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えび天ミラクル☆シリーズから30周年

ミラクル☆シリーズ&えびぞり巨匠天国から30年
01MSえび天1991

トップページにも画像を置いてある実写版ミラクル☆シリーズ──ごく一部の知人に見せるつもりでイタズラに制作したビデオ映像作品がTBSテレビ『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』で放送されてから、気づいてみれば今年で30年! いったい、いつの間にそんな歳月が!?……まったく油断もスキもあったものではない。しかし、ふり返ってみると、たしかに経年のためか記憶があやふやになっているところもある。今一度、当時(1991年前後)の記録をふり返って記憶を整理をしておくことにした。ということで、今回は個人的な忘備録的意味合いの強い記事になる。

個人誌から平成名物TV『えびぞり巨匠天国』へ
三脚に固定したカメラの前で変身ヒーローと怪人の一人二役を演じ、闘っているかのように編集した実写版ミラクル☆スター。もとはと言えばワープロ(日本語ワードプロセッサ)を使って制作した個人誌《チャンネルF》で展開していた楽屋落ちパロディヒーロー小説だった。その頃は8mmビデオカメラでヘビやカメ、昆虫等を撮っていたのだが、ビデオカメラがあるのならパロディヒーローの実写化も謀れるのではないかと気まぐれを起こして試作に踏み切ったもの。
当時僕は30代前半──高校時代には友人らと8ミリフィルムでアクション映画を撮って文化祭で上映したなんてこともあったが、高校卒業後はほとんど運動をしていない。このままでは肉体は錆びつき、いずれ動けなくなるだろう──若い時に修得した技術(宙返りなど)を喪失する前に映像記録として残しておくのも良いのではないかという気持ちもあった。
その頃、脳内には「〝動けていた時期〟の運動イメージ(記憶)」がしっかりと残っていて「実際にはどれだけ動けるのか」の感覚は確かめられていない状態だった。
よく子どもの運動会で久しぶりに走って足がもつれ転倒する親御さんがいがちだが、あれは「思っていたより体(足)がついてこなくなっていた」──つまり「脳内に残っている若い頃の運動イメージ(記憶)」と「実際の運動能力(気づかぬうちに劣化している)」とのギャップによる現象だろう。
実写版ミラクル☆スターの試作カットを撮り始めた頃も、実際に動いてみて、運動イメージのギャップを感じることがないでもなかった。1991年1月6日にはミニトランポリンの踏み切りをしくじって肩から落下。鎖骨骨折というアクシデントに見舞われて、鎖骨にワイヤーを入れる手術を受けた(1月9日)。ワイヤーがとれるまでは負荷のかかる運動はできないというので、しかたなく退院(1/11)後は、おとなしく撮影済みの映像素材の編集を始めていた。
当時のビデオ編集はビデオデッキをつないで、再生機で再生した映像の必要な部分だけを録画機でダビングしてつなげていくといった形で行われていた。録画機の操作(録画一時停止の解除など)はタイムラグがあるため、カットのタイミングを合わせるのがやっかいだった。そして1991年1月12日(土)深夜、編集作業を始めようとビデオデッキの電源を入れたところ、モニターに使っていたテレビに、たまたま「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」の第1回放送が映し出された。当時はまだYouTubeなどなかった時代。アマチュアの制作した映像作品を見る機会は、ほとんどなかったので、自主制作映像作品を紹介する「えび天」は新鮮だった。番組内でアマチュアの映像作品を募集する告知があり、ちょうど編集中だった「ミラクル☆スター」を応募してみようかと思い立った。

急きょ「えび天」応募用に編集した「ミラクル☆スター」のビデオテープ(コピー)を発送したのが1月14日。思いつきで応募してはみたものの、しょせん内輪ウケ狙いで撮り始めたイタズラ作品だったので、あまり期待はしていなかった。
ところがわずか2日後──1月16日の夜に採用を告げる電話を受けて驚いた。
1月23日に恵比寿で番組の説明会があったのだが、1月21日の朝に倒れ、右顔面神経麻痺の症状に見舞われる。鎖骨の手術をうけた病院を受診するが要領を得ない。説明会後の1月29日の再診で入院することになり、1週間ほど右顔面神経麻痺の治療。2月9日(土)に行われた「えび天」収録には間に合った。
収録当日(2/9)の記録を見ると──17:30、TBS日比谷シャンテSTUDIO B3控え室に集合。18:00過ぎに説明会。19:00にスタジオ入り。前説が30分ほどあって、19:40から収録開始。「えびぞり巨匠天国」は生放送番組ということになっていたが実は生収録。CMの時間もリアルタイムでとり2時間40分ぶっ続けで収録し編集は行わないとのことだった。「ミラクル☆スター(えび天バージョン)」の結果は銅賞(メダル)&特別奨励賞(トロフィー)。出演時には鎖骨にワイヤーが入っており、顔面神経麻痺を隠すため特性の自作マスクを被っていた。オンエアは1週間後の1991年(平成3年)2月16日(土)・24:40〜27:00だった。
実写版ミラクル☆スターは独りで撮った試作版だったが、どうにかカットのタイミングを合わせてビデオ編集ができることはわかった。この要領で仲間を加えて撮れば、独りではかなわなかったシーンも増やせるし、アクションの可能性が広がる。そうすればもっとおもしろいことができるはずだと考え、動けない期間に色々と次回作の構想を練る。
ようやく鎖骨のワイヤーを抜く手術が行われたのは3月20日(抜糸は4月2日)。鎖骨骨折にこりて注文した特注の折りたたみ式エバーマットが4月24日に届く。高校時代にアクション映画を撮った仲間を巻き込んで1991年4月30日にミラクル☆スター第2弾の撮影を開始。しかし、フェンス越えの前方2回宙返りのシーンで早々にケガ──エバーマットに首から落下し、首・胸骨・背中を痛める。回転オーバーを警戒して背中から落ちるつもりでやや早めに体を開いた(回転にブレーキをかけた)ところ、なんと回転不足だった。痛みをこらえて予定していた石垣からのダイブ後方宙返りのシーンまでは撮影するが、そこでロケは中断。
再びのケガで撮影スケジュールが狂い、とりあえず型紙を使った改良マスクの製作を始める。試作のFRPマスクはデザイン的には視界を広くとっていたものの、通気性が悪く、ポリカーボネイト板のハーフミラー(ゴーグル部)が息でくもって非常に見えづらいことになっていた。もっとよく見える新マスクを──ということで、発泡ポリエチレン板を使った新マスクを考案。通気性を改善し、ゴーグル部をハーフミラーのフィルムに変更した。ついでに胸当て部分も作り直した。
02MSマスク旧FRP新
03MS新胸当て
型紙による改良マスクはすぐにできたが、ミラクル☆スターの撮影再会の見通しは不透明。そこで、すぐに撮れる代替案として浮上したのが『ミラクル☆キッド』だった。
撮影中の事故によってミラクル☆スターは頓挫……という実情を取り入れた設定(実際にはフェンス越えのダブル宙の撮影でケガをしているが、作中では石垣上からのダイブ宙でケガをした設定になっている)で、負傷したミラクル☆スターに代わって虫とり少年がニューヒーローとなり怪人を倒すという内容。当時小学2年生だった甥っ子を主役に抜擢してミラクル☆キッドの造形を開始。撮影は主役の夏休みを利用して1991年8月に行われた。
04ミラクルキッド1991夏
『ミラクル☆キッド』は「えび天」再登場を意識して作られた。ミラクル☆スターが少年に託した変身メダルは「えび天」で受けた銅賞メダル(銅監督に与えられるメダル)、その変身メダルに転身エネルギーを送るミラクル・タワーには奨励賞トロフィーを使用している。
05ミラクル変身メダル
06Mタワー照射キッド
最後にミラクル・タワーに現れる顔は「えび天」の司会アシスタントをつとめていた福島弓子アナウンサーだったりする。
07Mタワー福島弓子
しかし、「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」は9月末に突然の終了。『ミラクル☆キッド』での「えび天」再登場はかなわなかった。
ということで、せっかく撮ったのだし、チャンネルFの実写ヒーロー物のまとめとして、ミラクル☆スターからえび天を経てミラクル☆キッドまでメイキング映像を含めて編集し直したビデオ『ミラクル☆シリーズ スペシャル』(1991年)を作成。YouTubeに投稿したミラクル☆スターとミラクル☆キッドはこのスペシャル・バージョンということになる。





