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猫婆ちゃんのアルバイト(ショートショート)

ちょっとした思いつきを書きとめておいたまま埋もれていた作品。四百字詰原稿用紙で8枚半ほどのショートショート。

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02猫婆ちゃん2
03猫婆ちゃん3
04猫婆ちゃん4
05猫婆ちゃん5
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07猫婆ちゃん7
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ネコ好きの知人がいて、そこから浮かんだジョークのような発想をまとめたもの。いちおうタイプしてパソコン内に保存していたが、そのままになっていた。
四百字詰原稿用紙(20字×20行)換算で8枚半ほどの作品だが、僕には《小説は縦書きが馴染む》という感覚があるので、縦書きの画像にしてある。ちなみに1段は四百字詰原稿用紙と同じ20字×20行の仕様だが、禁則処理のため字詰めが変わっている行もある。

僕のブログには創作作品も載せており、タイトル一覧ページを設けている⬇。
一覧のタイトルをクリックすると作品が開く。どの作品もそのページで読み切ることができる。連載や分載はない(発表時に短期連載した作品も1ページにまとめてある)。


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中学[作文]で書いた『六番目の感覚』

中学時代の科目【作文】で書いた掌篇の思い出
僕が通っていた中学校では【国語】とは別に【作文】の科目が週に1回あった。【国語】の授業は嫌いだったが【作文】はわりと楽しかった記憶がある。書くことが好きだとか得意だということではなかったのだが、何を書こうかと、あれこれ自由に考えをめぐらせるのが楽しかった気がする。
【作文】では、中学1年の初め頃に、いきなり(?)小説を書かされたことが印象に残っている。たしか「冬・海辺・犬」の3つの要素を入れるのが課題で、僕はクールを気取りながら哀愁漂う(?)野良犬の一人称で『オレは野良犬』という2枚弱の掌篇を書いた。中学2年のときにはユーモア小説のつもりで『ハム・スタ子と芳男』という5枚ほどの作品を書いている。当時飼っていたゴールデンハムスターを素材にしたものだった。そして中学3年のときには、SFジュブナイルのイメージで、テレパシー(超能力)を素材に『六番目の感覚』という、やはり5枚弱の掌篇小説を書いている。
いずれも中学校の【作文】の授業で書いた、劣等中学生の稚拙な作品なのだが、ふり返ってみると、なつかしい部分や後に書くことになるファンタジーの片鱗のようなものが感じられたりして「へえ!?」と思うところがある。
そこで、中3のときに書いた『六番目の感覚』を載せてみることにする。おかしなところもあるし、たあいもない話だが、《当時の作文》ということで、手を入れずに掲載する。

01六番目の感覚
02六番目の感覚
03六番目の感覚
04六番目の感覚
05六番目の感覚

『六番目の感覚』は五感を越えた感覚──テレパシー(超能力)を素材にしたSFのつもりで書いた作品。しかし、作中では、それが本当にテレパシーなのか単なる主人公の想像(思い込み)なのか明確にしてない。超能力へのあこがれを抱いた少年の平凡な日常の一場面のようにも読める。この、現実なのか幻想(SF)なのか、にわかにわからない微妙な現象を僕は好む傾向にあるようだ。その後も《日常の中にまぎれこんだあわい幻想》のような作品をいくつか描いている。
『六番目の感覚』では、《主人公の心の声(テレパシー)》は相手に届くことなく終わっている。この《主人公の心の声》が不思議な現象を介して《相手に届く》という発展型バージョン(?)が、『雨の日の通信』という見方もできる──ということに最近、気がついた。『雨の日の通信』は日常を舞台とするファンタジーとして創作しており、執筆時には『六番目の感覚』のこともSFも頭にはなかったのだが、日常の中の非日常現象として《ふしぎな交信》を描いているところは両作品に共通するイメージが感じられる。『雨の日の通信』では『六番目の感覚』で成立しなかった《ふしぎな交信》がいっとき成立するが、ただ、それだけのたあいもない話である。当時はまだ携帯電話など普及しておらず、移動中に《通話》することなどできなかったから、そういった意味でも《ふしぎな交信》には新鮮味・ある種の開放感のようなものがあったように思う。
そして、こうした《ふしぎな交信》が成立したさいに、さらにそのことに付加価値を持たせることを──《ふしぎな交信》によってもたらされる重要な役割り(交通事故の回避)を考えて創作したのが、先日投稿した『ポストの電話』だった──と、そんな見方もできなくはない。これも最近、気がついたことだ。ただ、『ポストの電話』では《ふしぎな交信》に附加する意義付けに凝るあまり(?)現象が少々ややこしくて読者にはわかりづらかったのではないか……という反省がある。
いずれにしても執筆当時には気づかなかったが、『六番目の感覚』の発展型が『雨の日の通信』で、さらにその発展型が『ポストの電話』につながっているとみることもできる。
さらにいえば──『ポストの電話』は、みくに出版が主催するコンクールで、運良く入賞することができたために、その縁で、コンクール・協賛の日能研から依頼を受けて『とどけられたポケッチ』という作品を書いている──これは小3国語のオープンテストの設問用ということで、かなり細かい条件のもとで作った《仕様》なので、この依頼がなければけっして書くことがなかった作品だといえる。【国語】嫌いだった僕が、国語のテスト用の作品を書くことになろうとは……妙なめぐり合わせだが、そういう意味では『とどけられたポケッチ』も『ポストの電話』〝つながり〟で誕生した作品だった。


