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移行記事の画像行間空き解消法

既にサービスを終了しているYahoo!ブログからFC2ブログへ記事をインポート(移行)したとき、いくつかの不具合があったのだが(*)、その1つ──画像と画像・あるいは画像と文章を詰めて(行間を空けずに)設定していた記事が、(自動)移行後の記事では画像の後に「1行空き」ができてしまうという件。
01FC2ブログ移行画像分断
見映えは悪いが、内容はわかるので放置していたが、《本文の編集》画面で画像の後に2つ連続していた改行コマンドを1つに減らすことで、1行分の空きを解消できるとわかった。

01改行コマンド校正



※自動移行(インポート)したもの⬆と改行コマンドを整理したもの⬇


マツヘリカメムシ:卵・幼虫・成虫より⬆

行間ゼロにはならないため、2つの画像を連続したところではわずかに分断が残るものの、文章に続く箇所ではだいぶ見映えが改善した。
ただ、記事を1つずつ手作業で修正して行くのは大変なので、どこまで整理できる(する)かは未定……。



FC2ブログへ移行してきて気づいた問題点

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記憶層と忘却の浸食

記憶の地層を忘却が浸食する…
記憶力の劣化を実感することの多い昨今……。つい今しがたのことが思い出せなかったりするのに、その一方、ずっと忘れていた子供の頃の記憶が、ふと鮮明によみがえってきたりすることもある。最近のことはすぐ忘れるのに、遠い子供の頃の記憶が、かえって鮮明化してきたような……記憶の不思議を感じている。

最近あった出来事の記憶は、川面に落ちた木の葉のように時の流れとともに、どんどん流れ去って行く。昔はもっと堆積していたはずなのに……。
時の流れは、これまで堆積した記憶の層をも削っていき、「忘却」という浸食によって、古い地層(記憶層)に埋まっていた記憶が意識の表面に顔をのぞかせるようになった──といった感じが、しないでもない。

歳をとるごとに時の経過を早く感じる《時間の加速感》については、過去に何度か記事にしているが(*)、【長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象】でも記したように、記憶力の低下にともう《忘却力》の浸食で、「時間経過」を実感する物差しであるところの「記憶層の厚み」はどんどん減ってきており、遠い子供時代の記憶がむしろアクセスしやすい浅いところに浮上してきた感じを受ける。

たとえば「50歳のときの10歳」より「60歳になってからの10歳」は物理的(時間的)には遠くなっているのに、主観的には「近く」感じられるようになってきた。これを《記憶の地層》に例え、《回想深度》という言葉で示すと、こんなぐあい⬇になる。
01記憶層図解
「50歳」と「10歳」の記憶の間にはその間に体験した記憶層が広がっていて、この厚みが時間的距離感を作っている。記憶力がしっかりしているうちは、この記憶層は年々増えて厚くなっていくわけだが……歳をとってくると新たに形成される記憶層は少なくなり、それとは逆に、忘却による浸食で消失する部分の方が増えてくる。
図に示したのは、記憶層の増減が逆転したケース。「50歳」から「60歳」になるまでの間にも新しい記憶の層は形成されるが(黄色い矢印=新記憶)、この間に忘却によって記憶層全体が目減りしてしまっているので(青い矢印=忘却)、全体としては「10歳」の記憶はむしろ「60歳」になってからの方が近くなっている──つまり「回想深度」が「50歳」のときより「60歳」になってからの方が浅くなった分、子供時代の記憶にアクセスしやすくなった……そんな解釈もできるのではあるまいか。

「同じ場所」が記憶の中では「違う場所」に保管!?
疲れているとき・ぼうっとしているときなど、意識力が低下している時に、ふと子供時代にみた風景──町並みが鮮明に脳裏を満たすことがある。
僕は子供の頃と同じ町に住んでいるが、当然のことながら町並みはずいぶん変化した。平屋の住宅が区画整理されて団地に変わったり、畑や雑木林が姿を消して「同じ場所」でありながら、見た目はかなりの変貌をとげている。

現在の町並みに記憶はすっかり更新済みで、ふだんは「その場所」が昔どんなだったか、にわかには思い出せない状態にあるのだが……子供時代に見た景色が脳裏に広がったときには、主観はその景色の中にあって、逆に毎日目にしている現在の「その場所」のようすが思い浮かばなかったりする。

脳裏の広がった過去の景色は地続きで、「主観」は何処へでも行ける。学校や友だちの家の庭、よく遊んだ路地裏、登下校で通った道──鮮明に目に浮かぶのだが、これが「現在のもの」とスケール感が違っている。道幅はずっと広いし、奥行きも広がっていて道の先が遠くなっている。垣根も高い。止まっている自動車のルーフも高い。大人になってからはずっと見下ろしていた風景が、記憶の中では見上げる景色に変わっている。子供の低い目線から見た光景として脳内再生されるのだ。
大人になってから子供の頃に過ごした場所に行ってみるとなんだか狭くなったように感じるのと逆の現象である。スケール感の変化をともなう町並みのリアルな記憶は妙に新鮮だったりする。

