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宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想

先日、宮沢賢治の童話『やまなし』が小学6年国語の教科書に採用されていることを知って驚いた。僕にはこの作品が小学生の教材としてふさわしいとは思えない。なぜ、これが採用されたのか不思議に思っているうちに、他にも国語の教科書に収載された賢治作品があるのではないかと思いたち、調べてみたところ、かなり多くの作品がとりあげられていた。『どんぐりと山猫』もその1つで、これが初めて文部省暫定教科書(1946年)に収載された賢治作品だったらしい。
ということで、『どんぐりと山猫』を借りて読んでみた。
01どんぐりと山猫
『どんぐりと山猫』は当初、自費出版に近い形で刊行された童話集『注文の多い料理店』(1924年)に収録・発表されたが、当時はあまり評価されなかったという。それももっともな話だろう。むしろ、後の扱い──国語の教科書にどうして採用されることになったかの方が僕には不可解だ。
実際に宮沢賢治の作品は教科書に使われ続けているわけだし、肯定的な見方が多いのかもしれないが、僕の感じたところを記してみたい。

宮沢賢治・作『どんぐりと山ねこ』《あらすじ》と《作者の意図》
まず、ざっと『どんぐりと山猫』のあらすじを記すと──、

ある土曜の夕方、奇妙な1枚のハガキが一郎のもとに届く。稚拙な文面で、翌日に面倒な裁判があるから来てほしいという内容で、差出人は「山ねこ」となっていた。一郎はとても喜び、何のためらいもなく翌日、山に出かける。
栗の木や笛ふきの滝、キノコの楽隊、リスなどに山猫の目撃情報をたずね、「美しい金色の草地」にたどりついたところで、一郎は風変わりな男に会う。この男が問題のハガキを書いた山猫の馬車別当だった。別当は自分が書いたハガキの文章や字が下手くそだったことを恥じていたが、一郎がお世辞で褒めるとたちまち有頂天になる。
一郎が馬車別当と話をしていると、とつぜん風が吹いて、気がつくと陣羽織姿の山猫が立っていた。
山猫の話によると、一昨日から面倒な争いが起こって裁判になっているが、うまく裁けずにいる──そこで一郎の知恵を借りたいということだった。
その裁判というのは黄金(きん)色のドングリたちの「誰が一番偉いか」を決めるというヘンテコなものだった。集まった300以上の黄金(きん)色のドングリたちが、口々に自分の主張をまくしたてる──頭がとがったもの・丸いもの・大きいもの・背の高いものなど、それぞれが自分が一番偉いのだと言い張って、大変なさわぎとなる。手を焼く山猫に助言を求められた一郎は「この中でいちばんバカで、メチャクチャで、まるでなっていないようなのが一番偉い」と言ったら良いとアドバイスし、山猫がそう言い渡すと、黄金色のドングリたちは、とたんに黙り込んでしまう。
一郎の提案で争いが止んだことに山猫は喜び、感謝する。そして一郎に名誉判事になって、ハガキが行ったらまた来てほしいと要請する。一郎が承知すると、さらにハガキの文面は「明日出頭すべし」として良いかと聞いてきた。一郎が辞退すると、山猫は残念そうだった。
一郎は御礼として黄金(きん)のドングリ一升をもらい、山猫の《きのこの馬車》で家まで送ってもらう。馬車が進むにつれて黄金のドングリは輝きを失い、家の前に到着した時には、山猫も別当も、きのこの馬車も見えなくなり、升のドングリは普通の茶色いものになっていた。
そのあと、山猫からのハガキが届くことはなく、一郎は「明日出頭すべし」の文面を受け入れていればよかったと時々思っている。

僕の感想を述べる前に、まず、作者(宮沢賢治)が、どんなつもりでこの作品を創作したのかについて想像してみると──、

賢治が描きたかったもの、創作のモチーフは《山がかもしている不思議なオーラ》のようなものだったのではないかと思う。あらすじでは、はしょっているが、山や森の描写にはおもむきがあって雰囲気をよく表現している。賢治は《山の放つオーラ(アニミズムのようなもの?)》に魅せられ──《山は不思議なところ》《そこでは奇妙でおもしろいことがおこっている》と空想を広げ、《金色のドングリたちがたあいもないことで争い、それを山猫が裁くのにてこずっている》というような《奇妙なエピソード》を発想したのではないだろうか。主人公・一郎少年はその不思議な世界を垣間見て、その解決に貢献することで《奇妙なエピソード》に関与する。これは一介の一少年にとってはワクワクする出来事だろう──おそらく、こういった流れでこのストーリーのアウトラインを考えたのではないかと思う。
つまり山猫から届いたハガキは、山からの招待状・ワクワクする世界への切符
であり、構図としては《少年が山へでかけ奇妙な体験して戻ってくる話》である。
金色に輝いていたドングリが自宅に戻った時には普通のドングリになっていた──というのは、山の中では輝いていたものが、山を離れ現実に戻ってみれば(山の不思議な効力を失って)色褪せてしまう──山の持つ神秘的な活力を表現したものだろう。

作品の《創作意図》と《できばえ》
賢治は、おそらくそうした創作意図をもって書き始めたのだろうが……出来上がった作品が、読者にきちんと伝わる形で描けていたかといえば、必ずしもそうとはいえない。作品の冒頭──奇妙なハガキが届いてから、一郎が山へ出かけるまでの部分を引用すると──、


 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいで
  んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                      山ねこ 拝

 こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。
 ね床にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。
 けれども、一郎が目をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのように、うるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川にそったこみちを、かみの方へのぼって行きました。


