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『不思議だらけ カブトムシ図鑑』と《角のジレンマ》

01甲虫図鑑表紙
『不思議だらけ カブトムシ図鑑』(小島 渉・著/じゅえき太郎・絵/彩図社)という本を読んだ。5年ほど前に《カブトムシの角は、雄同士の闘争では長い方がよく、天敵から食われるのを避けるには短い方がよい、という深刻なジレンマを抱え込んでいることことがわかった》という研究が報じられ、疑問に感じていたことがあったのだが(*)、この《カブトムシの角のジレンマ》の研究者が、本書『不思議だらけ カブトムシ図鑑』の著者・小島渉氏である。最近、小島氏がカブトムシに関する本をいくつか上梓されていることを知って、《角のジレンマ》についての言及もあるのではないかと期待して最新刊(2019年7月発行)と思われる本書を入手したしだい。読書の動機が《カブトムシの角のジレンマ》についての興味(というより疑問)からだったので、その視点で少し感想を記してみたい。
02カブトムシ♂角比較

カブトムシの《角のジレンマ》について──、
まず、僕が感じた疑問について、どういう記事を読んでどう感じたか──その経緯を記しておく。
2014年3月に報じられた【カブトムシの角は矛盾だった】という記事から趣旨のロジックを構成する部分の抜粋してみると──⬇。


カブトムシの雄の角は、雄同士の闘争では長い方がよく、天敵から食われるのを避けるには短い方がよい、という深刻なジレンマを抱え込んでいることを、東京大学総合文化研究科の小島渉(こじま わたる)学振特別研究員らが見つけた。

研究グループは「カブトムシの角の進化に天敵がどう影響したかを探る手がかり」としている。

長い角をもつ雄は、雌やえさの獲得などの雄同士の闘争で力の強さをあらわす目印として知られている。その一方で、天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる。角の長さを追求すれば、天敵に食べられやすいという矛盾があったといえる。

関東地方では、タヌキこそがカブトムシの天敵といえる。また、タヌキやハシブトガラスは、カブトムシの雌よりも雄を、さらに角の短い雄よりも角の長い雄を多く捕食していた。

(小島渉さんは)「タヌキは目が悪いが、角も入れれば体長が7センチもあるカブトムシの雄は目立つので、食べやすいのだろう」と話している。また石川幸男教授は「カブトムシの雄の角は長すぎても、短すぎても、都合が悪い。進化の過程で、ちょうど折り合いのよい長さになっているのだろう」と指摘している。


つまり、生存競争の中で有利と考えられていたオスの特徴である「長いツノ」が、目立つことで天敵にみつかりやすくなり、捕食圧を高める(生存競争に不利となる?)側面も持っていた──という意外性のある発見である。カブトムシのユニークなツノがどのように進化してきたのかというのは、興味深いテーマだ。キャッチの良い《角のジレンマ》は複数のメディアで報じられていた。

さて、《(捕食者が)カブトムシの雌よりも雄を、さらに角の短い雄よりも角の長い雄を多く捕食していた》ことがなぜ判ったのかというと、《カブトムシの活動がピークとなる深夜の午前0~2時ごろにはタヌキが樹液を訪れて食べていた》ことをつきとめ、その残骸(タヌキはカブトムシの中胸〜腹を食い、上半身を残す)を調べた結果、トラップで採集したカブトムシの性比やツノの長さに比べて、オスが多く、ツノの長いオスの割合が多いことが確認されたからだという。この調査結果から《長いツノを持つオスは天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる》という結論に至ったらしい。
僕はこの解釈に疑問を感じた。タヌキが樹液ポイントに現われる午前0~2時ごろといえば、カブトムシの活動が盛んな時間帯で樹液ポイントには多くのカブトムシが集中する。そのため餌場争いに勝ち残った(ケンカに強い)ツノの長いオスが多く居座っているいるはずで、タヌキが食ったカブトムシにツノの長いオスが多かったという結果は当然だろう。
また、目が悪いタヌキが、深夜の雑木林の暗がりで、カブトムシのツノのわずかな長さの差で獲物を識別(?)しているというのもおかしな話だ。僕が飼っていたフェレットが、死角にかくれたカブトムシや土にもぐって見えなかったカブトムシを嗅覚で探り出したように(*)、タヌキだって、そこにカブトムシがいれば(ツノがあろうがなかろうが)嗅覚をたよりに獲物をみつけだすことができるはずだ。嗅覚に劣るヒトでも充分に感じるカブトムシのニオイをイヌ科のタヌキが見落とすはずがない。
だから「ツノの長いオスがタヌキに見つかりやすい」という解釈は納得できない──僕はそう思っていた。しかし、《カブトムシの角のジレンマ》はNHKのニュースでも報じられ、Wikipedia【カブトムシ】にも《角は長いほどオス同士の闘争の際に有利になる反面、タヌキやハシブトガラスといった天敵に捕食されるのを避けるには短い方が有利であることが研究で明らかになっている》と解説されている。

《天敵に捕食されるのを避けるには短い方が有利》という解釈は強引すぎる……僕にはそう思えてならないのだが、僕が読んだニュース記事は、研究論文そのもの(発表されたのは日本動物学会英文誌3月号)ではない。この研究にたずさわった小島氏らは、どうして、こんな解釈に至ったのだろう?──その点も不思議に感じていた。
そして先日、公益社団法人日本動物学会のトピックスで、この研究のことだと思われる記事を見つけた。【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】という日本語タイトルがつけられていた。この論文(Rhinoceros Beetles Suffer Male-Biased Predation by Mammalian and Avian Predators)は《筆者たちは、日本に生息するカブトムシについて、野外調査と野外実験を実施することによって、オスの方が捕食圧が高いことを示すデータを報告した。また、主要な捕食者も同定した。これは、装飾を持つオスの方が生存にとって不利であるという仮説と合致しており、日本人にとって親しみ深いカブトムシの角の進化機構を理解する上での貴重な基盤情報である》として、日本動物学会の2015年度論文賞を受賞していた。
しかし、この記事を読んでみると、僕が当初知ったニュース記事とはニュアンスが微妙に(?)違っていた。【カブトムシの角は矛盾だった】という報道記事はタイトルにあるようにカブトムシの「ツノ」のジレンマが核心だった。ところが、【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】では、ツノのジレンマがでてこない。報道記事では「ツノの長さ」が問題にされていたのに、日本動物学会トピックスの記事では、これが「体の大きさ」に置き換わって(?)いて、微妙に論点がずらされている感じがする。「長いツノは目立つことで最大の捕食者であるタヌキに発見されやすくなる(ことで捕食圧が高まる)」としていた部分は、「タヌキが捕食した残骸には大型オスが多かった」ということになっており(大型♂の割合が多かったのはタヌキによる選択と特定せず、その時間帯に大型♂が多かったという可能性を許容)、その上で(理由の如何を問わず?)《大きく角の長いオスに対する高い捕食圧は性淘汰圧と拮抗的にはたらくことで、オスの性的な形質の進化に影響を及ぼす可能性があります》と、まとめている。《オスの性的な形質の進化》という表現に《ツノのジレンマ》のなごり(?)を感じるが、【カブトムシの角は矛盾だった】の報道後に、解釈の不備に気づいて、とりつくろった印象がなくもない?
それとも、論文の内容は最初からこの通りで、【カブトムシの角は矛盾だった】で報じられた《ツノのジレンマ》は報道メディア側の誤認だったのだろうか?
このあたりに釈然としないものを感じて記したのが前の記事【《カブトムシの角は矛盾だった》のか?】だった。その後、小島氏がカブトムシに関する本をいくつか上梓していることを知って、この件に言及があるのかどうか──読んでみたくなったわけである。


