FC2ブログ

ユーザータグ : 児童文学の記事 (1/6)

【絵本】と【童話】の違い

【絵本】と【童話】は似て非なるもの!?
2019年12月にサービスを終了したfreemlの記事からの再掲載。【絵本】と【童話】は混同されがちだが、本質的には別物。《絵の割合が多い【童話】》は【絵本】に対して【絵童話】と呼ばれたりする。
    *    *    *    *    *    *

【絵本】と【童話】(freemlより/※加筆あり)
 僕は【童話】は書いているが【絵本】を書いたことはない。なのに「絵本を描いている」と思われることがしばしばある。挿絵と文の両方を描いた本があるから、これが【絵本】にあたると判断されるためだろう。
01童話2表紙
 挿絵の割合が多い【童話】は一般の人には【絵本】と同じように見えてしまうのかもしれない。
 しかし、書き手の側からすると──少なくとも僕は、【童話】と【絵本】を一緒くたに扱うことに違和感を覚える。【童話】と【絵本】は、発想において全く別モノ──という意識があるからだ。
 簡単にいえば【童話】は小説の1ジャンルであり、文章によって構成される芸術形態。【絵本】は場面(見開き)ごとに構成される視覚的な芸術──紙芝居に近いのかもしれない。
【童話】を書く場合、基本的には小説を考えるのとかわらない(対象年齢を考慮するが読者を意識するのは小説も同じ)。【絵本】の場合はまずページ数(見開き数)──場面数から逆算して物語の展開・割り振りが考えられることになるのだろうと思う。漫画のネームづくりに近い創作行程かもしれない。
 本質的には「文と絵の(分量的な)割合」は関係ない。
 絵の占める割合がどんなに多く、本文がどれほど少なくても【童話】は童話。挿絵がなくても(文章だけで)小説として成立して読める作品はそう呼べる。また一方、挿絵がまったく無くても、見開きの場面ごとに構成された文章は(創作上では)【絵本】といえるのではないか──と僕は考えている。

【童話】は場面数にしばられないが【絵本】の構成は場面数を基に考えられる。挿絵の部分については判型も関係してくるだろうし、右開き(縦書き)か左開(横書き)きかにも大きく影響を受けることになる。
 縦書きの絵本なら、本文が右頁から左頁へと読み進められる関係から、描かれる絵の展開も右から左へ向かうことになる。登場人物たちが歩いていくシーンは左向きになるのが自然だ。横書きの場合は本文が左頁から右頁へと読まれていく関係で、登場人物たちも右向きに進行していくことになる。

【絵本】が右開きか左開きかに影響されるという実例にこんなエピソードがある。某児童書出版社で欧文の絵本を翻訳・出版することになったそうな。横書きの絵本を、そのまま横書きの日本語訳で出版すれば問題なかったのだが、一冊だけ新しい企画の本を出すより、すでに浸透しているシリーズ(縦書きの絵童話シリーズ)に入れて出した方が良いという営業的な配慮が働いたのだろう──オリジナルは横書きだった絵本を縦書きに組み替えてしまった。しかしそうなると絵だけそのまま場面ごと収めてみても、しっくりこない。本文の進行方向が「左→右(横書き)」から「右→左(縦書き)」に変わってしまったために、絵の流れ(登場人物の向き)と文章の流れが逆向きになってしまったためだ。それならば、挿絵の向きも逆にしたらどうか──ということで、なんと原画の左右を反転させることを検討したというのだ。「そうしたら、絵に描かれていたアルファベットまで反転しちゃったんで困った」なんて話を編集者から聞いたことがある。
 しかし、創作する側から言えば、描かれた絵を反転させて起こる弊害は、たまたま描かれていたアルファベットが読めなくなるという次元の問題ではないだろう。絵としての画面構成──描かれる人や物のレイアウトや文字の配置は見やすさ読みやすさを計算した上で決められたわけで、左右を反転させて対称性が保たれたから良いと言うものではない。
 通常「絵は左、文は右」に配置した方が見た目は安定する──これは右脳と左脳の働きによるものなのだろうが、そんな知識はなくても、絵本・新聞・ポスターなどを見なれた人なら経験的にそれを知っているはずだ。ページ進行の方向性とはまた別に、1枚の絵のバランス・調和には左右があるといえる。だから「右開き」で描かれた挿絵をそのまま左右反転すれば「左開き」の図案としておさまりがいいというわけにはいかない。「右開き・左開き」それぞれにふさわしいレイアウトが(別に)存在するはずである。

 今後電子出版が普及し「電子絵本」のようなものが出てくれば(既にあるのかもしれないが)、ページをめくるという物理的な動作から解放され、「右開きか左開きか」というページ進行の制約はなくなるかもしれない。しかし、そのさいも「縦書きか横書きか」ということでの「方向性」は残るだろう。同じ構図の絵で「ふきだし」を入れてみれば縦書きと横書きの違いで、(右開きか左開きと同様の)方向性が発生することがわかる。
02犬鼬台詞縦書
03犬鼬台詞横書

【絵本】の場合も本文は文章になるわけだが、【童話】とは違って、場面単位での構成を念頭に文章が練られ、それにふさわしいシーンが構築され割り振られていくことになるのだろう。そういった意味で【童話】を考えるのとは基本的に創作思考プロセスが異なるものだ──というのが僕の見解だ。【童話】を考えているときと【絵本の文】を考えているときの脳の活性を調べたら、違いがでるのではないか……なんていう気もする。

 ただ、もちろん、【童話】と【絵本】は相反するものではない。文章のみでも優れた【童話】として成立する作品が【絵本】としても成功している例はままあるし、出来上がった作品が必ずしも【童話】か【絵本】かのどちらかに区分される──というものでもない。
 本質から見て【絵本】であると同時に【童話】としても成立している作品はいくらでもあるだろう。その両方にまたがった作品を図書館や書店ではどの書架に収めるか──そうしたロケーション管理上の判断で【絵本】と【童話】は便宜的に分けられていることが多いような気がする。



エッセイ・雑記 〜メニュー〜
創作童話・ショートショート・漫画メニュー
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜
スポンサーサイト



同人誌回顧録(freemlから)

Yahoo!ブログと前後してfreemlもサービス終了
先日(2019年12月15日)、10年ほど利用していたYahoo!ブログがサービスを終了した。これと前後してYahoo!ブログ以前に利用していたfreemlもまた、今月(2019年12月2日)でサービスを終了している。Yahoo!ブログ時代の記事はFC2ブログに移行済みだが、freemlの記事はそのまま消滅した。活かしておきたいと思う内容はYahoo!ブログの方に投稿し直しているので、freeml消滅についてはあまり気にしていなかった。公開の場から消滅はしたが、投稿時の文書は保存してある。しかし改めて振り返ってみると、懐かしいものもあって、記事として残しておいてもいいかなと思えるものもあったりする。
前置きが長くなったが、今回はそんなfreemlの中から、同人誌・個人誌を作っていた頃の覚書を再掲載してみる。おそらく2009年1月に投稿したものだったはずだ。freemlでは6回に分けて投稿していた記事(文章)を一挙掲載。


①同人誌の頃〜回顧録〜
②《漁人》《むい》の頃〜はじめての同人誌・ガリ版印刷篇〜
③《窓》の頃〜初めての主宰同人誌・軽オフセット印刷篇〜
④《アルファ》の頃〜児童文芸研究会〜
⑤《MON48》の頃〜光瀬教室〜大衆文芸の書き方〜
⑥《チャンネルF》の頃〜ワープロの登場〜コピー誌(紙)篇〜

①同人誌の頃〜回顧録〜
今はこうして自分のタイプした文を活字表記でき、多くの人に見てもらえる場に気軽にアップする事ができるが、昔は自分の書いた文章が活字になるということも、多くの人に読まれる機会を得るということも容易には叶わなかった。だから、趣味で文芸作品を書く人は、「活字化」や「発表の場」に憧れる。そこで【自費出版】や【同人誌】を考えるわけである。
僕が作品を書き始めた頃も、やがては自費出版をしてみたいという夢を抱いていた(商業出版は到底無理だと思っていた)。実際に書きかけの長編童話の原稿を持って印刷所をめぐり、冊子の体裁にするのにとれだけ予算が必要か見積もりを立ててもらったこともある。ワープロなど無い時代だから、活字を組むだけでかなり金額がかかる。学生だった僕にはちょっと手が届かなかった。
単独での【自費出版】は難しい……。そこで【同人誌】を考えた。多くの人で制作費を分担すれば、個人の負担は軽くなるはずだ。また、同じような志を持った人たちが、何を考え、どういう作品を書いているのかにも興味があった。
そうして踏み出した同人誌だったが──もう古い話になってしまった。
忘却の彼方となってしまう前に回顧録として記しておく次第。


