FC2ブログ

ユーザータグ : エッセイの記事 (1/40)

カレーライスとヒラメライス

猛暑の炎天下を歩いていると脳味噌が溶け始め、意識の秩序がゆるくなって思考がイレギュラーに動きランダム化する気がする……。
以前、ビリーズブートキャンプ(ビリー隊長の軍隊式エクササイズ?)が流行った頃には、汗だくになって歩きながら──おそらくそこからの連想なのだろう、頭の中に「ビリーズブートキャンプ」という言葉がリピートし始めた。「ビリーズブートキャンプ……ビリーズブートキャンプ……ビリーズ・高木ブーとキャンプ……」突然、頭の中にドリフの高木ブーが大汗かいてビリー隊長とエクササイズしている映像が浮かび、腰がくだけそうになった……なんてこともあった。夏の暑さ、おそるべしっ!

朦朧とした頭の中に普段だったら思いもしない発想がわいてきたりする。
過去に記事にしたものでは【巻貝が描く《幻の地図》】などがそうだ。

物忘れが酷くなったと感じる昨今なのだが……最近のことは忘れがちなのに、脳味噌が溶け出すと、とつぜん遠い子供の頃のたあいもない記憶が浮上してきたりする。幼い頃のしょうもない疑問──。
「カレーライス」と「ハヤシライス」は見た目がとてもよく似ている。しかしそれなのに、名前には何のつながりも感じられない。「カレー」に対して「ハヤシ」はないだろう──ということを子供心に疑問に感じていたことを突然思い出した。
当時の僕の感覚で言えば……この2つの食品名は、「カレイライス」と「ヒラメライス」──みたいなものであってしかるべきだった。
本記事のタイトルで「カレーライス」との並びで記した「ヒラメライス」から「ハヤシライス」を連想した人もいたのではあるまいか? であるなら、こんな呼称の考え方もあって良いのではなかろうか?
昔、「タコメーター」に対して、併設された「スピードメーター」を「イカメーター」と呼んだ友人がいたことも思い出される。「タコメーター」と「イカメーター」は、ネーミング的にはしっくりくる気がしないでもない……などと、溶けかかった脳味噌は思うのであった。


巻貝が描く《幻の地図》
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
記憶層と忘却の浸食
エアポケット幻想
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ

スポンサーサイト



二眼レフの《からくり》感:YashicaFlex

二眼レフ・アナログフィルムカメラの魅力!?
前回触れた〝最近のコンパクトデジタルカメラ[TG-6]〟と〝昔のゴツいアナログカメラ[YashicaFlex]〟──これについて、もう少し思うところを記してみたい。
「カメラの機能性能」ということで言えば断然[TG-6]の方が勝っている。見た目のデザインだって洗練されていてカッコ良いし、使うのであれば[TG-6]を選択することに疑問の余地はない。けれども「カメラ(機械)としての面白味・好感度」のようなものを感じるのは[YashicaFlex]の方だったりする。いったいそれはなぜなのだろう?──自分でも不思議に感じたので、あらためて古い二眼レフ・フィルムカメラを眺めてみた。