『不思議だらけ カブトムシ図鑑』に書かれていたこと
この本が出版されたのは今年(2019年)の7月。《カブトムシのツノのジレンマ》のニュースが報じられて5年ほど経っているわけだが……捕食されたカブトムシの残骸から確かめられた(?)《ツノのジレンマ》に該当する部分はあっさりめの扱いだった。『不思議だらけ カブトムシ図鑑』では「第2章 オスはなぜ角を持つ?」>「14 小型カブトムシの生き残り戦略」の中の【目立たないからこそ生き残れる】という小見出しの部分で出てくる。

拾い集めた残骸と、まわりで採集した生きている個体の形態を比較すれば、捕食に遭いやすい個体の特徴が分かるのではないかと、筆者らは考えた。(P.102)

捕食されたカブトムシの残骸を調べて、何か偏りがあれば、それが捕食に遭いやすい特徴だと考えたくなるのは理解できる。
──ということで、比較用にトラップで《生きている個体》を採集しているのだが……トラップを採用した理由について、こんな記述がある⬇。


樹液場などの餌場で採集すると、何時頃に採集するかで小型オス、大型オスやメスの割合が変わってしまう恐れがあるが、トラップを使えば、一度入った個体は二度と外に出られないため、その雑木林に生息する、小型オス、大型オス、メスの割合を高い精度で推定できるのである。(P.102)

樹液ポイントに集まるカブトムシの性比や小型♂・大型♂の割合が「時間帯」で変わってしまうことを、本書ではちゃんと記してあった。
捕食のために樹液ポイントを訪れるタヌキの時間帯については──、


 タヌキがやってくるのは、たいてい、カブトムシの活動がピークとなる深夜0〜3時ごろだった。また、夏の間に限り、タヌキは毎晩のように樹液へ通ってきていることも分かり、カブトムシを相当気に入っているようだった。(P.63)

と記されており、その時間帯に現れるカブトムシの特徴についても記述がある。

カブトムシの大型のオスと小型のオスでは樹液場にやってくる時間が違うことが知られている。大型のオスは深夜0時から3時ごろに樹液場での個体数が最大となる。ちょうどメスの活動が最も盛んな時間帯であり、大型のオスもそれに合わせているようだ。
 一方、小型オスはその少し前、22時から0時ごろに樹液場での個体数が最大となる。これは、大型オスとの戦いを避けるための行動であると解釈できる。小型オスが現れる時間帯はメスもまだ少ないが、大型オスとけんかになるよりはマシなのである。(P.100)


つまり、本書を読む限り、タヌキが樹液ポイントを訪れる深夜0~3時頃にツノの長い大型オスが多かったのは当然ということになり、僕が当初感じた疑問に合致する。タヌキによる捕食残骸に大型のオスが多かったのはツノの長さに起因するもの(長い角が天敵に目立ちすぎるため)ではなく、狩りの時間帯によるものだと解釈をするのが妥当のように思われる……のだが、本書には次のような可能性が挙げられていた。

 なぜ大型のオスが食べられやすいかについては不明だが、いくつかの可能性が考えられる。
 まずは何といっても、目立つということが挙げられる。特にタヌキは目がかなり悪く、撮影された映像からも、探るようにしてカブトムシを見つけ出している様子が見て取れた。そのような捕食者にとっては、オスの持つ大きな角はいい〝目印〟になってしまうかもしれない。
 また、大型オスはメスを探して樹液場の周りを徘徊する習性があるが、このような行動も捕食者の目に留まりやすい可能性がある。
 他の可能性として、大型オスは樹液場に長時間居座るから、捕食に遭う確率が高くなるということも考えられる。小型オスは樹液場の間を飛び回っている時間が相対的に長いのであれば、樹液場で捕食に遭う確率は下がるはずである。
 理由については今後さらなる研究が必要だが、小型のオスは大型のオスよりも結果的に捕食に遭いづらくなるということは間違いなさそうだ。(P.104〜P.105)


《大型オスは樹液場に長時間居座るから、捕食に遭う確率が高くなるということも考えられる》という妥当な解釈を加えつつ、《まずは何といっても、目立つということが挙げられる》として《(捕食者にとって)オスの持つ大きな角はいい〝目印〟になってしまうかもしれない》という解釈を真っ先に挙げているのが不可解だ。《特にタヌキは目がかなり悪く、撮影された映像からも、探るようにしてカブトムシを見つけ出している様子が見て取れた》とあるが、目が悪いタヌキが深夜の雑木林でカブトムシのツノを〝目印〟にしているとは考えにくい。嗅覚をたよりに餌を探し当てているはずで、この嗅ぎ当てているようすが《探るようにしてカブトムシを見つけ出している様子》に見えたのだろう。《長いツノが深夜の雑木林で視覚的〝目印〟になるかもしれない》という解釈には無理を感じる。しかし、この可能性を否定してしまうと、当初話題になった《ツノのジレンマ》のロジックが壊れてしまうことになる。それで論文発表当時との整合性を保つために「長い角が〝目印〟となって捕食圧が高まる」という可能性を残しておきたかったのではないか? 普通に考えれば、角の長さのわずかな差が、深夜の雑木林で、目の悪いタヌキの〝目印〟になるなどとは、とても思えないが(そんな〝目印〟など無くても、そこにカブトムシがいればタヌキは嗅覚で嗅ぎ当てられるはず)、それでも「角の長さの差は〝目印〟にならないことが科学的に証明されない限り」は《可能性》として残しておけるという理屈なのだろうか?

《角のジレンマ》が報道されたときには《カブトムシの角の進化に天敵がどう影響したかを探る手がかり》と自賛し、日本動物学会の2015年度論文賞の受賞理由でも《大きく角の長いオスに対する高い捕食圧は性淘汰圧と拮抗的にはたらくことで、オスの性的な形質の進化に影響を及ぼす可能性があります》と研究の意義が強調されていたが、『不思議だらけ カブトムシ図鑑』では、そうした進化レベルのアピールはなりをひそめ、《小型のオスでも得をすることがある(タヌキに食べられる可能性が大型のオスに比べると小さい)》という個体レベルの話にとどまっている。

本書では《理由については今後さらなる研究が必要だが、小型のオスは大型のオスよりも結果的に捕食に遭いづらくなるということは間違いなさそうだ》という結論で捕食圧のツノ進化への影響を示唆しているようにも読めるが、小島氏らが《大型♂が食われる割合が多い》と確かめたのは、タヌキが通う樹液ポイントに限ってのことだったのではないのか? 競争が激しい樹液ポイントからあぶれた小型のオスは拡散し、その先々で捕食されているかもしれないし、夜間、餌にありつけなかった小型オスは日中活動することになり、カラス等に捕食されやすくなるということだってあるかもしれない。樹液ポイント近くにまとまっている捕食残骸は見つけやすいが、密度の低いところにある残骸までくまなく調査するのは不可能だろう。『不思議だらけ カブトムシ図鑑』では──、


野外で採集したカブトムシに標識したのち放し、再捕獲率を調べると、小型オスの方が再捕獲率が低いことが分かっている。(P.101)

とも記されている。あるいは(調査した樹液ポイント以外で)捕食される機会が多いことで再捕獲率が低いという可能性も考えられないではない?
実態として、本当に大型オスがより多く捕食圧を受けているものなのか……『不思議だらけ カブトムシ図鑑』を読んでみて、《カブトムシのツノのジレンマ》への疑問は払拭されず、かえって深まった気がしている。


《角のジレンマ》はどうして生まれたのか?
この《角のジレンマ》に関しても、僕は2つの疑問を感じていた。1つは《カブトムシ♂の角長のわずかな違いが、視力の弱いタヌキの〝目印〟となって捕食率を高めている》という解釈に対する疑問で、もう1つは、そんな解釈がどうして生まれたのだろうという疑問だ。《角のジレンマ》は無知な素人の思いつきではない。見識が豊かなはずの学者が、どうしてこんな解釈をしたのか不思議でならなかった。

しかし、『不思議だらけ カブトムシ図鑑』を読んでみて、なんとなく「こういうことなのかな……」と思うことがあった。今回は長くなるので《角のジレンマ》に関連する部分しか取り上げなかったが、全体を通して、この著者は「知識先行でものごとを見ている」印象があった。フィールドに出て、たくさんの現象をみているうちに、「気づき」があり、それをきっかけに検証しながら考えを構築していくというものの見方をしているのではなく、学習した学術的な知識を基盤に自然を見ている……というか。自然を見ながら、頭の中に蓄えた雛形学説に当てはめて認識しようとするクセ(?)があるのではないか?