②《漁人》《むい》の頃〜はじめての同人誌・ガリ版印刷篇〜
01漁人むい
当時投稿作品を多く載せていた『詩とメルヘン』(サンリオ)という雑誌があった。この読者投稿欄(1976年3月号)に「同人誌を一緒につくりませんか」という呼びかけが載っているのを見つけ、これに応募してみたのが高2〜高3になる春。同人誌に参加するのは初めてだった。
この呼びかけには全国からたくさんの参加があったらしい。しかし呼びかけた主宰者が、なんとしたことか活動不能の事態となってしまい、初めての同人誌活動はスタートからつまずくことになる……。
せっかく多くの人たちが集まったのに何もせずに解散してしまうのは惜しい……そう感じた人たちの中から有志が立ち上がり、同人会としての運営を継続する事になる。僕も初参加で何も判らないまま、いきなり運営スタッフとしてお手伝いする事になった。スタッフ間で密に連絡を取り合い、何度も会合を設け、とりあえず創刊号を出す──それを当面の目標に同人誌活動はスタートした。

同人誌名は《漁人(すなどりびと)》と決まり、実現可能な方法として、創刊号(1976年)はガリ版印刷で出す事になった。
「ガリ版(謄写版)」はかつて学校のプリント等で普通に使われていたが、国内ではもはや絶滅状態!? その存在を知らない人も増えたことだろうから簡単に原理を説明しておく。
インクがしみないように表面加工されたロウ原紙(これが原版になる)をヤスリ板の上に置き、鉄筆と呼ばれる先端が尖ったペンで字や絵を描く。すると鉄筆で描いた部分のコーティングが削られ、この部分をインクが通過できるようになる。
このロウ原紙をネット付きの枠に貼付け、ロウ原紙の下に紙をセット。そしてロウ原紙(を貼ったネット)の上でインクをつけたローラーを転がす。インクはロウ原紙の表面全体に広がるが、コーティングされた部分ではインクを通さず、鉄筆でひっかいた部分からのみインクがしみて下の紙に印刷されるという仕組みである。発明者はトーマス・エジソンだそうだ。印刷の種類としては、プリントゴッコやシルクスクリーン印刷などと同じ孔版印刷と呼ばれるものである。

さてスタッフは同人会員から原稿を集め、手分けして原紙を切った。当然手書きで1文字1文字書いていくわけである。「活字化」の夢は先に伸びたが、「発表の場」を実現できるのは嬉しい。僕らは労力をいとわず創刊号の実現めざして頑張った。当時は、ヤスリ板&鉄筆不要の「ポールペン原紙(ボールペンで書ける)」なる便利なものがでていたので、これを使用したのが、それでもそれなりの労力と時間を要した。
手軽に安価でできるのがガリ版印刷の利点だが、キレイに印刷する為には原紙を切るさいにいくらかの技術を要する。筆圧が弱ければ原紙のコーティングが充分削られず、印刷がかすれてしまう。逆に強すぎると原紙そのものに穴をあけてしまい、インクが必要以上にもれて紙を汚してしまうことになる。このあたりの加減が経験の無い人には難しい。
せっかく切ってもらった原紙が印刷時点で不充分だった事(印刷した文字がかすれて読めない)が発覚し、やり直しになったページもあったように記憶している。

そうした皆の努力で、なんとか自分たちの同人誌を作る事には成功した。
が、出来上がった創刊号は、レイアウトはボロボロ(詩が見開きに収まらず、ページをまたいでしまったり)、落丁があったりなど、苦労をした割には失態も目立つものだった。制作にタッチしていないメンバー──作品だけ提出してステキな同人誌が仕上がってくるのを楽しみにしていた人たちにしてみれば、ちょっと(かなり?)ガッカリだったかもしれない……。
同人誌のできとしては──冊子の体裁も、発表した自分の作品も今ひとつだった感は否めないが、僕としては同人誌活動に<参加>したことで感じたり考えたりできたた事も多く、その意味においては意義深かったし、ある意味充実していた。
この時期の試行錯誤や反省は、その後の同人誌活動や創作活動にとって、そして大げさに聞こえるかも知れないが人生にとっても影響を与えたといっても過言ではない。

創刊号が完成した後、合評会のようなものがあったが、内容はあまり覚えていない。あまり噛み合なかったのではなかったか……という印象がある。
同人誌の方向性が決まらずに人が集まってきたので、作品のジャンルや傾向がバラバラだったこと、自分で書くのは好きだけど、批評したりされたりすることに馴れていない人・関心が薄い人が多かった気がする。
一方「詩を書くことに生命を懸けている」と豪語する会員もいて、喫茶店でテーブルを叩いて激高されたこともあった。彼にとって詩は神聖なもので、「お遊び」程度に考えてもらっては困る──みたいな事を言っていたように思う。きっと求めていた同人誌はもっと崇高なものだったのだろう。彼は捨て台詞を吐いて去って行った。

僕自身は創作のなんたるかが全く判っていない頃で、しかしながらこの時期、よく友人(小説版ミラクル☆スターの悪島)のプレハブ部屋に泊まり込み、徹夜で作品について語り合ったりしていた。自分が温めいてる作品の構想だとか、好きな作品のどういった点が良かったなど、飽きる事無く話していた。
「<描写>と<説明>の違いは<風景画>と<地図>のようなもの」みたいな話を夢中になってしていた記憶がある。
当時僕が目指していたのはファンタジー──いわゆる(?)空想物語(現実次元の物語に対して)だったが、《漁人》のメンバーの中にはやはり非現実の起こる空想物語を描くメンバーが何人かいた。
自分ひとりで描いていたときはファンタジーとは何か?──などと深く考えた事はなかったが、同じ空想物語を描く人たちが現れたことで「僕の描こうとしてるものとは、また違う」ことに気づき、他者の描くものとの違いを考えることで、自分の目指すものを自覚するようになった部分もあった。

「例えば、主人公の目の前にオオカミが飛び出してきて、
 『お前を食べちゃうぞ!』と言った時──、
 主人公がまず《オオカミがしゃべる》点に驚くのが(狭義の)ファンタジー、
 《オオカミに食べられる》こと(のみ)に反応するのが(広義の)メルヘン」

ざっくりした例えだが、そんな見方もできるのではないかなどと考えたりするようになったのもこの頃だった。同人誌づくりにしても作品づくりにしても、それまで意識することがなった視点を発見し、考える事に目覚めた時期でもあった。

《漁人》は創刊号を出した後、幽霊会員(?)が淘汰されて少しスリムになったこと、スタッフたちも創刊号の経験値を得たことで、第2号はだいぶ洗練された感じのものとなった。第2号もガリ版印刷ではあったが、印刷機がプリントゴッコ式に1枚1枚手作業で刷っていた創刊号と違い、輪転機になった(借りもの)という画期的な進歩があった。輪転機の作業効率の向上度には一同驚愕したものである。「これぞ文明の利器!」──そんな実感があった。

そして《漁人》3号では、ついにタイプ印刷となり、初めて「活字化」が実現したのである。
形の上では、軌道に乗ってきたようにもみえる《漁人》だったが、会の運営をめぐっては、当初の(雑誌で仲間を募った)主宰者とは別のグループが運営することになったがための「今ひとつスッキリしない部分」が尾を引いていた。そして、けじめをつけるために《漁人》を一度きちんと解散し、有志によって新たな同人誌を再結成しようという動きになる。
《漁人》は3号を出した後に解散。そして同じスタッフによって新たに《むい》という同人誌が立ち上げられた。僕も引き続き《むい》に参加し、童話(ファンタジー)を書き、創刊号の表紙を描かせてもらったりした。