YashicaFlexの《からくり》感:仕組みのわかるおもしろさ
まず目をひくのが、四角い(直方体の)箱の前面に縦に並んだ2つのレンズだ。このレンズが被写体の像を作るアイテムであることはすぐにわかる。我々の眼もレンズによって網膜に像を映している。同じ原理でレンズを通して結ばれた像が箱の内部にセットされたフィルムに焼き付けられる構造なのだろうことも察しがつく。
下のレンズ(テイクレンズ)は箱内のフィルムに像を投影するためのもの。上のレンズ(ビューレンズ)は同じ被写体をファインダー側に投影するためのものだ。フィルム上に投影された像を直接見ることはできない(フィルムに光が差し込むと感光してしまう)ので、フレーミングを確認したりピントを合わすために、モニター用の経路を併設して〝二眼〟になったのだろう。
01YashicaFlex前側
箱の側面にはピントを合わすためのノブがあって、これを回すと2つのレンズがとりつけられた箱の前面がせり出したり引っ込んだりする。被写体までの距離に応じてピントが合う位置が微妙に変わってくるので、その微調整をするためのノブ。2つのレンズがリンクして動くことでファインダー内で合わせたピントが、そのままフィルム上に投影される像のピントにも反映するという仕組みだ。
02YashicaFlexPフード
面白いのは箱の上からのぞき込むファインダー内の画面──投影された像は左右が逆転していることだ。カメラを左右に振るとファインダーの中の景色は予想と逆向きの動きをする。ファインダーの中では被写体の傾きも逆になるので水平軸を正すのもややこしい……なれないうちは戸惑うところである。
ちなみに、ブログのトップページを表示したパソコンの画面をYashicaFlexのファインダーに映してみると、こんな感じ⬇。
03YashicaFlexビュー
どうしてファインダー内の画像は左右が逆転しているのか……これは〝凸レンズを介して実像が映る仕組み〟をイメージしてみれば想像がつく。
レンズの屈折によって結ばれる被写体の実像は焦点ごしに点対称となり、上下左右が逆さに映し出される(我々の網膜に写る像も物理的には逆さまだが、脳が瞬時に補正をしている)。だから箱内の背面に映し出された実像をそのまま見れば、上下左右がさかさまの画となる……これでは扱いにくいので「鏡に映して反転させた鏡像を上面からのぞけば天地方向が補正されて見える」というアイディアが採用されたのだろう。
ビューレンズで取り込まれた像は、鏡で90度向きを変え、箱の上部に設置されたファインダーに映し出される。鏡像を表示することで逆さになった上下をもう一度ひっくり返すという発想がおもしろい。ただし、レンズを通して上下左右がひっくり返った実像の上下(だけ)を再びひっくり返した形になるので、左右の向きは逆のまま……なんとも奇妙な現象が残されてしまったということなのだろう。
04YashicaFlex前面
もちろんフィルムに記録される実像の方には問題が無い。ただ、フィルム上に投影される像をきれいに焼き付けるためには、適正な光量での露光(感光)が必要となる。その光量は、明るさ(絞りで調整)と露光時間(シャッタースピードで調整)との関係で決まる。
YashicaFlexには色々な型が存在するようだが、僕の手元にある型では、絞り(光を取り込む通路の広さ)は3.5から22まで、シャッタースピードはB/25/50/100/300(分の1秒)が記されている。
シャッターの駆動も機械的な仕組みのようで、「シャッターチャージレバー」を動かすことでバネ(?)がたわめられてストッパーを掛けた状態がセットされる。そして「シャッターボタン」を押すとストッパーが外れて(復元力で?)弾けるようにシャッターが落ちる。
「自動シャッターレバー」は、赤いポイントを移動させて「シャッターボタン」を押すと、レバーがゆっくりと元の位置まで戻っていき、戻り切ったところでシャッターが落ちる仕掛け。
シャッター速度の設定は、レバーの位置を変えることで行う。レバーの位置によってシャッターの駆動に何らかの機械的な制御がかかる仕組みなのだろう。「B(バルブ=シャッターボタンを押している間は開放)」でシャッターを開放した状態にすると、絞りの数値によって光の通り道の幅(眼で言えば瞳孔の開き具合)が変わるようすが確認できる。
05YashicaFlex絞り
そして1枚撮影するごとに、箱の側面にある「フィルム巻き上げノブ」を回してフィルムを送り、次の撮影に備える。

こういった具合に、YashicaFlexは、外観や作動のようすから〝機械的な仕組み〟が直感的にイメージできる。そのたたずまいには《からくり》としての〝説得力〟が感じられるのだ。

アナログ機器は《しくみのわかりやすさ》が魅力!?
TG-6の方は、確かに機能・性能はすごいのだが、どういう仕組みでそうなっているのかは素人にはさっぱり判らない。取扱説明書を読むのも、暗記科目を覚えるようなわずらわしさで、なんだかワクワクしない。機械そのものの仕組みを理解し納得する楽しさのようなものが感じられないのだ。
暗記科目を修了し機能を使いこなせるようになれば、撮り方の工夫ができるようになるのだろうが……TG-6は、僕にはまだ「得体の知れないモノ」感がある。