日本動物学会のトピックス【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】の中には《一般的に、動物のオスの武器や装飾などの性淘汰形質は捕食者を誘引してしまうと言われています》という箇所があり、2015年度論文賞のサイトには、《オスで発達した性的二型を示す装飾物は、性淘汰の観点からは有利だが生存には不利であると解釈されるのが一般的である》《装飾を持つオスの方が生存にとって不利であるという仮説と合致しており》と紹介さされている。つまり、小島氏の頭の中にはこのロジックが知識としてあったのではないか? そして、このロジックを当てはめることができそうな素材としてカブトムシに着目し、得られた調査結果から「期待にかなう解釈」にとびついて《角のジレンマ》が生まれたのではないか?
『不思議だらけ カブトムシ図鑑』を読む前は、見識があるはずの学者がどうして《角のジレンマ》という解釈に至ったのか不思議だったが、あるいは論文になりそうなテーマを探しながら自然を見ている知識先行の学者だからこそ、ロジックを完成させるネタを探し、欲していた都合の良い解釈にハマってしまったのではないか……今はそんなふうに感じているが、これは全くの個人的な想像である。


《カブトムシの角は矛盾だった》のか?

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《カブトムシの角は矛盾だった》のか?

01カブトムシ♂角長
02カブトムシ♂角短
僕は虫屋ではないが、子どもの頃にはふつうに虫捕りをして遊んだ。中でもカブトムシは──特にツノがあるオスがお気に入りだった(*)。大きくて・かっこよくて・強い──昆虫の王者。ツノは王冠のようでもあり伝家の宝刀でもある。カブトムシの特徴にして最大の魅力と言えば、このユニークなツノだろう。このツノに関して、以前、【カブトムシの角は矛盾だった】というニュースが話題になったことがあった。

カブトムシの雄の角は、雄同士の闘争では長い方がよく、天敵から食われるのを避けるには短い方がよい、という深刻なジレンマを抱え込んでいることを、東京大学総合文化研究科の小島渉(こじま わたる)学振特別研究員らが見つけた。

──というものだ。カブトムシのオスがツノを使って闘うことは子どもでも知っている。樹液がにじむ幹上で場所とり合戦をくりひろげ、ツノで相手をぶん投げるカブトムシ♂の勇姿は虫とりをした少年なら目にしたことがあるだろう。しかし、この必勝アイテム──ツノの長さが天敵に対して不利に働くといったことがあるのだろうか? 問題の記事は上の文のあとに、こう続く──。

東京大学大学院農学生命科学研究科の石川幸男(いしかわ ゆきお)教授と、神戸大学大学院農学研究科の杉浦真治(すぎうら しんじ)准教授、森林総合研究所の槙原寛(まきはら ひろし)さん、高梨琢磨(たかなし たくま)主任研究員との共同研究で、日本動物学会英文誌3月号に発表した。

複数の専門家がアカデミックなメディアに発表した研究らしい……ならば信憑性は高いはずだ(後に知ったが、この研究は、Zoological Science Award 2015 を受賞している)。記事ではこの研究を次のようにまとめている。

長い角をもつ雄は、雌やえさの獲得などの雄同士の闘争で力の強さをあらわす目印として知られている。その一方で、天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる。角の長さを追求すれば、天敵に食べられやすいという矛盾があったといえる。

カブトムシの天敵として挙げられていたのはハシブトガラスとタヌキで、これは納得できる。日中、樹液ポイントの近くで腹の無い(食われた)カブトムシやクワガタがもがいている姿はちょくちょく目にするし、そばにはカラスがいて獲物をくわえていることもある。狭山丘陵ではタヌキの姿もみかけるので、きっとタヌキのエサにもなっているのだろうと僕も考えていた。
03カラス&タヌキ
記事によれば、カブトムシの最大の天敵はタヌキで、カブトムシが活発に活動する深夜の時間帯にカブトムシが集まる樹液ポイントをおとずれ、カブトムシを捕食していたという。タヌキが食うのもやはり腹で、食い残された残骸を調べたところ、メスよりもオスが、ツノの短いオスよりも長いオスが選択的に食べられていることがわかったというのだ。どうして選択的なのかといえば──トラップ(バナナの発酵液で誘引)を使って採集したカブトムシの性比やオスのツノの長さ(これが捕食される前の標準比率・標準値だと考えたようだ)に比べて、捕食されたカブトムシではオスの割合が多く、ツノの長いオスが多かったから──という理屈だ。ツノが長い方が目立ち天敵に見つかりやすくなるために結果として選択的に食われやすくなるという【解釈】で解説をしている。トラップで捕獲したグループのオスのツノの長さの平均値と捕食されたオスのツノの長さの平均値を具体的に記したデータもこの記事には載っている。
04甲虫角論図から
どうして、そんな【解釈】になるのか──カブトムシの活動が盛んな深夜にタヌキが食ったカブトムシに「ツノが長い個体が多かった」というのは、あたりまえのことだろうに……この記事を読んだとき僕はそう感じた。
カブトムシは夜行性だ。活発に活動する時間帯には限られた樹液スポットにカブトムシが集中する。強い個体が餌場を占拠し弱い個体を排除する。体が小さい(角が短い)オスやメスも、大きく強いオスが過密になる時間帯ははじきだされがちだ。その結果、樹液ポイントには大きく力が強いオスが残る。体の大きなオスはツノも長くて立派な傾向がある。タヌキが選択的にツノの長い個体を見つけて食ったというより、その時間帯に餌場を占拠している個体を食えば、当然そういう結果(体が大きく角が長い個体の占める割合が多くなる)になるのではないか……。
カブトムシを捕りに雑木林めぐりをした子どもの頃を振り返ると……同じ樹液ポイントでも、昼間はメスの割合が多く、体が小さく角の貧相なオス(夜間の活動時間帯には縄張り争いに破れてエサにありつけなかったケンカの弱い個体)がしばしば見られた。それに対し、夜中はオスの割合が増え、大きくて角も立派なオスが多かった。こうしたことは、カブトムシを捕りに行ったことがある者なら経験的に知っているのではなかろうか?

夜中にエサ探しをするタヌキにしてみても……彼らは視覚よりも嗅覚に頼っているはずだ。もともと眼がさほど良いわけではないタヌキにとって、暗がりの中でのわずか──平均3.1mmのツノの長さの差が、カブトムシの発見率に影響を及ぼすとは考えにくい。

余談だが、僕が以前飼っていたフェレット(イタチ科)は散歩中によく虫や小動物を見つけた。夏にはカブトムシもその対象だった。死角にいるカブトムシに気がついたり土に潜って見えない状態のカブトムシを掘り出すなど、視覚より嗅覚に頼ってカブトムシを見つけていた。タヌキの場合も似たようなものではないかと思う。

05FerretカブトA
06FerretカブトB
尾が短いためか仔狸と間違えられることがあったグランジ(僕が飼っていたフェレット)だが……散歩中に嗅覚でガム(路上に銀紙に包んで捨てられていた)に気づく動画を載せておく。視覚ではなく、嗅覚によって獲物(?/拾い食いは厳禁)を見つけていることがわかる。