《漁人》の時代だったか、あるいは《むい》へ移行してからだったか……正確な時期はハッキリ思い出せないのだが……この頃の同人誌メンバーの一人・Oさんの部屋にスタッフらが泊まり込んだ事があった。同人誌発行の打ち上げか、新年会・忘年会だったかもしれない。この時、《ますむら ひろし漫画》との運命的な(?)再会があった。
Oさんの部屋で見つけたハードカバー本。何気なく手にとり開いてみたら漫画だったのでちょっと驚いた──というのが第一印象だった。漫画と言えばペーパーバックのイメージがあったので意外だったわけだが……それが『アタゴオルは猫の森』の愛蔵版だった。その不思議な世界に魅かれて、皆が寝てしまった後、朝まで一睡もせず一気に読んだ記憶がある──言わずと知れたますむらひろしさんの名作である。
僕は中学時代にも、ますむらさんの漫画──デビュー作の『霧にむせぶ夜』(第5回手塚賞・準入選)を読んで強烈な衝撃を受けている。当時マンガのまねごとをしていた時期もあったのだが……『霧にむせぶ夜』を読んで、こんな人たちがしのぎを削っている漫画の世界には、とても自分が入り込める余地などない、努力したところで到底太刀打ちできっこない──と漫画心(?)が萎えてしまうほどの圧倒的なインパクトを受けていた。その後僕の創作活動は漫画から文芸へと方向転換をすることになる。
そして方向転回した文芸の同人誌活動をしている中で、再びますむら作品と出会い、朝まで読まされてしまうことになるとは……、後になってふり返ってみると奇妙な縁を感じる。というのも、この後、僕が同人誌(《窓》第2号/1979年)に書いた作品が出版され、そのデビュー作単行本の挿絵をますむらさんに描いていただく事になるからなのだが……もちろん、『アタゴオルは猫の森』を夢中になって読んでいた時には、そんな展開など夢にも思っていなかった。

さて、再生した同人誌《むい》の活動だが──2号の前後で僕は退会を決断。
いくつかの同人誌を出してきたが、その総括というか──発表した作品についての合評会がいまひとつ盛り上がらず、雑談に流れれ、不完全燃焼に終わることが原因だった。せっかく同人誌を作ったのに、発表した作品についての総括が無いのは気持ち悪い──個人的にはそうした気持ちが強かった。書き手は作品を完成させる迄の間、色々試行錯誤を繰り返し、何度も練り直しているので、自分の作品について第一印象が持てない。自分の描いた作品が他者にどう読まれたのか、どんな印象を持たれたのかは興味のあるところである。また、他の人がそれぞれの作品について、どういう意図で描き、どんな苦労や工夫があって「そのような作品にたどり着いたのか」などについても知っておきたい。自分の創作活動に還元できるヒントがあるかもしれないからだ。そうした互いの作品や創作姿勢に対する活発な意見交換があってこそ、同人誌を出す意義があるのではないか──そんな気持ちもあったのだ。
しかしながら、書き手の中には互いの作品を批評し合うことに関しては熱心でない人もいる。
「作品は、自分が楽しいと思ったものを楽しんで書く──それでいい」「他人の批評にはあまり興味が無い」そういった空気を感じ、《むい》で合評を充実させたいと望むのは僕の独り相撲のような気がしてきて、未練を感じながらもここを去ることにしたのだった。

陳腐な言い方だが、同人誌活動は僕にとって青春だったのだと思う。《漁人》はその出発点であったこともあり、特別な思いもある。当時のメンバーの幾人かとは現在も年賀状のやりとりをしているのだが……ふり返ってみると『詩とメルヘン』にあの同人誌の呼びかけが載っていなかったら、僕らは知り合う事もなかったはずで……そう考えると縁というのは不思議なものだなぁと実感する。


③《窓》の頃〜初めての主宰同人誌・軽オフセット印刷篇〜
02窓2号
《むい》は退会したが、同人誌活動に飽きて辞めたわけではない。自分なりの納得のいく同人誌が作りたいという思いは持ち続けていた。そこで軽オフセット印刷機と製版機を買い込んで、同人誌を主宰することにした。
簡単に印刷のしくみを紹介すると──、
版下原稿を特殊なフィルムに密着させ、強い光で焼き付けたものを紙のような原版に転写。すると原版に水をはじく部分(原稿の黒い部分)と、水分が乗る部分(原稿の白い部分)ができる。この原版を印刷機にセットし湿し水を塗布すると、印刷時に余白となる部分には水が乗り、印刷部では水がはじかれる。そこに油性のインクが供給されると、水がのった部分(余白部分)ではインクははじかれ、水がない部分(印刷部分)にのみインクが乗る。原版に乗ったインクはブランケットと呼ばれるゴムのドラムに転写され、それがさらに紙に転写される仕組みである。
版と紙が直接触れず、一度ブランケットに転写させる工程があることでオフセット印刷と呼ばれるらしい。

冊子の形体は手描きの原稿から原版を起こす形(手書き文字&イラスト)をとったが、版下となる原稿は普通の紙に普通のペンで描けるので、ガリ版印刷(原紙に鉄筆で描く)に比べればキレイに仕上がる。
同人誌名は《窓》とした。ファンタジーやメルヘン系の童話を想定していたので、非日常の風景がのぞける窓/(同人誌は)内なる世界と外の世界をつなぐ枠──そんなイメージがあった。
この同人誌は童話・児童文学に限定するつもりでいた。ジャンルを限定しなかった《漁人》で、趣味が違いすぎる人たちか集まると話が噛み合ないという教訓を得ていたからだ。互いに相手の作品に興味が持てるような人たちで同人誌メンバーは構成すべきだと考えたわけである。
さらに同人誌を立ち上げるにあたって、まず方向性をまず打ち出しておくのがいいだろうと考え、創刊号の前に、創刊準備号として「ふたば号」なるものを作った。僕の掌篇と《漁人》スタッフでメルヘン系ファンタジーを描いていたKさん、Hさんのゲスト作品で構成した。
本文は2段組だったが、巻末には「作者の窓」なる3段組のあとがきページを設けた。ここでは収録された作品一つ一つに対して作者自身に思いを述べてもらう。作品本意で考えれば作者のコメントなど蛇足かもしれないが、「書いた作品を載せるだけ」でなく、それを生み出すまでの[創作過程]・[創作背景]をも大事に考える──そんな姿勢を打ち出したかった。

《窓》は、ふたば号(創刊準備号/1978年1月1日)のあと、やはり《漁人》のメンバーだったSさんとその友人Oさん(イラスト担当)をお迎えてして創刊号(1978年4月1日)をだすことができた。第2号では、Oさんに変わってやはりSさんの友人Tさんがイラストを飾ってくれた。

第2号巻末のお便りを紹介する頁(ぽすと)では、《窓》読者からの手紙の一部とSさんのコメントを僕が手書き文字&イラストでレイアウトした。「まど」の郵便受けに届いた手紙を、《窓》の作品に登場したメンバーたちが集まって読んでいる──という図案。お便り文と手紙文では手書きながら書体を変えてある。
03窓2号ぽすと製版
《窓》を手書き文字にしたのは予算の関係からだったが(活字を組むと高くつくので)、出来上がった誌面を見ると、これはこれで手作り感があってなかなかいいものだなぁ……などと感じたものである。
発行した《窓》は地元の書店に交渉して置いてもらったり、同人誌マーケット(今のコミケの原型だろうか。当時は文芸誌・ミニコミ誌・マンガ同人誌が混在した即売会だった)に参加して売ったり、《漁人》で知り合った仲間たちに送ったりした。当時の仲間たちの中にはそれぞれ同人誌を立ち上げた人もいて、互いに同人誌を送ったり送られたりし、それが楽しかったし刺激になった部分もある。

第2号(1979年7月1日)を出した後、《窓》は活動停止となるが──この第2号に掲載した僕の長編ファンタジー『クロカニ号の冒険』(400字詰原稿用紙換算232枚)が、児童書出版の金の星社で公募していたコンテストに入賞し、出版化が決まるという信じられないような出来事が起こった。入選してから出版までは5年ほどかかってしまったが、挿絵はますむらひろしさん、解説は光瀬龍先生に飾っていただくことができた。
この『クロカニ号の冒険』の入選を機に、創作に対する姿勢や考え方にいくらか変化があったかもしれない。「読んで面白い作品を」という目指すところは同じだか、真剣度は格段にアップした。自分が面白いと感じるものを追求するのは当然ながら、さらに他の人が読んでも面白いと感じさせるためには何が必要か──そんなことも思案するようになった。

そして「楽しみのための(遊びとしての)同人誌」活動は《窓》の廃刊をもって一時休止する。この後も僕はいくつかの同人誌や勉強会に参加したが、それらは文字通り「勉強のための」活動であった。そうした同人誌活動で学んだ事はもちろん多いが、ふり返ってみると、僕にとってより愛着が深いのは「楽しみのための同人誌」の方であった気がする。


