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ファーブル昆虫記の違和感について

あらためてファーブル昆虫記の「なじめなさ」について
『ファーブル昆虫記』を称賛する人は多い。しかし僕にはなじめなかった──そのあたりのとろこをあらためて記してみることにする。
01アオオサムシ
昆虫への興味から『ファーブル昆虫記』を手にとったのは僕が小学生の頃だった。当時は関心のある昆虫のことが書かれているのに、なぜか「なじめない」感覚があって読書に没頭できず、内容についてはほとんど記憶に残らなかった。
最近になって、約半世紀ぶりくらいにファーブル昆虫記を読む機会があったのだが、子どもの頃に感じた「なじめなさ」は、やはりあって「好きな虫について書かれているのに、どうして読むのがストレスになるのか」という、本題とは別のところに関心が向いてしまいがちだった。おそらく小学生のころに読んだ時にも、こうした感覚があって違和感に気をとられて内容があまり頭に入らず、「なじめなさ」だけが記憶に残ったのではないか……という気がする。

ファーブルの昆虫記には文学的な修飾が多く、昆虫を説明するのによく擬人化した比喩が使われている。これが僕の「昆虫(自然物)を見る」という感覚からすると、どうにもなじめないものだった……。
端的に言えば──「自然(昆虫)に目を向けているのに、どうしてそんな(擬人化した)とらえ方しかできないのか」という違和感があって、これが読み進むうえでのフラストレーションとなっている。
たとえばファーブルは狩りをする虫のことを「殺し屋」だとか「暗殺者」などと記し、捕食行動をまるで「殺人」であるかのように表現している。しかし自然物であるところの昆虫の行動は、いってみれば自然現象である。自然の摂理・生命原理にかなったものであるからこそ成立している現象のはずだ。狩りをする虫も狩られる虫も同じ自然の摂理に従って生命活動を実践しているにすぎない。ヒトからみれば残酷に映るシーンであっても、そこにはファーブルが投影する「悪意」など存在しない。昆虫の生態(自然現象)に対し、善・悪といったヒトのローカルな価値観を持ち込み、その枠組みを当てはめて見ようとするファーブルの「とらえ方」に違和感を覚えるのだ。最近読んだ完訳版ではそうした「なじめない」感が顕著だった。
具体的な例として──『完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上』(奥本大三郎・訳/集英社)の第1章「オオヒョウタンゴミムシ/死んだふりをする殺戮者」の冒頭部分はこんなぐあいである⬇。


 戦争を職業とする者は、ほかのことは何もできないものだ。虫たちのなかでは血気盛んで喧嘩好きのオサムシの仲間がいい例である。この虫にいったい何ができるだろうか。何か物を造り出す技能という点ではゼロか、またはほとんどゼロというところだ。
 ほかに何もできないこの虐殺者は、しかし、比類がないほど豪華な、体にぴったりした丈の長い上衣を着ている。黄銅鉱、黄金、青銅の輝きをこの虫はもっているのだ。黒っぽい地味な衣裳をまとっている場合でも、その地色はきらきら輝く紫水晶で縁取られ、鎧のように体にぴたりと合った翅鞘(ししょう)には、鎖状に点々と、凸凹になった彫刻が施されている。
 しかもすらりと引き締まった紡錘形の体は堂々たるもので、オサムシは我々の標本箱の誇りといってもよいが、それは外見だけの話である。これは熱狂的な殺戮者(さつりくしゃ)、それ以外の何ものでもない。この虫にそれ以上のことを求めてはならないのである。(P.11)
 古代の知恵は、力の神ヘラクレスに愚か者の頭を付けて表現している。実際のところ、暴力をふるうだけでは、大した取り柄もないということなのだ。そしてオサムシの場合がまさにそれである。
 地味な虫でも研究の主題(テーマ)をふんだんに与えてくれるのだから、これほど華やかに飾られた虫を見れば、誰でもこれには、書き残しておくだけの値打ちのある、素晴らしいテーマがあると思うであろう。しかし、ほかの連中のはらわたをむさぼり食らうこの恐ろしい奴に、そんなことを期待するのはやめたほうがよい。オサムシにできるのは殺すことだけなのである。(P.12)


自然の摂理に従い、生きるために狩りをしているオサムシも、ファーブルにとっては「殺戮者」であり、文章からは「悪意」が感じられる。
このあとファーブルは、飼育下のオサムシに様々なエサを投入し、《この悪党の仕事ぶり》と称して捕食行動を記している。そしてニジカタビロオサムシにオオクジャクヤママユの巨大な幼虫を与えたときのようすを《殺戮に酔ったオサムシは、喜びに身を震わせながら、無惨な傷口から血をすすっている》と、まるで猟奇殺人鬼の犯行のように綴っている。
色々な昆虫を投入して展開する《惨劇》を紹介した後、オムサシについての記述はこう続く。


 オサムシには一種の刺激臭がある。これは血に飢えた荒々しい体質からくるもので、殺戮に熱中するものはみなこれをもっている。オサムシの仲間は皮膚につくとピリピリする液体を出す。サメハダオサムシは捕まえると酢のような液を出すし、カタビロオサムシに触ると薬品臭い嫌な臭いが指につく。なかにはホソクビゴミムシの仲間のように、爆薬をもっていて、プッとこれを発射して、攻撃してくる相手の顔に火傷を負わせるものもいる。
 腐食剤を蒸留したり、ピクリン酸を発射したり、ダイナマイトで爆撃したりする、闘いにぴったりの乱暴者。こんなオサムシ、ゴミムシの仲間には、殺戮以外の何ができるのか。何もできない。何の技術も、何の腕ももっていないのだ。幼虫さえもがまったく同じことで、成虫と同じ仕事をし、あちらの石の下、こちらの石の下とさまよいながら、何か悪さをしでかしてやろうと機会を窺(うかが)っているのである。(P.17)


オサムシは完全に悪役である。自然現象(昆虫の行動)に悪意を投影させた表現は、文学的ではあるかもしれないが、正しい自然の見方だとは思えない。
ファーブルはオサムシのむごさ・凄惨さを強調しているが、飼育下のオサムシに被害者となる虫を投入して《殺戮》を実行させたのはファーブル自身である。また、ファーブルは昆虫記の中で、観察や実験のために数多くの昆虫を殺している。オサムシが獲物を殺すのは生命活動の一環──「生きるため・種の存続のため」という自然の摂理に則した行為であり、生態系の一部として肯定されるものだが、ファーブルの殺生は「学問的探究心」という人間ローカルな動機であり、いってみればヒトの(ファーブルの)都合である。大義名分はオサムシの方にある。
もちろん僕は科学上の実験を批判するつもりは全くないが、「ヒトの(自分の)都合」で殺生を続けてきたファーブルが、「種の存続をかけた生命活動」を実践している昆虫に悪意を投影し、その営みを「殺戮」などと呼ぶことが僕にはどうも納得できない。踏み込んだ言い方をすれば、自然を見るファーブルのとらえ方には、偏見がある──これがファーブル昆虫記の「なじめなさ」につながっている。


02昆虫記10巻下
『完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)の第14章「キンイロオサムシ/"庭師"と呼ばれる虫の食物」では冒頭からオサムシの残虐性をアピールするために屠畜場が引き合いに出されているのだが、その不適切ぶりをフォローする編集側のコメントが本文の前に添えられている。