イヌ科のタヌキも同じように嗅覚によってカブトムシを見つけていたはずだ。タヌキがカブトムシを食いにくる深夜……暗がりでの視覚情報──ツノのわずかな長さの違いなど、タヌキにとってはほとんど意味をなさないのではなかろうか。
ツノの長さなどに関係なく、タヌキは樹液ポイントに集まっているカブトムシを食べただけ。《ツノのジレンマ》など、なかったのではないか?
報道記事を読んだとき、僕はそう感じたし、そう考えるのが自然だと思ったものだが……この研究に参加した人たちは、誰もそのことに気づかなかったのだろうか?
専門的に研究をしている詳しいはずの人たちが揃いも揃って、どうして《ツノが長いと捕食リスクが増える》という解釈に飛びついたのか僕には不思議だった。

《カブトムシの魅力的なツノにはジレンマがあった》──という着眼は、確かにロジックとしては面白い。面白かったからこそ、一般のニュースにも取り上げられ、話題になったのだろう。NHKのニュースでも《ツノのジレンマ》が断定的に報じられたし、Wikipedia【カブトムシ】にも、この研究記事をもとに《角は長いほどオス同士の闘争の際に有利になる反面、タヌキやハシブトガラスといった天敵に捕食されるのを避けるには短い方が有利であることが研究で明らかになっている》と記載されている。

当時の報道記事を読む限り《ツノのジレンマ》がこの研究の核心である。それに対して僕のような疑問(角が長いから天敵に見つかりやすいわけではない)は当然予想されるものという気もするが……あるいは、一般の報道記事には触れられていない、想定疑問を払拭するデータが、オリジナル論文(?)には記されていたのだろうか?

もし《ツノのジレンマ》というキャッチの良いロジックがなければ、この研究は意味が薄れ、一般ウケするニュースネタにはならなかったろう。
狩りが視覚的に行われる日中のハシブトガラスの捕食圧についていえば、ツノの長い「大きなオス」が見つかりやすいという可能性はあるかもしれない。しかしそうだとしても、「目立ちやすさ」として天敵の指標となっているのは「ツノの長さ」というより「体の大きさ」だろう。「ツノの長さ」に結びつけようとするのは、ウケ狙いのこじつけのように感じてしまう。


《角のジレンマ》はどこへ行った!?
《ツノのジレンマ》の報道記事が出たのは2014年3月で、当時も関係記事を探しながら疑問に感じたことをブログに記しているのだが、今回、あらためてとりあげたのは、先日、同じ研究だと思われる、こんな記事を見つけたからだ。

公益社団法人日本動物学会>トピックス
強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧

内容からすると同じ研究のようだが、驚いた事に、この記事には肝心の《角のジレンマ》が出てこない!? 
捕食された残骸の比較データで示されているのも、2014年に読んだ報道記事では「角の長さ」だったものが「前胸幅」になっていた。
トラップで採集したカブトムシと捕食されたカブトムシの比較についての解説(解釈)も、以前の報道記事とはだいぶニュアンスが違っていた。《角のジレンマ》はなりをひそめ、捕食された個体にツノの長いオスが多かったのは《大きいオスが餌場を占拠するため》という可能性にも言及していた。


このことから、メスよりもオスのほうが、小さいオスよりも大きいオスのほうが食べられやすいといえます。なぜ体が大きいオスが食べられやすいのかははっきりしませんが、長い角や大きな体が捕食者に目立ちやすい可能性があります。あるいは大きいオスほど樹液に長時間留まるため、捕食を受ける機会が多いのかもしれません。大きく角の長いオスに対する高い捕食圧は性淘汰圧と拮抗的にはたらくことで、オスの性的な形質の進化に影響を及ぼす可能性があります。

以前読んだ報道記事では、捕食されたカブトムシの特徴に偏りがあることについて《長い角ほど目立つので天敵に食われやすくなるから》とされていたが、今回みつけた記事では《なぜ体が大きいオスが食べられやすいのかははっきりしませんが》と、かなりトーンダウン(?)している。《天敵に目立ちやすい》とされた《長い角》は《長い角や大きな体》と微妙な表現に変わり(?)、「サイズの差に起因した目立ちやすさが捕食圧に関係している」という解釈については「可能性」にとどめられている……これでは、いったい何か言いたいのか、研究の趣旨がよくわからない。
「ツノの長さ(もしくは体のサイズ)」が指標となって天敵による捕食圧が変わるのであれば、その天敵によって選択された「生き残るのに有利な特徴」が遺伝的に反映する可能性はあるかもしれないが……タヌキは深夜に訪れた樹液ポイントに集まったカブトムシを食べているだけで、角の長さや体の大きさによる選択をしているとは思えない。
また、カブトムシ♂の角の長さや体の大きさの決定には、遺伝的要因だけでなく栄養状態などの成育環境による影響も大きいはずだ。結果として餌場を占拠しがちな「角が長く体の大きなオス」に、より多くの捕食圧がかかりがちだったとして、だからどうなるのか……そのあたりが示されておらず、尻切れトンボというか……漠然感が否めない。

ちなみにこの研究は、《日本人にとって親しみ深いカブトムシの角の進化機構を理解する上での貴重な基盤情報》として、日本動物学会の2015年度論文賞を受賞している。当初の報道のように《角のジレンマ》を確かめた研究であれば《カブトムシの角の進化機構》云々は理解できるが、現在ネット上に公開されている日本動物学会のトピックス記事を読む限り、《角のジレンマ》は影をひそめ、核心があやふやという気がしてならない。

現在公開されている【強いオスは狙われる?:カブトムシにおける性およびサイズ依存的な捕食圧】は、《角のジレンマ》説として発表した後、このロジック部分をとり下げ、修正を加えたものなのだろうか? それとも、発表当初から内容は変わっていないのだろうか? 発表当初からこの形だったとすると、それでは、サイエンスポータル他で報じられていた《角のジレンマ》のロジックは何だったのだろう? 報道する側がウケを狙って《角のジレンマ》という脚色を加えたのだろうか? しかし、具体的な角の長さを記したデータもあるのだし、それをわざわざ捏造したとも思えない……。久しぶりにこのテーマについての記事を読んで、釈然としないものを感じている。

いずれにしても、今もWikipediaやサイエンスポータルなどで《ツノのジレンマ》は「確かめられた事実」として記されているので、このわかりやすくておもしろいロジックは定着していくのかもしれない……。



昆虫の何に魅かれるのか? ※子どもの頃にカブトムシをどう感じたか
カブトムシ《ツノのジレンマ》!?
『不思議だらけ カブトムシ図鑑』と《角のジレンマ》 ※角矛盾研究者の著書の矛盾
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『赤いカブトムシ』読書感想



『赤いカブトムシ』那須正幹・作/かみや しん・絵:感想

最近、某虫屋さんの日記で、『ズッコケ三人組』シリーズで有名な那須正幹氏が昆虫採集をモチーフにした作品を書いていたことを知った。25年も前に発行された本だが、図書館にあったので借りて読んでみたところ、いろいろ思うところがあった。昔、『ズッコケ三人組』シリーズはいくつか読んでいるはずだが……印象の強さで言うと『赤いカブトムシ』の方が断然勝っている。ちょっと複雑な味わいの作品だったので、感想を記しておくことにした(※ネタバレ含む)。

「おもしろかった?」「好きな作品?」と聞かれたら即答に困る作品だ。一言でくくるのは難しいのだが……僕の場合「何度も読み返してみたくなる作品」だったとは言える。
単純に「面白かった」「楽しかった」といえる作品の中には、一度読めばそれで満足──改めて読み返そうとは思わないものも少なくない。
一方、「面白かった」「楽しかった」というには引っかかるものの、この割り切れなさ(もやもや感?)が気になって(それを解消すべく?)何度も読み返してしまう作品というのもある。『赤いカブトムシ』はそんな作品だった。

表紙には「昆虫採集の楽しさをおしえます」と記されているのだが、読み終えて感じるのは「楽しいはずの昆虫採集が……どうして、こんなことに」──という憂鬱な気持ち──それが大方の読者が抱く感想ではないかと思う。
「昆虫採集の楽しさ」が描かれていないとはいわないが、終盤の破滅的な展開の印象があまりに強い。
「昆虫採集にハマった少年──その虫への情念が招いた取り返しのつかない過ち」という点で、へルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』を想起させる。