紙媒体の個人誌《チャンネルF》の方では、実写版ミラクル☆スターへの展開を受けて、架空の設定や図解などをまとめた「ミラクル☆スター 秘密大百科」を作成。ミラクル☆キッドの制作後には改訂増頁版として「ミラクル☆シリーズ 秘密大百科」を作っていた。
08CF版ミラクルシリーズ
実写版の元となった小説版ミラクル☆スター・シリーズは、僕が関わった同人誌仲間が登場する楽屋落ち的ギャグ作品で、ネタが判るごく限られた読者を念頭に書いたものだった。少し前に埼玉県を揶揄するギャグがウケた『翔んで埼玉』(2019年)という邦画があったが、同じようなこと(怪人のモデルとなった友人・某が住んでいた葛飾区を揶揄)を小説版ミラクル☆スター・シリーズでは1989年にやっていた。チャンネルF・10号収録の『ミラクル☆スター〜復活篇〜』は、ブログの読み切り作品としては少々長め(3万字ほど)なのだが《はてなブログ》の方で公開している(ブログ版では登場人物は仮名)。
高校時代にアクション映画を撮っていた頃は「格闘シーンに限って言えば、文章表現は、視覚に直接うったえる映像表現にはとてもかなわない→格闘物は小説には不向き」だと思っていた。しかしその後、「文章でも迫力のあるアクション・シーンは描くことができるし、実写映像とはまた違った──実写映像では表現するのは難しいシーンも文章では自由に表現することができる」と考えを改めた。これを試してみたのが小説版ミラクル☆スター・シリーズだったともいえる。久しぶりに読んでみたら面白かった。エピソードの元ネタを知らない人が読んでもそれなりに楽しめるのではないか……などと思ってしまった。



ミラクル☆スター〜実写版〜※ひとりで撮ったスーパーヒーロー・アクション
ミラクル☆キッド〜実写版〜※小学2年のスーパーヒーロー誕生
『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』と出演覚書
ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯
自作ヒーロー:型紙マスクの作り方
幻のインディーズヒーロー・アクション※『ミラクル☆スター2』の絵コンテ
小説版『ミラクル☆スター〜復活篇〜』(はてなブログ)
ヒーロー的宙返り
最後の宙返り
◎チャンネルF+〜抜粋メニュー〜➡トップページ
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ブログ以前~個人誌的ブログ:チャンネルF

ブログが無かった頃…個人の発表(発信)の場は少なかった

小学6年生~中学生の頃、4コマ漫画を描いていたことがあった。「趣味」というほどのものではなく、ラクガキ程度のもの。無地のノートにざっと下敷きで線を引いて(コマ割り)、いきなりボールペンや万年筆で描き込んでいた。「おもしろいハナシ(コント)を考える」のが楽しかったのだろう。今思うと、ショートコントを連発するテレビ番組の『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の影響もあったのではないか……という気がしないでもない。
ノートに4コマ漫画がたまってくると、気に入ったものを見つくろって他人にも披露したくなる。今ならインターネットを利用して不特定多数の人に発信する手段があるし、ブログなど他者が閲覧できる《場》への投稿も容易だが、当時はパソコンもインターネットもなかった。素人が個人で作品を披露できる《手段》も《場》も、ほとんどなかった。そんな時代だったので、僕が考えたことといえば……学校のプリント等で使われていたガリ版(謄写版)でマンガを刷ってみようということだった。今では知らない人が多いと思うので、ざっくり説明するとガリ版(謄写版)というのはロウをコーティングした原紙に、鉄筆と呼ばれる先端が尖ったペンで字や絵を描き、これを原版とする印刷。セットした原紙の下に紙を敷き、原紙ごしにインクを含ませたローラーを転がす。すると原紙の鉄筆でひっかいた部分(ロウが剥がれた部分)だけからイングが染み、原紙下の紙に字や絵が転写されるというもの。
ロウ原紙に鉄筆で描くさいにはヤスリの下敷きを使うのだが、これが慣れないと描きにくい。筆圧が弱いと印刷した時にかすれてしまうし、強いと原紙に孔をあけてしまい、インクがボタ漏れして汚くなってしまう。
当時、慣れない鉄筆にてこずりながらも原紙にマンガを描いたのだが……刷ってみると、そのできばえは思い描いていたものとはほど遠く……あまりのヒサンさにガッカリ。「4コマ漫画ガリ版計画」は即行で頓挫したのだった。
今から思えば、ブログのようなことがやりたかった気がしないでもないが……その頃は、素人が自分の作品を多くの人に向けて発信することは簡単なことではなかったのだ……。

