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新種のセイボウ:景品命名について

新種の命名を景品に客寄せ!?

少し前にマダガスカルで新種のセイボウ(蜂)が見つかったという報道があった。この新種の学名には、国立科学博物館で行われる特別展「昆虫」に来場した者の名前がつけられるという。
国立科学博物館 特別展「昆虫」公式ページによると──、

この昆虫は今後、論文での発表を経て新種として正式に認定されますが、新種昆虫の名前は、論文を書く人が決めることができます。そこで特別展「昆虫」では、この新種に来場者の方のお名前をつけたいと思っています。つまり、あなたのお名前が、この新種の名前(学名)になるのです!論文発表後、新種と認定されれば、そのお名前はこの昆虫の名前として“永遠”に残ることになります。つけるお名前は、原則として当選者ご本人のお名前、もしくは、ご自身の大切な人のお名前をつけて、感謝の気持ちを込めてその方にプレゼントしてもOKです。

新種の昆虫の名前が、こんなふうに決められて良いものか?──と違和感を覚えた。
僕は昆虫学にも分類学も知らない素人だが、新種の発見というのは大変なことだろうという想像はつく。昆虫の研究者は多いだろうが、その中で新種に名前をつけることができた人はわずかだろう。昆虫に取り組む努力・情熱を持ち続けた人の中で幸運に恵まれた人がそのチャンスをつかむことができるのだろう。「新種発見」は命名を含めて発見者・研究者の功績──僕はそんなふうに考えていた。
新種の命名にはその発見者なり研究者の見識・センスが反映される。後世の人が、その昆虫&名前にふれたとき、命名の由来についても興味を持つに違いない。それが発見者や昆虫学に尽力した人の名前であったり、容姿・生態や発見地域を現すものであれば、「なるほど」と納得できるだろう。しかし、学名の由来が、たまたまイベントに来場した、その虫とは何のゆかりも無い人の名前であったと知ったら、どう思うだろう?
「なにそれ?」「宝石のようなとてもキレイな昆虫なのに……もっとふさわしい名前をつけてやることができなかったのか?」というのが自然の感想ではなかろうか。

新種発見&来場者の名前をつける──というのはイベントを盛り上げるためにあらじめ企画されていたものらしい。イベントを成功させようという気概はわかる気もするが、最初から景品命名まで企画していたとすると「宣伝・集客を狙ったあざとい発想」という印象がなくもない。

先の国立科学博物館 特別展「昆虫」公式ページでは昆活マイスター:香川照之氏が次のような文章を寄せている──、

自分の名前を昆虫の名前として永遠に残せるなんて、ロマンがありますよね!昆活マイスターとして、そのロマンをこのキャンペーンで皆さんにお伝えしたいと思います。

該当昆虫とまったく関係ない人が──その虫のことを何も知らない人の名前がつけられることに「ロマン」などあるのだろうか? 「あざとい企画でつけられた何の合理性も無い名前」という汚点を永遠に残すことになりはしないだろうか?
素人の僕にも違和感があったが、やはりこの企画には批判もあったらしい。
今回の件を検索していたところ、このイベントを監修したという方の考えが記されているサイトがあった。
学名の命名権とイベント企画-断虫亭日乗】によると──、

初めてのことは必ず批判を受ける。予想はしていたが、この企画にも反対の声があるようだ。当初はわれわれもそのような批判を恐れて、この企画への参加に逡巡したが、幸い、私の周囲の研究者は好意的な意見ばかりで、欧米での実例を知った上で、分類学の生き残る選択肢として必要という声も少なくなかった。実際のところ、反対の声の多くは「命名を景品みたいに使うべきではない」といった感情的なもので、そこに合理的な理由はまったく見当たらない。

