ユーザータグ : ショートショートの記事 (1/5)

座敷童子召喚グッズで大もうけ!?(SS)

トリックアート(1人増える騙し絵)とコラボのショートショート
座敷童子召喚グッスで大もうけ!? by 星谷 仁

 座敷童子(ざしきわらし/ざしきぼっこ)をご存知だろうか?
子どもたちが遊んでいると、いつの間にか1人増えている!? けれどその顔ぶれは、どれも最初からいた子ばかり。だれが「プラス1」なのか、わからない……そんなときは座敷童子がまじっているのだという。妖怪のたぐいではあるけれど、座敷童子が出る家は栄え、いなくなると衰退するといわれていて、ちょっと《福の神》みたいなところもある。

 顔ぶれは同じなのに人数だけが増えるという《プラス1現象(座敷童子現象)》は想像するのも難しい奇妙な現象だが……驚くなかれ! このほど僕は、これを再現することに成功した。
《座敷童子(ざしきわらし)召喚システム》──そう言ってもいいグッズの開発をなしとげたのである。
 これで福の神妖怪・座敷童子を招いてお金も招く──といった寸法だ。

 原理はさておき、グッズの仕組みは単純だ。図案化したイラストで説明しよう。透明なパネルに9人の子どもが正面を向いて描かれている。パネルを裏返すと9人の背面(後ろ姿)が描かれている。
01座敷童子SSA
02座敷童子SSB
 わかりやすいように、ここでは表面(正面姿)を黄色・裏面(後ろ姿)をで水色で示すことにする。表から見ても裏から見ても、描かれている子どもは9人であることに変わりはない。
 まずパネルの表面を出しておく。このパネル上に《プラス1(座敷童子)》を召喚して10人にするのだが……座敷童子はシャイなので、皆が正面を向いている間は出てこない。「だるまさんが転んだ」でオニが背を向けている間にさっと動いて近づくように、描かれた子どもたちが背を向けた瞬間に座敷童子は近づいてくる。
 正面を向いた子どもたち(の絵)を後に示す手順通りに、次々に後ろ向きにしていくと、全員が背を向けた瞬間に座敷童子はパネル上に出現し、9人だった子どもが10人に増殖する。
 何はともあれ、実際にご覧いただこう。パネルは3つのパーツに分割できる仕組みになっている。その分割線を描き入れたのがこちら⬇。
03座敷童子SSC
 まずは下半分のパーツを裏返しながら、「座敷童子招来!」と心で念じる。
04座敷童子SSD
 水色に裏返った部分では子どもたちは後ろ姿になっている。
 次に、左上の(黄色)パーツも「座敷童子招来!」と強く念じながら裏返す。
05座敷童子SSE
 最後に残っていいる右上の黄色部分も「座敷童子招来!」と裏返す──これで、描かれた子どもたちは全員後ろ向きになった。
06座敷童子SSF
 そこで人数を数えてみると──驚くなかれ、10人になっている!
 パネルを表向きにして確かめてみても、やはり10人になっている。
07座敷童子SSG
 ご覧いただいたように、何も描き足すこと無く、9人だった子どもが10人に増えている。誰が増えたのかもわからない。

 この《座敷童子召喚グッズ》を開発したことで、僕はお金持ちになった。
 このパネルを商品化して大ヒットしたのかだって? 違う、違う。そうじゃないんだ。
 絵に描いた9人の子どもに1人ずつ1万円を渡して後ろを向かせる──10人に増えたところで、それぞれが持っているお金を回収すれば、そのたびに1万円増えるという仕組み。これを繰り返せば、どんどんお金がたまる。増殖したお金をつぎ込めば、さらにお金が増えるというわけだ。座敷童子現象を利用しての荒稼ぎ。座敷童子がつく家は栄えるという言い伝えがあるけど、なるほど、こういうことだったのかと、笑いが止まらない。


    *    *    *    *    *    *

──というところまでがトリックアート(騙し絵)がらみのショートショート風作品。創作作品は縦書きにしているのだが、今回は横長のイラストが頻繁に入ることから横書きのままで掲載。もちろん、オチの──この方法で荒稼ぎすることは、実際にはできない。1人増えるトリックアートの仕組みについて興味がある方は、こちらをご覧あれ⬇。
01座敷童子騙し絵新A
人数が増減する騙し絵の簡単な解説より