初めてのメディア掲載

そんな僕のマンガが初めてメディアに載ったのは高校2年生のときだった。購読していた学研の月刊誌《高2コース》の読者投稿欄には漫画コーナーがあって、気まぐれに投稿したハガキ漫画が採用されたのだ。採用の通知と図書券が届いたのは発売日の後で、それを知らずに発売日に同誌を購入した僕は、読者投稿欄を開いて驚いた。トップに一番大きく見覚えのある絵が……自分の作品が載っているではないか! ポストに投函したあと、連絡も無いのでボツったとあきらめていたラクガキが、作者も知らぬ間に誌面を飾っていたとは……「(よく知った身内が)ちょっと見ない間に、ずいぶん立派になったもんだなぁ」的な感慨があった。

分厚い月刊誌のほんの片隅ではあったが、自分の作品が多くの人が目にするメディアに載ったことは嬉しかった。この感慨はインターネット以降の人にはちょっとわからりづらいかもしれない。
掲載に気を良くしたものの、僕は真面目にマンガを描いていたわけではなかった。当時本気で取り組んでいたのは児童文学(ファンタジー)の創作で、自分の作品を発表できる《場》を模索していた。
高校3年生で文芸系の同人誌に初参加。高校を卒業してから働いてオフセット印刷機と製版機を買い込み、1978年に同人誌《窓》を立ち上げたのだった。

同人誌の時代


僕が主宰した《窓》は、本文の文字も含め、全ページ手書きだった。当時はパソコンもワープロもなく、原稿用紙にペンで書いていた時代。自分の文章を活字にしたいという「憧れ」は強くあったものの、それにはお金がかかる──素人が自分の文章を活字にするというのは簡単なことではなかったのだ……。
《窓》は創刊準備号・創刊号・第2号の3冊で活動中止となったが、第2号(1979年7月)に一挙掲載した長編『クロカニ号の冒険』が、その後出版されるという驚くべき展開があった。金の星社が行っている公募に『クロカニ号の冒険』を応募していたのだが、その「第10回創作童話作品募集」に入選(1979年)──初めて書いた長編(230枚程度)&初めてのコンテスト応募&初めての入賞であり、もちろん出版(1984年)も初めてのことだった。

これ以降も児童文芸の研究会や同人誌で勉強を続け、朝日カルチャーセンターの「大衆文芸の書き方(講師:光瀬 龍)」(通称・光瀬教室)の受講生らで同人誌を作ることになった。こうして誕生した同人誌《MON48》の創刊号(1985年3月)に掲載した『ねこにかかったでんわ』も、岩崎書店から単行本として出版することができた(1985年10月)。

出版で、多くの人の目にとまる《場》で作品を発表することができ、「活字化」への憧れがかなったのは我ながら驚嘆すべきことだった。が、この頃、もう1つ画期的なことが起こる。
日本語ワードプロセッサ専用機の導入だ。
それまでは、そうするしかないため原稿用紙に書いていたわけだが、「書く」という作業はわずらわしい。物語の創作は「作品を考える」ことと、「考えたことを書く」という作業を併行して行わなければならないわけだが、作者としては「書く」方の労力をできるだけ軽減して「考える」ことに集中したい。「考え」のスピードに追いつくために走り書きのように書き進めると、後に清書しなければならないし、推敲の際に下書きの汚い字を見ると内容も雑に思えてきたりして気分もよくない。なんとか下書きを完成しても(その時点で原稿用紙はゴチャゴチャしているので)、清書しなければならない……。時間をかけて清書した後、読み返して直したい箇所がでてくると、修正もやっかいで、新たに書き直したり切り貼りをするなど、かなり面倒な思いをしていて、こうした作業が大きな負担だった。
なので、原稿用紙(に書く作業)から解放されるということは画期的であった。文章を加えたり削ったり入れ替えたりの変更(推敲)が自由自在に行えるのでストレスがかなり軽減した。ワープロは自分の文章を「あこがれの活字」にして表示、出力してくれるのも気持ちもよかった。
夢の機械・ワープロを使えば簡単な版下を作ることもできる──そう考えて、同人誌ならぬ個人誌を不定期で気ままに作り始めた。

個人誌《チャンネルF》


出力した版下をコピーし、ホチキスで綴じただけの簡易個人誌《チャンネルF》(Vol.1は1987年12月1日発行)↑。《チャンネルF》の《F》は、《Fantasy》《Fusion(現実と幻想の「融合」という意味で)》《FUSHIGI》の《F》。「心のチャンネルを《F》にチューニングする」──という意味で、第1号の表紙には(ラジオの)チューナーを模した図案を描いている。冊子形式の個人誌《チャンネルF》とは別に瓦版的な──版下をコピーしただけの個人紙《チャンネル☆F通信》↓も作っていた。

当初は童話・小説・ショートショート・エッセイ等の文芸色が強かった個人誌《チャンネルF》だが、その時々に興味のあることについて記したり、今のブログに近い形になってきた。といってもブログに比べれば手間もかかるし、できることも限られていたが……。
その気ままさからラクガキ的要素が一気に強まったのが、第9号のパロディー・ヒーロー対決だ。友人・某が同人誌時代に楽屋落ち満載のヒーローもの──当時の同人仲間達を揶揄し引き立て役にして自分が正義のヒーローとして活躍する小説シリーズを書いていたのがきっかけだった。これに対抗して僕が書いたのがミラクル☆スターだった。