「命名を景品みたいに使うべきではない」というのは感情的なものが含まれるかもしれないが、そのような感情を生むにたる合理性はあるのではないか? この監修者は《反対の声の多くは「命名を景品みたいに使うべきではない」といった感情的なもので、そこに合理的な理由はまったく見当たらない》と記しているが、「命名を景品みたいに使う」ことに合理性があると考えているのだろうか? 「分類学上のあるべき命名(本質性)」と「景品」は違うだろう──という批判はきわめて自然で合理的に思われる。逆に、発見された新種と何の関わりもない人の名前を学術名につけることに、どんな合理性があるというのだろう? この監修者の「合理性」の考え方がよくわからない。
余談だが、この監修者は『昆虫はすごい』の著者なのだろうか? この本を読んだとき、合理的な解釈がなされていないことにフラストレーションを感じていたが……物事のとらえ方・合理的納得などが、僕とは違う人なのかもしれないと改めて感じた。
この監修者も次のように述べている。

生きものが好きな人にとってみれば、学名に自分の名前が残るなんて、一生の思い出に残る夢のある企画だと思う。

自分が研究に携わったり発見した昆虫に自分の名前がつけられれば「一生の思い出に残る」だろう。しかし、その虫について何も知らなかった人が自分の名前が採用されたところで、はたしてそこに感動はあるのだろうか?
また昆虫に興味を持ちはじめた人が、この虫を知ったとき、こんないいかげんな名前のつけ方がされたことをどう感じるだろう?

命名権の活用の正当性(?)について、この監修者は次のように記している。

実はこういった学名の「命名権」のやりとりについては、一見斬新に思えるかもしれないが、欧米では珍しくなくなっている。それが有償であれば、その資金をもとに、研究を行ったり、生息域の保全を進めたりしていることも多い。しかし、おそらくだが、日本ではこれまでにそのような事例はなかった。

「命名権」で得た資金を研究や生息域の保全活動に使うのは「有意義」なことだから「有り」──ということなのだろう。そのような考え方を真っ向から否定するつもりは無い。
しかし「研究」や「保全活動」に必要なの資金は、その目的や重要性を周知し理解を得ることで受けるというのが本筋だと思う。地味で手間がかかる本筋よりも、手っ取り早く「有意義」な成果を得られる手段を安易に選択することを是とする考え方には抵抗がないでもない。

例えば、どこかで大きな災害が起きたとする。死者も多数でるような大惨事。復興のためにはお金がかかる。そんな状況で、「死亡者数予想の賭け」をして売上金を義援金に充てる──といったことが企画されたら、どうだろう。実際に義援金が集まるのなら、それも「有り」と考えるのか?
これは極端な例で、「命名権」とは全く別のハナシだが、「必要な資金を集めるのは、本筋の理解の上で」が基本であり、「有意義」な成果があれば何をしても良いというわけではない──と僕は考えている。
面倒な本筋の努力より、手っ取り早い横道を選ぶようなやり方にはあまり好感が持てない。

今回の景品命名では、手っ取り早い安易な話題づくり──集客に走って、本質を軽んじているのではないか……という印象を受けた。プロともなると結局、そこなのかなぁ……と。テレビは「良い番組作り」より「視聴率のとれる番組作り」に走ったことで質を落としたと僕は考えているが、それに似たような感じがしないでもない。
きっと色々な意見はあるのだろうが、ここで議論するつもりはない。「僕は、こう感じた」という話。


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カギバラバチ:大量微小卵のナゼ?

キスジセアカカギバラバチの微小卵に思う







前の記事でも記したキスジセアカカギバラバチ──1年前は確認できなかった超極小の卵を今回なんとか確認し、その小ささ(0.12mmほどだそうな)にあらためて驚かされた。そしてふと、寄生蜂でありながら、(寄主に直接産卵するのではなく)大半が無駄になるのを覚悟の上(?)で、大量の微小卵を葉に産みつけていくのはなぜだろう……と疑問に思った。

この疑問をきっかけに、あれこれ考えたことを少し記してみる。ド素人が自分の狭い知識の中で合理的な解釈を模索した──という脳内シミュレーションで、実際の進化がどうだったのかとは別の話。「昆虫を見て不思議に思ったことについて、自分なりの解釈を考えてみた」というハナシである。