ここで【国語】の授業であれば、こんな《設問》がありそうな気がする。
《Q:ハガキを受け取った一郎は、どんな気持ちだったでしょう?》
「とても嬉しかった」「喜んだ」というのが正解──【国語】の授業ならそうなるのだろうが……作品として評価するなら、一郎は「いぶかしく思った」とか「とまどった」と感じることが「正しい」リアクションだったのではなかろうか。

作者の賢治には、一郎に届いたハガキの意味(《山からの招待状》=一郎にとって嬉しい物であること)がわかっており、その先に奇妙で愉快な展開が待ちうけていることがわかっているから、このハガキを受け取った一郎を手放しで喜ばせてしまっているが……本来であれば、冒頭のシーンで、一郎(と読者)には、にわかに事態がのみこめないはずである。もし、こんなハガキが届いたら、「山ねことは誰だろう?」「なぜ僕のところにハガキをよこしたのだろう?」などと、いぶかるのが自然であり、奇妙なハガキをもらって、なんの疑問もなしに、まず喜ぶという反応はありえない。「このとき一郎はどんな気持ちになるか」と考えれば「喜ぶ」より先に「とまどう」のが正しい──ということになる。
また、山猫の裁判とやらを見てみたいという気になったとしても、ハガキには、肝心の場所が指定されていない。「裁判はどこで行われるのだろう?」「どこへ行けば山猫に会えるのだろうか?」と気掛かりに思うはずであり、そうでなくてはおかしい。
なのに一郎は、山猫に会うことを楽しみにしながら、どこへ行けば会えるのか不明なことに何の疑問も感じておらず、嬉々としてあたりまえのように出かけて行く──これはきわめて不自然なことだ。これがもし国語の授業ではなく、合評会で本作品がとりあげられたとすれば、こうしたリアクションの齟齬が指摘されたはずだ。
一郎が山猫に会えると確信している(かのように見える)のは、作者・賢治の頭の中では一郎が山猫と会うことが決定しているからだろう──先の展開がわかっている作者の気持ちで一郎の心理や行動を描いてしまい、「登場人物の気持ちで、どう感じるか(感じなければおかしいか)」のシミュレーションをおこたってしまった印象がある。これは書き手のミスで、創作を始めて間もない頃に、未熟さからおかしがちな〝失敗〟という気もする。

作品としては、創作上の工夫が足りない…
『どんぐりと山猫』を読み終わって感じるのは「物足りなさ」……物語としての面白味が薄い──ということだった。《少年が山で不思議な体験をする》という創作意図はわかるのだが、その《不思議な体験》が、「山猫裁判官のどんぐり裁判」というのは、いささか盛り上がりに欠ける。また、この騒動の解決が「この中でいちばんバカで、メチャクチャで、まるでなっていないやつが一番偉い」というのも、アイディアとしては今ひとつな気がする。何かもっと面白い・ワクワクするエピソード・トンチの利いた解決法が盛れなかったものかと思う。
山猫とドングリのエピソードを採用した利点・必然性があまり感じらない。おそらく「食物連鎖の頂点にある山猫が山を仕切っている」というところから山猫の裁判官をイメージしたのだろうが、それだけでは読む側からすると面白味に欠ける。創作上の工夫・ひねりが欲しいところである。
また、前述したように、場所の指定がなかったのに、一郎がすんなり山猫に会えてしまうのも、いささかお手軽感があって、本来描かれるべき山や森の神秘性を毀損しかねない気もする。神秘的な世界に招かれていくのだから、もう少しそれらしい《不思議な世界への導入》の演出や工夫があってしかるべきではなかったか。

たとえば…僕の個人的な工夫
創作上の工夫が足りないように僕には感じられたわけだが、それが具体的にどういうことなのかを説明するために、僭越ながら「僕だったら、どんな工夫をするか……」と考え、思いついたところを記してみるなら──、

一郎のもとに奇妙な召喚状(?)が届いたとき、いっしょに風車もそえられていて、「この風車が案内(ナビゲート)します(風車の反応する方へ進むと目的地に着く)」といった仕掛けを用意する。オリジナルでは一郎が目的地もわからぬまま出かけることを不自然に感じたが、風車を使えば《ふしぎな世界》へ導かれる感が演出でき、読者は興味を持って感情移入できるはずだ。
一郎が山猫と初めて会うとき、風がまき起こるが、山猫出現の直前に風車が強く反応すれば、山猫登場の演出効果にもなる。
また、山での奇妙な体験の後、家に帰りつくと、手に持っていた風車が、一輪の花(山猫に会った場所で見かけたものと同じ)に変わっていた──とすれば、山の不思議な効力が消えて、現実に戻った感が演出できる(金のドングリが普通のドングリに変わるのと同じ効果)。ナビゲート風車が花に変わってしまうことで、もう二度とかの場所(山猫のいる世界)に行くことができないという、<名残惜しさ>のような後味も残すことができる。オリジナルでは「その後ハガキが届かないこと」で<名残惜しさ>が演出されていたが、ナビ風車を使えば、現実の世界に戻って、まだ山での体験の余韻が新鮮なうちに<名残惜しさ>を演出できる。
宮沢賢治の作品では(『風の又三郎』という作品もあるし)《風》の描写に何かおもむきが感じられる。だから《風が不思議な世界へいざなう》→《山の不思議なオーラに反応して回る風車》という設定があっても面白かったのではないか──と個人的には思ったしだい。
これは〝思いつき〟の一例に過ぎないが、物語を盛り上げるためには、こうした創作上の工夫や意図をもったしかけが必要だと僕は考えている。