06雨ポストぽけっち
雨の日の通信(掌篇ファンタジー)
ポストの電話(読み切り童話)
とどけられたポケッチ(読み切り童話)

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ポストの電話(読み切り童話)

第1回みくに児童文学短編コンクールで佳作入賞した12枚程(400字詰原稿用紙換算)の作品。

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10ポストの電話
11ポストの電話
12ポストの電話

『ポストの電話』は今から四半世紀近く前、《第1回みくに児童文学短編コンクール》に応募して佳作入賞し、みくに出版・刊<知の翼>1997年1月号に掲載された作品。
この公募では、書き出しが指定された第1部(400字詰原稿用紙7〜10枚)と自由形式の第2部(400字詰原稿用紙10〜15枚)があって、入賞枠は第1部が入選5編(15万円)/第2部が入選1編(30万円)&佳作3編(10万円)だった。僕は第2部に応募。結果は佳作第1席だった。この回の応募総数は1073編。
13みくにコンクール結果
《日常の中にふっとのぞく一過性の幻想!?&それを介した出会い》のようなものを描いてみたいと思って考えたストーリー。ふり返ってみると「イマイチ感」が否めない……仕掛け(アイディア)の部分が、もう少しわかりやすくて魅力的な設定であったら……と思わないでもない。
『ポストの電話』が掲載された<知の翼>には後に『チョウのみた夢』(<知の翼>1997年12月号)を書いているが、後者の方が、自分としては気に入っている。
また、みくに児童文学短編コンクールの協賛をしていた日能研の依頼で、小学3年国語のオープンテスト設問用に童話を書き下ろしたこともあった。それが『とどけられたポケッチ』である。
小説は縦書きがなじむ──という僕の感覚で、例によって縦書き画像にした。一般的な400字詰め原稿用紙と同じ20字×20行に設定しているが、禁則処理のため字詰めが変わっている行もある。今回は明朝体で作成してみた。


チョウのみた夢〜善意の報酬〜
とどけられたポケッチ(読み切り童話)
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宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想

先日、宮沢賢治の童話『やまなし』が小学6年国語の教科書に採用されていることを知って驚いた。僕にはこの作品が小学生の教材としてふさわしいとは思えない。なぜ、これが採用されたのか不思議に思っているうちに、他にも国語の教科書に収載された賢治作品があるのではないかと思いたち、調べてみたところ、かなり多くの作品がとりあげられていた。『どんぐりと山猫』もその1つで、これが初めて文部省暫定教科書(1946年)に収載された賢治作品だったらしい。
ということで、『どんぐりと山猫』を借りて読んでみた。
01どんぐりと山猫
『どんぐりと山猫』は当初、自費出版に近い形で刊行された童話集『注文の多い料理店』(1924年)に収録・発表されたが、当時はあまり評価されなかったという。それももっともな話だろう。むしろ、後の扱い──国語の教科書にどうして採用されることになったかの方が僕には不可解だ。
実際に宮沢賢治の作品は教科書に使われ続けているわけだし、肯定的な見方が多いのかもしれないが、僕の感じたところを記してみたい。