さて、カギバラバチの生態をおさらいすると……母蜂は葉に大量の微小卵を産みつけてまわる。卵が、その葉を食草とするイモムシ(チョウや蛾の幼虫)に(葉といっしょに)呑みこまれ、そしてなおかつ、そのイモムシ体内に(たまたま?)寄生していた別の寄生蜂や寄生蠅がいて、これに二次寄生(二重寄生)することができた場合に限って、初めて成長することができるという。《一見、非効率的な生活史を選択した》かに思われがちだが、もちろんそんなことはないだろう。
1つの卵に着目すれば成虫にまで育つことができる確率は確かに低そうだ。しかし、それをおぎなうため、大量の卵を産みつけ、確率の分母をふやすことで採算をとっているのだろう──最初はそう考えた。

しかしよく考えてみると、《成虫達成率が低いスタイルをおぎなうために大量の卵を産むようになった》という泥縄の因果関係は成立し得ない。
大量の卵を産むことができるように進化するには、それなりの時間が必要だったはずで、カギバラバチのようなスタイル(成長過程)のハチが出現したとき、まだ《大量の卵を産む》ことができていなければ、その時点で生存率は維持できなくなり存続し続けることはできなかったはず──《成虫達成率が低いスタイル》を《おぎなうための進化をとげる猶予》などなかったはずだ。
ということは、現在のような寄生スタイルを獲得した時点ではすでに《大量の微小卵を葉に産みつける》ように進化を遂げていた──と考えないとつじつまが合わない。

そもそも、他の虫に寄生するのなら、餌となりうる虫に直接卵を産みつければよさそうな気がしないでもない。実際、蛾の幼虫に寄生するコマユバチなどは母蜂が直接、寄主(宿主)のイモムシに卵を産みつける。これなら、卵が無駄にならず効率的だ。イモムシ体内で孵化し育ったコマユバチ幼虫が寄主の体を破って繭を連ねる──そんな光景が思い浮かぶ↓。


これはカラスヨトウ(蛾)の幼虫に寄生したコマユバチ(の仲間)の蛹だろう。こうしたスタイル──イモムシに直接卵を産みつける寄生蜂がいるのに、カギバラバチはなぜ、わざわざ(?)大半が無駄になることを覚悟で(?)、大量の卵を葉に産みつけるという、一見、非効率のようにも見えるスタイルをとっているのだろう?
進化の中で「わざわざ生存率を下げる(非効率的な)選択肢」が選ばれるわけがない。カギバラバチのスタイルも、進化の途上で合理的な(効率的な)選択がなされた結果でなければおかしい。

寄生蜂誕生の仮想シナリオ

進化の歴史の中で、地上に植物があふれるようになった時代(?)を想像してみる。豊富な植物を資源に使うことができれば繁栄できる──ということで植物食の昆虫たちも多く誕生しただろう。そして植物食の昆虫がどんどん増えていき、その中で生存競争が起こるようになる……。
そこでまず考えられる生存戦略が、他の種類より卵を多く産むことだ。生産する卵の数(の多さ)で資源の支配率を高めようとするスタイル。1匹の♀の体の大きさには限度があるだろうから、生産できる物理的な量にも限度がある。卵の数を増やすには1つの卵の容積を小さくする必要がでてくる。
そうした理由から《卵のサイズを小型化し大量生産する》──この戦略路線が採られたのは自然のことだろうと想像する。

ただ、卵が小さくなると、同じ資源(葉)で競争している大きな種とかちあったときに、食い殺されてしまうというデメリットが発生したに違いない。
小さな卵が大きな種類のイモムシに食われてしまうことが頻繁に起こるようになると、その中から、大きな種のイモムシの体内で孵化し、イモムシが体内に取り込んだ葉(小さな種の食草でもある)を食べて育つものが誕生したとしても、さほど不思議ではあるまい。
そしてイモムシ体内で、より積極的に(?)イモムシを食うことにシフトするものがでてきたのではないだろうか? 植物の葉を分解して自分の体を再構築するよりは、自分に近い構成物である昆虫を分解して再構築する方が効率的なはずだ。

生物の体は資源(餌)を分解し自分の体に再構築する化学プラントみたいなものだろう。植物を資源にするより動物(イモムシ)を資源にした方が効率的で、プラントの設備もシンプル化できそうだ──餌を植物食から動物食にシフトすることで卵のサイズをさらにシンプル化=小型化できるようになったかもしれない。
卵の小型化は、産卵数を増やすという意味でも、大きな寄主に(無事に?)取り込まれやすくなるという意味でも生存率を高める利点になる。こうした理由で、《卵のサイズを小型化し大量生産する》という戦略路線が強化・加速していったのではないだろうか?