堀尾青史の解説
今回、読んだ『宮沢賢治童話全集<新装版>③どんぐりと山ねこ』(岩崎書店)では、巻末の「作品案内」で、堀尾青史が『どんぐりと山ねこ』について、次のように解説している。


 この作品は賢治童話の代表作の一つになっていますが、その理由は表現のみずみずしさや童話の楽しさをいっぱいもっていることによるのですが、なんといっても主題の大胆さです。
 えらさをはかる基準を求めてどんぐりがいい争いますが、一郎はまったく反対の「ばかで、めちゃめちゃで、まるでなっていないようなのがいちばんえらい」といいます。これをことば通りうけとったら、われわれもどんぐりのようにびっくりして、しいんとしてしまうでしょう。
 作者は、子どもたちはテストや試験などで争わされ、比べられ、優劣をつけられているが、はたして、それで人間の本当の価値がきめられるのか、そんなことではきめられはしない、と考えます。ばかでめちゃめちゃというのは反対のテーゼ(命題)を打ち出したもので、人間にとって大切なのは真心や愛情であって、それをはかることはできない。たとえば子どもとかくれんぼうをして寝こんだり、泥棒に入られて物をやった良寛が大愚(大ばか)とよばれているように、物慾にとらわれぬ無の境地にいる人は一見ばかのようですが、実はもっともえらい人とされています。
 こういうように人間を世俗的な物さしではかってはいけないと作者は言っているのですが、さて現実はどうでしょう。やっぱりどんぐりの背くらべはいつまでもつづいていますね。


作者・宮沢賢治が、本当に堀尾青史の指摘した《主題》を念頭に『どんぐりと山ねこ』を書いたのかどうかは僕にはわからない。しかし、少なくともこの作品から《人間を世俗的な物さしではかってはいけないと作者は言っている》というメッセージを汲み取るのは難しい。青史の見方は賢治作品に権威付けをするための強引な解釈のような気がする。
賢治作品が国語の教科書に取り上げられるようになったのは、ひょっとして、こうした《権威付け》が関係しているのだろうか?

少し前に読んだ『やまなし』──これといったストーリがなく、何が描かれているのか(趣旨が)子どもには難解で、いったいどこが面白いのかわからない──これに比べれば、『どんぐりと山ねこ』は筋立もはっきりしているし描写もわかりやすい。しかし、作品をおもしろくする工夫・自然に見せる工夫が少々不足しているように僕には感じられた。
国語の教科書に収載するのであれば、他にもっと良い作品がありそうな気がする。

『どんぐりと山ねこ』はYouTubeでも、朗読動画が投稿されていた。しかし、今回読んだ『宮沢賢治童話全集<新装版>③どんぐりと山ねこ』と比べてみると、一郎が馬車別当と出会った時の描写が朗読版(YouTube)では一部カットされていた。障害のある身体的特徴を気味悪く描いた箇所が差別的表現と判断されてのことだろう。『どんぐりと山ねこ』は現在では教科書に全文掲載するのが難しい作品なのかもしれない。


宮沢賢治『やまなし』とクラムボン
なじめなかった『よだかの星』


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カエルの念力

カエルの念力で雨を降らせ、運動会を中止できる!?──そんな奇妙なハナシを持ちかけてきたのは転校生だった。小学4〜5年生以上を読者対象に想定して書いた原稿用紙(20字×20行)換算で10枚弱のミステリー童話。

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03カエルの念力
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10カエルの念力

だいぶ昔、《どちらに転んでも儲かる賭け》の着想を得て書いてみたもの。しかし、こうしたリスクを分散する考え方はヘッジファンドなどで既にありそうだと気づき、そのまま放置していた。書いた時期は記憶が定かではないが、作中に登場するカエルにツノガエルをイメージしていたのは覚えている。Yahoo!ブログからの移行検討期にテストを兼ねて、はてなブログの方には投稿していたのだが、FC2ブログにも改めて投稿しておくことした。


人面ガエル
(カエルがでてくるホラー童話)
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宮沢賢治『やまなし』とクラムボン

宮沢賢治・作『やまなし』感想&クラムボンについて
01クラムボン@やまなし

最近、知った宮沢賢治の童話『やまなし』──読んでみて色々と感じるところがあったので記してみたい。

一読して感じたのが《描写が美しく、透明感がある不思議な作品》という印象。本来ならわかりやすく描かれるべき童話(?)なのに、あえて不明確に処理している箇所があって作品をわかりにくくしている。この作品が小学6年の国語教科書に採用されていたというので驚いた。子どもたちには〝趣旨〟を読み解くのが難しかったろう。小学生の教材としては首をかしげたくなる。はたして現場の教師たちはこの教材をきちんと料理することができたのだろうか? 消化不良のまま通り過ぎるケースも決して少なくなかったのではないかと思われる。

根拠については後に述べることにして……ひとことで言えば、『やまなし』は「宮沢賢治の《食物連鎖》に対する関心を表した作品」──というのが僕の感想。
作品の構成は、《小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。》という文章(序文)で始まり、そのあとに2つのパートに分けて、谷川に暮らすカニの一家の日常が淡々と描かれ、そして《私の幻灯は、これでおしまいであります。》という文章(跋文)で締めくくられている。
1つ目のパート【一 五月】では食物連鎖の利己的な一面──魚やカワセミの捕食=《自分が生きるために他者の命を奪う行為》が描かれ、
2つ目のパート【二 十二月】では食物連鎖の利他的な一面──川に落ちたヤマナシの実=《食われることによって他者の命を育み育てる》ことが描かれている。
つまり相反する局面《利己(殺生)⇔利他(献身・恩恵)》を2つのパートに併記することで、作者(宮沢賢治)は、《食物連鎖》を《背反する両極が混在するシステム》としてとらえていたことがうかがえる。
この《食物連鎖》を描いた本編を情緒的な序文と跋文(ばつぶん)ではさむことで、《美しくおだやかに見える景色の中で展開されている自然の不条理》を表現したのだろう。

