?」トモコの声は裏返った。「なら、鬼は誰なの!?」
 5人はぎょっとして顔を見合わせた。みんな最初からそこにいたメンバーだった。5人がとり囲んだ中心には……6人目の子の背中があった。

 ……こんなのが、座敷童子(ざしきぼっこ)──かもしれない?


    *    *    *    *    *    *
座敷で遊んでいた親戚どうしの子どもたち。気がつくと人数が1人多い……日常空間に忍び込んでいた異分子に気づく驚き──これはちょっとコワイかもしれない(?)。子どもたちの無邪気な遊び「かごめかごめ」も、見方によっては《異世界の存在を呼び出す儀式&呪文》のような怪しげな雰囲気がなくもない……そう感じるのは僕だけだろうか? 座敷童子が「かごめかごめ」で異世界から召喚された存在だとしたら、その儀式で鬼に当てられたアヤカには、どんな運命が待ちうけているのだろうか!?──などと想像が広がった。

遊んでいる子どもたちが1人増えるという不思議なエピソードは宮沢賢治が1926年に雑誌『月曜』2月号で発表した『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』の中にでてくる。短い作品なのでその部分を引用すると──⬇。


「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
 一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。
 どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。
 そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。
 けれどもだれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。


この賢治が描いた『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』のエピソードを意識してまとめたのが『座敷童子と《かごめかごめ》』ということになる。
僕が『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を知ったのは比較的最近のことで、初めてこのエピソードを読んだときは、最初にでてくる「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」というのがわからなかった。調べてみると、どうやら「かごめかごめ」のように子どもたちが手をつないで行う遊びらしい。
「かごめかごめ」なら僕も子どもの頃に遊んだことがあり知っている。懐かしい遊びだが……今ふり返って考えてみると、当時気にとめることもなく歌っていた歌詞も、なんだか不思議で謎めいたもののように思われてくる……。


「かごめかごめ」で座敷童子を召喚!?
「かごめかごめ」は鬼ごっこの目隠し鬼のひとつ──とみることもできるのだろうか。手で目を隠した鬼が自分の後ろに位置した者を当てるゲームだ。まずジャンケンで鬼を決め、しゃがんだ鬼をとり囲んで他の者が手をつないで輪になる。そして鬼を中心に回りながら、「かごめかごめ」を歌う。「後ろの正面だあれ?」という歌い終わりで輪になっていた子どもたちもしゃがみ、鬼は自分の後ろにしゃがんた子を当てる。外れた場合は鬼はそのまま継続し、当った場合は、当てられた者が鬼と交代する。
歌詞は地域によって違いがあるようだが、僕らのところでは次のようなものだった。


 かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?


当時は意識したこともなかったが、この歌詞にはどんな意味があったのだろう? 検索してみると、話をおもしろくするためのこじつけと思われるようなものも含め、諸説でてきて、けっきょくよくわからない。
そこで僕なりに解釈してみると──、

「かごめかごめ」は鬼を囲むところから「囲め囲め(かこめかこめ)」が訛ったものだろう。カ行は言葉の中に出てくると濁りがち。「川(かわ)」や「柿(かき)」「垣(かき)」など、言葉の頭では清音だが言葉の途中では「○○川(がわ)」や「渋柿(がき)」「石垣(がき)」と濁るし、「頃(ころ)」や「米(こめ)」も前に言葉がつくと「今頃(ごろ)」、「もち米(ごめ)」と濁音に変化する。
「籠の中の鳥は」は、(「かこめ」が訛った)「かごめ」の「かご」と「籠」をかけ、「囲まれた鬼」を「籠の中の鳥」にみたてた歌詞なのだろうと想像する。
「いついつ出やる」は「鳥(に見立てた鬼)が、いつになった籠の中から(後ろの子を言い当てて)出られるのか(鬼が交代できるのか)」と鬼をはやす言葉だろう。