元々は葉を食べていたもの(で卵を小型化大量生産したもの)の中から、ホストをイモムシにシフトした寄生蜂が誕生した──こう考えれば、カギバラバチのように大量の微小卵を《葉に産みつける寄生蜂》がいることも説明できる。
《成虫達成率が低いスタイルをおぎなうために大量の卵を産むようになった》のではなく、《卵のサイズを小型化し大量生産する》という生存戦略がまずあって、その先に《他の種に食われることでその幼虫に寄生する》という新たな生存スタイルの道がひらけたのではないだろうか。
「大半の卵が無駄になる(成虫に至る事ができない)」という《一見すると非効率なスタイル》も、「わざわざ生存率を下げる選択肢を選んだ」などという非合理な解釈ではなく、生存率を高める戦略の選択の結果だと考えるのが妥当だろう。

カギバラバチの《一見すると非効率なスタイル》として、イモムシへの単純寄生ではなくイモムシの体内に(たまたま?)いた寄生蜂や寄生蠅に二次寄生(二重寄生)するという複雑なプロセスがあるが、このスタイルがどうして獲得されたのかについての仮想シナリオは前記事【美しき奇蜂キスジセアカカギバラバチ】の後半にも記した(なので、ここでは割愛)。カギバラバチが二次寄生するようになったのにもやはり合理的な理由があってのことだろうと僕は考えている。

卵を葉ではなく直接寄主に産みつけるコマユバチ

キスジセアカカギバラバチは葉から葉へと移動してせわしなく産卵行動をくり返していたが……では、コマユバチのように、寄主に直接産卵する寄生スタイルは、どのように誕生したのだろう。

《葉に卵を産みつける寄生蜂》は寄生スタイルを獲得する以前からの(葉を食べていた時代に食草に産卵していたときの?)先天的なプログラムで、葉に産卵する行動を受け継いでいる──と考えれば納得できる。
《寄主に直接産卵する寄生蜂》のスタイルは、成虫♀が産卵場所を選定するプログラムが、《「幼虫時代に自分が食してきたもの」を選択する》というものでとあったとすれば説明できそうだ。
元々葉を食べていた時代、幼虫は食べていた食草のニオイを記憶し、成虫になるとそのニオイのある葉をみつけて産卵していた──それがあるときイモムシの体内にとりこまれ、イモムシ食にシフトすることになったことで、イモムシのニオイを記憶し、それをたよりにイモムシを探して産卵するようになった……そんな解釈ができなくもない。
「イモムシを探しだす」のは「(そこらにたくさんある)葉に産卵する」よりも労力を要すことになるだろうが、卵が無駄になる可能性を低減できるのだから全体としてみれば効率的なはずた。進化の中で効率的なスタイルが選択されるのは理にかなっている。

セイボウはどうして他蜂の巣に托卵するようになったのか

今回、キスジセアカカギバラバチを見てふと頭に浮かんだのが宝石蜂といわれるセイボウ──これもキレイにしてユニークな寄生蜂だ。セイボウの仲間(の多く)は、他の蜂が(その蜂の子どものために)狩ってきた虫が貯えられた巣に潜入して産卵する。孵化したセイボウ幼虫は他の蜂が貯蔵した資源を横取りする形で育ち、成虫になると同じように托卵しに寄主の狩り蜂の巣にやってくる。


枯れ枝に残されたカミキリの脱出孔を巣にするヤマトフタスジスズバチ↑と、ようすをうかがうムツバセイボウ
ヤマトフタスジスズバチはイモムシ(蛾の幼虫)を狩って巣にたくわえ産卵する。貯蔵したイモムシはもちろんヤマトフタスジスズバチの孵化した幼虫のために集められたものだが、ムツバセイボウはその巣にしのびこんで卵を産みつける。孵化したムツバセイボウ幼虫はヤマトフタスジスズバチが集めたイモムシを食って育つ。