作品の流れと(僕の)解釈
【一 五月】のパートは次のように始まる。


 二ひきのかにの子供らが、青白い水の底で話していました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「クラムボンは はねて笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
 上の方や横の方は、青く暗く鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗いあわが流れていきます。
「クラムボンは 笑っていたよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」
「知らない。」
 つぶつぶあわが流れていきます。かにの子供らも、ぽつぽつぽつと、続けて五、六つぶあわをはきました。それは、ゆれながら水銀のように光って、ななめに上の方へ上っていきました。


まず、いきなり登場する「クラムボン」がわからない。その後の展開とあわせて考えると、僕にはプランクトンかボウフラのようなものに思われるのだが、賢治は最後まで「クラムボン」の正体をあえて(意図的に)明らかにしていない。
この「クラムボン」について話しているのは〝2匹〟のカニの兄弟だ。同じようなセリフが繰り返されているが、会話の内容からすればセリフも〝2つ〟あれば〝2匹の会話〟として成立する。なのに同じ内容のセリフが繰り返されるのは、カニの兄弟が見ている「クラムボン」が1匹ではなく、あちこちにたくさん散らばっていることを示しているように感じられる(あっちでもこっちでも、同じような光景が見られるので、同じようなセリフの会話が繰り返される)。
前の文章の後は次のように続く──、


 つうと銀の色の腹をひるがえして、一ぴきの魚が頭の上を過ぎていきました。
「クラムボンは 死んだよ。」
「クラムボンは 殺されたよ。」
「クラムボンは 死んでしまったよ・・・・・・。」
「殺されたよ。」
「それなら、なぜ殺された。」
兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。
「分からない。」
 魚がまたつうともどって、下の方へ行きました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「笑った。」


魚が通過すると「クラムボン」は殺される──これは魚による捕食が行われたことをさしているのだろう。死んだり殺されたりしたあとに魚が去ると、「クラムボン」はまた笑い始める──死んだり殺されたりした個体がまた笑うはずはないので、やはり「クラムボン」は1匹ではなく、たくさんいて、捕食を免れた個体が(魚が訪れる前と同じように)活動を再開したということなのだろう。

「クラムボン」は魚の餌となる生物で、水面付近にたくさんいるもの──そして「かぷかぷ笑っている」ように見える……という条件から思い浮かんだのが(僕の場合)ミジンコのようなプランクトンやボウフラだった。ミジンコが泳ぐ姿やボウフラが体を曲げ伸ばしする動きは、身をよじって笑っているように見えなくもない。
この後、魚がまた戻って来ると、カニの兄弟たちは次のように話している。


「お魚は、なぜああ行ったり来たりするの。」
弟のかにが、まぶしそうに目を動かしながらたずねました。
「何か悪いことをしてるんだよ。取ってるんだよ。」
「取ってるの。」
「うん。」


「悪いこと」「取っている」というのは「クラムボン」の命を奪っている──捕食のことを指しているのだろう。
そしてこの直後、その魚がいきなり飛び込んできたカワセミに捕食されるシーンが展開され、カニの兄弟たちは何が起こったのかわからず恐ろしさに怯える。
そこへカニの父親がやってきて、兄弟に次のように説明する。


「ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみというんだ。だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。」
「お父さん、お魚はどこへ行ったの。」
「魚かい。魚はこわい所へ行った。」
「こわいよ、お父さん。」


食物連鎖を生き物の自然の営みとして描きながら、他者の命を奪う捕食をネガティブなイメージ(「殺す」「悪いこと」、被捕食者を「《こわい所》に連れて行く」)でとらえている。
「クラムボン」が魚に殺される(捕食される)のを見ていたカニの兄弟は《「それなら、なぜ殺された」「分からない」》と話しているが、おそらく作者の賢治自身も、自然界にどうして残酷な殺生が存在しているのか納得できる解答を得られずにいたのではないかと思う。
この世にはそういう「苦」(ままならないこと)があるという、あるがままの姿を淡々と描いた──だから現象についての解釈(賢治の見解)がなく、何が言いたかったのか伝わりにくい難解な作品になっている気もする。

【二 十二月】のパートでは、川に飛び込んで来た恐ろしいカワセミのかわりに、ヤマナシの実が落ちてくる。これはカニたちのエサとなるもので、《他者の命を潤すこと》として描かれている。賢治はこれを好ましく感じ、食物連鎖の利他的な面の象徴として、この実をタイトルにつけたのだろう。

1つ目のパートで描かれていたのは、《自分が生きるために〝他者の命を奪う〟自然現象》であり、賢治はこれをネガティブに描いている。これに対し、2つ目のパートでは、《他者に食われることよって〝他者の命を潤す〟自然現象》が描かれ、これを賢治は献身的・美徳と感じていたことがうかがえる。
前半の《他者の命を奪うこと》と後半の《他者の命を潤すこと》──相反する《害》と《益》・《利己(殺生)》と《利他(献身・恩恵)》(賢治にとっては《悪》と《善》)が自然界には混在している──《食物連鎖》をそんなふうにとらえていた宮沢賢治の世界観を描いたのが『やまなし』だと僕には感じられた。