現在の町並みを認識しているときは昔の町並みが思い出せず、昔の町並みが脳裏に広がっている時は、現在の町並みが思い浮かばない……同じ場所でありながら、脳の中では(記憶は)別の領域に保存されているのだろうか?
あるいは、現在と過去とで同じ場所の記憶がゴッチャになっては都合が悪いので、現在と過去を混線させないように分離する処理機構が働いているのかもしれない。

記憶というのは不思議だと感じることがしばしばあるが……記憶は完全に主観的なものなので、「現象」を説明することはできても、その実感をほかの人に伝えるのは難しい。
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象】でも記したが……歳をとるほど「振り返ってみれば人生は短い」感が増すのではないかという見方は当っているように思えくるのだが、他の人もそう感じるものなのだろうか。
人生の主観時間の長さの実感は、単に「それまでの人生時間:残りの人生時間」の比率の問題だけではなく、「記憶層の厚み」の問題が、からんでいるように感じる昨今である。



時間の加速感
時はどんどん加速する
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
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ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳

01あなたに似た人表1
02新訳版収録作品

ロアルド・ダールで懐かしい虫とり気分!?
ふと、ロアルド・ダールを読んでみたくなった。「短編の名手」というウワサはだいぶ昔から知っていて、いくつかは読んだことがあったような……読んでないかもしれないような……記憶が定かではない。とりあえず覚えていた短編集のタイトル『あなたに似た人』を検索してみた。現在は新訳版のⅠとⅡがハヤカワ文庫(早川書房)で出ているようだ。市内の図書館で蔵書検索してみると1カ所にあったが、あいにく2日続けての休館日。「短編の名手」のよく知られた短編集の文庫版なら好きな時に読めるように手元に置いておいてもいいのではないかと考え、近くの本屋にあれば買いに行くことにした。蔵書検索してみると3駅はなれた書店に在庫があることが判明。Ⅰ&Ⅱともに「在庫僅少」となっていた。残りわずかということになれば、買える時に買っておかないと、あとで悔やむことがある。「在庫僅少」と知ってあわてて買いに行った本が、僕が買った後に「在庫なし」になったことを知ってホッとした経験もある。検索したのが夜(書店の営業時間外)だったので、翌日買いに行くことにした。
インターネット上で購入すれば買いに行かなくても届くわけだが、絶滅危惧職(?)の書店保全活動の一環として、なるべく書店へ足を運んで本を買いたいという思いもある(*)。在庫を確認した書店で、置いてある書棚の位置も確認して翌日買いに出かけた。
さて、お目当ての本を買うために書店へ向かう途中──電車の中で妙な期待と緊張を感じた。前日にネット上で在庫があることを確認してはいるが、予約したわけでもないし、ひょっとして僕が行く前に売れてしまうことだってあり得ないことではない。在庫上は本棚にあることになっているが、万引きにあっていたり何らかの理由で帳簿上の数字と在庫が一致しないなんてことだってあるだろう。とにかく現場に行ってみるまでわからない……そんな不安も去来してひとりドキドキし──この感覚に、ものすごく懐かしいものを感じた。
小学生の頃、早起きをしてカブトムシをとりに雑木林に向かうときのワクワク・ドキドキ感と同じ──。目指す雑木林には樹液を出す木があって、ここにカブトムシが来ることはわかっている。きっと夜の間に来ているだろう。僕がついた時にも、きっと樹液ポイントにかじりついているはず……。しかし、僕がつく前に他の子が来てとってしまう可能性もある。到着したとき、いないことも考えられないではない……そんな期待と不安が交錯する心理。
書店に到着して、該当の書棚の前に立ち、あるはずの位置にお目当ての本が並んでいるのを確認した時は、子供の頃に目指す木でカブトムシが樹液ポイントにかじりついている姿をみつけたときのような高揚感があった。
ものすごく久しぶりにカブトムシをとりに行った時の感覚がよみがえった。
『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』を買って帰ったあと、思い立ってその店の蔵書検索をしてみると、『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』は「在庫僅少」、『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』は「在庫なし」になっていた。

あなたに似た人〔新訳版〕の収録作品
1957年10月にハヤカワ・ミステリで、1976年4月にハヤカワ・ミステリ文庫で刊行した『あなたに似た人』(ロアルド・ダール)に「ああ生命の妙なる神秘よ」「廃墟にて」を加え、田口俊樹氏による新たな訳で2分冊としたもの。ハヤカワ文庫(早川書房)・2013年5月15日発行。僕が買ったⅠの方は3刷(2017年7月)だった。新訳版の全収録作品⬇。

『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』〈収録作品〉
味/おとなしい凶器/南から来た男/兵士/わが愛しき妻、可愛い人よ/プールでひと泳ぎ/ギャロッピング・フォックスリー/皮膚/毒/願い/首

『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』〈収録作品〉
サウンドマシン/満たされた人生に最後の別れを/偉大なる自動文章製造機/クロードの犬/ああ生命の妙なる神秘よ/廃墟にて

