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糞の手紙!?〜イタチの粗相考

『いたちの手紙』と『いたちのてがみ』
01鼬の手紙&てがみ
前回《いたちの魔かけ》で、童話『いたちの手紙』に触れたが、良く似たタイトルで『いたちのてがみ』という別の児童書があることを最近知った。題名の読みは同じだが、「てがみ」の表記に漢字とひらがなの違いがある。両方の作品をあらためてまとめてみると──、

『いたちの手紙』は佐藤さとる・作/村上勉・絵の児童文学。1973年に講談社から単行本として出版され、『佐藤さとるファンタジー童話集③おばあさんの飛行機』(講談社文庫/1976年)、『佐藤さとるファンタジー全集⑫いたちの手紙』(講談社/1982年*2011年復刻)に収録されている(※1972〜1974年に刊行された『佐藤さとる全集』(全12巻/講談社)には収録されていない)。
子どものリアルな日常を舞台とする実在感のあるファンタジー作品で、内容を簡単に記すと……小学生のアキラがちょっと変わった封書(これが《いたちの手紙》)を拾ったことから物語が始まる。封書の裏(差出人欄)には幼い字で「いたちくぼのいたち」と記されていた。投函前の手紙だったことから、アキラはこの手紙をポストに入れるが、そのあと謎の手紙のことが気になってくる。「いたちくぼ」と呼ばれる場所が近くにあることを知ったアキラはそこへでかけ、初めてイタチと出会って《いたちの魔かけ》を体験することになる(これにかかるとイタチと会話することができる──というのがこの作品のファンタジー・ルール)。やはり《いたちの魔かけ》がかかる小1のカオリとの出会いがあり、《魔かけ》の秘密&なぜ、イタチが手紙(カオリが代筆)を出すことになったかなどの《謎》がだんだんと解けていく──。いたちくぼに独りっきりになったイタチがよその地域で同じ状況下にあるイタチを嫁にとる話なのだが、アキラの視点で展開する物語には、謎解き的なあじわいもあって、おもしろい作品だった。

タイトルがオールひらがなの『いたちのてがみ』は、こしだミカ・作の絵本。月刊予約絵本「こどものとも年少版」通巻404号/福音館書店/2010年。版元のサイトには「読んであげるなら:2才から」とあり、文章は少なめで絵のうったえるところが大きい。力強く躍動感あふれる個性的な絵に魅力を感じた。
内容は、おばあちゃんの家(古い木造家屋)にひっこしてきた女の子が、屋根裏に住み着いているイタチに興味を示す。女の子が初めてイタチをみた場所にチーズを置くと、翌日、チーズは消えてかわりにイタチの糞が残されていた。その形が文字(ひらがなの「つ」)にみえ、女の子はそれを「いたちの手紙」ではないだろうかと考えてイタチに手紙を書くというもの。


糞の置き手紙&ため糞のSNS!?
イタチが残していった糞を「てがみ」に例えた『いたちのてがみ』に対するネット上の反響には「イタチの糞を手紙だと思うという発想に意外性があっておもしろい」というような感想もあった。たしかに──しかし、イタチを含む動物の糞や尿には仲間とのコミュニケーション・ツールとしての意味もある(マーキングに使われる)ので、糞を「手紙」とみることは、あながち飛躍した解釈ではない。動物の糞には、何を食べていたのかとか健康状態などを示す情報も含まれているので、その主のことを知る大事な手がかりになったりもする。
人間から見ればただの排泄物だが、糞は動物にとって、その主のことを示す色々な情報が記されている……そういった意味では置き手紙といえなくもない。人間の手紙には「言葉の壁」があって文字が読める相手にしか伝わらないけれど、文字のかわりにニオイを用いた動物の「置き手紙」は、種類の壁を超えてあるていど「読むことができる」汎用性の高いコミュニケーション・ツールといえるかもしれない。
僕がかつて飼っていたフェレットは散歩中にタヌキのため糞に引きよせられたことがある。タヌキには複数の個体が同じ特定の場所に糞をする「ため糞」の習性があって、互いの情報交換の役割りをはたしているという。単発の「糞」が「置き手紙」なら「ため糞」は「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」といったところだろうか。
フェレットの散歩では、糞にかぎらず、ニオイによる書き込みの「掲示板」があちこちにあることが感じられた。