クラムボンとは何か?/なぜ明確化を避けたのか?
さて、作品の初めに登場する「クラムボン」の謎に戻って……宮沢賢治はあきらかに意図的に正体を隠して書いていると思われ、「クラムボンとは何か?」ということが読者には気になるところだろう。その疑問は当然だが、僕には「賢治はなぜ〝あえて〟その正体を明かさなかったのか?」ということの方が気になった。
僕は「クラムボン」をプランクトンかボウフラのようなものではないかと想像したが……これが当っているかどうかはさておき、具体的な生物の名前(種名)を挙げると、読者はその生物のイメージを当てはめて「クラムボン」のシーンを読むことになる──プランクトンやボウフラなどであれば、一般の人の感覚では「虫けら同然(以下?)」の無価値な存在として認識される危険がある。賢治は魚に食われる被捕食者にも大切な命(価値)があることを描きたかったと思われ、被捕食者の生死について「とるにたらないこと」という既成イメージで読まれることを嫌ったのではないか。そこでピュアな《生命体》として読者にイメージさせるために既成概念を持たない「クラムボン」という呼称を用いたのではないかと想像する。
いずれにしても、物語のテーマ(意味)・構造から考えて「クラムボン」が魚の餌となる生物をイメージして設定されたことは間違いない。《魚がクラムボンを捕食する➡その魚がカワセミに捕食される》──食う・食われるの関係は固定した一方的なものではなく、捕食者が被捕食者にもなっている食物連鎖の構造を示すためには「クラムボン」が魚の被捕食者でなければならないからだ。魚がカワセミに食われるだけでは単なる《弱肉強食》にすぎず、《食物連鎖》を描いたことにはならない。

ただ、僕が想像したプランクトンやボウフラであった場合、発生場所は沼や池というイメージが強く、『やまなし』の舞台となる「小さな谷川」に、はたしてどんな種類がどれほど生息しているものなのか、僕にはよくわからない。
もしかすると、宮沢賢治も魚の被捕食者としてプランクトンやボウフラをイメージしてこの筋立てを考え、舞台として美しく描写できる谷川(〝青い幻灯〟にふさわしいロケーション)を選んだ……ものの、実際には谷川にはモデルとしたプランクトンやボウフラが少なく、代替具体種に適当な生物が思いつかなかったために「クラムボン」という架空の生命体を設定したのかもしれない。
こじつけ的解釈をくわえるなら、「クラムボン」というネーミングも、「プランクトン」「ボウフラ」からの造語だったとしても、さほどおかしくはない気がする。「クラムボン」は「プランクトン」と3音・「ボウフラ」と2音、重なっている。重なっている4音(「ラ」が重複しているので)を並べれて「クラボン」──「ラ」の後に「ボ」を発音するとき、一度口が閉じるので「m」が入ると発音しやすくなる→「クラムボン」……なんて可能性もゼロとは言いきれないだろう。

宮沢賢治の自然観に対する僕の個人的な見解
ところで──、文学的な価値とはまた次元の異なる話なのだが、僕は宮沢賢治の自然の理解について、共感できずにいる。『やまなし』では《食物連鎖》を描きながら、賢治は捕食をネガティブなイメージとしてとらえている。《自分が生きるために他者の命を奪うこと》を賢治は快く思っていない。否定的に捉えていたからこそ、賢治は菜食主義を実践していたのだろう。これが僕には《自然の関心を向けながら、自身の感情(感傷)を投影しているだけで、自然の本質を見ていない》ように感じられるのだ。そのことは、やはり宮沢賢治の作品『よだかの星』に対する感想を述べた記事でも書いている。

実は今回、『やまなし』という作品を僕が知るきっかけになったのは、その『よだかの星』に関する感想記事だった。ここで僕は「作者(賢治)が食物連鎖を否定的に捉えている」という見方を記した。これについて、「賢治も食物連鎖を理解していたと思う」「必ずしも否定的にとらえていない」という意見をいただき、その中に『やまなし』を例に挙げるものがあったのだ。
この点についての僕の考えを補足しておくと、「宮沢賢治も《食物連鎖》を〝知識としては知っていた〟だろう。だからそのシステムが存在することを《否定》はしてはいないが、《捕食》についてはネガティブなイメージでとらえていた」という理解で、(《否定》ではなく)《否定的》という表現を使った。

賢治は、おそらく《自分が生きるために他者の命を奪う(捕食する)》ことを《利己的》としてとらえて忌み、これを仏教で言う「苦」(ままならないこと)と考えていたのではないかと思う。これに対して《自分の身を棄てて他者の命を救済する》ことを《利他的(献身)》と捉え美徳と考えているようにも感じられる。おそらくこれも宗教的な概念が背景にあってのことだろう。

僕の考え方を述べれば──《食物連鎖》というのは自然現象であり、自然の摂理として「正しい」から存在している。これを否定的(ネガティブ)に感じるのは、その感じ方(理解)が「正しくない」からだ。
捕食者も被捕食者(捕食される側)も、《自分が生きるための生命活動》を遂行することが「正しい」。捕食者が捕食することも正しいし、捕食される側が捕食者を恐れたり捕食を逃れようとすることも正しい。両者がそれぞれ《自分が生きるための生命活動》を追求することで生物は進化し発展してきた。《食物連鎖》は生命の基本システムであり動力源でもある。
これを忌むのは《ヒト特有の偏向した感覚》であり、自然への無理解・洞察不足からくる不健全な感傷だと僕は考えている。そうした思いがあって『よだかの星』についての感想を記した。