『あなたに似た人』との再会
最初の作品『味』を読み始めて、「ああ、この話だったか!」と筋書きを思い出した。いつ読んだかの記憶は定かではないが、確かに過去に読んでいる。3番目の『南から来た男』も同様に読み進めるうちに筋が見えてきた。
〔新訳版〕はⅠに11編、Ⅱに6編が収録されているが、全作品を読んで、以前に読んだ記憶があるのは『味』と『南から来た男』の2編だけだった。2編とも印象は良く、記憶の中でも「おもしろい」と感じていた。ただ……期待していたほどの傑作集ではなかった……という感覚もあったのが正直なところ。
僕が昔、『あなたに似た人』(田村隆一による旧訳版)を手にとっていたのは、ロアルド・ダールが《奇妙な味》の名手で、この作品集に傑作が含まれているといった情報を得てのことだったように思う。それでお目当ての『南から来た男』をまず読んだのではなかったか……そんな気がする。そのとき冒頭の『味』も読んで、「(そこそこ?)おもしろい」と感じたのではなかったか……。
当時、O・ヘンリーの『最後の一葉』のような、あるいはそれ以上の作品が詰まっていることを期待して読んだので、期待値が高かったわりに(高かったために)満足度が追いつかず、「おもしろい」と感じながらも、作品集としては物足りなさを覚えたような気がする。
おそらく図書館で借りるなどして、2編を読み、他の収録作品も読みかけたか、ざっと目を通したかもしれないが、期待したほどのものではないと感じて、図書館に返してしまったのではなかったか……。
今回あらためて全作品を読んでみて、必ずしも完成度が高い作品ばかりではないということは感じたが、ただ、作品のレベルとは別に《奇妙な味》は漂っていたりするので、この感覚を楽しむことができる作品集という意味では、読む価値があるのではないか……ということも感じた。

ロアルド・ダールは《賭け》が好き!?/印象に残った作品
『あなたに似た人』には、やけに《賭け》の話が多い。

『味』では、晩餐会でホストが厳選したクラレット(ボルドー産赤ワイン)の銘柄と収穫年を当てられるかどうかで賭けが始まる。「当てられるはずがない」というホストと「当てられる」というゲストの意地の張り合いがエスカレートして、二軒の家と娘(との結婚)を賭けるという異常な展開となる。賭けが成立するまでの攻防や、ゲストがワインを味わいながらそのウンチクを駆使して産地を推理し絞り込んで行く過程が、リアルかつスリリングで、見せ場となっている。はたして結果はどうなるのか──と読者の興味を高めておいて、意外なラストが用意されている。仕掛け自体はそれほど凝ったものではないが、読者は賭けの展開に意識を集中して(させられて)いるので、意外性の効果は大きい。ダール作品には「なあんだ」という結末に落ち着くものもあるが、「肩透かし」も「意外性」のうち。『味』はトリック(仕掛け)よりもミスディレクション(読者の興味を仕掛けとは別の所へ誘導する技術)の巧みさが光る好短編だった。

『南から来た男』も《賭け》をテーマとした作品だ。ライターが10回続けて点火できるかどうかで賭けが始まる。賭けを持ちかけた南アメリカ出身の小男は金持ちで大きな賭けを望むが、ライターを自慢したアメリカ水兵の若者は賭けるものがない──そこで、「高級車」と「左手の小指」を賭けるという奇妙な展開になる。若者の左手を固定し切断できる準備を整えると、賭けが始まる。カウントダウンかロシアンルーレットのように、ライターの点火が繰り返されて緊張が高まって行く──そのさなか、小男の妻とおぼしき女が現われ、賭けは中断される。ここで読者の緊張も一度途切れて「なぁんだ、そういうことか」となるが、最後の最後に緊張が走る結末が用意されていた。緊張を徐々に高め、ホッと油断させたところに一撃を打ち込むという《作者のたくらみ》に拍手を送りたくなる。《奇妙な味》が漂う好短編。これは傑作と言っていいだろう。

『わが愛しき妻、可愛い人よ』も賭けブリッジの話で、意外な展開でイカサマが発覚する。

『プールでひと泳ぎ』は、乗っている旅客船の航行距離を当てるオークション・プール(競売形式の賭け)で、大金を賭けてしまった男が、形勢不利と知って突飛な解決策をくわだてる──策謀と破綻の皮肉な話。悪意のない「台無し」感をさらりと演出したラストに味わいを感じる。

『首』の中にも、本筋から離れたところで賭けカードゲームが出てくる箇所があり、『クロードの犬』はドッグレースでイカサマをして大もうけを企てる男たちの話である。

こうしてみると、ロアルド・ダールの作品には「賭け」がよく出てくる。その人の人生の明暗を分ける端的なエピソード・運命の岐路として判りやすく感情移入もしやすいということなのだろうか。
ふり返ってみると、僕も「賭け」をあつかった作品を書いている。小学生を読者対象に想定していたので、掛け金自体は小額だが、カエルの超能力の証明と言う謎めいた要素をからませたショートショートだった。また作品として書いたわけではないが、夢に関する記事の中で、夢にみたエピソードとして、仕掛けのある賭けを書いたこともあった。賭けというのは、勝つか負けるかわからないものだが、「必ず勝てる仕掛け」があれば誰しも関心を示すものではなかろうか……。