(※↑【ムツバセイボウふたたび】より)
セイボウの仲間が、他の蜂の巣に侵入して卵を産むのも、幼虫時代に自分が育った環境のニオイなどを記憶し、成虫♀になったとき、同様の環境を探して産卵するというプログラムであったとすれば説明がつく。
元々はセイボウもイモムシやクモなどの寄主に直接産卵するスタイルの寄生蜂だったのではないか。セイボウが卵を産みつけたイモムシやクモを他の狩り蜂が狩って巣に運び込むというようなこともあったろう。その巣の中で孵化したセイボウ幼虫は、その狩り蜂が集めた餌を食って育ち、その環境(他種の狩り蜂が集めた餌の貯蔵庫)を幼虫が育つべき適切な場所だと認識(という言葉は正しくないかもしれないが)して、自分が幼虫時代に育った環境を探して産卵するようになった……そんなシナリオが考えられる。

──というのが、ド素人の《頭の体操》。こうした考えは、確かめたり裏付ける検証実験をしたわけでもないし、これが正しいと信じているわけでもない。
今後観察例が増えたり、知識が増えていけば、その時点で新たな仮想シナリオを思いつくかもしれない。
実際のところ、どうなのか──《真相》にはもちろん興味のあるところだが、それよりまず自分が遭遇した《ふしぎ》に対し、自分は《どう解釈するか》──ということに僕は関心がある。
正しい答えは専門家が見つけて、既にどこかにあるかもしれない。が、すでに誰かが見つけた正解を探すより、まずは自分なりに納得しうる解釈を考えてみたい──そんな思いがあって、現段階で考えている解釈を記してみたしだい。


イラガセイボウの輝き再び

イラガセイボウふたたび・エメラルド&サファイアの輝き



先日、久しぶりにイラガセイボウを目にして記事にしたが、出会うときは出会うもので、その後また擬木でイラガセイボウを見つけた。
前回のイラガセイボウは翅を痛めていたが、この個体も翅を痛めている。そういえば過去にも翅を痛めたイラガセイボウを見たことがあった。イラガセイボウが翅を痛める原因についていくつかの可能性を想像してみたが確かなことはわからない。


今回もキラキラと輝く姿で、すぐにそれとわかった。第一印象は「そうそう! このきらめきなんだよな」──前回イラガセイボウを記事にしたときは、この輝きがうまく表現できていなかったが……再びイラガセイボウを目にして、この宝石のような輝きこそ、この昆虫の大きな見どころだ──という思いを強くした。この特徴をなんとか記録できないものか。


とはいっても前回キレイに撮れなかったものが、今回キレイに撮れるという自信はない。《キラキラ輝いている見た目そのもの》を画像に残すのは難しいが、それならばと《キラキラ輝いていることがわかる説明の素材》として画像を撮ってみることにした。
とりあえず日向で直射日光をあびて輝いているイラガセイボウを撮った画像↓。


セイボウの仲間は体全体に光の粒をまぶしたかのような光り方をする──これが美しいのだが、撮影するとエメラルドやサファイアのような緑~青の光の粒は飛んでしまい、画像上ではただの白い点になってしまう。
光沢昆虫は反射光がまぶしいためか露出がアンダーになり画面が暗くなりがちだが……とくに直射日光が当る日向では影とのコントラストがきつくなって、明るい部分は白く飛び、暗い部分は黒くつぶれてしまう。
実物はキラキラ輝いて見えるのに、画像にすると全然キレイではない↑。これでは輝きどころか体の基本色の美しさすら伝わらない。
ということで、体で直射日光を遮り影に入れて撮ってみたのが↓。


直射日光を遮ったことでイラガセイボウの影は消え、光源(太陽光)の直接反射もなくなり──コントラストの差が小さくなったことで基本の体色がよくわかる。これだけでも充分キレイなのだが、実際はこの体色の上に緑~青の輝きがプラスされているわけだ。
他にも条件を変えて撮ってみた画像の1つ↓。