『よだかの星』について、ここでもう少し書き加えるなら──、
タカがヨタカに「改名をしなければ殺す」と迫ったとき、ヨタカは「タカに殺される自分が、虫を捕食することに罪悪感を覚え、生きることを自ら放棄する」という選択をする。これは作者・賢治の「自己犠牲」や「ヒューマニズム」の考え方が反映したものだろう。しかし生命活動の視点に立てば──、
・タカがヨタカを殺すのは《自分が生きるための生命活動》ではない(誤)
・ヨタカが虫を捕食するのは《自分が生きるための生命活動》である(正)
ヨタカがとるべき正しい選択は、タカの殺生にあらがうことのはずだがそれをせず、一方、自らの捕食を放棄することは間違っているのにそれを選択し、生命活動を放棄する。生命活動の本質に反する賢治の「自己犠牲」や「ヒューマニズム」の考え方は、自然の営みに対する洞察の浅さから生まれた不健全なエセ善意という印象が僕にはある。生物が《自分が生きるための生命活動》を怠ることに美徳はない──というのが僕の考え方だ。

賢治の捕食に対するネガティブなイメージは、おそらく仏教の「殺生」という概念に由来するものだろう。この概念は「生きているうちから、やがて訪れる死をおそれる」という人間特有の感情から生まれたものだろうと僕は考えている。
僕も幼少の頃には、死に対して恐れを抱いたことがあった。「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」ということをずっと真剣考えていた。こんなことで思い惑うのは人間だけだろう。動物が捕食(死)から逃れようとすることは正しい。しかし自然現象である《死》を否定的にとらえることは〝理解に間違い〟がある──そう気づくまでにずいぶん時間がかかった。
この〝理解に間違い〟がどうして生まれるのか・なぜヒトだけが「やがて訪れる《死》をおそれるのか」については【昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?】の中で僕の見解を述べているので、ここでは触れない。
そんなわけで、《自然現象を否定的にとらえるのは、その解釈に間違いがあるからだ》と考えている僕には、自然現象であるところの《捕食》をネガティブに描いている宮沢賢治の自然に対する捉え方については違和感があるのである。



なじめなかった『よだかの星』
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なじめなかった『よだかの星』

宮沢賢治・作『よだかの星』について(感想)

宮沢賢治の作品に『よだかの星』という童話がある。《よだかは、実にみにくい鳥です》という文章で始まるこの作品──内容を簡単にまとめると⬇。
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よだか(ヨタカ)は醜い姿をしていることから、他の鳥たちからさげすまれ、意地悪を受け続けていた。ある日、タカに名前を変えろと迫られ、それは無理だと訴えるが、明後日の朝までにそうしなけれ殺すと脅される。
よだかは、やがてタカに殺される身でありながら虫を食べて(殺して)いる自分に罪悪感を覚え、これを断って「遠くの遠くの空の向こうに行ってしまおう」と決意する。兄弟であるカワセミ(魚を食べる)にも、捕食は生きるのに必要な最低限にとどめるように言って別れを告げる。
よだかは死ぬ覚悟で太陽や星(オリオン・大犬・大熊・鷲)のもとへ行こうとするがいずれにも拒絶され、それでもボロボロになって飛び続け、最後にとうとうカシオピア座の隣の星になることができたのだった。
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『よだかの星』は《悲しく美しい話》として描かれている。そう感じた読者も多かったことだろう。
しかし、僕の第一印象は──「ひどい話だなぁ」だった。文章や構成のことではなく、描かれている内容について──作者の意図・視点について「そりゃないだろう」と感じた。

作品では、他の鳥たちからさげすまれ、理不尽にいじめられる「醜いヨタカ」の悲しみが描かれており、「弱者・しいたげられる者への共感・いたわり」を示しているようにも読める。しかしこれは「ヨタカは醜くて嫌われる存在である」という前提のもとに描かれたものであり、ヨタカの存在をハナから否定する視点で描かれたものだ。作者の無自覚な偏見を感じてしまう。弱者(ヨタカ)をいたわるふりをして、「醜いだけの存在」と決めつけてかかっているのだから、ずいぶんひどい話である。
「ヨタカは、さげすまれて当然の存在なのか?」「鳥が生きるために他の生きものを食べる(殺す)ことは悪いことなのか?(食物連鎖は忌むべきシステムなのか?)」「醜く生まれたものは自殺するしかないと言うのか?」──そう問いただしたくなる。

宮沢賢治を《自然からのメッセージを聞き続けた人》だとか《自然の通訳者》と言う人もいるようだが、それは少々美化した評価だと思う。確かに描写などには「舞台となる土地の自然の雰囲気が伝わる」部分があって個性的な魅力を感じる──自然に接することが好きだったのだろうことは察することができるが、本当に自然の本質に目を向けていたのかは疑わしい。真摯に自然を観ていれば、生物には多様な形態があって、それによって自然界が成立していることが感銘や畏敬の念をもって実感できたはずだ。ならば、ヨタカについても「醜いだけのとりえのない存在」とは別の捉え方ができたろうにと思う。