ミラクル☆スターのネーミングは、元祖・某のヒーローが「スーパースター」を名乗っていたので、「スーパー」に対抗するスターにしようと考えたもの。アメニ『天才バカボン』で、バカボンのパパがミラクルマンに変身(したつもりになる)──という回があって、これにならって(?)「ミラクル」を採用、《チャンネルF》第9号に初登場させた(当時の表紙はモノクロ。色は後にパソコンでつけたもの)。
この楽屋落ちヒーローものにさらに参戦する友人が現れ、三つ巴の小説対決合戦となり、《チャンネルF》第10号で『ミラクル☆スター 復活篇』を書くに至ったしだい。
ラクガキ小説として誕生したミラクル☆スターだったが……あろうことか、実写版へとエスカレート。当時、里山の小動物や昆虫等を撮っていたビデオカメラを使ってパロディヒーローものが作れないか──と考えた。試作として1人でロケを敢行。三脚に固定したビデオカメラの前で、変身ヒーローと怪人(某)の二役を演じ、編集で闘っているようにみせようというもの。今ならパソコンで合成などもできるのだろうが、当時はビデオ機器を繋げてのダビング編集で、カットのタイミングを合わせるのに苦労した。

こうして作った実写版ミラクル☆スターは、当初、内輪のネタがわかる同人仲間ら数人~十数人程度に見せるつもりでいたのだが……ひょんなコトから、TBSテレビの映像作家発掘番組『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』(通称『えび天』)で紹介され、多くの人が見る《場》で披露されることとなったのであった。

この『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』は自主制作映像作品をテレビで紹介するは番組だった。今でこそYouTubeなどで個人が撮った映像を投稿したり他の人たちの作品をいくらでも見ることができるが、当時、一般の視聴者が見ることができる映像作品はテレビや映画等の限られた商業メディアにほぼ限られ、アマチュアが作った映像作品を視聴できる機会は皆無に等しかった。ビデオカメラは普及していたが、子どもの成長を記録するとかプライペートな利用がほとんどだったろう。そういった時代に、アマチュア映像作品を見せるテレビ番組『えび天』は新鮮だった。
『えび天』出演を果たしたことで、個人誌《チャンネルF》でも実写版ミラクルスターを紹介したいところだが、映像作品を紙媒体に載せることはできない。ということで、かわりに(?)別冊・臨時増刊号で『ミラクル☆スター秘密大百科』という特集を組んでパロディ・ヒーロー対決にダメ押し。番外編の実写版ミラクル☆キッドを撮って、『ミラクル☆シリーズ秘密大百科』に至った。

というふうに暴走した個人誌《チャンネルF》だったが、その後は飼育中のフェレットを取り上げるようになる。

ペット雑誌の取材を受けたり、フェレットの記事を書いたり、フェレットの飼育書のイラストコラムを描かせてもらったこともあった。

14号・15号・16号とフェレット漫画が続くが、14号の『フェレットinジャケット』と15号の『ふぇレッツ・ゴー』は、ペット漫画雑誌《ハムスター倶楽部スペシャル》の新人まんが大賞に応募していた。『フェレットinジャケット』は《第6回》の回し車賞+編集部期待賞受賞を、『ふぇレッツ・ゴー』は《第7回》のハムスター賞を受賞。ともに《ハムスター倶楽部スペシャル》に掲載された。

ハムスター賞を受賞した『ふぇレッツ・ゴー』は、不定期連載されることになった。昔は4コマ漫画などをラクガキていどに描いていたことがあったが……フェレット漫画に関しては「マンガとしての面白さ」の追求をするというスタンスではなく、あくまでも「フェレットの面白さ」を描く実録漫画としてとらえていた。
このフェレットの散歩中に出会う昆虫たちを調べるようになったのがきっかけで、昆虫に関心を持つようになっていく。

個人誌《チャンネルF》からブログ《チャンネルF+》へ…

やがてワープロ専用機が絶滅し、パソコンにとって変わられる頃には、《チャンネルF》は休止状態になっていた。電子会議室に出入りするようになり、その後Yahoo!ブログを始めるようになって、個人誌ではできなかった実写版ミラクル☆スターの動画を載せたり、カラーイラスト・写真などをふんだんに盛り込んだりして利用してきた。個人の「情報発信の《場》」として、ブログというツールはとても優れており、個人誌とは比べ物にならない。このあたりのことは【Yahoo!ブログの可能性】という記事でも記している。また、関連記事をリンクでまとめ、すぐに開けるようにセットできることもブログの便利な点だ。
そんなわけで(個人誌《チャンネルF》に代えて?)Yahoo!ブログで10年近く記事を投稿して来たわけだが……Yahoo!ブログは今年12月に終了するという。他のブログへの移行ツールを準備中ということだが、どんな形でこれまでに蓄積してきた記事が引っ越しできるのか気になるところ。便利なので多用してきたリンクが引っ越しでURLが変わることで切れてしまうとすると大事た。全て修復しようとすれば膨大な時間がかかるだろう……。
ブログというのは便利なツールだが、こうなると、なかなか厄介だ……。

移行先ブログを探す過程ではてなブログを試しているところだが、長らく中断していた《チャンネルF》のブログ版──新たな発信の《場》として使えるかどうか……思案中。
※【追記】結局、はてなブログ《チャンネルF》ではなくFC2ブログ《チャンネルF+》をメインにすることにした。

『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』と出演覚書

今ではすっかりテレビのない生活に慣れてしまったが……もう四半世紀以上も前に、冗談半分に作った映像作品でテレビ番組に出たことがある。この番組を検索してみたところ、Wikipediaにも情報がまとめられていたが、いくつか間違いも見受けられた。そんなこともあって、この番組と僕が出演した回の覚書をあらためて記しておくことにした。

『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』通称『えび天』出演覚書


平成名物TV『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』──通称『えび天』は、1991年1月12日~1991年9月28日にかけてTBSテレビで毎週土曜日の深夜24:40~27:00(日曜日午前0:40~3:00)に放送されていた映像作家発掘番組。ミュージシャン発掘番組『三宅裕司のいかすバンド天国』──通称『イカ天』の後継番組ということで、(『イカ天』に対して)『えび天』になったのだろう。<映像><美学><造形><理念>──この頭文字をとって「えびぞり」という説明が番組内でなされていた。
司会は三宅裕司と福島弓子(TBSアナウンサー)。毎回10組の自主制作映像作品(基本的には3分以内)が紹介され、映像関係者やゲストからなる「えび天選考委員(えび選)」が審査する。優れた作品を制作した監督には特典が与えられ、番組でプロデビューの後押しをすることになっていた。ゆるいものからキアイの入ったものまで……個性豊かな作品&監督が集まり、見ていて楽しいバラエティ色の強い番組だった。