宮沢賢治・作『どんぐりと山ねこ』《あらすじ》と《作者の意図》
まず、ざっと『どんぐりと山猫』のあらすじを記すと──、

ある土曜の夕方、奇妙な1枚のハガキが一郎のもとに届く。稚拙な文面で、翌日に面倒な裁判があるから来てほしいという内容で、差出人は「山ねこ」となっていた。一郎はとても喜び、何のためらいもなく翌日、山に出かける。
栗の木や笛ふきの滝、キノコの楽隊、リスなどに山猫の目撃情報をたずね、「美しい金色の草地」にたどりついたところで、一郎は風変わりな男に会う。この男が問題のハガキを書いた山猫の馬車別当だった。別当は自分が書いたハガキの文章や字が下手くそだったことを恥じていたが、一郎がお世辞で褒めるとたちまち有頂天になる。
一郎が馬車別当と話をしていると、とつぜん風が吹いて、気がつくと陣羽織姿の山猫が立っていた。
山猫の話によると、一昨日から面倒な争いが起こって裁判になっているが、うまく裁けずにいる──そこで一郎の知恵を借りたいということだった。
その裁判というのは黄金(きん)色のドングリたちの「誰が一番偉いか」を決めるというヘンテコなものだった。集まった300以上の黄金(きん)色のドングリたちが、口々に自分の主張をまくしたてる──頭がとがったもの・丸いもの・大きいもの・背の高いものなど、それぞれが自分が一番偉いのだと言い張って、大変なさわぎとなる。手を焼く山猫に助言を求められた一郎は「この中でいちばんバカで、メチャクチャで、まるでなっていないようなのが一番偉い」と言ったら良いとアドバイスし、山猫がそう言い渡すと、黄金色のドングリたちは、とたんに黙り込んでしまう。
一郎の提案で争いが止んだことに山猫は喜び、感謝する。そして一郎に名誉判事になって、ハガキが行ったらまた来てほしいと要請する。一郎が承知すると、さらにハガキの文面は「明日出頭すべし」として良いかと聞いてきた。一郎が辞退すると、山猫は残念そうだった。
一郎は御礼として黄金(きん)のドングリ一升をもらい、山猫の《きのこの馬車》で家まで送ってもらう。馬車が進むにつれて黄金のドングリは輝きを失い、家の前に到着した時には、山猫も別当も、きのこの馬車も見えなくなり、升のドングリは普通の茶色いものになっていた。
そのあと、山猫からのハガキが届くことはなく、一郎は「明日出頭すべし」の文面を受け入れていればよかったと時々思っている。

僕の感想を述べる前に、まず、作者(宮沢賢治)が、どんなつもりでこの作品を創作したのかについて想像してみると──、

賢治が描きたかったもの、創作のモチーフは《山がかもしている不思議なオーラ》のようなものだったのではないかと思う。あらすじでは、はしょっているが、山や森の描写にはおもむきがあって雰囲気をよく表現している。賢治は《山の放つオーラ(アニミズムのようなもの?)》に魅せられ──《山は不思議なところ》《そこでは奇妙でおもしろいことがおこっている》と空想を広げ、《金色のドングリたちがたあいもないことで争い、それを山猫が裁くのにてこずっている》というような《奇妙なエピソード》を発想したのではないだろうか。主人公・一郎少年はその不思議な世界を垣間見て、その解決に貢献することで《奇妙なエピソード》に関与する。これは一介の一少年にとってはワクワクする出来事だろう──おそらく、こういった流れでこのストーリーのアウトラインを考えたのではないかと思う。
つまり山猫から届いたハガキは、山からの招待状・ワクワクする世界への切符
であり、構図としては《少年が山へでかけ奇妙な体験して戻ってくる話》である。
金色に輝いていたドングリが自宅に戻った時には普通のドングリになっていた──というのは、山の中では輝いていたものが、山を離れ現実に戻ってみれば(山の不思議な効力を失って)色褪せてしまう──山の持つ神秘的な活力を表現したものだろう。

作品の《創作意図》と《できばえ》
賢治は、おそらくそうした創作意図をもって書き始めたのだろうが……出来上がった作品が、読者にきちんと伝わる形で描けていたかといえば、必ずしもそうとはいえない。作品の冒頭──奇妙なハガキが届いてから、一郎が山へ出かけるまでの部分を引用すると──、


 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいで
  んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                      山ねこ 拝

 こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。
 ね床にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。
 けれども、一郎が目をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのように、うるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川にそったこみちを、かみの方へのぼって行きました。


ここで【国語】の授業であれば、こんな《設問》がありそうな気がする。
《Q:ハガキを受け取った一郎は、どんな気持ちだったでしょう?》
「とても嬉しかった」「喜んだ」というのが正解──【国語】の授業ならそうなるのだろうが……作品として評価するなら、一郎は「いぶかしく思った」とか「とまどった」と感じることが「正しい」リアクションだったのではなかろうか。