02鼬漫画目線SP再
『ふぇレッツ・ゴー』グランジ目線で散歩:編より⬆
去勢していないノーマル・フェレット♂・グランジによるマーキング⬇

※枝をまたぐようにして尿をつけている。

イタチの糞:フェレットの粗相考
イタチの糞はただの排泄物ではない!?──という実感は、以前フェレット(家畜化されたイタチ科の動物)を飼っていた時に実感していた。

僕が飼っていたフェレットは基本的にはトイレを設置した場所で用を足していた。
ところが室内で遊ばせているとき、何かの拍子に(?)部屋の隅でしてしまうことが、たま〜にあった。人間からみれば「粗相」ということになる。
フェレットフードの効果なのか……フェレットの糞は意外なほど臭くない。猫や犬の糞に比べたら全然余裕(?)なのだが、それでもソレを室内に放置しておくわけにはいかない。トイレ以外の場所でやってしまった時は、もちろんすかさず回収するのだが、きれいに拭き取ったつもりでもニオイがわずかに残っているのだろう、一度粗相をすると、連日続けざまに同じところでする傾向があった。
一度粗相をすると繰り返す可能性があるので、そんな時にはちょっと「困った」ものだ。

ところで、フェレット好きの人であっても、トイレ以外の場所で「粗相」をされると怒る人は少なからずいるらしい。僕は粗相で怒ったことはない。僕が「困る」のは粗相をされたからではなく、その始末をするさい、フェレットに対して、ちょっと後ろめたさを感じてしまうからだ。

「粗相」というのは人間側が言うことであって、実際のところ、フェレットは「うっかり、そこでしてしまった」わけではない。フェレットなりの理由があって、わざわざそこを選んで糞をおいたと考えるのが正しい。
それが証拠に(?)したばかりの糞を撤去するとき、フェレットは申し訳なさそうな顔をしてはいない。
「俺がせっかくここにしたのに……。したそばから、どうしてわざわざ撤去するかなぁ」と、ちょっと非難めいたまなざしで見上げていたりする。フェレットのヒンシュクを感じてしまい、糞の撤去には後ろめたさがつきまとうのである。

『小動物ビギナーズガイド フェレット』(大野瑞絵・著/誠文堂新光社・刊)には、靴の中に糞をされたというエピソードが紹介されており、笑ってしまったが……ありそうなことだ。知人のフェレットでは足拭きマットでニオイつけをするコがいた。また、フェレットには靴下好きなコが多い──これらはニオイに反応してのことだろう。

いわゆる「粗相」──トイレ以外のところでする排せつには「飼い主(仲間?)のニオイのあるところには自分のニオイも仲間入りさせておきたい」というような社交的な(?)自己主張の意味があるのではないかと僕は考えている(排他的な縄張りマーキングの逆)。
飼い主のニオイのあるところに自分もニオイ参加する……これはSNSへの書き込みや、飼い主のニオイに応じたコメントみたいなものではなかろうか? それをいきなり削除したりブロックしたら、好意を持ってニオイ書き込みをしたフェレットに対してかなり失礼なのではないか……糞の撤去やニオイ防止措置は、着信拒否のような行為ではないかという気がしないでもない。
しかし結局そこは人間の都合で撤去してしまう事になるわけなのだが……僕としては、やはり、ちょっと心苦しい。

家畜の歴史の長い犬は飼い主の顔色を読んで「粗相」をするとしゅんとするらしい(腹いせに「粗相」をすることもあるらしい?)。それを卑屈といってはかわいそうだが、僕は粗相をしても撤去する人間に対して、堂々と「なんだかなぁ」と不満げなまなざしで見上げるフェレットの方が好きなのである。

ちなみに、フェレットの本当の意味での「粗相」とは……愛鼬と一緒にお風呂に入ったら、湯船の中にぷっかり……コレであろう。
ちなみに、これは聞いたよくある話。僕の体験談ではないので、誤解なきように。


(※最後の項目「フェレットの粗相考」は、Yahoo!ブログを始める以前にfreemlに書いていた日記に加筆したもの。freemlもYahoo!ブログ同様、今年の12月で終了する)


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《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》

《イタチの魔かけ》とは?@いたちの手紙
01鼬の手紙他
《いたちの魔かけ》というのは佐藤さとるの童話『いたちの手紙』に出てくる言葉で、イタチが後脚で直立し前脚を目の上にかざすしぐさのことだ。作中ではイタチが人に魔法をかけるときのポーズということになっており、この《いたちの魔かけ》がうまくかかる人は、イタチと会話ができる──という設定になっている。
『いたちの手紙』の内容をかなり大ざっぱにまとめて説明すると──開発で数を減らし、1匹になってしまったイタチが、他の地域で同じ状況下のイタチを嫁にとる話である。その橋渡しをするのが《魔かけ》がかかる人間で、タイトルにある手紙は《魔かけ》でイタチと友だちになった少女が代筆したものだった。ポストに投函されるはずだったこの手紙をアキラという少年が拾ったことから物語は始まる。この物語はファンタジーだが、アキラの視点で「奇妙な手紙」の謎から、《魔かけ》の秘密、ことの真相が明らかにされていく展開は、ちょっとミステリー風の味わいもあっておももしろい。僕が好きな作品の1つである。
さて、謎解き役(?)のアキラが初めてイタチに出会い、《魔かけ》をかけられるシーンは、こんなふうに描かれている──、