この遊びでは、鬼は自分の前にいる子ではなく後ろにいる子を当てる。前にいる子を当てるのであれば、目をおおっている指の間から覗き見をするなどのズルができてしまうので、それができない背後の子を当てることになったのだろう。このため「後ろの正面だあれ?」という歌詞が生まれた。
この「後ろ」と「正面」は本来、正反対の言葉だ。この「あべこべの組み合わせ」に対応しているのが「夜明けの晩に」という「夜明け」と「晩」の正反対の言葉を組み合わせたフレーズではないかと思う。
「鶴と亀が滑った」という部分はよくわからないが、あるいは、節(メロディー)を埋めるために「あべこべ」的──ナンセンス系の「おかしな表現」として、ありがたいイメージのある鶴と亀の滑稽なシーンとして加えられたものではなかろうか……。
今考えると、そんな強引な解釈もできなくはない気がするが……「夜明けの晩」や「後ろの正面」など、シュールで不可解な歌詞も含まれているので、この遊び自体が超現実の扉を開く謎の儀式&呪文のようにも思えてきたりする。そんなイメージが「かごめかごめ」➡「座敷童子の召喚」という着想につながり、冒頭の『座敷童子と《かごめかごめ》』となったわけである。


座敷童子の《ひとり多い…》は創作なのか?
さて、宮沢賢治が描いた『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』だが、これは、岩手県遠野の民俗学研究家・佐々木喜善が蒐集した民話をまとめた小冊子『奥州のザシキワラシの話』(1920年)に対して、賢治の地方の座敷童子は──という形で書かれたものだったらしい。佐々木喜善は、柳田國男に『遠野物語』を提供した民話・伝説・習俗・口承文学の収集家で、『奥州のザシキワラシの話』も、フィクションではなく彼が地道に取材した座敷童子に関する資料集である。それでは賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』はどうだったのだろう? 《童話》として全集に収められているが、この作品で語られている4つのエピソードには、モデルとなる伝承があったのだろうか……それとも賢治の創作だったのだろうか?

こんなことが気になるのは、僕が子供の頃から抱いていた《座敷童子》のイメージが、賢治の描いたものに近く、一般の(?)民話とはズレているようだと最近になって気がついたからだ。僕が座敷童子を知ったのは、いつ・どんな経緯だったかは覚えていない。ただ、《遊んでいる子供たちがいつのまにか1人増えていて、誰が増えたのか特定できない》という不思議な現象が強く印象に残っている。おそらく宮沢賢治の童話にあるエピソードかその元となる話(があるなら)を誰かから聞いたのだろう。「メンバーは同じ顔ぶれのままで、どうして人数だけが増えるのだろう?」「数が増えているのに誰が加わったかわからないなどということがあるのだろうか?」と幼い頭で考えた記憶がある。だから、僕にとって座敷童子の一番の特徴は《1人増えるが特定できないという不思議な現象》だった。筒井康隆の作品にもこの現象を扱った『座敷ぼっこ』というSF短編があるし、座敷童子についての似たような認識は何度か聞いてきた……だからこの不思議な現象こそが座敷童子の最大の特徴だと長い間思い込んでいた。
ところがあるとき、民話集のたぐいの本で座敷童子について調べてみたところ、期待していたこの特徴がなかなか見つからず、キツネにつままれたような気がした。そして最近になって宮沢賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を読んで、《1人増えるが特定できないという不思議な現象》というのは賢治の創作だったのではないか……と考えるようになっていた。

実際に残っている伝承の中に《1人増えるが特定できないという不思議な現象》にあたる話は存在しているのだろうか……それとも、僕が思い込んでいた座敷童子の特徴は都市伝説のようなものだったのだろうか?
そんなことを考えるようになって、賢治が『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を書くきっかけとなった『奥州のザシキワラシの話』を読んでみたくなった。調べてみると『奥州のザシキワラシの話』は『遠野のザシキワラシとオシラサマ』という本に収録されているらしい。検索してみると隣の市の図書館にこの文庫版があることがわかり、さっそく借りてきた。
01遠野の座敷童子表紙
『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(佐々木喜善/中央公論新社/2007年)⬆に収録されていた『奥州のザシキワラシの話』の中に、喜善自身が聞いた話として、こんな事例が記されていた⬇。


(二三)土淵村字本宿にある村の尋常高等小学校に、一時ザシキワラシが出るという評判があった。諸方からわざわざ見に来たものである。児童が運動場で遊んでおると、見知らぬ一人の子供が交って遊んでいたり、また体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がしたという。それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである。遠野町の小学校からも見に来たが、見た者はやっぱり一年生の子供等ばかりだったそうである。毎日のように出たということである。明治四十五年頃の話である。同校教員高室という人にこのごろただすと、知らぬと言ったがどうした事であろうか。この人はその当時から本校におった人であるのに。(P.20)