番組のシステムとしては──監督は「銅」からスタートし(番組採用時点で「銅」は確定)、「銀」「金」と段階を経て「巨匠」に挑戦することができる。銅賞監督には銅メダル、銀賞監督には銀メダルと編集機材、金賞監督には金メダルと映像機器&賞金50万円が贈られる。そしてみごと「巨匠」になると副賞は「夢」(の実現)──劇場公開映画Vシネマの監督ができる──というものだった。
番組では1組ずつ監督&作品が紹介され、作品上映後に「えび天選考委員(えび選)」が講評する。評価の目安として「えびせんボード」と呼ばれるパネルに《えびせん》全員の印象が表示される。「えびせんボード」は、アイディア/コンセプト/テクニック/パッション/インパクトの5項目からなり、いずれかの項目で満点がつくと「パーフェクト賞」として監督3点セット=ディレクターチェアー・メガホン・ストップウォッチが贈られる(受賞監督の首にはメガホンがかけられた)。
(逆に全ての項目で一つもボタンが押されなかった場合「逆パーフェクト賞」という見舞金(?)のようなものが出る制度が番組の途中から加わり、三宅裕司氏のポケットマネーから2万円が与えられた)
10組の作品が全て紹介された後に《えびせん》によって協議が行われ、番組の最後にそれぞれの監督に対して「金」「銀」「銅」の判定結果が発表される。

僕が出演したのは第6回(1991年2月16日 24:40~27:00放送)。上映された作品は『ミラクル☆スター』──変身ヒーロー・怪人・カメラマンを一人で兼ねたスーパーヒーロー・アクションだった。

『ミラクル☆スター』上映後のスタジオ↓。評価は……。


パーフェクト賞には1つ足りなかった(パッション)。
最終的な結果は【銅】賞。しかしキャプテン・ジョージから【特別奨励賞】のミニトロフィーをいただいた。

ちなみに、第6回の放送内容は↓。


Wikipedia情報では第6回の「審査員」にブルース・オズボーンの名があるが、この回の「えび天選考委員(えび選)」は大林宣彦/武藤起一/キャプテン・ジョージ/椎名桂子/高城剛/松永麗子の6名だった。また、この回には『川口浩の火星探検』で安原伸監督が初登場しているが、Wikipedia情報では、安原伸氏について第14回に放送された《「国防挺身隊 第1話 挺身隊出撃」で初登場》と記されている。

えび天出演の経緯

『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』の第1回放送があったのは1991年1月12日の深夜(1月13日未明)。この時、僕は何をしていたかというと、イタズラ感覚で試作中の実写版『ミラクル☆スター』の編集をしていた。『ミラクル☆スター』は個人誌で誕生した(僕が創作した)変身ヒーローで、実在の友人たちが登場する内輪ウケ狙いの小説シリーズ。当時、僕を含め3人が、自分をヒーローにした内輪ウケヒーロー小説を書いて競い合っていたのだが、このレースを一気に制すべく『ミラクル☆スター』の実写映像版が作れないかと画策していた。当時、里山の小動物などを撮るのに使っていたビデオカメラで、ミラクル☆スター試作カットを撮影。うまくつなぎ合わすことができるか編集を試していた。当時はダビング編集──2台のビデオデッキをつなぎ、片側で再生した映像を、もう一方で録画(必要なシーンだけをコピー)するのだが、ビデオデッキは録画開始や一時停止・解除の操作をしてから作動するまでタイムラグがあり、目まぐるしいアクションのカットイン・カットアウトのタイミングを合わせてダビングするのが厄介だった。うまくいけば数人に見せるつもりで試作を開始したのだが、ダメなようならボツという可能性もあったため、撮影は1人で行っていた(ビデオカメラを三脚に固定して、ヒーローと怪人の二役を演技──それを編集で闘っているように見せようと考えた)。そのテストカットのテスト編集をしているときに、偶然目にしたのが『えび天』第1回の放送だった。番組で映像作品を募集していると知り、編集中の『ミラクル☆スター』を応募してみようと思い立つ。さっそく応募規定(3分以内)に合わせたえび天バージョンを編集。1月14日にできあがったビデオを投函したところ、1月16日の夜(PM8:30)に採用を知らせる電話があって、あっけなくテレビ出演が決定。1月23日に説明会が開かれ、第5回と第6回の出演メンバーが集められた。僕が出演する第6回の番組収録は2月9日、放送日時は2月16日24:40~27:00(2月17日0:40~3:00)と、トントン拍子でことが進み、我ながら急展開に驚いていた。番組内では生放送ということになっていたが、実はノンストップで(CM時間も含めて2時間20分編集無しで)収録する生収録。放送時間は深夜だったが、実際の収録は19:40~22:00だったので、(終電前に)電車で帰宅することができた。
当初は数人の仲間に見せるつもりで気まぐれに試作した実写版『ミラクル☆スター』だったが、こうして思いがけず多くの人に見ていただく機会を得たのだった。

ミラクル☆スター~実写版~※ひとりで撮ったスーパーヒーロー・アクション
ミラクル☆キッド~実写版~※小学2年のスーパーヒーロー誕生
ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯
えび天ミラクル☆シリーズから30周年