 その生きものは、アキラと目が合っても、平気だった。それどころか、とても変わったことをした。
 ふいに後足で立つと、右手を、いや右の前足を、目の上に持っていって、遠くからアキラを眺めた。ちょうど、アキラに向かって、「敬礼」をしているようだった。そのとたん、どういうわけか、アキラは思った。こいつはやっぱりいたちだなって。
 そう、やっぱりいたちだった。こんなふうに、いたちが後足で立って、片っぽの前足を目の上にあげて見ることを、「いたちの魔かけ」という。つまり、いたちが人に魔法をかけようとするときは、こういうふうにするんだね。(佐藤さとるファンタジー全集⑫収録版『いたちの手紙』より)


僕が『いたちの手紙』を読んだとき──もうだいぶ昔のことだが、この《いたちの魔かけ》と呼ばれる言い伝えは本当にあって、作者はこれをヒントにイメージを広げ、このストーリーを考えたのだろうと思った。作中には、次のような記述もある。

昔の人は「いたちの魔かけ」を、大変きらった。縁起がわるいと思っていたんだ。いたちにこれをされると、きっとよくないことが起きるなんて、思いこんでいたみたいだね。
 ほんとうは、そんなことないんだ。いたちが、よくないことを起こすのではなくて、よくないことが起こりそうなとき、いたちは「魔かけ」をして、人間に知らせようとすることがあるんだ。(同『いたちの手紙』より)


実際に忌み嫌われるイタチの言い伝えがあって、それは誤解なのだと説いているような文章だ。そんな《いたちの魔かけ》に興味を覚えて、調べてみようと思ったこともあったのだが……当時は、この言葉に関する情報はみつからず、作者の創作なのだろうかと首を傾げていた。佐藤さとるはファンが多いから、『いたちの手紙』を読んで《いたちの魔かけ》という言い伝えが実際にあるのか気になった人もきっと少なからずいたのではないだろうか?
それからだいぶ後になって、《鼬の目陰(まかげ)》という言葉を知って、これが《いたちの魔かけ》の元ネタだったのかと合点がいった。
《目陰(まかげ)》というのは字面から想像がつくように、目の上に手をかざして直射日光をさえぎる──見る時に目に陰を作るしぐさのことだ。イタチが立ち上がってこんなポーズをとるという俗信があるらしい。
『日本史のなかの動物事典』(金子浩昌・小西正泰・佐々木清光・千葉徳爾/東京堂出版/1992年)という本には「飯綱・鼬 いいずな・いたち」という項目があって、《鼬の目陰(まかげ)》についても触れられている。


 イタチはイイズナとはちがって人里近くに棲息し、ネズミ類を捕食して生活する益獣である。しかしながら、その姿が細長で耳が立ち、しばしば後肢と尾を利用して人間のように立ち上がり、短い前肢をかざして相手の様子を観察する。これを「イタチの目陰(まかげ)」といって人間のしぐさによく似ているので、何か魔性のものがのりうつっているかのように感じられて、不吉な予感をもって見られた。『源氏物語』や『源平盛衰記』の中にもすでにこのことが記されており、現在でも山仕事・旅行などの出発時に、イタチが道を横切ることがあると、「イタチの道切り」と呼んで、前途の幸不幸の前兆とみる土地もある。(『日本史のなかの動物事典』P.3)

《いたちの魔かけ》と《鼬の目陰(まかげ)》は響きも似ているし、仕草も似ている。縁起が悪いものとして捉えられていたという部分も合致する。語源は同じと見てよいだろう。
『全国妖怪事典』(千葉幹夫・編/小学館/1995年)では神奈川県(佐藤さとるの地元)のカテゴリーに【イタチ】の項目があり、次のような興味深い記述がある。


イタチ 動物の怪。鼬。イタチはよく後ろ脚で立って振り向いて、人の顔をシゲシゲと見るという。この時眉毛を読まれると騙されるから、鼬に会ったら眉に唾をつけるとよいという(鈴木重光『相州内郷村話』)。(『全国妖怪事典』P.74)

これは《鼬の目陰(まかげ)》のことだろう。このしぐさによってイタチが人の「眉毛を読む」というのが興味深い。「眉毛を見て心を読む」というようなことだろうか? 《鼬の目陰》によってテレパシーが使えるようになるということなら、《いたちの魔かけ》で人とイタチがテレパス状態になるという設定は、まさにピッタリである。
《鼬の目陰(まかげ)》でイタチが眉のあたりに前脚をかざすのには、相手の眉毛を読むことと何か関係があるのかもしれない。
よく怪しげな話を聞かされたとき「眉に唾をつける」とか「眉唾」などと言うが、眉に唾をつけるのは「眉毛を読まれないように」(だまされないように)という言い伝え由来だったとは、この本を読むまで知らなかった。