『よだかの星』は、冒頭から語り手(作者)によって《よだかは、実にみにくい鳥です》と断言され、作中では他の鳥たちにさげすまれる。ヨタカ自身も醜いと卑下している点──《味噌をつけたような顔》や《裂けた口も》も、自然の中では意味を持つ特徴であるはずだ。僕は鳥には詳しくないが、ヨタカの地味な姿は、夜行性のヨタカが日中じっと休んでいるときに、天敵に見つかりにくくする隠蔽擬態の効果があるに違いない。大きく開く口は飛びながら虫を捕食するのに敵しているのだろう。作中で欠点としてあげられている特徴は、自然の次元でみれば《欠点》ではなく《利点》であり、それをヒトの偏狭な尺度で「醜い」としかとらえることができなかった賢治が情けない。自然のメッセージを聞くことができた人なら、「ヒトにはみすぼらしく見えたとしても──」と、ヨタカのとりえやアイデンティティーを自然の立場に立って代弁してやっても良かったのではないか……などと思ってしまう。

また、作中では《自分が生きるために他の生き物を食べる(殺す)》ことへの嫌悪が感じられ、この点も強くひっかかった。生命活動の基本である《食物連鎖》を忌むべきシステムと捉えているようにも感じられる。賢治自身は菜食主義者だったらしいが、もし世の中の生物がみな賢治にならって菜食主義者になったとしたら、生態系は崩壊し、捕食者だけではなく被捕食者の生活も立ち行かなくなってしまう。自然界は食物連鎖という生命の循環によって機能しているわけで、これを否定的にとらえるのは、自然に対する洞察が足りないからではないかと首をかしげたくなる。

こんなことを書くと、『よだかの星』の創作意図はヨタカという鳥の解説ではない/賢治が描きたかったテーマは、別のところにあって、作中に登場する「よだか」は意図するテーマを描くための比喩的記号にすぎないという反論もあるかもしれない。
たしかに童話の中には生き物を比喩的な記号として擬人化した作品も少なくない。『よだかの星』の「よだか」も、(実際の「ヨタカ」そのものではなく)「醜いことを理由に理不尽にいじめられる存在」という設定をあらわす記号にすぎないという見方もあるかもしれない。
しかし本作中には、実際のヨタカを思わせる生態や(当時の?)分類についても触れられており、単なる比喩ではなく実際のヨタカをモデルにしたものだろうことがうかがえる。宮沢賢治は、ヨタカを「醜くてかわいそうな鳥」という認識で描いていたと思われる。
擬人化を使って例えるなら……もし、実際のヨタカが『よだかの星』を読んだとしたら、どう思うだろう? 「僕らの気持ちを代弁してくれてありがとう」と喜ぶだろうか? 《よだかは、実にみにくい鳥です》という失礼な書き出しから一貫してヨタカを醜いだけのとりえのない存在として描き、星になるしかなかったという見解に、「宮沢賢治という人は僕らのことを、そんなふうに見ていたのか」とガッカリするか憤るかではなかろうか。

想像するに──宮沢賢治が《自然から聞き続けたメッセージ》というのは、自然への理解や洞察などではなく、自然の風景に投影した賢治自身の心情に過ぎなかったのではないか。
ヨタカが自分が生きるために虫を食べる(殺す)ことに罪悪感を覚えるというのは、賢治の内に「殺生」という宗教的な偏見(?)があってのことだろう。しかし自然の世界は食物連鎖によって調和しているわけで、これを嫌悪するのは、不健全なセンチメンタリズムという気がしてならない。
あるいは宮沢賢治は、実生活において疎外感にさいなまれていたのではなかろうか?──その個人的な感情が「よだか」に投影されているのではないかという気もする。
ヨタカが周囲のプレッシャーから死を覚悟し、太陽や星のところへ行こうとしたとき、そこからも拒まれてもがく様子は、賢治自身に「自分の居場所がなかなか見つからない焦燥感」にもがき苦しんだ経験があって、そうした心情が投影されたものなのではないか……などと考えてしまう──これは根拠のない僕の想像。しかし、『よだかの星』で描かれているのは《自然のメッセージ》などではなく、明らかに《宮沢賢治の心情の投影》だという気はする。多くの読者は、その《自然に投影された心情》にこそ共感や文学的価値を感じているのだろう。

ただ、僕には「それはヨタカに失礼だろう」「(醜いだけの存在として描かれている)ヨタカが気の毒すぎる」という印象が強くて、この作品には共感できなかった。
生き物のありようは多様で、確かにヒトからみれば、醜い・残酷・おぞましいと感じることもある。そう感じること自体は悪いことではない。ただ、それはあくまでもヒトの側から見た感覚にすぎず、自然の尺度ではないことを自覚するべきだ。その自覚がないまま、ヒトの感覚を普遍化して生き物たちの世界に当てはめ善意を持ち込もうとするのはヒトの思い上がりという気がする。
余談だが……『よだかの星』で感じた善意への《なじめなさ》のようなものは、童話の世界ではしばしば出くわすものだった。これに反発するような気持ちもあって描いた拙作が『チョウのみた夢〜善意の報酬〜』だったりする。

宮沢賢治にはファンが多いから、賞讃する意見はたくさんあるだろう。でも中にはなじめなさを感じた者もいる──ということで、小数派(?)の意見の1つとして僕の感想を記してみたしだい。

宮沢賢治『やまなし』とクラムボン


チョウのみた夢〜善意の報酬〜(読み切り童話)
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【絵本】と【童話】の違い