おことわり 本章では、オサムシの捕食の場面がシカゴの食肉工場(屠畜場)のようすと比較するようなかたちで描写されています。ファーブルは、オサムシの捕食行動を屠畜・肉食を引き合いに出し、その捕食の場を「屠畜場」、餌となる虫を「家畜」に例えています。そのうえでオサムシを「殺し屋」、捕食行動を「殺戮」、「虐殺」などと呼ぶことは、現在の人権意識に照らした場合、食肉処理の仕事と、それに従事する人々に対する差別や偏見を助長する恐れがあり配慮に欠けた表現と言わざるをえません。本書では、『昆虫記』原書が発表された二十世紀初頭の、アメリカの歴史的背景にもとづいて書かれたファーブルの原文を尊重し、そのまま訳出しましたが、今なお多くの人がいわれなき差別に苦しめられているという、社会的に決して見逃すことのできない大きな問題が存在していることを胸にとめ、お読みいただきますようお願いいたします。なお、本章で言及される当時のシカゴの食肉工場の事情についての詳細は訳注「シカゴの大食肉工場」をご覧ください(編集部)。(P.11)

ここでは屠畜場の例えを引き合いに出したことで、人権問題にかかわりかねないことを憂慮した編集部が、人への偏見をフォローしている。しかし昆虫(オサムシ)への偏見については言及されていない。屠畜場に従事している人を「殺戮者」と呼ぶのが不適切であるように、狩りをするオサムシを「殺戮者」と呼ぶのもまた不適切だと思う。
昆虫記の中にはファーブル自身が昆虫に対する表現が不適切であることを認めている箇所もある。『完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)第11章「ミツバチハナスガリ/ミツバチの暗殺者」の中に、こんな一節がある。


このハチの恐るべきむさぼり方を観察したとき、その本当の目的がわからなかったので、私は、人殺し、強盗、悪党、死者の追い剥ぎなどと、もっとも人聞きの悪い形容詞を浴びせかけたのであった。無知は常に悪口を生み出す。真実を知らないものはひどく断定的な物言いをし、悪意のある解釈をするものだ。
 事実によって目を開かれたいま、私は急いで自らの非を認めてハナスガリに敬意を表することにしよう。(P.104)


しかし、ファーブルのハナスガリに対する《敬意》も、ひどく人間的な感覚で、《悪意のある解釈》と同次元のもの(《善意への心変わり》)のように見える。結局、偏見を持って自然を見るとらえ方に変わりはなく、実際、この後の巻で、オサムシに対する《悪意のある解釈》が展開されている。

昆虫を含む自然物を見るということは、人間のローカルな感覚・価値観・偏見を離れ、くもりのない澄んだ目で、より根源的な世界の存在を感じること──高い視座でものを見ようとすること──僕はそう考えている。その感覚でいうと、せっかく自然に目を向けているのに擬人化にとらわれた狭い感覚でしかものを見ることができなかったファーブルの文章には、なじめない気がするのだ。



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ファーブル昆虫記:ファーブらない昆虫記!?

■ファーブル昆虫記とファーブらない昆虫記
01昆虫記3冊
『ファーブル昆虫記』はとても有名だ。このタイトルを知らない人はいないだろう。図書館へ行くと複数のシリーズや関連本が並べられている。
岩波少年文庫の『ファーブルの昆虫記 上』(大岡 信・編訳)の「まえがき」冒頭には、こんな文章⬇が載っている。


 ある人がわたしに、こんなことをいいました。
「子どものころ『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類することができると思わないかい?」
 ずいぶんとっぴな意見のようですが、ファーブルの『昆虫記』を知っている人なら、だれでも、この意見に賛成するのではないでしょうか。(P.3)


言わんとすることはわかる気がする。ファーブルの昆虫記に感化された虫屋さんは多いようだし、この本(シリーズ)がきっかけとなって虫屋に入信(?)した人も少なくなさそうだ。そんな人たちにとっては影響力の強い作品だったにちがいない。それほどの作品だったからこそ、色々な出版社から色々なシリーズで出版され続けているのだろう。

僕も子供の頃、昆虫への興味からファーブル昆虫記を手にとった記憶がある。しかしその時は、なじむことができず、内容についてはほどんど覚えていなかった。そんなわけで、ファーブル昆虫記については、長い間「タイトルだけは知っている(内容はほとんど覚えていない)昆虫観察に関する本」という程度の認識でいた。
それが比較的最近──約半世紀ぶりにファーブル昆虫記を(少しだけだが)読む機会があった。図書館へでかけてみると、複数の昆虫記シリーズが置かれている。いくつものシリーズがあるのは、出版社や翻訳家の違い、取り上げる内容や分量(頁数&巻数)の関係、読者の対象年齢の違いなどによるものだろう。特に子どもが読む場合、完訳版は長いし難しい……要約してわかりやすい表現にリライトする必要がある。こうした改編版はファーブルの書いた昆虫記をトリミングしたりリサイズしたものだろう──そう考えていたのだが、手にとってみて驚いた。完訳版をオリジナルに近いものだと考えると、「これは《ファーブルの書いた『昆虫記』》なのだろうか? もはや別のものではないか?」と首をかしげたくなるものが混在していたのだ。

子どもの時に愛読していた『ファーブル昆虫記』が、実はオリジナルとはずいぶん違うものだったとか、Aシリーズを読んだ人と、Bシリーズを読んだ人が『ファーブル昆虫記』について語り合ったら、噛み合なかった……なんてことだって大いにありそうだ。
《子どものころ『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類することができる》という見方はおもしろいが、その基準となる《子どものころに読んだ『昆虫記』》が、本当にファーブルのものだったのか……どこまでが『ファーブル昆虫記』で、どこからが『ファーブらない昆虫記』(?)なのか……共通認識として成立しうるものなのか……考えてしまった。


■ファーブル昆虫記は自然科学モチーフの文芸作品
僕も比較的最近になって、完訳版(『完訳 ファーブル昆虫記』奥本大三郎・訳/集英社)を少しばかり読んでみたわけなのだが……気づいたことを少し記してみたい。
『ファーブル昆虫記』は、図書館では自然科学の棚に置かれていて、僕もずっと自然科学の本だと思っていたのだが……完訳版を読んで感じたのは《この著作物の本質は文芸作品である》ということだった。ファーブル昆虫記の原題は直訳すると「昆虫学的回想録」(奥本大三郎・訳)もしくは「昆虫学の思い出」(大岡 信・訳)だというから、ファーブル自身も随筆のつもりで観察や考察を記していたのだろう。モチーフは自然科学だが、作品の基本構造は文芸作品というのが正しい評価だと思う。ただ、文芸作品としての価値よりも描かれている自然科学的情報の方が価値が高かったことで、自然科学のカテゴリーに分類されているのだろう。

完訳版を読んでみると『ファーブル昆虫記』の特徴は、《著者(ファーブル)の一人称による独特の語り口で展開される、昆虫観察の顛末》であり、客観的事実として記された昆虫の行動を含め、観察や実験・考察なども、すべて著者(ファーブル)の目を通して描かれている。昆虫にスポットが当たってはいるが、この作品の主人公は昆虫ではなく、それを見つめるファーブルなのだ。随所にファーブルの感性が反映している。

絵画に例えるなら、同じ素材を描いても画家によって完成した作品には違いがあらわれる。それぞれが固有に持つ画家らしさ──《画風》のようなものは文芸にもあって、ファーブルの個性が反映した語り口調の文章は彼の《画風》のようなものといえる。仮にもし他の人が同じような昆虫観察を綴ったとしても『ファーブル昆虫記』のような印象にはならなかったろうし、ファーブル自身がこれを随筆スタイルではなく論文形式で記していたら、ずいぶん違った味わいのものになっていただろう。