『いたちの手紙』にでてくる《いたちの魔かけ》が《鼬の目陰(まかげ)》のことだというのは、おそらく間違いないところだろう。これを「イタチが魔法をかけるときの仕草」としてとらえるなら《いたちの魔かけ》という呼び名の方がふさわしい。そう考えた佐藤さとるが《目陰》を《魔かけ》と翻案したのか、あるいは《鼬の目陰》を《いたちの魔かけ》とよぶ地域が実際にあってそれにならったのか……それとも佐藤さとるが《目陰》を《魔かけ》と聞き違えて覚えていたことで、《魔かけ》➡《魔法をかけるしぐさ》という着想につながったのか……そのあたりのことはわからない。
いずれにしても、《鼬の目陰(まかげ)》という言い伝えが『いたちの手紙』の着想もしくはイメージを広げる手がかりになっただろうことは想像できる。


アズキとぎと『霜夜の鼬』
『いたちの手紙』の誕生には、もうひとつ、ある童謡がかかわっているという。作中でイタチが歌う──イタチがアズキをといで赤飯をたくという内容の童謡だ。佐藤さとるが小学2年生の時に1度だけ教わったというウロ覚えの歌詞が作品の中にでてくる。執筆時にはあやふやだった歌詞や失念していたタイトルが、『いたちの手紙』(講談社/1973年)の出版後に判明したことが『佐藤さとるファンタジー全集⑫いたちの手紙』収録の表題作末尾に《付記》として記されている。出版後、作中の歌詞には間違いがあることがわかったが、うろ覚えに覚えていた(間違った)歌詞が、この作品のモチーフであったことから、作品のイメージを大事にしたいという理由で作中の(間違った)歌詞はそのままにしてあるという。
作中のイタチが、勘違いして(?)間違った歌詞で歌っていたとしても、作品としては(整合性に)何ら問題ない。
この《付記》によれば、問題の童謡は野口雨情が作詞した『鼬の小豆磨ぎ』ということになっているのだが……検索してみると『霜夜の鼬』(作詞:野口雨情/作曲:中山晋平)というタイトルでヒットする。


霜夜の鼬
作詞:野口雨情/作曲:中山晋平

霜夜(しもよ)のしのやぶ 霜(しも)でサーラサラ
ザクリ ザツクリ ザツクリシヨ
鼬(いたち)が小豆(あずき)を といだとさ

寒いぞ寒いぞ 霜夜のしのやぶ
ザクリ ザツクリ ザツクリシヨ
鼬が おまんま たくだとさ

小豆を とぎとぎ ザクリ ザツクリ ザツクリシヨ
おまんま たきたき ザツクリ ザツクリシヨ
霜夜のしのやぶ ザツクリ ザツクリシヨ
赤のおまんま 小豆のおまんま
鼬が 小豆を といだとさ


佐藤さとるは歌詞の「イタチがアズキをといで赤飯をたく」という内容から、「赤飯をたく」➡「めでたいことのお祝い」➡「イタチの嫁取り」というストーリーを考えたのだろう。『いたちの手紙』としては合点の行くところだ。
しかし、『いたちの手紙』という作品を離れて『霜夜の鼬』の歌詞を考えると、ちょっと不思議な気もする。捕食性のイタチとアズキ磨ぎにどんな関係があるのだろうか?

実は、人気の無いところでアズキをとぐ音がする──という伝承はよくあり、「アズキトギ(小豆とぎ)」という妖怪のしわざだとされる。これについて『決定版 日本の民話事典』(日本民話の会・編/講談社/2002年)には次のように記されている。


【アズキトギ】
 夜、川べりや橋のたもとなどの水辺の暗いところで、ザクザクとアズキを洗うような音をたてる妖怪です。分布は九州から東北まできわめて広く、その音はほぼきまっています。「アズキとごうか人食おうか、ゴシゴシゴシ」とか、「お米とぎやしょか人とって食いやしょか、ショキショキ」と聞こえると言われています。(P.288)

 アズキトギの正体を、むじなやイタチだとしているところもあります。毛をコシコシこする音だというのです。ガマだという地方もあります。(P.289)

アズキは正月など特定の祝日、神祭りの食べ物として重要視されただけでなく、不祝儀にも用いられました。霊力を持つ食べ物と考えられていたことが、こうした妖怪の背景にあるのかもしれません。(P.289)


アズキトギの正体についてイタチだとする地域がある──野口雨情は、これをヒントに『霜夜の鼬』を書いたのではないか?
この歌詞がどのように生れたのかを想像してみると……《霜柱を踏む音とアズキをとぐ音が似ている》と感じた野口雨情が、《霜夜にアズキをとぐ者がいる》という不思議な状況をイメージし、それではアズキをといでいるのは誰が何のために?(童謡にするには何がふさわしいか)──と想像を膨らませて《(アズキトギの正体とされる)イタチが赤飯をたくため》という解釈を思いついたのではなかろうか──というのが僕の推理するところ。
ちなみに、アズキトギ・アズキアライと呼ばれる妖怪の正体については、イタチやムジナ(アナグマ※これもイタチ科)の他にも、カワウソ(※これもイタチ科)やタヌキ・ガマ(ヒキガエル?)・老婆の妖怪(小豆婆)などの言い伝えがあるようだ。