うつろう記憶媒体~失われし記憶ハ痛イ~

ビデオテープの時代



僕が初めて購入したビデオデッキ(ビデオテープレコーダー)はβ方式だった。これ↑は当時ビデオテープに録画したテレビ番組の内容を記したノート。後で確認したいシーンを探し出しやすいように、登場する動物種を順番に書き出していた。
家庭用ビデオデッキが登場する以前は、せめて音声だけでもとテープレコーダーで気に入ったテレビ番組を録音していたなんてこともあった。昔はテレビ番組は見逃してしまうとそれっきり。だから見たい番組はキアイを入れて視聴していた。
それが「録画」できて、好きな時に何度でもくり返し見られるというのだからスゴイ!──ビデオデッキは夢のような機械だった。ターゲットの番組があると、撮り逃すことが無いように放送時間の前からテレビの前に待機。カウントダウンするような気持ちで放送が始まるのを待ち受けていたものだ。当時はまだビデオデッキのリモコンもワイヤレスではなかった(ケーブル・コードで本体とつながっていた)。ビデオテープも高価だったため、録画時間を節約しようと(&再生時の利便性も兼ねて)、手動でCMカット(一時停止/解除)しながら録画していた。今から考えれば煩わしいが、当時は「テレビ番組を録画保存できるとは、なんと便利な機械だろう」とその機能にすっかり満足していた。

高価なビデオテープを準備したり、録画内容を書き出して整理したり……当時はそれだけキアイを入れてテレビ番組を視聴していたわけだ。人によって愛好番組は様々だろうが、そうした「放送を心待ちにしている人たち」が「質の良い視聴者」なのではないだろうか。テレビ局はこうした人たち(質の良い視聴者)に愛される番組作りを目指すというのが本来あるべき制作姿勢ではないかと思うのだが……実際は目先の視聴率競争にやっきになり、てっとり早く視聴率を稼ぐために、本来大事にすべきファン──《放送を心待ちにしている「質の良い視聴者」》をないがしろにし、《家事をしながら、あるいは惰性でテレビをつけている、いわば「質の悪い視聴者」》の関心を引くことばかりに熱心だった印象が強い。そのジャンルにふさわしいとは思えない人気タレントを起用したり(番組の内容よりもタレントの人気で視聴率を稼ごうという安直さ)や、過剰な演出や思わせぶりな演出、肝心なシーンを先延ばしにしてひっぱり続け、「おいしいシーンはCMの後いよいよ」的な展開で視聴者に散々気を持たせ、実際はしょぼい内容で番組を終えるという詐欺のような手法が増え、テレビファンを失望させていった気がしてならない。こうしたあざとい演出で目先の視聴率を稼ごうとする制作姿勢が、本当に放送を心待ちにし、キアイを入れてテレビに見入っていた「質の良い視聴者」を失望させ、テレビ離れに拍車をかけたのは確かだろう。僕も地デジ化を機にテレビから離脱している(*)。

ビデオの話から脱線してしまったが……話を戻して──、
録画内容の整理ノートからも判るようにテレビ番組を録画したビデオテープはたまっていった。録画機も、β方式→VHS→S-VHS→8mmビデオ→VideoHi8へと変遷していったわけだが……その過程の中で、番組録画のみならず、自分で撮影できる家庭用ビデオカメラが登場する。

映像を記録するカメラとしてはビデオ以前にも8mmフィルムを使ったものがあるにはあった。友人にこの8mm(ビデオではなくフィルム)カメラを持っている者がいて、高校時代にはアクション映画を撮って文化祭で上映したこともある。ただ、8mmフィルムは1本で3分あまりしか撮れず、ビデオのように撮り直しがきかない。撮影した映像を確かめるためには現像に出して何日か待たなければならなかった。また、フィルム代のほかに現像代もかかるし、音声の記録はオプション扱い──ビデオテープよりはるかに高価で不便なメディアだった。
そんな8mmフィルム時代を経験してきているから、1本のテープで(標準モードで)2時間も撮影ができ、撮影した映像をその場で確認することができ、そのうえ撮り直しもできる、しかも現像代もかからないビデオカメラは、これまたスゴイ製品だった。

ということで、僕もビデオカメラを購入し、最初は里山のヘビやカメなどの小動物や昆虫等を撮ったりしていた。そのうちビデオカメラを使って何か面白いことができないかと考え、インディーズ・スーパーヒーローミラクル☆スターを試作。8mmフィルムよりも不便だと感じたのは……8mmフィルムではカットイン・カットアウトの位置をコマ単位で決められるのに対し、ダビング編集の8mmビデオでは(当時の家庭用編集機器では)コマ単位での指定できなかったこと。カットのタイミングを合わせるのに苦労した思い出がある。そうして仕上げたミラクル☆スターは、なんとテレビ番組(「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」通称「えび天」)の中で上映され、その放送をビデオデッキで録画する──ということもあった。



こうしてビデオテープはテレビ番組を録画したものだけでなく、ビデオカメラで撮影したもの、編集したものを含め、どんどん増えていった。
ビデオテープの形式がβ→VHS→S-VHS→8mmビデオ→VideoHi8へと推移したことは前記の通りだが、さらにDVDやBD、HDDへと記憶媒体も変化していった。

カセットテープの時代

話は前後するが、「映像」を記録する装置の前に「音声」を記録する装置──テープレコーダーがあった。僕が子どもの頃に初めて我が家にやって来たのはオープンリールのテープレコーダーだった。装置自体もかさばるし、録音・再生する時のテープのセッティングが煩わしい。その後登場したコンパクトなカセットテープを使うラジカセはラジオ放送を録音できたりレコードプレーヤーと直結できて画期的だった。
音声の再生専用装置としてはそれ以前からレコードプレーヤーがあったわけだが、好きな曲だけをまとめて聞くにはカセットテープにまとめる必要があった。またレコードは傷つきやすく取り扱いに神経を使う。友人の中には同じレコードを2枚ずつ買っていた者もいたくらいで、なるべくラジカセで録音したテープを聴くようにしていた。

ラジカセといえば──東海ラジオの深夜放送をラジカセで録音していた時期がある。東海ラジオ放送は名古屋の放送局だったが東京でも深夜にはなんとか電波が受信できた。兵藤ゆき氏がDJをつとめる「ミッドナイト東海」という番組に童話コーナーというのがあって、そこに投稿して採用された掌編童話がラジオドラマ仕立てで放送になったなんてこともあった。その音声作品はラジカセでカセットテープに録音してある。
掌編童話『雨の日の通信』のイメージ画(後に僕が描いたもの)と、「ミッドナイト東海」で放送されたラジオドラマを録音したカセットテープ&ケース↓。