ところで、物資の豊富な時代に育ったデジタル世代の人の中にも、フィルムカメラを好んで使ったり、ドーナツ盤で音楽を楽しむアナログ趣向の人が意外にいたりするらしい。
フィルムカメラで写真を撮り、レコードで音楽を聴いてきたアナログ世代からすると、「わずらわしさから解放されたこの時代に(ハイスペックな電子機器があるのに)なんで、わざわざ手間のかかるレコードやフィルムカメラを選ぶのだろう?」と首を傾げることもあったのだが……アナログな装置には「溝に刻んだ振動痕を針でこすって音を再生する」「レンズで作った像をフィルムに記録するからくり」といったような機械的な仕掛けがイメージできる《見た目の説得力》に面白味があることも関係しているのかもしれない……そんなことをあらためて思ってみたりしている。



新旧カメラ:TG-6とYashicaFlex
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ

新旧カメラ:TG-6とYashicaFlex

オリンパスのコンパクトデジタルカメラTG-6
2014年から5年ほど使っていたOLYMPUSのコンパクトデジタルカメラTG-2が壊れたのが2019年1月……それから2年半ほどカメラには触れていなかったのだが、手軽に撮れるデジカメが無いと不便に感じることもあって、後継機種のTG-6⬇を入手。
01OLYMPUSTG6黒
2種類あったカラーから僕が選んだのはブラック。以前使っていたTG-2はレッドだったのだが、接写の際にボディーカラーの赤が被写体に映り込んでしまうことがあったため。
昨今の電子機器は機能が多く、新たに使い方を覚えるのは、おっくうだ……しかし以前使っていたTG-2の後継機種なら、いくらか扱いやすいハズ。去年はオリンパスがカメラ事業から撤退するなどといったニュースも流れ、TGシリーズも入手可能なうちにゲットしておかねば、あとで悔しい思いをすることになるかもしれない……などという気持ちも働いて、今さらながらTG-6(2019年7月発売)の購入に踏み切ったしだい。

とはいえ、僕にはスチル撮影に苦手意識があるし、ブランクもある(TG-2の使い方も忘れていた)。その後装備された便利な機能を使いこなすのにも修行が必要かもしれない……。TG-6を手にし、説明書に目を通しながら、カメラもずいぶん進化したものだと、そのハイスペックぶりに感心したり、気後れしたり……。

YashicaFlexを発掘…
ところで先日、父の遺品を整理していたところ、古めかしいフイルムカメラを発掘した。「YashicaFlex」と記された6×6cm判二眼レフ。この古いアナログカメラ(YashicaFlex)を手に入れたばかりの新しいデジタルカメラ(TG-6)で撮ってみた⬇。
02YashicaFlex01.jpg
03YashicaFlex02.jpg
僕が子供の頃には35mmフィルムのカメラを使うことが多かったのだが、この「YashicaFlex」も何度か使った記憶がある。ファインダーは上からのぞく構造で、映し出される画面はなんと左右が逆転している。なのでフレーミングしにくかった記憶がある。フィルムは1本でたった12枚しか撮れない(もちろん撮り直しはきかない)。撮影するごとに手動でフィルムを巻き上げなくてはならない。露出やシャッタースピードはレバーによる手動設定。ピント合わせはダイヤルによる手動式。シャッターのバネも手動でセットするというアナログ感あふれるカメラだった。この「YashicaFlex」で高校生の頃に撮った(友人に撮ってもらった)写真の1つがこれ⬇。
04YashicaFlex70年代
場所は狭山丘陵にある八国山の北側──まだ小綺麗な住宅街ができる前の松ヶ丘である。
こうして見ると当時の景観と今の景観の格差には驚くばかり。当時使っていたカメラ(YashicaFlex)と今のカメラ(TG-6)もずいぶんかけ離れている……。そして、僕自身も当時と比較すれば、今ではかなり劣化が進んでしまっている……。昔のカメラや画像を見ると、時代のギャップが実感され、浦島太郎感がひた寄せるのであった……。