余談だが……作詞:野口雨情/作曲:中山晋平のコンビといえば、コガネムシを金持ちに見立てた童謡『黄金虫(こがねむし)』も、ちょっと不思議な作品だ。コガネムシが立てた金蔵とはいかなるものか? この作品については描かれているのはコガネムシではなく、チャバネゴキブリだという説がある。ゴキブリ説は色々なメディアで取り上げられいて、ちょっとしたウンチクになっている。しかしこれはヤマトタマムシだという説もあって、僕はタマムシ説を支持している。コガネムシが立てた金蔵(かねぐら)というのは玉虫厨子のことで、野口雨情は玉虫厨子をタマムシ(コガネムシをそう呼ぶ地域がある)の金蔵にみたてて、この作品を書いたのではないかと僕は思っている。「《玉虫厨子》を《タマムシの金蔵》にみたてる」という着想・創作プロセスは「《霜柱を踏む音》を《アズキとぎの音》にみたてる」という着想・創作プロセスと似ている……野口雨情はこうした連想や見立てからイメージをひろげて作品を創作していたのではないか……と思ったりもするのだが……もちろん、これは僕の個人的な想像。作品がどのようにして誕生したのか──何がきっかけ・ヒントになって、どのようなプロセスで作品ができあがっていったのかということには興味があるので、つい、あれこれ想像してしまう。


イタチの目陰(まかげ)帽子!?&いたちマジック
『いたちの手紙』からは離れるが……《目陰(まかげ)》がまぶしい太陽の光をさえぎるためのものだとすれば、帽子のつば(日よけ)が、この役割りを果たしている。つば付き帽子は目陰(まかげ)帽子といってもおかしくはないだろう。とすれば、フェレット(家畜化されたイタチ科の動物)のフィギュアをつばに乗せたフェレット散歩用の帽子は「イタチの目陰(まかげ)帽子」と言えなくもない。
02鼬の目陰帽子
僕が飼っていたフェレットは直立して前脚を額にかざす《魔かけ》こそしなかったが、前脚をかざして僕が握った物を消すというマジックをしていた!?

魔法ではないが……魔法もどき(?)なエピソードは色々あって……イタチ科の動物は迷信が生まれやすかったのではないか……という気がしないでもない。
03鼬漫画迷信編A

04鼬漫画迷信編B


05超魔術鼬C
『ふぇレッツ・ゴー』イタチと迷信!?:編より⬆

『ふぇレッツ・ゴー』超魔術イタチ:編

黄金色のコガネムシ ※童謡『黄金虫』のゴキブリ説&タマムシ説
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イタチmeets猫

01猫&イタチ
02猫&イタチ
03猫&イタチ
04猫&イタチ
以前飼っていたフェレット(イタチ科)の画像から、散歩中に出くわしたネコとの2ショット4コマ。2匹は初対面だったが、人なつっこいフェレットと、それに戸惑うネコの姿がおもしろかった。
(※動物同士の接触には注意が必要)
このネコとは別に、フェレットを散歩させているとき、その姿に興味津々でついてくるネコがいた。獲物と認識してか背後から忍び寄ってその距離を縮めるが、フェレットが気づいて近づいて行くと、予想外の反応(?)に驚いてあわてて逃げだす。そして安全なところから(?)ようすをうかがい、フェレットが散歩を続行すると、やはり気になるのか、ついてくる……といったことをくり返していた。
フェレットはおもしろい動物だったが、ネコ(イエネコ)もなかなかおもしろい。ともに家畜だが、もとは捕食性動物。おもしろ動物の同士が対面したとき、互いのことをどう意識しているのか興味深い。


とぼけるネコがおもしろい

他人の物をこっそり盗んで知らん顔をすることを「ねこばば」という。漢字で書くと「猫糞」──ネコが糞を隠す習性に由来する言葉らしいが、ネコがフン(悪事?)を隠して「しれ〜っとしている」知らんぷり感は、なるほど「ねこばば」にふさわしい。ネコは「とぼける」姿が(も)おもしろい。
ネコは本来、単独で生活する動物だったのだろうが、家畜化され(野生の時代に比べると)密度の高い環境で暮らす機会も増えた。社会性動物のオオカミから家畜になったイヌとは違い、本来、単独性だったのだから、テリトリー内に他の個体がいること・他の個体と出くわすことは、それなりのストレスだったに違いない。頻繁にでくわす仲間との緊張を回避し平和に過ごすために家畜化したイエネコが会得したのが、「しらんぷり」だったのではないかと僕は考えている。
テリトリーの中で出くわしても、互いに相手をガン見せずに目線をあえてはずしたり目をつむったりして、互いに相手に気づいていないふりをして緊張が生まれないようにする──トラブルを避けるイエネコの社交術というわけだ。この「(とても気になっているのに)全然気にしてないふり」が、ヒトから見れば「知らん顔してとぼけている」ように見えて、おもしろい。きっとネコ同士も相手が「とぼけている」ことはわかっているのだろうが、「とぼけている」=「緊張回避サイン」として認識し合っているのだろう。おもしろいのはネコがとぼけてみせるのはネコ相手だけではないということだ。