体育の時間に整列した生徒が人数確認の「番号」を言っていくのは僕らも経験がある。そのときに実際にいるはずの人数より1つ余計に声がしたという話は興味深い。いつのまにか子供の数がひとり増えているという座敷童子の《プラス1》伝説(?)のわかりやすい一例かもしれない。

《顔ぶれは同じなのに1人増える》という現象は成立し得るのか?
佐々木喜善・著『奥州のザシキワラシの話』の中に、《体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がした》《それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである》といった不思議な現象を示す話があったのは興味深いが、僕が認識していた座敷童子の特徴や宮沢賢治が描いた座敷童子のエピソードとは微妙にして大きく異なる点がある。《座敷童子が1年生の子には見えた》ということだ。大人にとっては「声はするけど姿は見えない」だけで、その存在が見える1年生には「増えた子を認識できた」ということになる。これでは顔ぶれと人数の不一致(矛盾)は起こらない。見えない大人が数えれば子どもたちは本来の人数であり、座敷童子が見えている1年生が数えれば、座敷童子を含めた数になるので、それぞれカウントに矛盾(不一致)は起こらない。
大人には見えないというのは不思議な話ではあるけれど、謎のインパクトからすれば《人数だけが増え、顔ぶれは変わらない(だから誰が増えたのかわからない)》という方が断然おもしろい。
顔ぶれと人数の不一致(矛盾)こそが、(僕にとっては?)座敷童子最大の謎であり魅力といえるのかもしれない。

宮沢賢治ばかりでなく、筒井康隆も『座敷ぼっこ』という作品でこの現象を扱っていることは先に記したが、実は僕もこの現象を扱った座敷童子作品を2つ発表している。
1つが1990年12月に朝日小学生新聞に掲載した『ざしきぼっこの写真』という読み切り童話だ。概要は──8人で遊んでいた子どもたちが、いつの間にか9人になっていることに気づく。顔ぶれに変わりはないのに頭数だけが増えていて、誰があとから加わった子なのかわからない──座敷童子がまぎれ込んでいるということになり、子供たちはそれが誰なのかつきとめようとする。1人がカメラを持ち出してきて、そこにいる子を1人1人撮っていく。撮り終えるとカウンターは間違いなく9枚を示していた。ざしきぼっこの撮影に成功し、これはスクープだと喜ぶが……現像に出して出来上がってきた写真は8枚──もとからいた子しか写っていなかった。《8人しかいないのに数えると9人》という現象は《8枚しか撮れてないのにカウンターは9枚》だった──ということを確認しただけに終わる。座敷童子を特定しようとするが失敗する話だった。

これに対し、《顔ぶれは同じなのに1人増える》という現象を解き明かす着想を得て描いたのが、1994年12月に朝日小学生新聞に短期連載した『病院跡のざしきぼっこ』だった(掲載時期に合わせて設定を冬に変更している)。この作品では7人だったはずの子どもたちが8人にカウントされる。《1人増えているのに顔ぶれは変わらない/増えた子が誰だか特定できない》という不可解な現象がどうして成立したのか──について、次のような解釈を考えた。
(その状況下では)数をカウントするときに頭の中から「4」という数字が抜け落ちてしまう──そのため「3」の次は(「4」を飛ばして)「5」とカウントされ、7人の子供たちが8人と認識されてしまった──というもの。
屁理屈のように思われるかもしれないが、実際にこの現象が成立することがテレビのスペシャル番組で証明されたことがあった。
病院跡のざしきぼっこ』は朝日小学生新聞で発表する前に個人誌《チャンネルF》第12号(1994年3月9日)に収録しているのだが、同号の作品覚書コラムでこのテレビ特番についても触れている。その頃、マーティン・セント・ジェームスの催眠術ショーがテレビで放送されていて、その中に催眠術をかけたゲストの頭の中からある数を消すというパフォーマンスがあった。ゲストは自分の手の指を数え、11本になってしまったことに驚きとまどう──そんなシーンがあった。これを目にしたとき、僕が考えた座敷童子現象(N個の物がN+1個にカウントされてしまう)の仕組みと同じだと思った。
ちなみに、『病院跡のざしきぼっこ』は同じアイディアで1983年11月に『分校跡の座敷童子』として書いており、1984年3月に某児童文学グループの合評会で朗読したことがあった。そのときは目玉のアイディアである《プラス1にカウントされてしまう仕組み》が聞いている人にはわかりにくかったようで、評判はあまり良くなかった。
面白いアイディアだと思っていた割に反応が悪かったことを残念に思っていたのだが、その10年ほど後にマーティンの特番で僕の考えたのと同じ現象が披露されウケているのを見て、「やっぱりネタとしては面白いんだ」という肯定感と、テレビでウケていた同じネタだったのに僕の作品では、しょっぱかったことに凹む気持ちもあって、複雑な思いでマーティンのパフォーマンスを見ていた記憶がある。