この作品は次のように始まる──(青文字は本文の引用)。

 南原茂のしゅみが、昆虫採集ときくと、五年一組のクラスメートたちは、たいていまゆをひそめる。
「昆虫採集って、ムシをころしてピンでとめてしまう、あれでしょ。ざんこくだなぁ。」とか、
「昆虫採集は、自然破壊なんだぜ。自然の生き物をたいせつにしよう。」
 はなはだひょうばんがわるい。そのたびに茂は、
「昆虫採集は、理科の勉強になるんだ。昆虫の名まえをしらべたり。きちんと標本にしたり……」
 けっしておもしろ半分にころしているわけじゃないことを、力説する。
 あるいは、
「東京にトンボがいなくなったのは、子どもたちがトンボとりにねっちゅうしたためではない。トンボに無関心なおとなたちが、トンボの住めない町にしてしまったからだ。」
という、有名な昆虫学者のことばを引用して、昆虫採集が、自然破壊につながらないこと、むしろ昆虫にきょうみをもてば、かえって自然をたいせつにする心がやしなわれるのだと、反論してきた。
 もっとも、茂のしゃべっていることは、みんな伸一郎兄ちゃんの受け売りだった。
 伸一郎兄ちゃんは、いま高校二年生だけど、中学のころから昆虫採集にねっちゅうして、いまでは、五百種類ものチョウの標本をあつめている。
 茂の昆虫採集も、じつは伸一郎兄ちゃんのえいきょうなのだ。


この物語は、昆虫採集に対する偏見的風潮(?)に対して、主人公・茂が受け売りの知識で弁明するエピソードからスタートする。いきなり昆虫採集に対するアンチテーゼが提示された形だ。
茂が昆虫採集を始めたのは2年生の頃。兄の手ほどきをうけながら昆虫について学び、夏休みには30種類のチョウの標本を作って学校に持って行くが(自由研究?)、それを見た担任は、おざなりに褒めた後に、こんなことを言う──、

「でも、チョウチョは、生きているときのほうが、もっとすてきよねえ。来年は、花にとまっているところをスケッチしたら、どうかしら。」

言外に茂の努力(昆虫採集)を否定する発言だ。「イヤな先生だなぁ……でも、こんな(昆虫採集に無理解な)先生は、いそうだなぁ」と感じ、茂が不憫になってしまった。4年生の時にも似たような事があり、5年生になると担任が「虫が苦手」だというので、茂は夏休みの自由研究に標本を学校に持って行くのをためらっていた。

先生やクラスメートには評判が悪い昆虫採集──そうした偏見的風潮(?)・アンチテーゼに対し、茂は(作者は)この物語の中で、どのように昆虫採集の意義や楽しさを説いていくのだろう?──読者の中にはそんな視点(テーマ)が示されたのではないかと思う。僕も茂の巻き返しに期待しながら読み進んだ。

茂は兄・伸一郎の指導を受けながら昆虫の生態や捕り方、標本の作り方を学んでいく。知らなかったが、作者の那須正幹氏も虫屋だったらしく、実体験に基づいているためだろう、描かれる世界には実感があって内容も充実している。
最初は兄を真似てチョウを採っていた茂だが、甲虫類を集めるようになって、昆虫採集がさらに楽しくなり、地道な活動を続けて行く。

物語が大きく動き出すのは5年生の夏休み最後の日──茂は鮮やかな赤色のオスのカブトムシを発見する。見たことも聞いたことも無い「赤いカブトムシ」……これが新種なら大発見だ。虫に発見した茂の名前がつくかもしれない──そんな夢が広がり期待が高まる。珍しい赤いカブトムシは兄の伸一郎を通して高校の生物部の先生(昆虫の専門家)へ、新種の可能性があるということで大学の研究室へと渡って詳しく調べられることになる。そしてこの件で、茂が通う小学校には新聞記者が取材にやって来た。

赤いカブトムシの発見者ということで、茂は担任とともに校長室で新聞記者のインタビューを受ける。担任は実は茂の標本を1度も見たことがない「虫が苦手」な先生なのだが……「教師としても、子どもたちが自然に興味を持つ事は喜ばしいことなので、できるだけ応援しています」などと答え、校長先生に至っては「南原くんの大発見も、(児童の個性を伸ばすことをモットーとする)我が校の教育の成果でしょうな」と学校の手柄であるかのように大喜び。
茂はたちまち有名人になって、それまで「残酷だ」「自然破壊だ」と言っていたクラスメートたちも手のひらを返したように茂を賞賛し始める。

昆虫採集に批判的だった先生やクラスメートたちの「鼻を明かした」感もある展開だが、彼等が茂に対する評価を一転させたのは、「昆虫採集の意義」をきちんと理解したからではないだろう。単に「新聞に載るなんてスゴイなぁ!」というレベルの賞賛であって、いい加減さを感じる部分でもある。冒頭のアンチテーゼが解消したわけではないだろうことを考えると、手放しで喜べず、スッキリしないものが残る。
こうして「赤いカブトムシの発見」で、クラスメートたちの茂を見る目は変わったが、一方、茂の中でも、昆虫採集へのとりくみに変化が生まれる。

結局、茂が発見した赤いカブトムシは、(ふつうの)カブトムシの色彩変異個体ということに落ち着く。しかし、「あと1、2頭、せめてメスが採集できたら、新種として登録できると思う」という専門家の言葉に茂は「新種・ナンバラベニカブト(?)」への期待をつないでいた。6年生の夏になると、これまでのような活動スタイルを捨て、赤いカブトムシに絞って、発見場所へ通うようになる。自分以外の者に発見をさらわれることを怖れ、半ば強迫観念にかられたように2匹目の赤いカブトムシの出現を待ち続ける。

しかし見つかるのは普通のカブトムシばかり……。成果が得られないまま夏休みも終わろうとしていたとき、茂はふとした思いつきで、普通のカブトムシに赤いラッカーを吹き付けて、本物の赤いカブトムシの標本と比べてみた。一見そっくりに仕上がったニセの赤いカブトムシを眺めているうちに、もしこの赤いオスとメスのカブトムシを大学の先生に見せたら……と「ナンバラベニカブト」の誕生を想像する。もちろん、そんなインチキが通用するはずかないことは茂にもわかっていたが、塗装カブトムシの出来映えが良かったので、兄の伸一郎をからかってやろうと思い立つ。塾から帰った伸一郎に「赤いカブトムシを捕まえた」と話すと、狙いどおり兄を驚かすことはできた。が、これで新種として発表できると舞い上がった伸一郎は、茂が種明かしをする前に生物部の先生に電話をかけ報告してしまう。予想外の急展開と、喜んでくれている兄の姿を見て、茂は本当のことを切り出せなくなってしまうのだった。
兄は喜び勇んでニセの赤いカブトムシを先生に見せに行ってしまい……当然、インチキはバレることになる。

「おまえ、自分のやったこと、わかっているのか。」
 兄ちゃんのひくい声が、茂の耳をうつ。
「あんなイカサマが、とおると思ったのか。」
 兄ちゃんの声が、だんだん高くなってきた。
「おれが、先生のまえで、どれだけはずかしい思いしたか、おまえ、わかるのかよ。」
 兄ちゃんが、ふいに立ちあがったと思ったら、右手が大きくうごいた。茂のほっぺたに、するどい痛みがはしった。
「どうしたのよ。」
 母さんがびっくりした顔つきで、おくからでてきた。
「どうも、こうもあるもんか。こいつ、ふつうのカブトムシに、赤いラッカーをぬって、ごまかしてたんだ。」

(中略)