当時主流であったカセットテープも、使い続けていると時々巻き込みトラブルがあってダメになることがあった。録音できる容量(時間)も今の記憶媒体に比べればずいぶん少なく、安泰の記憶媒体ではなかった。
再生専用メディア(記憶媒体)であったレコードはその後登場したCDにとって変わられることになるが、そのCDも、今では(楽曲もインターネットでダウンロードできるようになったため?)需要が減っているらしい。何年か前にCD店がずいぶん少なくなっていることに気がついて驚いた。かつては町のあちこちにレコード店はあったものだが……時代の流れを実感する。音声の記憶媒体も移り変わっていった。

ワープロの時代

ところで、冒頭のビデオノートの記述もカセットテープの内容の記載も僕の肉筆。当時はまだ日本語ワードプロセッサもなかった時代。今でこそ文書の作成はパソコンやスマホ等でのタイプが当たり前だが、当時は肉筆で一字一字記すしかなかった。
僕には同人誌活動をしていた時期があるが、自分が書いた作品を活字化することにはあこがれがあった。しかし実際に同人誌を作るとなると、活字を組むにはお金がかかる。そのため、オール手書きで同人誌を発行していたこともある。
《窓》は僕が主宰した同人誌で本文は墨一色、手書きの文字とイラストだった。その《窓》第2号と、読者からの便り&返事を紹介したページ↓。


このページ↑は全て僕が描いた。字は書体を変えて記している(返事の内容は同人メンバーS氏の文章だが、文字は僕が記したもの)。
僕は元々字は汚かったのだが……同人誌を手書き文字で作る必要から、よそ行きの清書は「字を書く」のではなく「記号を描く」つもりで一時一時丁寧に記すようにしていた。しかしこれは時間&労力を要すものだった。
なので、日本語ワードプロセッサなるものの存在知ったときには激しく羨望した。その頃は1台数百万円もする高嶺の花だったのだが……わずか数年のうちに低価格化と普及が進み、僕もついに憧れのワープロを手にする日が実現する。手軽に文章を作成したり編集でき、しかも活字でプリントできるのが嬉しくて、個人紙・個人誌を作ったりした。そこでイタズラ書きから誕生したのが小説版ミラクル☆スターで、その後ビデオでの映像化へとつながったわけである。


ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯より

ワープロの導入により、書いたり直したりする作業はずいぶんと楽になった。そして原稿の記憶媒体は原稿用紙からフロッピーディスクへと移行していく。
ところが……羨望の最新機器であったワープロ専用機自体も、廃れるのは早かった。パソコンの普及によって既に絶滅……ワープロ時代に使っていたフロッピーディスクも化石化してしまった……。

「より便利なもの」より「長く使えるもの」を

ビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等に記録したものは多い。冒頭のノートを見ると、収集や整理に時間やお金(記憶媒体代)・労力をつぎ込んでいたのがわかる。しかしそうしてコツコツ蓄積してきたデータが、記憶媒体の変化によって(現役の再生機が残っていないため)利用できない状態にある。

ビデオテープ時代に撮影・編集したミラクル☆シリーズはかろうじてDVDにダビングしてあって今でも観ることができるが、カセットテープに録音した掌編童話の方は再生できない。ただ、こちらの作品は原稿用紙に肉筆で書いていた時代のものなのでオリジナル原稿は残っている。

テクノロジーの進歩は目覚ましく、次から次へと「より便利なもの」が登場してくるが、新たなものが出てくれば、それまでのものは古くなり廃れていく……。記憶媒体の変化で取り残され、使えなくなってしまうデータも多い。これでは便利なのか不便なのかわからない。現在使っているDVDやCDだって、いつまで使えるのかと考えると不安になってくる。

小学生時代のガリ版(謄写版)刷りの文集は今でも読めるが、その後登場した最新機器で記録した記憶媒体の多くが今では再生できない……。
けっきょく一番長く安定して利用できているのは最古参の紙媒体だ。便利なはずの最新記憶媒体がどんどん衰退・絶滅して行くのをみてくると、再生装置が無くても(ヒトが標準装備した器官のみで)再生(見たり読んだり)できる紙媒体の優位性が改めて実感される。
これからも便利な道具はたくさんでてくるだろうが、僕が切望するのは「より便利なもの」よりも「長く使えるもの」だ。記憶媒体は長く保存&再生(利用)できることが、何よりも大切なはずだ──僕はそう考えているのだが、最古参の紙媒体に勝るメディア(記憶媒体)はでてくるのだろうか。



テレビが終わる日


アナログ放送が終了する7月24日は【テレビが終わる日】──僕はそう思ってきた。
僕はテレビで育った世代である。ずいぶん長い間テレビを見てきた。おもしろい番組もたくさんあったし、ためになったり感動した番組もある。投稿ビデオ番組で飼っていたカメレオンの映像が紹介されたこともあったし、僕自身が自作ヒーロービデオ(※1)でテレビ番組に出演したこともあった。思い出深いテレビ番組も決して少なくはないのだが、今のテレビとの決別に特に感慨のようなものはない。

というのも昨今のテレビ番組の制作姿勢には失望や憤りを感じることが多く、テレビ番組を見る事自体にフラストレーションを感じるようになっていたからだ。
そして実際に最近ではテレビを見る機会はめっきり減って、テレビに対する気持ちは冷めきっていたといってよい。
これは決して僕だけが感じてきたことでは無いだろう。僕の周囲にもテレビを見ない人、テレビ自体を持たない人がいる。


●テレビは愛好的支持層を裏切り続けてきた
昨今のTV番組制作の姿勢には疑問を感じる。目先の視聴率を稼ごうとしてのことだろう──本来のファン層の期待に応える質の高い番組作りをしようという意気込みは感じられず、家事等しながら(?)無目的・惰性的にテレビをつけてチラ見いる人達の気を引くような画面作りに走っているような印象が強い。そのジャンルにふさわしいとは思えない人気タレントの起用、バラエティ化、本筋と離れた部分での過剰な演出──それらは、本当にそのジャンルが好きで一生懸命観ていた人達を大いに失望させてきた(※2)。
短期的にはそれで「本来のファン層以外の人達」の視聴率を取り込んだ分、数字は高めることができるかもしれないが、長期的には「本来のファン層」から見限られ、テレビ離れに拍車をかける事にしかならないだろう。それはおそらく制作側にもわかっているハズだが、各局がこうした短期的な視聴率競争から離脱できずに悪循環を続けてきた感じが否めない。