作者の賢治には、一郎に届いたハガキの意味(《山からの招待状》=一郎にとって嬉しい物であること)がわかっており、その先に奇妙で愉快な展開が待ちうけていることがわかっているから、このハガキを受け取った一郎を手放しで喜ばせてしまっているが……本来であれば、冒頭のシーンで、一郎(と読者)には、にわかに事態がのみこめないはずである。もし、こんなハガキが届いたら、「山ねことは誰だろう?」「なぜ僕のところにハガキをよこしたのだろう?」などと、いぶかるのが自然であり、奇妙なハガキをもらって、なんの疑問もなしに、まず喜ぶという反応はありえない。「このとき一郎はどんな気持ちになるか」と考えれば「喜ぶ」より先に「とまどう」のが正しい──ということになる。
また、山猫の裁判とやらを見てみたいという気になったとしても、ハガキには、肝心の場所が指定されていない。「裁判はどこで行われるのだろう?」「どこへ行けば山猫に会えるのだろうか?」と気掛かりに思うはずであり、そうでなくてはおかしい。
なのに一郎は、山猫に会うことを楽しみにしながら、どこへ行けば会えるのか不明なことに何の疑問も感じておらず、嬉々としてあたりまえのように出かけて行く──これはきわめて不自然なことだ。これがもし国語の授業ではなく、合評会で本作品がとりあげられたとすれば、こうしたリアクションの齟齬が指摘されたはずだ。
一郎が山猫に会えると確信している(かのように見える)のは、作者・賢治の頭の中では一郎が山猫と会うことが決定しているからだろう──先の展開がわかっている作者の気持ちで一郎の心理や行動を描いてしまい、「登場人物の気持ちで、どう感じるか(感じなければおかしいか)」のシミュレーションをおこたってしまった印象がある。これは書き手のミスで、創作を始めて間もない頃に、未熟さからおかしがちな〝失敗〟という気もする。

作品としては、創作上の工夫が足りない…
『どんぐりと山猫』を読み終わって感じるのは「物足りなさ」……物語としての面白味が薄い──ということだった。《少年が山で不思議な体験をする》という創作意図はわかるのだが、その《不思議な体験》が、「山猫裁判官のどんぐり裁判」というのは、いささか盛り上がりに欠ける。また、この騒動の解決が「この中でいちばんバカで、メチャクチャで、まるでなっていないやつが一番偉い」というのも、アイディアとしては今ひとつな気がする。何かもっと面白い・ワクワクするエピソード・トンチの利いた解決法が盛れなかったものかと思う。
山猫とドングリのエピソードを採用した利点・必然性があまり感じらない。おそらく「食物連鎖の頂点にある山猫が山を仕切っている」というところから山猫の裁判官をイメージしたのだろうが、それだけでは読む側からすると面白味に欠ける。創作上の工夫・ひねりが欲しいところである。
また、前述したように、場所の指定がなかったのに、一郎がすんなり山猫に会えてしまうのも、いささかお手軽感があって、本来描かれるべき山や森の神秘性を毀損しかねない気もする。神秘的な世界に招かれていくのだから、もう少しそれらしい《不思議な世界への導入》の演出や工夫があってしかるべきではなかったか。

たとえば…僕の個人的な工夫
創作上の工夫が足りないように僕には感じられたわけだが、それが具体的にどういうことなのかを説明するために、僭越ながら「僕だったら、どんな工夫をするか……」と考え、思いついたところを記してみるなら──、

一郎のもとに奇妙な召喚状(?)が届いたとき、いっしょに風車もそえられていて、「この風車が案内(ナビゲート)します(風車の反応する方へ進むと目的地に着く)」といった仕掛けを用意する。オリジナルでは一郎が目的地もわからぬまま出かけることを不自然に感じたが、風車を使えば《ふしぎな世界》へ導かれる感が演出でき、読者は興味を持って感情移入できるはずだ。
一郎が山猫と初めて会うとき、風がまき起こるが、山猫出現の直前に風車が強く反応すれば、山猫登場の演出効果にもなる。
また、山での奇妙な体験の後、家に帰りつくと、手に持っていた風車が、一輪の花(山猫に会った場所で見かけたものと同じ)に変わっていた──とすれば、山の不思議な効力が消えて、現実に戻った感が演出できる(金のドングリが普通のドングリに変わるのと同じ効果)。ナビゲート風車が花に変わってしまうことで、もう二度とかの場所(山猫のいる世界)に行くことができないという、<名残惜しさ>のような後味も残すことができる。オリジナルでは「その後ハガキが届かないこと」で<名残惜しさ>が演出されていたが、ナビ風車を使えば、現実の世界に戻って、まだ山での体験の余韻が新鮮なうちに<名残惜しさ>を演出できる。
宮沢賢治の作品では(『風の又三郎』という作品もあるし)《風》の描写に何かおもむきが感じられる。だから《風が不思議な世界へいざなう》→《山の不思議なオーラに反応して回る風車》という設定があっても面白かったのではないか──と個人的には思ったしだい。
これは〝思いつき〟の一例に過ぎないが、物語を盛り上げるためには、こうした創作上の工夫や意図をもったしかけが必要だと僕は考えている。