■作品の印象形成にかかわる文章スタイル
小説にしろ随筆にしろ、書くべき内容が決まればそのまま書き出せるというものでもない。それをどういうスタイルで書き出すのが描こうとする内容にふさわしいか──構成はもちろんだが、まず「人称」をどうするか……一人称にするか三人称でいくのか──一人称の場合でも「私」「俺」「僕」では印象が異なる。三人称の場合は主人公を誰にすえるか、名前をどうするか……あるいは作品によっては二人称という選択肢も考えられないではない。そして常体で書くか敬体にするか──そうしたことを書き手は考えるものだ。自然に決まる場合もあるし、吟味して決めることもある。読者からすればあまり意識しないことかもしれないが、選択された設定にふさわしい形で文章は書き進められることになるので、表現スタイルの選択は、作品全体の印象形成に少なからず影響を与えることになる(書きやすさにも影響する)。
フランス語のことはわからないが、ファーブルも昆虫記を記す際には、意識的・あるいは無意識的に描くべき作品にふさわしい文章スタイルを選択したはずだ。

ファーブルの昆虫記では、著者(ファーブル)の一人称で語られる文章スタイルが、独特の味をかもしだしていて、ここに文学的味わいがある。文章が上手いとか下手とかいうこととは少し違う──ファーブルの感性があふれる文章に魅力を感じる読者も多いはずだ。じつは僕はこのファーブルの感性──《昆虫の見方》になじむことができなかった。ファーブルは虫を擬人化した例えを多用しているが、「どうしてここで、そんな例え話がでてくるのか」「その例えを虫にあてはめるのは適切ではないだろう」と感じることが多かったのだ。これは僕の個人的な感覚に合わなかったというだけで、作品の善し悪しとは別の次元の話だ。文芸作品としてみた場合、ファーブルの文章スタイル──《画風》ならぬ《文風》が昆虫記の特徴であることは間違いない。


■ファーブルの個性が反映した昆虫記
《文芸作品》には著者の人柄が反映していがちなものだが、完訳版を読むと、「虫を観察する主人公=ファーブル」の人物像・個性が色濃く感じられる。読者は展開する昆虫の生態や実験などを客観的な事実としてではなく「ファーブルが見ている世界」というイメージで思い描いていくことになる。
完訳版を読む以前、僕はファーブルについて漠然と《偉人》のひとりというイメージを持っていた。しかし完訳版を読んでみると、ポジティブな部分だけではなくネカティブな部分も含めて人物像が浮かび上がってきた。
ファーブルは粘り強い観察を続けているが、その集中力・固執力と無関係ではないだろう──頑固で偏屈な側面がのぞく。そして癇癪(かんしゃく)持ちでもあったようだ。完訳版を読むとかなり気難しい人でもあったことがうかがえる。その1つが『完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)の第15章「私への反論と、それへの返答/狩りバチの本能についてのまとめ」だ。

02昆虫記4巻下

 少し大がかりな思想が飛び立とうとすると、気難しい連中がすぐに立ち上がって、その翼を折り、さらに傷ついたその思想を踵で踏みにじろうとするものだ。狩りバチが食料を保存するために行う外科手術についての私の発見も、同じ目にあった。
 さまざまな理論を闘わせること、それは勝手である。想像の世界というのは漠然としたもので、そこに各自がそれぞれの観念をもち込むのは自由である。
 しかし確固たる事実には議論の余地がない。ある事実を嘘だと思いたいからと気がせくあまり、他によく調べもせずにその事実を否定するなど、見当違いも甚だしいことである。
 獲物を狩るハチの、まるで解剖学を心得てでもいるかのような本能について、私がこんなにも長いあいだ述べ続けてきたことを、観察の反証をあげて傷つけた人は、私の知るかぎり一人もいないのである。彼らはただ机上の空論で反対しているのだ。まったく嫌になるではないか。(P.209)


第15章「私への反論と、それへの返答/狩りバチの本能についてのまとめ」はこの文章⬆で始まる。ファーブルが発表した内容に対して反論や批判があったらしい。これに苛立っているのがよくわかる。冒頭の文章から、ファーブルは自説に対する異議を《翼を折り、傷つけ、踵で踏みにじる》ことに匹敵する非道な行為だととらえて憤慨していたのがわかる。
新説に対して疑問や反論・批判的な意見が出てくるのは自然なことで、ある意味健全なことだ。ファーブル自身も昆虫記の中で進化論を批判している。しかし、自説に対する批判には腹を立てて、それを傷害・攻撃行為と捉えるのは科学者としてどうなのか……こうしたところにファーブルの偏屈さを感じてしまう。
僕は専門的な知識を持ち合わせていないが、完訳版を読んでいて、「ファーブルが記している観察のすべて正しかった」としても、「その行動や現象についての(ファーブルの)解釈」に疑問を感じることが何度もあった。専門家から見ても「突っ込みどころ」が多かったのではないだろうか? そうした「解釈についての疑問」が指摘されることもあっただろう。これをファーブルは《彼らはただ机上の空論で反対しているのだ》と言っているのではないか? その後に続く《まったく嫌になるではないか》という文章は科学的論考とは関係ない不要な感情表現だ。しかし不機嫌な気持ちを書かずにはいられなかったほどファーブルは怒っていたということなのだろう。
ファーブルは自説に反論するなら「そうでないことを実証」してから言えといわんばかりだが、「ファーブルの主張(解釈)」の整合性を問うのに《観察の反証》は必ずしも必要ない。ファーブルは実証主義だったようだが、《観察の反証》なしに自説に異論を唱える者を許せなかったのかもしれない。「私(ファーブル)が苦労を重ねて到達した考えに、苦労実績もないやつが思いつきで疑問をはさむなどけしからん!」と思っていたのではなかろうか?
この章では、ファーブルが自説の正しさを主張しているが、本来なら「正しさ」を淡々と説いていけば良さそうなものを、自分を批判した人たちへの攻撃的・挑戦的な表現が盛り込まれ、行間から「反感」が伝わってくる。実際に苛立ちながら書いていたことはファーブル自身も記している。


 もうやめよう。こんな話を繰り返してもいらいらしてくるだけだ。私の古い証拠書類の束に、まだ書いていない若干の事実をつけ加えたら、もう充分であろう。(P.227)

ファーブルの怒りっぽく攻撃的な性格は『完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下』の第13章「セミとアリの寓話/セミに対する誤解」でもうかがえる(*)。この章では攻撃対象の寓話作家を罵倒するために「友人の詩」まで引用しているが、訳注によればこの詩もファーブル自身が書いたものだったらしい。インターネット上で見られる「程度の低い悪口の応酬」では、ときに別アカウントで別人を装って暴言を書き込む行為があるが、これと同じようなことではないか……と少々あきれた。立派な著作の中で書くことではなかろうに……怒りを抑制できない性格だったのだろう。

とはいっても──良くも悪くも、こうしたファーブルの強い個性が反映したのが文芸作品としてのファーブル昆虫記の特徴だ。どんなに要約してもファーブルが一人称で語る彼の個性が色濃く反映した《文風》はこの作品に不可欠な特徴だ──と僕は思っている。
ところが、図書館に置かれていたファーブル昆虫記シリーズには、このファーブルカラーもしくはファーブルテイストともいえる《文風》が感じられないものも混在している。
『幼年版 ファーブルこんちゅう記3 かりをするはちの話』(文・小林清之助/絵・たかはしきよし/あすなろ書房)では、地の文に「わたしたち」という一人称がでてくるが、ここにファーブル感はない。観察対象のジガバチやトックリバチの(擬人化された)心の声もでてくるので、昆虫が主人公といった感じもし、視点としては三人称に近い。語り手はあまり前へ出ず、昆虫の行動や状況の説明が、子どもにもわかるように記されている。
ファーブル・エッセンスはかなり薄まった気もするが、昆虫の生態を紹介する本だと考えると、納得できる。出版の趣旨も読者のニーズもきっとそこにあるのだろう。