OLYMPUS STYLUS TG-2 Toughで昆虫写真試し撮り(2014.02.01)
カメラが壊れた…(2019.01.10)
昭和世代の浦島太郎感!?
二眼レフの《からくり》感:YashicaFlex
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ

H・ヘッセ『少年の日の思い出』感想

01少年の日の思い出
『少年の日の思い出』ヘルマン・ヘッセ:作/岡田朝雄:訳/草思社文庫
【収録作品】少年の日の思い出/ラテン語学校生/大旋風/美しきかな青春

ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』は中学国語の教科書で読んだ人も多いようだが、僕は習った記憶が無い……。僕がこの作品を知ったのは2017年。虫屋さんの日記に出てきたので興味を覚え、図書館で借りて読んでみたしだい。短いながら味わいのある作品で印象に残った。最近になって、また読み返してみたくなって、文庫版を入手。あたらめて感想などを記してみたい。

作品の概要
表題作『少年の日の思い出』は正味12ページほどの短い作品。その概要は──、
舞台は「私」(一人称の主人公)の書斎。そこには夕方の散歩から帰ってきた「私の客」がくつろいでいる。「私」の末息子が客に挨拶をしていったことから、子供の話題となり、「私」は子供ができてから、自分の子供時代の記憶がよみがえり、当時趣味にしていたチョウやガの採集を再開したという話を始める。その標本コレクションを客に披露するのだが、最初は興味深げに標本を見ていた客が突然不快な反応を示して鑑賞を拒絶。その後、客は非礼をわびると、自分も子供の頃は熱烈なコレクターであったことを打ち明け、少年時代のトラウマを話始める。
そこから物語の(語り手の)視点は「私の客」に移り、「ぼく」という一人称で展開していく。
「ぼく」は8〜9歳の頃、当時流行っていた昆虫採集を始めるが、しだいに標本コレクションにハマっていき、10歳の頃にはかなり夢中になっていた。あるとき「ぼく」は、そのあたりでは珍しいコムラサキ(蝶)を採集する。
隣の家の4階にはエーミールという鼻持ちならない優等生が住んでいて、コレクションとしてはたいしたことがないものの、美しい標本をつくる技術を持つことで知られていた。
コムラサキを採った「ぼく」は、普段妬んでいたエーミールに自慢するチャンスとばかりに、彼にコムラサキの標本を披露する。エーミールは珍しい種類であることを認めた上で、標本のできの悪さや、脚が欠けているなどの欠陥を指摘する。得意になって披露した珍品にケチがついたことで「ぼく」の自尊心はしおれてしまう。
その2年後、エーミールが1頭のクジャクヤママユ(蛾)を蛹から羽化させたという噂が広まった。クジャクヤママユは「ぼく」が憧れる最高峰の存在で、そのニュースを聞きつけた「ぼく」は興奮してエーミールの部屋を訪ねる。ドアは施錠されておらず彼は不在だった。「ぼく」はクジャクヤママユ見たさに闖入し、展翅されているクジャクヤママユを見つける。その特徴的な眼状紋は展翅テープで覆われていたのだが、確かめてみたいという誘惑に負けて「ぼく」は展翅テープをはずしてしまう。憧れのクジャクヤママユを初めて目の当たりにして、「ぼく」は出来心を起こす──標本を手にしたまま部屋を出てしまったのだ。階段を降りるさいに下から上がって来る足音が聞こえ、「ぼく」は盗みをおかした罪悪感に目覚め、発覚を怖れて手にもっていた標本をポケットに隠す。階段を上がってきたメイドとすれ違ったあと、「ぼく」は自責と羞恥にさいなまれ、誰にも知られる前にクジャクヤママユを戻しておこうと考え直す。しかし……エーミールの部屋に戻ってポケットから取り出したクジャクヤママユは、ひどく破損していた。自分のしでかした取り返しのつかない浅はかな行為に「ぼく」は激しく後悔する。「ぼく」は壊れた標本を残して立ち去った。
事態を打ち明けた母親に説得されて「ぼく」はエーミールのところへ謝罪に行く。彼は壊れた標本の修復を試みていたが無理だった。「ぼく」はエーミールの大切な標本を壊したのは自分だと告白する。被害者のエーミールは泣き叫んだり猛り狂うこともなく、冷たく「ぼく」に軽蔑のまなざしを向ける。そんな状況にあってもとりみだすことなく優越的な姿勢を保って「ぼく」をさげすむエーミールに、暴力衝動を覚えるほどの怒りと屈辱がこみ上げ、《そのとき、ぼくは一度起こってしまったことは二度ともと通りにすることはできないのだと、はじめて悟った》のだった。いたたまれない気持ちで帰宅した夜、「ぼく」は宝物にしていたコレクションを自らの手で押しつぶし粉みじんにしてしまう。