【絵本】と【童話】は似て非なるもの!?
2019年12月にサービスを終了したfreemlの記事からの再掲載。【絵本】と【童話】は混同されがちだが、本質的には別物。《絵の割合が多い【童話】》は【絵本】に対して【絵童話】と呼ばれたりする。
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【絵本】と【童話】(freemlより/※加筆あり)
 僕は【童話】は書いているが【絵本】を書いたことはない。なのに「絵本を描いている」と思われることがしばしばある。挿絵と文の両方を描いた本があるから、これが【絵本】にあたると判断されるためだろう。
01童話2表紙
 挿絵の割合が多い【童話】は一般の人には【絵本】と同じように見えてしまうのかもしれない。
 しかし、書き手の側からすると──少なくとも僕は、【童話】と【絵本】を一緒くたに扱うことに違和感を覚える。【童話】と【絵本】は、発想において全く別モノ──という意識があるからだ。
 簡単にいえば【童話】は小説の1ジャンルであり、文章によって構成される芸術形態。【絵本】は場面(見開き)ごとに構成される視覚的な芸術──紙芝居に近いのかもしれない。
【童話】を書く場合、基本的には小説を考えるのとかわらない(対象年齢を考慮するが読者を意識するのは小説も同じ)。【絵本】の場合はまずページ数(見開き数)──場面数から逆算して物語の展開・割り振りが考えられることになるのだろうと思う。漫画のネームづくりに近い創作行程かもしれない。
 本質的には「文と絵の(分量的な)割合」は関係ない。
 絵の占める割合がどんなに多く、本文がどれほど少なくても【童話】は童話。挿絵がなくても(文章だけで)小説として成立して読める作品はそう呼べる。また一方、挿絵がまったく無くても、見開きの場面ごとに構成された文章は(創作上では)【絵本】といえるのではないか──と僕は考えている。

【童話】は場面数にしばられないが【絵本】の構成は場面数を基に考えられる。挿絵の部分については判型も関係してくるだろうし、右開き(縦書き)か左開(横書き)きかにも大きく影響を受けることになる。
 縦書きの絵本なら、本文が右頁から左頁へと読み進められる関係から、描かれる絵の展開も右から左へ向かうことになる。登場人物たちが歩いていくシーンは左向きになるのが自然だ。横書きの場合は本文が左頁から右頁へと読まれていく関係で、登場人物たちも右向きに進行していくことになる。

【絵本】が右開きか左開きかに影響されるという実例にこんなエピソードがある。某児童書出版社で欧文の絵本を翻訳・出版することになったそうな。横書きの絵本を、そのまま横書きの日本語訳で出版すれば問題なかったのだが、一冊だけ新しい企画の本を出すより、すでに浸透しているシリーズ(縦書きの絵童話シリーズ)に入れて出した方が良いという営業的な配慮が働いたのだろう──オリジナルは横書きだった絵本を縦書きに組み替えてしまった。しかしそうなると絵だけそのまま場面ごと収めてみても、しっくりこない。本文の進行方向が「左→右(横書き)」から「右→左(縦書き)」に変わってしまったために、絵の流れ(登場人物の向き)と文章の流れが逆向きになってしまったためだ。それならば、挿絵の向きも逆にしたらどうか──ということで、なんと原画の左右を反転させることを検討したというのだ。「そうしたら、絵に描かれていたアルファベットまで反転しちゃったんで困った」なんて話を編集者から聞いたことがある。
 しかし、創作する側から言えば、描かれた絵を反転させて起こる弊害は、たまたま描かれていたアルファベットが読めなくなるという次元の問題ではないだろう。絵としての画面構成──描かれる人や物のレイアウトや文字の配置は見やすさ読みやすさを計算した上で決められたわけで、左右を反転させて対称性が保たれたから良いと言うものではない。
 通常「絵は左、文は右」に配置した方が見た目は安定する──これは右脳と左脳の働きによるものなのだろうが、そんな知識はなくても、絵本・新聞・ポスターなどを見なれた人なら経験的にそれを知っているはずだ。ページ進行の方向性とはまた別に、1枚の絵のバランス・調和には左右があるといえる。だから「右開き」で描かれた挿絵をそのまま左右反転すれば「左開き」の図案としておさまりがいいというわけにはいかない。「右開き・左開き」それぞれにふさわしいレイアウトが(別に)存在するはずである。

 今後電子出版が普及し「電子絵本」のようなものが出てくれば(既にあるのかもしれないが)、ページをめくるという物理的な動作から解放され、「右開きか左開きか」というページ進行の制約はなくなるかもしれない。しかし、そのさいも「縦書きか横書きか」ということでの「方向性」は残るだろう。同じ構図の絵で「ふきだし」を入れてみれば縦書きと横書きの違いで、(右開きか左開きと同様の)方向性が発生することがわかる。
02犬鼬台詞縦書
03犬鼬台詞横書

【絵本】の場合も本文は文章になるわけだが、【童話】とは違って、場面単位での構成を念頭に文章が練られ、それにふさわしいシーンが構築され割り振られていくことになるのだろう。そういった意味で【童話】を考えるのとは基本的に創作思考プロセスが異なるものだ──というのが僕の見解だ。【童話】を考えているときと【絵本の文】を考えているときの脳の活性を調べたら、違いがでるのではないか……なんていう気もする。

 ただ、もちろん、【童話】と【絵本】は相反するものではない。文章のみでも優れた【童話】として成立する作品が【絵本】としても成功している例はままあるし、出来上がった作品が必ずしも【童話】か【絵本】かのどちらかに区分される──というものでもない。
 本質から見て【絵本】であると同時に【童話】としても成立している作品はいくらでもあるだろう。その両方にまたがった作品を図書館や書店ではどの書架に収めるか──そうしたロケーション管理上の判断で【絵本】と【童話】は便宜的に分けられていることが多いような気がする。



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