驚いたのは集英社・刊『ファーブル昆虫記 ジュニア版』シリーズだった。これは同社から出ている『完訳 ファーブル昆虫記』と同じ奥本大三郎氏(フランス文学者・作家・虫屋)が訳と解説をしており、この《ジュニア版》は産経児童出版文化賞を受賞している。
同じ出版社・同じ訳者によるジュニア向け『ファーブル昆虫記』ということで、僕は《完訳版》の子ども向けダイジェスト版の「ファーブルの昆虫記」だと思った。ところが読んでみると、ファーブルの個性的な《文風》はそこにはなく、内容も大胆に改編されていた。
これは、時系列に綴られた「ファーブルの昆虫記」をもとに奥本大三郎が総括し、補足情報や訂正情報、現在の知見などを織り交ぜて、読みやすくわかりやすいように再構成したためだろう。
読み始めた時に、文芸作品としての最大の特徴である《ファーブルの一人称によって語られる》という要素が消え失せていることに驚いた。ファーブルは作中に登場する「ファーブル先生」という三人称に置き換えられており、この作品の語り手はファーブルではなく奥本大三郎氏になっていたのだ。当初はなぜ人称を変更したのかという驚きが強かったが、考えてみればファーブルが執筆していた頃とは違う知見や補足情報などを「ファーブルの視点」で描くことはできない。一々注釈をつけて説明するのは読み手の読書リズムを分断することになるし、子どもにはややこしい。自然な形で補足情報をおりまぜながら展開するには内容の再構成だけではなく、描く視点も変更せざるをえなかった……そういう事情があったのだろうと思い至った。
文章スタイルはファーブルのものではなく、これは奥本大三郎氏の文体なのだろう──そのため、個性的なファーブル感はかなり薄まったが、本として評価するなら、文章・内容ともに《完訳版》よりも《ジュニア版》の方が読みやすくわかりやすい。昆虫に興味を持つ子ども(以上の人)に薦めるとしたら──総合的には《ジュニア版》ということになる。《昆虫の不思議・驚き》をテーマに読むならこちらの方が優れている。
ただ、文芸作品としての味わい・印象はずいぶん違うので、読者がこれを《ファーブルが書いた昆虫記》だと思ってしまうと、違う気がする。
ファーブル昆虫記の中には、ファーブルが生態の研究に目覚めるきっかけとなった「レオン・デュフールが書いたハチの論文」との出会いについて「暖炉の薪とそれを燃え上がらせる火花」の例えで述べられている箇所があって、ここは感動的で印象に残るシーンだった。これは一人称で(ファーブルの言葉で)記されているからこそ伝わってくる感慨であって、三人称の《ジュニア版》では今ひとつ盛り上がりに欠ける印象があった。「一長一短」ならぬ「十長一短」といったところだろうか……。

『ファーブル昆虫記』の本質──文芸作品として見た場合、この作品をファーブル昆虫記たらしめているのは、《ファーブルの(一人称による)独特の語り口》だろう──個人的には「なじめなさ」を感じているが、作品としての本質──文芸的価値はそこにあるのではないかと僕は思っている。ファーブルらしさが色濃く出ているのは完訳版だ。
しかし一方、タイトルにもなっている《昆虫》への興味で読むなら、改編版で(オリジナルより)良いシリーズがある。
テーマ・素材である昆虫(やクモ・サソリ)への興味で読むのか、ファーブルの作品として読むのかによって、ふさわしいシリーズが変わってくる……ファーブル昆虫記には、そんなややこしい面があるように感じている。



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昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?

昆虫を見る意義!?
昆虫などの自然物を見ることはヒトにとって大切なことだ──僕はそう考えている。
ヒトは脳で考え、脳化フォーマットされた人工環境に暮らしている。人工物に囲まれた世界にどっぷりひたっていると、偏狭な人間至上主義感覚におちいりやすい。それを是正するためにも自然物に目を向けることが必要だと思う。昆虫は身近な自然の代表で、人工物とは異なる様式で創造されている。一見して完成度も高い──人智を結集しても作り出すことのできない小さな昆虫の中に、この世界を構築している根源的な言語(摂理)の存在を垣間見ることができ、センス・オブ・ワンダーが刺激される。自然の創造物を目の当たりにすることによって、我々がなじんでいる脳化フォーマットが実はローカルな言語(規格)だということに気づかされる。昆虫を見るということには、人間至上主義的感覚を修正する──そんな効果・意義があるのではないかと思う。

昆虫を見るといえば──なみなみならぬ情熱で虫を観察したファーブルの昆虫記が思い浮かぶ。ファーブルは辛抱強い観察を続け、虫の驚くべき生態を色々明らかにしてきた。しかし残念ながら、彼の昆虫記を読んでみるとファーブルの観察眼は人間至上主義を脱却できていないように感じる。ファーブルは昆虫の本能を称賛しているが、これも「下等な虫が高等なヒトも驚くような能力を秘めている」という上から目線が感じられる。
ヒトが特別優れた存在だという考え方は、「人は神に似せて造られた」というキリスト教由来の概念なのかもしれない。ファーブルは昆虫記の中で、(優れた)人間と昆虫を含む他の生き物とを隔てるものとして「《死の観念》を持つか否か」をあげている。

01ファーブル昆虫記7巻上
完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上
(ジャン=アンリ・ファーブル/奥本大三郎・訳/集英社)
第3章 催眠と自殺/虫は死を知っているのか より

 ところで昆虫は、いや、より正しくは、どんな生き物でも、生命には終わりがあるということを予感しているのであろうか。死という、我々には気になってしかたのない問題に、その素朴な頭を悩ませているのだろうか。(P.63)

 人生の最期のときについての不安は、人間の悩みであり、これを有するのは同時に人間の偉大さでもあるのだが、より儚(はかな)い運命をもつ昆虫その他の動物は、この問題で悩むことを免除されている。
 まだ無意識の状態にある幼児と同様、動物は未来のことなんか考えないで、現在を楽しんでいるのである。いずれ来る最期のときという苦い思いを免(まぬが)れて、動物は無知という心地よい平安のうちに生きている。人間だけがその生の短さを予見し、人間だけが最期の眠りのことを思い煩(わずら)い、墓穴のことを思って心を乱されるのだ。(P.63〜P.64)

 ただ、どうしても避けられないこの滅亡について理解するためには、ある程度精神的に成熟していなければならず、それゆえ、死の観念は、かなり遅くなってから心の中に生まれてくるのである。(P.64)

 我々人間ですら幼年時代にはもっていない、この死の観念をもつという格別の栄誉を、昆虫は有しているのであろうか。(P.65)

 人間以外では、いかなる生き物も自分で命を絶つという最後の手段を知ってはいない。なぜなら、そのいずれも死ということを知らないからである。生の苦しみから自分が逃れることができると感じることは、我々人間が他の動物たちより上位にあることの証しとなる、すぐれた特性なのだが、しかし実際には、その可能性を有するからといって実行してしまったら、卑怯者ということになってしまうのだ。(P.81〜P.82)

 死についてはっきり思い描くことができるのは人間だけであり、死後について素晴らしい本能的直感をもつことができるのも人間だけである。(P.84)


ファーブルは「人間は優れているから死を予見し悩むことができる/昆虫を含むその他の動物は、無知であるがゆえに、死を知らず悩むことも無い」と考えていたようだ。
「悩むのは優れているからだ」という解釈は人間至上主義の安直で欺瞞に満ちた発想だ。「悩むのは不完全だから」という発想はないのだろうか? 悩みを知らない昆虫の方が完全だという見方だって、できなくはない。進化の度合いからすればヒトより昆虫が勝っている。
ファーブルは《人間だけがその生の短さを予見し、人間だけが最期の眠りのことを思い煩(わずら)い、墓穴のことを思って心を乱されるのだ》と記しているが、それではなぜヒトだけが死というありふれた自然現象を恐れ、受け入れがたいもののように感じるのか──この根本的な疑問をファーブルはどう考えていたのだろうか?