白く飛んでしまいがちな緑~青の輝き(光のつぶ)に露出が合ったのだろうか。体表面にちりばめられた光の粒の色はわかるが、体の本来の色はつぶれて黒くなっている。まるで闇に乱舞するホタルの光のようだ。緑~青の輝きと体色の明るさには格差があって両方を同時にカメラで捉えるのは難しい──光の粒の美しさと体色の美しさは同一画面では表現できないということなのだろう。
カメラがカバーできない格差を生んでいるのが「光の粒」だが、それ自体が発光しているわけではない。これは反射光で、全身がキラキラ輝いて見えるのはセイボウの体の表面構造に関係している。


セイボウの仲間は点刻と呼ばれる小さな凹みが全身に密にほどこされている。この点刻ひとつひとつが、言わば凹面鏡のような役割りを果たし、どの角度から見ても凹みの中のどこかに光源を直接反射する点を有すことで「光の粒」が生み出されているようだ。
ふつう曲面で構成される昆虫の体で直接反射が見えるのは、光の入射角と反射角(見る角度)が一致する限定的なポイントのみだ。しかしセイボウの場合は全身にほどこされた点刻それぞれに(どの角度から見ても)反射面が含まれ、そこに「光の粒」が生まれる。


画像↑には直射日光は当っていないが、点刻ひとつひとつに明るい空(?)が写り込み光を反射しているのがわかる。この点刻内の反射光が「光の粒」となる。


日向では密集した点刻に直射日光が反射し、光の粒となって全身を飾って美しいことこの上ないのだが……実際に画像にすると↓。


生で実物を見たときのきらめきが再現できないのが残念だ……。
擬木の上では虫影が黒くつぶれがちなので、それを緩和するため、影の側にレフ板がわりにアルミシートを置いて撮ってみた画像↓。




撮影中、翅のグルーミングを始めたので、腹の背面がのぞいたシーンも↓。


本当はもっとキレイなのだが……デジカメ画像ではそれがカバーできない……逆にいうとヒトの目(&それを解析する脳)はそれだけ微細なところまで感知できるほど繊細だということでもあるのだろう。




──ということで、《キラキラ輝いている見た目そのもの》を写すことはできないが、実際は《キラキラ輝いていることがわかる》ような説明をしてみたつもり。
想像力でキラキラ感を補正して見ていただけたらと思う。


宝石の輝き!イラガセイボウ

エメラルドかサファイアか!?輝くイラガセイボウ



擬木の支柱のフチに宝石のように美しい虫がとまっていた。グリーン~ブルーのメタリックな輝き──すぐにセイボウと呼ばれる美麗蜂の仲間だとわかった。これまで見たセイボウに比べてずいぶん大きく感じ、オオセイボウかと思ったが、イラガセイボウ(イラガイツツバセイボウ)だった。
セイボウの仲間はとてもキレイなので、見つけると撮りたくなるのだが……たいていはせわしなく動きまわっていて、ろくに撮らせてもらえないことが多い。それが目の前でじっとしている──躍る心をおさえて、そっとカメラを近づけた。




よく見ると左の翅が大きく欠けている。このため飛翔できずに擬木の支柱に足止めされていたのだろう。
欠けた翅は痛々しいが、そのために通常なら翅でおおわれている美しい腹も広い範囲が見える。ふだんじっくり撮ることが難しいハチなだけに、この機会にしっかり撮らせてもらうことにした。






直径20mmの1円玉との比較↑。『月刊むし』472号 2010年6月《日本産セイボウ図鑑》(むし社)によれば、イラガセイボウの体長は9~12mm。イラガセイボウとしては大きめの個体だろう。
独特のキラキラ感をとらえようとシャッターを切り続けたが……パソコン画面で確認すると、やはり本物の輝きとはほど遠い……。光沢昆虫はそのきらめきを記録するのが難しいとわかっていても、やはりちょっと残念だ。毎度のことながら……実物はもっと美しい!