座敷童子現象のをビジュアルに表現するなら──?
子どもの頃から気になっていた座敷童子現象の謎については『病院跡のざしきぼっこ』で成立しうる合理的な解釈をみつけたことで何となく決着したような気分になっていたが、最近、この現象を別の方法で成立させる(成立したように見せる)トリックを思いついて記事にしてみたのが【境内の座敷童子(頭の体操)】だった。
他にも座敷童子現象を成立させる方法は色々ありそうだ……と考え、昔聞いたことがあるクイズ(?)に座敷童子的解釈を持ち込むことができると思い当たって記事にしたのが【ひとり多い!?座敷童子2題】。このとき、「ひとり多い…」という現象をわかりやすくイメージできるように簡単なだまし絵を描いた⬇。

02騙し絵2_1人
(※➡ひとり多い!?座敷童子2題

この騙し絵を描いたあと、座敷童子現象の不思議を文章による「説明」ではなく、ビジュアルでわかりやすく伝えることはできないかと考え、絵の一部を入れ替えることで描かれていた人の数が増えるというトリックアートを作ってみた。
03座敷童子騙し絵10_1説明
(※➡1人増える!?トリックアート&解説

04座敷童子騙し絵15分割線
(※➡1人増える不思議な絵!?座敷童子の紙芝居

こんなのが、僕のイメージする座敷童子⬆。
他にも、この座敷童子現象を成立させる(もしくは成立したように見せる)方法はあるだろう。僕の中では座敷童子ぷちブーム(?)が再燃しているようだ。

トリックアート座敷童子は誰だ!?
人数が増減する騙し絵の簡単な解説

◎怖い話系の記事
愛しいまぼろし(短篇小説)
チョウのみた夢〜善意の報酬〜(読み切り童話)
人面ガエル(童話/怖い話)
不老の理由(ショートショート)
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巻貝が描く《幻の地図》
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【絵本】と【童話】の違い

【絵本】と【童話】は似て非なるもの!?
2019年12月にサービスを終了したfreemlの記事からの再掲載。【絵本】と【童話】は混同されがちだが、本質的には別物。《絵の割合が多い【童話】》は【絵本】に対して【絵童話】と呼ばれたりする。
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【絵本】と【童話】(freemlより/※加筆あり)
 僕は【童話】は書いているが【絵本】を書いたことはない。なのに「絵本を描いている」と思われることがしばしばある。挿絵と文の両方を描いた本があるから、これが【絵本】にあたると判断されるためだろう。
01童話2表紙
 挿絵の割合が多い【童話】は一般の人には【絵本】と同じように見えてしまうのかもしれない。
 しかし、書き手の側からすると──少なくとも僕は、【童話】と【絵本】を一緒くたに扱うことに違和感を覚える。【童話】と【絵本】は、発想において全く別モノ──という意識があるからだ。
 簡単にいえば【童話】は小説の1ジャンルであり、文章によって構成される芸術形態。【絵本】は場面(見開き)ごとに構成される視覚的な芸術──紙芝居に近いのかもしれない。
【童話】を書く場合、基本的には小説を考えるのとかわらない(対象年齢を考慮するが読者を意識するのは小説も同じ)。【絵本】の場合はまずページ数(見開き数)──場面数から逆算して物語の展開・割り振りが考えられることになるのだろうと思う。漫画のネームづくりに近い創作行程かもしれない。
 本質的には「文と絵の(分量的な)割合」は関係ない。
 絵の占める割合がどんなに多く、本文がどれほど少なくても【童話】は童話。挿絵がなくても(文章だけで)小説として成立して読める作品はそう呼べる。また一方、挿絵がまったく無くても、見開きの場面ごとに構成された文章は(創作上では)【絵本】といえるのではないか──と僕は考えている。