僕は昔、ウサギを飼っていたこともあったのだが、このケージを日光浴に出したところ、近所のノラ猫が目ざとく見つけてやってきた。ネコが近づくとウサギのストレスになるといけないので、僕はケージのそばで監視していたのだが、(僕がいるので)近づけないネコは、少し離れた陽だまりで毛繕いをし、まったりし始めた。あさっての方に顔を向け、目を逆ハの字型に閉じて「オレは、ここに日向ぼっこに来ただけ。ウサギがいるなんて、全然知りませ〜ん」という態度。僕がちょっと目を離して再び戻ったときには、ネコのいる位置が少し近くなっている。それでもネコはすっとぼけて「日向ぼっこしてるだけ」感をアピールしていた。
この「しれ〜っとしている」感が「ねこばば」の知らんぷり感に繋がっている気がする。

冒頭の4コマ写真でも、ネコは近づいて来るフェレットに気づき、知らんぷりを決め込むことにしたようだった。しかし、フェレットの方は好奇心がおう盛なので、ネコを調べ始めた。ネコの方は戸惑いながらも、身もだえしつつとぼけ通そうしているのがおもしろかった。

ネコもフェレットもおもしろい。なので童話やマンガで描いたこともあった。

05猫童話&鼬漫画


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空耳ならぬ空目アワー

空耳ならぬ空目アワー

言われてみれば確かに見える…かもしれない、空耳ならぬ空目あれこれ。
キアイを入れれば見える…ハズ!?
まずは、以前もネタにしたものからいくつか……。


※左から、ビジョオニグモ/アカシマサシガメ/エサキモンキツノカメムシ(幼虫)/マツヘリカメムシ
ホントにいる!?リアルこびと虫づかん
仮面虫…かめn虫…カメムシ
仮面虫!?…かめn虫…カメムシ 第2弾!
人面虫・奇面虫

書かれていないものが見える!?



本来の文字の意味とは無縁なものが「見えて」しまう。失意体前屈=orz や顔文字などは空目を積極的に利用したものといえるだろう。
文字がひしめく紙面の中に【空目】が見えてしまうこともある。最近ではこんなものがあった。


文字列の中に、別の意味を読み取ってしまうことも……。


ちなみに【ウスバカゲロウ】は昆虫で、幼虫のアリジゴクの方が知られているかもしれない。【アホロートル】はトラフサンショウウオ科の幼形成熟個体のこと。通称ウーパールーパー(アルビノのメキシコサラマンダー)が有名。

カナは区切る箇所を間違えることで空目が発生するが、漢字の場合は読み違えると別のモノが見えてくることがある……。


なんで こんなところに T-1000が!?



こうなると、妄想的空目!?

さらに以前、日本語字幕スーパーの番組を見ていたとき、こんな空目現象も……。


※詳しくは→アナログ放送の空耳?字幕

人面虫の「空目」解説(私見)

虫が人の「顔」や「姿」に見えたりするのは面白い。

「そう見えてしまう虫の模様がおもしろい」と感じると同時に、
「そう見えてしまう自分の知覚(?)がおもしろい」とも思う。

虫が木の葉や枝片、ときにはハチなどの危険生物に姿を似せ、敵の目をあざむくことで身を守る──【擬態】はよく知られた現象だ。
生存率を高める(生存率が高いものが生き残ることでその特徴が顕著化した)進化の賜物だろう。

しかし冒頭の人面虫が「それらしくみえる」というのは【擬態】とは事情が異なる。
これらの虫を見て全く大きさが異なる人間と間違え、見逃してくれる天敵などいやしまい(生存率上の意義はない)。これは意味があって【擬態】しているのではなく【偶然そう見えるだけの事】──と考えるべきだろう。

つまり人面虫たちが「そう見える」のは、虫たちの【進化(擬態)】次元のハナシではなく、ヒト側の【認知】に由来する問題ととらえるべきだ。
本来、似せる意味などない偶然の模様や形の中に「顔」を見てしまうのは人間側の錯誤であって、「こんなものでも、(あるはずのない)顔にみえてしまう」というヒトの【認知】のおもしろさ──である。