ヒトはなぜ死を恐れるのか?
ファーブルは《死の観念》について、ヒトでも幼年時代には持てず、かなり遅くなってから心の中に生まれてくると記しているが、僕は子供のころに、このテーマにとらわれていた時期があった。

ある日「(自分も含めて)今生きているヒトはすべて、必ず死ぬ」ということに気がついて、死刑を宣告されたかのような衝撃を受けた。いつ死ぬかはサダカでないがXデーは必ず訪れる。今こうしている時にも処刑日は刻一刻と近づいているのだ。泣こうがわめこうがそれを止めたり遅らせたり巻き戻したりすることはできない……今生きている人は全て死に向かって行進し続けているという動かしがたい事実が恐ろしく、子供心に絶望感すら覚えた。
それから「ヒトはどうして死ぬのか?」「ならば、なんのために生きているのか?」「死ぬと《自分》はどうなるのか?」「生きていると感じている自分の心は何なのか?」などについて色々と深刻に考えるようになった。

僕が求めたのは宗教的な答や哲学的な答ではない(それらは死の恐怖から目をそらす欺瞞の解釈に感じられた)。科学とも少し違う。「納得できる合理的な解答」に到達するまで時間はかかったが、自分なりに自力でこの問題を解くことができたと考えている。死に対する漠然とした恐れは、「解答」を得て脳内の再整理をして解消した。

ところで、「死んだあと《自分》はどうなるのか?」という疑問は多くの人が1度は考えたことがあるのではないか。「死後の世界はどんなものか?」と問われれば、今の僕なら「生まれる前と同じ」と答えるだろう。「死んだ後、どうなるの?」という疑問は「生まれる前はどうだった?」と問うのと同等の疑問であり、不毛な発想である。それでは、どうしてこのような不毛な疑問を抱くことになるのか──このあたりに「人が死を恐れる」理由の本質が見え隠れする。

《人間至上主義》というのは──天文で例えるなら《天動説》に似ている。地球に暮らす我々には、太陽や月、その他の星々が地球の周りを回っているように見える。昔の人は、地球は止まっていて、天空の星が動いていると考えていたらしい(天動説)。しかし、星を細かく観察すると、その動きは天動説では説明(理解)することができない。我々が住む地球もまた動いているということ(地動説)に気がついて、それまで解けなかった謎が解決した。
我々は自分を基軸にものを見たり考えたりしがちだ。地球に暮らす我々が地球を不動のものと思い込んだことで、星の動きを説明(理解)できなかったように、生命についても、我々が自分の意識を基軸にこれを考えているうちは正しい解答を得ることが難しいだろう。自分たち(自我意識)を基軸に世界を見るという点において《天動説》と《人間至上主義》はよく似ている。

02宇宙と生命概念図
ヒトは(自分たちがすむ)地球を中心に宇宙を見ていた──これが《天動説(誤り)》で、これでは星の動きを説明(理解)することができない。
また、ヒトは意識の中でしか自分や世界を認知することができない。ゆえにヒトにとっては意識が世界の中心になる。しかしヒトの意識というのは生命活動(主)の中で発生した1機能(従)に過ぎない。従属機能を基軸にすると(天動説のように)説明(理解)できない現象がでてくる。

生命がどのように誕生し進化してきたのか詳しくは知らないが、大ざっぱに言えば、進化の過程で動物が誕生し、覚醒の機能が加わったのだろう。生き物に覚醒モードが加わったことで、エサを探したり摂取したり交配活動をするなど、生命活動に必要なことが効率よく行えるようになった。覚醒は生命活動の発展に必要な機能として誕生したと考えるのが合理的だ。
僕は子供の頃、「ヒト(を含む動物)は、なぜ眠るのだろう?」と考えたことがあったが、これはトンチンカンな発想であった。生物の活動として考えれば、植物のように覚醒しない生物もいるのだから、《睡眠》の意味ではなく《覚醒》の機能がどうして生まれたかを考えるべきだった。
《覚醒》は生命活動に有益な機能だった。しかし覚醒モードでは当然のことながらエネルギーの消費率が高くなる。そこで必要ないときは覚醒モードをOFFにしておくのが効率的だ。この省エネモードが《睡眠》ということになる──そう考えるのが自然だろう。

《覚醒》機能をそなえた動物は少なくないが、その中でさらに《自我意識》を獲得したのがヒトだ。この末端機能によってヒトは自分や周囲の世界を認識できるようになる。そして《意識》の中で自分の存在を知ったヒトは、「考えて」個体の行動を制御することができるようになった。
ヒトはこの最先端(最末端?)の機能を得たことで大繁栄することになったわけだが、《意識》は《生命活動》の末端に帰属する1機能に過ぎない。しかし我々はそこでしか認識したり考えたりすることができないので、つい《意識》が生命活動の中心にあるように錯覚してしまいがちだ。《生命活動》でいえば下位に位置しながら《意識》は上位のようにふるまっている──このねじれ現象が、「《生命活動》としては当たり前の(個体の)《死》」を否定的にとらえてしまう原因になっている。
宇宙の片隅に位置する地球を中心に星が動いているととらえると(天動説)、エラー(星の動きを説明できなくなる)が発生するように、《生命活動》の末端に帰属する《意識》を中心に考えると、ややこしい(きちんと処理できない)問題が発生する……。

当然のことながら《生命活動》は従属機能の《意識》に優先する。生命活動にとって重要なことは継続性──種の存続・発展が最優先事項だ。個体が世代交代を繰り返して種を存続させていくのはごく自然なことで、これは我々の体の中で古い細胞が死に新しい細胞が生まれる新陳代謝のようなものだ。活動を終えた細胞や個体は死んでいく──生命活動としてはごく自然な現象だが、ヒトは(細胞死には問題を感じないのに)個体死を受け入れがたいと感じてしまう……。
それはヒトの《意識》が個体の末端機能に宿っているからだろう。新陳代謝で細胞が死んでも《意識》は継続されるが、個体が死ぬと個体に帰属する《意識》の
継続性は断ち切られる。そのことを知っている《意識》は継続性が損なわれることを嫌って拒否反応を示す──これが【生命活動としては自然な現象なのに、人は死をおそれる】という現象を生む理由なのだろうと僕は考えている。