話をロアルド・ダールの作品に戻して……『願い』は想像力のたくましい少年が主人公。彼は絨毯を彩る3色の模様を見て思う。赤い模様は真っ赤に燃える石炭で、落ちたら丸焼けになる。黒い模様には毒蛇で、触れれば咬まれて死んでしまう。安全な黄色い模様だけをたどって絨毯を渡りきることができるだろうか?《もし無事に──丸焼けにもならず、咬みつかれもしないで──玄関までたどり着けたら、明日の誕生日にはきっと仔犬をプレゼントしてもらえる》──少年はそう考える。これも「勝ったら願いが叶う」という自分に課した《賭け》のようなものかもしれない。
子供にはありがちな、そして大人には懐かしい、たあいもない空想遊び。退屈な日常の中でスリルのある遊びを発見する──この着想は面白いし共感がもてる。だから少年の気持ちになって読み進むことができた。が、この作品は結末が弱い。空想遊びの着想が面白かっただけに、もうひとひねりしてキレの良いオチが欲しかった……読者としては、そんな気持ちになる。
ロアルド・ダールは「おもしろい着想」を核に作品を構築しているが、この着想が設定であることもあるし、オチ(結末の意外性)であることもある。その両方に工夫が見られる作品は純粋に「おもしろい」と感じるが、そういう高水準の作品ばかりが書けるわけではない。しかし、高水準の作品を読んだ読者は、すべての作品にその水準を求めたくなってしまう……。
『あなたに似た人』では、『顔』や『南から来た男』が面白かっただけに、読者の期待を高め、面白さのハードルを高くしてしまった面もあったのではないか。
そのため「おもしろい着想」が設定だけにあるものは結末が物足りなく感じてしまい、オチだけに工夫があるものは、中盤の面白味が薄く感じられてしまう……。この『願い』も、設定としての着想が面白かっただけに、結末にもう一工夫あったらなぁ……という印象があった。
例えば──この作品を読んで頭に浮かんだ4コマ漫画がある。中川いさみの『クマのプー太郎』の1本なのだが……1コマ目でコンビニ袋を下げた松村くんというキャラクターが路側帯の白線上を歩きながら、こうつぶやく「白線の両わきは海だ!! サメとかうじゃうじゃいて落ちると死ぬ!!」──これは『願い』の絨毯の上を歩く少年と同じ、〝日常の中の空想遊び〟で、やはり着想がおもしろいと感じた。この4コマ作品の傑作なところは、白線の上を慎重に歩いている松村君が、やはり白線上を歩いてきたサラリーマン風のオッサンとかち合うという更なるアイディア──同じ空想遊びをしている人をもうひとり登場させたことにある。松村くんとオッサンが、互いに白線からはみ出ないように絡み合ってすれ違おうとしているこっけいな姿を通りがかったおばさんが冷ややかに眺めている4コマ目には大笑いつつ素晴らしい決着だと感心した。空想遊びという面白い着想をさらに捻って発展させ、おもしろいオチにつなげる──《作者のたくらみ》という点ではこの4コマ作品の方が、工夫を重ねたぶんだけ優れている。
もしかすると、中川いさみはダールの『願い』を読んでいて、やはり「もうひとひねりできなかったか……」と物足りなさを感じていて、この4コマ漫画の着想を得たのかもしれない。

このように『あなたに似た人❲新訳版❳』の収録作は全て完璧な作品だけで構成されているわけではないのだが、「物足りなさ」を感じる作品には、これを補足し充足するものを求める心理がはたらく……不足分が読者の想像力を逆に刺激し高めているともいえる。作品の出来・不出来とはまた別に、読者の「《奇妙な味》に対する感受性を高める」効果──これもダール作品を「読む価値」といえるのではないかという気がしている。

ロアルド・ダールの作品を読む価値
「《奇妙な味》に対する感受性が高まっている」からこそ生まれる「もう少し何とかならなかったものか……」という物足りなさ──そう感じさせること自体にも《読む価値》があったのではないか──と今は考えている。
物足りなさ感じさせる作品が混じっていることで、読者の脳は《奇妙な味》の完成欲求が高まる──いってみれば《奇妙な味》の受容体が活性化(鋭敏化)しているような状態。これは、すでに作品群に魅せられている中毒症状(?)ともいえなくもない。
さらにいえば、この《奇妙な味》に対するの完成欲求が、「それでは、どんな設定だったら/あるいは、どんな結末だったら、満足できたのか」という方向に働き、あらたな着想に引き寄せられる……なんていう作用もありそうな気がする。
というのも、今回僕は「もう少し何とかならなかったものか……」と思いながら収録作品を読んでいる間に、《奇妙な味》の着想を3つ得ている。