《プラス1(座敷童子)現象》について
僕が座敷童子について知ったのが、いつのことだったのか……その状況はまるで覚えていないのだが、「1人ふえているのにそれが誰なのかわからない」という不思議な現象ばかりが強く印象に残ったことは記憶に残っている。これが宮沢賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』に出てくるエピソードだったと知ったのは、つい最近のことだった。

「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
 一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。
 どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。
 そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。
 けれどもだれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。
 (宮沢賢治・作『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』より)


とにかく、子どもの頃から、この謎めいた現象には興味があって、僕自身もこの現象を扱った座敷童子の話(創作)を書いている。
初めて書いたのが『ざしきぼっこの写真』(1990年12月/朝日小学生新聞)という読み切り童話だった。8人で遊んでいた子どもたちが、いつの間にか9人になっていることに気づき、座敷童子を写真に収めようと一人ずつ撮影する。間違いなく9枚撮ってスクープだと盛り上がるが……できてきた写真は8枚のみ。元からいた8人しか撮れてないのに撮影枚数だけが9枚になっていた……という《プラス1(座敷童子)現象》を確かめるだけに終わるというオチだった。
次に書いた『病院跡のざしきぼっこ』(1994年12月/朝日小学生新聞)は短期連載で、《プラス1(座敷童子)現象》の合理的解釈を試みた作品だった。その後もブログで何度か座敷童子ネタを取り上げていて、1人増えるトリックアート(騙し絵)も描いている。これをもう少し違った演出で表現できないか……と考えて思いついたのが、今回のショートショート風トリックアートだった。

トリックアート・ショートショートの意図
画像の一部を左右入れ替えることによって描かれた人物の数が変化するトリックアートはそれだけでも充分に面白いのだが……このトリックを成立させるために必要な「左右入れ替える」作業に何らかの意味なり必然性などを持たせることができないものか……それができれば、よりスマートに不思議を演出できる──と考えたのがきっかけ。
「左右入れ替えると面白いことが起こる」といった場合、「なんで左右入れ替えないといけないの?」という疑問が起こりうる。そういう疑問をさしはさむことなく「作者のたくらみ」に誘導することができれば、それに越したことはない──トリックアートの成立に必要な「左右の入れ替え」を意識させることなく「子どもに後ろを向かす」という陽動によってセットアップ(裏向きで左右の入れ替えを完了)する──今回はそんな狙いがあった。
これが果たして、どれだけ効果があったものか……。複雑にしたことでトリックのキレが悪くなってしまったという懸念も無きにしも非ず……。これだけでは心もとないので、《プラス1(座敷童子)現象》を利用したもうけ話というショートショート的なオチをつけてまとめてみたしだい。



病院跡のざしきぼっこ(創作)
境内の座敷童子(頭の体操)
ひとり多い!?座敷童子2題
ひとり増える!?座敷童子的トリックアート
1人増える!?トリックアート&解説
1人増える不思議な絵!?座敷童子の紙芝居
ちょっと怖い話!?かごめかごめ〜座敷童子
トイレの花子さんと座敷童子〜便所のモアイ像
トリックアート座敷童子は誰だ!?
人数が増減する騙し絵の簡単な解説
創作童話・ショートショート・漫画メニュー
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ
スポンサーサイト



トイレでタバコを吸わないで(ショートショート)

トイレで煙草を吸うと、おそろしいことが起こる……!?

01トイレ煙草1
02トイレ煙草2改
03トイレ煙草3改
04トイレ煙草4
05トイレ煙草5改

これは以前、某氏の日記で紹介されていた実際にあったトイレの貼紙(作中の文面は一部変更)から妄想した話。《トイレで喫煙》する不届きな愛煙家たちに対して、貼紙主は、どんな対抗措置を用意するのだろう……そう考えて、〝相応の報復〟──《喫煙室で排便》を思いついたしだい。
だいぶ前に4コママンガならぬ4コマ写真で記事にしたネタだが、それとは異なる演出で、あらためてショートショートの形にまとめてみた。四百字詰原稿用紙にして5枚ほどになった。例によって作品は縦書き画像にしてある。

※最後の部分に手直しを加えました(2020.06.06)