④《アルファ》の頃〜児童文芸研究会〜
04アルファ児童文芸
初めて書いた長編ファンタジー『クロカニ号の冒険』を金の星社の公募に応募した頃、僕は「児童文芸」という雑誌を発行していた日本児童文芸家協会が児童文芸研究講座を開催している事を知って、これに参加してみることにした。児童文学に興味がある人なら一般の素人でも参加できるようだし、プロの作家がどんな創作活動をしているのか、話を聞いてみたかった。また、ここに集まってくる、まだ見ぬ創作活動家(?)たちがどのような作品を書いているのかなどにも興味があった。

児童文芸研究講座は月1回の割合で開かれていた。前半は児童文学者の講義で、後半は受講生たちの書いた作品の合評というスタイル。受講生たちがあらかじめ提出していた作品は簡易タイプ印刷で「作品集」として冊子にまとめられ、それを何回かかけて合評する。
ここでは僕が望んでいた合評会がしっかり行われていて、大いに刺激になった。楽しかったし、勉強になった。
自分の意図する作品を書くためには、作品を客観的に分析する能力が必要なはずだが、自作を客観的に見る事はなかなか難しい。しかし他人の作品なら比較的客観的に眺める事ができる。他者の作品をどう評価するのか──僕の意見と、他の人たちの意見を比べる事で、自分の作品分析力がいかほどのものなのか判断する手がかりになるのではないかと考えた。
自分の作品に対する評価にはもちろん興味があったが、他者の作品をどう評価すべきか──他者の作品を通して分析力を磨くことにも力を入れた。

合評会は神楽坂(東京)で行われていたが、香川県からわざわざ出向いて来る熱心な方もいて驚いたことがあった。彼女が後に偕成社からデビューする須藤さちえさんである。ちなみにこの児童文芸研究講座を受講していた同期メンバーの中からデビュー(商業出版)を果たした人には、河野貴子さん・矢部美智代さんなどもいる(他にもいるかも知れない)。規模は決して大きくない勉強会だったが、充実した有意義な活動だった。

やがてこの児童文芸研究講座は終了する事になるのだが、受講生メンバーたちは合評会の場の継続を求めた。《アルファ》という同人会をつくり、日本児童文芸家協会の支部という形で認めてもらうことになる。児童文芸研究講座や《アルファ》で作られた作品集は合評用テキストという意味合いが強かったが、これも「同人誌」と言えなくもない。
創作を志す仲間たちのと交流が楽しく僕はしばらく皆と行動を共にしていたが、勉強会がいくらか派閥的な色合い変質していくような違和感を覚えるようになり、やがて《アルファ》を離れることになる……。


⑤《MON48》の頃〜光瀬教室〜大衆文芸の書き方〜
05MON48画面
『クロカニ号の冒険』入選の通知を受けたのは、児童文芸研究講座に参加するようになって間もない時期だった(入選から出版まで5年かかった)。その頃、児童文芸研究講座の浜田けい子先生の紹介で少年文芸作家クラブ(現・創作集団プロミネンス)の先生方と知り合うチャンスをいただいた。SFマガジン初代編集長・(故)福島正実先生が立ち上げたクラブで、そこにいたのは僕が中学生時代に愛読していたSFジュブナイルを書いておられた先生方だった。その縁で光瀬龍先生には大変光栄な事に『クロカニ号の冒険』出版(金の星社/1984年)の際には解説を書いていただき感激した。

その光瀬龍先生が、朝日カルチャーセンターで《大衆文芸の書き方》という講座を開くというので第1期生として参加(1984年7月スタート)。ここにはすでに著書を数冊出している方・雑誌に書いている方など、プロも参加していた。一般のサラリーマンながら、毎週50枚の新作を提出するなどという恐ろしく熱心な人などもいて、活気があった。光瀬先生は、毎回講義の後に受講生たちと喫茶店によって気さくに色々な話をしてくださった。受講生らも仲良くなり、教室の外でも先生を交えて旅行などが企画されたりした。

そして、受講生らの作品を集めて同人誌を出そうという話がもちあがる。
創刊号にはなんと光瀬龍先生が書き下ろし作品を提供して下さるという! これは下手なものが作れない──。僕が見まわしたところ、同人誌活動をしてきた人はいないようなので、いささか心もとない気もしたのだが……働き者でテキパキと対応できる人がいて、話はトントンと進んだ。
同人誌のタイトルは皆で候補を出しあい、その中から《MON48》が決まった。光瀬教室(大衆文芸の書き方)が開かれるのは毎週月曜(MON)住友ビル48階であったことに由来する──これは僕の思いつきだった。ちなみに表紙のイラストも僕にお鉢がまわってきた。図案は書き手の象徴であるペンが翼を広げ、光瀬教室(住友ビル)から飛び立つ──というものにした。
フリーハンドでアウトラインを描いて、色指定できるようにしたつもりだったが……ちょっと計算違いがあった。もう少しキレイに仕上げておけば良かった……とこれは後になって反省したことだが……とにもかくにも、同人誌《MON48》は創刊にこぎつけた。
そしてこの創刊号に書いた『ねこにかかったでんわ』は後に岩崎書店から出版していただくことができた。

※同人誌《MON48》6号までのラインナップは──、


■MON48 創刊号(1985年3月)
書き下ろし作品
『蓮屋蓮吉捕物控 討入りの朝』・・・・光瀬  龍
『家紋』・・・・・・・・・・・・・・・武生 義史
『日だまり』・・・・・・・・・・・・・篝  真子
『ねこにかかったでんわ』・・・・・・・星谷  仁
『マスメディア・ジャック』・・・・・・津久江 隆
『夕暮れの道』・・・・・・・・・・・・きたちひろ
『雲の峠』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『捨てられていた幸運』・・・・・・・・森永ぐり子
『賭け』・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
「門出を送る」・・・・・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第2号(1985年12月)
書き下ろし作品
『リトルバラ:三一八七・ソラリヤ』・・光瀬  龍
『不倫電話』・・・・・・・・・・・・・卯杖 遊子
『横顔』・・・・・・・・・・・・・・・柄沢真紀子
『宮本武蔵異聞』・・・・・・・・・・・津久江 隆
『水銀灯』・・・・・・・・・・・・・・山崎  玲
『怪我の功名』・・・・・・・・・・・・如月  薫
『サリバイ市はおおさわぎ』・・・まつみやもりかつ
『ぽんたの川』・・・・・・・・・・・・きたちひろ
『隣の席』・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
『夢寓話』・・・・・・・・・・・・・・尾上 華子
『コバルトヴァイオレットペール』・・・江戸 主水
『ラスト ワルツ』・・・・・・・・・・篝  真子
「第二号発行に寄せて」・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第3号(1986年12月26日)
書き下ろし作品
『仲買人たちの夜』・・・・・・・・・・光瀬  龍
『夕暮れ』・・・・・・・・・・・・・・篝  真子
『がんばれ! おばけ先生』・・・まつみやもりかつ
『半導体ヤクザさらにスパイ』・・・・・北松  誠
『虹色のクワガタ虫』・・・・・・・・・正田  太
『流れ星』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『ノアの末裔』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『山は夕暮れ、なみだ色』・・・・・・・きたちひろ
『サクランボを棄てる女』・・・・・・・瑞木  晶
『名探偵と牛若丸』・・・・・・・・・・藤谷はるか
『二百年後の結末』・・・・・・・・・・水木 萌映
『小岩界隈』・・・・・・・・・・・・・卯杖 遊子
『備前七幅』・・・・・・・・・・・・・東山 令子
「第三号発行に寄せて」・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第4号(1988年12月1日)
『十五夜無情』・・・・・・・・・・・・如月  薫
『ラブストーリー1986』・・・・・・・・津久江 隆
『歯医者さんと魔法の火』・・・・・・・紺野 加奈
*特集*「課題作品について」・・・解説:光瀬 龍
「田岡屋騒動」・・・・・・・・・・・・松宮 守克
「あたりくじ」・・・・・・・・・・・・筒井 和子
「終わりよければ」・・・・・・・・・・藤谷はるか
「ベター・ハーフに乾杯!」・・・・・・武内 淑郎
「だから九時まで」・・・・・・・・・・瑞木  晶
『野げいとうの怨み』・・・・・・・・・長谷 圭剛
『ミルクキャラメルをほおばって』・・・神崎 静華
『SHE・IS』・・・・・・・・・・・由井 宏道
『恋人はスペースキャット』・・・・・・木部恵利子
『左利きの乳房』・・・・・・・・・・・江戸川町子
「第四号によせて」・・・・・・・・・・光瀬  龍
「MON48の奇跡」・・・・・・・・・・星谷  仁