きらめくイラガセイボウにグッと寄ってみた。


緑~青(紫菫色)に輝く体表面には点刻と呼ばれる凹みが密集している。点刻は超小型の凹面鏡のようだ。この凹み1つ1つにどの角度からみても光を反射する点が存在しているのがわかる。
もし体表面が滑らかであったなら(光をよく反射する表面構造であっても)、光源(太陽など)が反射して輝いて見えるポイント(光の入射角と反射角が等しくなる部位)はごくわずかだろう。
セイボウでは体表面に密にほどこされた点刻の1つ1つが凹面鏡のように光を反射することで、体全体がキラキラと輝いて見えるのだろう。
このイラガセイボウは、翅を痛めて飛ぶことがままならないのに──あるいは飛ぶことがままならないからなのか……翅をつくろいはじめた↓。






腹部末端部にノコギリの歯のように尖った部分が見える↑。セイボウの仲間ではこの突起の数や形状が種類を見分ける手がかりのひとつとなる。イラガセイボウ(イラガイツツバセイボウ)は5つ(5歯)。ちなみに最初に間違えそうになった大型のオオセイボウでは4歯。僕が過去に見た種類では、ミドリセイボウが5歯・ツマアカセイボウは4歯・ムツバセイボウでは6歯。
擬木の上ではこの「歯」の部分がわかりにくいので、指にとまらせて「5歯」を確認↓。


セイボウの仲間はその美しさがまず目を引くが、生態も興味深い。《狩り蜂に寄生するハチ》──というのが基本のようだ。
クモや昆虫などを狩って幼虫の餌として貯蔵するカリバチの仲間──その巣に侵入し、カッコウ(鳥)のように托卵方式で卵を残すらしい。孵化したセイボウ幼虫はカリバチが我が子のために貯えておいた獲物やカリバチ幼虫を食べて成長するという。
だが、今回のイラガセイボウは例外的に(ハチではなく)イラガという蛾に寄生する。セイボウの中では珍しくハチではなくイラガに寄生するからイラガセイボウなのだろう。


宿主のイラガだか、幼虫は毒を持つ毛虫の筆頭に上げられることが多く、触れるととても痛いらしい。枝の股などに小鳥の卵のような(?)繭を作るが、この繭にイラガセイボウは卵を産みつける。


イラガセイボウは堅いイラガ(蛾)の繭に孔をあけて産卵する(産卵後、孔はふさがれる)。寄生されずに順調に羽化することができたイラガは繭の上部にきれいな円形の穴をあけて出てくるが、イラガセイボウが寄生し羽化した繭では、雑な脱出孔が残される。



今回みつけたイラガセイボウは、大きくて輝きも極上だったのに……翅が痛んでいたのは残念だった。しかし、それがなければこうしてじっくり撮ることもできなかったろう。
以前であったセイボウの仲間↓。どれも宝石のように美しい。






宝石蜂ムツバセイボウ待機中

宝石蜂!?ムツバセイボウ待機中











メタリックな青緑に輝くセイボウの仲間はみな鮮やかなのだが、赤系が入ったムツバセイボウは特にカラフル。腹に入った金属光沢の模様が光の加減や見る角度によって紅金色~オレンジ色~黄金色に変化してグラデーションが美しい。
なので見かけるとカメラを向けたくなるのだが、なかなかおとなしく撮らせてくれないことが多い。前回(輝くミドリセイボウ)も宿主を探して巡回中だったため、まともに撮ることができなかった。
今回も前回と同じ場所でムツバセイボウをみつけたが、やはり巡回中(せわしなく撮影は困難)だった。「きょうも撮らせてもらえないだろうなぁ」とあまり期待せずに見守っていると、宿主のヤマトフタスジスズバチがもぐり込んでいった材の近くに降りて《待機モード》に入った。グルーミングを始めたので、そっと近づき撮ることができた。








この日はムツバセイボウがきていた材の近くにヤマトタマムシの姿もあった。


光沢のある美麗昆虫といえばヤマトタマムシが思い浮かぶが、セイボウの仲間も(小さいながら)とても美しい。ということで過去に撮った他のセイボウ↓


宝石蜂セイボウの生活史起源考?の画像より