写真に写った景色の一部(模様)が顔に見えたりして「心霊写真」なんて騒がれることがあるが、これも同じような現象なのだろう。人の認知の誤作動(?)が、意味のない模様の中に意味を持たせてしまう……。

以前、脳こうそくで脳の一部に損傷を受け「人の顔の識別」ができなくなった人の事がテレビで紹介されていた。その人はごく普通に会話しており、外見はまったくの健常者に見えたが、人の顔が判らない。見せられた顔写真をのぞきこみ、そこに写っている人物の髪型、歯の形、目尻のシワなど、部分部分はハッキリ認識できているにもかかわらず、それが自分の顔であることさえ判らなかった。

脳の一部が損傷を受けたことで人の顔が識別できなくなったということは、脳の中に顔を識別する特別なシステムのようなものがあるのだろう。

考えてみれば、人が網膜上に映った像の中から人の顔を瞬時にピックアップできたり、それが誰なのか、さらに怒っているのか笑っているのか、泣いているのかさえ判断できてしまうのは、ものすごいことだ。社会性動物であるヒトがコミュニケーションに不可欠な要素として発達させて来た認知能力なのだろう。
その強力な《顔サーチ・システム》がときに誤作動(過剰反応?)を起こし、我々に心霊写真や人面虫を見せてくれるのだろう。

普段は気にもとめない《顔サーチ・システム》だが、はからずしも実感することができるのが、先にアップした画像のような虫を目にした時である。

虫を見て何かを感じる時、自分の何が反応しているのか……そんなことを発見したり考察できる時でもある。

昆虫の【擬態】も面白いが、人の【認知】のシステムもおもしろい。

追記:脳が見たものに意味を持たせたがるのは…

「空目」現象について説明した記事を読んだ。


「パレイドリア効果」という言葉は初めて知ったが、その解釈に特に目新しさや、特段の説得力は感じなかった。

脳が見たものに意味を持たせたがるのは、見たものを自動的に記憶する際のカテゴリー整理のためではないかと思う。脳は見たものを整理し、あとで思い出す(再生する)際のタグづけをするために、脳内ライブラリに整理されている該当情報を検索してそれに結びつけるカテゴライズ作業を行う……これが「パレイドリア効果」を生むのだろう──そんなふうに考えた。

フェレット漫画:最後っ屁対決!?

【ハムスター倶楽部スペシャル】2003年4月号掲載分『ふぇレッツ・ゴー』に彩色加筆したもの。漫画の後に【イタチのさいごっぺ】についての考察をまとめてみました。
※漫画のコマには番号がふってあります。その順に読み進んで下さい。

ふぇレッツ・ゴー/ニオイでほんろう:編



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


今回登場した昆虫



【イタチのさいごっぺ】について

イタチのことをよく知らない人でも【イタチの最後っ屁(ぺ)】という言葉は聞いた事があるだろう。広辞苑によると──、
「イタチが追いつめられたとき、悪臭を放つこと。
 転じて、せっぱつまって最後に非常手段に訴えること。」
 (※漢字をカナに開いた箇所あり)」
以前は同じイタチ科に分類されていたスカンク(現在はスカンク科として独立)が強烈な最終兵器(屁器?)を装備している事はよく知られている。イメージとしてはこれに近いのかもしれない。
イタチもスカンクも肛門の脇に臭腺(肛門腺)を持っており、ここから分秘される液が異様に臭い。天敵等に襲われたりするなど窮地の際にこれを放って敵をひるませたり撃退するといわれている。よく「屁」と表現されるが正確には屁(腸内のガス)ではなく、臭腺で作られる分泌液である。

スカンクほど強烈ではないにしろ、イタチ科のフェレットもこの臭腺(肛門腺)をもっている。それでペット用のフェレットの多くが臭腺除去手術を受けているわけだ。

ところが、【イタチの最後っ屁(ぺ)】を迷信だと言う向きもある。
ノーマルフェレットを飼っている人や扱っている獣医さんはフェレットの臭腺分泌物がとてもクサイことは知っている。しかしそれでも【イタチの最後っ屁(ぺ)】は実際にはないと思っている人がいたりする。
先日亡くなられた動物行動学者として有名な日高敏隆氏も著書『ネコはどうしてわがままか』(新潮文庫)の中で【イタチも謎の多い動物】という項目にこう書いている。

イタチというとすぐ思い出すのは、【最後っ屁】だが、これも少々誇張ではないかという人が多い。たしかにイタチは肛門腺という臭腺をもっているが、それはイタチ同士の匂いによるコミュニケーションのためであって、敵を気絶させるためのものではない。

肛門腺はイヌやネコなどにもあるし、コミュニケーションに使われる事は理解できる。しかしイタチ科の動物が窮地の策として使うことだってある──と僕は思っている。
フェレットに限って言えば、ノーマル(生殖腺&臭腺除去手術を受けていない)タイプのグランジが【最後っ屁】を放つのを僕は複数回確認しているのだ。