「それじゃあ、茂が去年つかまえた、あの赤いカブトムシも、あれも、おまえが色をぬったっていうの。」
 母さんが、おろおろしたような声をあげた。
「ちがうよ。あれは、ほんとの赤いカブトムシだったんだ。あれは、色をぬったんじゃないよ。」
 茂は、ひっしでさけんだ。
「ふん、わかるもんか。いいか、茂。おまえがこれから、どんなめずらしい昆虫をつかまえたって、もう、だれも信じちゃあくれないからな。兄ちゃんだって、ぜったい信じないから、そのつもりでいろよ。」


伸一郎が怒るのも無理はないだろう。そのつもりは無かったとしても、茂のやったことは「捏造」だ。兄への裏切り行為でもある。これまでめんどうをみ、応援してきた弟が、まさか新種発見の手柄欲しさに「捏造」に手を染めるとは……赤いカブトムシが偽物だと知った時の兄の心情は察するに余りある。

新種発見の夢にとりつかれ、道をあやまって、それまで地道に築いてきた功績や信頼まで失ってしまう……この重い展開に、脳裏に浮かんだのは、世間を騒がした研究不正事件やスクープ捏造事件の問題だった。

注目され期待されていた研究者や記者が、都合の良い成果を急ぐあまりに、データを捏造して取りつくろってしまう……そんな研究不正やスクープ捏造は、これまで度々報道されてきた。研究者や記者は一時脚光を浴びるが……やがて不正が発覚して、栄光から転落。一転して厳しい批判にさらされる──そんなことが世の中では時々起こる。
「どうして、そんなバカなこと(捏造)をしてしまったのか」と、いつも思うのだが、捏造は必ずしも最初から詐欺的意図を持って仕組まれるものでもないようだ。ちょっとした過ちを適切に正す機会を失ってしまったことから後戻りできなくなって誤った道を突き進むしかなくなるケースも少ないのではないかと思っている。
茂の場合は、兄が偽物の赤いカブトムシを持って行く前に本当のことを打ち明けていれば、こんな大げさな事にはならなかった。なのに、過ちを正す機会を逸してしまったことで捏造事件へと転落して行くはめになった。

敬愛する兄に激しく叱責され、いたたまれなくなって家を飛び出した茂は、去年赤いカブトムシをみつけた木のところにやってきていた。そして後悔にさいなまれ失意のどん底にいるときに、まさかの赤いカブトムシを目にしたのだった。

 地上から二メートルくらいの幹に、あざやかな赤い色をした生き物が三つ、たがいにあたまをつきあわせてとまっていた。中の一つは、りっぱなつのをもち、あとの二つは、つののないあたまを木の皮にこすりつけるようにしている。
 まぎれもない、あの赤いカブトムシだった。
 あざやかな、赤いからだを、おしげもなく昼間の太陽にさらしながら、三頭のカブトムシは、クヌギの幹の上を、じりじりとうごきまわっている。その高さは、茂が、ちょっと背のびをすれば、とどきそうでもあり、そうでないようでもあった。


──という文章で、この物語は終わる。
なんと皮肉なタイミングでの発見だろうか。探し求めていた時には見つけることができなかった、(新種登録に必要な追加分の)赤いカブトムシが、《おまえがこれから、どんなめずらしい昆虫をつかまえたって、もう、だれも信じちゃあくれないからな》と兄に言い渡された直後に現れるとは……。

いったい、この赤いカブトムシはどうなるのだろう?(捕獲され新種誕生となるのか?) 茂はどうするのだろう?(待ちわびたチャンスをものできたのだろうか?)──読者としては気になるところだが、そうした思いをシャットアウトするかのように物語は終わっている。
なんとも唐突感のある幕切れだが、おそらくこれは「目の前の栄光──手が届きそうで届かなかった(?)夢」を象徴するシーンとして意図したものだろう。

さて、それではこの物語を読み終えた読者の心には何が残るだろう?
「茂にとって昆虫採集とは何だったのか?」──という「もやもや感」ではないだろうか。
昆虫採集にハマったがために、こんな破滅的な結末を迎えることになってしまったわけだから、「昆虫採集の楽しさをおしえます」という表紙の文章とはかけ離れた印象を抱くはずだ。

また僕はこの物語を「周囲の偏見に対して、茂が昆虫採集の意義をどう説いていくのだろう」と思って(期待して)読んでいたので、冒頭のアンチテーゼに対する答えが描かれないまま終わってしまったことにも唐突感を覚えた。
「昆虫採集の意義」については冒頭の「受け売り」発言と、「あとがき」の最後に作者の言葉として簡単に触れられているだけ──《作品の中でも書いたように、子どもが虫を捕りすぎるために、自然界から虫がいなくなるとは、まず考えられないことなのです。むしろ子ども時代、昆虫採集を楽しむことで、かえって自然に関心をもち、ほんとうの意味の自然保護の心を育てるのではないでしょうか》。このテーマに関しては消化不良の感が否めない。

僕の心にひっかかったのは、新種発見の夢を追うようになってから、茂の昆虫採集が変わっていったことだ。赤いカブトムシに出会い、新種発見の夢に胸をおどらせる茂だったが、その夢を追い続けていくうちに、それは執念へと変容していき、楽しかった昆虫採集が、焦りや失望・切迫感をともなうものに変質していく……。当初、胸をときめかせた赤いカブトムシは疫病神だったのか?
もちろん、昆虫採集をしていて未知の昆虫を見つけたら、夢中になるのは判る。昆虫少年なら誰でもそうなるだろう。新種発見に限らず、これまで知られていなかった知見をスクープしたいという野望(大志?)を抱くこともあるだろう。それは悪いことではない。ただ、一心不乱に夢を追い、のめり込んでいくとき、夢に溺れてしまうこともある──《情念》のはかなさ・危うさのようなものを感じないでもない。

終盤の展開で、僕は、過去にあった研究不正事件やスクープ捏造の報道を思い浮かべたが、「一途な情念の落とし穴」とでも言ったらいいだろうか?──そんなテーマを内包している物語でもあるように感じた。
「情念がらみの、悔やんでも悔やみきれない過ち」を描いたという点では味わい深いところがなくもないのだが……本作ではそのあたりのテーマには踏み込んでいない点に物足りなさを感じている。

終盤のあやまちを機に、茂が自分の昆虫採集を見つめなおし、その意義や目的を茂なりに見いだすところまで描けていれば、読後感も変わっていたのではないかという気がする。意図したわけではないが捏造という大きな過ちを犯してしまったのだから、内省的な掘り下げや総括があって良かったのではないか。


ところで、この物語はどのように発想されたのだろう?
発端は、表紙にあった通り、「昆虫採集の楽しさをおしえます」というコンセプトで描くつもりでいたのではないかという気がする。作者が虫屋であったことを考えると、昆虫採集に批判的な風潮が出てきたことに対して、「昆虫採集とはどんなものか」その楽しさや意義を伝える作品を描きたいと言う気持ちはあったに違いない。実際、捏造事件の前までは、昆虫採集の様子がいきいきと描かれていて読んでいてもおもしろい。

しかし、昆虫採集のノウハウを列挙するだけでは、物語としては弱い。そこで昆虫少年が憧れがちな「新種発見」をからめたストーリーを考えたのではないだろうか。
といっても、あっさり新種が見つかってめでたしめでたしでは盛り上がりに欠ける。何か読者の予想を超える意外な展開や、葛藤が発生するエピソードはないかと頭をひねり、「夢が実現する直前の捏造事件」という着想を得たのではないか……主人公にその気はなかったのだが……ちょっとした悪戯が捏造に発展してしまったという展開。これなら意外性もあるし緊迫感が生まれる──着想としては悪くない。
本当のところは作者にしかわからないことだが、本作のストーリーはそんな形でできあがったのではないかと想像する。


かみや しん氏による挿絵については──、作中に登場する昆虫はもちろん、本文に書かれていない昆虫採集の道具や使い方なども描かれていて、「雰囲気」をよく伝えている。
が……描かれた昆虫の中で、ルリボシカミキリには不可解な点があった。この本を紹介していた某虫屋さんの日記で指摘されていたことだが──美しいブルーが魅力のルリボシカミキリに、なぜか、「ねずみ色」とわざわざ記されているのだ。


某虫屋さんは(退色した)古い標本を見て描いたのだろうと推察していたが、本になるまで作者は挿絵を見ていなかったのだろう(画家さんが古い標本を見て描き、編集者もルリボシカミキリの本当の色を知らないまま本が作られた?)。
もしも、ルリボシカミキリがねずみ色であったなら……「青色のルリボシカミキリ」を見つけた者は「赤いカブトムシ」を見つけた茂のようにハイテンションになるのではなかろうか……そんなことを想像してしまった。
僕が読んだ本は初版だったのだが、重版になった時点で修正されているのだろうか? 検索してみると『赤いカブトムシ』は2007年に見山博氏の挿絵で版を変えて出版されている。そこにルリボシカミキリの挿絵があるかどうかは知らないが、「ねずみ色のルリボシカミキリ」は無いはずだ。


昆虫の何に魅かれるのか?