小説を書く人なら、作品の着想をどう得るか──というのはもっとも関心のあることの1つだろう。もっともらしいセオリーのようなものもあるようだが、けっきょく「おもしろい着想」を得るための技術というのは「インスピレーションが浮かびやすい心理状態をいかに作るか」だと僕は考えている。ロアルド・ダールの作品を読んでいると、脳味噌が《奇妙な味》を感じやすい状態にシフトする──アイディアが降りて来やすい心理状態を作るという作用──そこにも、ダール作品を《読む価値》があると感じるのである。
『あなたに似た人❲新訳版❳』は、特に創作をしている人には着想刺激剤としての効能(?)もある、ありがたく貴重な作品集ではないだろうか。

ちなみに、僕も《奇妙な味》系の作品──《作者のたくらみ》を核とするアイディア・ストーリーを書いており、一口サイズの読み切り作品をいくつかブログにもあげている。

■星谷 仁の《奇妙な味》系の作品(♣)&着想(♧)
愛しいまぼろし ※死んだ愛猫が見える少女!?
金色の首輪 ※猛獣をも制御できる不思議な首輪
チョウのみた夢〜善意の報酬〜 ※蝶の恩返し!?
人面ガエル ※人面蛙の呪い
カエルの念力 ※カエルの念力をめぐって賭けをすることに
赤いクモ〜夢の前兆〜 ※人にはそれぞれ前兆夢がある!?
地震の予知〜作家の死〜 ※誰も知らない不思議な予兆
不老の理由 ※ある事故以来、若さが保たれている理由とは…
守護霊〜霧に立つ影〜 ※ピンチの時に現れる友の守護霊
暗示効果 ※暗示でダイエット
因果応報 ※愛息子の死は何の因果だったのか…
神への陳情 ※地球の危機を救うのは…
トイレでタバコを吸わないで ※トイレで喫煙すると恐ろしい事が…
フォト怪奇譚『樹に宿る眼』 ※枝痕を見ての着想
巻貝が描く《幻の地図》 ※幻想怪奇的着想
キリギリス幻想 ※キリギリスを見ていて浮かんだ着想
つれづれに夢の話 ※夢の中でできたショートショート
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絶滅危惧!?消えゆく本屋と雑木林
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太宰治随想集『もの思う葦』には2種類ある

太宰治のエッセイ集『もの思う葦』には新潮文庫版と角川文庫版があって収録作品に違いがある
01もの思う葦2表紙

先日、太宰治のあるエッセイを確認したくて近くの図書館へ出かけた。その作品は新潮文庫の『もの思う葦』という随想集(随筆集)に収録されているのだが、自宅に近い図書館には新潮文庫版がなく、角川文庫の同タイトル随筆集を借りてきた。ところがお目当ての作品は載っていなかった。分厚い太宰治全集(筑摩書房)になら収録されているだろうと図書館で随想を集めた巻の『太宰治全集 10』を開いてみるがやはり見つからない……。結局、書店で新潮文庫版の『もの思う葦』を買ってきて問題のエッセイを確認することができたわけだが、太宰治の随筆集『もの思う葦』には2種類の文庫版があって、収載作品に違いがあることがわり、まぎらわしいので、収録作品の比較を記録しておくことにした。


新潮文庫『もの思う葦』(著者:太宰 治/解説:奥野健男)収録作品(49編)は──、

[I]
もの思う葦
碧眼托鉢

[II]
古典龍頭蛇尾
悶悶日記
走ラヌ名馬
音に就いて
思案の敗北
創作余談
「晩年」に就いて
一日の労苦
多頭蛇哲学
答案落第
一歩前進二歩退却
女人創造
鬱屈禍
かすかな声
弱者の糧
男女川と羽左衛門
容貌
或る忠告
一問一答
わが愛好する言葉
芸術ぎらい
純真
一つの約束
返事
政治家と家庭
新しい形の個人主義
小志
かくめい
小説の面白さ
徒党について

[III]
田舎者
市井喧争
酒ぎらい
自作を語る
五所川原
青森
天狗


わが半生を語る
「グッド・バイ」作者の言葉

[IV]
川端康成へ
緒方氏を殺した者
織田君の死
豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説
『井伏鱒二選集』後記

[V]
如是我聞


新潮文庫版『もの思う葦』に収録されており、角川文庫クラシックス版『もの思う葦』には収録されていない作品を抜き出すと──、

[II]
古典龍頭蛇尾
走ラヌ名馬
音に就いて
創作余談
多頭蛇哲学
一歩前進二歩退却
女人創造
男女川と羽左衛門
容貌
或る忠告
わが愛好する言葉
政治家と家庭
新しい形の個人主義
小説の面白さ

[III]
田舎者
市井喧争
酒ぎらい
自作を語る

「グッド・バイ」作者の言葉

[IV]
川端康成へ
緒方氏を殺した者
豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説
『井伏鱒二選集』後記