衝撃的なラスト/なぜ「ぼく」は大切な宝物を破壊したのか
物語は「ぼく」がそれまで夢中になってに集めてきた宝物──標本を自らの手で破壊してしまうという衝撃的なシーンで幕を閉じる。
採集&コレクションは「ぼく」にとってこの上ない楽しみの世界だったのに……なぜかと言えば、もう楽しみとしてこの趣味にひたることができなくなってしまったからだろう。これからはコレクションを見るたびに、醜悪な記憶が呼び覚まされる……それまで集めてきた至福の宝物が心の傷を深く抉るトラウマ・アイテムになってしまったからだ。癒しの世界が心の傷をえぐるというジレンマ──これが強い余韻となって残る。

『少年の日の思い出』の魅力
短い作品だし、内容もシンプルなので、ストーリーは読み返すまでもなく頭の中に入っている。しかし、それでも読み返してみたくなるのは、自らの手で宝物を葬ってしまった「ぼく」の心情とはどんなものだったのだろう──と再び物語の中に身を置いて想像(追体験)してみたくなるからだろう。
「ぼく」は美しい蝶や蛾を目にしたとき《子供だけが感じることのできるあのなんとも表現のしようがない、むさぼるような恍惚状態におそわれる》と語り、昆虫採集の情熱について《繊細なよろこびと、荒々しい欲望の入り混じった気持ち》と表現している。
ヘッセは少年の心理を的確に表現しているが、それはいったいどんな気持ちなのか──複雑な心理を行間からもすくい上げたくなって、再び読んでみたくなる。ストーリーは分っているのに再読したくなるのには、そんな魅力がこの作品にはあるからだろう。
世間的にはどこにでもありそうな小さな出来事だが、少年にとってはとても大きく重い黒歴史──日常の片隅で展開されていた少年の密やかドラマを〝追憶〟の形ですくいあげた繊細な作品という印象がある。

構成について思うこと/疑問
『少年の日の思い出』を初めて読んだとき、「この作品は、中学生の教材としては(読むのに)早いのではないか……」と感じた。「ぼく」の心理や行動は、中学生なら共感できるところもあるだろうし、描かれている心情を読み解くという教材としての設問要素はふんだんに含まれた作品ではあるけれど、この作品の〝味わい〟をしみじみと鑑賞できるのは、むしろ大人の世代だろうという気がしたからだ。邦題が示しているように、『少年の日の思い出』→大人になって振り返る〝追憶〟であることに、この作品の〝味わい〟がある。もちろん中学生の時に読んで印象に残ったという人も多いだろうが、そういう人も大人になって読み返すと、中学生時代とは、また違った感慨を抱くのではないだろうか。
作者も、おそらくそういう意図で描いている。もし、読者対象が子供であったのなら、冒頭の「私」が主人公のシーンはいらない。「ぼく」のパートだけでエピソート(物語)としては成立する。それをわざわざ、子供を持つ身となった親の〝現在〟から回想する二重構造の形をとったのは、少年時代の未成熟・未分化な情動を回顧する〝追憶〟に味わいがあると感じていたからだろう。