昆虫ブログのつもりで始めたわけではないのだが、昆虫に関する記事がだいぶ貯まってきた。昆虫は姿や生態それ自体もおもしろいが……それをどうして面白いと感じるか──という自分の認知についても興味がある。そのあたりのことを少し記してみよう思う。

昆虫の何に魅かれるのか?
~好きな理由・嫌いな理由~Part1~

僕は虫屋ではないが、子どもの頃には夏になるとよくカブトムシを捕りに行った。見つけたときの「!」感も忘れられないが、早起きをして雑木林でゲットしたカブトムシやクワガタを、部屋の中でじっくり眺めるのも好きだった。お目当てだった虫をのぞきこんでいると、それを探し歩いたことが夢のように脳内に再生される。明け方の雑木林・甘酸っぱい樹液のニオイ……樹液がしみ出すクヌギ幹に目的のモノがしがみついている姿を見つけたときの感動と興奮──そんな光景を思い返しては不思議な気持ちにひたったものだ。
虫とりから帰還した《僕の住む世界》──部屋という人工空間でながめるカブトムシは、《全く違う世界からやってきた存在》感をかもしだしていた。

ヒトは人工物に囲まれ──いってみれば、《ヒトの言語》で描かれた世界の中で暮らしている。慣れ親しんだ部屋は直線や平面で構成され、置かれたもの──人工物も単純な形でデザインされがちだ。曲線や曲面があっても曲率が一定であったり変化率が一定であったり、やはり単純な形になりやすい。しかし、捕ってきたカブトムシは《全く違う様式》でデザインされている。とても複雑な形をしている……しかし複雑でありながら決して無秩序なわけではない──不思議な調和を感じさせるデザインで独特のカッコ良さがある。「よくこんな形が実現したものだ」と感心せずにはいられない。しかも、これがまるで意志をもっているかのように動く──何のために作られたのか知らないが、ちゃんと自己活動の機能を備えている。これはもちろんヒトが作ったものではないし、ヒトが作れるものでもない──製造者も製造目的もわからない人智を超えた精巧な自家繁殖型ロボット!? いったいどうして、こんなものが誕生したのか……自然の創造物(《自然界を構築している言語》によって描かれたもの)に対する神秘性・畏敬のようなものを子どもながら漠然と感じていた。
人工物(《ヒトの言語》で描かれたもの)とは全く異なる様式の存在──《自然界を構築している言語》のようなものの存在を理屈ではなく、うっすらとながら実感していたように思う。

ヒトは自分たちが住みやすいように環境を改変してきた。自然環境を構築してきたフォーマットを全く別の《ヒトの言語》に書き換え、人の支配下に置いて制御しようとしてきたとも言える。人工環境の中で生活していると、《ヒトの言語》以前に《自然界を構築している言語》があったことを忘れてしまいがちになる。しかし、生物としてのヒトを創ったのは《自然界を構築している言語》に他ならない。ヒトは生物として進化し脳を発達させ、その末に自意識に目覚め、《ヒトの言語》を獲得した。そして《ヒトの言語》で世界を見る(認識する)ようになった──構図としては《ヒトの言語》は《自然界を構築している言語》の下位末端に派生したローカルなフォーマットにすぎない。
進化の末端で生まれたローカルな《ヒトの言語》は、例えてみれば、銀河の中心から外れた小さな星(地球)に生まれた我々と同じ。そこは《全体》からすれば辺境の地なのだが、そこで覚醒したヒトは、そこが中心・基盤であるかのように認識してしまいがちになる……これは《天動説》的視点なわけだが、自然物を見、その背景に《自然界を構築している言語》を感じること、《上位の根幹的言語》の存在を再確認することで、《天動説》的世界観を《地動説》的世界観に修正することができるのではないかと思う。

《ヒトの言語》で構築された世界の中どっぷりつかって《ヒトの言語》至上主義に染まってしまうと、《自然界を構築している言語》を忘れ・拒絶するようにもなりかねない……その端的な現象の一つが、虫を見て「コワイ」「キモイ」と拒否感を示すことではないか……という気もする。そうならないうちに──子どもの頃から昆虫などの自然物に接すること──《上位の根幹的言語》の存在を感じることは大切なのではないかと僕は思っている。

昆虫に対する興味や好奇心の本質は、「《ヒトの言語》ではない《自然界を構築している言語(フォーマット)》をかいま見ること」に起因しているような気がする。単純な言い方をすれば「自然が創りだしたものはスゴイなぁ」と感じること。昆虫の姿(生態も含めて)は、複雑系の中で生まれた均衡の結果──《自然の言語》の結晶ともいえる。
小さな昆虫を通してその背景に、この世界を構築した(《ヒトの言語》よりも上位の根源的な)《自然界を構築している言語》を感じること……これは自然物でもあるヒトにとって大きな意味があると僕は考えている。


*虫はなぜ毛嫌いされるのか?

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カブトムシ《ツノのジレンマ》!?




カブトムシの雄の角は、雄同士の闘争では長い方がよく、天敵から食われるのを避けるには短い方がよい、という深刻なジレンマを抱え込んでいる

──そんな共同研究が日本動物学会英文誌3月号に発表されたという。
■カブトムシの角は矛盾だった
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=00020140314008

要約すると──、
《樹液が出ているクヌギ、コナラなどの広葉樹のそばに、散乱している「腹部だけが食べられたカブトムシの残骸」》について調べたところ、《日中はハシブトガラスが食べていたが、カブトムシの活動がピークとなる深夜の午前0~2時ごろにはタヌキが樹液を訪れて食べていた》ことがわかったという。
《タヌキに食べられたものは全体の残骸のうち6~8割に上ると推定された》そうで、《タヌキやハシブトガラスは、カブトムシのメスよりもオスを、さらに角の短いオスよりも角の長いオスを多く捕食していた》ことがわかったそうだ。
これらのことから──、

長い角をもつオスは、メスやえさの獲得などのオス同士の闘争で力の強さを表す目印として知られている。その一方で、天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる。角の長さを追求すれば、天敵に食べられやすいという矛盾があったといえる。

としている。
しかし、この記事を読んでいくつかの疑問を感じ、「この《ジレンマ》はホントかなぁ……」と首をかしげた。記事だけ読んだのでは説得力に乏しく、にわかに納得はできない……。
日本動物学会英文誌に掲載されたというオリジナルは読んでいないし僕には読めないが……あくまで、上記URLの記事を読んだ限りの印象を記してみる。