角川文庫クラシックス『もの思う葦』(著者:太宰 治/解説:柳 美里)には収録されているのに、新潮文庫版『もの思う葦』になかった作品は──、

春寝
知らない人
無趣味
パウロの混乱
世界的
郷愁

──だった。同著者同タイトルの随想集(随筆集)──しかもともに文庫版なのに収録作品に違いがあるのは、まぎらわしい。お目当ての作品がどの本に収録されているのかいないのか、確かめられるようにプチ記録してみたしだい。


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恥れメロス/今さらながら太宰治

01走れメロス
※太宰 治・作品集『走れメロス』/新潮文庫のカバー表紙と裏表紙の紹介文。

恥れメロス/感想:太宰治・作『走れメロス』
今さらながら太宰治の『走れメロス』を読んだ。この作品は教科書にも採用されているという。僕も国語の教科書で『走れメロス』というタイトルを目にしていたような気もするのだが……「読んだ」という記憶はない。ただ、一般知識として(?)内容については、なんとなく漠然と知っていた。「メロスは何か約束をして、定刻までに到着しなければ、自分の代わりに人質となった親友が処刑される──そんな状況で、メロスは自分の命と引き換えに親友を救うため、満身創痍になりながら、走った」という程度の認識だった。イメージとしては《友情や誠実さをうったえた作品》で、教科書に載るくらいなのだから《崇高な話》なのだろうと思い込んでいた。

教科書に載っていたらしいのに(?)、読んだという印象が残っていないのだから、(僕にとっては)面白い話ではなかったのただろう──そんな思いもあって、長い間、読み返してみよう気にはならなかったのだが、先日、ふと気まぐれを起こして読んでみたところ、やはり共感のもてる作品ではなかった。「ひどい話だなぁ」と言うのが第一印象。有名な作家の有名な作品なのだから、おそらく一般的(?)には評価も高いのだろうが、僕が感じたところを正直に記しておくことにした。
僕の感想を記す前に、まず『走れメロス』のあらすじはというと──、

    *    *    *    *    *    *

メロスは唯一の肉親である妹に結婚式を挙げさせてやるために10里離れたシラクスへ買い出しにやってきた。この市には無二の友人セリヌンティウスが住んでおり、彼のところへも寄るつもりでいた。市に入って活気がないことに気づいたメロスは老爺を捕まえてわけを問う。王様が猜疑心から人を次々に殺していると聞いたメロスは「あきれた王だ。生かしておけぬ」と激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬ」と決意して王城へ向かう。
しかし、メロスはあっさり警戒中の警吏(けいり)に捕縛されてしまう。それでもメロスは暴君ディオニス王に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と意見し、王は「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と応える。
メロスははりつけにされることになるが、その前に妹に結婚式をあげさせてやるための猶予を3日くれと懇願する。3日後の日没までに必ず戻って刑を受けるというメロスの「約束」を王は信じようとない。メロスは「約束」が本当であることを担保するために、友人セリヌンティウスを身代わりに置いて行くから約束が実行されなければ殺せばいいと王に提案する。王はメロスが死ぬために戻ってくるとは思っていなかったが、「約束」が嘘であったことを証明し「これだから人は信用できない」ということを世の中に知らしめるために、メロスの提案を受け入れる。
メロスは急いで村に帰り、まだ準備ができていないと拒む妹の婚約者を強引に説き伏せて、急きょ結婚式を挙げさせた。そして約束通りシラクスへ戻ろうとするが、川が氾濫して橋が流されていたり、山賊に襲われるなど、アクシデントにみまわれ、期限の日没までに王城にたどり着くのが困難な状況におちいってしまう。精根尽きて一度はあきらめかけたメロスだが、勇気を奮い起こし、走り続けて、セリヌンティウスの処刑が行われようとしていた刑場にかけこんで、ギリギリの間際で執行をくい止める。
友との再会を果たしたメロスは、いちどだけ「約束」をあきらめかけたことがあったことをセリヌンティウスに告白し自分を殴らせ、そのセリヌンティウスも一度だけメロスを疑ったことがあることを告げてメロスに殴らせる。そして2人は抱擁しあう。それを見ていたディオニス王は2人に感化され、自分の考えを改める旨の発言をし、群衆から喝采を浴びる。

    *    *    *    *    *    *

メロスとはなんと軽率&身勝手で自己中心的な迷惑者なのだろう──読みながら、そう感じた。
《友の命を救うために、メロスは自分の死をもいとわず、困難を乗り越えて約束を果たそうとし、勝利した》ということが、誇らしげに語られているが、もともとこの困難はメロス自身が招いたものである。不用意に王城へ乗り込まなければ、こんな騒動は起こらなかった。分別があれば充分に避けられた不幸だ。クライマックスで、ボロボロになりながら走り続けるメロスは自分を《勇者》だと叱咤激励しているが、とんだ《愚者》だ。このエピソードは自ら招いた不幸に飛び込んで活躍してみせるマッチポンプ英雄伝だ──読み終えて、そう感じた。