ところで、この作品で疑問に感じたことがある。読み進む上での障害になるほどではないのだが、ひっかかる点が2箇所があった。
先に記した二重構造とも関係があるのだが……この作品には冒頭の「私」のパートと、メインのエピソードを描いた「ぼく」のパートで、2人の一人称(主人公)が存在する。〝追憶〟というテーマや作品の構造から判断すれば、この作品の主人公は「私」だと僕は考えているが、物語のメインパートの「ぼく」が主人公だと捉える人も多いだろう。どちらが本来の主人公か──ということはさておき、どうして「私」と「ぼく」の2つの一人称が混在するのか──というのが疑問の1つ。この作品は「私」の視点で始まりながら、「ぼく」の視点で終わっており、構成的には安定が悪い印象もなきにしもあらず。
「私」の視点で描き始めたのであれば、「ぼく」のパートは三人称で処理し、最後にもう一度「私」の視点に戻って幕を閉じた方が落ち着きが良い。そのさいは「私の客」が吐露した黒歴史に対して「私」が何か気のきいた新たな視座でまとめる形が望ましい。
ヘッセとしては、最も衝撃的なシーンで幕を閉じるのが効果的と考えて「ぼく」のパートをラストシーンに据えたのかもしれない。であるなら、冒頭のシーンも、「私」ではなく、知人宅を訪問した客の側の「ぼく」の視点で描き、一人称を統一できたはずだ。
いずれにしても一人称は統一できたはずで、その方が自然なのに、どうしてそうしなかったのかがよくわからない。

気になったもう1点は、重要な役どころの「エーミール」の呼称だ。作中でエーミールが最初に登場した時──「ぼく」がコムラサキを見せる場面では、名前は明かされず「少年」とだけ記されている。それが2年後のクジャクヤママユのエピソードでは「エーミール」と、名前を明記している。名前を出すのならコムラサキのエピソードのときから「エーミール」と表記しておくべきだったし、それが自然だ。書いている途中で名前を決めたのだとしても、推敲のさいに「エーミール」で統一できたはずだ。これもなぜ統一しなかったのか腑に落ちない。

この2点が、どうして統一されていないのか、ちょっと不思議に感じている。
もしかすると、ヘッセは思いつくままに展開を書きとめていって、それがそのまま調整されずに残されてしまったのだろうか……?
たとえば、当初《「私」を訪ねてきた客に標本を披露したところ、謎めいた反応を示す→客が吐露した意外な〝少年の日の思い出〟とは……》という発想プロセスで書き進め、客の語るパートでは一人称がふさわしいと感じてメインパートも一人称で書き進めた……とか?
登場する〝模範生の友人〟については当初名前を付けずに「少年」として書き進めたが、クジャクヤママユのエピソードを綴る段階で名前はあった方が良いと考え、そこで「エーミール」という名前をつけて書き進めた……そうして書き上げた原稿を調整する間もなく(?)発表した?──そんな可能性も想像してみたが、その後推敲する機会はあったはずだ(文末の「訳者あとがき」によると『少年の日の思い出』は改稿版で、20年前に初稿が発表されているという)。
案外(?)ヘッセは、僕がひっかかった未整理の部分を問題とは考えていなかったのかもしれない。
読者として読み進むには、さして障害にはならなかったのだから、不統一ののままでもかまわないと判断したのかもしれないが……作法的には(?)整理(調整)して不統一を解消しておけば、作品としてより美しくスマートな形になっただろうに……などと思ってしまう。



一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出
『赤いカブトムシ』読書感想 ※虫屋の情念を感じた作品
『谿間にて』と北杜夫氏の印象 ※虫屋の情念を感じた作品
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ

新型コロナ:予防接種の考え方(追記あり)

緊急事態宣言が継続中の新型コロナウイルス禍。パンデミックを押さえ込むのに重要な役割りを果たすのがワクチンだろう。予防接種率を高めることで感染リスク(発症率や重篤化)を抑えることができる。
ただ、ワクチンである以上、ある一定の確率で強い副反応が起こることはまぬがれない。それでも稀に起こる重篤な副反応被害よりも、全体が享受できる利益・恩恵の方がはるかに多い──ということで、予防接種は奨励されている。
公衆衛生的には、それで多くの人の生命を救い健康を守ることができるのだから、推奨されるのは、もっともなことだろう。
とは言え、単に《リスクより恩恵が大きい》ことをもって予防接種のみを正しい選択と短絡的に捉えるのは危険な気がしている。