あるとき散歩中のグランジに背後から追ってきた犬が飛びついたことがあった。このとき、グランジは【最後っ屁】を放った。漫画に描いた通り事実である。実際は相手の犬はグランジとも顔なじみの柴犬で何度も遊んだ事のある散歩仲間だった。犬の方はグランジの姿を見つけ、じゃれかかったつもりだったのだろうが、グランジは背後からいきなりとびつかれて相手が判らなかったらしい。飛びつかれて激しく慌てふためいた。直後、あたりに臭腺の臭いが立ちこめ、「これが【イタチの最後っ屁(ぺ)】か」と納得したわけである。
他にも何かに驚いたグランジが【最後っ屁】を放って、ふところに駆け込んできたことがあった。そのさい、上着に分泌液が付着したこともある──これも漫画に描いた通りである。

人間は主に視覚でとらえた世界で生きているが、犬やフェレットなどの動物は視覚よりも嗅覚でとらえた世界に生きている──といえるのではないかと思う。その嗅覚の世界を想像してみたとき、【最後っ屁】は防衛用の武器として充分に効果があると推察できる。

犬が鼻先で【最後っ屁】を放たれるというのは──視覚の世界に置き換えるなら、我々が目の前で強力なフラッシュをたかれるようなものかもしれない。強い光に目がくらみ視界が一時的にきかなくなる──その嗅覚バージョン──嗅覚的眩惑をひきおこすのが【最後っ屁】なのではないか。これで相手をひるませて逃げのびる(生存率が高まる)ということはありそうな気がする。

また【最後っ屁】を放ったさいにそれが相手の鼻先に直撃しなかったとしても、分泌液が周囲に付着すれば相手の嗅覚レーダーは当然そちらに反応するだろう。
トカゲが敵に襲われた時、尾を自切して逃げる事は有名だ。切り離された尾はピチピチはじけるように激しく動いて相手の注意を引きつける。その間に本体は逃げおおせる陽動作戦である。また、イカは敵におそわれたとき、粘度の高いスミを吐いて水中にダミー影をつくり、いわば「変わり身の術」を使って逃げるという。
嗅覚においても、より強いニオイを放つことによって、相手の注意を引きつけ、混乱させてそのスキに本体は逃げる──ということはあってもおかしくはないだろう。分泌液にはいわば「ダミー(おとり)臭」的な意味もあるのかもしれない。【最後っ屁】は「臭い変わり身の術」として使われるのではないか……と僕は考えるようになった。

【最後っ屁】を放ったあと、肛門には分泌液がにじんでいるが、それをグランジに嗅がせると直ちになめとってきれいにする。しかし服についた分泌液は臭いをかがせても決してなめとろうとはしなかった。これも漫画に描いたとおりだが、この行動も、本体(自分)のニオイは消しておく必要があるが(敵や獲物の注意をひいてしまうため)、ダミー(おとり)臭は消す必要が無い──そう考えると、説明がつく。

この【最後っ屁】──イタチやスカンクの専売特許ではなく、昆虫でも使い手がいる。「屁放り虫(へひりむし)」の異名を持つミイデラゴミムシが有名だが、よく見かけるオサムシも尻から酸を放つ。
グランジが葉の陰にかくれたオサムシを追いかけ、鼻先に【最後っ屁】(正確には屁ではなく酸)を食らったのも、これまた漫画に描いた通りである。このときのうろたえぶりは尋常ではなかった。嗅覚レーダーであるところの鼻先へのニオイの一撃が嗅覚の世界に生きるハンターにとって、どれだけ威力があるものなのか──をあらためて知る事となったエピソードだった。

このように【最後っ屁】は効果的な奥義(?)だし、フェレットが使うのだから追いつめられたイタチが使っていたって全然おかしくない──そう考えるのが自然な気がする。
【イタチの最後っ屁】に懐疑的な人がいるというのは知っていたが、あの日高敏隆氏までがそうした認識でいたのがちょっと残念だ。
余談だが、氏の著書『ネコはどうしてわがままか』では【イタチも謎の多い動物】の次に【カマキリの予知能力】という項目がある。カマキリはその冬の積雪量を予想して雪に埋まらない高さに卵のうを産みつける──という話題を紹介したものだ。日高氏はこれを肯定的に取り上げているのだが……しかしカマキリの雪予想がガセネタであることは別の昆虫学者によって明らかにされているのだ。
(※カマキリの卵のうと積雪の関係参照)
著名な専門家が書いた本にも間違いはある。権威者の言う事だからと鵜呑みにせず、疑問を持ったり、自分なりの観察や考察をしてみることも大事だと思うしだい。

※フェレット漫画『ふぇレッツ・ゴー』 ※カラー加筆復刻版
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