トイレの貼紙(4コマ写真)
実録『怪喜!笑い袋爺』(本当にあったおかしい話)
創作童話・ショートショート・漫画メニュー
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜

猫婆ちゃんのアルバイト(ショートショート)

ちょっとした思いつきを書きとめておいたまま埋もれていた作品。四百字詰原稿用紙で8枚半ほどのショートショート。

01猫婆ちゃん1
02猫婆ちゃん2
03猫婆ちゃん3
04猫婆ちゃん4
05猫婆ちゃん5
06猫婆ちゃん6
07猫婆ちゃん7
08猫婆ちゃん8
09猫婆ちゃん9

ネコ好きの知人がいて、そこから浮かんだジョークのような発想をまとめたもの。いちおうタイプしてパソコン内に保存していたが、そのままになっていた。
四百字詰原稿用紙(20字×20行)換算で8枚半ほどの作品だが、僕には《小説は縦書きが馴染む》という感覚があるので、縦書きの画像にしてある。ちなみに1段は四百字詰原稿用紙と同じ20字×20行の仕様だが、禁則処理のため字詰めが変わっている行もある。

僕のブログには創作作品も載せており、タイトル一覧ページを設けている⬇。
一覧のタイトルをクリックすると作品が開く。どの作品もそのページで読み切ることができる。連載や分載はない(発表時に短期連載した作品も1ページにまとめてある)。


創作童話・ショートショート・漫画メニュー


作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜

中学[作文]で書いた『六番目の感覚』

中学時代の科目【作文】で書いた掌篇の思い出
僕が通っていた中学校では【国語】とは別に【作文】の科目が週に1回あった。【国語】の授業は嫌いだったが【作文】はわりと楽しかった記憶がある。書くことが好きだとか得意だということではなかったのだが、何を書こうかと、あれこれ自由に考えをめぐらせるのが楽しかった気がする。
【作文】では、中学1年の初め頃に、いきなり(?)小説を書かされたことが印象に残っている。たしか「冬・海辺・犬」の3つの要素を入れるのが課題で、僕はクールを気取りながら哀愁漂う(?)野良犬の一人称で『オレは野良犬』という2枚弱の掌篇を書いた。中学2年のときにはユーモア小説のつもりで『ハム・スタ子と芳男』という5枚ほどの作品を書いている。当時飼っていたゴールデンハムスターを素材にしたものだった。そして中学3年のときには、SFジュブナイルのイメージで、テレパシー(超能力)を素材に『六番目の感覚』という、やはり5枚弱の掌篇小説を書いている。
いずれも中学校の【作文】の授業で書いた、劣等中学生の稚拙な作品なのだが、ふり返ってみると、なつかしい部分や後に書くことになるファンタジーの片鱗のようなものが感じられたりして「へえ!?」と思うところがある。
そこで、中3のときに書いた『六番目の感覚』を載せてみることにする。おかしなところもあるし、たあいもない話だが、《当時の作文》ということで、手を入れずに掲載する。