堀尾青史の解説
今回、読んだ『宮沢賢治童話全集<新装版>③どんぐりと山ねこ』(岩崎書店)では、巻末の「作品案内」で、堀尾青史が『どんぐりと山ねこ』について、次のように解説している。


 この作品は賢治童話の代表作の一つになっていますが、その理由は表現のみずみずしさや童話の楽しさをいっぱいもっていることによるのですが、なんといっても主題の大胆さです。
 えらさをはかる基準を求めてどんぐりがいい争いますが、一郎はまったく反対の「ばかで、めちゃめちゃで、まるでなっていないようなのがいちばんえらい」といいます。これをことば通りうけとったら、われわれもどんぐりのようにびっくりして、しいんとしてしまうでしょう。
 作者は、子どもたちはテストや試験などで争わされ、比べられ、優劣をつけられているが、はたして、それで人間の本当の価値がきめられるのか、そんなことではきめられはしない、と考えます。ばかでめちゃめちゃというのは反対のテーゼ(命題)を打ち出したもので、人間にとって大切なのは真心や愛情であって、それをはかることはできない。たとえば子どもとかくれんぼうをして寝こんだり、泥棒に入られて物をやった良寛が大愚(大ばか)とよばれているように、物慾にとらわれぬ無の境地にいる人は一見ばかのようですが、実はもっともえらい人とされています。
 こういうように人間を世俗的な物さしではかってはいけないと作者は言っているのですが、さて現実はどうでしょう。やっぱりどんぐりの背くらべはいつまでもつづいていますね。


作者・宮沢賢治が、本当に堀尾青史の指摘した《主題》を念頭に『どんぐりと山ねこ』を書いたのかどうかは僕にはわからない。しかし、少なくともこの作品から《人間を世俗的な物さしではかってはいけないと作者は言っている》というメッセージを汲み取るのは難しい。青史の見方は賢治作品に権威付けをするための強引な解釈のような気がする。
賢治作品が国語の教科書に取り上げられるようになったのは、ひょっとして、こうした《権威付け》が関係しているのだろうか?

少し前に読んだ『やまなし』──これといったストーリがなく、何が描かれているのか(趣旨が)子どもには難解で、いったいどこが面白いのかわからない──これに比べれば、『どんぐりと山ねこ』は筋立もはっきりしているし描写もわかりやすい。しかし、作品をおもしろくする工夫・自然に見せる工夫が少々不足しているように僕には感じられた。
国語の教科書に収載するのであれば、他にもっと良い作品がありそうな気がする。

『どんぐりと山ねこ』はYouTubeでも、朗読動画が投稿されていた。しかし、今回読んだ『宮沢賢治童話全集<新装版>③どんぐりと山ねこ』と比べてみると、一郎が馬車別当と出会った時の描写が朗読版(YouTube)では一部カットされていた。障害のある身体的特徴を気味悪く描いた箇所が差別的表現と判断されてのことだろう。『どんぐりと山ねこ』は現在では教科書に全文掲載するのが難しい作品なのかもしれない。


宮沢賢治『やまなし』とクラムボン
なじめなかった『よだかの星』


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カエルの念力

カエルの念力で雨を降らせ、運動会を中止できる!?──そんな奇妙なハナシを持ちかけてきたのは転校生だった。小学4〜5年生以上を読者対象に想定して書いた原稿用紙(20字×20行)換算で10枚弱のミステリー童話。

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10カエルの念力

だいぶ昔、《どちらに転んでも儲かる賭け》の着想を得て書いてみたもの。しかし、こうしたリスクを分散する考え方はヘッジファンドなどで既にありそうだと気づき、そのまま放置していた。書いた時期は記憶が定かではないが、作中に登場するカエルにツノガエルをイメージしていたのは覚えている。Yahoo!ブログからの移行検討期にテストを兼ねて、はてなブログの方には投稿していたのだが、FC2ブログにも改めて投稿しておくことした。


人面ガエル
(カエルがでてくるホラー童話)
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