ツッコミどころは少なからず。物語の展開にそっていえば、まず、老爺ひとりの話から「王が猜疑心のために人を殺す暴君」だと信じ込み、真偽を確かめようともせずに「生かしておけぬ」と決意して王城へ乗り込むという行動が軽率すぎる。
ディオニス王を殺す決意で、無策のまま王城へ乗り込んだメロスは、当然のことながら、あっさり警備に捕まってしまい、逆に自分が処刑されるはめになるのが、なんとも「浅はか」だ。決意した使命の遂行はどうするのか。使命の重さに比べて行動が軽い。

作品の構図としては《性悪説のディオニス王(悪)》vs《性善説のメロス(善)》という対決の図式で、「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と説くディオニス王の対極に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と主張するメロスが位置づけられている。しかし、「根拠もなしに疑う」ことと「根拠もなしに信じる」ことは同じ。どちらも信憑性の視点を欠いた危険なとらええ方だ。「根拠のない思い込みに支配されて判断する」という点で、ディオニス王とメロスは同類に見えてしまう。

ディオニス王はメロスに「きれいごとを言っていても、はりつけになる時には命乞いをするに決まっている」という旨のことを言い、メロスは「死ぬ覚悟はできている。命乞いなどしない」と返す。メロスは自分には死ぬ覚悟があるが、妹に結婚式を挙げさせてやるために3日だけ猶予が欲しいと要求。自分は必ず戻ってくると「約束」するが、ディオニス王はメロスの言葉を一笑に付す。メロスはムキになり、「死ぬために戻ってきて、自分が正直者であることを王に認めさせてやる」という強い思いにとらわれるようになる。このあたりで、問題意識のピントがズレはじめる。
当初、メロスの怒りの発端は、猜疑心から人々を次々に処刑する(その日も6人殺されたという)暴君を許してはおけぬというところにあったはずだ。不当に人を殺す王を倒すことが「正義」だと信じて王城に乗り込んだのではなかったのか。なのに、ディオニス王に嘘つきだと決めつけられてからは、メロスは「約束」を守って自分が正直者であることを証明することばかりに心を奪われていく。メロスにとっては理不尽な処刑で人々が殺されている問題は、もうどうでもよく、自分の誇りを守ることばかりが頭の中を占めている。社会の正義よりも自分のメンツが大事だという過剰な自意識は、勇者のものではない。真の勇者であれば、自分の体面を汚してでも人の命を守ることを優先して考えるはずだ。しかしメロスは友の命を危険にさらしてまで自分の誇りを知らしめようとしているのが、いやしく見えてしまうのである。

無分別に王を殺しに行ってはりつけにされることになったメロスだが──これは自らの愚かさが招いた結果ともいえる。メロス自身が軽率のツケを払うのは自業自得だが、自分の私用(妹の結婚式)のために、親友を巻き込み、その命を危険にさらす人質にするという提案をメロスの側から王にもちかけるというのも、ひどく身勝手で迷惑な話だとあきれた。作品では「友情」や「信頼」を命がけで守ったメロスを賛美しているが、そんな「友情」や「信頼」などあったものではない。
メロスは自分の都合(3日の猶予の要求)を通すために、迷うことなくセリヌンティウスを身代わりに差し出してしまうが、セリヌンティウスにだって生活や都合があるだろう。自分の都合のことばかり考え、友の都合などおかまいなし。自分の失態で何の落ち度もないセリヌンティウスを巻き込むなど、あってはならないのに平気でそれをしている。自分の都合を通すために友の命を危うくする人質提案を、ためらうどころか自ら進んで持ちかけたメロスはつくづく身勝手て自己中心的な男である。

セリヌンティウスを人質にして解放されたメロスは村へ帰って、その夜に妹の婚約者に会い「あす結婚式を挙げろ」と迫る。仕度ができていない婚約者は当惑し「ブドウの季節まで待ってくれ」と懇願する。前日の夜になって「あす結婚式」と言われても婚約者はもちろんその親族や参列する人たちだって困るだろう。そうした他人の都合などかえりみずにメロスは自分の都合を押し通す。ここでも他者への配慮はみじんもみせず、迷惑を強いるうしろめたさも感じていない。ことが自分の思い通りに運んだことに満足しているだけである。

2日目に妹の結婚式を実現したメロスは3日目に「約束」をはたすべくシラクスへ向かう。しかしアクシデントに見舞われ、「約束」が実現不可能かと思われる事態に陥ってしまうわけだが、厳しい限界状況の中で、自分を「勇者」と叱咤激励するくだりは、自ら招いた(それも何の落ち度もない友人をも巻き込んでの)不幸であるのに、悲劇のヒーローになりきって陶酔しているようにも見える。
いよいよ追いつめられたメロスだが最後の力をふりしぼって、ギリギリのところで「約束」をクリア。王を含む多くの人たちの注目をあびる中でメロスは「名誉」を勝ち取ってみせることができた──この自己顕示的達成感はナルシストのカタルシスのように思えてしまう。