■MON48 第5号(1990年11月3日)
『国試無双』・・・・・・・・・・・・・由井 一光
『最後の天使』・・・・・・・・・・・・藤谷はるか
『車人形・影法師』・・・・・・・・・・岡  光子
『ブクと』・・・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
『金魚の意気地』・・・・・・・・・・・三ノ杉圭祐
『蝿』・・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
『裸身群像』・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
『アーマが帰ってきた』・・・・・・・・関口 和利
『歪んだ伝言』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『見合い結婚しましょ』・・・・・・・・木部恵利子
『花がけろうの家』・・・・・・・・・・江戸川町子
『主婦の使命』・・・・・・・・・・・・松宮 守克
『幻燈の中』・・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
「女の時代」・・・・・・・・・・・・・星谷  仁
赤いクモ──夢の前兆──」・・・・・星谷  仁
「新人賞ブームについて思う」・・・・・光瀬  龍

■MON48 第6号(1992年4月)
『ネオテニー』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『夏の曲』・・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
『かたき大福』・・・・・・・・・・・・紺野 加奈
『呪いの譜』・・・・・・・・・・・・・新発田 実
『月をねだる』・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
『ダイアンの瞳』・・・・・・・・・・・今川 智志
『祭りのあと』・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
『芳香』・・・・・・・・・・・・・・・宇津木玲子
『白菊抄』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『連鎖〈チェーン〉』・・・・・・・・・由井 一光
『明日を作る人々』・・・・・・・・・・鈴木 孝昭
『本日、朝野早紀は人を殺します』・・・山本真梨子
『召集令状』・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
「誰がそれをプロと呼ぶ」・・・・・・・光瀬  龍

そして余談だが……この《MON48》は映画にも登場(!?)している。第3号が『文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』という邦画のエンドロールで流れていく同人誌の中に映っているのだ。知らずにこの作品をテレビで見ていてビックリした。
文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』(1989年アジャックス)は筒井康隆・原作の文学界をパロった作品。同人誌に載った無名の新人の作品が大きな文学賞にノミネートされたことから起こる騒動を描いたもので、筒井康隆自身がSF作家役で出演して文壇バーで暴れるシーンがある。
同人誌とパロディといえば……僕がふざけて書いたミラクル☆スター・復活篇も内輪ネタ・パロディで、《MON48》や《漁人》の同人誌メンバーが(仮名で)登場している。そして舞台は文壇バーだった……。


⑥《チャンネルF》の頃〜ワープロの登場〜コピー誌(紙)篇〜
06CF1&通信8
ワープロ──日本語ワードプロセッサは、パソコンに取って代わられ、もはや絶滅寸前(?)だが、この機械が登場したときは、すごいものが現れたものだとビックリした。当初は1台数百万円(そのくせ印字はかなり粗雑)──それでも、この夢のような機械にあこがれた。
今でこそパソコンで文章を自在に編集できるのは当たり前になったが、当時は原稿用紙に手書きで文章を書いていた。まず下書きし、それを推敲する。すると原稿はゴャゴチャしてくるので、再度書き直す──このようなことをくり返した。
僕は筆圧が強かったので、人差し指の腹の指紋はすりへり、中指にはしっかりペンだこができた。推敲本来の労力ばかりではなく、原稿の書き直し・修正・ときには切り貼りなどの物理的な労力で時間をとられ、それがわずらわしい。
ワープロを使えば、その物理的労力から開放される……。まさに夢のような「未来の機械」だった。
ワープロが出た当初は「高嶺の花」とあきらめ、このような高価な機械を持つ事は自分には生涯ないだろうと思っていたが……ワープロの進化と普及のスピードはめざましかった。数年で値段もぐっと庶民的になり、僕も結局4台も使っていた。その花形だったワープロも今やすっかりみかけなくなった……爆発的に普及したワープロは廃れるのも早かった……。時代の移ろうスピードには驚くばかりである。

さて、このワープロを手に入れた事で、「活字化」の憧れは気軽に実現できるようになった。そこで、遊び感覚で気ままに作ったのが同人誌ならぬ個人誌《チャンネルF》だった。
作品やら覚書やらエッセイやら……思い付いつくままにまとめ、ワープロで編集してプリントアウトしたものを版下にし、コピーをとってホチキスでとめる──それだけの粗末な個人誌で、発行部数も知人数名に配布する程度のものだった。作ってみたものの誰にも見せていない号もある。しばらく離れていた「楽しみのための」個人誌の再開だったともいえる。
《チャンネルF》の「F」は「ファンタジー」「フュージョン(現実と幻想の<融合>)」そしてちょっと強引だが「FUSHIGI」の頭文字。不思議でファンタジックなチャンネル──という意味合いである。第1号表紙はラジオのチューナーをイメージしてデザインした(不思議でファンタジックなチャンネルにチューニングするイメージ)。当初は創作ファンタジー&覚書・エッセイをまとめていた。
07CF表紙7&12
7号は100年に一度開花する竹の花とクダギツネの伝説、さらにかぐや姫とクロマドボタルとをからめたファンタジー(『月からきた小さなきつね』のタイトルで<子どもと読書>に連載)。12号は自選ショートショート集。表紙は「運命の赤い糸をあやつるクモ」のイメージ。
そのうち飼っていたフェレットのレポートやフェレット漫画など、創作・文芸路線以外のものも登場させる。
08CF13&9
関係者しか判らないパロディ小説を載せたり、そこから発展した実写ビデオミラクル☆スターを撮ってテレビで紹介されるなどといったこともあった。
また《チャンネルF》とは別に冊子の形をとらず、内容を1枚の紙にまとめた個人紙《チャンネルF☆通信》も、ちょくちょく作っていた(第8号の『団地さいごの日!?』『きえた大はつめい』は朝日小学生新聞の読み切り童話として描いたもの)。
このようにワープロの登場で「活字化」は手軽に実現できるようになった。イラストを張り込めば同人誌もどきのようなものが作れる。ただ、コピー誌(紙)の場合は配布できる相手や数がかなり限定される。

そうした事を考えると、パソコンの登場、ホームページやブログ、SNSの登場は画期的だ。多くの人が閲覧可能なネット上に自分の「表現」ができるのだ。自分の文章を活字化でき、カラーのイラスト・写真も掲載できる。画像ばかりか動画までも──これは同人誌では不可能だったことだ。しかもタダで──。
自費出版にあこがれ、同人誌を始めた頃からは想像もできないことだ。
なんともスゴイ時代になったものである。


個人誌《チャンネル☆F》(コピー誌)
【VOL.1】「雨の日の通信」「金色の首輪」「しゅっぱつ!ゆうれい探偵団」「占い師の予言」「ワラ人形のききめ」「魔法使いをたずねた男」「脱獄をくいとめた男」を収録(1987年)
【VOL.2】「SFはポケットの穴から…」(1988年)
【VOL.3】「恋の魔法は手作りチョコで」「愛しいまぼろし」を収録(1988年)
【VOL.4】創作の周辺・折り鶴/<ねこにかかったでんわ>着想・創作過程/<小さなまじょのさがしもの>発想・創作過程/<ヒョウタン池の仙人・後記>をふり返って/物語は心のシミュレーション/書き手のショーマンシップ/釣りとテンプラ・アイディアの捕捉/を収録(1988年)
【VOL.5】「まほうのチョコボール」「プテラノドンと男の子」まぼろしの迷作誕生!?「恐竜のカプセル」収録(1988年)
【VOL.6】「オレは野良犬」「ハム・スタ子と芳男」「六番目の感覚」「不思議なサンドイッチ」「たこあげ」「ヒョウタン池の仙人」収録(1988年)
【VOL.7】「むぎわら帽子の竹の花」収録(1988年)
【VOL.8】「だれかの<声>が…1/心の<声>」収録(1988年)
【VOL.9】「ミラクル☆スター・激闘篇」他収録(1989年)
【VOL.10】「ミラクル☆スター・復活篇」収録(1989年)
【特別号】「雨の日の通信」「プテラノドンと男の子」「金色の首輪」「ワラ人形のききめ」「愛しいまぼろし」<ねこにかかったでんわ>着想・創作過程/<小さなまじょのさがしもの>発想・創作過程/釣りとテンプラ・アイディアの捕捉/収録(1989年)
【別冊 臨時増刊号】ミラクル☆シリーズ 秘密大百科(1992年)
【VOL.11】掌篇集&4コマ漫画/収録(1993年)
【VOL.12】自選<奇妙な味の>掌篇集(1994年)
【VOL.13】わが家のフェレット・レポート/収録(1996年)
【VOL.14】漫画「フェレットinジャケット」収録(2002年)
【VOL.15】漫画「ふぇレッツ・ゴー」収録(2002年)
【VOL.16】漫画「フェレットのいる風景」収録(2002年)
【VOL.17?】漫画「虫屋な人々」収録(2007年)