テレビ番組制作側は、本来一番大事にすべき愛好的支持層に背を向け、目先の視聴率稼ぎに躍起になって「粗悪な番組」を作り放送し続けてきた──少なくとも僕にはそう映る。
僕も以前は好きなジャンル・テーマを扱った番組は見ながら録画していたが、昨今は「好きなジャンルの番組をフラストレーションを感じながら見る」ことが、さすが辛くなってきた。そして最近では録画はおろか見る事もしなくなってきていた。

そこへきて、地デジ化への乗り換えが迫られる事態となったわけである。
すんなりと移行する気には、とてもなれない。


●アナログ放送終了後、地デジ放送を受け入れるかどうかは各々の自由意志
「地デジ化」については電波域の整理のため、必要なのかもしれない──それはわからないではない。しかし、これは視聴者の都合ではなく、国や放送局側の一方的な決定である。これによって視聴者は、それまで使っていたテレビや録画機が利用し続けられなくなってしまった。

アナログ放送終了後もテレビを見続けようとすれば、地デジ対応の機器を新たに購入しなくてはならない。
果たして新たな投資をしてまでテレビ番組を見続ける価値はあるのだろうか?──立ち止まってそう考えるのは当然の事である。むしろそう考える方が健全だろう。
アナログ放送視聴層が全てそのまま地デジ視聴層に移行するかのような幻想の上に立った地デジ化計画は傲慢で身勝手と言わざるを得ない。

テレビを視聴し続けるかどうか、地デジに完全移行するまでようすをみながら判断しようと考えた人もいただろうし、アナログ放送終了の後に地デジ導入の採否を決めようと思っていた人もいただろう。
地デジ化が国や放送局にとって必要な措置であったとしても、新方式のテレビ等を購入してまで見続けるかどうかは各々の判断である。

アナログ放送終了を機にテレビとの決別を決断する人だって当然いていいわけだし、こうした人達の意志も尊重されるべきである。
放送局側は、こうしたアナログ放送限定でテレビを視聴している人達に対しても誠意をもって最後の1秒まで、これまで通りベストの放送を心がける──それが最低の責務というものだろう。アナログ放送終了は視聴者の都合を無視して国や放送側の一方的な決定で行われるのだから。

ところが実際はというと……アナログ放送視聴層に対するテレビ局の対応はひどいものだった。地デジ化をうながすスーパーを常時表示させ、画面を見づらくする事で地デジ化へ追い立てよういう露骨な嫌がらせを展開してきた(※3)。まるで立ち退きを迫る地上げ屋のようだ。

地デジ化にする気がない視聴者にとってこの嫌がらせ表示はうっとうしいことこの上ない。
アナログ放送視聴層は受信料を払っていても、テレビ業界にとってもはや「客」ではないということなのか。
こんな扱いを受けて、テレビが好きでいられるだろうか?

地デジ化を迫る、不当で高圧的・傲慢な手法はテレビに対する嫌悪をさらに強め、決定的にした。
僕の環境ではテレビの画質が落ち、7月に入ってからはそれまで使っていたDVDレコーダーでの番組録画ができなくなっている。
実質的にはアナログ放送の終了を待たずに「テレビ」は終わっていた。
こんなテレビを、もう見たいとは思わない。


●アナログ放送終了でNHKの受信契約は一度クリア(解約)されるのが筋
視聴率稼ぎの演出が見苦しい民放に対し、NHKはドキュメンタリー番組などに良い作品があったように思う。しかし番組内容の善し悪しとは別に、理不尽な受信契約を根拠に、高圧的・暴力的な受信料の取り立てをしていることに問題を感じるようになった。こうした組織が許されてよいのだろうかという疑問である。
受信料を払わない個人に対し財産を差し押さえる強制執行に及んで「はぎ取って」いった例もある(強制執行の法的根拠となる放送法自体に問題がある)。
NHKは「やむを得ないと判断した場合は、支払督促制度と強制執行手続きを活用し、受信料の公平負担の徹底を図る」としているが、これは実質的な「脅し」だろう。

本来ならば、受信料を払わない人は閉め出し、「見られないようにする」というのが筋である。一方的に電波を送りつけ、受信できる環境にあったのだから(見る見ないにかかわらず)支払えと強要するのは悪質な「押し売り」と変わりない。財産差し押さえという暴力的な手法で回収しようというのは、まるで暴力団ではないか。

テレビ放送が始まった当初はスクランブル放送等の技術が無かったのかもしれないが、現在はその技術がある。実際にWOWOWなどではすでに使われている。地デジ化へ移行する際にはNHKもスクランブル放送を導入し「受信料を払わない人には見せない」ようにできたはずだ。「受信料」を徴収するのであれば、そうすべきだったろうと思う。
にもかかわらず、NHKはこれまでどおり「電波の押し売り」を続けるつもりなのだろうか?

しかしNHKの番組も、アナログ放送終了によって、地デジ未対応の旧受像機では視聴できなくなる。受信契約の根拠自体が失われることになるわけだから、旧(アナログ放送)受信契約は一度すべてクリア(解約)されるべきだろう(視聴者側からの解約申請ではなくアナログ放送終了を受けての自動的な契約解除)。そうでなければおかしい。
その上で、地デジ化対応機器を導入した利用者とあらたに受信契約を結ぶというのが筋である。

アナログ放送のみを受信していた(地デジ放送は受信できない)旧契約者から、地デジ化完全移行後も受信料を引き落とし続けるなどといった不正受給まがいの詐欺があっては断じてならない。
そして、旧契約者が地デジ化移行後も受信契約を更新するか否かについての確認責任は、被害を受ける視聴者側ではなく、あくまでも一方的にアナログ放送終了を決めた国やNHK側にある──というのが論理的には「正しい」あり方であろう。


※1●ミラクル☆スター~実写版~
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-35.html

※2●最近のテレビ番組に思うこと
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-113.html

※3●アナログ放送の空耳?字幕
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-132.html