記事には《タヌキやハシブトガラスは、カブトムシのメスよりもオスを、さらに角の短いオスよりも角の長いオスを多く捕食していた。》と記されているが、この比較が、きちんと調べた「発生比率」を基準にしての「多く」なのか、単純な「個体数」の比較で「多く」なのか(記事からは)判らない。
「角の長いオス」と「角の短いオス」が同じ比率で出現しているわけではないだろう。死骸数の単純な比較のみで「どちらが《天敵に食べられやすい》」ということはできない。
「オスの角の長さ」は環境によっても格差がでそうだが……こうした角の長さと出現比率についてまず調べ、これを基準に「角が短い個体が食べられる率」より「角が長い個体が食べられている率」が高いと確かめられているのか──そのあたりがまず気になった。
共同研究はちゃんとした肩書きの人が学会誌に書いているのだから、このへんのことはしっかり調べた上でのことなのだろうが……URL記事だと、そのあたりの基本にして重要と思われる部分が判らない……。

そしてその「角の長さ」だが……これは「体長に対しての比率」で「長い・短い」と言っているのか、それとも単純に「角の長さ」をさしているのかが判らない。普通に読めば後者にとれる。
しかしそうであるなら、「角が長い」個体は体が大きく「角が短い」個体は体が小さいのが一般的だ。「角が長い」から《天敵に対して目立ちすぎる》のではなく、単純に《体が大きいから目立つ》と考えるのが自然な気がする。角がないメスだって同じ大きさだったら、やっぱり目立って食われやすくなるのではないか。角があることで目立つということはあるかもしれないが、この場合、天敵に見つかりやすくなる要因は「角の長さ」というより「体の大きさ」というのが適切ではないかという気がする。

また、回収した死骸の統計で《(タヌキやハシブトガラスが)カブトムシのメスよりもオスを、さらに角の短いオスよりも角の長いオスを多く捕食していた》と言っているのだとしたら、それはごく当たり前のことだと思う。
カブトムシが集まるようなポイントでは強く大きな個体が餌場を占領し、小さなオスやメスはあぶれがちだからだ。もともと大きなオスが幅を利かせている場所で大きなオスの死骸が多くみつかるのは当然のことといえる。

そういった考慮すべき要素を差し引いた上で、《カブトムシのメスよりもオスを、さらに角の短いオスよりも角の長いオスを多く捕食していた》という解析結果なのか……そのあたりも気になった。

そしてもし、その上で《カブトムシのメスよりもオスを、さらに角の短いオスよりも角の長いオスを多く捕食していた》ことが「事実」だったとしても、これだけで《(角の長いオスが)天敵に対して目立ちすぎるため、食べられやすくなって不利になる》とは言い切れないだろう。

もし角の長いカブトムシが食われている率が高いのだとすると、まず思い浮かぶのは「角の短い(体の小さい)オスやメス」は、「角の長い(体の大きい)オス」より良く飛ぶから、この飛翔力の差で逃げ延びる確率が高いのではないか──という解釈だ。
《関東地方では、タヌキこそがカブトムシの天敵といえる》そうだから、カブトムシの(角の長さではなく)飛翔力の差が生存率に関係しているのではないかと考えるのが自然だと思う。

ところで、僕は以前フェレットを飼っていたが、これが散歩のさいにしばしばカブトムシをゲットしていた。
フェレットはあまり目はよくないが、ニオイをたどって死角にいるカブトムシを見つけ出したり、土に潜っているカブトムシを探り当てて掘り出したりしていた。




《カブトムシの天敵》とされる夜行性のタヌキの場合も似たようなものではないかと思う。カブトムシ探しには主に嗅覚が使われているはずだ。日が落ちた雑木林でカブトムシの角の長さのわずかな差など、タヌキにとってはさほど意味を持たないのではないか……そんな気がしないでもない。


《カブトムシの角のジレンマ》という発想は構図としてはおもしろい。おもしろいけど、それだけに「角の長さで説明しようとする切り口」に無理矢理感を覚え、素直に納得できなかった……。
あくまでも、「(上記URL)記事だけ読んでの感想」である。

追記:NHKニュースでも「明からになった」と

カブトムシの角のジレンマに関する話題がNHKのニュースでも報じられていたことを知った。
■カブトムシは「角長いほど狙われる」(NHK NEWS WEB 2014.03.17)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140317/k10013021441000.html

「昆虫の王様」とも言われるカブトムシは、そのシンボルである角が長いものほど天敵に狙われやすいことが、東京大学などの研究で明らかになりました。

──と報道されているが、これで本当に「明からになった」と言えるのだろうか?
NHKのニュースでは、前回読んだ記事より具体的な数字が紹介されていた。それによると──、

《天敵に食べられたカブトムシは、およそ70%が角のあるオス》
《食べられたオスは、周辺で天敵に狙われずに生きているオスと比べると、角の長さが平均で3ミリ程度長かった》


ということが判ったらしい。このことから──、

この結果について東京大学などの研究グループは、角が長いとオスどうしの争いでは有利になる一方、目立ちやすいため天敵に狙われる確率が高くなるためだとみています。

という解釈に至ったようだが……素人ながら、やはりおかしいと感じる。

前に読んだ記事【カブトムシの角は矛盾だった】では「カブトムシの捕食者は主にタヌキで、カブトムシの活動がピークとなる深夜に樹液ポイントを訪れていた」ことが記されていた。
その時間帯に樹液ポイントを訪れれば角の立派な強いオスが多いのは当然。餌場には強いものが陣取り、弱い小さな(角の短い)オスやメスは排除されがちだからだ。
カブトムシやクワガタ採りをして樹液の出ている木を見て歩いたことがある者なら、カブトムシは夜に多く、昼は少ないこと、夜には大きなオスの割合が多いが、昼はメスや小さなオスの割合が多いこと(夜に餌場から排除された弱い個体がやむなく本来の活動時間外の日中に食餌)は経験的に知っているものではないだろうか?
だから、樹液ポイントを狙った夜行性のタヌキがゲットした死骸に大きな(角の長い)オスが多かったからといって別段フシギとは感じない。「夜は強い大きなオスが多いんだな」と納得するのが自然だと思う。

先に記した事のくり返しになるで省くが……もし「出現している比率に対して、食われるカブトムシに偏りがあった」としても、その理由・原因は他にも考えられるはずだ。どうしていきなり「角の長さ」で説明しようとするのか──いささか強引でこじつけ感が否めない。

夜間、視覚より嗅覚を頼りに餌を探し当てているだろうタヌキにとって、カブトムシの《平均で3ミリ程度》の角の長さの差がどれほどの意味を持つのだろう?
そのことに疑問はないのだろうか?

NHKのニュースでも断定的に報じられていたから【カブトムシの《角のジレンマ》】は科学的事実として多くの人が認識したと思う。【カマキリ雪予想】と同じように雑学・うんちくとして世に広まることになるのだろう……。

追記:Wikipediaでも「明からになっている」と

Wikipediaの【カブトムシ】にも、【カブトムシの角は矛盾だった】の記事を出典とする記載があった↓。

オスの角は長いほどオス同士の闘争の際に有利になる反面、タヌキやハシブトガラスといった天敵に捕食されるのを避けるには短い方がよいことが研究で明らかになっている。

個人的には懐疑的だが、Wikipediaで紹介されたことで、これは科学的事実という認識で一般に広まることになるのだろう。

Wikipediaは多くの人が参考にしていると思うが、項目によって信憑性にはバラツキがあるようで、あまり過信はできない。
【ナナフシ-Wikipedia】では、ニホントビナナフシの記述に《本州の個体は単為生殖を行なう》と記載されているが、僕は東京で両性生殖を確認している(【ニホントビナナフシ東京でも両性生殖】)。

また、【ヤマカガシ-Wikipedia】では以前──、

頸部にも奥歯とは別種の毒を出す頸腺と呼ばれる毒腺があり、危険が迫ると相手の目を狙って毒液を飛ばす。

という記述があって、これについて疑問だと思う所を記したことがあったが(【疑問:ヤマカガシが《相手の目を狙って毒液を飛ばす》説】)、後に《相手の目を狙って毒液を飛ばす》という記述は《頸腺から出る毒液を飛ばすこともあり、これが目に入ると》と訂正されていたこともあった。

カブトムシの《角のジレンマ》についても、いつか訂正されることがあるかもしれない?