個人紙《チャンネルF☆探偵団》(コピー紙)
【VOL.1】邦画「文学賞殺人事件 大いなる助走」エンディングに同人誌《MON48》(表紙画:星谷 仁)が映っていたことの報告(1992年)

個人紙《チャンネルF☆通信》(コピー紙)
【VOL.1】自主映画祭&ロケ参加報告/カメレオンTV出演(1992年)
【特別号】ミラクル☆シリーズ スペシャル 資料(1992年)
【VOL.2】ジュラシック・パーク感想/ロケ(エクシーザー)報告(1993年)
【VOL.3】「守護霊」&覚書(1993年)
【VOL.4】「地震の予知」&覚書(1993年)
【VOL.5】朝日小学生新聞連載報告(1993年)
【VOL.6】「人面ガエル」(1993年)
【VOL.7】人面ガエル・覚書(1993年)
【VOL.8】「団地さいごの日!?」「きえた大はつめい」(1993年)
【VOL.9】「おふろの海ぼうず」「ペットよけボトルのひみつ」(1994年)
【VOL.10】肩乗りイタチ・フェレット(1995年)
【VOL.11】東京ディズニーランド紀行(1995年)
【VOL.12】「リサイクル」「証拠」(1995年)
【VOL.13】「宇宙観」(1995年)
【VOL.14】「暗示効果人はなぜ宝クジを買うのか(1996年)
【VOL.15】「モニター」Myフェレット雑誌に登場!!(1997年)
【特別号】略歴

実写版ビデオ
ミラクル☆スター】(1991年)
ミラクル☆キッド】(1991年)

創作童話・ショートショート・漫画メニュー
ブログ以前〜個人誌的ブログ:チャンネルF
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜

糞の手紙!?〜イタチの粗相考

『いたちの手紙』と『いたちのてがみ』
01鼬の手紙&てがみ
前回《いたちの魔かけ》で、童話『いたちの手紙』に触れたが、良く似たタイトルで『いたちのてがみ』という別の児童書があることを最近知った。題名の読みは同じだが、「てがみ」の表記に漢字とひらがなの違いがある。両方の作品をあらためてまとめてみると──、

『いたちの手紙』は佐藤さとる・作/村上勉・絵の児童文学。1973年に講談社から単行本として出版され、『佐藤さとるファンタジー童話集③おばあさんの飛行機』(講談社文庫/1976年)、『佐藤さとるファンタジー全集⑫いたちの手紙』(講談社/1982年*2011年復刻)に収録されている(※1972〜1974年に刊行された『佐藤さとる全集』(全12巻/講談社)には収録されていない)。
子どものリアルな日常を舞台とする実在感のあるファンタジー作品で、内容を簡単に記すと……小学生のアキラがちょっと変わった封書(これが《いたちの手紙》)を拾ったことから物語が始まる。封書の裏(差出人欄)には幼い字で「いたちくぼのいたち」と記されていた。投函前の手紙だったことから、アキラはこの手紙をポストに入れるが、そのあと謎の手紙のことが気になってくる。「いたちくぼ」と呼ばれる場所が近くにあることを知ったアキラはそこへでかけ、初めてイタチと出会って《いたちの魔かけ》を体験することになる(これにかかるとイタチと会話することができる──というのがこの作品のファンタジー・ルール)。やはり《いたちの魔かけ》がかかる小1のカオリとの出会いがあり、《魔かけ》の秘密&なぜ、イタチが手紙(カオリが代筆)を出すことになったかなどの《謎》がだんだんと解けていく──。いたちくぼに独りっきりになったイタチがよその地域で同じ状況下にあるイタチを嫁にとる話なのだが、アキラの視点で展開する物語には、謎解き的なあじわいもあって、おもしろい作品だった。

タイトルがオールひらがなの『いたちのてがみ』は、こしだミカ・作の絵本。月刊予約絵本「こどものとも年少版」通巻404号/福音館書店/2010年。版元のサイトには「読んであげるなら:2才から」とあり、文章は少なめで絵のうったえるところが大きい。力強く躍動感あふれる個性的な絵に魅力を感じた。
内容は、おばあちゃんの家(古い木造家屋)にひっこしてきた女の子が、屋根裏に住み着いているイタチに興味を示す。女の子が初めてイタチをみた場所にチーズを置くと、翌日、チーズは消えてかわりにイタチの糞が残されていた。その形が文字(ひらがなの「つ」)にみえ、女の子はそれを「いたちの手紙」ではないだろうかと考えてイタチに手紙を書くというもの。


糞の置き手紙&ため糞のSNS!?
イタチが残していった糞を「てがみ」に例えた『いたちのてがみ』に対するネット上の反響には「イタチの糞を手紙だと思うという発想に意外性があっておもしろい」というような感想もあった。たしかに──しかし、イタチを含む動物の糞や尿には仲間とのコミュニケーション・ツールとしての意味もある(マーキングに使われる)ので、糞を「手紙」とみることは、あながち飛躍した解釈ではない。動物の糞には、何を食べていたのかとか健康状態などを示す情報も含まれているので、その主のことを知る大事な手がかりになったりもする。
人間から見ればただの排泄物だが、糞は動物にとって、その主のことを示す色々な情報が記されている……そういった意味では置き手紙といえなくもない。人間の手紙には「言葉の壁」があって文字が読める相手にしか伝わらないけれど、文字のかわりにニオイを用いた動物の「置き手紙」は、種類の壁を超えてあるていど「読むことができる」汎用性の高いコミュニケーション・ツールといえるかもしれない。
僕がかつて飼っていたフェレットは散歩中にタヌキのため糞に引きよせられたことがある。タヌキには複数の個体が同じ特定の場所に糞をする「ため糞」の習性があって、互いの情報交換の役割りをはたしているという。単発の「糞」が「置き手紙」なら「ため糞」は「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」といったところだろうか。
フェレットの散歩では、糞にかぎらず、ニオイによる書き込みの「掲示板」があちこちにあることが感じられた。

02鼬漫画目線SP再
『ふぇレッツ・ゴー』グランジ目線で散歩:編より⬆
去勢していないノーマル・フェレット♂・グランジによるマーキング⬇

※枝をまたぐようにして尿をつけている。

イタチの糞:フェレットの粗相考
イタチの糞はただの排泄物ではない!?──という実感は、以前フェレット(家畜化されたイタチ科の動物)を飼っていた時に実感していた。

僕が飼っていたフェレットは基本的にはトイレを設置した場所で用を足していた。
ところが室内で遊ばせているとき、何かの拍子に(?)部屋の隅でしてしまうことが、たま〜にあった。人間からみれば「粗相」ということになる。
フェレットフードの効果なのか……フェレットの糞は意外なほど臭くない。猫や犬の糞に比べたら全然余裕(?)なのだが、それでもソレを室内に放置しておくわけにはいかない。トイレ以外の場所でやってしまった時は、もちろんすかさず回収するのだが、きれいに拭き取ったつもりでもニオイがわずかに残っているのだろう、一度粗相をすると、連日続けざまに同じところでする傾向があった。
一度粗相をすると繰り返す可能性があるので、そんな時にはちょっと「困った」ものだ。

ところで、フェレット好きの人であっても、トイレ以外の場所で「粗相」をされると怒る人は少なからずいるらしい。僕は粗相で怒ったことはない。僕が「困る」のは粗相をされたからではなく、その始末をするさい、フェレットに対して、ちょっと後ろめたさを感じてしまうからだ。