01六番目の感覚
02六番目の感覚
03六番目の感覚
04六番目の感覚
05六番目の感覚

『六番目の感覚』は五感を越えた感覚──テレパシー(超能力)を素材にしたSFのつもりで書いた作品。しかし、作中では、それが本当にテレパシーなのか単なる主人公の想像(思い込み)なのか明確にしてない。超能力へのあこがれを抱いた少年の平凡な日常の一場面のようにも読める。この、現実なのか幻想(SF)なのか、にわかにわからない微妙な現象を僕は好む傾向にあるようだ。その後も《日常の中にまぎれこんだあわい幻想》のような作品をいくつか描いている。
『六番目の感覚』では、《主人公の心の声(テレパシー)》は相手に届くことなく終わっている。この《主人公の心の声》が不思議な現象を介して《相手に届く》という発展型バージョン(?)が、『雨の日の通信』という見方もできる──ということに最近、気がついた。『雨の日の通信』は日常を舞台とするファンタジーとして創作しており、執筆時には『六番目の感覚』のこともSFも頭にはなかったのだが、日常の中の非日常現象として《ふしぎな交信》を描いているところは両作品に共通するイメージが感じられる。『雨の日の通信』では『六番目の感覚』で成立しなかった《ふしぎな交信》がいっとき成立するが、ただ、それだけのたあいもない話である。当時はまだ携帯電話など普及しておらず、移動中に《通話》することなどできなかったから、そういった意味でも《ふしぎな交信》には新鮮味・ある種の開放感のようなものがあったように思う。
そして、こうした《ふしぎな交信》が成立したさいに、さらにそのことに付加価値を持たせることを──《ふしぎな交信》によってもたらされる重要な役割り(交通事故の回避)を考えて創作したのが、先日投稿した『ポストの電話』だった──と、そんな見方もできなくはない。これも最近、気がついたことだ。ただ、『ポストの電話』では《ふしぎな交信》に附加する意義付けに凝るあまり(?)現象が少々ややこしくて読者にはわかりづらかったのではないか……という反省がある。
いずれにしても執筆当時には気づかなかったが、『六番目の感覚』の発展型が『雨の日の通信』で、さらにその発展型が『ポストの電話』につながっているとみることもできる。
さらにいえば──『ポストの電話』は、みくに出版が主催するコンクールで、運良く入賞することができたために、その縁で、コンクール・協賛の日能研から依頼を受けて『とどけられたポケッチ』という作品を書いている──これは小3国語のオープンテストの設問用ということで、かなり細かい条件のもとで作った《仕様》なので、この依頼がなければけっして書くことがなかった作品だといえる。【国語】嫌いだった僕が、国語のテスト用の作品を書くことになろうとは……妙なめぐり合わせだが、そういう意味では『とどけられたポケッチ』も『ポストの電話』〝つながり〟で誕生した作品だった。


06雨ポストぽけっち
雨の日の通信(掌篇ファンタジー)
ポストの電話(読み切り童話)
とどけられたポケッチ(読み切り童話)

創作童話・ショートショート・漫画メニュー
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜

一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出

『一切れのパン』と『最後の一葉』:教科書の思い出
01最後の一葉

宮沢賢治の『やまなし』など、「どうしてこれが教科書に採用されたのか?」と不思議に感じる昨今。そもそも教科書へ収載する作品の選定基準がよくわからない。本来、(童話を含む)小説は「楽しく読む」べきものだと思うのだが、僕は教科書で読んだ小説を楽しいと感じたことがほとんどない。これは作品が面白くなかったというより、「勉学のまな板の上で調理されること」に抵抗感があったためだろう。授業で取り上げられる作品には「教材となった意義付けを忖度する」読み方が求められているような気がして、窮屈な印象があった。
しかし、そんな僕にも、教科書に取り上げられていながら(?)「面白い!」と感銘を受けた小説が2つある。F・ムンテヤーヌの『一切れのパン』とO・ヘンリーによる『最後の一葉』である。

『一切れのパン』@国語教科書の思い出
『一切れのパン』は中学生時代に国語の教科書で読んだ記憶がある。卒業後、同級生との間でこの作品が話題になったこともある。僕も級友も、タイトルや感銘を受けた内容──最後のセリフなどは覚えていたが、僕は作者が誰だか失念していた。友人はO・ヘンリーの作品だと思っていたようだ。その頃はまだインターネットもなく手軽に検索で確かめることができなかったので、本屋でO・ヘンリーの短編集を手にとり、目次を探して「ないなぁ……」と首をかしげていたこともあった。作者がフランチスク・ムンテヤーヌというルーマニアの作家だったと知ったのはだいぶ後になってからだ。

記憶の中のあらすじをざっと記すと──、
戦時下で、敵国軍に捕えられた主人公が、貨物列車から脱走して飢えと闘いながら自宅に帰り着くまでの話で、主人公は脱走する時にラビという老人からハンカチに包まれた《一切れのパン》を渡される。そのとき、「パンを一切れ持っている」という思いが飢えと闘う勇気となるから、パンはすぐに食べずに持っていることが大切だ・誘惑に負けないようにハンカチに包んだまま持っているようにと諭される。
主人公は飢えと闘いながら、危ういところでラビの忠告を守り、なんとか家に帰りつくことができる。主人公を支えた一切れのパン──しかしハンカチから出て来たのは一片の木切れだった──予想もしなかったラスト・シーンで主人公の口から漏れた「ありがとう、ラビ」の言葉が強く印象に残っている。
ラビからもらった一切れのパンの存在が主人公を支え、帰還をかなえる命綱となったわけだが、そんなパンなど、最初から存在していなかった──パンではなくラビの知恵が主人公を支え、救ったのだという意外性が衝撃的だった。