一方、《意識》の獲得によってヒトは言葉や文字を発明し、個体死による断絶があっても「考え」などの情報を後世に伝える術を開発した。「何かを残したい」という欲求は個体としての死を免れることができないヒトのせめてもの抵抗(継続性への挑戦)なのかもしれない。この作用はヒトに繁栄をもたらした文化の原動力ともいえるし、種の存続にも有利な働きをしているはずだ。
また、「死を恐れる」というヒトの一見不条理な(?)傾向も、「生きることへの執着」という見方をすれば、生存率を高めることに一役買っているのかもしれない。
ヒトが死を恐れるのは《意識》レベルのエラーもしくは拒絶反応のようなものだが、結果としてこれもヒトという種の継続性を強化する方向に働くので、現行の生命システムが成立している──僕はそう考えている。

ファーブルは「ヒトだけが死を恐れる」という現象を認めているが、どうしてなのか、その理由についてはきちんと説明していない(僕の読んだ部分では)。おそらく人間至上主義的な解釈──「ヒトが悩むのは優れているからだ」という先には踏み込んでいないのだろうと思う。
ファーブルは昆虫を見続け、あれだけ詳しく生態を観察しているのに──記されている現象に対する解釈には疑問も多い。それは「見方」に問題があったからだろうと思う。時代的な背景もあったのだろうが、人間至上主義的な──天文に例えるなら天動説的な視点を脱却できなければ、どんなに虫見をしても、理解には限界があるということなのかもしれない。ファーブル昆虫記には擬人化された表現が多く、それが文学的(?)な味わいをかもしだしている気がしないでもないが、僕には人間至上主義的な感覚が垣間見えて、なじむことができなかった。

冒頭、僕は昆虫を見る大切さについて思うところを記したが、僕が言う虫見には、昆虫学的な知識は必要ない。虫の名前など知らなくてもかまわない。虫を見て、人工物にはない自然の不思議を感じることが大切なのだと思う。いわゆるセンス・オブ・ワンダーだ。せっかく虫を見ているのに、ヒトがつけた名前探し(同定)にばかり関心が向くようでは、自然を見たことにはならない。名前はヒトがつけた記号であり、それを知ったところで、その虫のことを知ったことにはならない。昆虫を見るとき、ヒトの言語で読み解こうとするのではなく、むしろそれを排した自然の言語(摂理)を感じることが大事──昆虫学者や虫屋ではない僕は、そんなふうに思っている。



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01昆虫記5巻下

前の記事(*)でも触れたファーブル昆虫記だが、小学生の時に読んだ本は子供用にリライトされたものだった。セミの鳴くそばで大砲を撃ってもセミは鳴き続けた──だからセミには音が聞こえない、もしくは耳が恐ろしく遠いというところに疑問を持ったことは覚えているのだが、他にどんなことが書かれていたのか、内容はほとん記憶に無い。本当はどんなことが書かれていたのだろうと気になって完訳版のファーブル昆虫記でセミのことが書かれているところをあらためて読んでみることにした。集英社・刊『完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下』(ジャン=アンリ・ファーブル/奥本大三郎・訳)の第13章〜第17章にセミに関する記事が記されている。
昔読んだリライト版では載っていなかったのか、それとも僕が覚えていなかっただけなのか──セミの生態について知らなかったことが色々記されていて、内容的には興味深く、おもしろかった。しかし、小学生の時に感じた「なじめなさ」はやはりあって、読み進めるのに努力を要した。今回はそのあたりのことについて少し記してみたい。

第13章の「セミとアリの寓話──セミに対する誤解──」から読み始めたのだが、まずは《怒れるファーブル》に驚いてしまった。日本では『アリとキリギリス』として知られているイソップ寓話があるが、これをラ・フォンテーヌという詩人が翻案したものが『セミとアリ』(キリギリス役がセミになっている)で、フランスではよく知られていたらしい。この寓話にファーブルはひどく憤っているのだ。問題の『セミとアリ』を要約すると──、


アリが働いている夏の間、セミは歌って暮らしていた。北風が吹く頃、セミはひもじくなってアリに物乞いに行く。アリは「夏の間歌っていたのだから冬は踊っていればいい」と冷たく拒絶する。

この寓話には不可解なところ──セミとして描かれている虫が挿絵ではキリギリスだったり、本文でもセミのひもじさを表現するのに「ハエやミミズの切れ端ひとつ口にはいらぬ」(実際のセミはそんなものは食わず、木の汁を吸うのに)と記された箇所があったりと、登場人物(登場昆虫)の習性が実態にそぐわないことをファーブルは指摘。どうしてこのような《不可解》が生まれたのか、謎を推理して記している。
良く知られた作品の中に登場する動物が何なのか──というウンチクはひとつの話題になり得るし、一般に信じられているイメージと実態が乖離している場合は読み物として成立し得る。だから、ファーブルが不可解の謎解きを記したことは理解できるのだが……なぜか、彼は憤っている。『セミとアリ』は「登場する虫について知らずに(調べずに)描かれたものだ」という批判めいた暴露は納得できるが、しかしどうしてこんなに怒る必要があるのだろう? ファーブルはセミとアリについての間違ったイメージを広めたとしてラ・フォンテーヌ(翻案者)や寓話作家を執拗にののしっているのだが……その偏屈ぶり(?)には読んでいて、ちょっと引いてしまった。
寓話の意図から察すると「(夏の間)歌ってすごしていた者」の役に「(夏に)鳴く虫」からの発想でセミもしくはキリギリスがキャスティングされたのだろう。いずれにしても寓話としてはさほど不自然ではない配役だ。この寓話が擬人化された作り話であることは誰の目にも明らかだし、この寓話が昆虫の生態を正しく紹介する目的で書かれたものではないことも明白だ。虚構性の高い寓話に描かれている内容が実際の昆虫の習性と違うからといって、ここまでけなす必要は無いだろうに……ファーブルの義憤は理不尽だと感じた読者は僕だけではないはずだ。この章の終わりにある訳注にもファーブルの過剰な憤りについて「大人げない」と記されている。

ファーブルが何に怒っていたかというと、「物乞いをする怠け者のセミ」と「ほどこしを断る働き者のアリ」という構図・レッテルに腹を立てている。実態は反対で、セミがアリに物乞いするなどあり得ず、逆にアリの方が吸汁しているセミのおこぼれを略奪したり、セミを食糧にもしていてタチが悪いのだと、一生懸命セミを弁護(?)している。
つまりファーブルは、寓話に登場した昆虫の「善玉」と「悪玉」が実態とは逆であり、間違ったイメージが世の中に浸透していることに憤っている。

しかし……(寓話の意図とはかけ離れた次元の話だが)そもそも昆虫の生態を観察するときに「善玉」「悪玉」というイメージを当てはめて見ることに僕は違和感を覚える。ファーブル昆虫記を読んで「なじめない」と感じるのは、このファーブルの独善的な捉え方にある。
自然界の生命活動を真摯に観察しようとするなら、昆虫の営みにヒトの善悪感覚を持ち込むのは不遜な気がするのだ。
昆虫の世界では食うものも食われるものも、どちらも同じ自然の法則に従って生命活動をしているわけで、どちらが善でどちらが悪という見方はふさわしくない。生理的な好き嫌いはあったにしても、両者を等価に捉えることが自然観察者の基本ではないかと僕は感じている。だからファーブルの人間的な感覚を観察に持ち込む姿勢に「なじめなさ」を感じるのだ。
一方、昆虫を擬人化して語りかけるようなファーブルの文章が、好きな人には好まれているのだろうという気もしている。