「粗相」というのは人間側が言うことであって、実際のところ、フェレットは「うっかり、そこでしてしまった」わけではない。フェレットなりの理由があって、わざわざそこを選んで糞をおいたと考えるのが正しい。
それが証拠に(?)したばかりの糞を撤去するとき、フェレットは申し訳なさそうな顔をしてはいない。
「俺がせっかくここにしたのに……。したそばから、どうしてわざわざ撤去するかなぁ」と、ちょっと非難めいたまなざしで見上げていたりする。フェレットのヒンシュクを感じてしまい、糞の撤去には後ろめたさがつきまとうのである。

『小動物ビギナーズガイド フェレット』(大野瑞絵・著/誠文堂新光社・刊)には、靴の中に糞をされたというエピソードが紹介されており、笑ってしまったが……ありそうなことだ。知人のフェレットでは足拭きマットでニオイつけをするコがいた。また、フェレットには靴下好きなコが多い──これらはニオイに反応してのことだろう。

いわゆる「粗相」──トイレ以外のところでする排せつには「飼い主(仲間?)のニオイのあるところには自分のニオイも仲間入りさせておきたい」というような社交的な(?)自己主張の意味があるのではないかと僕は考えている(排他的な縄張りマーキングの逆)。
飼い主のニオイのあるところに自分もニオイ参加する……これはSNSへの書き込みや、飼い主のニオイに応じたコメントみたいなものではなかろうか? それをいきなり削除したりブロックしたら、好意を持ってニオイ書き込みをしたフェレットに対してかなり失礼なのではないか……糞の撤去やニオイ防止措置は、着信拒否のような行為ではないかという気がしないでもない。
しかし結局そこは人間の都合で撤去してしまう事になるわけなのだが……僕としては、やはり、ちょっと心苦しい。

家畜の歴史の長い犬は飼い主の顔色を読んで「粗相」をするとしゅんとするらしい(腹いせに「粗相」をすることもあるらしい?)。それを卑屈といってはかわいそうだが、僕は粗相をしても撤去する人間に対して、堂々と「なんだかなぁ」と不満げなまなざしで見上げるフェレットの方が好きなのである。

ちなみに、フェレットの本当の意味での「粗相」とは……愛鼬と一緒にお風呂に入ったら、湯船の中にぷっかり……コレであろう。
ちなみに、これは聞いたよくある話。僕の体験談ではないので、誤解なきように。


(※最後の項目「フェレットの粗相考」は、Yahoo!ブログを始める以前にfreemlに書いていた日記に加筆したもの。freemlもYahoo!ブログ同様、今年の12月で終了する)


エッセイ・雑記 〜メニュー〜
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
創作童話・ショートショート・漫画メニュー
散歩派フェレット・プチアルバム

《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》

《イタチの魔かけ》とは?@いたちの手紙
01鼬の手紙他
《いたちの魔かけ》というのは佐藤さとるの童話『いたちの手紙』に出てくる言葉で、イタチが後脚で直立し前脚を目の上にかざすしぐさのことだ。作中ではイタチが人に魔法をかけるときのポーズということになっており、この《いたちの魔かけ》がうまくかかる人は、イタチと会話ができる──という設定になっている。
『いたちの手紙』の内容をかなり大ざっぱにまとめて説明すると──開発で数を減らし、1匹になってしまったイタチが、他の地域で同じ状況下のイタチを嫁にとる話である。その橋渡しをするのが《魔かけ》がかかる人間で、タイトルにある手紙は《魔かけ》でイタチと友だちになった少女が代筆したものだった。ポストに投函されるはずだったこの手紙をアキラという少年が拾ったことから物語は始まる。この物語はファンタジーだが、アキラの視点で「奇妙な手紙」の謎から、《魔かけ》の秘密、ことの真相が明らかにされていく展開は、ちょっとミステリー風の味わいもあっておもしろい。僕が好きな作品の1つである。
さて、謎解き役(?)のアキラが初めてイタチに出会い、《魔かけ》をかけられるシーンは、こんなふうに描かれている──、


 その生きものは、アキラと目が合っても、平気だった。それどころか、とても変わったことをした。
 ふいに後足で立つと、右手を、いや右の前足を、目の上に持っていって、遠くからアキラを眺めた。ちょうど、アキラに向かって、「敬礼」をしているようだった。そのとたん、どういうわけか、アキラは思った。こいつはやっぱりいたちだなって。
 そう、やっぱりいたちだった。こんなふうに、いたちが後足で立って、片っぽの前足を目の上にあげて見ることを、「いたちの魔かけ」という。つまり、いたちが人に魔法をかけようとするときは、こういうふうにするんだね。(佐藤さとるファンタジー全集⑫収録版『いたちの手紙』より)


僕が『いたちの手紙』を読んだとき──もうだいぶ昔のことだが、この《いたちの魔かけ》と呼ばれる言い伝えは本当にあって、作者はこれをヒントにイメージを広げ、このストーリーを考えたのだろうと思った。作中には、次のような記述もある。

昔の人は「いたちの魔かけ」を、大変きらった。縁起がわるいと思っていたんだ。いたちにこれをされると、きっとよくないことが起きるなんて、思いこんでいたみたいだね。
 ほんとうは、そんなことないんだ。いたちが、よくないことを起こすのではなくて、よくないことが起こりそうなとき、いたちは「魔かけ」をして、人間に知らせようとすることがあるんだ。(同『いたちの手紙』より)


実際に忌み嫌われるイタチの言い伝えがあって、それは誤解なのだと説いているような文章だ。そんな《いたちの魔かけ》に興味を覚えて、調べてみようと思ったこともあったのだが……当時は、この言葉に関する情報はみつからず、作者の創作なのだろうかと首を傾げていた。佐藤さとるはファンが多いから、『いたちの手紙』を読んで《いたちの魔かけ》という言い伝えが実際にあるのか気になった人もきっと少なからずいたのではないだろうか?
それからだいぶ後になって、《鼬の目陰(まかげ)》という言葉を知って、これが《いたちの魔かけ》の元ネタだったのかと合点がいった。
《目陰(まかげ)》というのは字面から想像がつくように、目の上に手をかざして直射日光をさえぎる──見る時に目に陰を作るしぐさのことだ。イタチが立ち上がってこんなポーズをとるという俗信があるらしい。
『日本史のなかの動物事典』(金子浩昌・小西正泰・佐々木清光・千葉徳爾/東京堂出版/1992年)という本には「飯綱・鼬 いいずな・いたち」という項目があって、《鼬の目陰(まかげ)》についても触れられている。


 イタチはイイズナとはちがって人里近くに棲息し、ネズミ類を捕食して生活する益獣である。しかしながら、その姿が細長で耳が立ち、しばしば後肢と尾を利用して人間のように立ち上がり、短い前肢をかざして相手の様子を観察する。これを「イタチの目陰(まかげ)」といって人間のしぐさによく似ているので、何か魔性のものがのりうつっているかのように感じられて、不吉な予感をもって見られた。『源氏物語』や『源平盛衰記』の中にもすでにこのことが記されており、現在でも山仕事・旅行などの出発時に、イタチが道を横切ることがあると、「イタチの道切り」と呼んで、前途の幸不幸の前兆とみる土地もある。(『日本史のなかの動物事典』P.3)

《いたちの魔かけ》と《鼬の目陰(まかげ)》は響きも似ているし、仕草も似ている。縁起が悪いものとして捉えられていたという部分も合致する。語源は同じと見てよいだろう。
『全国妖怪事典』(千葉幹夫・編/小学館/1995年)では神奈川県(佐藤さとるの地元)のカテゴリーに【イタチ】の項目があり、次のような興味深い記述がある。


イタチ 動物の怪。鼬。イタチはよく後ろ脚で立って振り向いて、人の顔をシゲシゲと見るという。この時眉毛を読まれると騙されるから、鼬に会ったら眉に唾をつけるとよいという(鈴木重光『相州内郷村話』)。(『全国妖怪事典』P.74)

これは《鼬の目陰(まかげ)》のことだろう。このしぐさによってイタチが人の「眉毛を読む」というのが興味深い。「眉毛を見て心を読む」というようなことだろうか? 《鼬の目陰》によってテレパシーが使えるようになるということなら、《いたちの魔かけ》で人とイタチがテレパス状態になるという設定は、まさにピッタリである。
《鼬の目陰(まかげ)》でイタチが眉のあたりに前脚をかざすのには、相手の眉毛を読むことと何か関係があるのかもしれない。
よく怪しげな話を聞かされたとき「眉に唾をつける」とか「眉唾」などと言うが、眉に唾をつけるのは「眉毛を読まれないように」(だまされないように)という言い伝え由来だったとは、この本を読むまで知らなかった。