【童話】は場面数にしばられないが【絵本】の構成は場面数を基に考えられる。挿絵の部分については判型も関係してくるだろうし、右開き(縦書き)か左開(横書き)きかにも大きく影響を受けることになる。
 縦書きの絵本なら、本文が右頁から左頁へと読み進められる関係から、描かれる絵の展開も右から左へ向かうことになる。登場人物たちが歩いていくシーンは左向きになるのが自然だ。横書きの場合は本文が左頁から右頁へと読まれていく関係で、登場人物たちも右向きに進行していくことになる。

【絵本】が右開きか左開きかに影響されるという実例にこんなエピソードがある。某児童書出版社で欧文の絵本を翻訳・出版することになったそうな。横書きの絵本を、そのまま横書きの日本語訳で出版すれば問題なかったのだが、一冊だけ新しい企画の本を出すより、すでに浸透しているシリーズ(縦書きの絵童話シリーズ)に入れて出した方が良いという営業的な配慮が働いたのだろう──オリジナルは横書きだった絵本を縦書きに組み替えてしまった。しかしそうなると絵だけそのまま場面ごと収めてみても、しっくりこない。本文の進行方向が「左→右(横書き)」から「右→左(縦書き)」に変わってしまったために、絵の流れ(登場人物の向き)と文章の流れが逆向きになってしまったためだ。それならば、挿絵の向きも逆にしたらどうか──ということで、なんと原画の左右を反転させることを検討したというのだ。「そうしたら、絵に描かれていたアルファベットまで反転しちゃったんで困った」なんて話を編集者から聞いたことがある。
 しかし、創作する側から言えば、描かれた絵を反転させて起こる弊害は、たまたま描かれていたアルファベットが読めなくなるという次元の問題ではないだろう。絵としての画面構成──描かれる人や物のレイアウトや文字の配置は見やすさ読みやすさを計算した上で決められたわけで、左右を反転させて対称性が保たれたから良いと言うものではない。
 通常「絵は左、文は右」に配置した方が見た目は安定する──これは右脳と左脳の働きによるものなのだろうが、そんな知識はなくても、絵本・新聞・ポスターなどを見なれた人なら経験的にそれを知っているはずだ。ページ進行の方向性とはまた別に、1枚の絵のバランス・調和には左右があるといえる。だから「右開き」で描かれた挿絵をそのまま左右反転すれば「左開き」の図案としておさまりがいいというわけにはいかない。「右開き・左開き」それぞれにふさわしいレイアウトが(別に)存在するはずである。

 今後電子出版が普及し「電子絵本」のようなものが出てくれば(既にあるのかもしれないが)、ページをめくるという物理的な動作から解放され、「右開きか左開きか」というページ進行の制約はなくなるかもしれない。しかし、そのさいも「縦書きか横書きか」ということでの「方向性」は残るだろう。同じ構図の絵で「ふきだし」を入れてみれば縦書きと横書きの違いで、(右開きか左開きと同様の)方向性が発生することがわかる。
02犬鼬台詞縦書
03犬鼬台詞横書

【絵本】の場合も本文は文章になるわけだが、【童話】とは違って、場面単位での構成を念頭に文章が練られ、それにふさわしいシーンが構築され割り振られていくことになるのだろう。そういった意味で【童話】を考えるのとは基本的に創作思考プロセスが異なるものだ──というのが僕の見解だ。【童話】を考えているときと【絵本の文】を考えているときの脳の活性を調べたら、違いがでるのではないか……なんていう気もする。

 ただ、もちろん、【童話】と【絵本】は相反するものではない。文章のみでも優れた【童話】として成立する作品が【絵本】としても成功している例はままあるし、出来上がった作品が必ずしも【童話】か【絵本】かのどちらかに区分される──というものでもない。
 本質から見て【絵本】であると同時に【童話】としても成立している作品はいくらでもあるだろう。その両方にまたがった作品を図書館や書店ではどの書架に収めるか──そうしたロケーション管理上の判断で【絵本】と【童話】は便宜的に分けられていることが多いような気がする。



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