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なじめなかったファーブル昆虫記

01昆虫記DVD本

ファーブル昆虫記は小学生の頃に読んだ記憶があるのだが、内容はあまり覚えていない。セミはなぜ鳴くのかについて「セミには音が聞こえていない(もしくは恐ろしく耳が遠い)/セミは生きているよろこびのために歌って(鳴いて)いる」とする結論が納得できなかったのを覚えている。
昆虫に対する興味から手に取ってみたファーブル昆虫記だったが、読み始めてみると、どうもなじめず没頭できなかった。その後、ファーブル昆虫記を称賛する虫屋さんが多いらしいことを知ったが、それでもあらためて読んでみようという気にはなかなかなれずにいた。ところが比較的最近、ちょろっと読む機会があった。ハリサシガメについての情報を探していてファーブル昆虫記の中に同属のセアカクロサシガメの項目があることを知ったからだ。図書館で借りてその章を読んでみたのだが(*)……やっぱり小学生時代に読んだ「なじめなさ」をあらためて感じることとなった。

ちなみに、ハリサシガメの幼虫は全身を土粒でおおい、アリの死骸などをデコレーションするというユニークな特徴を持っている。

03針刺亀幼虫01再
04針刺亀幼虫B1再
ファーブル昆虫記に出てくるセアカクロサシガメの幼虫も、同様に全身に埃をまとうという似た特徴を持っているらしい。ファーブルがこのユニークな生態をどう解釈したのか期待して読んだのだが……、

幼虫は体から、一種のねっとりした液体を出す。それはおそらくは、幼虫の食物である脂肪に由来するものだろう。体から分泌しているこの鳥黐(とりもち)によって、幼虫自身が別に何かしなくても、移動するたびに触った埃が体にくっつく。サシガメが服を着るのではなくて、体がかってに汚れるのである。この幼虫は塵の球になる。つまり、歩く汚れそのものになるのだ。それは幼虫がべとべとした汗をかくからなのである。(『完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 上』第6章より)

──と記されていた。汗腺などない昆虫が、どうして汗をかくのかよくわからないが、ファーブルは特有の(?)「妙な擬人化」で、あっさりと片付けている。これには少々がっかりした。

僕は虫屋ではないが、子供のころはカブトムシやクワガタを捕ったり飼ったりしていた。僕の昆虫に対する興味というのは、人工物とは全く異なる仕様の存在感……いってみれば人間の言語(フォーマット)とは違う言語で創造された世界を実感できるところにあったような気がする(*)。昆虫を通して、彼らが帰属する自然界に興味を覚えたわけだが、そんな昆虫たちの世界がファーブル昆虫記ではひどく人間的な視点で捉えられている……自然(非人工)の世界を描いているのに、その描写や比喩がすこぶる人間的であったところがなじめなかった原因だったように思う。
虫の営みを擬人化した例えで説明している箇所が多く、その比喩が適切でないと感じる部分も少なくない(セアカクロサシガメの幼虫のベタベタを「汗」だと片付けるところなど)。観察した現象の理解(解釈)がファーブルの人間的な(?)予断に傾いたもので(セミが生きているよろこびのために歌うとか)、共感や同意するのが難しい……こうしたことが小学生の時にファーブル昆虫記を読んで感じた「なじめなさ」だったのだろうと思う。
「人智の関与しない昆虫の世界を見ようとしているのに、どうしてそんな世俗的な例えをあてはめようとするのか」「そういう見方で虫を見るのはヘンではないか?」という違和感──強い言い方をすれば抵抗感のようなものがついてまわり読書意欲を減退させる。著者(ファーブル)の虫を見る眼(捉え方)に疑問が生じてしまうと読み続けるのは、しんどくなる。それが、読み返そうという意欲がわかなかった原因だったように思う。
とはいえ、客観的にみれば、僕がげんなりした部分──ファーブル昆虫記の《人間臭い視点で描かれている点》が、きっと好きな人には魅力となって伝わりファンが多いのだろうという気もする。ファーブル昆虫記の原題は直訳すると「昆虫学的回想録」になるそうだが、回想録として読めば文学的表現(?)も作者の味として感じられるのかもしれない。

個人的には読みにくいファーブル昆虫記だが、DVDは持っていたりする。『完訳 ファーブル昆虫記』シリーズの翻訳をされたフランス文学者にして虫屋の奥本大三郎氏が案内役をつとめたテレビ番組を収録したものだ。昆虫の映像見たさで入手したものだが、映像は素晴らしかった。ファーブルが進化論に批判的だったことは、このDVDを観て知った。『ファーブル昆虫記 Vol.2 カリバチとヤママユ 本能の命ずるままに』では、ファーブルが進化論に疑問を呈すところがある。強力な毒牙をもつ危険なクモを完成された技術でしとめるカリバチについて、「昆虫記 第2巻12章より」というスーパーとともに、次のようなナレーションが流れる。


はるか大昔に1匹のカリバチがいて偶然に獲物の神経を傷つけた。そしてそれは危険な戦いを回避させてくれ、幼虫のために新鮮な獲物をもたらしてくれた。蜂はこれは素晴らしいと思い、その傾向を子孫に遺伝子によって伝えるようになったと進化論者は言う。ならば、それ以前のカリバチはどうやって生きてきたのであろう。不慣れな暗殺者がいい加減な仕事をすると彼らは最初の世代で滅びてしまうのである。

ファーブルはこのように進化論者を批判しているが、ならばクモ狩りのカリバチはどのように誕生したというのだろう? ある日いきなりクモ狩りの完成した技術をひっさげて出現したというのだろうか?
完璧に見えるその技術がどのように獲得されていったのか──という疑問・発想は無いのだろうか?

ファーブルが示さなかったカリバチのルーツを無知で素人の僕が想像してみると……、
カリバチの祖先は、やはり狩りをしていたが、現在のように特定のターゲットに対する完成度の高い狩り技術を獲得していなかった……そんな時期があったのではないか。スズメバチやアシナガバチも狩りをし、獲物を肉団子にして幼虫に与えるが、ハンティングの対象となる種類は比較的幅広い。同様にカリバチの祖先も狩りの対象を今ほど限定しておらず、捕えやすい相手(獲物)を中心に狩りが行われていたとする。あるいは色々な種類の獲物を狩る中で獲物を麻酔する技術を獲得し高めていったのかもしれない。そして色々な虫を狩る中で、たまたま毒牙を持つ危険なクモに挑んだものがいて、たまたまその蜂が持っていた技術で、狩りが成立することがあったのかもしれない(針を刺す位置が、そのクモの神経節の位置と合致した?)。中にはクモの毒牙に倒されるものもいたろうが、失敗ケースは残らなかった(淘汰された)だけだ。数あるチャレンジの中で成功したケース(カリバチAと、その攻撃パターンが有効に機能したクモA'の組み合わせ)が子孫に受け継がれたと考えることはできないだろうか?
現在のカリバチの仲間は種類によってエサ(宿主)がかなり限定されているようだが、これはそれぞれのカリバチの体格・ハンティング技術に対応する(カリバチの攻撃ポイントと獲物の急所が一致する?)「うってつけの獲物」にしぼった方が狩りの成功率が高められることから限定化に向かったのではないか──僕なら、そう考える。

また、カリバチは獲物を貯蔵する巣の位置をちゃんと覚えていて獲物を運び込む。位置情報なのかあるいはニオイ情報なのか……何を手がかりにしているのかはわからないが、それを「記憶」する能力があるからこそ、ちゃんと巣に戻ることができるのだろう。
カリバチに、そうした優れた「記憶」の能力があるのであれば、幼虫時代に食った獲物のニオイを覚えていて、成虫になって狩りをするときにそのニオイをたよりに獲物を選定するシステムだってあってよさそうな気がする。母蜂の狩猟技術でしとめることができる獲物──それを食べて無事に育つことができた幼虫が成虫(母蜂)になったときに、母蜂と同じ種類の獲物を選択的に狩るのは《成功例を踏襲する》という意味で理にかなっている。