『いたちの手紙』にでてくる《いたちの魔かけ》が《鼬の目陰(まかげ)》のことだというのは、おそらく間違いないところだろう。これを「イタチが魔法をかけるときの仕草」としてとらえるなら《いたちの魔かけ》という呼び名の方がふさわしい。そう考えた佐藤さとるが《目陰》を《魔かけ》と翻案したのか、あるいは《鼬の目陰》を《いたちの魔かけ》とよぶ地域が実際にあってそれにならったのか……それとも佐藤さとるが《目陰》を《魔かけ》と聞き違えて覚えていたことで、《魔かけ》➡《魔法をかけるしぐさ》という着想につながったのか……そのあたりのことはわからない。
いずれにしても、《鼬の目陰(まかげ)》という言い伝えが『いたちの手紙』の着想もしくはイメージを広げる手がかりになっただろうことは想像できる。


アズキとぎと『霜夜の鼬』
『いたちの手紙』の誕生には、もうひとつ、ある童謡がかかわっているという。作中でイタチが歌う──イタチがアズキをといで赤飯をたくという内容の童謡だ。佐藤さとるが小学2年生の時に1度だけ教わったというウロ覚えの歌詞が作品の中にでてくる。執筆時にはあやふやだった歌詞や失念していたタイトルが、『いたちの手紙』(講談社/1973年)の出版後に判明したことが『佐藤さとるファンタジー全集⑫いたちの手紙』収録の表題作末尾に《付記》として記されている。出版後、作中の歌詞には間違いがあることがわかったが、うろ覚えに覚えていた(間違った)歌詞が、この作品のモチーフであったことから、作品のイメージを大事にしたいという理由で作中の(間違った)歌詞はそのままにしてあるという。
作中のイタチが、勘違いして(?)間違った歌詞で歌っていたとしても、作品としては(整合性に)何ら問題ない。
この《付記》によれば、問題の童謡は野口雨情が作詞した『鼬の小豆磨ぎ』ということになっているのだが……検索してみると『霜夜の鼬』(作詞:野口雨情/作曲:中山晋平)というタイトルでヒットする。


霜夜の鼬
作詞:野口雨情/作曲:中山晋平

霜夜(しもよ)のしのやぶ 霜(しも)でサーラサラ
ザクリ ザツクリ ザツクリシヨ
鼬(いたち)が小豆(あずき)を といだとさ

寒いぞ寒いぞ 霜夜のしのやぶ
ザクリ ザツクリ ザツクリシヨ
鼬が おまんま たくだとさ

小豆を とぎとぎ ザクリ ザツクリ ザツクリシヨ
おまんま たきたき ザツクリ ザツクリシヨ
霜夜のしのやぶ ザツクリ ザツクリシヨ
赤のおまんま 小豆のおまんま
鼬が 小豆を といだとさ


佐藤さとるは歌詞の「イタチがアズキをといで赤飯をたく」という内容から、「赤飯をたく」➡「めでたいことのお祝い」➡「イタチの嫁取り」というストーリーを考えたのだろう。『いたちの手紙』としては合点の行くところだ。
しかし、『いたちの手紙』という作品を離れて『霜夜の鼬』の歌詞を考えると、ちょっと不思議な気もする。捕食性のイタチとアズキ磨ぎにどんな関係があるのだろうか?

実は、人気の無いところでアズキをとぐ音がする──という伝承はよくあり、「アズキトギ(小豆とぎ)」という妖怪のしわざだとされる。これについて『決定版 日本の民話事典』(日本民話の会・編/講談社/2002年)には次のように記されている。


【アズキトギ】
 夜、川べりや橋のたもとなどの水辺の暗いところで、ザクザクとアズキを洗うような音をたてる妖怪です。分布は九州から東北まできわめて広く、その音はほぼきまっています。「アズキとごうか人食おうか、ゴシゴシゴシ」とか、「お米とぎやしょか人とって食いやしょか、ショキショキ」と聞こえると言われています。(P.288)

 アズキトギの正体を、むじなやイタチだとしているところもあります。毛をコシコシこする音だというのです。ガマだという地方もあります。(P.289)

アズキは正月など特定の祝日、神祭りの食べ物として重要視されただけでなく、不祝儀にも用いられました。霊力を持つ食べ物と考えられていたことが、こうした妖怪の背景にあるのかもしれません。(P.289)


アズキトギの正体についてイタチだとする地域がある──野口雨情は、これをヒントに『霜夜の鼬』を書いたのではないか?
この歌詞がどのように生れたのかを想像してみると……《霜柱を踏む音とアズキをとぐ音が似ている》と感じた野口雨情が、《霜夜にアズキをとぐ者がいる》という不思議な状況をイメージし、それではアズキをといでいるのは誰が何のために?(童謡にするには何がふさわしいか)──と想像を膨らませて《(アズキトギの正体とされる)イタチが赤飯をたくため》という解釈を思いついたのではなかろうか──というのが僕の推理するところ。
ちなみに、アズキトギ・アズキアライと呼ばれる妖怪の正体については、イタチやムジナ(アナグマ※これもイタチ科)の他にも、カワウソ(※これもイタチ科)やタヌキ・ガマ(ヒキガエル?)・老婆の妖怪(小豆婆)などの言い伝えがあるようだ。

余談だが……作詞:野口雨情/作曲:中山晋平のコンビといえば、コガネムシを金持ちに見立てた童謡『黄金虫(こがねむし)』も、ちょっと不思議な作品だ。コガネムシが立てた金蔵とはいかなるものか? この作品については描かれているのはコガネムシではなく、チャバネゴキブリだという説がある。ゴキブリ説は色々なメディアで取り上げられいて、ちょっとしたウンチクになっている。しかしこれはヤマトタマムシだという説もあって、僕はタマムシ説を支持している。コガネムシが立てた金蔵(かねぐら)というのは玉虫厨子のことで、野口雨情は玉虫厨子をタマムシ(コガネムシをそう呼ぶ地域がある)の金蔵にみたてて、この作品を書いたのではないかと僕は思っている。「《玉虫厨子》を《タマムシの金蔵》にみたてる」という着想・創作プロセスは「《霜柱を踏む音》を《アズキとぎの音》にみたてる」という着想・創作プロセスと似ている……野口雨情はこうした連想や見立てからイメージをひろげて作品を創作していたのではないか……と思ったりもするのだが……もちろん、これは僕の個人的な想像。作品がどのようにして誕生したのか──何がきっかけ・ヒントになって、どのようなプロセスで作品ができあがっていったのかということには興味があるので、つい、あれこれ想像してしまう。


イタチの目陰(まかげ)帽子!?&いたちマジック
『いたちの手紙』からは離れるが……《目陰(まかげ)》がまぶしい太陽の光をさえぎるためのものだとすれば、帽子のつば(日よけ)が、この役割りを果たしている。つば付き帽子は目陰(まかげ)帽子といってもおかしくはないだろう。とすれば、フェレット(家畜化されたイタチ科の動物)のフィギュアをつばに乗せたフェレット散歩用の帽子は「イタチの目陰(まかげ)帽子」と言えなくもない。
02鼬の目陰帽子
僕が飼っていたフェレットは直立して前脚を額にかざす《魔かけ》こそしなかったが、前脚をかざして僕が握った物を消すというマジックをしていた!?

魔法ではないが……魔法もどき(?)なエピソードは色々あって……イタチ科の動物は迷信が生まれやすかったのではないか……という気がしないでもない。
03鼬漫画迷信編A

04鼬漫画迷信編B


05超魔術鼬C
『ふぇレッツ・ゴー』イタチと迷信!?:編より⬆

『ふぇレッツ・ゴー』超魔術イタチ:編

黄金色のコガネムシ ※童謡『黄金虫』のゴキブリ説&タマムシ説
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
創作童話・ショートショート・漫画メニュー

人面ガエル

400字詰原稿用紙8枚半ほどの《怖い話》。読み切りホラー童話。
01人面ガエルFC2
02人面ガエルFC2
03人面ガエルFC2
04人面ガエルFC2
05人面ガエルFC2
06人面ガエルFC2
07人面ガエルFC2
08人面ガエルFC2
09人面ガエルFC2

10人面ガエル表紙FC2


創作童話・ショートショート・漫画メニュー