予防接種をせずに感染症を発症した場合は標準装備(自然に備わっている免疫機構)が突破された、いってみれば《天災》だが、予防接種をしたことで起こる服反応は、人為的な行為がもたらした結果なのだから《人災》ともいえなくもない。
本来であれば(予防接種を講じなければ)「多くの人が〝天災(感染症)によって〟命を落とす」ところを、ワクチンを打つことによって「その多くの生命を救うことができる」一方、それと引き換えに「(人為的な措置によって)少数の犠牲者を出す」ことにもなる──という構図だ。社会全体からすれば得られる利益は大きく、引き換える損失は少ない。
つまり、ワクチンによる予防接種というのは《少数の犠牲者の上に大勢を救う人為的な措置》だということが言える。
総合的にみれば、確かに《リスクより恩恵が大きい》。しかし少ないとはいえ、必ず犠牲者は伴うし、それが人為的なものであることを忘れてはならない。副反応による重篤化リスクが、たとえ1%にも満たないわずかなものであっても、それは確実に存在し、該当してしまった人にとっては100%の現実となるからだ。
予防接種は空弾倉がやたらに多いロシアンルーレット》──そんな見方だってできなくはない。

予防接種が《少数の犠牲者の上に成立する大勢を救うシステム》であることを考えると、恩恵を受ける多くの人が、少数の犠牲者に対する補償を負担するのが妥当だろう。予防接種のコストには重篤な副反応がでた人に対する補償を折り込んでおくべきだと思う。実際にはどうなっているのか僕にはよくわからないが……制度上は《予防接種法》というのがあって、接種による健康被害については救済を受けることができることにはなっているらしい。

しかし、先日の報道(接種から3時間半で急死…死因は「急性虚血性心不全」遺族が“詳細な検査”を依頼)によれば、国内で新型コロナワクチンの予防接種後に亡くなった人は少なくとも196人いるそうだが、予防接種との因果関係が認められたものはまだ無いという。
接種率を上げることが感染症の抑止につながることから、推進する立場の人達(政府?)は、(推進のブレーキとなる)副反応被害を認めたがらないというような事情でもあるのだろうかと疑いたくもなってしまう。
本来であれば、予防接種というのは《少数の犠牲者と引き換えに大勢を救う人為的な措置》であることを周知し、《副反応被害に対しては速やかに救済措置が適用される》という補償体勢とセットで推奨されるべきものだろう。推進上、つごうの悪いリスク部分を矮小化したり認めたがらないようでは、システム自体の安心・信頼を得られない。
《リスクより恩恵が大きい》ことは確かだろうが、リスクを軽視(矮小化)することで予防接種を推進しようとしているのであれば、問題がある。
予防接種の前に、罹患歴の有無(すでに抗体を持っているかどうか)を確かめる抗体検査の選択肢がもっとあっても良い気がするし、人によって(生活環境の違いで)感染のリスクは一様ではない。一律に《全ての人が予防接種を受けるべきだ》と考えるのは拙速な気がするのである。

【追記/2021.06.19】本記事を投稿した後、〝接種後の死亡例についての報道〟を批判する記事をいくつか目にした。「本当にワクチンの副反応で死んだのか確かめられていないのに、接種への不安を煽るのはけしからん! あいまいな報道で接種率が下がって感染者が増えたら責任はとれるのか!」みたいな論調に、強く違和感を覚えた。
予防接種を受けない人を、まるで「当然はたすべき義務を怠っている迷惑者」であるかのように捉えている人はけっこういるようで、ワクチンをめぐる独善的な考え方が広がっている気がする。
ワクチンの効果について《科学的な裏付けがある》のだから、「受ける事が正しい(合理的)」→「受けないのは誤り(非合理)」と短絡的にとらえている人が多いためだろう。
もちろん、こうした同調圧力やワクチン・ハラスメントを危惧する声もあるが、ワクチン接種は《少数の犠牲者と引き換えに大勢を救う〝人為的な予防措置〟》であるということを認識する必要があるように思う。



新型コロナウイルス報道をみて感じること
コロナ危機のとらえ方
新型コロナ予防接種について思うこと

エッセイ・雑記 〜メニュー〜
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