余談だが……宝石蜂セイボウの仲間は、他のカリバチが作った巣(幼虫用の食糧を貯蔵し卵が産みつけられた部屋)にもぐりこんでカッコウのように托卵するという複雑な生活史を持っている。これも《幼虫時代のニオイ記憶が母蜂を誘う》システムで説明できそうな気がする。麻酔の技術を持たないセイボウの祖先は托卵習性を獲得する以前、生きた宿主に直接卵を産みつけていたとする。あるときセイボウが卵を産みつけた獲物を別のカリバチが狩って巣に運び込むというアクシデントが発生……そしてカリバチの巣の中で孵化したセイボウの幼虫はカリバチの子供を殺し(食べ?)カリバチが幼虫のために貯えた獲物を食って育ったとすれば……。カリバチの巣で安全に育つことができたセイボウ幼虫が成虫(母蜂)となったとき、自分が育った獲物&環境のニオイを記憶しており、それをたよりにカリバチの巣を探し当て、侵入して卵を産むようになった──そんなシナリオも成立しそうな気がする。
もちろんこれまで記した想像は根拠の無い素人の脳内シミュレーションにすぎず、実際にどうだったのかはわからない。ただ、昆虫が複雑な習性を進化の中で獲得していくことは充分あり得ることだと思う。少なくともある日突然、完成された技術を持った昆虫がいきなり現れた──という神がかり的な(?)発想よりは、納得しやすいのではないか。

進化論に対してファーブルがどんなふうに考えていたのか知りたくて、DVD『ファーブル昆虫記 Vol.2 カリバチとヤママユ 本能の命ずるままに』に引用されていた「昆虫記 第2巻12章」を読んでみようと図書館へ行って借りてきた。奥本大三郎氏・訳『完訳 ファーブル昆虫記 第2巻 下』の12章は「ベッコウバチ──クモを捕える狩りバチ──」だったが、どうしたことか、ナレーションで紹介されていた上記の文章は、 完訳のはずの第2巻12章に載っていなかった。

調べてみると、『完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 上』にも「第9章 アナバチたちの獲物/進化論に対する批判」という項目があって、これにも興味を覚えたが、運悪くその巻は市内の図書館では貸し出し中。ネットで検索してみると、Wikipediaの【ジャン・アンリ・ファーブル】に「進化論への批判」の項目が出ていた。


ファーブルが行った批判のひとつに狩りバチの例がある。例えば「進化論へのお灸」と題した章がある。ここで彼は進化論を現実から乖離させた概念のお遊びであると非難し、具体的な問題提起として、アナバチの例を挙げている。彼の知る何種かが近縁であることは形態等から明らかであるから、進化論的にはそれらに共通祖先があったことが想定される。しかし現実の種はそれぞれに別な固有の獲物(ある種はコオロギ、別の種はキリギリスモドキ、また別の種はカマキリ類)を狩る。では、それらの祖先はいったい何を狩っていたのか、と問い、もし祖先の中から特定の獲物を狩るものが出たのだとすれば、祖先はそれら全部を獲物の選択肢にしていたことになる、とすれば、多様な獲物を狩れる中から、限られたものしか狩れない者が出てくるのでは、明らかに進化しているものの方が不自由であり、変であると論じる。もし、祖先がある1つの獲物を狩っていたとしても、そこから現在のさまざまな種が出る間には、複数種を狩れる段階があったはずであり、同じ問題を生じる。(※Wikipedia【ジャン・アンリ・ファーブル】より)

先に僕の想像(脳内シミュレーション)を記したが、カリバチの祖先が多様な獲物を狩っていて、その中から、それぞれが得意とする狩猟&麻酔技術と対応種(宿主)をみつけていったのだとすれば、獲物を得意相手に絞った方が、狩り〜子育て(うまく麻酔できた獲物を幼虫が食べて育つ過程まで)の成功率は上がるはずだ。多様な種類をターゲットにすれば、獲物の神経節の位置の違いなどから攻撃ポイントを外したり探すのに手間取って狩りに失敗する確率が高まるだろう。危険な相手であれば返り討ちにあわないとも限らない。

ファーブルが記しているようにカリバチの麻酔技術が高い精度を要するものだとするなら、神経節の位置が違う雑多な獲物にフレキシブルに対応するより、成功実績の高い得意相手にしぼって狩りをした方が成功率は上がるだろう。狩りの対象種が限られてきたのは、進化による《不自由》ではなく《最適化》と見るべきではないか。
また母蜂の技術で狩ることができた獲物で育った子供が、食った虫のニオイを記憶し、母蜂になったときに《成功例》を踏襲すれば、狩りの精度は強化されていくだろう。獲物を絞って《最適化》することは、種の生存率に有利に働くはずだ(もちろん最適化した獲物が衰退すれば一蓮托生のリスクははらんでいる)。

ファーブルはカリバチの「獲物を殺さずに麻酔をする巧みな技術」(幼虫が蛹になるまで獲物を殺さず新鮮さを保つ)や「幼虫が獲物を殺さずに喰い進む順序」(最初は内蔵を包む脂肪層、次に皮膚の内側にある筋肉というふうに生存に重要でない部分から食べていく)などが、みごとに理にかなっていることから、昆虫が生理学を熟知しているかのようだと感嘆しているが、カリバチはそれを理解して行動しているとはとても思えない。たまたま結果として理にかなった行動をとるものが生き残り、そうでないものは残らなかった……ただそれだけのことだったのだろう。現存する現象(生態)は、結果として理にかなっていたから残っているのであり、「うまくできている」のは当然・必然とも言える。

たとえば──、
馬券の換金窓口にやってきた人の所持する馬券が全て当たっていたとする。この人が換金に必要な当たり券だけを持って来たのは理にかなっている。不要となったハズレ券は破棄したのだろう。なのに、彼が持参した券がすべて当っていたことから、「この人は、どうしてレース結果を確実に知り得ることができたのだろう」と考えるのは、おかしなものである。カリバチの巧みな生態を見て「どうしてハチが生理学を熟知しているのだろう」と考えるのは、これと同じ気がする。超能力(予知能力)を持たなくても当たりを引く人はいるし、生理学を知らない虫でも理にかなった行動をとるものはいる。

ファーブルは昆虫を観察して、理解を超えた「うまくできたしくみ」に気づき、その複雑さ・完成度の高さに驚嘆し、これは「進化」で獲得できる領域のものではないと考えたのかもしれない。
確かに昆虫の生態は複雑で、とても偶然&自然選択の結果であるとは思えないほど「うまくできている」と感じることがある。しかし、一見複雑きわまりない生態に見えても、実は1つ1つの進化の行程は意外にシンプルだったりするのかも知れない……というのは、複雑な形をしたドラゴンの折り紙を折って感じたことだ。

04折紙ドラゴン
1枚の正方形の紙から折ったとは、にわかに信じがたい複雑な形をしたドラゴン⬆も、折り方をたどってみれば、1つ1つの行程は意外にシンプルでそう難しいものではなかった。
まるで超自然的な意志でも働いているかのように「うまくできている」昆虫の生態も、自然な進化の積み重ねによって獲得されたものではないか。今は解明できないでいる複雑な生態のルーツにも、きっと合理的なプロセスがあるに違いないと僕は思っている。


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