『最後の一葉』は《よい話(美談)》ではなく《皮肉な話》
『最後の一葉』の方は、確か英語の教科書に載っていたように思う。僕は英語が(も)苦手で、予習も全くしなかったから、授業中に少しずつ明らかになる内容で結末に至るまで、かなり時間をかけて小出しに知っていった気がする。
『一切れのパン』の方は【国語】の教科書に載っていたので(日本語で書かれていたので)、自力で読み進むことができ、ラストのあざやかな意外性に感銘を受けることができたが、『最後の一葉』は内容を細切れに知っていったので、当初あまり関心が持てなかった。ようやくオチの部分にたどりついたところで、「あれ? この作品、おもしろいぞ!」と、やっと気がついた。その後、O・ヘンリーの短編集を買って(日本語訳で)『最後の一葉』を読み直した記憶がある。英語の教科書によってこの傑作に出会えた──という形ではあるけれど、最初から翻訳作品に出会えていれば──全体を通して読んでいれば、第一印象の感銘はもっと大きかったろうに──と残念に思ったものである。

おそらく多くの人が知っているだろうが、『最後の一葉』の概要を記すと──、
共同でアトリエを借りているスーのルームメイト=ジョンジー(ジョアンナ)は重い肺炎を患い、医師から「生きる気力」の有無が生死を分けると言われる。しかし疲弊したジョンジーは、窓から見える壁にはったツタの葉が落ちるようすを眺めているうちに、すべての葉が落ちた時に自分の命も尽きるのだと思い込んでしまう。《葉が全て落ちたとき=ジョンジーの死》という《幻想》にとりつかれた彼女のことを知った階下の老画家くずれ=ベアマンは、バカげた想像だとののしるが、ジョンジーの思い込みを逆手にとって《落葉を阻止する(ツタがはう壁にダミーの葉を描く)》ことで《ジョンジーの死を阻止する》ことを企てる──この意表を突いた着想が素晴らしい。そしてベアマンの思惑通り、ジョンジーは持ち直す。
『一切れのパン』では現実には存在しない一切れのパン(ラビの嘘が)主人公を救ったが、『最後の一葉』では現実には残っていなかった最後の一葉(ベアマンが描いた絵)がジョンジーを救うことになった──《虚構が現実を動かす力になる》といったところに共通の面白さを感じる。
『最後の一葉』の場合は、ジョンジーのネガティブな《幻想(思い込み)》を利用して、逆にポジティプな《現実化》をはかるという工夫がおもしろい。更に──「狙いどおりにジョンジーの運命を変える工作に成功したベアマンだったが、彼自身が予想外の肺炎にかかって死ぬことになる」という《意外性》がダメを押す。運命のある局面を都合良く改変することができたとしても別の局面でツケが回ってくる──そんな《皮肉》を感じさせる《作者のたくらみ》に深い味わいを感じる。
この作品の素晴らしいところは、ジョンジーの命を救った最後の一葉が、実はベアマンが描いた絵であり、雨の中でこれを描いたベアマンが肺炎にかかって死んだことがラスト・シーンで一気に読者に明かされるというみごとな構成にある。鮮やかな幕切れが強い余韻となって読者に感銘を与える。

この作品を何年生の時の教科書で知ったのか、確かめてみようと思って検索してみたが、わからなかった。いくつかのサイトを閲覧していて知ったのだが、『最後の一葉』は小学校の道徳教科書にも収載されていたらしい。そして、この作品について《自己犠牲を描いた作品》という評価があることに驚いた。どうやら《老画家の自己犠牲が若い女性の命を救った話》だとか《長い間世間に認められる絵を描くことができなかった老画家(ベアマン)が、無欲に1人の女性を救うために描いたことで、人生の最後にして最高傑作の絵を描くことができた》というような《美談》として読んだ人も多かったようだ。言われてみれば確かに「そういう解釈」もできなくはないのかもしれないし、どう感じるかは読者の勝手なわけだが……僕がうけた感銘からすれば「作品のおもしろさ(作品の趣旨・趣向)」はそこではないだろう」ということになる。この作品の面白さは《意外性》にあって、《運命の皮肉》を描いた作品だと僕は感じた。『最後の一葉』の本質は《美談(よい話)》ではなく《皮肉な話》である。作品の構造上、O・ヘンリーも、それを意図して書いたのだと思う。