この作品で描かれているメロスの自意識──自己中心性、身勝手さは幼稚さ由来のものではなかろうか。自分の主張を通すために「死んでやる」とムキになるのは、幼稚な我がままに見える。
しかし太宰治は『走れメロス』の中で「誇りのために死ぬことができる」ということを、気高いこととしてアピールしており、それを劇的にみせることに腐心しているように感じる。これがメロスの(太宰治の)やりたかったことなのだろう。そのためのお膳立てにこのストーリーが選ばれた。ナルシストのカタルシスを満足させるための苦労話。しかし、これはメロスが不用意に王城へ乗り込まなければ、起こらなかった騒動だ。分別があれば充分に避けられたはずの騒動だが、「誇りのために死ぬことができる」ことを誇らしげに訴えるために、騒動が必要だったのだろう。

また本来本題とされるべきテーマ=《不当な圧政》問題とはずっとズレたところ(メンツにこだわる自意識次元)で話が進められていたのに、最後にあっさりディオニス王が改心して群衆から喝采を浴びて「めでたしめでたし」というのも、とってつけたようで、ご都合主義を感じる。この王に殺された者たちがそれでむくわれるわけではないだろうに。しかし、作者にとっては、メロスが命をかけて友を救い、名誉を守ったことが大事だったのだろう。

自分を英雄に仕立てるための苦難の状況をみずから作っておいて、その中に身を投じてボロボロになりながら、死ぬ覚悟で自分の勇気や誇りをアピールしてみせる──それが《マッチポンプ英雄伝》という印象につながって、僕は素直に共感することができなかった。

『走れメロス』を読んだ後に、作者はどんな人間だったのかといぶかって、ちょっと調べてみると、太宰治は井伏鱒二に師事していたらしい。これも「会ってくれなければ自殺してやる」と井伏を手紙で脅し、半ば強引に弟子入りしたらしい。実際に太宰治は自殺(愛人と心中)しているわけだが、何度も自殺未遂や心中未遂を繰り返している。最初に自殺未遂を起こした翌年に初めての心中未遂を起こしており、この時は太宰だけが助かって、相手の17歳の娘は死んでいる。最後に心中を遂げた時には、井伏鱒二も心中現場に駆けつけて捜索に参加していたという。さんざん迷惑をかけ恩義のある恩師に対して太宰は遺書で「井伏さんは悪人です」と書き残していたというのだから、ひどい話である。
また、太宰治は芥川賞の選考委員だった佐藤春夫に自分に賞をくれるよう懇願する手紙を出しているが、その中でも受賞できなければ死ぬとほのめかしていたようだ。
「死を持ち出して自己主張する」のは太宰治の常套手段なのか。自意識が高く周囲に迷惑をかけてきた人物像が、作中のメロスの自意識と重なる気がした。「死んで誇りを守らんとするメロス」にも太宰の心理癖のようなものが投影されていたと考えると納得できなくもない。

また、太宰の親友だった作家の檀一雄は『小説 太宰治』という作品の中で、『走れメロス』について触れており、「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と記しているらしい。太宰と檀が、熱海で放蕩三昧に明け暮れ酒代や宿代の支払いに窮したことがあって、太宰は檀を人質として宿に残し、東京へ借金をしに戻ったという。しかし何日待っても太宰は戻って来ず、しびれを切らした檀は借金取りと上京。太宰は井伏鱒二の家で将棋を指していたという。そこに踏み込んで怒鳴る檀に、太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」と言ったという。人質で待つ身の檀がセリヌンティウスで、待たせる身の太宰がメロスというわけだ。このエピソードは檀一雄が面白おかしく書いたものなのだろうが、太宰治の「友情」や「信頼」に対する認識はその程度のものだったのだろう。『走れメロス』で描かれていた「友情」や「信頼」が空々しく感じられるのも合点がいくところだ。

実際に読んでみる前まで《崇高な話》というイメージがあったために、よけいにギャップを感じることになったのかもしれないが、そんなわけで、僕は『走れメロス』を読んで、メロスの自意識に「これは勇者のものではない」ものを感じて共感することができなかった。しかし、これが太宰治という作家の自意識を投影して書かれた机上の英雄伝だと考えれば、妙に納得できる気もするのである。

以上が僕の率直な感想なのだが、くさしてばかりでは心苦しいので、新潮文庫『走れメロス』の巻末にある奥野健男の解説から『走れメロス』に関しての評価を紹介しておくと──、
「知性と感覚と思想とが結合した日本文学には珍しい格調高い好短編」「古伝説の素朴で強い骨格をいかし、その中に現代人の含羞や自意識を折り込み、友情と信頼をうたいあげた、太宰文学の明るさ、健康さを代表する短編」「希有の才能を感じさせる傑作」と賞讃してある。
また「『走れメロス』は「新潮」昭和15年5月号に発表された。ギリシアのダーモンとフィジアスという古伝説によったシラーの『担保』という詩から題材をとっている。人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な力強い文体で表現されていて、中期の、いや太宰文学の明るい健康的な面を代表する短編である。多くの教科書に採用され、またしばしばラジオなどで朗読され、劇に仕組まれ、太宰の作品の中でもっとも知られている」とも記されてあった。

巻末の解説には収載作品を後押しするという役目もあるのだろうが、世間的には、きっと解説にあるような評価なのだろう。



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