『最後の一葉』の改変版!?
『最後の一葉』の最大の見せ場は、真相が一気に明らかになるラスト・シーン──スーがジョンジーに真相を語る場面で、そこで読者も真相を知らされ、あっと驚くことになるわけだが……ところが、この結末に不満を感じた人もいるらしい。
「スーがジョンジーにわざわざ真相を打ち明ける必要はなかった。知らされたジョンジーには、自分の身代わりになって死んだベアマンのことが生涯の重荷となる」という複雑な思いにとらわれた人もいたようだ。しかしこれは、この作品を《美談》としてとらえている(とらえようとしている)からから生じる「割り切れなさ」だろう。スーが打ち明けようが打ち明けまいが、やがてジョンジーにも(風にも揺れずいつまでも形を変えない)不自然な葉がダミーであることはわかるはずで、階下の老画家がどのような状況で肺炎にかかったのか、耳に入らぬはずはない。ジョンジーが真相を知らずにすむという《きれいごと》の結末は不自然であり不合理なのだ。作品としては、《スーがジョンジーに語ることで読者に真相を、一番インパクトのあるタイミングで明かす》ラストシーンは必然にして、この上ないものである。この作品を《美談》という解釈ではなく、《皮肉》を描いた作品であるととらえれば、きれいに割り切れる、理にかなったみごとな結末といえる。

しかし、実際にこの作品を《美談》として偏向的解釈をしたがる人は多いのかもしれない。絶妙のラストシーンを《きれいごと》──「ジョンジーの身代わりとなってベアマンが死んだこと」をスーがジョンジーに告げない結末に改変した出版物も存在する。PHP文庫の『まんがで蘇るO・ヘンリー傑作選』(監修:齋藤 孝/『最後の一葉』を描いた漫画家は工藤ケン)がそれだ。
改変版マンガのラスト・シーンは、スーの《真相は自分だけの秘密として胸にしまっておく(ジョンジーには隠しておく)》という主旨のモノローグで終わっている。このよけいな「配慮」を持ち込んだおかげで、最大の見せ場であるはずのラスト・シーンの意外性・インパクト・切れは鈍り、効果抜群の余韻に水をさした格好である。
また、ラストシーンに「配慮」を持ってくるために、真相(ベアマンが雨の中で壁に葉を描いていたこと)を前倒しして(?)事前に読者にバラしてしまうという愚行もおかしている。
しかも前述した通り、元気になったジョンジーが真相に気づかぬはずはなく、「スーだけの秘密としておく」という結末は成立しない。改変マンガは、緻密な計算で構築された原作小説を《きれいごと》でまとめようとして台無しにした感がある。そこまで無理して、どうして《美談》にしたがるのだろうか?
小説を読んで、誰がどう感じるかは、その人の自由だ。しかし、それぞれ解釈・感じ方がすべて正しいということにはならない。妥当な評価ばかりでなく、的外れであったり不合理な解釈もけっして少なくない。

『最後の一葉』が小学校の道徳の教科書にも採用されていたと知って、ちょっと気になることがある。この作品が偏向した解釈で選定され、子どもたちにも的外れな解釈をミスリードするような指導が行われているのではないか……という危惧である。
『最後の一葉』が小学道徳の教科書に採用されたのは《自己犠牲の尊さをうったえた美談》という意義付け(解釈)があったのではあるまいか?
そう考えると、《自己犠牲の精神を標榜する作家》である宮沢賢治の作品が教科書に多く採用されている傾向と、同じ軌道上にあるようにも思われる。
小説が教科書に載り、授業でとりあつかわれることになると、生徒は(先生も?)そこに道徳的意義付けをみいだそうとして「忖度する読書」をすることになり、《美談》にミスリードされがちになるのではないか……そんなことがあれば、作品の真の価値を見誤ることになる。
教科書へ収載する小説の選定をする人、現場で子どもたちを指導する教師が、本当に作品の本質を理解しているのか、気になるところである。


なじめなかった『よだかの星』
宮沢賢治『やまなし』とクラムボン
宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想


作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